club-xuanwu

2 Nightmare Drop



◆1
  いつでも笑顔でいなさい。
 笑う門には福来たる――というんだよ。
 幼い日に自らを抱き上げながらそう言って微笑んだやさしい人の面影を、一日たりと忘れたことはなかった。



◇    ◇    ◇



 頃は七月半ば――――まだ龍と波濤が出会う三ヶ月ほど前の真夏の出来事だ。ホストクラブxuanwuでは、夏祭りと題して浴衣イベントが行われていた。
 ホストは勿論のこと、お客も――この日だけは皆が普段の装いを一変して、和装で参加するというものである。ベテランホストをはじめ、特に店に入ったばかりの新米ホストたちにとっては、初めて体験するイベントの準備に追われて、ここ数日は大忙しの日々を過ごしていた。
「お! かっけーじゃん! お前、どこで調達したのよそれ!」
「調達っつーか、俺のは借り物だよ……。いきなし浴衣で来いなんて言われても、どこでどんなの買っていーかなんて分かんねえしさ。困ってたらオーナーがレンタル衣装店紹介してくれた」
 まあ、大概はそれが普通である。
 中には顧客に新しい着物を見立ててもらいがてら、プレゼントで贈られるという幸せ者もいたが、そうなるとホストの側からもその彼女用に新調してやる必要がでてくる。稼ぎのいいホストたちはそれも有りだが、なかなか上客が掴めないでいる新人たちにとっては、正直なところ厳しいのも事実だった。わずか一夜のイベントの為に、高額な出費は避けたいのもシビアな現実なのだ。

 そんな中で一際《ひときわ》目を引いたのは、この店のナンバーワンホストである波濤の出で立ちだった。
 客――それも男の客と同伴出勤した彼を見るや否や、フロアーにいた誰もが驚きの声を上げたほどだ。
 粋な透かし模様の入った絽《ろ》で仕立てられた浴衣は、見るからに上質で、思わず目を奪われる。既に夏祭りを楽しむ為の――というイベントの域を超えていて、波濤の並外れた見目の良さも手伝ってか、それは和テイストのファッションショーさながらであった。

 此処、club-xuanwuではこういったイベントが年に幾度かあって、その時々に合わせた衣装選びをはじめ、当日に金を落としてくれる同伴客を調達するのは、ホストたちにとってなかなかに骨の折れることだった。まあ、押しも押されもしないナンバーワンの波濤には、そういった面での心配はほぼ皆無といえるだろうか。その反面、見えないところでの気苦労は、ある意味、他のホストたち以上だったかも知れない。



◇    ◇    ◇



「波濤君、今日はお疲れ様。その着物、とてもよく似合って、僕も鼻が高かったよ」
 イベントが終わった夜半近く――街の喧騒を離れた高級料亭の一室で、杯を交わしながら微笑み合う男が二人。一人はホストの波濤と、もう一人は波濤に着物を贈った上客の男だ。彼の名は高瀬芳則《たかせ よしのり》といった。
 一見、エリートビジネスマンといった雰囲気だが、どこの会社に勤めてどんな仕事をしているのか等の詳しいことは聞いていない。
「ありがとうございます。高瀬さんのお陰です! こんないいものを作ってもらっちゃって……何度お礼を言っても全然足りない……」
「なぁ、波濤君さ……そろそろ、その”高瀬さん”っていうの止めにしないかい?」
 男はやさしげに微笑みながら、空いた波濤の猪口《ちょこ》に熱燗《あつかん》を傾けた。
「あ、はい。そうですよね。高瀬さん、めちゃくちゃ大人の雰囲気なんでつい……」
「それはつまり、僕はおじさんってことかい?」
 クスッと可笑しそうにしながら痛いところを突いてくる。波濤は慌てた。
「や、違いますっ! そういう意味じゃなくて……何ていうか……」
 今まで年齢の話などをしたことはないが、自分と高瀬では二十歳近く離れているのではと思えていたから、つい口が滑ってしまったのだ。
「分かってるさ。ちょっと意地悪を言ってみたかっただけだよ」
「もう! 酷えなぁ! 俺、一瞬マジでビビっちゃったじゃないですか!」
 そう言っておどけた後、

