皇帝寝所
◆27
「うん、そういやオッサンが……毎晩寝る前に飲めっつって茶を淹れてくれたっけ」
「茶だ?」
「何でも俺は小さい頃に惨い形で親を亡くしてるから、精神的に不安定なところがあるって言われて。その茶は漢方で良く効くからって……」
「ふむ、茶か――。それはどんな味の茶だったか覚えているか?」
「うん。つか、ほら! センセが皇帝様と一緒に俺ンところに来た日に淹れたろ?」
「――あのジャスミン茶か!」
「そう! あの茶葉はオッサンが俺をここに置いてく時にくれたんだ。毎晩飲んでたのと同じやつだからって。欠かさず飲むんだぞって言われたけど……」
そういえば皇帝の邸に引っ越してからはすっかり飲むのを忘れていたとルナは言った。
「茶葉か――。ルナ、お前さん、もしかして今もその茶葉を持っているか?」
「あ? うん、多分戸棚のどっかに突っ込んであるはず」
遼二が逸る気持ちのまま戸棚を漁ると、大きな缶に入ったそれが見つかった。
「これだな?」
「うん! そう、それ」
夜半過ぎだがとてもじゃないが朝まで待っていられずに、ルナを連れて焔の部屋を訪ねた。幸い彼もまだ休んでおらず、すぐに話を聞いてくれた。
「なるほど。あの時ルナが淹れてくれたジャスミン茶か!」
焔はすぐに医師の鄧浩を呼び出して分析を頼んでくれた。
「夜分にすまぬな、鄧浩! 至急こいつの成分を調べて欲しい。もしかしたら茶葉とは別の何かが混ざっているかも知れんのだ」
鄧浩は焔付きの専属医だ。この邸の者たちの健康を管理してくれている頼れる男である。
「かしこまりました! お任せください」
鄧が茶葉を持って医室に帰るのを見送りながら、ふと思い出したように焔がつぶやいた。
「そういやあの時――俺は確か茶に口をつけなかったな」
ルナとのやり取りに気を取られていて、出された茶を飲まずに帰って来てしまったというのだ。
「カネ、お前はどうだ? あの茶を飲んだか?」
「ああ。そういえば俺は一気に飲み干しちまったな」
紫月が見つかったかも知れないという動揺で、喉がカラカラに渇いていたからだと遼二は言った。
「なるほど――それで合点がいった。あの茶葉に何かが仕込まれていたとすればだ、俺はそれを飲まなかったから変わりなく済んだが、カネが一気飲みしたというなら多少なりと身体に影響があったとも考えられる」
つまり、遼二がここ最近、紫月とルナという二つの人格の狭間で揺れ動いていた原因は、その薬の影響かも知れないと焔は言うのだ。
「正直に言って普段のカネには有り得ない悩みようだと思ったんだ。お前ならルナが一之宮だと分かった時点で、記憶を失くしていようが別の人格が芽生えていようが、そんなことは気にせずひっくるめて愛するはずだとな」
確かに衝撃的なことだから気弱になっても仕方ないとは思っていたものの、それでもやはりこの遼二がそんなことで悩むなどどこかおかしいと不思議に思っていたのだそうだ。
「だがその原因が薬物にあるとすれば納得だ。あの時カネが飲んだのは茶碗に一杯という少量だったからその程度の異変で済んだが、毎日欠かさず飲まされていたというルナの方には大きな影響が出て記憶を失ってしまった――と、そういうことなんじゃねえか?」
焔と遼二は鄧の分析を待つと共に、ルナが行商人とどのような生活を送っていたのかを詳しく聞くことにした。
◆28
それによると、ルナは正直なところ行商人の男についての印象が薄いというか、子供の頃に橋の下で拾われてから長い間一緒に暮らしてきたというのに、思い出のようなものが殆ど浮かばないのだと言った。
拾われて以来、小学校や中学校などにどうやって通っていたのかも思い出せないし、仲の良い友達がいた記憶もないという。鮮明に覚えているのは、夜になるとその茶を飲まされて、眠るまで男がずっと枕元で話をしてくれたということだけだそうだ。男は毎晩のようにやさしく頭を撫でながら、ルナの両親についてや近所に住んでいたおばさんたちのことなど、思い出話を聞かせてくれたという。
「だから俺、オッサンのことやさしいいい人なんだって思ってた……。けど、不思議なんだよな。ここに連れて来られて、もうオッサンとは一緒に暮らせなくなるって分かった時も……そんなに寂しく思わなかったっつーかさ。逆に遼センセや冰と離れて暮らすなんて考えたら――今はすっげ寂しいって思うのに」
行商人の男に対してはそういった感情が一切湧かなかったというのだ。
