club-xuanwu
◆1
「いくらだ――?」
「――は?」
「だから、お前。いくらでヤらせんだ。一発五万? それとも十万ってか?」
まるで感情の起伏が読み取れない、飄々《ひょうひょう》とした無表情でそんなことを訊く。突然の奇行に【波濤《はとう》】は驚き、怒りを通り越して唖然としてしまった。
この男が自身の勤めるホストクラブに入店してきたのは、ほんの一ヶ月前のことだ。初秋を告げる金木犀の香りが心地よく鼻につく、そんな季節だった。
◇ ◇ ◇
「おい、知ってっかッ!? ウチの斜《はす》向かいに新しい店が来るって話っ!」
「聞いた。十月オープンだってじゃん! 来週からは改装工事も始まるって。さっき現場確認に来てたぜ」
「マジかよー!」
普段はクールを装う華麗なホストたちが顔を揃えてそんな話で持ちきりになったのは猛暑もたけなわの七月中旬、此処は新宿歓楽街にあるホストクラブだ。店名を【club-xuanwu《クラブシェンウー》】という。
店の規模は業界内では中堅といったところだが、ルックスも性質も極上のスタッフが揃っているという口込みで、ここ最近はライバル店を軒並み抜いて業績を上げつつある――うなぎのぼりのように見えて、その裏では堅実な努力の結果、名を上げてきた店だ。
オーナーは三十代の半ばで面倒見の良い兄貴気質、スカウトから入店後も細やかにスタッフの教育に携わり、客の扱いは無論のこと、スタッフ同士の先輩後輩の礼儀までをも根気よく教え丁寧に面倒を見る。いわば地道な努力を欠かさず積み重ねてきた結果、年々経営も拡大して、現在は此処《ここ》新宿店を拠点に都内に三店舗を持つようになった規模だ。
その斜向かいに、やはり昨今名を上げてきているライバル店が開業するらしいという噂が広まったのが、つい先週末のことだった。
何でも元ナンバーワン上がりの若手経営者が半年ほど前から始めた店で、それこそ”うなぎのぼり”の急成長店舗だそうだ。現在は歓楽街の割合外れの地区で営業中だが、資金の目処が立ったのか、街区一等地に近いこの辺りに引っ越してくるというわけらしい。
いかに新参店とはいえ、そんな強力なライバルが出店となれば、少なからず焦らないではない。しかも立地が斜向かいというのはまるで挑発に他ならない。
有ること無いこと噂が飛んで、焦れるスタッフらの統率を含め、目下の対策として若きオーナーが采配したのは、都内にある他の三店舗から指名率の高いホストを一時的にでも新宿店に派遣《まわ》し、改めて店のイメージアップを図ろうということだった。
各店舗から助っ人としてホストたちが選ばれ、中でも六本木店からはナンバーワンを張っている男が入店してくるとあって、新宿本店では別の意味でちょっとした話題に浮き足立っていたりもした。
◇ ◇ ◇
それがこの男だ。
先程から『抱く抱かない、料金はいくらだ』だのと突飛なことを言ってのけている男。本名を氷川白夜《ひかわびゃくや》、源氏名を【龍《りゅう》】といった。
一八六センチの長身に濡羽色のストレートを一糸乱さずバックにホールドして梳かし付けた髪。纏《まと》うスーツはすべて高級な繻子素材、一目で分かる質の良さそうな靴はオーダーメイドだろうか。大概のホストならば競って身につけたがりそうな派手な宝飾品には目もくれず、ノーアクセサリーできっちりとタイを着用したその出で立ちからは、隙のひとつも感じられない。無口であまり笑顔を見せない上に、進んで客の機嫌を取ろうともしない。軽快さやノリの良さも全くないこの男からは、おおよそホストとしての雰囲気など皆無に感じれらた。
新宿店のナンバーワンで活躍していた波濤にとっては、まるで自身と正反対のタイプのこの男が、ある種興味深い存在であったのは確かだ。そんな男だから、彼が入店してきた時分はちょっとした冷戦的空気が、店の中に流れたこともあった。
◆2
「……ったく、あの龍さんって、マジ愛想ねえっていうか……ポーカーフェイスっての? 冗談全く通じねえし、何言っても無表情で反応ねえし。ヘルプ入っても緊張しちゃって疲れますよ……」
「そうそう、俺もこないだあの人と一緒ンなって、すっげえ場を盛下げちゃったっつーか、波濤さんとは正反対っすよ!」
「波濤さんはナンバーワンなのに全然気取りとかねえし、バカやって一緒にテーブル盛り上げてくれるもんなぁ……」
「だよなぁ! それに何てったって波濤さんのマジックの腕は超プロ級だし! 話題なくて困ってるテーブルでも波濤さんの華麗テク一発で速効盛り上がるし、まさに神ッスよ!」
波濤の特技はマジック――いわば手品だ。客の至近距離で時折披露される腕前はプロ顔負けの、それは見事で溜め息が出るほどのものだった。まあ実のところ、この波濤の特技というのは彼の熾烈ともいえる人生に付随するものであったわけだが、そういった事情を知っている者はいない。単なる趣味の延長だと思っている者が殆どだろう。
それはさておき、相変わらずにホストたちの愚痴は止め処ない。
「俺、もう龍さんのヘルプに付くの嫌ッスよー! 今日もできることなら波濤さんのテーブル呼んで欲しい」
