皇帝寝所

解けた記憶の糸



◆44
 と同時に男たちの服のボタンやベルトなどを次々と切り落としていく。中には結っていた髪留めのゴムだけを切られて、長髪がバサリと空に舞った男もいる。皆一様に何が起こったのかすら分からない内に長刃の先に引っ掛けられてズボンが膝まで落ちたりシャツの前が開いて素肌が晒されたり――ふと気付いた時にはあまりの驚きで全員その場で腰を抜かしてしまっていた。

「親父! 冰君を頼む!」

 ルナは言うと、刃を逆さに持ち替えては峰打ちの構えを取り、腰を抜かしている男たちの意識を次々に刈り取っていった。その鮮やかで俊敏な動きには一部の隙もない。まるで彼の身体に別の何かが宿ったようにも感じられる見事さだった。
 その様子を見ていた飛燕は冰を抱えながらも興奮気味に瞳を輝かせた。

「野郎……やはり身体は覚えていやがったな」

 記憶を失くす以前の紫月ならば当たり前のように身についていた剣術の技だ。ここへ来てからルナは自分が武術を心得ていることすら忘れていたようで、道場の仕事を手伝いながらも飛燕の武術の腕前を目の当たりに、『お父さんすごいですね』などと感心しきりだったが、一度身につけた技をそう簡単に忘れるはずはないと飛燕もまた賭けに出たのだ。こういった緊急事態ならば、もしかして記憶以前に身体が反応を見せるのではないかと思ったからだ。
 まあそれでも思い出せずに立ち尽くすようであれば、自身が腕を奮えばいいだけのこと――と、ある種の賭けだったわけだが、ルナは見事にその期待に応えてみせた。しかも咄嗟に出た言葉は『お父さん』ではなく『親父!』だった。彼の中で記憶を封じていた何かが例え一部でも飛んで晴れたのかも知れない。
 そんな期待と共に息子に向かって声を掛ける。
「ルナ――よくやった。これで全員ふんじばれるな」
 するとルナは、ごく当然といったようにこう返してきた。
「ああ、助かったぜ親父! ヤッパまで持って来てくれるなんてさすが……」
 と、ちょうどその時、真田が皇帝周焔と遼二を連れてやって来た。
「冰!」
「ルナ!」
 彼らは青い顔で慌てて駆け付けて来たようだが、ルナの足元ですっかり伸びてしまっている男たちの様子に、驚きつつも安堵したようだ。
「おう! 周焔! 遼も――宴席抜けて来てくれたんか?」
 ルナは当たり前のようにそう言いながらも、足元で伸びている男たちを指差して笑った。
「良かった。こいつら運ぶのに人手がいるところだったんだ。おそらくだが、おめえに縁談持ち込んできたお偉方が差し向けてきたゴロツキじゃねえかと思われるんだけどな」
 こいつらが目を覚ます前にふんじばってしまわないと――といったふうに男たちの襟首などを掴み上げながら様子を確認している。
 そんなルナを凝視しながら誰もが呆然としたように瞳をパチクリとさせてしまった。
「おい……ルナ? おめえ……今、俺のことを周焔と言ったな?」
 それは紫月が記憶を失くす前の呼び方だ。焔に続いてすかさず飛燕も割って入る。
「俺のことは『親父』と言ったぞ」

「あ――? 何言って。ンなの当たり前……」

 そこまで言い掛けてハタと何かに気付いたように皆を見つめた。
「親父……? 遼……だべ? それに焔……。あれ? 俺……どう……して」

「……もしかして……思い出したのか……?」

「………………は? 思い出したって……何……を?」

 誰もが逸る思いでルナを見つめる。
 恐る恐る――といった調子で遼二が訊いた。
「おめえ……名前は? 自分の名前、言ってみろ……」
「名前――? なに今更……。紫月、一之宮紫月……。つか、何? 皆んなどうかしちまった……んじゃ……」
 そこでようやくと記憶が戻ったことを自覚したようだ。

