皇帝寝所
◆33
「先生……」
「もうあと一週間もすればお前の――紫月の親父さんもこの香港へ引っ越して来るそうだ。学生時代のアルバムなんかも持って来てくれるそうだからな」
それを見れば何か思い出すことがあるかも知れないと言って穏やかに微笑む。
「アルバム……か。ってことは、もしかしてセンセも一緒に写ってたりする?」
「ああ、もちろんだ。俺とお前は四六時中一緒に過ごしていたからな。誕生日会の写真や道場での夏合宿の時のなんかもあるだろうよ」
「へえ、誕生日かぁ。そういや俺、自分の誕生日なんて考えたことなかったな……」
いつ生まれたのかも知らないし、年齢さえも行商人の男からは聞かされていなかったことに気付く。
「お前が生まれたのは二月の二日、二のゾロ目の日だ。月が紫色に輝く晴天の晩だったそうでな。それで親父さんはお前に紫月と名付けたんだそうだ」
「そうなんだ……。二月二日か……」
「お前が生まれた日、道場の庭には紅椿の花が満開を迎えていたそうでな。当初、ご両親は椿という文字を含んだ名にしようかと思っていろいろと案を考えていたそうだ。だが、お前を生むと同時にお袋さんは病でこの世を去られたんだ」
「お袋が……? じゃあ俺……母ちゃんいねえん……だ?」
「椿の花ってのは咲いたまま首を落として散るという。お前を生み落としてすぐに亡くなったお袋さんを思うと、椿という名にはできなかったのだと親父さんから聞いたことがある」
「それで紫月になったんだ……?」
「お袋さんの名は泪さんだった。亡くなる直前に空に浮かんだ月を見上げて言ったそうだ。涙をいっぱいに溜めて――とても綺麗な月夜ね――ってな。まるでその月を掴まんと手を伸ばして、そのまま眠るように逝ったと。だから親父さんはお前に紫月という名をつけたんだそうだ」
遼二は自らの寝巻きの袷を開くと、グイとそれを引き摺り下ろしてルナに見せた。
「わ……! すげ……。それって刺青……?」
逞しく筋肉の張った肩先から腕にかけて大輪の紅椿が彫られていた。
「この彫り物は――親父の作った組を継いで極道として生きていくことを決めた時に入れたものだ。お前の生まれた日に、その誕生を慶ぶかのように咲き誇っていた満開の紅椿の花――。ご両親が、お前が生まれたらその名に一文字入れようと心待ちにしていた椿の文字――。俺はそいつを生涯この肩に背負って生きていきたいと思ったからだ。お袋さんが、あれやこれやと楽しみにしながら……大きなお腹を抱えて考えていたお前の名を――決して消えぬ形としててめえの身体に刻みたい。そう思ったんだ」
「先生……」
ポロリ、ルナの瞳から大粒の真珠の様な涙が頬を滑って落ちた。
「ルナ、そして紫月――。俺は心の底からおめえを愛している。てめえの命よりも、この世に存在するどんなものよりもおめえが大事だ。おめえがいなけりゃ俺はただの抜け殻だ」
「先生……ッ、俺……」
ボロボロとこぼれる滝のような涙で肩に咲いた紅椿の花びらを濡らさん勢いでしがみついた。
「俺……俺も……ッ、センセとここで暮らす内に……センセのこと……好きンなって、もう男娼になんかなりたくねえって思って……。辛かった。苦しかった。センセや皇帝様や、冰君や真田さんと離れて遊郭に戻される日がいつ来るんだろうって……ビクビクしながら……」
「ルナ――ッ」
堪らずに遼二は腕の中の華奢な身体を抱き締めた。
◆34
「もう何も心配は要らねえ――! 俺は――俺たちは二度とお前を離さねえから安心して側にいてくれ!」
「ん……、うん! 俺、きっと思い出せるように努力する。だってよ、知りてえじゃん? 俺が先生や親父さんたちとどんなふうに過ごしてきたのかってことをさ。時間は掛かるかも知んねえけど、きっと思い出せるって信じてがんばるからさ」
「紫月……! ルナ! ああ、ああそうだな。共に過ごす内にきっと思い出せる時がくる。だからお前は心配しねえで――、無理に思い出そうと苦しまねえで、お前のままでいればいいんだ」