「俺も! 龍さんはまるで仏頂面だしさぁ、頭ひねって出したこっちのジョークに笑いもしねえから客も引きつっちゃって申し訳ねえのなんのって。当の本人は助け船を出すでもなきゃ、クールに煙草なんか吸っちゃって、脚組んで扇子扇いでるんスよ! てめえはマフィアの頭領《ドン》かっつの!」
「そうそう! あの人、煙草の火も客に点けさせんだぜ!」
「うわっマジッ!? それじゃ本末転倒じゃね? どっちがホストってか、客がホステスってか?」
「やっぱ頭領? ありゃホストじゃねえーーー!」
あんな奴がどうして六本木でナンバーワンを張っていられたのか皆目不思議――
というのが新宿店のホストらのほぼ一致した見解だった。
「まぁまぁ、そうトガりなさんな。皆仲良く! それがこの店のモットーだろうが?」
後輩らの愚痴を聞き宥《なだ》めながら、かくいう波濤自身もある種唖然とした思いで龍を見ていたのは事実だった。
確かに彼は一風変わっていた。今まで客が第一、できる限りの明るさともてなしでサービスするのが信条だった波濤にとっては、楽しく場を盛り上げることを何より大切にやってきたつもりだ。結果、ナンバーワンとなってからも、ベテラン、新人、ヘルプを問わずに同席に付いた者は分け隔てなく、時には自ら進んで道化を買って出たりもするし、とにかく来てくれた客に目一杯楽しんでもらうことが目標だった。
ナンバーワンの波濤がそんなふうだから、店の後輩ホストらも比較的伸び伸びとしていて、雰囲気は明るかった。そこへ突如、まるっきり水の違う男が入ってきたわけだから、店内の雰囲気も一転、次第に焦れたり愚痴ったりする者が現れても当然といったところか。
波濤は皆を宥めながらも、だが反面、この龍という男に不思議な興味を引かれていたのも否めなかった。
自分とはまるで正反対のやり方――客を楽しませるどころか、彼に寄り添い入店してくる女性客らの様子を窺っていると、大概は少し緊張したような面持ちで長身のその背中に隠れるようにして席に着くのが非常に印象的で、とにかく見たこともない手腕に強く興味を持ったのは確かだ。
後輩らの言うように、客に煙草の火を点けさせているところを目にしたこともある。
席にいる彼はおおよそ酒を作ることもなければ、会話を楽しんでいるふうでもないことが多い。客の女性らは恥ずかしそうにうつむき加減で、遠慮がちにグラスの酒を口にする――そんな様からは、手持ち無沙汰というのがありありと窺えるようでもある。
当の龍はといえば、そんな中にあっても我関せずで脚を組み、まるで自分は一国一城の主とばかりに、どっかりとソファの中央に腰を落ち着けたままだ。側ではヘルプに付いた後輩ホストが、緊張の面持ちで一心不乱に酒のグラス片手にトングを握り締めている。
嵐の前の静けさとでもいおうか、あるいは火事場に爆弾を抱えている状況とでもいおうか――そんな緊張の中にあって、だが時折何かの弾みで彼がわずかに笑みなどを漏らせば、それだけで満足というように女性たちは頬を染める。そんな瞬間を目の当たりにすれば、驚きを通り越して得体の知れない奇妙な感情が湧き上がる。
薄く笑う彼の口元と、その傍らでうっとりと頬を染める女の様が切り取った絵画のようで、ドキリとさせられるのも不本意だ。
自身の客を得意の会話で楽しませつつも龍のテーブルが気になって、横目で追うのが日課のようになってしまい、ここ最近の波濤はそんな自分に溜め息の出る思いでいた。
◆3
そんな男があろうことか目の前で突飛なことをほざいているのだから、硬直するのも当然か――。
一緒に飲まないかなどと誘ってきたこと自体にもすこぶるビックリしたというのに、いきなり自宅マンションに案内されたと思いきや、長財布から札束を引き出しながら未だ無表情でこちらの様子を窺っているこの状況に、何らかの反応をしろという方が無茶だ。波濤は唖然とし、眉を引きつらせながら立ち尽くしてしまった。
「どうした? 黙り込んじまって。もしか十万《じゅう》じゃ足りねえのか?」
「……何つったらいいか考えてた……。あんたさ、どーゆーつもりか知らねーが……なんか勘違いしてねえ? 第一、今日は一緒に飲むんじゃなかったの? ナンバーワン同士、もうちょい懇意になっといた方がいいとか何とか抜かしてやがったじゃん」
「――ああ、あんなのはただの口実だ」
クスッと鼻先で笑う。その口元は接客時に垣間見たのと同じように、薄い冷笑を伴っている。不本意にもカッと頬の熱が上がるような気がして、波濤は顔を背けた。
それを合図のように龍は波濤の真正面へと歩み寄ると、あろうことかクイとその顎先を掴んで持ち上げたのだから驚きもひとしおだ。
「ちょ……ッ、戯けんのもたいがいに……!」
「知ってるぜ。お前、店でも稼ぎ頭で後輩の面倒見もいい優等生みてえだけど。裏じゃ随分ご大層な秘密があるみてえじゃねえか。お前の客って女は勿論、男《やろう》も案外多いのな? で、何? そいつらとアフターまで付き合うんだろ?」
意味ありげな瞳が薄く弧を描いている。侮蔑とも挑発とも取れないような視線で見流されて、頬は更に熱を持った。