「え……? あれ……? 俺、どうして……」

「……紫月!」

 有無を言わさずといった調子で遼二にきつく抱き締められて、ようやくと事の次第が理解できたのか、ルナは大きな瞳をこれ以上ないくらいに見開いたまま、ヘナヘナと愛しい男の腕の中で崩れ落ちてしまった。どうやら足腰の力が抜けてしまったようだ。
 拉致に遭ってから四年、誰もがもう二度と思い出すことはないのだろうと諦めていた紫月の記憶が奇跡的に蘇った瞬間だった。



◆45
 その後、悪党どもを縛り上げて皇帝邸に戻った一同は、要人接待の合間を縫って紫月の復活を喜び合った。当の紫月もいきなり戻ってきた記憶に驚きを隠せずにいたようだが、時間が経つごとにこれまで自分に起こっていたことを認められるようになっていったようだ。
 紫月としての記憶はもちろんのこと、ルナとして暮らした数年のこともしっかり覚えていると彼は言った。
「何ちゅーか、すっげ不思議な気分な……。今まで忘れちまってたのが嘘みてえだ」
 そんなルナに、遼二はそれこそ自分が自分でないというくらいに喜びつつも、紫月同様不思議な感覚に気もそぞろといった調子だ。
「でも――さすがは親父さんだ。紫月の記憶をこうも見事に蘇らせてくれたんですから……」
 あの時、切羽詰まった状況下で飛燕が投げた日本刀が一瞬で紫月の記憶を呼び戻したことに驚きを隠せない。拉致から四年、茶に混ぜられた薬物も絶っていたというのに、一向に戻る気配のなかった記憶がたった一瞬で蘇ったのだから不思議という他ない。
「だがこれで――例の薬物のメカニズムの解明にも一歩近付いたと言えるな。紫月の他にもこの城壁内の遊郭に連れて来られた者たちの記憶も取り戻せる光明がさしたというわけだ」
 鐘崎組の調査で、例の行商人によってここに連れて来られた遊女や男娼は他にも数人見つかっていたが、その誰もが薬物の投与をやめた今も記憶が戻っていないのだ。そのことから一度失われた記憶は二度と元に戻らないものと諦め掛けていたのだが、紫月とルナの実例で希望が見えてきたわけだ。
 しかしながら僚一らがこの城内で調査を始めてからというもの、例の行商人は一度も姿を見せてはいない。鐘崎組も周ファミリーも裏の世界を知り尽くしている存在といえるが、デスアライブと呼ばれる闇の組織はやはり非常に手強い相手のようだ。この城内に僚一らの手が回ったと同時にめっきり姿を見せなくなったということからしても、こちらの行動が筒抜けていることを意味している。当初僚一も言っていたが、根本を断つには数十年という時間を要するだろうということは、なまじ嘘ではなかったということだ。
 ともあれ紫月の記憶が戻ったことで、これまで同様の薬物によって被害に遭った者たちには、わずかながらも光が見えてきたのは確かだ。僚一らは決して諦めることなく引き続き調査に尽力しようと決意を新たにしたのだった。
 それと同時に今は冰を狙った者たちの処置にも目を向けねばならない。ルナ――紫月の話では周焔に縁談を持ち掛けているお偉方あたりの仕業ではないかということだったが、実行犯の男たちを締め上げた結果、まさにその予想が的中することと相成った。
 彼らの言うには冰を皇帝周焔の下から連れ去って、二度とこの香港へ戻って来られないような場所に売り飛ばしてくれと頼まれたそうだ。報酬もそこそこ高額だったので引き受けたと言って男たちはしょぼくれていた。しかも紫月が冰を守り通す為に取った絶妙な策に感銘、親近感たっぷりの話術で油断させられて、挙句は神技ともいえる剣術の腕前を目の当たりにし、とにかくその度胸と人柄に惚れたと口を揃える。できることなら彼の舎弟となって働きたいとまで言い出す始末――。
 これには焔も遼二も呆れてしまったが、男たちの言い分に理解を示したのは僚一と飛燕だった。
「よろしい。お前さん方が心を入れ替えてここに残りてえというなら雇おうじゃねえか。この街の治安を守るにはもう少し人手も必要だ。我が組の一員となって秩序を守り、世の為・人の為に尽力するというのならここで住まうことを認めよう」
 僚一の言葉に男たちは有難いと言って半泣き状態、皆で揃って首を垂れたのだった。



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