「じゃあ……芳則さん――て呼んでい?」

 小首を傾げながら問う仕草は、一見計算し尽くされているようでいて、だがしかし頬を薄紅色に染めながらそんな訊かれ方をすれば、悪い気はしないのも確かなのだろう――高瀬という男は嬉しそうにうなずいてみせた。
「嬉しいよ。じゃあ僕も”波濤”って呼び捨てにさせてもらおうかな」
「あ、もちろん! 是非そうしてください!」
 波濤は満面の笑みと共にそう言った。
 無論、営業スマイルであるが、高瀬にはおそらくそうは映らなかったことだろう。疑似恋愛を本物に思わせる波濤の術は、さすがにナンバーワンを張っているだけはあるといえる。
「じゃあ波濤――もう一度乾杯しようか」
「ええ。それじゃ……芳則さんと俺、二人だけの夜に――」
 二人は同時に猪口を掲げて微笑み合った。


◆2
 その後、趣きたっぷりの会席料理を楽しみ、それに合わせた酒、そして穏やかな会話も弾んで夜は更けていった。やがて水菓子が運ばれてくれば、そろそろ座はお開きである。
 高級な浴衣を新調してくれた上に、店のイベントでも他のホストたちにはおいそれと真似のできないような高額ボトルを入れてくれたりと、この高瀬には随分と世話になった。波濤は礼の気持ちも込めて、今日の勘定は自分が持とうと密かにそう思っていた。
「芳則さん、ごめん。ちょっと手水《ちょうず》に行ってくる。すぐ戻るんで」
 そう言って席を立とうとした波濤を高瀬は咄嗟に引き留めた。
 どうせ彼が気を利かせて手水がてら勘定を済ませてくるのが目に見えていたから、それをさせない為に――というのもあったのだが、高瀬が引き留めた理由はそれだけではなかった。

 波濤はといえば、席を立つなり突如繋ぎ止めるように手を掴まれて、少々驚き顔で高瀬を振り返った。
「芳則さん? どうかした――?」
「波濤、手水ならわざわざ座敷を出ずともこの部屋に設えられてる。どうせならそこを使ってくれたらいいよ」
 え――、というように波濤は思わず室内を見渡してしまった。
 ここは一般客とは隔離されている離れの棟である。完全な和造りの建物は品もあり小粋で、下半分ほど開け放たれた障子の向こうには、さほど大きくはないが中庭もある。都会の喧噪を忘れさせてくれる情緒たっぷりの高級料亭だ。
 だがしかし、この室内に厠《かわや》の類《たぐい》はどう見ても見当たらない。床の間以外は障子の向こうに中庭が望めるだけだ。波濤は首を傾げてしまった。
「えっと……この部屋の中に……ですか……?」
 わけが分からず瞳をパチパチとさせている波濤を横目に、高瀬という男はクスッと笑むと、すっくと立ち上がって押入れと思われるような襖を開いてみせた。

――――!

 それを見た瞬間に、波濤は驚きで目を剥いてしまいそうになった。
 押入れと思っていた襖の先には純和風の次の間があり、パッと見ただけでも二十帖は優に有りそうだ。だがもっと驚いたのは、金地の風炉先《ふろさき》屏風が置かれた横に、何とも雅な設えの”寝所”が用意されていたからだ。
 部屋の脇には更に次の間があることを連想させる廊下があり、その先には確かに厠《かわや》らしき扉もあるのが窺えた。
「……あの、高瀬さん、これ――」
 驚く波濤を横目に、
「ごめんよ。事前の相談もなしで勝手にこんなことをしてしまったが――今夜はまだキミと離れたくなくてね」
 高瀬は申し訳なさそうに頭を掻きながらそう言った。
「あ……いえ……そんなふうに言ってもらえて嬉しいです……」
 一先ずはそう返すしかなかった。



◇    ◇    ◇



 この客――高瀬芳則とはかれこれ半年ほどの付き合いになるだろうか、数ある波濤の顧客の中でも群を抜いて金を使ってくれる――いわば太客というそれだった。
 店へ入る前には共に食事をしたり買い物をしたりの同伴出勤は当たり前、店がハネてからのアフターにも何度誘われたことか数知れない。普通から考えたら入店をためらってしまうような高級バーに連れて行ってくれたりすることもよくあったが、単に酒を楽しむだけではなく、その後に朝まで床を共にすることも少なくはなかった。いわば枕営業である。

