club-xuanwu

7 Double Blizzard



◆1
 club-xuanwuのオーナーである粟津帝斗が、ホストの龍を伴って少々遅い店入りをしたその時だった。
「オーナー! おはようございます。ちょうど良かった! 今……お電話しようと思っていたところなんです」
 フロアマネージャーを務める黒服の男が、何やら焦った様子で駆け寄って来たのに、オーナー帝斗は首を傾げた。
「どうした。何かあったのか?」
 とにかくは話を聞かんと穏やかにそう尋ねる。
「はい、あの……波濤さんが……」
 少々蒼白な表情で黒服がそう切り出した瞬間、
「波濤がどうした」
 帝斗の背後にいた龍が険しい表情でそう訊いたのに驚いて、黒服の男はますます焦った声音を震わせた。
「はい、あの……少し前にご新規で男性のお客様が四名様ほどお見えになられたんですが、その方たちに連れて行かれてしまいまして……」
 その説明に帝斗は無論のこと、龍がただならぬ様子で眉をしかめた。
「連れて行かれたってどういうことだ!」
 そう問う声もそこはかとなく厳しい。黒服はオタオタとしながらも、できるだけ詳しい状況を語り伝えた。



◇    ◇    ◇



「この店、男の客も入れるんだろ?」
 明らかに常連客ではない男の四人連れが、ふてぶてしい態度でナンバーワンの波濤を指名してよこしたのは、つい一時間ほど前のことだった。
「……いらっしゃいませ。はい、勿論でございますが……お客様、当店にお越し戴くのは初めてでいらっしゃいますか?」
 何だか良からぬ雰囲気の男たちを目の前にして、少々緊張しつつも平静を装い対応した。
「何? ここって一見はお断りなわけ?」
 他の三人を背に従えながら顎をしゃくり上げ、侮蔑丸出しといった調子で訊いてよこす男は、パッと見たところあまり好ましくない客である。が、だからといって無碍《むげ》に扱うわけにもいかない。とりあえずは丁寧にマニュアル通りの応対を心掛けるしかなかった。
 するとその男は店の入り口に並べられたホストたちのパネルを見渡しながら、薄ら笑いを浮かべてこう言った。
「この……ナンバーワンの”波濤”っての? こいつがいいや。指名してやるからすぐに呼べや」
「……波濤でございますか。申し訳ございません、ただいま波濤は別のテーブルに付いておりまして、少しお待ちいただくか、よろしければ他のホストでも……」
 極めて丁寧を装いつつ、そううながした側から、少々苛ついたように『却下!』と強い語尾で返された。
 さて、どうしたものだろう――正直なところ、得体の知れない新規の、それも男性ばかりが四人という異例の客の要望に頭をひねらされる。だが、考えあぐねる時間さえも取り上げるように、客の男はズケズケと店内に歩を進め出してしまった。
「なあ、ここって個室はねえのか?」
「……は、ご用意してございますが……」
「じゃあ、そこ使わしてよ。それと酒、ルイ何とかってのでいいや。あとフルーツ盛りとー、つまみを適当に見繕えや。そうだな、こっちは野郎が四人だし腹空かしてんだ。豪華に盛ってきてくんない?」
 男の指定した酒は店でも”超”が付くほどの高額な部類に入る。メニュー表も見ない内からスラスラとオーダーを言いつけてくるところを見ると、こういったクラブ通いに慣れた客なのだろうかと、黒服はまた頭をひねらされるハメになった。幸い、個室は上客専用なので、今は空いている――これは一先ず要望を聞き入れるしかないだろうかと思案を巡らせていた――その時だった。
「あと、すぐに波濤ってのを呼んで! 金に糸目は付けねえからよ」
 男はニヤリと不敵に笑うと、まだ勧めもしない個室のドアを自ら開けて、有無を言わさずといった調子でドカリとソファに腰掛けてしまった。そして、連れの男三人にも遠慮せずに座れと顎をしゃくる。
 致し方なしに、一旦はフロアへと下がるしかなかった。

 その後、波濤に事情を説明するも、どうやらフロア内でも今の入店の様子を見ていた者がいたようで、割合中堅ホストの純也ともう一人が心配そうに駆け寄ってきた。
「あの客、何なんスか? 良かったら俺らヘルプに入りましょうか?」
 彼らはこの店でも常にナンバーテン内には顔を揃える実力者である。波濤の後輩に当たり、新人の頃から彼のヘルプに付いて色々教えてもらった恩もあるのか、本当に心配そうにしていて、役に立ちたいという思いが痛いほど伝わってくる。
 黒服もその方が安心だと思い、一先ずは純也らの好意に甘えることにした。


◆2
 ところが――だ。
「あー、ヘルプはいらねえから! 下がってくれていいよ」
 個室に着くなり一掃で追い返されてしまった。
「無理言って店のナンバーワンを借りようってんだから、そんなに何人も付いてもらっちゃ悪いだろ?」
 男はせせら笑いながら、これでも気を遣ってやっているんだとでも言いたげである。そこへ他のテーブルを抜けて一先ず挨拶をと、顔を出しに波濤がやって来た。
「ご指名ありがとうございます。波濤です」
 黒服はもとより、純也らも心配なので、例え追い払われようと未だにその場を動けずにいた。
「あの、こちらのお客様がヘルプは必要ないとおっしゃられるんですが……」
 コソッと波濤に耳打ちする。波濤の様子から、どうやら彼の方もこの四人の男には見覚えはないようなのが分かった。つまり、本当に単なる新規のお客というわけなのだろうか。
 彼らの図々しさからして、ひょっとしたら波濤の知り合いか、何か因縁があるような訳有りの間柄にも思えたのだが、違ったようだ。こうなればとにかく様子を見るしかないだろうか――一同は一先ずこの場を波濤に託すことにしたのだった。


◇    ◇    ◇


 黒服らが去って行った個室で、波濤も戸惑っていた。
 新規の客が店先のボードを見ただけで自分を指名したと聞かされたが、単にそれだけではないような不気味さがあるのは否めなかったからだ。だが、やはり心当たりはない。
「では失礼して、お飲み物を作らせていただきますね。ストレート、ロックなどのお好みはございますでしょうか?」
 極力笑顔を装って、高額ボトルの封を切る。四人の男の中でも頭的存在の客に先ずはそう訊くと、全員ロックで作ってくれと返答があった。
 とりあえずは全員分の酒を作り、それぞれの席の前へとグラスを勧めた。タイミング良く、ちょうどつまみのディッシュとフルーツの盛り合わせが運ばれてきたことに内心ホッとする。運んできたボーイも事の成り行きを聞いているのか、若干緊張の面持ちである。
「ナンバーワンのあんたに酒を作らせちまって申し訳ねえからさ。代わりと言っちゃ何だが、あんたの酒は俺が作ってやるよ。ロックでいいかい?」
 ニヘラニヘラと気持ちの悪い笑みを浮かべながらも、一応は客である男がそう言うので、波濤は『有り難いです』と返して微笑んでみせた。
「じゃ、乾杯しようか。お前らも、それから波濤さん? あんたも遠慮せずにやってくれ」
「――いただきます」
 客の男に勧められたグラスに口を付けて、つまみなどを各人に取り分けるのも波濤の仕事だ。普段はヘルプのする役目だが、今この部屋にはホストは波濤一人なので当然そうなる。めったに無いことだが、正直どういった会話から切り出していいか戸惑ってもいたから、何かすることがあるのは有り難かった。
「どうぞ――」
「ああ、さんきゅー」
「お客様は当店は初めてでいらっしゃいますか? ご指名いただいて光栄です」
 如何に苦手だろうが、客は客だ。波濤はにこやかに会話を向けた。おかしなことには、この間《かん》、この場の誰もが雑談のひと言も発しないということだった。ただひたすら互いを目線だけで見合いながら、時折ニタニタとした下卑た笑みを浮かべ合うだけなのが、ますます気味悪い。このまま会話が続かなかったらどうしようと、少々気重に感じていたその時だった。
「ところで――今日俺たちがここへ来た意味、分かる?」
 先程から場を仕切っている男の方から切り出されて、波濤はハッと顔を上げた。
「俺たちは別に酒を飲みに来たわけでも、ホストと遊びに来たわけでもねえんだよねー」
「……えっと、それはどういう……」
「あんたに用があって来たんだ」
「俺に……ですか?」
「平井菊造を知ってるだろ?」
 突如切り出されたそのひと言に、波濤は顔色を変えた。
「……はい、存じております」

 平井菊造というのは波濤の腹違いの兄に当たる人物だった。
 今は亡き母親の雪吹冴絵が恋に落ちたとされている平井剛造の一人息子である。国内でも有数とされる財閥当主の嫡男が菊造というわけだ。波濤にとってはあまり耳にしたくはない名だった。
 菊造とは年齢も二歳ほどしか違わない。母親の冴絵が病死したのは、波濤が物心つく以前の幼子の時分だったが、いわば妾の立場である冴絵が、当時どれだけ肩身の狭い思いをしていたかということすら、波濤は見聞きしていないまま他界してしまったのだ。
 その後、父である剛造の元で暮らすことは許されず、両親が出会った香港の地での共通の知人であった黄《ウォン》氏に引き取られて育ったわけだ。その黄氏が老衰で亡くなる直前に聞かされた、実の父である平井剛造に一目会いたいと日本へやって来たのだが、それを阻んだのが他ならぬこの菊造であった。


◆3
 菊造の言うには、自分から父親を奪った冴絵と波濤を許すことはできない。本妻である自分の母も、夫の不倫に酷く心を痛めて塞ぎがちだ、だから慰謝料として毎月決まった額の金を払ってもらいたい――そう要求されたのがホスト業界に入るきっかけだった。
 香港で生まれ育った波濤にとって、初めて訪れた日本の地で即金になる仕事など思い付こうはずもなく、そんな時、インターネットで知ったのがホストという職業だった。
 黄氏の下で暮らしていた波濤は、将来大人になった時に一人で生きていけるようにと、ディーラーの技を教え込まれて育った。が、この日本でそれを発揮できる職場は見つけられなかった。かといって香港に帰ることは、菊造によって猛反対されてしまった。すぐに手の届かない海外になど逃げられたら慰謝料が取れないと踏んだのだろう、致し方なく日本の地に留まることを決意したのだった。

