club-xuanwu

4 Allure



◆1
 後部座席のシートに深く寄り掛かりながら、瞳を伏せている丹精な鼻筋に街の灯りが映り込んでは飛んでいく。
 黙っている彼はその整った顔立ちが強調されて、無意識にも目をとめて惹きつけられる。動きのない表情がまるで精巧に作られた人形のようでもあり、同じ男から見ても実際羨ましいほどの男前だ。
 バックに撫で付けられた黒髪が少し乱れて額に掛かり、車の揺れに合わせて振られる首筋の動きから、浅い眠りが苦しげにも思えて心配になる。時折長い脚を左右に振り、窮屈そうに身をよじるのを見れば尚更だ。長身の彼が眠るには、タクシーの車内が通常よりも小さく感じられた。
「おい、大丈夫か?」
 隣から身を乗り出して、そんなふうに声を掛けた。すると、閉じていた瞳をゆっくりと開き、口元に薄い笑みを浮かべてうれしそうに視線を細めた。
「何だ、心配してくれんのか?」
 クスッと余裕の微笑みを見せたと同時に、頬と頬とがくっ付くほどの位置にまで近寄られて、波濤はびっくりしたように舌打ちをしてみせた。
「……っンだよ! 充分ゲンキじゃねえかよッ!」
「お前がそんなふうに心配してくれんなら、うれしくってもっと元気出ちまうな」
「はぁッ!?」
 なら俺は何の為にここにいるんだという調子で、波濤はますます苦虫を潰したような表情で隣の男を軽く睨んでみせた。



◇    ◇    ◇



 今夜は相当酔っ払っちまったから家まで送ってくれないか――同僚ホストであるこの男からそう頼み込まれたのは、イベントが終了したロッカールームでのことだ。数ある催しの中でも大々的なハロウィンの夜のお祭り騒ぎがハネた直後のことだ。
 客からの贈り物やら荷物も多いことだし、いつもよりも張り切って飲んだので足元もおぼつかない、だから家まで一緒に付いて来てくれないかなどと少し呂律の回らない口調で頼まれた。
 大量に飲んだのは誰しも同じなのに何で俺が――とも思ったが、彼があまりにも虚ろな表情で頼み込んでくるので、断り切れなかったというのが実のところだった。
 それはともかくとして、波濤には彼を自宅に送るのを躊躇《ちゅうちょ》する理由がもうひとつあった。

 この男が自身の勤めるホストクラブの支店から移籍して来たのは、ほんのひと月ほど前のことだ。おおよそホストらしからぬ仏頂面の上に、客に対する態度も無愛想のくせにして、前の店では指名率ナンバーワンだったというからひどく驚かされたものだ。
 その態度や商法は現在の店に来てからも変わらずに、ヘルプに付いた後輩ホストらを緊張させたりと、とにかく良くも悪くも皆の関心を引いてやまないこの男は、源氏名を龍《りゅう》、本名を氷川白夜《ひかわ びゃくや》といった。
 それまでは押しも押されもしないナンバーワンだった波濤にとっても、彼が来たことでその座を争うことになった。いわば今現在一番のライバルでもある。
 それだけの関係ならば幾分イケすかない感はあるにしろ、さして問題はないのだが、波濤にはどうにもこの男が扱いづらくてたまらない理由があった。
 それは半月ほど前のこと、初めてこの男の自宅マンションに招かれた際のことだ。
 『ナンバーワン同士、もう少し懇意になっておいた方がいいんじゃないか』などと尤もらしい台詞で誘われて、ノコノコと付いて行ったのを後悔している――と言い切るには語弊があるだろうか。だが多少なりとも後悔先に立たずな気分にさせられたのも事実だ。
 いきなり身体の関係を迫られた上に、『お前が好きだ』と告白めいたことまで言われて、面食らったのを忘れたわけじゃない。
 確かに彼の一種変わった接客方法や、無愛想なくせにナンバーワンにまで登りつめたという手腕に興味があったことは認めよう。彼の言うようにもう少しお互いについて知り合うにはいい機会だなどと思って、快く誘いを受けたまでは良かったのだ。
 その時の彼は強引で、けれどもひどく素直で率直でもあって、それは普段の印象からは程遠い別人のようでもあって、とにかく戸惑わされたものだ。だが最も信じられないことには、彼からの告白が満更迷惑だと思えなかったことにある。
 元々興味を引かれる存在ではあったが、改めて気持ちをぶつけられて――それも含みのなく、回りくどさもまるでない堂々直球に告白されて――しかもあろうことか巧みな誘いに流されるように肉体関係という既成事実まで踏んでしまったのだから、心が揺らぐのも致し方ないかも知れない。
 だが、波濤にはどうしてもそれらを素直に受け止められない気持ちが自身の片隅でくすぶっているのも否めなくて、だから今でもこの男と親密になることに戸惑う気持ちが拭えずにいた。