「例えば昨夜の客――青年実業家ふうの結構な男前だったよな? まだ閉店前だってのに早々に引き上げて、こっそり抜け出して? 何処へ行ったんだ? 野郎二人で仲良く”飯《メシ》”ってわけでもねえだろ?」
「……ンなことっ、どうだっていいだろが……ッ! 他人《ひと》のアフター事情なんか知ってどーすんだって……!」
挑発に乗るつもりなど更々なかったが、動揺を隠す為か、波濤は咄嗟にそう怒鳴りあげてしまった。そんな態度を横目に、相反して龍の方は今までの意味深な冷笑をピタリと止めると、酷く落ち着いた調子で、
「――興味があるんだ」
低い声でそう言うなり、手を添えていた顎先を掴んでクイと持ち上げた。
「ちょ……ッ!」
逃げる暇もなく不意を突くように軽く唇を重ね合わされて、波濤はギョッとしたように瞳を見開いた。
「何しやがる、てめっ……何考えてっ……んだって……!」
抵抗の言葉をまるで無視するように、龍は顎先に添えていた指を首筋へと移動する。まるで慣れた手つきでネクタイの結び目が解かれるのを感じても、驚きが先に立って振り払うこともできずにいた。
器用にそのタイを乱しつつ、もう片方の手では長財布から札束を覗かせる。
波濤にしてみれば、自身自慢のマジックの技をもしのぐような巧みさだ。どんな技術を持っていやがる――と、つい邪な興味を引かれている内に、いつの間に外されたのか、シャツのボタンから覗いた胸板へと札びらを押し付けられて、更に唖然としてしまった。
「昨夜のあの男、あいつと寝たんだろ? あいつだけじゃねえよな? 俺が新宿店《みせ》に来てから一ヶ月、お前が野郎と一緒にアフターに消えるの三回くらい見たっけな? しかも毎度違う相手。器用な男だな」
「――――ッ」
「女を抱くだけじゃなくて野郎の相手もお手のモンか。さすがナンバーワン――なんて褒める気にもならねえな」
「てめ……ェっ、何をっ……」
「二十万《にじゅう》でどうだ? アフター代わりってのもナンだが――相手が俺じゃ不満か?」
矢継ぎ早に発せられる信じ難い言葉に瞬きすらままならない。普段のポーカーフェイスからは程遠いような強引さにも驚かされっ放しで、返答どころか抵抗すらもすっかり脳裏から抜け落ちて呆然状態――そんな様子を嘲笑うかのように、龍はわざと挑発的な視線で、今度は少々得意げな笑みを浮かべてみせた。
「けど――満更じゃねえだろ? お前、店でよく俺のこと見てるもんな? ちっとは気があるって証拠だろうが」
とんだ言い草にさすがに黙ってはいられず、
「ふざけんなっ……!」
されるがままを一転、波濤は龍の胸板を思い切り両の掌で突き飛ばした。
◆4
「黙って聞いてりゃいい気ンなりやがって……誰がてめえなんか……見てっかよっ! それにっ――、俺がアフターで誰と何しようがそんなん……てめえにゃカンケイねえだろ! 逐一誰とアフター行ったかなんて数えてっ方が普通じゃなくねえ!? 気があんのはてめえの方なんじゃねえのかよ!」
波濤は怒鳴り上げ、だがすぐに気を落ち着けるように大きく深呼吸をすると、開かれた襟元を繕いながら龍に向かって椅子を勧めた。
「あー、信じらんね――! あんたのせいで熱くなっちまったじゃねえか……。まあいい……座れよ。ってもココ、あんたの家だけどよ? とにかく……今のこと、聞かなかったことにしてやるから……とりあえず仕切り直そうや。あんたとゆっくり飲むってこと自体は抵抗ねえから――。ま、仲良く語ろうぜナンバーワン同士!」
矢継ぎ早やに捲し立てると、またひとたび『ふぅ――』と深呼吸をし、
「何か飲むモンくんねえ? 酒は店で嫌ってほど浴びてっから……できれば他のがいんだけど!」
リラックスしたふうにソファにどかりと背を預けながら、明るめにおどけてみせた。
「それにしても……すげえ部屋な? あんたの雰囲気からして洒落た家に住んでそうだなぁとは思ってたけどさ。想像以上っつーか、これじゃ高級ホテルのスイートルームみてえじゃんか。このソファだってめちゃめちゃでけえし、座り心地も最高な! 羨ましい限りだわ」
今度は褒め言葉を並べながら朗らかに笑う。まるで軌道を正すかのように相手の非を責めようともせず、それは普段からの波濤の性質なのか、誰とでも上手く仲良く渡り合おうとする様がひしひしと滲み出てもいるようだった。
こう出られてはさすがの龍も意表を突かれたというところなのか、苦虫を潰したような顔で眉を引きつらせたが、とにかくは言う通りに従わざるを得ない。
致し方なくといった感じで龍はキッチンへと姿を消し、しばらくしてトレーに茶だのソフトドリンクだのの類をごっそりと乗せて戻ってきた。そして注文通りという意味なのか、波濤にはソフトドリンクを勧め、だが自身はボトルの酒をドポドポとグラスに注《つ》いだと思ったら、半ばふてくされたように乾杯の仕草をしてみせた。
「バーボンかよ? しかもストレートってさ、毎日酒と付き合っててよく家で飲む気になるな……」
呆れたように波濤が横目に訊いたのに対して、龍は更にふてくされたような無表情に拍車をかけると、
「別に――。飲まなきゃやってらんねーだけだ。なんせお前に振られちまったからな」
そう言って、恨めしそうにジロリと視線を投げた。