「あんたさ、ここ二ヶ月ばかり菊造さんに支払う金が滞ってるっていうじゃねえの。どうなってんのか訊いて来てくれって、俺たちはそういう用件で今日あんたに会いにやって来たってわけ」
 なるほど、そういうことだったのか――この男らの、客としてはそぐわない雰囲気の理由が分かっただけでも納得だが、正直波濤は返答に困らされることに変わりはなかった。
「すみません……払いを待ってもらってるのは本当です。ですが、ちょっと工面が間に合わなくて……もう少し時間をいただけないでしょうか」
 唇を噛み締めたいのを抑えながら、波濤はそう言った。
「時間……ねぇ」
「すみません……」
「あんた、ここのナンバーワンなんだろ? 相当稼いでんだろうが。女や遊びに使う金をちょっと我慢して融通するだけでいいんじゃねえの?」
「いえ……正直、生活費でギリギリなんです。あとは全て菊造さんにお渡ししています」
「ふぅん、あんたも苦労してるってわけか」
「金は……必ずお渡しします。ですからもう少しだけ時間をくださいと……」
「そうやって今月分を繰り越したにしても、来月はどうすんのよ。どんどん借金が膨れ上がるだけじゃねえの?」
「それまでには……何とかします」
「何とかだー? そんなん、信じられるかよ」
 確かに――返す言葉もない。
「ま、いいや。今日はそんなあんたに即、金になるいい仕事を紹介してやってくれって。菊造さんにそう頼まれて来たわけよ」
 その言葉に波濤は思わず顔をしかめさせられた。
「仕事……ですか?」
「そう! この後ちょいと付き合ってくんない? 少し早めのアフターってことで、店には適当に言って出られるだろ!」
「ですが……急にそう言われましても……」
「あんたに選択肢なんてねえはずだぜ? 先月と今月の分、合わせて四百万を超すって聞いてるけどな。あと半月もすりゃ来月になっちまうだろ? そしたら六百万超えてくるぜ?」
「――――ッ、それは……」
「何、上手くすりゃ超短時間に大金稼がせてやろうってんだ。悪い話じゃねえだろうが。そう迷うこたぁ、ねえだろ? おとなしく付き合いなって!」
 そこまで言うと、男は連れの三人に『行くぞ』と顎をしゃくって合図し、有無を言わさずといった調子で立ち上がった。
「おら! 早くしな! とにかくおとなしく付いてくる方が身の為だぜ?」
 下っ端らしき男らに両腕を抱えられるようにしながら無理矢理立ち上がらせられた。

 部屋を出ると即座にフロアマネージャーの黒服がすっ飛んでやって来た。他のホスト連中も個室内の様子が気になっていたのか、チラホラと視線が集まってくる。
「おい、この野郎を客たちに見られねえように注意しろ」
 頭らしき男が、波濤を拘束している後ろの三人にそう耳打ちする。男たちは急ぎ足でフロアを抜け、出口へと向かった。
「あの、お客様……! 如何なされましたか」
 店の入り口扉の手前に立ちふさがるようにして黒服が割って入った。
 彼らが入店してから、まだほんの三十分程しか経ってはいない。しかも波濤が男らに引き摺られるようにして取り囲まれている様子にも焦りを隠せないといった表情で、黒服は眉をしかめた。
 そんな様子をごまかすように、
「なぁに、ちょっと早いがアフターに行こうって話になってね。あー、それと今日の払いはこの波濤君にツケといてね!」
 男はまるで逃げるようにして黒服を突き飛ばし、あしらうと、連れの三人に退路を塞がせるようにしてサッサと店を出て行ってしまった。
「あの、お客様! お待ちください……!」
 ただならぬ様子に、黒服とてみすみす引き下がれるはずもない。
「波濤さん! 待ってください!」
 さすがに不味い雰囲気に、躊躇せずに客らの腕を掴んで引き留めんとしたが、
「邪魔だ、退け!」
 本性を現わした三人の男たちに再度胸ぐらを押されてしまった。
 肝心の波濤とはひと言も言葉を交わすことができないままで、行く手を阻まれてしまう。ようやくと店の入り口に出たと思いきや、待機していたらしいワゴン車に押し込まれるようにしながら波濤が連れ去られてしまうのを、目視するだけで精一杯であった。


◆4
「……クソッ! 波濤の携帯の電源が切られてやがる……!」
 黒服からの説明を聞き終えた龍が、そう舌打ちをした。GPS機能で現在の居場所を突き止めようとしたのだが、肝心の電源が入っていないのでは役に立たない。波濤を連れ去った男たちの仕業だろう、彼らもなまじ素人ではないということか――。
「仕方ねえ、まだそう遠くへは行ってねえだろうから……手当たり次第に網を掛けるしかねえか」
 龍はすぐさま携帯電話を取り出すと、
「俺だ。直ぐに車を回せ! ああ、帝斗の店の正面だ。それから――今、動ける者を全員集めて、店から半径二十キロの範囲内を徹底的にマークしろ。ああ、そうだ、至急だ! 波濤が連れ去られた。黒のワゴン車を全て当たれ。ナンバーは……」
 電話の相手に険しい表情で指示を伝える彼は、いつもの雰囲気からは逸脱して別人のようだった。まあ、普段から他人を寄せ付けない、取っ付き憎く気難しげな雰囲気ではあるものの、今はオーラが全く違う。会話の声音からしても、ともすればマフィアの抗争でも始まるんじゃないかというような、凄まじい緊張感を纏っている彼に、黒服をはじめ店のホスト連中は唖然とさせられてしまったほどだった。
 そこへ、ざわつき始めたホストたちを掻き分けるようにしながらオーナー帝斗がやった来た。波濤が接客させられていたという個室の様子を確認して、龍の元へと戻って来たのだ。
 帝斗は龍の腕を取ると、
「車は呼んであるな? では行くぞ」
 黒服らに後を任せて、急ぎ戸口へと向かう。店頭には龍が呼んだ車が既に到着していた。
 一目で高級車と分かる黒塗りの外車である。帝斗と龍の後を追い掛けて来た黒服らでさえ、思わず目を丸くしてしまう程に磨き抜かれている――まさにピカピカという言葉しか出てこないような代物に、一同は緊急事態も忘れて呆然とさせられてしまったほどだった。
 一応、ホストクラブのオーナーの車だから運転手やお付きがいてもおかしくはないのだろうが、それにしても雰囲気はまるでどこぞの頭領が乗るような高級車だ。しかも、よくよく考えてみれば、この車を呼んでいたのはオーナーではなくホストの龍だったはずである。如何にナンバーワンといえども、こんな車を乗り回せるほど稼いでいるのだろうかと思わないでもなかったが、この龍になら有り得そうである。

「波濤の行き先なら心配はない。GPSで既に居場所を突き止めたよ」
「何――!?」
「大丈夫。彼らの車はすぐに追えば問題ない距離にいる」
「おい、帝斗! 分かるように説明しねえか!」
 運転手の他に車の扉を開けて待っていた精悍な雰囲気の男に「やあ、世話になるね」と軽く会釈をしながら車に乗り込んだ帝斗に、龍は少々焦り口調で問い質した。
「居場所が分かったってどういうことだ! あいつの携帯は電源が落ちてて……」
「こういう時の為にもうひとつの手段を残しておいたのさ」
「もうひとつの手段だと?」
「ああ。僕が以前、波濤に贈った宝石付きの名刺入れにGPSを仕込んでおいたんだ」
 少々得意げな帝斗の言葉に、龍は思い切り眉をしかめた。

 扉が閉まると共に音もなくといった調子で静かに、だが且つスピーディに車が滑り出すのを見送りながら、ワラワラと野次馬化していたホストの内の誰かがふと口走った。
「龍さんて……やっぱ本場モンのマフィアだったんだろか……」
「……ああ、ンなワケねえって分かってても、そう思いたくもなるよな。まさに”頭領”ってオーラだったし」
「運転手付きだったし、ちょっと強面の付き人もいたじゃん。あれって龍さんの部下かなんか?」
「そんな雰囲気だったよな。兄貴、お疲れ様でやす――みたいな感じでビシーッと頭下げてたし」
「てか、あれってオーナーの付き人じゃねえの?」
「けど、車を呼んでたのは龍さんだぜ? それに、オーナーはあの付き人の男《ひと》に『お世話様』みたいに声掛けてたけど、龍さんは会釈すらしてなかったじゃん。ありゃ、自分の手下に対する態度以外の何ものでもねえって感じだったぜ?」
「はぁ……。てことは、やっぱり龍さんてただのホストってわけじゃねえってこと? もしか、本当にヤクザの跡取り息子とかだったりして」
「うへぇ、マジでか!」
 いつも皆でおもしろおかしく噂話に花を咲かせていた”仏頂面の頭領様”の正体を目の当たりにしたような心持ちで、一同はまたもやそんな会話に浮き足立っていた。
「けど、そんなら波濤さんも安心だな。すぐに行き先突き止められるだろうし、オーナーと龍さんが乗り込んで行けば怖いモンなしだろ!」
「だよな! ああ、波濤さんー、無事に戻って来てくださいよー! 今、頭領が迎えに行きやすからねー!」
 いつの間にか店頭にはホストたちであふれ、まるでお祭り騒ぎである。
「さあ! とにかく店に戻った、戻った! お客様を放ってこんなトコで油売ってる場合じゃないぞ、皆!」
 黒服に尻を叩かれたホストたちは、未だ冷めやらぬ想像を惜しみつつも、店内へと引き返したのだった。


◆5
 一方、車中ではオーナー帝斗が運転手に行き先を告げていた。どうやら波濤を連れ去ったらしい黒のワゴン車は、五キロ程先を走行中のようである。
「この分だとすぐに追い付けるな。念の為、お前さんが手配した他の車も二、三台こちらへ合流してもらっておくかい?」
「ああ、そうだな」
 帝斗の手際の良さに感謝はすれども、今の龍にとって思うところはそこではない。何故、波濤の居場所と行動を探るようなGPS機能付きの名刺入れなどを贈ったのか――理由が知りたいところである。いや、実際こうして役立っているのだから、結果的には有り難い以外の何ものでもないわけだが、拉致されるだなどということは本来稀な出来事といえる。何事もない平常時の――普段の彼の――行動を監視するようなことを何故帝斗がしていたのかが気になるところだった。
 しかめられた眉が崩れない表情の龍を横目に、帝斗はクスッと微笑むと、その理由を打ち明けた。
「波濤については気になることがあってね、お前さんを店に呼ぶ少し前からのことさ」

 波濤を指名する客は、その殆どが太客といわれる――いわば上客と呼ばれる客たちの中でも男性客がやたらと目立つことに違和感を覚え始めたのは半年ばかり前の頃だったろうか。
 人当たりも良く、抜群に整った容姿からしても女性客に引き手数多であろうはずの彼に、何故にこうも男性客ばかりが付くのかを不思議に思ったことから、波濤について密かに調べるべく気に掛けるようになっていった。
 その結果、波濤の出勤前の同伴には女性客がほぼ百パーセントを占める反面、終業後のアフターには男性客が八割方という、何とも奇妙な行動が浮かび上がってきたのだ。これは何か余程の理由があると踏み、興信所に波濤の身辺調査を依頼したのだった。

 その結果、波濤の生い立ちからホストになった理由を始め、彼が腹違いの兄である平井菊造から多額の現金を要求されている事実などが明らかとなったわけだ。帝斗はそれらの話をかいつまんで龍に話し聞かせた。
「僕がお前さんにホスト業を体験してみないかと誘ったのは、実はこれが理由なのさ。お前さんと波濤が同僚として親しくなれれば、彼のいい相談相手になってもらえるかと思ったからなんだ」
 帝斗の思惑がそんなところにあったというのも意外だが、それよりも何よりも、初めて聞く波濤の境遇に龍はひどく驚かされてしまった。
 彼とはもう幾度も身体を重ね合った深い仲だ。今では心も身体も惹かれ合っている恋人同士であると自負もしている。それなのに、波濤が抱えているそんな重荷に気付きさえしなかったことが悔やまれてならない。波濤自身からそういったことで困っているなどと打ち明けられたことも無論なかった。
 だが今にして思えば、波濤の常に他人に対して笑顔を崩さない明るさの違和感はこのことが理由だったのだろうかと思い知らされる気がしていた。それは初めて彼を見た時から気に掛かっていたことでもあった。