◆2
 あの夜以来、店で顔を会わせても極力普通に接してきたつもりだが、それが想像以上に疲れるということに気付いたのはここ最近だ。裏を返せばそれほど彼を意識しているという現実を突き付けられるようでもあって、疲労困ぱいの日々が情けない。そんな男を自宅に送るなどというのは、本来以ての外なのだ。
 彼の部屋へ行けば、少なからずあの夜のような状況になることも否定できないし、仮にそうならなかったとしたら、意外や期待外れに感じてしまうかも知れない。波濤にとっては、どちらにしても気が進まないに変わりはなかった。

 一体自分はどうしたいというのだろう。
 先程からの彼の言動ひとつを取ってみても、あの夜から何ら変わらない好意をありありと感じるのも確かだ。
 からかい半分、悪戯まじりの言葉が耳に心地よい。『お前が心配してくれんならもっと元気が出ちまう』などと言われれば、少なからず頬が染まる。心が躍る。
 受け入れたいのか突き放したいのか解らない。
 あの夜、告白への返事として、『お前とはいい同僚でいたい。それ以上にも以下にもなりたくない』と言ってはみたものの、こうして誘われれば心が躍るような気持ちになるのが非常に厄介だ。
 考えれば考えるほど気が滅入るとばかりに、波濤は深い溜息を漏らしながら、飛んでいく窓の景色を見つめていた。



◇    ◇    ◇



「荷物、ここでいいのかよ?」
 まだ若干足元がふらついているような素振りでリビングへと向かう龍の後ろを付いて、紙袋を両手に抱えながらそう訊いた。すると彼は満足そうにこちらを振り返って笑い、上着を脱ぎ捨てソファへと身を投げ出した。
「波濤……来いよ」
 両腕を広げて手招く。まるでそのまま抱き締めてやると言わんばかりの仕草で微笑まれて、思わずドキリと胸が鳴る――。
 見上げてくる瞳は、酔いも手伝ってか図らずも淫らだ。何ともいえない色香に身体の中心が掬《すく》われるように熱くなる。ついふらふらと、差し出された腕の中へと包まってしまいたくなる――。
 知らずの内にうっとりと彼を見つめていることに気付き、波濤はハッと我に返った。
「た、戯けたこと言ってねえで……それより何か飲むモンとかいるか? 水でも持ってきてやろっか?」
 視線を泳がせながらそう訊けば、龍はそんな態度が可笑しいとでもいうように、楽しげに頬をゆるめては微笑《わら》った。
「そんじゃ貰うか、水」
 そう言って思い切りノビをする。そんな様子を横目にしながら、肩をすくめる派手なゼスチャーで胸の高鳴りをごまかすと、波濤はいそいそキッチンへと向かった。

