皇帝寝所

皇帝の縁談



◆37
 香港、九龍城砦――。

 一之宮紫月がルナとして暮らし始めてから四年の月日が流れようとしていた。
 紫月の記憶は未だ戻らず、すっかりルナという呼び名が定着したその頃――それでもルナの性質は以前の紫月そのものというくらいに明るさを取り戻していた。
 周焔の皇帝邸の裏手には鐘崎組の立派な事務所と一之宮道場が完成して、移り住んだ者たちもここでの生活に慣れ、紫月を拉致した闇組織の解明に向けても少しずつだが進展を見せ始めていた。
 周焔と鐘崎遼二は共に二十七歳となり、焔に至っては今や城壁の皇帝として押しも押されもしない堂々たる存在である。ルナは二十四でまさに美しさの盛り、そして中学生だった冰も高校に通う十七歳、あどけなかった子供もすっかり青年の兆しを見せるほどの成長ぶりだ。
 冰の育ての親である黄老人は高齢となったものの未だ健在で、週の半分はカジノへ通い、現役のディーラーとして活躍していた。
 信頼できる家族や仲間たちとの生活は心地好く、誰もが幸せといえる日々を送っていた中、目下の悩みは皇帝周焔に持ち上がった縁談の話であった。城壁内に通う得意客のお偉方から焔との婚姻を世話したいという再三の申し出が聞こえるようになっていたからである。
 焔の父親はここ香港の裏社会を仕切るマフィアのトップである。むろんのこと、城外にいるその父にも縁談の話は持ち込まれていたものの、そういったことは息子の意思を第一に考えたいとのことで、縁談を望むお偉方にとっては少々頭の痛いところだったようだ。
「まったく……困ったものですな。皇帝はまだ身をお堅めになるご意思がないようで、何度お訪ねしても首を縦に振ってはくださらない。もう二十七にもなろうというのに、未だ独り身をお続けなさるおつもりか」
「皇帝は妾腹であられるが、御尊父の実子であることは間違いない事実だ。ご長男の周風様は既に姐様をお娶りになられた今、周家と縁を持つには次男の皇帝殿しかいらっしゃらないというのに――」
 つまり、お偉方にとって焔との婚姻は周家との縁を持ちたいが為であって、焔自身の幸せを思ってのことではないわけだ。それが分かっているから父の周隼も、また焔本人もこの縁談には乗り気でないというところでもある。
 しかしながらお偉方にとっては焔との婚姻が周家と繋がりを持つ為の最後の手段であるのも確かで、ゆえに何とかして見合いの場だけでも持たせてもらえればと躍起になっているわけだ。それというのも、周家には子が二人しかいないからである。周風と周焔の兄弟だ。
 本来であれば血筋も立場も申し分ない長男の周風に嫁入りできれば万々歳なのだが、当の周風は既に結婚してしまっている。妾腹とはいえ、残るは次男坊の周焔を逃す手はない――と、まあそういったところなのだ。