 波濤と出会った時の印象は、先ず何を置いてもその飛び抜けた容姿に目を引かれたということだ。そして、それが明らかな興味へと変わるのに左程時間は掛からなかった。
 無意識の内に視線が彼を追っていることを自覚し始めると、モヤモヤとしたその気持ちを払拭したくて自ら彼を家へと誘い、その夜の内に彼をこの手に抱いたのだ。と同時に彼の常時明るい性質や振る舞いが痛々しいくらい虚偽のようにも思えて、ひどく気に掛かってならなくなった。
 出会って間もなく自宅へと誘い、身体の関係を迫るなど、今から考えれば少々強引だったと思えなくもない。だが、それほどまでに興味を惹かれる相手に会ったのも初めてで、そういった意味でも波濤との出会いは運命的だったと言える気がしていた。その証拠に、惹かれ合い、心身共に求め合うようになり、今では彼なしの生活など考えられないくらいである。きっと彼よりも自分が彼を想う気持ちの方が強いのだろうことも自覚している。
 つくづく時間ではない――やはり”運命”なのだろうと思えていた。その出会いのきっかけを作ってくれたのがこの帝斗なのだから、これはもう恩という他ないだろう。
「つまり、お前は俺と波濤を引き合わせる為に俺を店に呼んだってわけか?」
「まあ、率直に言うとそういうことになるね」
 悪気のないその返答に、龍は一瞬苦虫を潰したかのような、何とも言い難い表情で帝斗を見つめてしまった。彼の含みのある笑顔はまるで全てお見通しだと言わんばかりでもある。

「お前――どこまで知っていやがる?」

 ふい、と龍は訊いた。すると帝斗はまたしても悪戯そうな、人の悪い笑みを浮かべながら飄々《ひょうひょう》と訊き返してきた。
「どこまでだって?」
「だから……俺とあいつの関係についてだ」
 どこまでをどう把握していやがるんだ――そう訊きたげな視線が暗い車中で射るようだ。帝斗はクスッと鼻を鳴らしてみせた。
「お前さんたちが互いに愛し合っている仲だ――ってことかい?」

――やはり気付いていたわけか。
 だが、龍にとって訊きたかったのは”そこ”ではなかった。


◆6
「俺と波濤を引き合わせて恋人同士にするのがお前の目的だったってわけか? なら、もしも俺たちが互いに興味を持たなかったらどうするつもりだったんだ」
 そう、もしも思惑が外れた場合、帝斗はいったいどうするつもりだったのだろう――と、思うところはそこである。
「僕は別に恋人になって欲しいと望んでいたわけじゃないさ。ただ、理解し会える同僚とか……そうだな、親友とか? そういった仲になってくれればいいとは思ってたよ。お前さんたちが恋仲になったのは正直なところ予想外だった」
 帝斗は笑った。そして、朗らかな笑みを次第に真摯に変えつつも、
「ねえ、白夜。失礼な物言いだったら許しておくれよね?」
 そう前置きをしてからこう言った。
「お前さんの母上も御妾母だろう? そして御父上はといえば……その右に出る者はいないというくらいの力を持った御方だ。同様に波濤のお父上も財閥当主で、実の母上はお妾の立場だった。お前さんら二人には共通点が多い。だから、お前さんなら他の誰よりも波濤を理解してやることができるんじゃないかと思ったんだ」
 帝斗の言葉にうなずけるところがある一方で、龍は薄く苦笑した。

 帝斗とは幼少の頃からの仲だ。今更、互いに対して何を言っても言われても、他意はないことを重々理解している。
 母親が妾の立場であるということも含めて、龍こと氷川白夜の生い立ちや素性を知っているのは、直近の親しい者と、友の中でも帝斗くらいである。当然、ホストクラブで一緒に働く同僚らには明かしてはいない。恋仲である波濤にさえまだ告げていなかったくらいだが、彼だけには折を見て話そうと思っていた事実だった。
 それはともかく、お前は妾腹の子だよな――などということを、面と向かって言ってよこすのはこの帝斗くらいしかいないだろう。が、龍が苦笑したのはそういった意味ではなかった。
「じゃあお前、もしも俺と波濤が親友だの仲のいい同僚だの――それにすらならなかったらどうするつもりだったんだ? いくら同じ職場に居たって野郎同士だ、馬が合わねえってこともあるぜ?」
 おもしろおかしそうに龍は訊いた。
「そうだね。その時は僕が手助けをするつもりだったさ。幸い、僕の家も財閥だから、波濤のお父上と僕の父は面識もあるだろうしね」
「お前の親父から波濤の親父に苦言を呈してもらうつもりだったってわけか?」
「嫡男の菊造氏が波濤に金の無心をしているという事実を、平井のご当主にやんわりとお伝えするつもりだったよ」
 その言葉に龍はまたひとたび眉をしかめた。だったら何故もっと早くにそうしなかったのかと思ったからだ。わざわざ自分をホスト業に引っ張り込んでまで波濤と親しくならせて、彼の悩み相談の相手になってくれればいいなどと、回りくどいことをせずとも良かったのではないか――と、そう思ったからだ。事実、波濤はその間もずっと腹違いの兄という男に金を工面し続けていたのだろうから、本来であれば一刻も早くそんな重荷から解放してやるのが先であるはずだ。
 帝斗は意地の悪い人間ではない。幼少の頃からの長い付き合いの中で、それはよくよく承知している。何の考えもなく、浅はかな選択をするような男ではないのだ。
 その理由を帝斗はこう説明した。
「波濤を金の無心から解放してやるだけならば、すぐにでも可能だった。だが僕にできるのはそこまでだ。彼の心の深いところまでは僕には踏み込めない。彼はやさしい人間だからね、義兄の菊造の悪事を父親が知ったらどう思うだろうとか、そういったところまで考えてしまう性質だろう?」
 確かにそうかも知れない。龍からしてみれば、自分が波濤の立場だったなら、菊造がどうなろうが知ったことではない。だが、波濤ならば例え自分に酷い仕打ちをした相手であっても、進んでその者の不幸を願うような性質ではないと思えるからだ。
 そんなやさしい心根の彼だから、これほどまでに惹かれたのかも知れない。改めて、龍は波濤という男に出会えたことの幸せを噛み締める思いでいた。そのきっかけを作ってくれた帝斗にも無論、感謝の心持ちだったのは言うまでもない。



◇    ◇    ◇



 そうこうしている内に波濤の名刺入れが発するGPSが、とある場所で停止状態となっていると助手席の男から報告があった。こちらもスピードを出して追い掛けていたので、もうすぐ目視できる所まで来ているとのことだった。龍も帝斗もそれまでの雑談をピタリと止めると、すぐさま精悍な顔付きになり、波濤の奪還に備えたのだった。

 ところが――だ。GPSが示す現地に着いてみて、二人を焦燥感が襲った。波濤を拉致したらしい黒のワゴン車は確かに停まっているものの、中はもぬけの空だったからだ。
 そこは割合大きな川沿いに面している場所で、周囲には工事中らしき建物が林立している。昼間はともかく夜半の今時分、まるで人の気配がしない場所だった。


◆7
「GPSはここを示しております」
 助手席にいた男が間違いないとそう告げる。後続車の連中も続々と追い付いてきて、皆で周囲を捜す内、不幸なことに黒いワゴン車の扉付近の路側帯に帝斗が贈った名刺入れが落ちているのが見つかった。
「クソッ……! 何てこった!」
 拉致した連中が、波濤をここで下ろしたのは間違いないだろう。その際に彼のスーツのポケットから名刺入れだけがこぼれてしまったのだ。
 八方塞がりではあるが、まだそう遠くへは行っていないはずである。一同は手分けして周囲を当たることにした。



◇    ◇    ◇



 同じ頃、波濤は建設途中のビル内にある一室へと連れて来られていた。
「……こんな所へ来て、何をさせようってんだ」
 割のいい仕事を紹介する、短時間で高額稼がせてやるなどと豪語していたにしては、こんな無人のビルなどに来てどうするつもりなのだろう。とりあえずは内装まで仕上がっているものの、まだ電気も通っていないような感じである。工事用に使われているのだろう簡易ライトだけが煌々としていて、直視すれば目が痛い程だった。
 嫌な予感しかしない中、それらを煽るような身体の変調に気が付いて、波濤は蒼白となった。急激に心拍数が上がるような、身体のどこそこが熱を持つような独特の感覚――過去にも体感したことがあるそれに、焦燥感がこみ上げる。
 それらを肯定するかのように、
「そろそろ効いてきたか?」
 自らを拉致してきた男のニヤけた言葉に、更に蒼白となった。
「効いてきた……って、どういうことだ……ッ」
「うーん、あんたにさっき作ってやった酒にね。ちょっといいモノを仕込ませてもらったのよ。多少よがってもらわねえと面白みがねえだろ?」

「――――ッ!?」

 男の言っている意味に気付いた時には既に遅かった。どこから集まってきたのか、数人の見知らぬ男たちが周囲を取り囲むようにしながら、ニヤニヤと気味の悪い薄ら笑いを浮かべているのに思わず後退る。
「へえ、めちゃめちゃイケメンじゃん。こりゃ、相当額売り上げ出そうだな!」
「ほーんと! どこでこんなイイ男見つけて来たんだよ。このタイプのよがり顔は、そっちが好きな奴にはプレミアもんだぜ!」
 何を説明されなくても分かる、もう淫猥な空気しか感じられないからだ。
 波濤は自らの変調を振り払うように怒鳴り上げた。
「あんたらッ……! 何させるつもりだ……」
 そんな態度も、目の前の彼らにとっては興味を煽るものでしかないのだろう、男たちはますますおもしろそうにニタニタと笑い始まった。
「たーまんね! なあ、普通にヤるだけじゃつまんねえからさ、いっそ強姦系で撮らねえ?」
「つか、輪姦《マワ》しがいんじゃね? イケメンが抵抗するシチュなんて最高の需要だろ!」
 やはり思った通りの展開か――即金になる仕事とは、いやらしい動画に出演させるというものなのだということに気付けども、もう逃げ道はなかった。波濤は極力、男たちから距離を取りながら、
「クソッ……! ふざけたことしやがって! 何が高額の仕事だ! こんなこと……犯罪じゃねえのかよ!」
 そう叫べども、焼け石に水だった。そんな様子を横目に、ここへさらってきた”頭”らしい男が侮蔑丸出しで口を挟んだ。
「今更、何を高尚なこと抜かしてんだよ波濤さん! あんた、いっつもアフターで男の客相手に枕営業してたんだろう? それにちょっと毛が生えただけのことじゃねえの! おとなしく撮られなって!」
 そう吐き捨てると同時に、撮影係らしき連中に顎をしゃくって早くしろと催促する。
「なぁに、今までの客連中にしてたことを他の奴らにも分けてやろうってだけの話よ! あんた、結構な人気者だったみてえだから、抱きてえって野郎はいっぱいいただろうしな? ま、実際お高くて買えなかったんだろうけど?」
 だから動画にして売りさばくとでもいうわけか、これからなされるだろうことを考えただけで、波濤は悪寒が走る思いだった。
「撮影の方は準備オッケーだ! 早くおっ始めようぜ」
 強烈なライトの眩しさに目をやられたと同時に、男たちが襲い掛かってきた。
 左右から拘束されて、背後には壁、前方にはカメラを抱えた男と照明を向ける男――逃げ場はない。この状況からどう逃れようかと考える暇もない。と、いきなり胸ぐらを掴まれたと思ったら、勢いよくシャツを破かれて意図しない悲鳴が漏れてしまった。
「……くあ……ッ! よせッ! 放せってんだよ……!」
「暴れんなって! おい、そっち、ちゃんと押さえ付けとけって!」
「つか、たまんね! もっと嫌よ嫌よってわめいてみ? その方が視聴者もソソられるんだって! なー?」
 男らは興奮した荒い吐息剥き出しで次々と容赦ない。裂かれたシャツの合間を割って首筋から胸元、そして脇腹へと悪戯がなされる。誰かの指先が胸飾りを掠めれば、『……ッう!』と不本意な嬌声が抑えきれなかった。
 先刻盛られた催淫剤のせいと知りつつも、自らの身体は自らの意思を裏切って、ドクドクと増すのは乱されたいと願う欲情ばかりだ。


