皇帝寝所
◆7
ところ変わって日本、川崎――。
香港では周焔が幼き雪吹冰と暮らし始めてひと月余りが経った頃のことである。
日本の裏社会で始末屋と異名をとる極道がこの川崎に大きな組を構えていた。名を鐘崎組という。
長は鐘崎僚一といい、五十代半ばの男であるが、とてもその年齢には見えないほどに若々しい。何より面構えが群を抜く男前であることから、何かにつけて話題が絶えないといった具合である。組員を数十人抱える邸の造りは広大で、表門には表札すら出ていないが、一目で素性が想像できるような構えである。世間からは言わずと知れた極道と認識されているものの、実のところは少々意味合いは違った。
極道といってもいわゆる広域指定暴力団ではなく、どこの組織にも属さない一匹狼的な存在といおうか、活動範囲も日本のみならずアジア各国に渡っていて、香港の周ファミリーとも古くから懇意の間柄にある。焔の父・周隼とは同年代であるゆえ、アジア圏内でも格別に信頼し合える仲といえた。
もちろん日本国内の筋者たちにも広く顔が効くが、それとは真逆の警察組織とも堅固な繋がりを持っていて、政府要人からも覚えがめでたい。僚一の仕事というのは、表向き司法などによって折り合いがつけられない難しい案件を秘密裏に処理するといった事案が主で、故に始末屋と呼ばれているのであった。
その彼には成人を迎えてほどない一人息子がいる。名を遼二といい、今では組の若頭として公私共に父を支えているといった頼もしい存在だ。母親は遼二を生んで間もない頃、他所に男を作って家を出て行ってしまった。裏の世界の――常に危険と隣り合わせの生活が重荷になったようだ。そんなわけで遼二は父の僚一と組員たちによる男手の中で育てられたのだった。
その鐘崎組では、組始まって以来という難問に局面していた。組若頭である鐘崎遼二の幼馴染・一之宮紫月が忽然と姿を消すという騒動が起こったからである。
◆8
一之宮紫月の家は代々武道の道場を営んでいる名門どころだ。こちらも鐘崎家同様、師範の一之宮飛燕が男手ひとつで育ててきた一人息子の紫月は、現在父の右腕となって共に道場を切り盛りしてくれている頼もしい存在である。母親は紫月を生むとすぐに病によって他界していた。
そんな紫月の良き遊び友達であり、兄的存在でもあったのが鐘崎組の一人息子の遼二だった。
遼二の方が四つほど年上であったが、互いに男親一人という同じような環境で育った為、両家は親子共に家族親戚も同然のような付き合いをしてきたのだった。
遼二と紫月の幼き二人は家も近所でそこそこ同年代、遊び仲間だったということから四六時中を共に過ごし、兄弟のようにして育ったのである。
二人はいつの頃からか幼馴染みという垣根を超えて想い合うようになり、恋仲となったのはある意味自然だったのかも知れない。成長するにつれその想いは確固たるものになってゆき、互いに男同士ではあるが将来を共にしたいと思っている間柄だった。
二人のことは鐘崎家、一之宮家双方の父親たちも理解していて、組員たちからも仲を認められており、いずれは鐘崎組の後継者となるべく誰もがそう思って疑わなかった。
そんな紫月が何の前触れもなく行方不明になってしまったのだ、大騒ぎにもなろうというものだ。
二人は香港裏社会の城壁内を治める周焔ともよくよくの顔見知りであった。裏の世界に生まれ育った者同士、周焔と鐘崎遼二は歳も同じだった。故に幼い頃から互いの国を行き来して育ってきた仲だ。遼二は真っ向この非常事態を周焔にも知らせる傍ら、必死になって紫月の行方を追う日々を過ごしていた。
そんなある日のことだった。香港の周焔から紫月と思われる男を見掛けたとの情報が寄せられたのだ。しかも、なんと彼が治める城壁内で――という。