◆38
「困ったとばかりも言ってはおられぬ。何とかせんと――」
「そういえば皇帝はご自分のお邸に見ず知らずの子供を住まわせているとか。いったいどういったご関係の子供なのでしょうな?」
「ああ、あの子供か。確かカジノディーラーの黄の子だとかいう噂ですな」
「黄か――。あの爺さん、腕は大層いいと評判の男だが、確か彼は独身だったはずだがな」
「何でも隣家に住んでいた子供を引き取ったとかで、親代わりのようですぞ」
「ふむ、親代わりとな……。それが何で皇帝の邸に居候なぞしておるのだ。何か特別なご関係があるのだろうか」
 お偉方の噂に上っているのは冰のことである。
「今は高校生のようだが、学園への送り迎えに皇帝のご側近がわざわざ付いて行きなさるとか……。よほど大事にしているということですな。誰かその子供を見たことのある者はおられんのか。縁談を勧めるにしてもそんな子供が一緒に暮らしていたのではお輿入れする方でもお気になさるだろうに」
「噂では大層な美少年のようですぞ。まさかとは思うが、皇帝周焔は男色――などということはなかろうな」
「男色――? まさか……皇帝に限ってそんな……」
「分からんぞ。数年前から皇帝邸の裏に用心棒の事務所が建っただろうが。この街の治安の為に組織されたと聞いておるが、そこの若頭とかいう男が男色だそうでな。遊郭街で男娼になるはずだった男を気に入って、自分の伽の相手として引き抜いたとの噂もある」
「その話ならわしも知っておりますぞ! なんでも日本からやって来た鐘崎組とかいう極道だそうだな。若頭というのは皇帝のご親友だとか」
「なんと! 破廉恥な! まさか皇帝もその親友に感化なされて同性にご興味を持たれたなどというまいな?」
 一気に場が静まり返り、誰ともなしに互いの顔を見合わせる。
「冗談ではありませんぞ! それでは我々の計画が台無しだ!」
「そうですよ! せっかく欣殿のご令嬢との縁組をと思って計画をあたためてきた我々の思惑はどうなってしまうのです!」
 欣殿というのは彼らの仲間内の企業家で、年頃の娘がいる男のことだ。この城壁内に通っているわけではないが、香港屈指の企業家でもあり、表の世界では名だたる家柄だ。そんな欣家に裏のナンバーワンである周一族との縁ができればますますもって怖いものなし、欣家の当主もこの縁談には乗り気のようだ。
 しかも娘はなかなかの美人であることから、彼女が相手ならば皇帝も文句はあるまいと思い、皆で相談して縁談を決めたわけだった。
 事が上手く運んで欣の娘が皇帝の妻になれば、縁談を取り持った彼らとてこの街の中で実権を握れることになる。欣家は皇帝の家族親戚となり、その欣がお偉方たちにも相応の立場を用意するという計画である。
「これは……そうおちおちしてもおられませんぞ! 皇帝がヘタな気を起こされる前に、一緒に住んでいるというその子供を引き離しませんと」
「おお、その通りだ。仮に皇帝が男色でなくとも、そんなガキをお側に置いていたんじゃ、いつ間違いが起こらないとも限りませんぞ。親友の若頭とやらに触発されてご自身も男を伽の相手にしようなどと思われたら取り返しがつかん! 何としてでもその子供を追い出し、欣殿の娘御と引き合わせねばなりますまい」
「おっしゃる通りです! 皇帝だって欣殿のご令嬢を一目見れば絶対にお気に入られるはず! 悠長にしている暇はありませんぞ!」
 とにかく皇帝の興味をご令嬢に向かせることができさえすれば、きっと気も変わられる――皆は急ぎ皇帝の元から居候の子供を引き離す策を巡らせるのだった。



◆39
 お偉方たちがそんな企てに団結していた頃――。
 周焔の皇帝邸では当の冰が少々元気のない日々を過ごしていた。
「どした? 冰君、このトコ何だか元気なさそうに見えっけども。どっか具合でも悪いんだったら今日は勉強すんのやめにして横になった方がいいかも」
 冰は高校になった今でも学校から帰るとすぐにルナに勉強を見てもらう習慣が続いている。学園から帰るとすぐに、二人でお茶をしながら宿題方々ノートを広げているのだ。
 焔はこの街の行政や治安などの為、昼間は出掛けていることも多い。今日も然りだった。また、遼二も彼の父親や組の若い衆らと例の闇組織について調査に出ており、冰は夕飯までの間ルナと真田ら家令の者たちと共に過ごすのが日課となっていた。
 いつもは明るく朗らかな冰がここのところ何だか酷く落ち込んでいるようで、ルナとしても気に掛かっていたのだ。
「あの……ルナお兄さん」
「ん? どした? やっぱ体調が優れねえんか?」
 ルナはそっと彼の顔を覗き込むようにして穏やかに耳を傾けた。
「いえ、体調は……悪くないんです。ただ……白龍のお兄さんのことでちょっと……」
「皇帝様の?」
「……はい。あの、白龍のお兄さん……結婚するかも知れないんですよね?」
 ルナもまた、焔にこの街のお偉方たちから縁談を勧められていることを聞いていた。
「ああ、そのことか。けど遼の話じゃ皇帝様はその縁談を断ったって聞いてるけど」
「……! 断ったんですか? 白龍のお兄さんが?」
「うん! まだ当分結婚するつもりはないって言ってたそうだぜ。もしかして冰君、そのことで悩んでるんか?」
「ええ、まあ……。もしも白龍のお兄さんが結婚して……お嫁さんがいらしたら、僕はお邪魔になってしまうんじゃないかって思って……。じいちゃんと一緒に元のアパートに戻った方がいいのかなって」
 うつむき加減で声音も弱々しく、今にも泣き出しそうな表情で言う。ルナは驚いてしまった。
「まさか! 冰君が邪魔になるなんて、そんなことあるわきゃねえって! 俺とか遼とか、傍から見てても皇帝様が冰君のことすっげ大事に思ってるのが分かるしさ」
「……はい、僕もそう思います。お兄さんは初めて会った時からすごくやさしくしてくれるし、俺やじいちゃんのこと家族同然に思ってくれてるって……聞いてますから。でも、だからこそお兄さんの邪魔になっちゃいけないって思うんです。僕たちは本当の兄弟でもないし、ここに住むことになったのだって僕がまだ子供だったからで……お兄さんは気遣ってくれたんだと思います。でももう高校生ですし……お嫁さんだって僕やじいちゃんがいたら、窮屈な思いをされるんじゃないかって……思って」
 クスンと小さく鼻をすすりながら、ずっとうつむいたままだ。ルナもまた、そんな彼の姿に心が痛む思いがするのだった。