◆8
「や……っ、っう……ああ……放……っ!」
「うはぁ、たまんね! すっげイイ声で啼きやがる……! おい、早く脱がしちまえって!」
「……やめろッ! よせっつってんだろうが!」
 乱暴にされる度に顔を出す欲情を振り払うように、波濤はひたすら叫び続けた。例えそれが凶暴な野獣共を更に煽り立てるだけだとしても、そうする以外に術はないのだ。
 こんな酷い状況の中で、ふと脳裏に浮かんだのは自らを育ててくれた黄老人のやさしい笑顔だった。

 笑っていなさい。どんなに辛い時でも他人にやさしく、思いやりを持てる男でいなさい。笑顔は皆を幸せに導いてくれるのだよ――

 そう言って、頼る身内のない自分にとびきりの愛情を注ぎ育ててくれた老人の笑顔を思い出せば、無情にも涙腺を緩ませた。

 じいちゃん――
 じい……ちゃん……!
 こんな時、あんたならどうするってんだ――
 俺は……どうすりゃいいんだ――!

 そしてまた一人、脳裏に浮かんだのは唯一人の男の顔だった。
 自らを求め、抱き、黄老人とは別の意味での愛を注いでくれた男の顔――

「……っ、う……りゅう……」


 龍ーーーーッ!


 無意識に、波濤は一人の男の名を絶叫した。この場にいない彼に、この声が届かないと知りつつも、例え幻でもいい、今すぐここに来て欲しいと願う気持ちを一心に込めた魂の叫びだった。

 その後も容赦なく、男たちは襲い来た。下肢を押さえ付けられ、ズボンをずり下ろされて、両の脚を開脚させられる。見下ろしてくるニヤけ顔の野獣たちが、逸ったように彼ら自身のベルトを緩めて舌舐めずりをする形相が地獄に思えた。と同時に自らを裏切る一人歩きした欲情が恨めしい。
「うっほ! 何だかんだ言って、あんたももう勃ってんじゃん、オニーサン!」
「ほーんとだ! 高そうなお洒落なパンツに沁みまで作っちゃってるぜ! 催淫剤効果、すげえな! 撮影係、ちゃんと撮っとけよ?」
「なぁ、おい! 突っ込む前にもうちょい遊んでやろうぜ。ちっとは可愛がってやんなきゃ色男のオニーサンも気の毒じゃね?」
 好き勝手な言葉が悪寒と欲情を増殖させる。
「……そ、クソッ……よせ! やめてくれ……頼むから……!」
 もう涙を隠す余裕もなく泣き濡れて懇願する波濤を見下ろしながら、男たちの興奮も最高潮に達していった。



◇    ◇    ◇



 同じ頃――
 どこかしこを捜せども静まり返って人の気配がしない建設中の建物の中で、龍と帝斗、そして龍が呼び寄せた男たちが必死に波濤の行方を追っていた。完成間近と思えるビル内には灯りが漏れていそうな所すら見当たらない。さすがに焦燥感が苛立ちを煽った、その時だった。上の階から物音がしたようだと龍の元に報告が入ったのだ。
「どの階だ!」
「はい、だいぶ音が遠かったので、結構な上層階かと思われます」
 聞くなり、龍は凄まじい勢いで階段を駆け上がった。
 各階毎に廊下を覗きながら捜す内に、とあるフロアの一室から薄明かりが漏れているのを発見して息を殺した。
 部屋に近付いてみれば、中には確かに人の気配――龍は間髪入れずに扉を蹴破った。


 悶々とした濁る空気が嫌悪感と焦燥感を炙るようだ。


 今の今まで、数人がいただろう気配を感じれども、そこには誰もいない。一足遅かったということか――そう思って更に部屋の奥へと足を踏み入れた瞬間、床に投げ出されていた眩しい程のライトが驚愕の光景を映し出して、龍は一瞬絶句させられた。
 そこには乱れた服装の波濤が、床に転がるようにして倒れていたからだ。

「波濤ッ――!」
 龍は絶叫と共に駆け寄り、愛しい者を抱き起こした。
「波濤! おい、しっかりしろッ! 波濤!」
 引き裂かれたようなシャツとジッパーの下ろされたスラックス、腹や胸には引っ掻かれたような傷痕があちこちに浮かび上がっている。何をされたのか、彼のこの格好を目にしただけで想像がついた。
 脳裏に浮かぶ腹立たしい光景に、煮えたぎるような怒りを抑えつつも、先ずは彼の容態を把握するのが先決だ。怪我はしていないか、意識はあるのかと身体中を探る。すると、
「……う、龍……じゃねえ……か、お前……」
 苦しげに顔を歪めながらではあるが、はっきりとした意識で波濤がそう言った。
「――ッ波濤!」
 とてつもなく安堵すると共に、何故もっと早く来てやれなかったかと後悔が自身を苛む――
 だが、そんなこちらの意に反して、腕の中の波濤は余裕のある表情でクスリと苦笑してみせると、
「来て……くれたんだ。さんきゅ……な、龍――」
 嬉しそうに言った。
「波濤、大丈夫か! 怪我はしてねえか? お前をかっさらった連中はどうした!?」
 ここには波濤しか見当たらない。では、犯人たちは既に逃げてしまったということだろうか。
「ん、あいつらはそこ……。隣の部屋でノビてる……」
 波濤は苦しげに息を上げながらも、自嘲するように顎先で扉口を指してよこした。その視線の先に目をやれば、確かにコネクティングルームのような次の間らしき部屋の扉が真新しいソファで塞がれている。まだビニールシートを被せたままの新品の家具類だ。それらで扉を塞いで、彼らを閉じ込めたというわけか。
「まさか、お前が……一人でやったのか?」
 波濤と扉口とを忙しなく交互に見やりながら龍は訊いた。


◆9
 扉の向こうは静まり返っていて、無音のようだ。ということは犯人たちは皆、本当にノビているということなのだろうか――
「……こんなこと、したくなかったけど……最後の手段使っちまった……」
 波濤は自らの腹を抱えるようにうずくまりながらも、バツの悪そうに笑ってみせた。
「相手は何人いたんだ。お前一人で片付けたのか……?」
「ん、全部峰打ちしたつもりだけど……暗かったし、俺は……思ったように動けなかったから……結構な重症負ってるヤツもいる……かも」
「峰打ちって……お前……」
 波濤が武道に長けているなどと聞いたことはないし、今までそんな気配を感じたこともない。龍はますます怪訝な思いに眉をしかめてしまった。
「じいちゃんが……教えてくれたんだ。いざって時の為の護身術だ……っつってさ」
「じいちゃん――?」
「ああ、俺を育ててくれたじいちゃん……。他人に暴力振るうなんて、あんま……したくねえけど……輪姦《マワ》されそうになって……仕方なくな」
 その言葉に龍はより一層険しく眉をしかめた。
「輪姦《マワ》し……だと?」
「ん、それ動画で撮って売りさばくとか抜かしやがるからさ。これはもうきれい事言ってる場合じゃねえって思って」

「黄大人《ウォン ターレン》――か」

 ポツリと呟かれた龍のひと言に、波濤は驚いたように瞳を見開いた。
「じいちゃんを……知ってるのか?」
 大人《ターレン》――という、目上の人を敬って呼ぶ言い方も――香港で生まれ育った波濤にしてみれば、ごくごく耳慣れたものではあるが、日本人の龍が当たり前のようにそう呼ぶのは少々違和感がある。
「な、龍……お前、何でじいちゃんのこと……」
「ああ、俺は会ったことはねえがな。俺の親父はよくよくの知り合いだったろうぜ」
 ニヒルに口角を上げながら、龍は笑った。
 先刻、ここへ来しなの車中で帝斗から聞かされた波濤の生い立ちの話の中で、彼が香港の”黄”という老人に引き取られて育ったことを知ったばかりだ。そして、その老人の名には聞き覚えがあった。自らの父親が懇意にしていて、よくその名を口にしているのを聞いていたからだ。
「大人《ターレン》がお前に護身術を仕込んでくれたお陰だな――」
 そうだ、波濤が淫猥な狼どもからその身を守れたのは、黄老人のお陰に他ならない。龍は心底安堵したように深い呼吸をすると、まるで黄老人に心からの礼を述べるように頭を下げて黙礼をした。そんな様子を波濤の方は不思議そうに見つめていた。
「……なあ龍、お前の親父さんて……香港に行ったことがあるのか?」
 今しがた龍が口走った『俺の親父と黄大人はよくよくの知り合いだった』という言葉。もしも龍の父親が香港に縁のある人物だったならば、先程の”大人”という呼び方にもうなずけるというものだ。
「仕事の出張とか、そういうの?」
 そう訊き掛けた時だった。扉の向こうで男たちが意識を取り戻したのだろう、『ふざけやがって』などとほざきながら、ドアに体当たりをするような鈍い音が響いた。そこへ、ちょうどタイミングよく帝斗たちが追いついてきた。
「龍! 波濤は見つかったのか……!?」
 部屋へと飛び込んで来るなり帝斗にも波濤の無事が分かったのだろう、ホッと安堵に表情を緩めてみせた。

「――帝斗、こいつを頼む」

 龍は自身のスーツの上着を脱いで波濤に被せると、帝斗に彼を預けて立ち上がった。うるさい狼どもを再び眠らせてやる為だ。愛しい波濤に不埒なことをしようとした獣どもを許し置けるはずがない。が、そんな龍の後ろ姿を見やりながら、
「龍……ッ、お前一人……そいつら全部で六人だぞ!」
 波濤が心配して咄嗟にそう叫ぶ。よもわくば龍と一緒に自身も参戦しようと身を乗り出すのを、側で帝斗が笑いながら制した。
「大丈夫。あいつなら一人で平気さ」
「けど、オーナー……」
「あいつも自分の手で落とし前を付けたいだろうしね。とにかく心配しないでいいから、僕らは先に階下へ降りていよう」
 帝斗は波濤に肩を貸して担ぎ上げると、一足先に車まで戻ったのだった。



◇    ◇    ◇



 龍が戻ってきたのは、それからほんの数分の後だった。犯人の男らに波濤を拉致した”礼”を自らの手で下すと、同行していた者たちに一先ず彼らを拘束させておいて、飛んで戻ったのだ。大事には至らなかったといえども、とにかく今は何を置いても波濤の傍にいてやりたいと思ったからだ。
 如何に波濤が武道に長けていようと、不安や恐怖が皆無だったとは言い切れない。嫌な思いもしたことだろう。龍はとにかく愛しい者の温もりを一瞬でも離したくはなかった。

 一方、波濤の方は龍の温もりを傍に感じたのだろう、しばらくは帝斗に支えられながらじっとしていたのだが、急に顔を上げて龍の腕を掴んだ。
「――どうした? どこか痛むのか?」
「ん、だいじょぶ……痛みとかはねえから。それより……龍、頼みが……あるんだ」
「何だ。何でも言え」
「ん、うん……さんきゅ」
 波濤は龍へとしがみ付くようにグイと引き寄せると、その耳元に唇を寄せて言った。
「……二人に……なりたい。今すぐ……お前と二人だけ……に」
 波濤の吐息は荒く、何かに耐えるように表情を歪めている。
 見たところ怪我を負っているふうでもないので、もしかしたら内傷を食らっているのかも知れない。先程から腹を守るように前屈みでいるのも気に掛かる。
「ごめ……龍、さっきあいつらに盛られた薬が……やべえ。俺、もう……」
「薬だと――ッ!?」
「ん、エロ……いやつ。あれのせいで……俺、もう我慢……限界」
 頬を赤らめながら懸命にそう訴える様子に、龍はハッと腕の中の彼を見やった。


◆10
(催淫剤か――!?)