 波濤には女性客は無論のこと、数多《あまた》の上客が付いていたが、この高瀬のような男性客もチラホラとしていた。
 ホストクラブに男性客――飛び上がって驚くほど特異なことではないにしろ、波濤の場合、割合目立つ存在であったのは確かだった。それは彼がナンバーワンであるという以上に、男性の客から指名が入る回数が目に見えて多かったからだ。
 彼らはたいがい一人でやって来ては波濤をテーブルに呼び、高額なボトルを入れて少しの会話を楽しむだけですんなりと店を後にする。たった短いひと時の為にこれだけの大枚を叩いていくのだから、波濤の話術がすごいのか、はたまた余程の物好きか――と、店のホストらの間でも少なからず話題になっていたのは事実だった。
 まさか、店がハネた後に密かに待ち合わせた高級ホテルの一室で、アフターと称し波濤が彼らと”床《とこ》”を共にしている――などとは誰しも想像し得なかったことだろう。

 実に波濤にはそんな客が数人いたのは確かであった。男性としての格好良さやワイルドさというよりも色香が先に立つような彼の容姿は、そちらが目当ての客にはたまらない相手なのだろう。無論、この枕営業に於いても、客の男らの誰もが金に糸目を付けることはなかった。


◆3
 そんな数ある客の中でも高瀬はいつも紳士的で、波濤を大切に扱ってくれていた。夜を共にしたい時は事前にそう言ってくれていたし、だから今日は突然のことで少々驚かされてしまったわけだ。
――が、もっとびっくりさせられたのは、この直後に高瀬から飛び出した言葉だった。
「ねえ波濤――今日はその格好のまま抱きたい」
「え!? あの、えっと……でもこれ……せっかくの着物がもったいないんじゃ……」
 こんな格好で事に及んだら、皺やら汗やら、はたまたもっと別の汚れやらで台無しになりそうなのは目に見えている。だが、高瀬はそんなことはまるで気にもとめずといった調子で、こう続けた。
「そんなもの、またいくらでも選んであげるさ。これは単なる僕の趣味……なんだけれど、せっかく着物を着ているんだ。今夜は付き合ってはもらえないかい?」
 趣味――着物姿のまま抱きたいというこれが、この男の趣味だというわけなのか。そういえば敷かれた布団といい、この部屋の感じといい、ともすれば映画にでも出てくる遊郭のような雰囲気だ。何ともエロティックというか淫猥さを醸し出している。
 戸惑う間もなく背後から抱き竦《すく》められて、波濤はビクリと肩を震わせた。
「そんなに怯えないで――。酷いことはしないよ、約束する。ただ――」

 ただ――? 何だというのだ。その先の言葉を聞いてしまうのが少し怖くも思えたが、おくびにも出さずに波濤はわざと明るさを装ってみせた。

「高瀬さん、これってもしかしてコスプレってやつですか?」
 おどけてみせるも、抱き締められた腕の力は一向に弱まらない。
「コスプレ――ね。まあそんなものかな。キミは色気があるからこういう趣きも似合うんじゃないかって思ってね」
「……色気なんて……もったいない言われようです……よ」
「緊張してる? 少し声が震えてるよ」
「あ、いえ……その……突然だからちょっとびっくりしてる……だけ。……いつものホテルと違って、この部屋もすげえ豪華だし……」
 とりあえずおべっかを言うも、声の震えは治まらない。
 そもそも此処は料亭ではないのか。客の要望によっては、こんなことにも応じる店なのだろうか。ふと、そんなことが脳裏を過ぎったが、
「ん――、キミの為に選んだんだ。今夜はもう誰もこの離れには来ないように申し付けてある」
 高瀬の言葉から、やはり単なる”料亭”ではないのだろうと思えた。
「……そうなんです……か。じゃあ、今夜はここに泊まっちゃう……とか?」
 相も変わらず明るさを装ってそう相槌を返し――だが、身体に奇妙な異変を感じたのはその直後だった。
 頬が異様なほどに火照るおかしな感覚と、抱き締められて触れ合っている随所からムズムズとしたような違和感が絡みついてくる。背筋がゾワゾワとうずくような感覚だ。
 以前にも一度だけ体験させられたことがある――独特の逸るこの感覚が、おそらくは催淫剤によるものだと確信した時は既に遅かった。
「ごめんよ、波濤――さっき勧めた熱燗の中にね、媚薬を少しだけ。もう効いてきたかい?」
「……!? 媚薬って……高瀬さん!」
 高瀬を振り返り、拘束を振り解こうとするも、身体は言うことを聞いてくれない。勢いをつけて身をよじったせいで、敷かれた布団の上で膝をついてしまった。
 そんな様子を気遣うふりをしながらも、これ好機とばかりに、高瀬はすかさず後ろから抱き包むように押し倒してきた。
「あ……の、高瀬さん――ッ!」
「そういう他人行儀な呼び方はよそうって、さっき約束したばかりだろう? もう忘れちゃったのかい?」
 そんなことを言われても、咄嗟のことで対応できる余裕はない。しかも高瀬の息遣いは荒く、かなり興奮していることを物語っていて、焦燥感がこみ上げた。
「波濤、頼むよ――今夜だけでいいんだ。金はいつもの十倍払う。だから……僕の長い間の望みを叶えてくれないか――」