一報を受けた遼二は、組を父親の僚一に任せると、とるものもとりあえず香港へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
香港、九龍城内――。
「周焔! よくぞ知らせてくれた……! それで紫月は――?」
「カネ、よく来てくれたな! 待っていたぞ」
焔は幼い頃から遼二のことを『カネ』というあだ名で呼んでいる。成人を過ぎた今でも変わらずに『カネ』のままなのだ。遼二の方は『周焔』とフルネームで呼んだり、たまに『焔』と略すこともあるが、二人共に互いを信頼し合っている親友である。普段の時はもちろん、こうして緊急事態に陥った際などには誰をおいても頼り合う仲でもあるのだ。
「実はな、カネ――。一之宮らしき男がいる場所が少々厄介なのだ」
「厄介――?」
「これからすぐに案内したいと思うが、その前に伝えておきたいことがある。実は――その男というのは一之宮とよく似た別人の可能性が高いかも知れんのだ」
「……別人だと? どういうことだ……」
「俺もこの目で確かめに行ったんだが、ツラは一之宮にそっくりで最初は間違いなく本人だと思った。だが雰囲気がまるで違う。会って話もしたが、俺のことも見覚えがないと言うし、何より性質なんだがな。俺が知っている一之宮のかけらもないと言ったらいいのか……」
「……どういうことなんだ」
さすがの遼二も困惑させられてしまった。
◆9
「だが、ツラは間違いなく一之宮だ。この世にあそこまで瓜二つの人間がいるとも思えんからな。お前の目で直に確かめてもらおうと呼んだわけだが――」
ただ、今現在紫月らしきその男がいる場所がこれまた問題だと焔は言った。何とそれはこの城内で遊郭街が立ち並ぶ区域だというのだ。
「遊郭だと――ッ!?」
冗談じゃない――と、遼二は蒼白顔だ。
「安心しろ。ヤツはとりあえず無事だ。遊郭を仕切る頭取に話を聞いたところ、何でもここ半月くらい前に異国の行商人が連れて来たそうでな。今は遊女や男娼の世話係として下働きをさせているということだったから、俺の権限でそれ以外のことは絶対にさせないようにと厳しく伝えてある。頭取もいずれは男娼として店に出すつもりでいるようだったが、その際も俺の許可なしで勝手なことをせんようにと言ってある」
紫月を発見したのは、たまたま家令の真田が生鮮市場で見掛けたのがきっかけだったそうだが、とりあえず取り返しのつかない事態になる前だったのが不幸中の幸いだったと焔は言った。
城内を治める皇帝といえど、この街に生きるすべての人間を一から十まで把握することは不可能だ。そんな中で、真田が見掛けたことは奇跡といえた。
「とにかくヤツに会ってみてくれ。案内する」
「ああ――頼む」
逸る気持ちを抑えながら、二人は遊郭区へと向かった。
時刻は午後の二時を回ったところ、今はまだ各店も開いておらず、開店準備に向けて区内は割合静かだった。
焔が頭取に話を通して紫月らしき男の元へと案内してもらう。
「皇帝周焔、お待ちしておりました。あの子はただいま男娼たちの着替えを手伝っておりましてな。先に住まいの方へご案内いたします」
あと二、三時間もすれば開店だ。街は静かでも店々の中は準備に慌ただしいようだった。
案内されたのは下働きの者たちが住む寮のような建物の一室である。アパート形式になっていて、間取りは狭いが一応のプライバシーは確保されているようだ。待つこと数分で頭取が紫月らしき男を連れて戻って来た。
「皇帝直々のご用事とのことで、今日はもう上がれるよう手配いたしましたので。どうぞごゆっくり」
――――!