急に無口になって機嫌の悪そうにしながらも、おとなしく言った通りに従っている。そのギャップが何ともチグハグというか、何だか店で見る一面とは違った表情を見せつけられたようで、不思議と微笑ましさのような感情が湧き上がる。隙がなく、何をされても絶対に突き崩されないような雰囲気の男の意外な一面を垣間見てしまったような気分だ。むくれ気味の感情を隠すでもなく酒を煽る様子にも唖然とさせられる。
いつもは気障でクールな男が無邪気な子供のようにも思えて、波濤はそのコロコロと変貌を遂げる意外性に、何とも言い難い親しみを覚えるような気がしていた。
取っつきにくそうに見えて、実は案外御しやすい男なのだろうか。
仕方ない――少しなら付き合ってやるかという気になり、バーボンのボトルに手を掛ける。すると龍は今までの仏頂面を一転、ほんの一瞬だがフッとやわらかに口元をゆるめてみせた。
「何だ、やっぱりお前も飲むのか?」
「あ、ああ……ちょっとだけならな。付き合おうかなーとか……」
「ふん――。なら作ってやる。ストレートでいいか? それとも薄めるか?」
「あー、割ってくれる? さすがにストレートはキッツイ」
それからは店のこと、互いの失敗談、同僚たちのことなどを始め、たわいもない話題にしばし花を咲かせ合った。
高度数の酒は、少量を舐める程度でもほろ酔い気分にさせるらしく、波濤は先刻からの緊張も相まってか、奇妙でいて心地の好いような、不思議な疲労感に深くソファへと背を預けていた。
一方の龍の方もだいぶ酔いが進んでいるのか、反対側のソファの肘掛けに長い脚をだらしなく投げ出したりしている。相も変わらずの無表情のせいか、時折クスッと笑ったりするのが妙に新鮮で、その度にドキリとさせられるのを除けば、至って心地好いひと時だと思えた。
そんな仕草のせいで思い出してしまったのは、店での龍の接客態度だ。波濤はほろ酔い気分のままに、
「なぁ、さっき言ってたアレ――。店で俺があんたを見てるってやつ。あれって別にヘンな意味じゃなくってだな」
ふと、先刻の続きへと話題を振った。
◆5
「んー?」
「店であんたのこと見てるとか何とか抜かしてたろ? あれの言い訳ってんじゃねえが……ちょっとあんたの接客方法が変わってっから興味あったわけ。そんで見てたのー。そんだけ!」
「接客方法だ?」
「そ! ありゃ、客に対する態度じゃなくねえ? 機嫌は取らねーわ、もてなしはしねーわ、てめえ主役ってな調子で脚組んでさ。あれじゃどっちが客だか分かんねえじゃんよ。他の奴らがあんな接客したら大目玉食らうぜ。ま、そんなんでも客に不自由しねえってのが逆にすげえっつーか……とにかく見たこともねえやり方だから確かに興味はあったってこと!」
「は――、それで俺を見てたわけか」
少々残念そうにしながらもいきなりソファから起き上がったと思ったら、あっという間に至近距離にまでにじり寄られて、波濤は焦ったように肩をすくめた。
「俺はてっきり、んー、俺自身に興味持ってくれてんのかーって、期待してたんだけどな。――残念だ」
少々呂律の回らない声で投げやりに言う。
酔っているのか――?
虚ろ気味の瞳の中に色香が垣間見える。視点は微妙に合っているのかいないのか、だがほんの一瞬、射るような眼力の中に何とも例えようのない狂暴さのようなものを感じて、焦燥感がこみ上げた。
戸惑う間もなくフワッと空気が動いたと思ったら、頬と頬とが触れ合うほどの距離に詰め寄られ、
「俺もお前に興味あるよ――」
低い声を耳元に落とされて、ゾクリと背筋にうずきが走った。
「え……っと、あー、そう? やっぱ、やり方が違う……から?」
このままではマズい方向に行きそうな空気に焦り、わざと明るくそう返した。――が、時すでに遅し――背中から包み込まれるように抱き締められて、波濤は硬直してしまった。
「なあ、やっぱ我慢できねえな――。俺とヤんの、本気で嫌か?」
「や……その、嫌とか嫌じゃねえとか関係ねえし……。と、とにかくふざけんのも大概にしろって……!」
「ふざけてなんかいねえさ。俺はお前を抱きたくてここへ呼んだんだ。逃《の》がすつもりなんかねえし、振られるわけにもいかねえな」
「何……言ってんの、あん……た」
「無理矢理犯《ヤ》っちまうって選択肢もあるが、お前相手にそういう無粋なことはしたくねえ――」
「ちょっ……龍ッ! 酔ってんだろ、てめえっ……!」
「は――堪んね、その言い方。『酔ってんのか』なんて言われっと、ますます引っ込みつかなくなるって思わねえのか?」
低い声音が耳元で得体の知れない何かを炊き点けるようだ。不本意にもカッと首筋が紅潮、気付けば耳たぶを甘噛みされて、波濤は今にも押し倒されそうな雰囲気から逃げるように肩を丸めた。
「お前が煽ったんだ。責任取れよ?」
「は!? 誰が煽ったって……! おい、やめろっ……!」
「無駄だ。お前より俺の方がタッパも腕力も上なんだ。諦めろ、もう逃す気なくなった。これ以上待たされんのもご免だ」
強引極まりない言葉通りに背中からしがみつかれて、身動きさえままならない。いかに大きめのソファといえど、所詮はソファだ。何処へ逃げるとも適わずに、波濤は身をよじった。