 龍は素速くその意をくみ取ると、
「一番近いのは……ここからだとホテルzhuque《ヂゥーチュエ》だ! 急いでzhuqueへ着けろ!」
 運転手にそう伝えた。帝斗には後のことを任せて、後続車で先に店へと戻ってもらう。そして助手席では、龍に忠実な男が運転手にテキパキと指示を出す。ここへ来る時にも同様にいろいろとナビゲーション役をしていた男である。
「老板《ラァオバン》、ホテル最上階のプライベートルームを開けておくように伝えました。風呂もすぐに使えるように致しましたが、他に何か必要なものはございますか?」
 男は後部座席の龍にそう訊きつつ、運転手には『駐車場へ入ったら専用エレベーターで車ごと最上階へ』と指示を出した。

 ホテルzhuqueというのは、龍、もとい氷川白夜が経営している企業のひとつである。波濤が拉致されていた場所からは車を飛ばせば五分と掛からない位置だ。
 最上階のペントハウスは、経営者である龍のプライベートスペースとなっている。宿泊客の駐車場とは別に、車ごと登れる専用エレベーターが備えられていて、誰とも会わずに最上階へと着けられる仕様になっている。龍がホストになる前には、経営状態などの視察で、月に数度は寝泊まりに使っていたこともある部屋であった。

 そして龍のことを”老板”――つまりはボスという意であるが、そう呼ぶ助手席の男は何者なのか。波濤はおぼろげな意識の中で懐かしい広東語の混じった会話が、脳裏の奥深くでこだまするかのように余韻となっていくのを不思議に感じていた。



◇    ◇    ◇



 部屋に着くと、龍と波濤を残して助手席の男と運転手の男は下がっていった。
 とにかくは波濤を催淫剤から解放してやることが何より優先だ。龍は彼を姫抱きするように抱え上げ、ベッドルームへと連れて行った。
「何も心配するな。ここには俺とお前だけしかいない」
 波濤をベッド上へと寝かせると、間髪入れずに彼のスラックスを剥ぎ取った。
 よほど我慢していたのだろう、波濤の下着はぐっしょりと濡れて大きな染みがスラックスまでを湿らせていた。その先走りの液の量を見ただけでも、彼がどれほど辛かったのかが手に取るようだ。
「何も考えなくていい。俺に任せてお前は感じたままにしていればいい」
 龍はとびきりのやさしい声音でそう言うと、刺激を避けるように濡れそぼった下着を丁寧に脱がせた。
「……やっ、は……、ああああッ……!」
 我慢に我慢を重ねていたソコを晒されると同時に、波濤からは絶叫のような嬌声が漏れ出した。
 これ以上ないくらいに腫れ上がっている波濤の雄を掴み上げ、口淫で裏筋に舌先を尖らせながら舐め上げれば、ビクビクと太腿を震わせ、すぐに絶頂を放ってしまった。
「や……龍、ダメ……俺……また……くる……! ああッ、んっ、んっ……はぁ……」
 身体中を震わせながら、止め処ない快楽の波に抗えないことに少しの恐怖を覚えるのか、波濤の大きな双眸からは涙がこぼれ落ちる――龍はそんな様子を憐れに思えども、同時に愛しくてたまらない気持ちがこみ上げて、腕の中の恋人に持ち得るすべての愛情を注ぎ込んでやりたいと強く強く思ってやまなかった。

 殆ど萎えないままで、再び頭をもたげて張り詰めていく雄を舌先で愛撫しながら、竿を包み込むように愛しげにしごいてやれば、鈴口からはとっぷりと透明な液がこぼれ出す。未だ涙声で、波濤は言った。
「龍、好き――俺、お前が好きだ。お前の傍にいたい……ずっとお前といたい……もう……独りになりたく……ねえよ」
 それは初めて聞く彼の気持ちだった。幾度と身体を重ねようが、一度たりとて聞けなかった言葉でもある。
 今までは彼独特のプライドが邪魔してなのか、あるいは恥ずかしさが先に立ってからか、言う機会を逃しているのかとも思っていたが、それは違う。今なら彼の真意が分かる気がしていた。
 『好きだ』というそのひと言を、波濤は言いたくても言えなかったのだ。腹違いの兄、平井菊造に脅されながら金を無心され続け、その工面の為に客の男に身体を売っていたことで、誰かを好きになったり愛したりできる立場ではないと諦めていたのだろう。

 本当は――どれほど伝えたかっただろうか。
 どれほど縋りたかっただろう。どれほど甘えて寄り掛かりたかっただろう。
 波濤との逢瀬を重ねる中で、彼とは相思相愛であろうことは明白だった。だが、その気持ちを言葉で伝えてくれることはなかった。
 彼は我慢していたのだ。
 愛しいと伝えることもできずに、たった一人で恐喝に苛まれながら、それでも身体を繋ぐ時だけはその温もりを預けてくれていた。どれほど辛かったことだろう――そんな波濤の胸の内を思えば、龍は堪らない気持ちに全身を掻き毟られるようだった。
 普段はおおよそ見せることのない、龍の瞳にも涙が滲む――
「何も心配するな……。これからは俺がいる。ずっとお前の傍にいる。お前が迷惑だって言ってもぜってえ離してなんかやらねえ――! ずっと一緒だ、波濤。苦しいことも嬉しいことも全部俺に預けろ! 波濤……」


 愛している――


 ありったけの想いを込めて、龍は波濤を抱き締めた。


◆11
 龍の心からの言葉を聞いて、波濤は更に泣き濡れた。ボロボロと止め処ない涙が枕を濡らし、堪え切れなくなった嗚咽が両の肩を揺らす。
「ごめ……龍、俺……俺はお前に愛してもらえる資格なんかねえって……思ってる。いろんな客に身体売って……汚ねえこともいっぱいしてきた……。でも、でも……お前のこと諦め切れない……どうしようもねえ我が侭野郎なんだ」
 ヒック、ヒックと荒い息継ぎを殺すように絞り出される言葉に、龍は腕の中の華奢な身体を思い切り抱き締めた。
「謝るのは俺の方だぜ、波濤。お前の苦しみを知ろうともせず……ただ好きだの愛してるだのと、お前を自分のものにすることしか考えてなかった大馬鹿野郎だ。お前を苦しめてた菊造のことだって……」

――――!

 龍のそのひと言に、波濤は驚いたように瞳を見開いた。
「知って……たのか?」
 驚愕に揺れる大きな双眸から、再びボロリと大粒の涙があふれ出す。
「ああ、帝斗に聞くまで全く気付いてやれなかった。どうしょうもねえクズ野郎だがな……。これからは何も心配することはねえ。お前の苦しみは俺の苦しみだ。菊造のことも全て俺が引き受ける。俺たちは互いのことを知らなさ過ぎたな?」

 そうだ。好きだとか惹かれるという気持ちが先立って、肝心なことを見ようともしなかった。良く言えば、見る余裕がなかったというのが正しいにせよ、波濤を孤独の渦中に置き去りにしていたことに違いはない。
「お前に惚れ過ぎて、とにかく自分のものにしてえって、それしか頭になかった。こんなバカな俺だが、お前を愛してるって言葉に嘘偽りはねえよ。これからは辛えことも嬉しいことも二人で分かち合う。約束する」
 温かく大きな大きな掌で両の頬を包み込みながらそう言って瞳を細める龍を見上げながら、波濤はまたボロリと涙した。
「龍――好きだ。お前だけ……お前だけ――。もう他の誰とも寝たり……したくねえ。お前にしか触られたくねえ……」
「当たり前だ。お前を誰にもやったりするもんかよ――! お前は俺だけのものだ。俺もお前だけのものだ」

 力強い瞳が射るように見下ろしてくる。熱くて溶けてしまいそうな熱視線に見守られながら、波濤は目の前の逞しい胸板にすがり付いた。

「俺、俺……さ、お前と寝た初めての……あの日から……誰ともしてねえよ」
「波……濤?」
「……誰ともしたくなくて……アフターも全部断った……。金の工面が間に合わなくなるの分かってたけど、嫌だったんだ。お前以外の誰かと身体を重ねることが……すっげ辛かったから」
 そう、そのせいで菊造へ手渡す金が滞ったのだ。枕営業を止めた分、通常の店内営業だけで頑張ろうとしたが、もともと人の好い波濤のことだ。客の女性たちに無理をさせることもできなかったのだ。
 そんな波濤の心の内を聞いて、龍はますます愛しい想いに心臓を鷲掴みされるようだった。
「波濤――抱くぞ」
 重ね合った身体の中心、龍の雄もこの上なく膨張して、淫猥な薬を盛られた波濤以上にというくらい大きく硬く張り詰めていた。
「ん、うん……。俺も欲し……お前の」
「欲しいか――? 俺のが――」

 もしかしたら、また理性を失うくらい興奮して――お前に苦しい思いをさせるくらい激しい抱き方をしちまうかも知れねえが――

「勘弁な、波濤――」
「ん……」

 分かってる。大事に扱ってもらうよりも、そんな余裕がないからこその乱暴とも思える抱かれ方が心地いいんだ――

 二人は互いのすべてをもぎ取るように熱く激しく絡み合い、抱き合った。
 カーテン越しに窓の外が白々とするまで、休む間もなく求め合ったのだった。



◇    ◇    ◇



 波濤が目覚めたのは、すっかりと陽も暮れ掛かった夕刻のことだった。
 もう宵闇が降りてきそうな二月末の夕暮れ、春待ち顔の街の雑踏を遙か下に見下ろす大パノラマの窓辺に佇み、波濤はぼうっと夢心地でいた。
 目覚めた時、龍の姿はなく、昨夜とはまた別であろう真新しく糊のきいたシーツが設えてあるベッドにいた。昨夜、ここへ運び込まれた時には気付かなかったが、相当な高層階の――見たところ高級ホテルのような豪華な部屋だ。
 枕元にあった龍の直筆らしきメモを見つめながら、自然と頬が緩む。