「おそらくだが――それも薬物のせいじゃねえか? 毎晩のように常用させられたお陰で、お前は記憶と共に自我さえ持たなくなっていた。俺たちが初めてお前の部屋を訪ねた時にもそう感じたが、まるで感情の無え人形のようだったからな」
焔の分析に遼二が続ける。
「この邸に来てからはあの茶を飲むことを忘れていたと言ったな。とすれば、だんだんと薬の効果が切れてきて、感情を取り戻すようになったというわけか」
そういえば日を追う毎にルナの表情が明るくなっているのは確かだ。冰との触れ合いなどで彼に変化が生じているのかと思っていたが、どうやらそれだけが原因ではないということになる。
「もちろん冰や真田さんとの交流で気持ちが明るくなっているのは確かだろうが、あの茶を摂取しなくなったことで感情が戻ってきたのだとしたら――」
「その薬は摂り続けなければ効果が続かねえってことになるな。まあ、鄧の分析結果が出ればもっと詳しいことが分かろうが、もしかしたらその薬物ってのは人間の心の部分に作用するようにできているのかも知れんな」
ルナはこれまでも身体の面では特に悪いところはなかったというし、頭が痛いとか咳が出るとかそういった症状もなかったそうだ。とすれば、身体的には影響を及ぼさないが、記憶や心に作用する代物なのかも知れない。薬が完全に抜ければ記憶が戻る可能性も高い。皆は光明が差す思いに胸を逸らせるのだった。
◆29
翌、早朝になると鄧から分析結果が出たとの知らせが届いた。
「老板、やはりこのお茶には茶葉以外の異物が含まれておりました」
「やはりか――!」
焔らも結局ルナからいろいろと話を聞いたりしている内に、三人で夜を明かしてしまったのだ。鄧もまた、寝ずの調査で分析を急いでくれていた。
「ですが老板、肝心の混ざっていた物の正体が分かりませんでした。ひとつひとつの成分は判明したのですが、それを組み合わせると人体にどのような影響を及ぼすのかが分かりかねます。そこで、ドイツにいる私の知人に意見を仰ぎたいと思うのですが」
鄧の学生時代の友人で、今はドイツの大きな病院に勤めている医師だという。
「クラウス・ブライトナーといって、非常に優れた医者です。これまでにも新たな薬の開発に尽力するなど、ドイツのみならず世界的にも認められております。彼ならば完全にとはいかなくても、ある程度この薬物の正体を予測できるかも知れません」
焔の許可を得て、鄧は早速に分析結果をドイツのブライトナー医師の元へと送った。
まだパーソナルコンピュータなどが流通していないこの時代、ファックスでも最新の技術であったが、何とそれを見たブライトナー医師からは、そう時を待たずして返事が届いたのである。
それによると、ルナに盛られたものは神経系等に作用する非常に危険な薬物であるということが判明した。
「身体的にはまったく影響がないそうで、無味無臭。記憶を奪い、摂取し続けると自我さえ失くすという代物だそうで、どうやら人間を戦闘用のロボットとして使う為に開発された極秘薬物のようです。今はまだ試作段階のはずだとのことで、ヨーロッパではその薬の効き目が実際どのように表れるのかという実験が行われて、医学会でも問題視されているとか」
ただし、薬の開発に関わっている機関が厄介だそうで、実のところは医学会の中でもその正体が掴めていないという。おそらくは軍や国といった手の届かない大きな部分での機密事項であるらしかった。とすれば、例の行商人の男というのはその試作に関わる実行部隊という可能性も出てくる。
「では――ヤツは女衒などではなかったということか」
「そうかも知れんな。いきなり戦闘用のロボットとして|戦場《いくさば》に駆り出すのは難しい。だからヤツは方々で見目の良い若者を拐っては遊女や男娼として売り飛ばしながら薬の効果を試していたのかも知れん」
拐ってきた若者に薬を投与し、色を売るなどという普通ならば嫌がるだろうことに素直に従うかどうかを試していたということだ。紫月はたまたまどこかで目をつけられて拉致されてきたということになるのだろう。
「だんだんと駒が揃ってきたな。あとはその男がどうやって一之宮をここまで連れて来たかという裏が取れれば言うことなしなんだが――」
そんな話をしていると、家令の真田がやって来て、客人が訪ねて来たことを告げた。驚くべきか、なんとそれは遼二の父である鐘崎僚一であった。
◆30
「親父――! どうして……」
「すまん、日本を発つ前に連絡を入れるつもりだったのだがな。それよりも紫月を連れ去った男の正体がようやくと分かってきたのだ」