あっという間に振り出しに戻ったような急展開に驚く暇もなく、あれよという間にシャツを割った掌で胸飾りを撫でられて、ゾクゾクと背筋がうずき出す。
「よせ……っ」
「よさない。お前……客とヤる時どっちなんだ? 抱く方? それとも――抱かれる方――だろうな、やっぱり」
「バッ……! やっぱりって何だよ! ……っざけんなっ……! 氷川っ、てめ、いい加減にしねえかっ!」
既にグズグズに着崩されているシャツをむしり取るようにズルリと剥がれて、両肩をあらわにされる。後方から抱き包まれたまま、胸の突起を指で撫で回され、首筋には這いずるような無数のキスを落とされて、急激に身体中が熱くなる――。
「よせ……って言ってんだろが……! おい、氷川……ッ……!」
「俺の本名、覚えてたな? けど、どうせなら下の名前の方で呼べよ」
「はぁ!? ……ッ、あ……ッ、くそ……! 放っ……」
「いい声だ――」
「てめ……がヘンなことすっからだろが! ちょっ、いいから放せっての……に!」
「俺も本名で呼ぼうか? 冰《ひょう》――雪吹冰《ふぶき ひょう》だろ? すげえ冷てえ名前だな。きっと、溶かすのに苦労する――」
会話が全く噛み合わない。こちらの言うことなどまるで耳に入っているのかいないのか、呆れるほどのマイペースに打つ手も思いつかない。
「観念して俺に抱かれちまえよ」
耳元を低く逸った声がくすぐったと同時に、今度はスラックスの中に手を割り込まれそうになって、ビクリと身体が撥《は》ねた。
◆6
「何言ってんだ、てめえは……ッ! マジ、どうかしてんぜ……!」
「どうかしてんのはお前だろうが。なんで客の男《やろう》なんかに好きにさせてんだよ。普通ホストがそこまでするか? 単に業績の為にやってるとは思えねえな」
「……! ンなの、余計な……節介だってんだよ……」
「いつもこうか? 相手が野郎なら誰にヤられても同じかよ。例えば俺でも……。それを証拠に――ほら、もう勃ってんぜ?」
「……てめ、さっきっから、ヒトの言うこと聞いてねえだろっ……! くそっ、放せっ……!」
身動きのできないまま、だが龍の言うように抗えない欲情の印が恨めしい。
こんなことをされれば誰でもこうなる――生理的なものだと言ってやりたかったが、言葉さえ上手く出てはこない。下着の上からフクロも竿も全部を揉みしだくように撫で回されて、どんどん硬くなる自らの変化を呪いたくなった。
「こんなの客の女が知ったらショックだろうな? まあ、薄々感付いてる子もいるかも知れねえがな。お前が男の客を相手にしてる時、恨めしそうにお前らのテーブルを見てる子もいるもんな?」
「……ンなの、知らね……ッ、男だろうが女だろうが……お客はお客だし……」
「お前のやってることは”接客”の線を越えてる」
「……ッ、はぁ!?」
「気を付けろよ? 野郎とホテルに入るところを付けられてねえとも限らねえぞ。ヘンな噂でも立てられたりしたら、お前のホスト人生は終わりだぜ?」
「――――! そ……んなん、てめえにゃ関係ねえ……だろッ」
何だか酷く痛いところを突かれたようで、一気に全身から力が抜け落ちる。相反して加速するのは不本意な欲情ばかりだ。
「も……いい。好きにすりゃいいだろ……! けど、てめえだってヒトのこと言えっかよ! ンなっ、ビンビンにおっ勃てやがって……!」
さっきから幾度も腰元に当たってくる硬い雄の感覚を罵倒するくらいしか、抵抗の術がない。
「当たり前だろうが。何度言えば分かるんだ。俺はお前を抱く為にここへ呼んだん……だって!」
わずかに力《りき》んだ声音と共にスラックスごと下着も一気に引き摺り下ろされて、それらが膝に絡み付く。これではまるで強姦に他ならない。
「な……にが……無粋なことはしたくねえ――だよッ! てめえのやってンことは……犯罪だぞ!」
「は、そうかもな。否定はしねえさ」
「…………ッの……獣野郎が――!」
「――獣ね。これ以上ない褒め言葉だ。だが、誰にでもってわけじゃねえさ。お前にだけだ――冰」
今の今までの強引さと荒々しさとは対極の、穏やかで優しい声が切なげに耳元を侵す。その瞬間、わけもなく泣きたいような気持ちに駆られた。
そうさ、好きでやってるわけじゃない――
客の男と寝ることが自身の業績を上げる為だけの枕営業であるならば、誰にどんな罵倒をされようが構わない。気にもとめない。
だが違う。誰にも言えない、言いたくもない苦悩がそこに隠されていることをただただ独りで抱え込んできたというのに――この男はいとも簡単にそれを剥ぎ取ろうとしている。
ほんのわずかにでも気をゆるめれば、決して知られたくはない自らの内面で渦巻く苦渋が、ガタガタと音を立てて崩れ落ちてしまいそうだ。誰かに泣いて縋り付きたくなってしまう。弱い自分をさらけ出して、思い切り受け止めてくれるような腕《かいな》を探したくなってしまう。
自身の抱える苦くてどす黒い感情――そんな思いを見せたくないが為に誰の前でも明るく振る舞い、懸命に取り繕ってきたというのに。何故会って間もないこの男は、こうもズケズケと踏み込んでくるのだろう。まるですべてを見透かされているようだ。