そっと――額と額を重ね合い、そのまま触れるだけのキスを交わす。
「ルナ――お前の心が覚えていなくてもお前の身体は覚えているはずだ。記憶はなくともお前が日本語を覚えていたように、お前の身体は俺を覚えているはず――」
初めて情を交わしたのはいつだったろうか。あれは紫月が高校に上がって間もなくの時だった。
「場所はおめえの部屋だった。土砂降りの雨の宵だ。親父さんと住み込みの綾乃木さんは道場関係の組合の旅行に出掛けていて、その日は帰らないと分かっていた。お前一人で留守番をさせることになるからって、親父さんから泊まりに来てやってくれと頼まれた」
そんな日に、まるで目を盗むようで戸惑いもしたのだが――と遼二は言った。
「俺が二十歳、お前が十六の時だ。互いに若かったからな。親父さんの信頼を裏切っちゃいけねえという思いも……てめえの欲情には勝てなかった。俺は夢中でおめえを抱いたんだ」
初めてのことだし勝手も分からず、紫月にはかなり負担を掛けてしまったことだけは鮮明に覚えている。
「それでもひとつになれた時はうれしくてな。おめえはめちゃくちゃ痛がって、ボロボロ涙を流したっけ。けど――それでもうれしいっつって俺にギュウギュウしがみついてくれてた。愛しかった――。この世にこんな幸せなことがあるのかと思った」
「先生……」
「その日をきっかけに俺たちは夢中になって情を重ねた。時には俺の部屋、時にはお前の部屋。だが一番多かったのはホテルだったな」
何せ互いの部屋ではいつ誰に見つからないとも限らない。わざわざ家から遠く離れた都内のホテルまで行ったりして、親の目を盗みながらの情事は窮屈なものだと思っていたあの頃が懐かしいと言って遼二は笑った。双方の親たちにそんな自分たちの関係を打ち明けたのは、紫月が高校を卒業した春のことだったそうだ。
「俺たちはものすげえ緊張してな。心臓がはち切れそうになりながら親父たちに打ち明けたんだ。俺たちは男同士で――おそらくは認めてもらえねえかも知れないと前置きした上で、それでも二人で生涯を共にしたいんだと云ったんだ。そうしたら――何のことはねえ、親父たちからはとっくに気がついていたと言われてな。おめえの親父さんは……まだ高校生のガキがマセた真似しやがってって笑ってくれたが、俺の方は親父に頭小突かれたっけ。紫月を傷モンにした責任は生涯彼を愛し抜くことで償えと言われてな」
まあ父の僚一も二人が決していい加減な気持ちではないと信じてくれていたようだが、それでも紫月の父親の手前、そんなふうに叱咤激励したのだそうだ。
だが、紫月の父親の飛燕はそういった僚一の気持ちも含めて全てを理解してくれていたそうで、『まあ、そう怒るな』と言って僚一を宥めてくれたそうだ。そして、若い二人を信じてやろう、世間がどう言おうと俺たち親だけは二人をあたたかく見守ってやろうと言ってくれたのだそうだ。
◆35
「そう……だったんだ。俺ン親父がそんなふうに……」
紫月――ルナは感激に瞳を震わせながらまだ見ぬ父親の姿に思いを馳せているようだった。
「なあ先生、俺ン親父って……どんな人? 例えば……見た目とか性質とか」
「親父さんか? そうだな、見た目はものすげえ男前だぞ。性質は今言った通りの、あったかくてでっけえ心の持ち主だ」
「へえ……。んじゃ、顔とか俺と似てる?」
「そうだな。ふとした仕草とか――例えば笑ったりする時の表情とかはよく似てるなと思うところはあるな。ああ、やっぱり親子だなって思うが、おめえはどちらかといったら顔立ちはお袋さん似だそうだぞ」
「お袋似?」
「ああ。飛燕さんがよく言ってた。出逢った頃の母さんにそっくりになりやがったってな」
「へえ……、そっか。俺、お袋に似てんだ……」
「俺もまだほんのガキだったから、そうはっきりは覚えてねえが、めちゃくちゃ美人だったって俺の親父や組の者も言ってた」
「ほええ、そうなんだ……」
会ってみたかったなというような顔つきで瞳を細めた彼をギュッと抱き締めた。