*
 風呂を沸かしてあるから、入れるようならゆっくり浸かってこい。俺は所用で出掛けるが、すぐに戻る。電話しろな? そうしたらすっ飛んでお前の元に帰るぜ(`´)b

*


 見慣れない顔文字が使ってある。しかも手書きだ。
 どんな顔をしてこれを書いていったのだろう。あの龍が顔文字まで使ってこれを書いている姿を想像すれば、波濤は口元がほころんでしまうのを抑えられなかった。

 風呂を出て、用意されていた服をまとい、再びパノラマの窓辺に立てば、眼下はすっかりと夜の闇に包まれていた。所々にイルミネーションが輝き、行き交う車のライトが見事なほどに煌めく帯を作っていく。
 いつもの龍のマンションから見る夜景も大層なものだったが、ここはまた更に趣きがある部屋である。
「ひょっとして……この家もあいつの持ち物なのか……?」
 ポツリと独り言が漏れて、龍という男の素性を不思議に思う。そういえば彼は自らを育ててくれた黄老人のことも知っていると言っていた。昨夜はあんな状態だったのですっかり忘れていたが、考えれば考えるほど謎が増えるような気がして、波濤は一人首を傾げた。
 と、遠くに部屋の扉が開かれる音がして、『ご苦労だった』と、誰かに話し掛ける龍の声が聞こえてきた。


◆12
 まだ休んでいると思ったのだろうか、なるべく音を立てないような仕草で部屋の扉が開けられたのを感じて、波濤は出迎えるように駆け寄った。
「龍――!」
「波濤! 起きていたのか。身体の具合はどうだ?」
「ん、お陰様ですっかりいいよ。さっきすっげえ豪華な風呂も使わしてもらったし」
「そうか」
 龍はフッと瞳を緩めると、穏やかな笑みを浮かべながら手にしていたスーツの上着を脱いで、ソファへと置いた。
「メモ、見たよ。どっか出掛けてたのか?」
「ああ、ちょっとな。お前はぐっすり眠ってたから起こさねえでおこうと思ってな。黙って行っちまって済まない」
「ンなこと……俺ン方こそ至れり尽くせりで申し訳ねえなって……」
 そう言い掛けて、波濤はハタと言葉をとめた。先程から上着を脱いだり時計やら小物類を置いたりするごくごく何気ない龍の仕草を見ているだけで、訳もなく落ち着かないのだ。
 いつも見慣れているはずの彼のスーツ姿が、今日は何だかときめいてしまうくらい魅惑的にに思えるのはどうしてだろう。その上、何とも渋くて大人っぽくも感じられる。ずっと我慢してきた『好きだ』という気持ちを、素直に告げることができた後だからだろうか――波濤は何だかむず痒いような幸せな気持ちを噛み締めていた。

「腹は減ってないか? すぐメシにしよう」
「あ、うん。けど店は? 今日は同伴とか入ってねえの?」
「さっき帝斗から連絡があって、俺たちに休暇をくれるそうだ。今日はゆっくり養生してくれとさ」
「そう……。申し訳ねえな」
「お前、普段めちゃくちゃがんばっているんだ。今日くらいはいいだろうが」
「……ん、そんじゃ有り難く甘えさしてもらうかな」
「ああ、そうしろ」
 龍に誘《いざな》われて、リビングへと移動する。
 この家は本当に広いようだ。寝室も立派だったが、どこもかしこもまるで高級ホテルのスイートルームのような造りに、子供さながらキョロキョロとしてしまう。
 広いリビングの一画が壁で囲われたようなスペースに入ると、そこには大きなダイニングテーブルが設えてあり、既に食事の為の食器やらカトラリー類が並べられているのを目にすれば、先程から不思議に思っていたことが口をついて出てしまった。
「なあ、龍……」
「何だ?」
「あのさ、ここもお前の家……なのか?」
 いつものマンションとは別の場所だというのは、窓から見下ろす景色からしても明らかだ。目の前に並んでいる食器類からしても、一体誰が用意したというのだろう。まさか龍がこんなにマメなことをするとも思えない。
 そんな心の内が表情に出ていたのだろうか、龍は可笑しそうに噴き出すと、そのままコホコホと咳き込んでしまった。
「大丈夫か? 俺、何か変なこと言った?」
 波濤の方はますます不思議そうに首を傾げながらも、咳き込む様子を気に掛ける。相変わらずにやさしい男だと、龍は自然と頬がゆるむ思いでいた。
「ここは俺の経営しているホテルだ。もっともこの階は俺のプライベートスペースになってるから、――まあ”家”には違いねえな」
 その言葉に波濤は驚いたように瞳を見開いた。
「ホテル……!? 経営って、お前が……か?」
「ああ。もともと俺はこっちが本業なんでな。ホストの仕事は帝斗に半ば強要されたようなもんだ」
「本業って……」
 如何にプライベートスペースとはいえ、この部屋の造りを見ただけでも、ただならぬ高級感にあふれているのが分かる。しかもこの高層階だ、一体どんなホテルを経営しているというのだ。波濤は狐につままれたようにポカンと口を開けたままの驚き顔で、しばし龍を凝視してしまった。
 そんな様子も龍にとっては愛しくてたまらない。
 心底驚いたふうな表情も、いっさい作り物でない彼の素直さを物語っているようで、ますます惚れてしまいそうになる。
「まあ、とにかく座れ。メシを食いながら説明するさ」
 クスクスと笑う龍に席を勧められて椅子を引く。と、そこへタイミングを計ったかのように食事が運ばれてきた。

 並べられているカトラリーは銀製だろうか、見るからに重みを感じさせるような高級品だ。食事を運んできた男は黒のタキシード姿で、後方にはバリッと糊の効いた真っ白な白衣をまとったシェフをも伴っている。ピカピカと輝く銀色のワゴンに乗せられた料理にも、冷めないようにとの心配りか、これまた銀製の見事なフタが施され――。
 確かに高級ホテルなどでルームサービスを頼むとこんなふうに運ばれてくるのだろうが、それにしても幾分現実離れした豪華っぷりに驚くばかりである。
 そこへ輪を掛けるようにしてまた一人、今度はダークで上品なスーツ姿の男がシェフに続くようにして現れたのに、波濤は挙動不審というくらいに視線を泳がせてしまった。

「はじめまして、雪吹様」
 ダークスーツの男は龍の席から斜めに二歩ほど下がった辺りに立ち、丁寧な仕草でお辞儀をしてよこした。しかも源氏名の”波濤”ではなく、いきなり本名である”雪吹”と呼ばれたことに一瞬焦ってしまう。
「あ、はい……あの、はじめまして」
 しどろもどろな返答の様子が可笑しかったのか、龍がまたしてもクスッと笑いながら言った。
「波濤。こいつは俺の秘書の李《リー》だ。昨夜、ここへ来る際にも一緒の車に乗ってきたんだぜ」
「――! そう……ですか……。昨夜はお世話をお掛けしてすみませんでした。俺……いえ、自分は波濤……」
 思わず源氏名がついて出そうになり、
「あ、冰です。雪吹……冰といいます」
 慌てて本名で名乗り直した。


◆13
「雪吹様のことは老板《ラァオバン》からうかがっております。私は李と申します。どうぞお見知りおきください」
 再度丁寧に頭を垂れる男は、その外見からしても品の良いのが伝わってきそうな男前である。よしんば、このままclub-xuanwuの店内に立たせてもいいくらいの美丈夫に、失礼とは思いつつも、ついつい凝視してしまった。年の頃は龍よりもかなり上に感じられるし、見るからに頭のキレそうな雰囲気に気後れしてしまいそうだ。
 何より”李”という彼の名である。
 昨夜から思っていたことだが、黄老人のことを『大人《ターレン》』と呼んだり、この李という秘書が龍のことを『老板《ラァオバン》』と言ったりと、どこかしこに懐かしい香港を思わせる雰囲気が飛び交っているのだ。
「えっと……あの……」
 誰を相手に何からどう訊いていいのかと面食らっているような波濤の様子を、面白そうに見つめながら龍が放ったひと言――、

「俺もお前と同じ――香港生まれの香港育ちなんだよ」

 その言葉に、波濤は瞬きを忘れるくらい驚かされてしまった。



◇    ◇    ◇



 『俺もお前と同じ――香港生まれの香港育ちなんだよ』

 すぐには返す言葉も見つからないほどだった。龍が香港で生まれ育ったなどと、今の今まで全く知らなかった。
「えっと、マジ……?」
 その割には随分流暢な日本語だな――というのが脳裏を過ぎったが、かくいう自身も日本語と広東語のどちらで話そうと不自由しないのだから、龍もそうなのだろうかと漠然と納得する。しかも、日本でこんな立派なホテルを経営しているくらいなのだし、ある意味流暢で当然だろうか。

「俺の親父は中国人でな、このホテルも言うなれば親父の持ち物なんだ。日本に出店する際に、こっちの経営は俺に任せてくれたんだが、本店は香港にある。お前も知ってるかも知れねえが、ホテルの名はzhuque《ヂゥーチュエ》という」
「zhuque!? それってめちゃめちゃ有名なホテルじゃねえか……!」
 香港では知らない者はいないというくらいの超高級ホテルの名を聞いて、波濤はまさに目ん玉が飛び出るというのがぴったりくるくらいに驚かされてしまった。
 龍の説明によると、彼の父親は香港を拠点とし、近隣のマカオなどにもホテルを幾つも所有しているということだった。しかも、ホテル経営は一部分に過ぎず、その他にも貿易や不動産、飲食業と多岐に渡る事業を抱えているらしい。
 それにしても驚いた。ということは、龍も中国人というわけか。が、やはり流暢過ぎるほどの日本語に首を傾げてしまいそうになる。確か彼の本名は”氷川白夜”だったはずだ。香港生まれの彼がどうして日本名を名乗っているのかということも含めて、もはや謎だらけである。
 波濤は迷宮に入り込んでしまった童話の主人公のような心持ちでいた。
「お前、本当に分かりやすいっていうか――思ってることがそのまま顔に書いてあるようだな」と笑いながら龍は告げた。
「俺のお袋は日本人でな。親父の妾なんだ」

「え――――!?」

「だが俺は恵まれてた」
 シェフが注いだ食前酒を口に含みながら、今まで可笑しそうにしていたのを僅か真顔に戻しながら龍は続ける。
「親父には香港に本妻がいる。つまり俺にとっては継母に当たるわけだが――彼女は俺のことを実の息子のように可愛がってくれてな。俺のお袋とも親友のように仲良くしてくれている。継母の実子で、俺とは異母兄にあたる兄もいるが、ヤツもガキの頃から俺たち母子《おやこ》を家族同様に扱ってくれた。器がでかい――というだけじゃない、継母《おふくろ》と兄貴には感謝してもし切れねえ恩があるんだ。だから俺は少しでも家族の役に立ちたいと思って、実のお袋の故郷であるこの日本で稼業を手伝うことに決めたんだ」