今まで積み重ねてきたものが一瞬で突き崩され、丸裸にされてしまうようで、波濤は恐怖ともつかない言いようのない感覚に足のすくむような思いでいた。
そして、そんな恐怖心から逃れたいという本能からか、欲情の渦に手を伸ばしたくて堪らなくなる。
目の前の淫猥な世界にどっぷりと堕ちてしまったならば、すべての苦しみから解放されるだろうか。
ほんの一瞬でもいい、何もかもを忘れて、ただこの欲にまみれてしまいたい――こみ上げてくる涙を掻き消すかのように、波濤は龍の差し出す欲情を受け入れた。
◇ ◇ ◇
その後、脱ぎ捨てた服をそのままに、ベッドへと移動して熱情を絡め合った。
初めて触れる龍の素肌は逞しく、整った筋肉質の身体が艶かしく、いつもの隙のないスーツ姿とのギャップが例えようもなく甘美で、心を鷲掴みにされそうだ。
強引で容赦のない言動とは裏腹に、愛撫はやさしく且つ淫らで、身も心も包み込んでくれるような安堵感をもたらしてくる。
このまま、どうにもならないくらいグズグズに甘やかされてみたい――そんな欲求が沸々と湧き上がるようだった。
涙がこぼれそうなほどの包容力を伴った心地のいい腕の中に抱かれながら、波濤は”この男を贔屓にして来店する女性客らの心理”などを漠然と思い浮かべていた。
――あんな奴がどうして六本木でナンバーワンを張っていられたのか皆目不思議。
今ならば、その理由が分かるような気がしていた。
◆7
身体はどうしようもないくらい淫らに揺らされながら、心までもがこの男の持つ、得も言われぬ魅力に乱されつつある。
知らずの内に身も心も虜にされてしまいそうで、目を背けたくなる。この男に嵌ってしまう自分を少しでも想像すれば、怖くて腰の引ける思いがした。
店に来る彼女らも少なからずこんな思いでいるのだろうか。
この男の得体の知れない魅力にとり憑かれたが最後、苦しい嫉妬や孤独に苛まれながら、それでもひと目その姿に触れたくてフラフラと足が向いてしまうのだろうか。
そんな不思議な魅力がこの男にはあるのだ。
だが考えたくはない。間違ってもこの男を好きになったりすることなどない。そんなことが――あってはならない。
甘く息苦しい吐息の交叉する中で、波濤は目の前の生理的な欲望にだけ没頭したいというように、逞しい腕の中で無心になるしかできずにいた。
◇ ◇ ◇
「大丈夫か――身体、辛くねえか?」
背後から抱きすくめられたまま、半ば放心状態でベッドに身を投げ出していた。
「大丈夫なわけねえだろが……。ったく、容赦なくヤりやがって……。野郎同士なんて見下したようなこと言ってやがったくせに……てめえこそ他人《ひと》のこと言えた義理かよ」
男と寝ることに慣れているとまでは言わないが、まるで抵抗も戸惑いもなく、ごく自然に没頭していたところを見ると、まるっきり初めてではないのだろうといった恨み調子で、波濤は毒づいた。
「見下してなんぞいねえさ。男だろうが女だろうが好きなヤツと寝るのが悪いだなんて言ってねえ。まあ、俺は男とはお前が初めてだが――」
嘘をつけ!
波濤はそう思ったが、『男はお前が初めて』という台詞に、心のどこかで安堵感が湧き上がるような気がしたのも否めない。そんな思いを振り払うように咄嗟に顔を背けた。
だが龍はそんな素っ気ない仕草にも全く動じずといった調子で、未だ後方から抱き包みつつ髪を撫でたりしてくる。
「――なぁ、波濤。もうこんりんざい客の男と寝るのはやめにしてくれねえか」
「は――?」
もっと信じ難い言葉が背後から囁かれたのはその直後だ。
「もう他の奴とはするなと言ったんだ。お前が俺の知らない誰かに抱かれる――なんて、想像するだけで気が違いそうだ」
フイと手を取り上げられ、そのまま軽いキスを落とされて驚いた。まるで『俺だけのものになれよ』とでも言わんばかりだ。
「お前に”こんなこと”を教えた誰かのことを考えると正直堪らない。酷い嫉妬で我を失いそうになる」
手の甲にキスを繰り返しながら囁かれる言葉の内容にも驚きだが、そんなことを平然と言ってのけること自体が先ずは信じられなかった。しかもまるで平静そのものの落ち着いた調子で、言っている内容とはあまりにもちぐはぐだ。突如告白めいたことを言われても、とてもじゃないが素直に聞き入れる気にはなれなかった。
からかわれているのか、あるいはほんの遊びの一端か――とりあえず付き合ってみて飽きたら綺麗に別れればいい、男同士なら後腐れもなく退屈しのぎになる、そんな軽い気持ちなのだろうか。それともナンバーワンの座を奪い取る為の単なる策略か。
真面目に受け取ってのめり込んだ挙句、傷付くだろう結末が咄嗟に脳裏を過ぎった。
甘い言葉にほだされてはいけない。
この男に夢中になって苦悩に嵌まる自分など想像したくはない。
戸惑いを振り払うように起き上がり、ベッド脇へと腰を掛け、波濤は逃げるように龍の手を振り払った。
「あのよ、今日はなんかいきなりヘンなことになっちまったけど……火遊びってことにして忘れてやっから……くだらねえこと抜かしてんなよな」
「俺は火遊びをしたつもりなどない」
「……ッ、ならどんなつもりだよっ!? 第一てめえ、最初に一発いくらとか訊いてきただろうが! 遊ぶつもりだったろ……!? だったらそれでいいじゃねえか。今まで通りただの同僚ってことで……」