◆4
 今までは品もあり、博学で紳士的な男という印象が強かったのだが、隠された仮面の下ではこんなことを望んでいたというわけか――波濤は愕然とした。
 それを他所《よそ》に、男から飛び出す台詞はますます際どさを増していく。ふと目をやった視線の先には、女性が使うであろう腰紐のようなものが男の手に握られていて、嫌な予感に心拍数が跳ね上がった。
「これでキミの両手を縛りたい……」
「し、縛るって……」
「それ以上のことはしないと約束するよ……。着物は脱がなくていいから、どこかひとつ……そう、キミが自由を奪われた格好を見ながら抱いてみたいんだよ」
 言うや否や、素早い動作で両腕を取り上げられて、蒼白となった。
「や……ちょっと待ってください……ッ! 俺、こういうマニアックなのは困るっつーか……高瀬さんッ!」
「――そんなことを言える立場かい? 僕が手を引いてしまったら、少なからず成績に響くんじゃないの? それとも僕の買いかぶりかい? 僕はこれでもキミの一番の太客だと自負しているんだけれどね」
「そ……れは、感謝……してます! けど、いきなりこんなの……」
「それに――キミだってそろそろ余裕はないはずさ。そうだろう?」
 首筋を濡れた舌先でなぞられて、快楽とは真逆のゾッとした嫌悪感が背筋を走った。と同時に、割った着物の裾から手を入れられ、硬くなりかけた雄を遠慮なしといった調子で握られて、波濤はギョッとしたように身をよじった。
「ちょっ……待っ……!」
「思った通りさ。もう勃ってるじゃないか……。波濤……ッ、夢だったんだ――キミのことをこうするのを……どんなに望んできたか分かるかい?」
「いや、あの……マジで待って……」
「内緒にしていたけれど、毎晩のようにこういう想像をしながら独りで慰めてきたんだよ、僕は――!」
 ともすれば気が触れてしまっているのではと思うほどに男は欲情し、興奮していた。

 ただ普通に寝るだけならば割り切っていられた――。
 同性相手の枕営業がバレて、周囲に侮蔑されようが構わなかった。正直なところ、女性客を相手にするよりも遙かに高額で男たちは自分を買ってくれるからだ。
 別段、好き好んでやっているわけでは決してなく、では何故にこんな営業を掛けるのかと問われれば、答えは一つだ。
 波濤には金が必要だった。大金を工面せざるを得ない理由があったからだ。

「……頼むから……やめてくれ、こんな……こと……ッ」
「いいよ、波濤。そうやってもっともっと拒めばいい。抵抗するキミを無理矢理奪うのも堪らないよ……! はぁ……ッ、ああ、波濤!」
 逃れようと身をよじったせいで、着物の袷が開《はだ》けてズクズクに乱れていく。胸飾りを指の腹でねっとりとなぞられて、身体中に悪寒とも快感ともつかない奇異な感覚が走った。
「ああ……堪らないよ波濤! ここ、感じるだろう? 我慢しないで。キミのいい声をもっと聞きたい……」
「……ッ、高瀬さん! マジで……勘弁してくれっ――!」
「そういう反抗的な顔も堪らないね……! もっと叫んでごらん……もっと、もっとキミの切羽詰まった声を聞かせて欲しい!」
 何をどう言ってもこの男を喜ばせるだけだ。そう悟った波濤は、このゲームに付き合う代わりにせめて腕の拘束を解いて欲しい、そう懇願したが、終《つい》ぞ聞き入れられることはなかった。