 初めて立ち入る彼のプライベート空間――他人の家の台所を覗くのはちょっと興味をそそられるものだ。灯りを点ければ、予想の他きちんと片付けられているのに驚かされた。
 綺麗にしているというよりは殆ど使われていないのか、生活感がまるでないのがかえって龍らしい。何だか微笑ましいような気分にさせられる。
 とにかくは言われた通りに水を持ってリビングへと戻ると、龍は先程のタクシーの車内と同じように、どっかりとソファの背にもたれてまぶたを閉じていた。
 やはり疲れているのだろうか、気持ちのよさそうに軽い寝息まで立てている。
 飲み過ぎたというのも半ば本当のことなのだろう――そう思いながらテーブルにグラスを置いて隣へと腰掛けた。

 寝入っている彼を見ていると、自然と笑みがこぼれるような安堵感を覚える。今ならばずっと見つめていても誰の目も気にしなくていいのだ。この龍自身に冷やかされることもなければ、同僚らに余計な勘ぐりをされることもない。まるで自分だけのもののように思えて、気持ちが温まる。思わずこの大きな胸に頬を寄せて、身も心も重ねてしまいたくなる――。
「……龍」
 無意識に手を伸ばし、彼の髪に触れようとした瞬間に、ビクリと指先が震えた。

(そうだ、こんなことを望める立場じゃないんだった……。夢を見たりしてはいけないんだ)

 波濤は寂しげな苦笑いを漏らすと、気を取り直して声を掛けた。
「龍、風邪引くぜ? 寝るんならちゃんとベッド行った方がいんじゃね? ここで寝ちまうんなら、毛布とか何か掛けるモン持ってくるけど……」
 そう言って覗き込んだ拍子にスクッと瞳が開かれて、波濤は思わず仰け反るくらいに驚かされてしまった。
「ちょっ……てめ、狸寝入りかよッ!?」
「んな、白々しいことするか。お前が声掛けてくれるまではマジで寝てた。一瞬だけどな」
 龍は楽しそうに言うと、未だ少しだるそうに身を起こして、『サンキュ』と、テーブルの上の水を口にした。
「しかし今日は疲れた。ハロウィンなんたらとかいうイベント、あんなの毎年やってんのか?」
 年に数回はあるという、似たようなイベントをこなしてきたお前はすげえなといった調子で見つめられて、返答に困らされる。
 水を飲み終えたと思いきや、色気もそっけも全くない調子で、再びノビをして深くソファに背を預ける。あまりのマイペースぶりに、今までの緊張がバカらしく思えてしまった。
 またいつぞやの夜のように、よからぬ雰囲気にでもなったらどうしようだなどと、わずかにでも思ったことが癪《しゃく》にさえ感じられる。
 一気に気が削がれたとでもいおうか、ドッと疲れが押し寄せてくるようだった。
 だが緊張が解けたことで、心地よいだるさを感じるのも悪くない気がして、つられるように波濤もまたソファへと背を預けた。