「あれは単に口実だ。そうでも言わなきゃ、お前が真面目に取り合ってくれそうもなかったからだ」
そのひと言に波濤は驚いたように龍を振り返り、ほんの一瞬視線が互いを捉え合った。そして大きな掌が愛しげに、頬と、そして髪をも撫でる――。
「お前、店でもそうだよな? 誰にでも愛想良くして、一見取っつき易そうに見えるが、本当の自分はぜってー見せねえだろ。広く浅く両手を広げて誰でも分け隔てなく受け入れる。如才ないヤツなのかと思いきや、ちょっとでも踏み込まんと近付けば、途端に甲羅を固くして遠ざけちまう」
「は……? 何、急に……」
「誰にも本当の自分を見せねえ奴だって言ってんだ。寂しさとか、弱さとか、逆に怒りでも――そういうもんを全部封じ込めて、自分の綺麗なところだけを表に出してる。確かに商売の上では立派だとは思うが、お前自身はそれで幸せなのか? 心から笑い合ったり、悩みや愚痴を言い合えるダチを作るわけでもねえ。誰にでも明るく振る舞って、それじゃ機械仕掛けの人形も同然だ。お前が楽しそうに笑う度に、俺にはひどく辛そうに見えるんだがな」
「や……めろっ……!」
波濤は怒鳴り上げた。
「そういう苦しさを紛らわせる為に客と寝たりして自分を貶めてる。わざと汚ねえ部分を作ることでお前はバランスを保ってるんだ。違うか?」
辛辣極まりない毒舌を淡々と突き付けられて、身体中から魂を吸い取られるような感覚に波濤はガクガクと身を震わせた。
◆8
「黙って聞いてりゃ……何なんだよ……っ、好き勝手……抜かしやがる……!」
無意識の内に涙があふれては、寝乱れた白いシーツの上にボタボタとこぼれて落ちた大粒の跡が目に痛い。
会って間もない他人に自身の内面を抉《えぐ》られるようなことを言われるとは思ってもみなかった。
まるで今の自分の格好さながらだ。突如無抵抗にさせられ、無理矢理服を剥ぎ取られて裸にされていくかのようだ。
身体だけではない、心もすべてを丸裸に剥かれる気分だった。
自分でも見ないようにしてきたことだ。
楽しい時間が一時《いっとき》の幻であってもいい。
賑わいの去った後、孤独が待っていようとそれでよかった。
寂しいとは思わない。俺にはそんなのが合ってる、そう思ってきた。
それなのに出会って間もないこの男にいきなり真髄を突き付けられた。
自分でさえ見ないようにしてきた、心の奥深くのひだをえぐり出された思いだ。
震える肩を自身の両腕で抱き締めながら、波濤は静かにベッドを立ち上がると、
「さっきの金、もらってくぜ……二十万。それで綺麗に忘れてやっから……お前もそうしろよな。それから……二度とこんなの御免だ。二度と寝ない。お前とは店の同僚以外の何ものでもねえ。いいな?」
低く――わざと凄んだような声色でそう言った。それとは裏腹の震える肩先が儚《はかな》過ぎるようで、龍はガラにもなく慌てたようにその後ろ姿に手を伸ばし、引き止めた。
「冰! 待てよ冰っ……! 気に障ったなら謝る。だが俺は……本気でお前のことを……」
「ホンキ……? 本気で何だよ? お前とは会ってまだ一ヶ月じゃねえか……。お互いのことよく知りもしねえのに本気とかさ? ……ンなこと軽々しく口にすんなっ……」
「好きになんのに時間なんか関係ねえだろ? 会って一ヶ月だろうが十年だろうが、そんなことはどうでもいい。真面目に言ってんだ。俺はお前に――」
「――惚れた、とでもいうのかよ? 一目惚れってか? 俺のどこに惚れたんだよ? 店でちっと一緒に働いたぐれえで……何でも解ったようなこと抜かしやがって……。だいたいっ、いつもの仏頂面はどうしたよ! 店じゃ無愛想でクール気取りのくせして……!」
素っ裸のまま、部屋の中央で大の男が二人――ただただ突っ立って――二人の間にしばしの沈黙が流れた。
波濤は龍に背を向けたまま、暗闇の中で唇を噛み締め肩を震わせる――。
龍はその震えを抱き包むように、僅かに戸惑いながらも背中ごとすっぽりと両の腕で包み込んだ。顎先を肩に乗せ、ときおり頬に唇を寄せながら告げる。
「何でも解ってなんかねえさ。それに俺はクールなんかじゃねえ。口数が少ねえから誤解されやすいが、自分じゃ熱い性質《ほう》だと思ってるぜ。他人《ひと》のイメージなんてそんなもんだろ? 見掛けだけじゃ分かんねえことだらけじゃねえか。だからお前のことも――もっと知りてえんだ」
「……俺の何が知りてんだよ」
「何でもいい。寂しさとか悔しさとか、お前が普段他人に見せない内面も、俺にだけは見せて欲しい。逆に楽しいことでもいい。お前の好きなこと――趣味でも何でもいい。いいことでも悪いことでも全部教えてくれねえか」
お前が好きだ――――
抱擁と共に、耳元へと告白の言葉を落とされて、波濤はビクリと肩を震わせた。
どうしてこの男はこうもストレートに何でもさらけ出してしまえるのだろう。
他人に触れられたくないような場所にも平気で踏み込んでくる図々しさや強引さ、けれども自身のことも素直に開けっ広げにさらけ出す率直さをも併せ持つ。