◇    ◇    ◇



 次の日の夕刻、波濤は重い心のまま、それでも店には何とか顔を出した。
 あの後、抗えないまま高瀬にいいように嬲《なぶ》られながら精根尽き果てるまで激しく抱かれ続けた。『酷いことはしない』という言葉とは裏腹に、破廉恥なことも散々に強要された。高瀬は始終『愛している』とか『好きなんだ』という言葉を連発しながら、夢中になって求め続けたのだ。
 確かに暴力というには及ばないのかも知れないが、それでも騙し討ちのようにしていかがわしい薬を盛られた状態で抱かれるのは、精神的にも身体的にも酷くダメージを与えられたことに違いはなかった。

 鏡を見れば身体のどこかしこに残る赤黒い痕、痕、痕――。中には内出血のように痣になってしまっている箇所も確認できた。
 それらを隠さんと、夏場だというのになるべく露出の少ない服を選んで出勤せざるを得なかった。余計な勘ぐりをされまいと、同僚たちには夏風邪を引いたと嘘をついて明るさを装うのにも、さすがに今日は苦労する。
「夏風邪はバカが引くっていうだろう? ほーんと、俺って格言を体現しちゃってしょうもねえ奴だろー?」
 いつもの軽いノリもジョークも、ようやくと繰り出すのが精一杯だ。
 身体中が重くてダルさが抜けない。本当に熱があるようで、火照るわりには冷や汗をベットリかいてみたり、寒気がしたりで辛かった。
 冷房の効き過ぎている店内に居続けるのさえしんどくて堪らない。常連の女性客から指名が入っても、ほぼヘルプの後輩たちにテーブルを任せなければならないような状態だった。


◆5
 情けないが、今日はこれが限界か――

 何とか理由をつけてフロアーを抜け、非常階段のある踊り場へと腰を下ろす。人の目から離れられたことでホッと息をついたのも束の間、街の喧騒と真夏の夜の作り出す生暖かい風が頬を撫でれば、堪え切れずに涙が滲んだ。
 こんな時にいつも脳裏に浮かぶのは、幼い頃に身寄りを亡くした自分を拾って育ててくれた、一人の老人の姿だった。

『泣くんじゃない、冰《ひょう》。男の子だろう?』
『でも……じいちゃん……』
『笑っていなさい。いつでも愉快に楽しく! 笑う門には福来たる――だぞ』

 そう言って豪快に笑った、皺くちゃな笑顔と明るい声が頭の中で巡りめぐる。
「……っ、つぅ……じいちゃん……じ……いちゃん!」
 憚《はばか》ることも忘れ、ひとしきり――声を上げて波濤は泣いた。



 踊り場の下には煌めくネオンに彩られた華やかな大都会の夜景が広がっている。すべてを呑み込むように広がっている。
 いっそのこと、楽しいことも苦しいことも、嬉しさも辛さもすべてを包み込んでくれたなら、どんなにか――



 泣き濡れた波濤の瞳の中に、雅な都会の灯がユラユラと揺れていた。まるで元気を出せと勇気づけてくれているようでもあり、それとは真逆に悲しみをより一層煽ってくるようでもあり――止め処なく流れる涙の雫は、しばし止《や》むことなく波濤の頬を流れて伝った。



◇    ◇    ◇



 その数日後、club-xuanwuの事務所ではオーナーの粟津帝斗が訝《いぶか》しげな表情で、とある書類に目を通していた。
 革張りのソファの対面には精悍な面立ちの男が、眼鏡のブリッジをクイと押し上げながら生真面目な顔で彼を見つめている。一通り手元の書類を見終えた帝斗は、目の前の男に向かって小さな溜め息を漏らしてみせた。
「ご苦労だった。短期間によくここまで調べてくれたね。支払いは現金でいいかい?」
「はい。恐縮です」
「しかし……この報告書にあることが本当だとすれば、頭の痛い話だな」
「――ええ。私も少々驚きました。今時、こんな奇特な方がいらっしゃるとは」
「奇特……ねぇ」
 帝斗は今一度溜め息を落としながら眉をしかめた。
 報告書というのは、自らがオーナーを務めるホストクラブでナンバーワンを張っている”波濤”についての素行調書である。帝斗が依頼した結果を報告しに、興信所の男が訪ねてきていたのだ。xuanwuには専属の弁護士がいるが、今回のことは極々秘密裏にしたかった為、敢えて興信所を頼ったのだった。
「この件は例えうちの店の者であっても知られてはならないので。くれぐれも内密に願いますよ」
「承知しております」

