皇帝寝所
◆46
こうして新たな体制も整ったところで、早速に冰を亡き者にしようとした者たちへの調査と制裁が下されることとなった。
お偉方に雇われた男たちによれば、皇帝の縁談を勧めるに当たって冰が邪魔になることと、もしかしたら皇帝が男色で冰を夜伽の相手として側に置いているのかも知れないと疑い、間違いを起こす前に冰を遠ざけてしまおうと企んだとのことだった。
それを聞いた焔は怒り以前に呆れの方が強かったようだ。お偉方たちを呼びつけ、今後このような企みを起こしたとあれば即刻この城内への出入りを禁ずると厳しく告げたのである。現段階で彼らの息の根を断つことも可能であったが、そこは政治だ。彼らとてこの香港ではそれなりの立場もあり、代々ファミリーとの繋がりも持ってきた者たちだ。安易に首を切るだけが得策とはいえないのである。
仮に彼らが再度同じような企みを起こすようであれば、その時こそ本気の制裁を下せばそれでいいのだ。
皇帝の温情にお偉方たちも意気消沈。婚姻によって周一族との縁を持つことは諦めざるを得なかったものの、とにかくは赦されたとあって誰もが心の内では安堵したようだった。
数日後、皇帝邸中庭――。
一難去って平穏が戻った午後の陽射しの中、焔は遼二と共に中庭を眺めながら茶の湯に興じていた。紫月と冰は相変わらずに仲良く宿題を広げては勉学に勤しんでいる。そんな二人の様子を遠目に見守りながらも、男二人もまた親友ならではの話を交わし合うわけだった。
「しかし突飛なことを考えやがる――。俺が冰を夜伽の相手にしているなどと勘ぐるとはな」
「まあ……あのご老体方にとって、それだけ周一族との縁を持ちたかったということなんだろうがな」
遼二もまたやれやれと苦笑気味だ。
「それより焔。お前さん――実のところはどうなんだ」
「――? どう――というと?」
「冰のことだ。お前さんが冰を家族のように大切に思っていることは分かるが、例えばそれは俺がルナ……いや、紫月に対して抱いているような想いなのか――それとも本当の肉親のような感覚なのか……節介なこととは思うが少々気になってな」
焔も遼二が何を言わんとしているのかがすぐに理解できたようだ。
「ふむ――冰に対して恋情があるかどうかということか?」
焔はニヤっと不敵な笑みを見せながら手元の茶を一口啜ってはふうと小さな溜め息をついてみせた。
「どうであろうな――。俺は正直なところあいつとこのまま――ずっと共に暮らせるならそれ以上の贅沢は望むまいと思っているのだがな。だから今回、あのお偉方たちに縁談がどうのと言われてもまるでその気になれなかった。妻を娶って冰と三人で暮らすなど想像がつかんし、仮に結婚したとしてもおそらく俺の妻になった女を幸せにしてやれるとは思えねえ。罪もねえ女を不幸にするくらいなら初めから結婚などせん方がいい、そう思ってな」
「――そうか」
「なあカネ。俺はな、冰が幸せでいてくれればそれでいいのだ。あいつが――ここで俺やお前や一之宮、それにあいつの爺さんや真田の側で心からの笑顔を見せてくれることが何より嬉しいと思う。このままずっと、あの笑顔を側で見守っていてやりたい、それが俺の生き甲斐でもある。これが恋情かと訊かれれば、ある意味ではそうなのかも知れん。もしくは単に肉親に対する愛情なのかも知れんが……今はまだそう急ぐことはない、そう思っているのだ」
この先、胸の内にあるあたたかな想いが激情となって焔の如く燃え上がり、互いに身も心も欲するようになる日が来るかも知れないが、今はただこの穏やかで幸せな時を大事に育てていきたいのだと焔は言った。
焔、二十七歳。冰、十七歳。
二人が出会ってから四年と数ヶ月、幼く可愛かった冰もだんだんと逞しい青年の兆しを見せ始めている。ただ可愛い、不憫だという気持ちは年を追うごとに少しずつ変化し、今は彼がいつでも自分の側にいてくれるだけでいい、幸せそうな笑顔を見ていられることが何より尊いと思うようになってきている。互いを大事に思う気持ちは穏やかにゆるやかに――だが確実に育まれているのだ。時に兄弟のようでもあり、時に恋人に抱く淡い想いも確かに存在し、それは一瞬で激しく燃え上がり何もかもを捨てても互いを欲するというような激情ではないにしろ、永い年月をかけて積み重ねられる確固たる愛の形なのかも知れない。
この|地球《ほし》の地下深く、誰にも知られずに何十億年という永い時をかけて|石筍《せきじゅん》が巨大な柱を形成するように、この二人にもまた二人だけで紡ぐ愛情の形があるのだろう。
遼二はそんな友の深くも大いなる気持ちをずっと側で見守ってやりたい――そんなふうに思うのだった。
「焔――、これからもよろしくな」
茶の杯をクイと掲げて珍しいことを口にした遼二に、
「なんだ、改まって」
焔は不思議顔ながらも、すぐに自身もまた杯を手に取っては同じように掲げてみせた。
運命だ、カネ――。俺たちはずっと、ずっと側で――共に互いを支え合って生きていこうじゃねえか。
いつだったか、この香港に永住するかも知れないと決まった日に焔が言った言葉だ。今まさにその言葉の如く、互いを思いやり慈しみ合って生きていきたいという思いを新たにする。
この先の未来に幸せが待っているなら共に喜び、分かち合いたい。
降り掛かる苦難があれば力を合わせて乗り越えていきたい。
どんな時であろうとお前たちと共に歩んでいきたい。
いつの日か、この皇帝邸で愛する者と寝所をも共にしたいと友が言ったなら、その時は心から祝福したい――遼二もまた、自身の愛する者に想いを馳せながらそんな想像に胸が熱くなる思いでいた。
香港九龍城内に降り注ぐ陽射しがそれぞれの思いを暖かく包み込む――晩秋間近の穏やかな午後のことだった。
皇帝寝所 - FIN -
※次、番外編「皇帝の憂鬱」です。