月妖伝
街が賑わってくる頃にはすっかり宵闇が降りて、生暖かい夏風にまじってジットリとした湿気が何ともうっとうしい。
賭場周辺にはあまり目つきのよろしくないような連中がウロウロと出入りを繰り返し、パッと見ただけでもそこが無法地帯らしいのが窺えた。
こんな処で紫燕は生きているのか――
そんな思いにますます胸が逸って仕方ない。加えて先程の男らのいかがわしげな会話が脳裏を巡り、遼玄はいてもたってもいられない思いに拳を握り締めた。
とりあえずは旅の道中に立ち寄った客を装って賭場に入り、様子を窺うことにした。
中に入れば更に空気の悪さを目の当たりにするようなゴロつき連中であふれ返っている様子に、自然と眉間のしわが増す。畳だか藁の敷物だか知らないが、それらに湿気が混じったようなニオイが何ともいえずに鼻をつくのも心地悪い。ふと、客らの中心を見やれば、生成色の着物に身を包んだ男が一人、壺を手に鋭い目つきで皆を見渡す様子が飛び込んできて、と同時に目の前が真っ白に弾けるような感覚が全身を金縛りにした。
紫燕か――!?
薄茶色のやわらかなくせ毛の髪、
褐色の瞳、
形のいい指先、
間違いない。どこから見ても紫燕に瓜二つだ。
賭場の入り口に立ち尽くしたまま、遼玄はしばし硬直状態を解くことができなかった。その背後からポンと肩を叩かれて、
「旅のお客さん、どうしなす? お前さん方もどちらかに賭けてやっておくんなせえよ」
両手を擦り合わせ、猫背にしながら下手(したて)にそんな言葉を掛けてくるのは代貸しの男だろうか、賭場を営んでいる側の立場の者のようだ。まるでいいカモを掴んだとばかりのニヤけ顔の裏に、下手に出てくる態度の真意が透けて、一目瞭然だった。
他の客らの配は出揃ったようだ――
代貸しらしい男が急いたようにしきりに賭けを勧めてよこすその様子に、後はお前らだけだぜというように、一瞬賭場の中がシーンと静まり返った。
何をしてるんだ、待たせんじゃねえとばかりに睨みをきかせてくる者、他所者はすっこんでろとばかりに舌打ちをする者等様々で、あまりいい雰囲気でないことはすぐに分かる。そんな皆をなだめるように、先程肩を叩いてきた男がより一層猫背気味で『さあお早く』と催促をして寄こす。
もたついている様が気にかかったのか、賽を振っている紫燕らしき男がちらりとこちらを見やったのが分かった。視線と視線がぶつかり合い、確かに互いを確認したにもかかわらず、だが賽振りの男はほんの一瞬で視線を外してしまった。
やはりこちらのことに見覚えはないというところか――
分かってはいたことだが、そんな紫燕の態度を目の当たりにして、複雑な思いがあふれ出した。
今までの気の遠くなるような永い時間が瞬時にフラッシュバックする。
熱い気持ちと慟哭と、だがそんなものに一切見覚えを示さない紫燕らしき男の冷めた態度がグルグルと全身を奇妙な感情で押し包んでゆく……。
遼玄は何かに突き動かされるように畳の上に一歩を踏み出すと、先客を押し退けるようにして賭場のど真ん中へと歩を進め、賽振りをしている男の真正面にドカリと腰を下ろした。
これには先にそこに座っていた客が驚き、当然の如くおとなしく場を譲るはずなど無い。
「ンだとっ!? この野郎ッ、ふざけたマネしやがって!」
それまでそこに陣取っていた男らが声を荒げ、だが遼玄はそれらを全く相手にしないままで、それどころか酷く落ち着き払った様子で男のいた席から動かない。
そして目の前の賽振り師をちらりと見上げ、自分の持ち金を懐から差し出すと、低い声でたったひと言、
「悪ィな兄さん――もう一度その賽を振ってくんねえかな?」
突拍子もないないような台詞を言ってのけたのに、その場の全員が驚いたような目つきで一斉にこちらを凝視した。
「ざけんじゃねえっ! てめえ、何言ってっか分かってやがんのかッ!」
「他所者が出張ったマネしやがるとただ置かねえぞ!」
一瞬で賭場が怒号に包まれた。
立ち上がって座布団を叩きつける者をはじめ、着物の裾を捲りあげて膝を立て、懐の短刀をにおわせる者も居て、辺りは騒然、しばし手の付けようのないくらいの大騒ぎと相成った。
これには代貸しの方の男らも黙ってはおれずといったところか、先程の猫撫で声とは打って変わった凄みのきいた調子で、『お客さん、どういうおつもりかね』と肩を鳴らす。
だが遼玄はまるで落ち着いた様子でそこに腰掛けたまま、目の前の賽振りを見つめたままピクリとも動じない。尋常ではない図々しさは、ただの旅の客には思えないふてぶてしささえ感じさせる。余程自信があるのか、あるいは単に怖いもの知らずなのか、読めないところがまた不気味さをかもし出す。
この男に逆らってその場で刃物など見せようものなら、逆にブッた切られそうな雰囲気しかり、皆はしばし苦虫をつぶしたような表情で、成り行きを見守るしかできないといった状況に追い込まれてしまった。