 テーブルの上には前菜が並べられていく。見事な料理は、波濤にとっても懐かしい飲茶の
数々――香港にいた頃には毎日のように目にしていた大好物である。

 一旦、シェフが下がっていくと、一層真面目な表情で龍は言った。
「帝斗が俺をホストの仕事に誘ったのは、俺とお前の境遇が似ていたからだ。共に香港で生まれ育ち、お袋が妾の立場である俺たちを引き合わせたかったと言っていた。俺ならばお前の抱えているものを理解してやれる――そう思ったそうだ」
「オーナーが……そんなことを」
「ああ。お前の様子がおかしいのを気に掛けていたらしくてな。密かにお前のことを調べたそうだぞ。ヤツの実家も財閥だから、お前の親父さんの平井財閥とも縁があったそうでな。お前が兄の菊造に金を無心されていることを知って、何とか力になってやりたいと画策していたらしい」
 確かに帝斗という男はオーナーとしてだけでなく、人間的にも見習うところの多い、魅力あふれる男である。だがまさか、その彼が一スタッフである自らのことをそんなふうに気に掛けてくれていたなどとは夢にも思わずに、波濤は涙のにじむ思いがしていた。


◆14
「オーナーが……そうだったんだ。俺のことをそんなふうに考えていてくれたなんて……」
「帝斗は言ってたぜ。菊造の悪事からお前を救ってやることはすぐにでも可能だったと。だが、やさしい心根のお前のことだ、悪事を親父さんに告げ口することで解決したとしても、別の意味でお前が苦しむんじゃねえか――ってな。だから帝斗は俺たちを引き合わせたんだ。俺ならお前のことを理解してやれる。互いにいい相談相手というか……いい親友とか同僚になってくれたらいいと思ったらしい」
 飲茶の焼売《シュウマイ》を皿に取り分けてくれながら、龍は続けた。
「だが、まさか……俺が本気でお前に惚れちまうとは思ってなかったようだがな」
 クスッとニヒルに口角を上げながら、悪戯そうに笑ってみせる。
「俺たちが恋仲になったのは正直予想外だったとさ」
 そして、「食えよ、旨いぞ」そう言ってまた笑った。

 確かに美味い料理も、にじんだ涙でかすんでしまう。オーナーの帝斗がそんなふうに気遣ってくれていたこと、この龍と引き合わせてくれたこと、そして今、目の前の愛する男とこうしていられる幸せが夢幻のように思えていた。
 夢幻でもいい――そう思えるほどに波濤は至福だった。周囲からそんなふうな温かい気持ちで見守られていたことに気付きもしなかった。孤独の最中《さなか》で生きることが自分の運命だと諦めていた。だが、そうではなかったのだ。
 自らを育ててくれた黄老人さながらに、周囲にはこんなにも情を注いでくれる人々がいた。何と有り難いことだろうか――波濤は自らの幸福を噛み締めながら、嗚咽をこらえるように瞳を閉じ――その頬には一筋の涙がキラリと伝って流れた。

 その後も次々と懐かしい中華の料理が運ばれてきて、その中には昨夜からの波濤の体調を気遣ってか、やわらかく煮込まれた栄養価の高いフカのヒレや熱々の粥なども並べられ、料理ひとつひとつにも込められた人情をひしひしと感じさせられるようでもあって、ここでも人のあたたかさが身に沁みるようであった。
 そしてデザートと共に、龍は食後酒を、波濤には温かいジャスミン茶が注がれると、秘書の李とシェフたちは『ごゆっくり』と微笑みながら部屋を下がっていった。
「波濤、メシはどうだった? なかなか旨かっただろうが」
 少し冷やかすようにおどけ気味でそう声を掛けられて、波濤はハッと我に返った。
「あ、ああ。もちろん。すげえ美味かったし、それに……」
「ん――?」
「温っかかった――マジで、ほんとに」
 また涙声になりそうなのを必死に抑えながら笑ってみせる。
 と同時に、ふと思い出したことがあった。感激ですっかり忘れ掛けていたが、昨夜からひどく気に掛かっていたことだ。
「そういえばさ、龍――」
「何だ?」
「お前、じいちゃんのこと知ってるって言ってたけど……」
「ああ、黄大人《ウォンターレン》のことか」
 先程からの話の中で、龍の父親が香港で企業を経営していることは分かったので、黄老人と知り合いであっても不思議はないのだが、一体どういった縁だったのかが気になったのだ。
「じいちゃんは若い頃からずっとディーラーをしてたんだ。もちろん、年をとってからは現役は引退したけど、若いディーラーたちに技を教えたりしてた。俺もじいちゃんに教えてもらった者の一人だったんだけどさ。お前の親父さんて、もしかしてカジノとかも経営してたのか?」
 大人になった時に自らの力で食っていけるようにと、ディーラーの技を仕込んでくれたのは黄老人である。この日本では稼業にこそできなかったが、それを生かして今でもホストクラブで客たちを楽しませるのに大いに役立ってもいる特技だ。

 食後酒の甘い香りがほのかに香る口元に笑みを浮かべながら龍は言った。
「黄大人には俺の親父が世話になってな。ガキの頃から大人《ターレン》の話はよく聞かされてたんだ。人生のいろいろなことを教わったって言ってたぜ」
「そうなんだ? 親父さんはじいちゃんと仕事で一緒だったとか……そういうの?」
「まあ、平たく言えばそうだな。大人《ターレン》がディーラーをしてくれていたのは親父の息の掛かった店だったからな」
「あ、やっぱりそうなのか。けど……お前の親父さんてすごい人なんだな。てよりも……お前もすごいヤツ……だよな? 何つーか、俺とは住む世界が違い過ぎて想像すらつかねえ感じ……」
 急に現実感が戻ったような面持ちで、波濤が深い溜め息をこぼす。そんな様子を横目に、龍は苦笑してみせた。
「親父は別にしろ、俺は大してすごかねえさ」
「んなことねえじゃん。こんなすげえホテルの経営者だなんて、マジで……ドラマか映画みてえな話だぜ。さっきの秘書の人だって、すっげえ切れ者って感じだったしさ。これじゃまさに”頭領《ドン》”じゃねえか」
 そうだ、xuanwuの店内でもホスト連中が散々盛り上がっていた噂話そのままだ。
「頭領?」


◆15
「ああ、お前が入店してきた時さ、店のヤツらが言ってたんだよ。龍さんはめちゃくちゃ態度がでけえし、ありゃホストってよりはマフィアの頭領みてえだってさ。お前は知らないかもだけど、未だにお前のあだ名”頭領”なんだぜ?」
 ジャスミン茶の椀を両の掌に包み込むように持ち、ふぅふぅしながらそう言う波濤の瞳がクリクリと輝いている。そんな仕草がまるで純真無垢な子供のようで、龍はますます愛しげに瞳を細めながらも僅かに苦笑いを抑えられなかった。
「頭領――ね。当たらずとも何とやらってやつだな」
「え――?」
「俺の親父は周隼《ジォウ スェン》ってんだ」
「え、周……?」
 その名前には聞き覚えがあった。
「それって香港マフィアの頭領じゃないか……! まさかそんなところまで似通ってるって……」と言い掛けて、波濤はハッと龍を見つめた。

「えっと……同姓同名……? まさか本当に頭領そのものってことは……ねえよな?」
「――は、その”まさか”だな」
「え……?」

ーーーーッ!?

 あまりにもビックリし過ぎて、思わずすっとんきょうな大声を上げそうになった。

「や、えっと……その……マジ?」
「ああ、”マジ”だ」
「え、え……? 冗談……とかじゃねえのか……えっと、その」
 波濤は視線を泳がせ、まさにしどろもどろで殆ど言葉になっていない。相反して龍は苦笑に溜め息まじりだ。
「別に隠してたわけじゃねえさ。お前には追々言おうと思ってた」
「言おうと思ってたって……。つか、話が凄過ぎて、そう簡単には信じらんねえんだけど……。オーナーは知ってんの?」
「ああ。帝斗とは家族ぐるみの付き合いだからな。年齢《とし》も近えし、ガキの頃からの幼馴染みみてえなもんだよ」
「ていうかさ、龍。お前って一体いくつなんだ? 年齢《とし》」
「俺か? 俺は三十二だが……」
「さ、三十二ッ!?」
 またしても波濤は絶叫、龍は苦笑である。
「じゃあ何……お前って俺より四つも上ってこと……?」
 波濤はあと二ヶ月余りで二十八歳になる。それよりも何よりも、今まで互いの年齢すら知らなかったことの方が驚愕だった。
「じゃあ俺って、かなり失礼なヤツじゃん……。年上のヤツに普通にタメ口叩いてたってことかよ」
 自己嫌悪とばかりに落ち込む様が可愛く思えた。
「別に年齢《とし》なんか関係ねえだろ。それに四つなんて大して離れてる内に入らねえよ。俺らは愛し合ってる、それで充分じゃねえか」
 しれっとした言い草ながらも口元を尖らせる、そんな様子はまるで子供がスネているようでもある。
 二人は互いを見やり、どちらからともなく、ほぼ同時に噴き出してしまった。
「……ったく! お前、今まで俺の歳、幾つだと思ってたんだよ」
「え、てっきり同い年とばっかり……。まさか四つも上とは思わなかったからさ」
「じゃあ俺は若く見えるってことだな?」
「まあ……そうかな。年のわりにはえらそうだなぁとは思って……たけど」
「えらそうって、お前なぁ」
「あ、ああ……ごめん」
 四歳も離れていると知った途端に、急にしおらしく頬を染める波濤がますます愛おしい。
「なあ、波濤」
「……?」
「タメ口、やめなくていいぞ。今のままのお前が俺はいいんだから」
「え……? ああ、うん」
 対面でモジモジとし、”らしくない”様子に、龍はまたひとたび笑った。この大きなテーブルを挟んでいては焦れったい。今すぐにでも頭を撫でて抱き締めたいくらいだった。



◇    ◇    ◇



 その後、リビングのソファへと移動して、二人肩を並べて寛いでいた。
 龍は食後酒のお代わりとしてバーボンのストレートを片手に、もう片方の腕を波濤の肩に回して、その額にチュッと軽く口付けを落とす。波濤も素直に身を預けながら、両手で紹興酒のお湯割りが入ったグラスを持って、ちびりちびりとやっていた。
「波濤――」
「ん?」
「マフィアは――怖いか?」
 少し低めのローボイスが繰り出す穏やかな口調の問いに、波濤はハッと龍を見やった。
「ん……。そりゃ、マフィアって聞けば普通に怖いけどさ……。でも、お前のことは怖くない……お前のことは……」
「――好きか?」

 俺がマフィアの一族だと知っても変わらずに好きでいてくれるか――?