◆40
 その夜、ルナは遼二に昼間のことを打ち明けた。
「――そうか。冰がそんなことをな」
「なあ、遼。遼はどう思う? 俺は――仮に皇帝様が結婚することになったとしても、冰君たちを追い出すようなことはしねえんじゃねえかって思うんだけど……」
「ふむ――まあ、あいつも縁談話ははっきり断っているようだしな。周囲のお偉方が世話を焼いているだけで、あいつにはまだ当分そんな気はねえだろうからな」
「だよな。俺もそう思う。ってかさ、俺思うんだけど――皇帝様って冰君のこと好きなんじゃねえかなって。別に根拠はねえけど、何となくそんな気がしてたっつーか、俺がここに来た頃からすっげ大事にしてるのは感じてたし、二人の様子見てるとお似合いっていうかさ。漠然とそんなふうに感じてたような気もしてさ」
「そうだな。周焔が冰を大事に思っているのは確かだ。ここへ来たばかりの頃にあいつから聞いたんだが、冰は周ファミリーに与する末端の者たちが起こした抗争によって両親を亡くしたとのことだった。焔はそのことに責任を感じて冰を引き取ったそうだが、その時えらく不憫に思ったんだそうだ。あいつ自身もお袋さんがお妾だからという理由で、ファミリーの中で何かと気苦労をしてきたそうでな。むろんあいつの両親や兄貴は実子も妾腹もなく本物の家族としてやさしく接してくれたんだそうだが、周囲にはそれを快く思わない連中も多少なりといたようだ。ヘンな話だが、毒殺などを企み掛けられたこともあったそうだ」
「毒殺……!? 頭領の息子を毒殺しようってか? いくらお妾の子だからってそんな……」
 ルナは驚いていたが、それが事実だ。
 そんな連中を説得する為にも父の周隼は焔にこの城壁内の統治を任せ、実質的にはファミリーの元から切り離すことで焔の安全を図ろうとしたのだという。上手くこの城内を治められれば焔の実力も示せることだし、うるさい連中を黙らせることもできよう――と、まあそんな理由だったらしい。
「両親を亡くした幼い冰がこんな――と言っては語弊があるが、いわば歓楽街とも闇とも言われているこの城壁内に引越して来て隣人の爺さんが育てていたわけだ。焔はそんな冰に自分を重ねていたのかも知れん。何があってもこの子供にだけは辛く寂しい思いをして欲しくないと強く願ったそうだ」
「それで……皇帝様が自ら冰君を引き取って育てることにしたってわけか」
「そのようだ。まあ冰もあの通り素直でやさしい性質だからな。共に暮らす内に愛情が芽生えたとしても不思議はない。それが俺たちのような恋情だとは限らないが、焔が冰をことの他大事に思っているのは事実だろう」
「そっか……。そう言われてみれば冰君の方も……単に頼る相手っていうよりは皇帝様にそれ以上の気持ちを抱いているようにも感じられるな」
「お前の目から見てそう感じるか?」
「うん……。だって冰君、ものすごい寂しそうなツラしててさ。あれは……自分がここに居られなくなるかも知れないっていう不安の気持ちより皇帝様の側を離れるのが辛いっていうふうにも思えてさ」
「――ふむ。一度焔に俺から気持ちを聞いてみるか」
「皇帝様が冰君のことをどう思ってるかってこと?」
「ああ、まあそんなところだ」
 親友の遼二にならば焔も素直な気持ちを打ち明けてくれるかも知れない。ルナは期待に祈るような心持ちでいるのだった。