僚一は息子の遼二がここ香港から送った情報を元に、紫月が行方不明になった前後の渡航記録などを詳しく調査してくれていたそうだ。
「時間が掛かっちまってすまなかった。紫月と共に男が搭乗していて、二人が連れ立って日本を出国した記録が見つかった。遼二が知らせてきた紫月の名前は『程ルナ』だったな。その線で調べを進めていたんだが、実は偽名だったようだ。搭乗記録にはまったく別の名で登録されていたが、顔写真で紫月と判明したんだ」
紫月のパスポートも当然か偽造だったようで、それゆえ突き止めるまでに時間が掛かってしまったのだそうだ。
「紫月を拐ったと思われていた行商人なる肝心の男だが、ヤツ自身は来日しておらず、ここ香港で紫月が到着するのを待っていたようだ」
整理すると経緯はこうだ。まず日本で紫月の容姿に目をつけた別の誰かが彼を拉致して例の薬物を盛り、その後一週間程は日本国内に滞在していたらしい。紫月の記憶が曖昧になった頃合いを見計らって日本を脱出、香港へ連れて行き、例の行商人なる男に引き渡したという流れだそうだ。
「拉致から一週間は日本国内に潜っていたことから渡航記録を追うのに難儀してな。突き止めるまでに時間を要した。おそらくここ香港に着いた時点で紫月の記憶はほぼ失われていたのではないかと推測される」
それからまた数日を掛けて行商人を名乗る男が紫月に薬を盛り続け、幼少の頃からのでっち上げの記憶を刷り込んだと見られる。完全に自我を失くしたことを確認後、この九龍城内の遊郭に売り飛ばした――とまあそういった経緯であった。
焔と遼二も紫月に盛られた薬物の件でこれまでに分かってきたことを説明する。僚一の方でも既にその薬物が世界各地で出回り始めたという噂を耳にしていたそうだ。
「その薬が開発されていることは少し前から裏の世界でも話題に上がっていてな。今は試作段階だそうだが、本格的に出回る前に何としても止めねばならん。現段階では確たる証拠が上がっているわけではないのだが、おそらくその薬を開発していると思われる組織の目星はついた。デスアライブという裏の世界の中でも特に厄介と言われている組織だ」
「デスアライブだって……? 唯一実態が掴みきれていないというあの組織か」
焔と遼二も驚きに目を剥いて互いを見合う。
「そうだ。デスアライブ、通称DA――。死んでいるのか生きているのか実態が見えないと言われて悪名高い組織だ。俺たちの間では開発中のその薬物のことを組織名と同じDAと呼んでいる」
今回、たまたま紫月が拐われたことで組織の実行部隊のやり口が見え掛けてきたわけだが、薬の開発という点からしても医学の知識を持った有能な化学者などを抱き込んでいると見て間違いない。他には行商人の男らのような者が数多く存在するはずだ。
「そこでだ。既に焔の親父さん――周隼にも話をして承諾を得たが、俺はしばらくここ香港に本拠地を移すことに決めた」
「|香港《ここ》に本拠地を移すだって……?」
突然の父親の言葉に遼二はめっぽう驚かされてしまった。
◆31
「おそらく紫月をここに連れて来た行商人を名乗る男、そいつは今後もこの城壁内の遊郭へ薬物の効き目を確かめる為に遊女や男娼を売りに来ると踏んでいる。もしかしたら紫月の他にも既にここの遊郭に連れて来られた者たちがいるかも知れない」
それゆえまずはここの遊郭内をくまなく調査し、紫月が盛られたものと同じ茶葉や薬物を所持している者がいるかどうかの調査から始めるという。と同時に再びその行商人なる男が現れる機会を窺おうということだそうだ。
「遼二、お前にもここへ残ってもらい調査に加わってもらうことになる。日本からは組番頭の源さんはじめ、幹部連中にも幾人かこちらへ移動してもらうつもりだ」
組番頭とは長の僚一を支える要中の要、いわば右腕となる側近である。名を東堂源次郎といい、四半世紀以上に渡って組の台所を預けてきた精鋭だ。年は僚一より十ほども上だが、忠義に厚く、仕事の点ではむろんのこと、今は若頭となって立派に成長した遼二のことも生まれた時から心血注いで育ててくれた親も同然の人物であった。
「源さんまで香港に……。ってことは……日本の邸を畳むってわけか?」
「いや、組員を二手に分けて日本でも同様にDAの洗い出しに努めてもらう。現に日本国内で紫月が拉致されているのは事実だ。今後も同じ手口が使われるだろうことは容易に予測がつく。警視庁とも連携して出入国記録を徹底的に見張り、洗い出す方向で調べを進める算段だ」