 現金で支払いを終え、男が帰った部屋で一人、デスクからシガレットケースを引っ張り出して煙草に火を点ける。渡された調書をもう一度手に取り眺めながら、オーナー・帝斗は深く吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出した。


◆6
*源氏名:波濤(本名:雪吹冰)に関する調査報告書*

 調書によれば、波濤は国内でも有数の財閥系企業である平井家の当主、平井剛造《ひらい ごうぞう》氏の次男として生まれる――とあった。以下が大まかな報告である。

 雪吹冰は平井剛造が社の拡張事業で香港滞在中に見初めた日本人女性、雪吹冴絵《ふぶき さえ》との間に生まれた妾腹の子。
 当時、剛造には妻と二歳になる男児があったが、本妻とは家同士の政略結婚だった為に冴絵と恋に落ちたと思われる。その後、冰を身籠もった冴絵を連れて帰国するも、本妻の逆鱗に触れ、冴絵は心身を疲労。冰を生むと間もなくして他界した。
 剛造は冰を手元に置いて育てようとしたが、周囲の猛反対に合い、致し方なく香港の知人である黄《ウォン》氏に預けた。名字も”平井”を名乗ることは許されず、母方の”雪吹”とされた。
 黄氏は香港の裏社会に顔がきく人物で、当時はカジノを経営。身寄りを亡くした冰が一人で生きていけるようにと、ディーラーの技を仕込みながら大切に育ててくれたようである。
 黄氏が老衰で亡くなる際に聞かされた実の父親・平井剛造に一目会いたいと願った冰は、単身で日本へ帰国。だが、腹違いの兄である平井菊造《ひらいきくぞう》によって、その願いを阻まれる。
 ちょうどその頃、菊造は財閥の跡継ぎ候補から外されるという苦難に直面していた。素行、学業共にあまり褒められたところがなく、株主や役員たちによってそう決議されたようだが、そのことで妾腹の冰に財閥を乗っ取られるのではと危惧するようになる。
 以来、冰に逆恨みをした菊造は、母親と自分から父を奪った慰謝料と称して、冰に多額の現金を要求するようになる。
 冰は菊造の要求を真に受けて、二年前から毎月二百万円もの金を彼の口座に振り込んでいて、ホストになったのも金に都合をつける為と思われる。
 現在、冰はホストクラブxuanwuにてナンバーワンホストを務めるが、通常の稼ぎでは足らず、男性客を相手に色を売っているようである。菊造による現金の要求は日増しに増額されているのも事実である。
 以上――

 かいつまんで大体このような内容が記されていた。
「ふぅ……。波濤がこんな難儀なものを背負っていただなんてね。何とかしてあげたいのは山々だが――」
 帝斗はシガーを灰皿に揉み消すと、またひとたび重い溜め息をついた。
「財閥のトップ――、妾――、妾腹の子――、そして肉親からの恐喝と金の無心か。僕が冰にしてやれることがあるとしても、おそらくは彼の心の痛みまでを包み込んでやることはできないだろうかね。僕では何かと力不足か――」
 だが、このまま見て見ぬふりを続けるわけにもいかない。そもそも帝斗が今回、興信所に頼んでまで波濤のことを調べたのには、彼の様子がおかしいことをひどく危惧していたからである。
 表面は常に明るく、就業態度も真面目で、後輩にも好かれるとてもいい人柄の波濤である。だが、彼が明るさを装う裏で、何やら苦悩を抱えているように思えてならなかったのだ。
 波濤の心の揺れをいち早く読み取った帝斗は、一先ず彼の生い立ちから、何故この店のホストになったのかなどについて、密かに調べてみることにしたのだった。

「――この件、ヤツに賭けてみるか。僕ではできないことでも、あいつならばきっと……」

 手元の携帯電話のアドレス帳を見つめながら、帝斗はそう独りごちる。画面に映し出されたのは一人の男の名。帝斗にとって幼馴染みであり、人生の中でも数少ない”本物の親友”と呼べる男の名だった。

-FIN-

次エピソード『Halloween Night』です。



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