◆41
 その翌日のこと――皇帝邸では海外からやって来た要人をもてなす大々的な祝宴が催されることになっていて、城内はいつにも増して慌ただしい雰囲気に包まれていた。
 いつもは皇帝側近の李か劉が担当していた冰の送迎だが、あいにく要人らの接待に追われ、二人共に手が空かないという状況であった。そろそろ冰の授業が終わろうという時間帯には夕刻を前にして続々と要人が到着し、その接待で猫の手も借りたいほどの忙しさだった。
 そんな状況を気の毒に思ってか、今日は家令の真田が冰を迎えに行くことになったのを聞いたルナが、それだったら自分も一緒に行こうと申し出た。
「申し訳ありません。真田さんやルナさんにもお手を煩わせてしまって……」
 李と劉は恐縮していたが、実際助かることに変わりはない。皇帝自身は要人に囲まれて身動きすらないできない状況だし、遼二も要人の警護ということで焔と共に奔走中である。まあ学園まで迎えに行くだけならさして危ないこともなかろうということで、ここは真田らの厚意に甘えることになったのだった。
 真田としても若いルナが一緒に行ってくれるというので安心である。二人は揃って冰の通う学園まで出向くこととなった。
 そろそろ授業が終わる時間帯、ルナは道場に立ち寄り、実父の飛燕にひと言出掛ける旨を告げた。
「お父さん、稽古中にすみません。これから真田さんと一緒に冰君を迎えに行って来るから」
「おう、ルナか。気をつけて行って来いな」
 飛燕は稽古の手をとめて微笑んだ。
 ルナは飛燕のことを『お父さん』と呼んでいる。記憶を失くす前は『親父』と呼んでいたものの、事情が事情だけにその呼び方を覚えていないのは仕方ない。言葉使いも時折敬語が混じるのが若干寂しいと思えなくもないが、飛燕もよくよく理解していて、お父さんと呼んでもらえるだけでも有り難いと思っていた。
 飛燕がここに道場を開いてからはルナも通って来る子供たちの道具の出し入れや掃除など、できることは進んで手伝ってくれていたので、飛燕にしてみればそれだけで充分に幸せであった。
 思えば行方不明になる前の紫月もそうして道場を手伝ってくれていたわけだ。今は『ルナ』と呼ぶようになろうとも、他人行儀な敬語まじりで話さねばならなくとも、あの頃と変わらず息子と共に道場の仕事に就けているのだ。飛燕はそれだけで満足だった。
「じゃあ行ってきます」
「うむ、気をつけてな」
 飛燕に送り出されてルナと真田は冰の通う学園へと向かった。ちょうど授業が終わったようで、校門付近は下校の学生らで賑やかだった。
「あ! 来た来た! 冰君だ」
 ルナが笑顔で手を振ると、冰の方でも嬉しい驚きにそれこそ仔犬のような仕草で駆け寄って来た。
「ルナお兄さーん! 真田さん! うわぁ、今日はルナお兄さんたちがお迎えに来てくださったんですか!」
「うん、皇帝様たちはお客人の接待で身動き取れないって感じだったからさぁ」
「そういえば今日は海外からお客様がたくさんお見えになってるんですよね!」
「うん! お邸の方は賑やかだったぜー! そいでな、今日の夕飯は遼の家で一緒に食べることになってんだ」
「わぁ! 遼二先生のお家で?」
「そうそう! 今日はすき焼きだって! デザートには料理長さんがケーキ焼いてくれてんだ。帰って宿題終わったら俺も調理場を手伝おうと思ってさ」
「わーい! 楽しみです! じゃあ僕もお手伝いさせてください!」
 そんな話に笑顔を咲かせながら帰路を歩いていた時だ。少々人通りの少ない路地に差し掛かった辺りで、どこからともなく現れた数人の男たちに行く手を塞がれて、ルナは咄嗟に冰と真田を自身の背に隠した。見れば取り囲んできた相手はいかにもガラの悪そうな屈強な体格の男たちであったからだ。