◆3
「けどよ、お前強かったよな、野球拳。結局脱いだのってマントと蝶ネクタイくらいだっけ? 結構残念そうにしてる女の子いたもんな? ホントはもっと負け越してくれんの期待してたヤツ多いんじゃねえ?」
 マイペース過ぎる龍を、少しの嫌味まじりに苛めてやりたい気分になって、そんなことを口走った。
 イベント最大の見せどころである野球拳ゲームで、圧倒的に負けなしだったことについて、皮肉たっぷりに突っ込んでやる。客はもちろんのこと店のホスト連中も含めて、『皆がお前のハダカを見たがっていたんだぜ』と言わんばかりに不適に微笑んでやった。
 だがもっと嫌味たっぷりに、ヘタをすれば詰《なじ》ってやりたくなるくらいの出来事も他にあった。
 実際、野球拳よりも期待度の高いのが”おねだりゲーム”といわれる催しだ。目当てのホストにボトルを注ぎ込む引き換えに何でも望みを叶えてもらえるという、ハロウィンイベントならではの目玉企画のことである。
 そのおねだりゲームで、軽く”一本”は超えるほどのボトルを注んだ挙句に、その酒を口移しで飲ませて欲しいとねだったのが他でもない、この龍の常連客だった。”一本”というのは、いわば帯付きの札束のことだ。現金のまま龍の懐にそれを忍ばせながら、『今ここで――皆の見てる前でアタシにキスをして。それもとびっきり濃いヤツよ?』と言って、彼女は得意げに龍の胸板へと抱き付いた。
 これには会場も大盛り上がりで、さすがに龍のそれには及ばないものの、次々と高価なボトルが入りまくって、結果イベントは大成功で幕を閉じた。かくいう波濤自身の客もバースデー並みのグラスタワーを注文してくれたりと大盛況だったのだが、この龍の客の”口移しおねだり”以上にインパクトの強いものはなかった。
 何だか癪な気持ちになって、『てめえの客はスケベな奴ばっかりだ』と、嫌味を言ってやりたくなるのはホストとしてのライバル心からくるものなのか、あるいは別の意味なのか――。
 それを考え始まると、身体中が掻きむしられるような奇妙な気分にさせられる。この男といると、些細なことでも平常心を奪われるようで気が滅入るのだ。
 波濤はそんな自分に我ながら呆れるといった調子で、半ばふてくされ気味に行儀の悪く脚を投げ出した。だが龍の方はそんな態度が満足だとでも言わんばかりにクスッと鼻先で笑うと、
「そういうお前は結構脱がされてたな? お陰で眼福だったぜ」
 チラリと悪戯そうな視線を投げ掛けられて、瞬時に頬が染まった。
「まあ……けど、実際お前が最後まで負け越さなくてホッとしてるってのが本音ではあるな」
 と、今度は意味ありげな上目遣いに見つめられて、更に頬が熱を持った。
「何でよ? 普通はてめえ以外の奴が負けてくれた方がいいだろうよ」
「そりゃお前以外は――な? 誰が負けようがマッパになろうが知ったこっちゃねえが、お前の下着一丁の姿なんざ誰にも見せたくねえからな」
「――――ッ」
 まったく、どうしてこの男はこういうことを恥ずかしげもなく言えるのか。これ以上赤面させられてはたまらないと思う反面、嬉しいのも本当のところで、波濤はどうにも戸惑わされてしまった。だが龍の方はそんなことは気にも止めずに、ますます饒舌だ。
「……ったく帝斗の野郎ったらホント、ロクな企画を考えやしねえ」
 また一口、手元の水を含みながら呟かれたそのひと言に、波濤は奇妙な表情で龍を見やった。
「帝斗って、もしかオーナーのこと? お前、ミカドさんと親しいのかよ……?」
 怪訝そうに訊いたのも当然だ。
 店のオーナーが現役ホストだった時代には、その大物ぶりから帝《ミカド》という異名をとったことは有名な話だったが、だからこそそんな彼を呼び捨てにできる人間などは珍しい。しかも源氏名ではなく異名でもない、本名で呼び捨てるなど以ての外だと眉根を寄せた。
 だが龍は言われていることがいまいち解らないといった調子で、不思議そうに首を傾げている。
「ミカドさんだ? ひょっとして帝斗のことか?」
 飄々《ひょうひょう》とした物言いに、驚きを通り越して唖然とさせられた。
 そんな様子が可笑しかったのか、龍は満足そうに口角を上げると、
「なんだ。気になるのか? 俺と帝斗の関係。ひょっとして妬けたとか?」
 突如ガバッと身を起こし、肩を抱かれて、波濤は引っくり返ったような声を上げた。
「バッ……! 誰が妬いてなんかっ……いっかよ! てめえがいかにも図々しい呼び方すっから驚いただけだっつのッ……!」
「なんだ――。そう、つまらねえな。妬いちゃくれねえのか」
「てめ……やっぱ相当酔ってんのな? 何で俺がてめえとミカドさんの仲なんか勘ぐらなきゃなんねーんだよ」
 第一、妬くだの何だのという以前に、『俺たちの間柄はそんな特別のものじゃない、ただの同僚というだけだ』と言ってやりたい。そんな気持ちのままに、精一杯平静を装ってはみたものの、実のところ、気になるならないの問題どころではなかった。
 含みたっぷりの龍は余裕の面持ちで嬉しげだ。毎度毎度、自分だけが振り回されているようでバツが悪い。既にまた、この男のペースに乗せられ掛けているのが癪に思えて、波濤はわざと落ち着き払ってみせた。
「ふ……ん、なら言ってみ? お前とミカドさんの関係。どんな仲だよ? 妬いてやっから話してみ?」
 その言葉に龍はますますニヒルに微笑むと、機嫌のよさそうにニヤッと笑ってみせた。
「そうだな、案外深い関係っての?」