驚かされたのはそれだけではない。何と紫月の父親の一之宮飛燕も共にこの香港へ引っ越して来るというのだ。
「当然のことながら飛燕も紫月のことを心配していてな。道場の方はこれまでも住み込みで手伝ってくれていた綾乃木天音に任せて来るそうだ。飛燕にはこの城壁内で道場を開いてもらい、俺たちも組事務所を構える。焔の親父さんの話では今ある焔の邸の裏手には広大な空き地が余っているそうだな? そこに組と道場を新設させてもらうことになったのだ」
「組と道場を新設って……じゃあこれから本格的にここへ住むつもりなのか?」
「そういうことだ。あの闇組織をぶっ潰すまでは長丁場となることが想像される。十年二十年でカタがつけば御の字と踏んでいる」
もしかしたらそれ以上掛かることもあるだろうという。つまりほぼ永住の覚悟を以ても必ず潰さなければならない相手だというのだ。
「厳しく長い闘いになる。お前にも紫月にも生まれ育った国を離れて苦労を強いるが、あのような闇組織をはびこらせるわけにはいかんのだ。誰かが腰を上げねば十年後二十年後、しいてはその先の未来が悪人どもに泣かされる世の中となってしまう」
どうか意を汲んで理解してくれるようにと言って僚一は頭を下げた。
◆32
「親父――頭を上げてくれ! そんなふうにされちゃ……俺はそれこそ合わせる顔がねえ」
遼二にしてみれば、紫月――いや、ルナの記憶が戻るまではこの香港を離れられないと思っていた矢先だ。いうなれば遼二の方から組には戻らず、しばらくこの香港に残らせて欲しいと頼まねばならなかったところ、偶然とはいえこれでは棚から牡丹餅も同然の成り行きだからだ。
「すまない、親父――。実は俺の方から……」
そう言い掛けた遼二の肩を掴んでゆるやかに首を振ったのは焔だった。
「運命だ、カネ。経緯はどうあれお前がこの地でルナ――一之宮――と親父さんたち、それから俺たちと共に生きていけと、これも天からのお達しと思って力を合わせていこうじゃねえか」
共に精一杯生きていこうじゃねえか――!
友の力強い言葉に目頭が熱くなる。
「周焔……ああ、そうだな。お前らと共に――」
これから先もずっと――!
そっとルナの肩を抱き寄せた遼二の瞳は滲み出した雫がキラリと光り、口元には穏やかな笑みが浮かべられる。この先も決して平穏な日々ではなかろうが、それでも愛する者、信じ合える仲間たちと一緒ならば、きっと乗り越えていけることだろう。誰もが同じ思いで互いを見つめて微笑み合う。
闇といわれた城壁の中に、またひとつ新たな光が灯ろうとしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、皇帝邸内の寝所で遼二はルナ――紫月――と向かい合い、どちらからともなく手を重ね合っていた。
「ルナ――これでもうお前が男娼にさせられる心配はなくなった。頭取には皇帝周焔から直々に事情を説明してくれるそうだ。ここの遊郭街でも本格的な調べが始まる」
組の本拠地をここ香港に移す為の建築も始まるが、建ち上がるまでは当分この皇帝邸でこれまで通り暮らすことになると遼二は言った。
「あのさ、センセ。俺が行方不明になった紫月だっていうのは理解できた。けど、いいのか? 俺、記憶も戻ってねえし、もしかしたらこのまんまずっと戻らないままってことも有り得るじゃん」
もう男娼になる為の教育も必要ないというのに、そんな自分が皆んなの側にいてもいいのかと言う。
「正直……俺は『紫月』とか呼ばれても実感湧かねえし、ここに置いてもらってもセンセやセンセの親父さんたちに迷惑かけちまうんじゃねえかなって」
うつむくルナ――紫月――の手を引き寄せて、腕の中へと抱き締めた。
「そんな心配なぞする必要はねえ。遠慮もいらねえ。確かにお前は紫月だが、ルナでもあるんだ。俺はどちらも大切だしどちらも愛しくて仕方ねえ。例え記憶が戻らなかろうと、また一から一緒に俺たちの記憶を作っていけばいいんだ」
「センセ……ホントにそれでいいの?」
「当たり前だ。お前にいなくなられたら、今度こそ俺は気が違いそうだ」
「何言って……」
「本心だ。俺はお前なしじゃ抜け殻も同然なんだ。昔のことなんざ覚えていなくてもいい。今のお前のままでいい。紫月の記憶もルナの記憶も全部お前だ。俺は何度巡り逢ってもお前に惹かれる。何度でも愛するのはお前だけだ。だから――側にいて欲しい。生涯離れねえと云って欲しい」
「先生……」
「愛している――」