 龍の瞳がそんなふうに訊いてくるような気がして、波濤はキュッと心臓を掴まれる心地だった。
「……好きだよ。お前が誰だろうと……俺は……」
「そうか」
「ん――」
 こくりと頷《うなず》き、頬を染める。



 二人の間にしばしの沈黙が流れ、どちらからともなく手にしていたグラスをテーブルへと置いて見つめ合う。



「波濤――俺と一緒に生きてくれるか」

「――――!」

「ホスト業を体験して、お前に出会えて本当に良かったと思っている。初めは帝斗の気まぐれに乗ってやるか――くらいの軽い気持ちだったが、今ではあいつにも心底感謝してるよ。あいつがこの話を持ち掛けてくれなかったら、俺はお前に出会えていなかった。こんなにかけがえのないヤツに巡り会えるだなんて……想像さえできなかった。俺は――この先の人生をお前と一緒に生きていきたい」

「……龍」


◆16
 すぐには上手い言葉など見つからず、ただただうつむくだけしかできない。
「俺と一緒に生きるのは……嫌か?」
 嫌なわけはない。
 だが、何と答えてよいか、咄嗟には言葉にならずに、その思いの代わりに波濤は龍の広い胸へとしがみつき、顔をうずめるように抱き付いた。
「お……お前こそ、嫌じゃねえのかよ……。俺、俺は……汚ねえこといっぱいしてきたん……だし……今でも厄介事抱えて……」
 言葉に詰まった彼が言いたいのは菊造への金の工面のことだろうか。今後も金の為に身を売るようなマネをせざるを得ないかも知れない――そんなことを思っているのか、切なげに眉を歪める波濤を、龍はより一層強く抱き寄せた。
「菊造のことなら何も心配するな。ヤツのことは俺が引き受けると言ったろう?」
「引き受けるって……そんなこと」
 まさか自身に代って金を払ってくれるとでも言い出すつもりなのか。
「これは俺自身の問題だし……お前に迷惑は掛けたくねえよ」
 そんなことは以ての外だと言いたげな瞳が、苦しそうに揺れている。
 穏やかに龍は笑った。
「別に俺が金の工面を肩代わりするわけじゃねえから安心しろ。実はさっきな、お前が寝ている間にお前の親父さんに会ってきたんだ」
 その言葉に波濤はガバッと身を起こし、驚いたように龍を見つめた。
「親父に会ったって……俺の……?」
「そうだ。お前の実の父親、平井剛造氏だ。お前がこの日本にいることを知って喜んでいたぞ。お前に会いたいと言っていた」
「親父が……本当に?」
「ああ。それに――お前は望まないかも知れねえが、菊造のこともきちんと伝えた。ヤツがやったことは隠してうやむやにしていいことじゃない。親父さんが心を痛めるかも知れないから、お前は黙っていてくれと言うだろうと思ったが、俺の判断で勝手をさせてもらった」
 またしても波濤は驚いた。確かに、いつか父親に会うことが叶う時がきたとしても、菊造のことは黙っていようと思っていたからだ。腹違いとはいえ、兄が弟に金の無心をしていたなどと知れば、父が心穏やかではいられないだろうと考えてのことだった。
 一度も会ったことはないとはいえ、父と母とは大分年齢も離れていたと聞いている。もう老年の父に余計な心配などさせたくなかったのだ。

「お前に何の相談もなく勝手なことをして済まないと思っている。だが菊造をこのまま野放しにすればいいかというと、それは違うと思う。金の無心だけでも許し難いってのに、未遂とはいえお前にいかがわしい商売をさせようとしたことは許せねえことだ。分かってくれ、波濤――」
 真剣な眼差しで見つめてくる龍の瞳が、彼の中の葛藤や正直な思いを物語っているのが伝わってくる。波濤は再び龍の胸元へと顔を埋めると、
「いいんだ……。お前が俺ンこと、すっげえ考えてくれたのは分かる……。親父にまで会いに行ってくれて……感謝してる」
「波濤――」
 しがみついてくる身体を両の腕で思い切り抱き返しながら、龍は言った。
「俺だって――正直なところ、世間一般的には褒められたもんじゃねえことをたくさんしてきた。お前に言えねえような、それこそ汚ねえっていわれることにも手を染めてきた。それでも――いいか? こんな俺を、お前は……」
「好きだよ……! お前が何をしてようが……マフィアだろうが、そんなのどうでも……いんだ。俺は……」

 お前といたい――!

「お前と一緒に……生きていきたい……」
「――冰」
 いつもの源氏名『波濤』ではなく、本名の『冰』と呼ばれたことが心臓を跳ね上げた。
 見つめ合い、どちらからともなく引き寄せられるように唇を重ね合う。瞳を閉じ、触れるだけのキスをして、額と額をコツリと合わせた。
「冰――愛してるぜ」
「ん、うん。俺……俺も」
「こんな気持ちになる日が来るなんてな。若い頃は想像もつかなかった」
 そうだ。誰かを真剣に愛しいと思う気持ちを、他人事なら理解できなくもないが、まさか自分自身にこれほど大切に思える相手ができるなどとは思ってもみなかったのだ。
「けど龍さ……お前、モテたろ? カッコいいし頼りがいありそうだし、男らしいしさ」
 腕の中でもぞもぞと動きながら、波濤がそんなふうに訊いてくるのが可笑しくて、龍はフッと鼻を鳴らしてしまった。
「なんだ、妬いてくれるのか?」
「バッ……! 違えって! 俺はただ……一般的に見て、多少モテたんだろうなって思っただけで」
「気になるか?」
 ニヤニヤと嬉しそうにする様子は、まるで子供っぽい。そんなところも魅力に思えてしまうから、尚タチが悪かった。
「なっ……らねえよ! ホントお前って……タチ悪ィ」
 普段はつけ入る隙もないような仏頂面の男が、自分の前でだけ見せる少年のような悪戯な微笑みが眩しくてどうしょうもない。
「その”タチの悪い”男がお前の旦那だろ?」
「だ……旦那って……!」
 こういうことを恥ずかしげもなく、しれっと言ってのけるところは、出会った当初から変わらない。
「そう恥ずかしがるこたぁねえだろ? そうだ、揃いの指輪でも作るか? なあ、冰」
「ゆ、指輪……!?」
 全くもって気の早い男である。


◆17
 一見、近寄り難く冷たいようでいて、実はものすごく熱っぽくて時折やんちゃなところも見せるこの龍が、波濤にとってかけがえのない存在となった。
「な、龍さ……」
「何だ」
「俺も本名で呼んだ方が……い?」
 先程から龍が源氏名ではなく『冰』と呼ぶことにむず痒いような感じがしてならない。と同時に、とてつもない幸せを感じるのも確かで、冰と呼ばれる度に心拍数が上がるのが何とも言えずに嬉しかったのだ。
「お前の名前、白夜……だよな?」
 だがいきなりそう呼ぶのは恥ずかしさが先に立ってか、そう直ぐには馴染めそうもない。
「氷川……って、名字で呼ぶんじゃヘンだもんな。やっぱ……白夜?」
 頬を染めながら視線を合わせずにモジモジとそんなことを言っている様子を横目にして、龍は思わず破顔してしまった。
「別に龍のままでも構わねえけどな」
「けど……」
 やはり自分だけの特別な呼び方をしたい、だが恥ずかしいのも確かだ。波濤の表情からは言わずともそう思っているのが丸分かりだ。
「龍ってのもなまじ嘘じゃねえからよ」
「え……? それってどういう……」
「俺の日本名は氷川白夜だが、香港じゃ周焔《ジォウ イェン》ってんだ。字《あざな》は白龍《バイロン》。ホストクラブに入る時に源氏名を決めろっていうから、字《あざな》から適当に取って付けたのが”龍《りゅう》”だったからな」
「焔《イェン》……? 白龍《バイロン》?」
「そうだ。雪吹冰――ダブルブリザードのお前を溶かすことができるのは俺しかいねえだろう?」
 ニヒルに口角を上げながら微笑まれて、波濤は目頭に熱い涙がブワっとあふれ出てくるのをとめられなかった。
 出会った最初の頃、確かにそう言われた記憶がある。あれはそう――忘れもしない。初めて身体の関係を迫られた夜のことだ。


 冰《ひょう》――雪吹冰《ふぶき ひょう》だろ? すげえ冷てえ名前だな。きっと、溶かすのに苦労する――


 あの時もその台詞にドキリとさせられたのを、昨日のことのように鮮明に覚えている。冷たくて、凍えるようで、自分にはこれ以上ない似合いの名だと思っていたあの頃――
 育ての親である黄老人を亡くし、誰一人として頼るところのない異国の地で、腹違いの兄に多額の金を無心されていた。冷たく閉ざされた過酷な状況の中にあったとしても、忘れないでいようと思った言葉が蘇る。


 笑っていなさい、冰。
 笑顔は皆を幸せにしてくれる。
 いつでも愉快に楽しく! 笑う門には福来たる――だぞ。


 孤児となった自らを引き取り、我が子のように愛情を注いでくれた黄老人が口癖のようにしていた言葉だ。そうだ、どんなに辛くともどんなに過酷でも、それが永久凍土のような道であったとしても、これだけは忘れないでいよう。黄老人の残してくれたこの言葉を心の糧として生きていこう、そう思ってきた。そうすることで、いつの日か自身の中の凍てつく”冰”が溶ける日がくることを夢見てきた。

 ボロボロとあふれ出る涙を、もはやとめられないままに波濤は言った。
「龍、お前と初めて出会った時さ……お前の本名を知って、俺すげえ親近感が湧いたんだ」

 氷川白夜《ひかわ びゃくや》――果てしなく暮れることのない夜を流れる冷たい氷の川。
 その無口で愛想のない風貌からしても、ひどく似合いの名だと思った。もしかしたら彼もまた、自らと同じような過酷な運命を抱えている男なのかも知れない――と、そんな想像をするだけで不思議な安堵感を覚えた。彼のような男が近くに存在するというだけで、心に拠り所ができるような気がしていたのだ。

 止め処ない涙をしゃくり上げるようにしてそんなことを言った波濤を、龍はたまらずに引き寄せ腕の中へと抱き包んだ。
「じゃあ、俺らは最初から惹かれ合ってたってことだな」
「ん、ああ……うん」
「例えば俺が氷の川だったとしても、俺はお前を溶かす自信があるぜ?」
「はは……マジかよ」
「氷をもって冰を制す――ってな?」
「なんだよそれ、日本語ヘンじゃねえ?」
「ま、仕方ねえな。俺は日本語よりは広東語の方がしっくりくるしな」
 クスクスと笑い合う。今、この瞬間が言い表しようのないくらい幸せだと思う。
 温かく力強い腕に包まれながら、波濤は唯一無二の男の背に腕を回して抱き返した。すっぽりと熱い胸に頬をうずめながら、静かに瞳を閉じる。



 じいちゃん、俺、幸せだよ。
 じいちゃんが教えてくれた言葉、本当だったよ。
 どんなに辛くても笑ってがんばってきたから、俺はこの人に巡り会えた。
 こうして、今、心から笑うことができてるよ――
 心から幸せだと思えるよ――!

 じいちゃん、見てくれてるか?



 天国にいる黄老人に語り掛ける波濤の頬に、またひとすじ涙がこぼれて伝った。

「冰、大人《ターレン》に報告に行くか。早急な仕事だけ片付けたら、少し長めの休暇を取って一緒に香港へ行ってこよう」
「――――! ん、うん。ああ、行く……お前のこと、じいちゃんに報告したい……」

 大パノラマの窓の向こうに広がる煌めく大都会の光の向こうに、懐かしい香港の夜景が見えるようだ。愛しい男の腕の中でこぼす涙は温かく――まさに焔《ほむら》によって溶かされた冰《ひょう》の如くであった。

-FIN-

次、ラストエピソード『Flame』です。



Guys 9love

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