「え――――!?」

「お前との仲ほどじゃねえけどな」
 そう言うなり、不意打ちのように抱き締められ、唇を重ね合わされて、波濤はビクリと肩をすくめた。


◆4
「てっ……めっ、いきなり何しやがるッ……」
 抵抗の言葉はほんの建て前だということを、熟れた頬が物語ってしまう。
 こんな展開を待っていたわけではない。
 けれども望んでいなかったわけでもないのだ。
 またしてもどうしたいのか分からずに翻弄される。揺れ動く自身の気持ちが、歯がゆく思えて仕方なかった。
「放せバカ……! 何でいきなりこーゆー展開に……なんだよ……!」
「いきなりじゃねえな。俺はずっとタイミングを窺ってた。タクシーの中からずっと。いつお前にキスしようかってそればっかり考えてたぜ?」
「はあっ……!? 何言ってんの、てめ……」
「お前は違うのか? いつ俺にキスされんじゃねえかって、ずっと期待して待っててくれたんじゃねえのか?」
「バッカ野郎ッ! 誰が期待なんかっ……! ……ッそ、龍……ッ」

――んっ……んーッ!

 有無を言わさず深く舌を絡め取られ、口中を掻き回されて呼吸もままならない。あふれて行き場を失くした甘い滴が、双方の唇の端からこぼれて落ちた。
 と同時に、背筋から独特の疼きが湧き上がる。身体の中心――腹の下あたりが掬《すく》われるように熱くなる――。
「よせっ……バカ、龍ッ……!」
 せめて抵抗の言葉を口にしなければ、流されてしまいそうだった。だが、龍の方はそれとは正反対に、雄の色香がダダ漏れといわんばかりの射るような視線と共に次を求める。
「よさない。この半月、ずっと待ったんだ。あれ以来、お前は俺のことを巧妙に避けてくるし、これでも機会見計らうのに苦労したんだ」
「誰っ……が……いつそんなことしたよ……!? 避けてなんかねーじゃんよっ!」
「表面上はな。お前そういうの得意だから。誰にでも愛想良くって気さくで――ってか? 他の連中と何変わりなく俺にも確かに笑い掛けてくれたが、逆に白々しいだろうが。他の奴らには分からなくても俺には解る。お前が微妙に俺との距離を取りたがってること……。そんなに俺が嫌いか?」

 そんなに俺が――――

「嫌かよ……?」



◇    ◇    ◇



 切なげに見える瞳は酔いのせいだ。
 苦しげな吐息は、夜半まで飲み過ぎた疲れのせい。
 これまでは何とか抑えてきたはずの想いさえコントロールがきかなくなりそうだ。熱いキスを受け入れて、流されて、この腕の中にすべてを預けてしまいたくなる。耳たぶを甘噛みされて、首筋にチュッチュッと幾度となく愛撫を落とされて、今にも嬌声があふれそうになった。
「そんなに俺が嫌いか? でも俺はお前が好きだ」
「……ん……なのッ……知らね……俺はッ……」
「波濤、素直になれ。お前だって本当は俺を好きだろう? 何をそんなに頑なになることがある」
「勝手……なこと、抜かしてんじゃ……ねぇよ。俺がいつお前を好き……だなんて」
「お前を見てりゃ分かる」
「何が……どう分かる……ってんだよ」
「波濤――抱きたい。今すぐお前が欲しい」
 ゾクゾクと背筋を這い上がる欲情の兆しに、波濤はそれらを抑えんと唇を噛み締めた。