「会いにいこう、二人で――。香港での生活がひと段落ついたら一度日本に帰って、二人でおめえのお袋さんの墓前に報告したい。今俺たちはものすげえ幸せです、心配しないで見守っててくださいってな」
「先生……ありがと。ありがとう。俺、そんなん言ってもらえて……すっげうれし……」
涙声を気恥ずかしそうに隠しながら笑った彼を、また再びギュッと抱き締めた。
「紫月――ルナ……」
頬に手を寄せ、涙の跡を指先で拭いながら見つめる視線はとろけるように熱い。もう待てない、欲しくて仕方ない、早くひとつになりたいと欲情にゆらめく瞳がそう云っている。ルナもまた、腹の底からゾワゾワと這い上がってくるその感覚のまま、どちらからともなく唇を重ね合った。
先程の――触れるだけの小さなキスとは真逆の、深くて濃い、激しいキスだ。
「遼先生……」
「大丈夫だ。俺の背中に腕を回して――しっかり掴まってろ。おめえの身体は必ず俺を覚えているはずだ。辛いことはねえ」
「うん……。うん!」
そのままもつれ合い、広い寝所のシーツに身を委ねる。愛撫の隙間に時折触れ合う身体の中心は熱く硬く、欲情の度合いを示している。
「硬……、センセの……すっげでっけ……」
「ん? おめえのだって――ほら」
キュっと鈴口を指で撫でられて、ビクりと腰が浮く。両脚を軽々持ち上げられて、硬く怒張した雄を擦り付けられる感覚に、身体中の筋肉が強張るようだ。
「大丈夫だ。力を抜け。俺を信じろ――」
「ん……うん、もち……! 信じてるし、すっげうれし……けど」
「怖いか?」
そう言って愛しげに微笑む表情にドキドキと心臓が高鳴る。やさしく髪を梳く指の感覚が心地好く、男前の笑顔が信じられないくらい格好良く思えて、どうしようもない感覚に包まれる。
「こ……わくねえ。先生になら……何されても俺……さ」
「ルナ、あまり俺を喜ばせるな」
◆36
そのままもつれ合い、二人夢中になって互いを求め合った。遼二は丁寧にルナをほぐし、舌で愛撫し少しずつ指を押し込んで彼の一番いいところを刺激する。
「う……あッ……! センセ……」
「ここだろ? お前の一等感じる秘所だ。俺しか知らない――」
「ん……うん……ッあ、遼……センセ……ッ」
「ルナ、『先生』はいらねえ」
「んあ……うん、そ……だった。セン……遼……ッ」
指を抜かれて欲情に濡れたそこに硬く熱いものが触れる。
「りょ……ッ」
「好きだ、ルナ。愛している――」
「う……うん、俺も……」
愛している。
愛している――!
何度も同じ囁きが耳元をくすぐる。
「ルナ、目を開け。俺たちはひとつだ」
「……え? マ……ジ……?」
「ああ――」
いつどんなふうにされたのかも分からないまま、しがみついていただけだ。
「な――? 怖くねえだろ?」
甘くて欲情の灯った吐息がそう囁くと同時に、またも一番いいところに刺激を与えられてルナはのけぞった。
「んあ……ッ、遼……」
「ルナ――」
そう煽るな。俺だってかれこれ四ヶ月ぶりなんだ。
もっと繋がっていたいが我慢が効かねえ――!
そんな心の内を代弁するかのような表情に、ギュッと心が摘まれてはち切れそうだ。
ゆるやかでやさしかった律動が次第に激しさに増していく一瞬一瞬が夢幻のようにうれしくてならなかった。
そのまま夜が白み始めるまで求め合い、愛しみ合ったのだった。
長かった四ヶ月、紫月が行方不明になってからの地獄のような日々――。
瓜二つのルナと再会した瞬間の驚き。
何もかもが走馬灯のように脳裏を巡り、心震わせる。
例え記憶が戻らずとも構わない。
ここから、今この瞬間から、また共に新しい記憶を重ねていこう。
お前とならば、あなたとならば、怖いものなど何もない。
側にはそんな自分たちを見守ってくれるあたたかい友や家族――。
遼二と紫月の新しい思い出が生まれ出でる。香港、九龍城砦に芽吹いた愛情と友情の種が、開花の時を待ち侘びているようだった。
◇ ◇ ◇