◆42
「おい――何なんだ、あんたら」
 冰と真田を庇うように両腕を広げながらルナが厳しい表情を見せるも、男たちはヘラヘラと侮蔑笑いを繰り返しながら、ジリジリとこちらに向かって距離を詰めて来る――。
「そのガキをこっちに渡してもらおうか。おとなしく言う通りにすりゃあ、アンタらに用はねえ。ガキを置いてさっさと失せろ!」
 それこそ冗談ではないとルナも真田も目を吊り上げる。
「冰さん、私の後ろへ! 絶対に離れてはなりませんぞ!」
 真田は老体だが、気だけはまだまだ若いといったように冰を抱き抱える勢いで身体を張ろうとしている。だが、相手は体格のいい男が七、八人だ。若いルナがいるといっても乱闘になれば勝ち目は薄いのが目に見えている。
「この真田、例えここで命を落とそうとも絶対に冰さんを渡すようなことはいたしますまい!」
 忠義に厚い真田の心意気は頼もしいが、実際には張り手や蹴り一発で易々とやられてしまうだろう。そう踏んだルナは、とにかく応援が必要だと判断し、真田一人を何とかしてこの場から逃すことを考えた。
「真田さん、俺がヤツらの隙を作る。道場に行けばお父さんがいるから――呼んできてくれ」
 ルナが小声でそう言う。
「ルナさん……ですが……」
「大丈夫。冰君のことは俺が守る――。このままじゃ三人ともやられちまうのは目に見えてる。一刻も早く応援を頼む」
「承知しました! ではすぐに――」
 ルナはジリジリと敵との距離を取りながら、真田の一番近くにいた男の脚を蹴り上げた。
「行って! 真田さん!」
「は、はい……!」
 真田が必死に駆け出すも、男たちはあんな爺さんに用はないといったふうにして余裕の高笑いを浮かべてよこした。
「ふん! バカめが! どうせ逃すならあんなジジィよかこのガキにしときゃ良かったものをよー」
「まあお陰で手間が省けたわ。よもやてめえ一人でこのガキを守り切れるとでも思ってるわけじゃあるめえ」
 道場までの往復を考えると二十分といったところか――真田が帰るのに十分余り、飛燕が戻って来るのに十分弱。その間、冰を守りながら応戦するのはかなり厳しい。持ち堪える為には乱闘に持ち込んではならないと思い、ルナは何とかして男たちとの会話を引き延ばすことを考えた。なるべくフレンドリーに、ともすれば敵方の懐へ入り込むような愛想をも振り撒きながらルナは男たちに話し掛けた。
「兄さん方、この子をどうしようってんだ? 言っとくがこの子は皇帝様のご縁のあるお人だぜ?」
 ニヤっと笑みを見せながらも、そんな彼に何かあればただでは済まないぞと脅しをかける。ところが男たちの方では冰が皇帝邸に住んでいることも知っているようだ。
「ンなこたぁ聞かずとも承知の上よ! 俺たちはなぁ、さる筋からの依頼でそのガキを皇帝の元から追い払うように頼まれてきたんだ!」
「さる筋からだって? いったい誰のことよ」
「てめえに教えてやる筋合いはねえな。いいから早えとこそのガキを渡せ!」
「――渡せと言われて素直に渡したとあっちゃ、俺が皇帝様に合わせる顔が無くならぁな! せめて理由くらい聞かせてもらわなきゃ困る。俺ン立場もちっとは分かって欲しいんだけどな……。この子を皇帝様の邸から追い出すと言うが、連れ去ってどうしようってんだ」
 ルナの話しぶりにどことなく親近感を覚えるわけか、男たちは暴力を振るうでもなく一応は会話に乗ってくれている。こんなところはルナ――というか紫月持ち前の愛嬌が功を奏しているといったところだ。
「は――! しつけえ野郎だな。どうするもこうするもねえ! 俺たちゃあそのガキをこの城内から追い出せと言われてるだけなんでね。その後は売っ払おうがどうしようが自由にしていいってなお達しよ」
 ということは冰を邪魔に思う誰かがこの男たちを雇ったということか――。もしかしたら皇帝に縁談を持ち込んでいるお偉方あたりが絡んでいるのかも知れないとルナは思った。