「……金っ……取るぞ……っ」

 そんなことを言うつもりではなかった。
 『そんなにヤりたいのなら、この前みたく金を取るぞ』だなどと本心から思ったわけじゃ決してない。
 だが、焦りのせいか、怜俐な言葉だけが先走ってしまうのをとめられなかったのだ。

 本当のところをいえば、龍に流される自分を目の当たりにするのが怖かっただけかも知れない。
 龍の気持ちを受け入れて流されても、その後のことを思い描いては、臆病になっている。のめり込んだ挙句、もしも飽きられたらどうしようとか、気持ちにすれ違いが生まれたりしたらどうしようなど、マイナス思考ばかりが脳裏を侵す。
 そんな気持ちの裏返しからか、思ってもいないような残酷な台詞が口をついて出てしまったのだ。
 申し訳ない、悪かった、そう思いつつも、自身の放った信じ難いひと言へのショックの為か、波濤は謝罪どころか言い訳すら口にすることができなかった。唯一できるのは、小刻みに身を震わせることだけだ。
 そんな様子に龍はわずかに瞳をしかめ、甘い抱擁を止めた。額と額をコツンと合わせたまま、
「分かった。お前がそれでいいなら払うぜ、金……」
 まるで落ち着き払った、ともすれば感情のないような声音でそう呟いた。
 その直後、いきなり手首を掴み上げられたと思ったら、引き摺られるようにして寝室へと連れて行かれた。酔っているにしてはしっかりとした足取りで、しかも早足だ。
 そんなどうでもいいようなことが目に付くのは、自身の放ってしまった言葉の衝撃がそれほど大きかったからだろうか。とにかく波濤は言われるまま、されるがままに龍に引き摺られ、気が付けば彼のベッドの上へと投げ出されていた。
 今までとは打って変わった狂暴な視線が射るように突き刺してくる。


◆5
「よせっバカ……龍ッ……! 服、破れる……っ」
「いい、弁償してやるから気にすんな! このシャツも……ベルトも、全部弁償すりゃ文句ねえだろうが!」
 どうせ金を払うんだ、だったら服の一着や二着増えたところでどうってことはねえ。まるでそう言わんとばかりに睨み付けてくる視線の端に、ひどく傷付いたような感情が垣間見える。
 ボタンが弾けて飛ぶ程にシャツを引き千切られると同時に、乱暴に引き抜かれたベルトの革が軋《きし》んでヒビが入るほどの勢いで両腕を括《くく》り上げられた。彼自らもシャツを脱ぎ捨てて、癪に障ったようにジッパーを下ろし逸《はや》った雄を露にする――そんな龍の表情は、複雑な気持ちを色濃く映しながら歪んでいた。
 噛みちぎるように胸の突起を舐め上げられ、ボトムも下着も一気にずり下ろされて、まるで犯《ヤ》るだけが目的の強姦そのものだ。身体中のどこかしこに容赦のない深い爪痕が散らされていく。

 心無いひと言が彼をこんなに狂暴に駆り立てた。
 原因は自分だ。

 そう思うといてもたってもいられずに、だが今更都合のいい謝罪の言葉など浮かぶはずもない。波濤の瞳からは大粒の涙が滲み出しては、こぼれて落ちた。
「……っ……うっ……」
 抑え切れない嗚咽と共に、しゃくりあげるように泣き崩れていく波濤の肩の震えで、龍はハッと我に返った。



◇    ◇    ◇



「波濤……?」
 肩を震わせ、背を丸め、泣き濡れる瞳がぐっしょりと潤んでいた。龍は驚き蒼白となると、
「……済まねえ……ついカッとなって……」
 自分でも驚愕だというように声をうわずらせてそう謝ると、震える肩ごと抱き包むように額と額とを突き合わせて謝罪した。