男を一目見た途端に遼二は息を呑んだ。
確かに顔や身体つきは紫月に相違ないが、雰囲気がまるで違う。普段の紫月は朗らかで明るく、人懐こい印象が全面に出ている――例えるならば太陽のような男だが、今目の前にいる彼は目つきからしても冷たく、まるで感情が伝わってこない蝋人形のようなのだ。本物が太陽ならば、こちらはそれとは真逆に位置する冥王星のような印象だった。
◆10
先程焔も言っていたが、これでは紫月当人かどうか迷ったとて仕方ないと思えた。
「紫月……か?」
遼二が訊くも、男は未だ無表情のままで眉ひとつ動かす気配すら見せない。黙っていると背筋に寒気が走るような美しい形の唇が、開口一番放った言葉にも驚かされてしまった。
「あんた、誰? 俺に用だってけども」
だが、その声はまさしく聞き慣れた紫月のものだった。しかも彼独特の言い回し――仮に別人だとしても、姿形はともかくここまでそっくりなイントネーションで話すとすれば、それはもうクローン人間くらいだろう。
彼は紫月に間違いない――遼二は本能でそう感じていた。
「用はいったい何だってのよ? そっちは――皇帝様だったべ? こないだ訪ねて来たから知ってっけども」
もう一人の男――つまり遼二のことであるが――とは初対面だねと言って薄く笑う。
「まあ、そんなトコに突っ立ってねえで掛けなよ。なんか飲む? 茶葉はジャスミンしかねえからそれでいい?」
椅子を勧めてくれて、どうやら茶も出してくれるようだ。笑顔が見られたことにはホッとするも、どちらかといったら親しみの感情とは程遠い冷笑という雰囲気だ。ただし――言葉の節々に感じられる言い回しはまさに紫月に相違ない。遼二も焔も無言のまま、彼が茶を淹れる仕草に釘付けとなっていた。
(どうだ――おめえの目から見てどう感じる。ヤツは一之宮だと思うか?)
視線は二人揃って紫月に向けたまま、小声で焔が訊く。
(――確かに雰囲気はまるで違うな……。当初、お前から本人かどうか分からねえと聞いた時は……そんな馬鹿な話があるもんかと思っていたが、確かにあれではお前が迷っても仕方ねえ。だが――声もそっくりだ。それに何と言ってもあの言葉じり――あれは紫月そのものだ)
そんな二人の前に茶が差し出される。そのちょっとした仕草も綺麗な形の指も紫月以外の何者でもない。
「――で? 皇帝様が俺にどんな用?」
この部屋に椅子は二つしかない。彼はベッドの淵に腰掛けると、相変わらずの冷たい無表情のままそう訊いてきた。
さすがの焔もこれでは形無しだ。言葉に詰まりながらも、なんとか説明をと懸命にさせられる。
「――ああ、用というのはだな……。お前さん自身のことについてちょいと聞きたいんだ。頭取の話じゃ、お前さんがここに来たのはひと月程前だということだったが、それ以前は何処で何をしていたんだ? それを聞きたくてな」
「――何処で何を……ね。そう言われてもなぁ。俺を育ててくれたオッサンがさ――あーその人、上海で行商人やってるんだけっどもが。とにかくそのオッサンが今日からここに住んで働けって、そう言うから。オッサン、しばらくアメリカに商売しに行くとかで、もう俺とは一緒に暮らせなくなったって。これからはここで働いて一人で生きていけっつってね」
「――それでここへ連れて来られたというのか……。ではお前とその行商人の男はこれまで上海で暮らしていたというわけか?」
「そうだけど」
「――ふむ、行商人とな……。両親はどうした」
焔が訊くと、彼は平然とこう答えた。
「俺がちっさい頃に亡くなった――ってオッサンが言ってた。正直あんまよく覚えてはねえけどな。住むトコ無くなって橋の下にいた俺をオッサンが拾ってくれたって聞いてるぜ」
◆11
つまりこの男が言うことが事実であるなら、孤児――ということか。だとすれば、彼は紫月ではないということになる。
焔はもう少し詳しい事情を訊くべく会話を続けてみることにした。その間、遼二はその一挙手一投足を窺うことに余念がない。
「ではお前はこれまでその行商人の男と二人で暮らしてきたというのだな? 名は何という」
「名前? オッサンは馬鈴、俺はルナ」
「ルナ――だと? では亡くなった両親の名前は?」
「親父は程備、お袋は程杏だけど」
「程――とな。つまりお前さんは程ルナってわけか」
「そうじゃね? つか、オッサンからはルナって呼ばれてたから」
姓などとうに忘れた、そんなふうに言いたげだ。焔は質問を変えることにした。
「では両親が亡くなったのはいつ頃だ。原因は知っているか?」