◆43
「――は、なるほどね。だったらアンタ方はこの子に特別恨みがあるとか、そういったわけじゃねえのな?」
 ルナが訊くと男たちはその通りだと言ってせせら笑った。
「要は商売よ! そのガキを城内から追い出して、その後は金に変えるなり好きにしていいってことだからな。見たところそのガキもなかなかに見目がいい。世の中にゃ可愛いツラした若い男を好む変態オヤジもいるんでな。条件の良さそうなところに売っ払うまでよ」
「――ふぅん? 要は人身売買ってか? そんなことが皇帝様の耳に入ったら、アンタらマジで命が危ねえと思うけどね」
「心配には及ばん! ガキを売っ飛ばした後は高飛びよ! 俺たちゃこの香港に用はねえからな。皇帝様とやらにも二度と会うことはねえだろうぜ」
 なるほど。ということは、彼らは地元の人間ではなく香港の外から雇われてやって来た者というわけか。ルナはチラリと手元の時計を気に掛けながら、何とかしてもう少し会話を引き延ばさんと考えを巡らせていた。

(人身売買か……。ってことは、冰君一人じゃなくもっと金になりさえすればコイツらにとっては棚ボタなわけだ……。だったらここはひとつ大見栄切ってみるのもアリか)

 ルナは覚悟を決めると男たちを相手に大博打に出ることにした。
「アンタらの言い分は分かった。この子を売って金にしようってんだろ? だったら――ついでと言っちゃナンだが、俺ンことも一緒に買ってくれる気はねえか?」
 ニヤっと不適な笑みを見せながら堂々たる素振りをかます。男たちはさすがに驚いたようだ。
「てめえも一緒に――だと? どういうこった」
「まあ聞いてよ。俺は今日、皇帝様からこの子の護衛を任されて迎えに来たわけだ。ところがその任務を果たせなかったとあっちゃ、皇帝様に合わす顔がねえ。ってよりも、正直に言うとな、この子だけアンタらに連れ去られましたなんて言った日にゃ俺の身が危ねえわけ! アンタらは知らねえだろうが、ここの皇帝様ってのはえらくおっかねえお人でね。これまでにも任務に失敗した――なんてヤツらが即刻首切られちまうのを何度か見てきてんのよ」
 首を切るといっても、ただ免職になるという意味じゃねえぞとルナは苦笑する。
「解雇されるだけで済みゃ、まあいいんだけどな。言い訳さえ聞いてくれる間もなくその場でズドンよ!」
 指でピストルを模って銃殺だと訴える。
「俺ァそんなのはごめんだ。こんなことで命取られるなんざ冗談じゃねえ! だからこの子を掻っ攫うってんなら、俺も一緒に連れてってくんねえかってそう言ってるわけ!」
 男たちは予想外の申し出に戸惑いを見せる。互いに顔を見合わせながら、どうしたものかと決めかねているようだ。実のところ、抵抗されるようなら護衛を打ちのめして連れ去ろうと思っていたところ、抵抗どころか一緒に連れて行ってくれと言われるとは考えもしなかったからだ。
「なぁ、どうだ? 何なら俺も一緒に拉致られたってことにして、この城内から連れ出してくれるだけでもいいんだ。頼むよ、そう難しいこっちゃねえべ?」
 拝み倒す勢いでルナは懇願、男たちは呆れてしまったようだ。
「……どうも変な雲行きになってきやがったが……まあ仕方ねえ。素直にそのガキをこっちに渡すってんなら連れてってやらねえこともねえがな」
「マジ? そいつぁ有り難え! これで皇帝様に殺されなくて済むわ! 命拾いできるぜ」
 ルナはほとほと助かったというように安堵しながら、大袈裟に肩を落として見せた。
「……しかしおめえ、ここの皇帝ってのはそんなにやべえ野郎なのか? たった一度しくじったくれえで殺っちまうとか」
 それは本当なのか? と、胡散臭そうに眉根を寄せている。
「マジだって! 皇帝様はここ香港を仕切るマフィアのファミリーだからな。使えねえ人間はいらねえって、そういうところははっきりしたお方よ! とにかくそうと決まったら早くズラかろうぜ! こんなトコでノコノコやってたらやべえことンなるって!」
 ルナはすっかり敵方に寝返ったふうに装いながらも、見つかりにくい裏道を教えると言って男たちを油断させる。時間的にはそろそろ真田が呼びに行った飛燕が駆け付けて来る頃合いだ。裏道と言いながら道場へ向かって歩けば、どこかで必ず鉢合わせるはず――。と、その時だった。猛スピードで一台のバイクが近付いて来るなり、

「受け取れ、紫月!」

 空に舞ったのは一本の日本刀――。駆け付けて来た飛燕が投げてよこしたそれを受け取ったと同時に、目視できないほどの早技でルナはその鞘を抜いた。



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