――悪かった。

 重ねられた頬と頬とが涙に染まる。
 白いシーツに伝ってこぼれるのはどちらの涙なのか、或いは双方の滴《しずく》が溶け合ったものだったのかも知れない。
「ご……めん、俺の方こそ……あんなことっ、言うつもりじゃなかっ……」
 堪らずに、波濤は龍の胸へとしがみついて謝った。

 あんなことを言うつもりじゃなかった。本心じゃないんだ。
 本当はこんなふうになることを望んでいた。
 今日も――もしかしたら強引に、あの夜のように求められることを期待していなかったわけじゃない。それなのにどうして俺は素直になれないんだろう、どうして気持ちとは反対のことばかり投げつけてしまうのだろう。
 ただの臆病というだけじゃない。俺には素直にお前の気持ちを受け入れられないワケがある……。
 その腕に飛び込めない理由があるんだ。

 そんな思いを封じ込める代わりに、声を上げて泣き濡れた。逞しい胸板で涙を拭うように、云えない言葉に代えて泣き濡れた。
「……けよ……抱けよ龍、俺の……ことが……嫌いじゃねえなら……」

――せめて今だけは全部お前のものにして欲しい。



◇    ◇    ◇



 激しい想いをぶつけ合うように二人は無心で互いを貪り合った。
 熱と熱とを、滾《たぎ》りと滾《たぎ》りとを溶け合わせるように求め合った後、白々とし始めた窓の明かりに瞳を細めながら二人は身を寄せ合っていた。

「悪かった……結局暴走しちまった……」
 身体は大丈夫かとばかりにやさしく何度も髪を撫でられるのが心地よい。背後からすっぽりと抱き包まれるのがこんなに気持ちのよいものなのか、ぼうっとそんなことを考えながら波濤は穏やかに瞳を閉じていた。
 確かに身体はダルいし、腰は重い。けれども気持ちはあたたかく穏やかで、深い幸せを感じさせてくれる。
「波濤……好きだぜ。お前が好きだ……」
 頬擦りをしながら耳元で囁かれる声が、僅かに掠れていて甘やかだ。この声をずっと聞いていたい、ふとそんな衝動に駆られる。いつまでもずっと、もしも叶うものならば聞き続けていたい。
 波濤は切々とこみ上げてくるそんな感情とは裏腹に、それを隠さんとばかりに明るさをつくろって龍を振り返った。
 そして少しおどけたような調子でクスッと笑ってみせる。
「俺さ、昨日のおねだりゲームん時……お前に口移しをねだってる子を見た時さ。なんかすっげ苛ついたっつか……頭ン中モヤモヤして、ぐちゃぐちゃって感じになった。皆、盛り上がってんのに一緒にはしゃげねえっつーか、それって何だろな?」
「――好きってことじゃねえ?」
「え……?」
「お前も俺を好きになった。だから妬けた」
「はは……! そりゃ逆だろ? あんな可愛い子に口移しなんて許せねえって方で頭きたってのがフツーじゃねえ?」
「は――、そっちかよ」
 利き腕で腕枕を作ってくれつつ、もう片方の手を自らの額に当てて、『参ったな』というように鼻先で笑う。そんな仕草に心の奥がキュッとつままれるように甘く痛んだ。
「嘘だ……よ」
「――ん?」
「ホントは……ちょっと……妬けたかな」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で波濤は言った。
「ん、聞こえねえよ。波濤?」
 髪に指を絡ませ、愛しげに微笑《わら》う。ずっとこの腕の中で温もっていたい――心からそう思った。
「龍、俺さ……」

 ホントはすっげえ妬けた。ボトル一本で堂々とお前に触れられてキスされて、羨ましいって焦れたんだよ。

 そんな想いを自分の胸の内だけにしまい込んで、波濤はクスクスと笑った。
「何だ、おかしな奴だな」
「いいじゃん、別に。俺、もともとおかしなヤツだし」
「じゃあ、もっとおかしくしてやるか? ん――?」
 龍はまるで甘やかに、もう一度するか――と言いたげに悪戯そうに笑った。
「……ったく、この絶倫野郎が……!」
「いいじゃねえか。お前だってその方がいいだろうが」
「良くねえって、バッカ……」
 互いの額や鼻先、頬を軽く突き合いながら笑い合う。布団の中でじゃれ合うこんなひと時がこの上なく幸せだと思えた。
 にじみ出す涙が抑えられないほどに――幸せだと思えた。