「うーん、多分俺が三つか四つの頃じゃね? ガキだったし、よく覚えてねえな。列車の事故だったって近所のおばちゃんから教えてもらった記憶がある。その後すぐにアパート追い出されちゃってさ。行くトコなくて橋の下で寝泊まりしてたトコをオッサンが拾ってくれたらしいよ」
彼曰く、物心ついた時には既にその行商人と暮らしていたそうだ。
そこまで聞いて、焔も遼二も頭を抱えさせられてしまった。
この男は自分の両親の名前も知っている。しかも中国名だ。亡くなった原因も、住んでいた家を追い出されたことも鮮明に話してよこす。
変な話だが、もしかしたらこの紫月に瓜二つの男は記憶喪失にでも陥っているのではないか――互いに口にこそ出さなかったが、遼二も焔もそんな思いが過っていたのは確かだ。ところが今の話を聞く限りでは、どうもそうではないらしい。これほどはっきりと自分の素性を覚えているということは、本当にたまたま瓜二つの別人なのだろうかと思わされる。
だが、遼二にとってはここですぐに諦める気には到底なれなかった。
「ルナといったな。俺は遼二だ。鐘崎遼二という。実はな、このたびお前さんの教育係として就任することになったんだ」
咄嗟に遼二がそんなことを口走った。
「教育係――?」
ルナと名乗った彼は怪訝そうに首を傾げている。
「そうだ。お前さん、ゆくゆくはこの遊郭で男娼になるんだろうが? その為の教育係が俺だ」
だから顔合わせに来たのだと説明する。
「は――! なーんだ、そういうことね」
合点がいったのか、彼はクスッと冷笑をもらしてみせた。
「頭取がさ、今の下働きに慣れたら俺には本格的に客を取ってもらうことになるからって言ってた。ここの兄様たちの話じゃ、一丁前の男娼になるには教育期間ってのがあるんだってことも聞かされてたからさ」
兄様たちというのは既に客を取って働いている先輩男娼のことらしい。
ってことは、いよいよ俺も客を取る日が近いってわけ? ――と言って、また薄く笑う。
◆12
実のところ、焔は遼二がとった咄嗟の機転に驚いていた。
確かにここの遊郭では客を取る前に座敷での振る舞いやら床技などといった細かなことを男娼となる者に教え込む教育係というのが存在する。何も知らない無垢な男を一流の商品にする為の手解きなのだが、遼二はそういったシステムがあることを知っていたわけだ。
まあ、彼は国こそ違えど日本の裏社会で右に出る者はいないとされるほどに有名な極道・鐘崎僚一の一粒種だ。ゆくゆくは組を背負っていく男はさすがに見識も広いと驚かされる。
彼にとって唯一無二の想い人である一之宮紫月が姿を消し、ほぼ時期を同じくして瓜二つの容姿を持つこの男が現れた。遼二は教育係としてこの男としばらく共に過ごしながら、彼が本物の想い人であるのか、はたまたまったくの別人なのかを見極めようというのだろう。男娼の教育係になれば、ひとまずのところこの男が他の者――つまりは本当の教育係だが――によって穢される心配もない、とまあそういうことなのだろう。
この非常事態にあって即座の判断は見事という他ない。焔はほとほと感心させられてしまった。
「――お聞きの通りだ。ルナといったな? お前さんはこれからこの鐘崎遼二の下で男娼としての立ち居振る舞いを勉強することになる。頭取には私から話すが、住処もここを引き払ってもらい私の邸内に移ってもらうことになるぞ」
焔がそう説明すると、ルナという彼は意外にも素直にうなずいてみせた。
「ふぅん、そう」
「ここよりは若干住み心地も良いはずだ。部屋も広くなる」
「そいつぁ有り難いね。けどまあ、別にここだって不自由とは思ってねえけどな」
どうも彼には自我というものが薄いのか、嬉しいとか悲しいとかいった喜怒哀楽の感情が見えにくい。住む場所が変わると言っても驚くわけでもなく、部屋が広くなると伝えようが嬉しがるわけでもない。いずれ男娼にさせられると分かっている現状を嘆く素振りも皆無だ。
まるで来るもの拒まず去るもの追わずの如く、流されるまま従うこと自体に違和感すらない持っていない。
いったいどういう育ち方をしたらこうなるのだろうと首をひねらされてしまうほどだった。
彼が紫月本人であるならば、何か余程のことが起こってこれまでの一切の記憶を失ってしまったとも考えられるが、実のところそう思いたいのは遼二と焔の都合の良い考えであって、実際はまったくの別人という可能性の方が高いのかも知れない。
遼二にとって、そして焔や真田ら周りの者たちにとっても奇妙といえる日々が幕を開けようとしていた。