湾曲した複雑な感情など持ち合わせてはいないのか、恥ずかしげもなく『好きだ』と云ったり、図太く他人の内面にまで干渉したり、逆立ちしたって理解できやしない。自分には決して真似のできない素直さが眩しくも感じられて、波濤はキュッと拳を握り締めた。
この男のように、素直に言われたままを受け入れることができたら、何かが変わるだろうか。
好きだ――と云われた言葉を信じて受け入れたなら、何かが動き出すだろうか。
できることならそうしてみたい。
自分とは正反対のこの男に愛されて、変わる自分を見てみたい。
この男の好意を受け入れて、そして自身もまた、この男にのめり込んでみたい。
少なからず恋慕に近い感情が生まれ始めていることも否めない。
だがどうしても勇気が持てないのも、また確かな事実だった。
◆9
波濤はそんな自分に苦笑の思いで、背後からの抱擁を振り解いた。
「俺の全部を知りてーとかさ……女々しいんだよ、お前……。頭領なら頭領らしくしろよ」
「――頭領?」
「……っ……何でもねー。とにかくっ……俺、正直そーゆーの苦手だし……っ。お前がさっき言ったこと、当たってんのもあるよ。確かに他人と深く関わり合うの苦手っつーかさ、ガラじゃねンだ俺は。だから……お前のことも嫌いじゃねーけど、好きにもならない。そーゆーの面倒臭え……。付き合うとか別れるとか、好きとか嫌いとか、考えるだけで滅入る。だから今の仕事は俺に合ってんだよ」
「客とは最初から線引きができるから楽だってわけか?」
「は――、お前って勘がいいのな。まあ当たってるかな。だから……お前ともただの同僚でいたい。それ以上にも以下にもなりたくねえ……。他の奴らも一緒だ。誰とも波風立てねえでやってければそれが一番」
「――要は人間嫌いってことか?」
「さあな? そうなのかも」
波濤は切なげに笑った。
龍は再び目の前の震える肩先に手を伸ばし、そして抱き締めた。
今度は振り払われないようにしっかりと抱き締めた。こうしている間にも刻一刻、沸々と湧き上がる愛しい想いを頬摺りに代えて、強く強く抱き締めた。
「なら、尚更知りてえな。お前が人間嫌いになったきっかけとか、何でも知りてえよ。俺のことをどう思うかとか、少しは好意を持ってくれてるのかとか。それとも俺の知らないところで本気で好きな奴がいたりすんのか――とか。他にも訊きてえことだらけだ」
「他にも? 例えば……俺に”セックス”を教えた野郎のこととか――?」
自嘲まじりに波濤は笑った。
「何処で生まれて、どーやって育って、何でホストになったんだとか……そーゆーの全部知りてえってか?」
語尾の強く、おどけ気味で、だが肩先は小刻みに震わせて――その表情は切なげに歪んでいた。
誰にでも触れられたくないことはある。ズケズケと土足で心の中に踏み込むようなことをされて、迷惑だと言いたげな瞳が苦しそうに揺れていた。そんな思いから出た当てつけなのか、波濤はまたも自嘲気味に先を続けた。
「そんなに知りたきゃ教えてやる。何でも訊けよ。てめえの興味あること全部っ……! アフター行って、男に犯《ヤ》らせて……どんな気分で帰んのかとか……そーゆーのが聞きてえか? 他には何だ? 答えてやんよ。そん代わり……」
言い掛けてためらうように言葉を止《と》め――チラリと後ろを振り返り、波濤は龍を見つめて薄く笑った。
「龍、これ以上俺に深入りすんな……」
キッ、と見据えた瞳が、強い意思を伴いながら鈍い光を放っていた。脱ぎ捨てられていた服を拾い上げ、無言のまま部屋の扉を開ける。
「おい……冰ッ……! 帰るつもりか――!?」
「――それ。本名で呼ぶの、ナシな。俺とお前は単なる同僚、ナンバーを競うライバルでもある。あんま馴れ馴れしくしたくねえ」
背中を見せたまま、それだけ言い残して出て行った。その仕草がゾッとするほど寂しげに思えて、龍はその場で硬直してしまった。
「――――」
引き留めることさえできずに、呆然と立ち尽くすしかできなかった。再度抱き寄せようと伸ばし掛けた指先も空《くう》で止まり、行き場を失くす――。
普段はクールを装った隙のない男が、マフィアの頭領のようだとまで言われた男が、ただただ立ち尽くすしかできなかった。
◇ ◇ ◇
その日以降、店で顔を会わせても波濤は至って普通だった。まるで何事もなかったかのように、相変わらず客や後輩らに囲まれて楽しげだ。軽快なノリ、鮮やかな会話、ゲームに道化に一気飲み。男女を問わずの顧客獲得に精を出し、同伴アフターに奔走する。常に笑顔の絶えないその様は、傍から見れば本当に楽しげで、思わずつられて心が踊るような気にさえさせられる。
漆黒の夜を彩る、幾千もの煌《きら》びやかな街の灯りの如く、華やかなその姿は見る者を惹き付けてやまない。都会の喧噪の中に潜む汚く危険な部分など、まるで無いもののように想像させない見事さはさすがというべきか――誰もが夢を馳せ、羨望の眼差しで彼を追い掛ける。
そんな様子を遠目に見つめながら、龍だけが理由のない苛立ちに胸を逸らせていた。
後に生涯至極の間柄となる龍と波濤の触れ合いは、この時ほんの序章――始まりを告げたばかりだった。
- FIN -
次エピソード『Nightmare Drop』です。