◆6
――なあ龍、お前に言ってないことがある。
 俺のすべてを知りたいって、お前確かそんなことをほざいてたよな?
 俺のことが好きだって、今もそんな戯言を言ってるよな?
 例えすべてを知ったとしても、お前は同じ台詞を云ってくれるだろうか。
 お前にすべてをさらけ出せない、
 素直にその気持ちを受け入れられない、
 その理由を話すことをためらうほどに、すっかりお前にのめり込んでる自分が怖えよ。
 お前の言う通り、その例えようのない魅力に嵌っちまってる自分が怖い――


 頭では突き放し、心が求めてやまないその腕の中にすっぽりと顔を埋めて、波濤は切なげに唇を噛み締めた。ほんの少しでも気をゆるめたならば、すぐにもにじみ出しそうな涙をグッと堪えて噛み締めた。
「龍……」
「ん、何だ?」
「眠《ねみ》ィ……このまんま寝ちまっても……い?」

(今夜は帰りたくないんだ。一人の部屋には……帰りたくない)

 そんな思いを抱擁に代えるように、波濤は自ずから龍の首筋に両腕を回して抱き付いた。
「お前と一緒に……眠りたい……お前に……」


 甘えていたい。こうしてずっと、いつまでも。
 もしも叶うものならば、このまま時が止まってしまえばいいのに――!


 まるでしがみ付くようにギュウギュウと抱き付いてくる波濤を抱き返しながら、龍の方はその髪に口付けた。
「もちろんだ。何ならずっとここで寝るか? 大歓迎だぜ?」
「バッカ……戯けたこと……言いやがって……」
「酷えな、俺は本気だぞ?」
 とびきり甘やかな声音が感動とも欲情ともつかない不思議な感情を揺さぶるようだ。クスッと笑いながら頬擦りされた首筋に軽い髭の感触を覚えて、甘い疼きにギュッと心が震えた。
 心地のよいこの時間がずっと続けばいい。
 不思議な安堵感のある腕に抱き締められながら、しばしの安息を味わいたいというように、波濤はそっと眠りについた。
 龍はその寝顔を見つめながら、やがて微かな寝息が聞こえてくるまでユルリユルリと髪を撫で続けていた。


――なあ波濤、お前は何を怯えている?
 何を隠している?
 お前の心が既に俺にあることは訊かずとも分かる。
 俺がお前を本気で好いていることも、お前はちゃんと理解できているはずだ。
 なのにお前はその想いを遠ざけようと必死になっている。
 何がお前にそうさせている?
 何がお前の気持ちをせき止めているのか、
 それは俺には言えないことなのか、
 それとも、察してやれない俺が馬鹿なのか――


 腕の中で静かに寝息を立てている愛しい男を見つめながら、龍もまた、切なげに瞳を細めた。
 ふと、まぶしさに視線をやれば、窓の向こうに明けてくる空が一日の始まりを告げている。
「そういや……あの時もこんな夜明けの空を眺めていたんだったな――」
 龍は波濤を起こさないようにそっと小声で呟いた。


 『清々しくて自由で素晴らしい夜明けだろう? もしも羽が生えていたら、飛んでみたくなるような空だよね。僕にはね、どうしてもこの空を見せてあげたい奴がいるんだ』


 幼い頃からの親友で、腐れ縁の悪友で――仕事に於いてもプライベートに於いても、かけがえのない友。
 元伝説のホストと言われ、”帝”という異名を取ったほどの男――粟津帝斗からそう打ち明けられたのは、三月《みつき》ほど前の夏の朝のことだった。

- FIN -

 次エピソード『Night Emperor』です。



Guys 9love

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