静まり返った賭場で、誰しもが遼玄を見据えたまま動かない。
静寂が異様だった。
今、この状況で顔色ひとつ変えずにいるのはただ二人、それは遼玄と賽振りの男だ。彼らは互いを見合ったまま、どちらからとも視線を外さずに押し黙っているだけだ。特に賽振りの男の方は、焦りどころか感情がまるで見えない無表情。対する遼玄の方は、口元に薄い笑みを伴いながら鋭く動向を窺っているといった調子だ。
緊張が続く中、どうにも反応しない様子の賽振りを前に、遼玄の方が先に口を開いてみせた。
「どうだい兄さん、俺の有り金全部を賭けよう。もう一度、目の前で賽を振ってくれねえか? 何せ俺はアンタが賽を転がしてるとこを見てねえんで、賭けようにも賭けられねえってわけなんだ」
『そんなもん、てめえが遅れて入ってきやがったのが原因じゃねえか! 何なら次まで待ちやがれ』というような顔付きで睨みをきかせる客たちの不満が方々でわき起こり、次第に場がザワつき始める。だが、その後に続けられた遼玄のもうひと言に、一同は驚きを通り越して唖然とさせられてしまった。
「なぁ、兄さん。ものは相談だが……もしも俺が勝ったなら、アンタ、俺んトコに来るつもりはねえか? 実は俺も賭場を開いているんでね。アンタ、随分と腕がよさそうだから、これからは俺の店でその才(賽)振るってもらいてえもんだなって、そういう希望」
チラリと上目使いに真正面の彼を見上げながらそう言った。
一瞬、誰もが何を言われているのか理解できないといった調子で、その場が静まり返る。だが少しの後、その静寂を引っくり返す凄まじい怒号が賭場全体に飛び交い合った。
「っざけてんじゃねえー! てめえ、何様のつもりだ、うぉらーッ! ナめてっとブッ殺すぞ……!」
これには客よりも代貸しの側が黙ってはいない。先程、猫撫で声を出しながら案内をして寄こした男をはじめ、他数人が一気に暖簾をくぐって奥の部屋から飛び出して来ては大騒ぎとなった。
もう賭け事どころではない。短刀はおろか腰元に携えた長刃まで引き抜いて、それを畳に突き立てての大騒動、そんな様子に遼玄はクスッと口元の笑みをほころばせると、ゆっくりと立ち上がりながら賭場全体を見渡して瞳を閉じた。
「何――、俺は別に勝負は賽振りでなくっても全然構わねえがな? そこに突き刺した刀で勝負しようってんなら、それでもいいぜ? その代わり、俺に敵わなかった時きゃ、このツボ振りの兄さんはもらってくぜ。何せ……俺の他にもこの兄さんを狙ってるっていう悪い輩がいるらしいからな? 大事なもんは先手打たなきゃ後悔先に立たずってことでな」
ジロリと場全体を見回しながら、とある男たちのところで視線をとめた。先程、街中の飯屋でよからぬ談義をしていた連中だ。
それから先は言うまでもなく大騒動と相成った。卓を引っくり返し、襖を突き破っての大乱闘、全員が遼玄を目掛けて様々な武具を手に襲い掛かった。
だが、怒号と悲鳴が飛び交い、切っ先が空に舞ったその後には、襲い掛かっていった者すべてが簡単に返り討ちに遭ったふうにして投げ出されるのに、皆は遼玄を囲んで少々遠巻きに円陣を組みながら憎々しげに顔を歪めるしかできないといった状態に追いやられてしまった。
「……ッの野郎ー、ナめたマネしやがって……!」
こうなれば数に頼るしかないというのは本能か、客も代貸しも一丸となって刃物を引き抜き、遼玄を目掛けて構えた。
そんな様子に、
「おい、てめえら……! いい加減にしやがれってんだ」
それまで成り行きを黙って見つめているだけだった賽振りの男が口を開いた。だがもうそんな声に聞く耳を持つ者など皆無なようだ。
「どりゃーーー!」
一斉に切り付けてきた一同を横目に、遼玄はクスリと面白そうに微笑むと、
「無駄だ。俺を相手に、何したって敵やしねえよ――」
ビシュッという鈍い音と共に血痕が飛び散り、凄まじい絶叫があたりを飛び交う。
しばらくして円陣の人だかりがバタバタと地面へ崩れ落ち、その中央に一人たたずむ血塗れの男の姿が明らかになった。
「なんせ俺、神様だから――っても、えれー昔の話だがな」
ニヤリと不敵に笑う口元に飛んだ返り血を拭いながらそう言った。
その様を見つめながら『あーあ』といった調子で呆れ気味に肩を落としているのは一部始終を目前にしていた白啓と、騒ぎにつられて駆け付けて来た帝雀、剛准の三人だった。周囲を見渡せば、遼玄の峰打ちにあった連中が重なり合って所狭しと転がっている。今、この場で意識があるのは彼らの他には賽振りをしていた男だけだった。つまり紫燕らしき男――というわけだ。
その男が驚き半分、いや、驚きを通り越して呆れ半分といった方が正しいか、心底驚かされたというふうな感じで遼玄らに言葉をかけた。
「……随分とまた派手にやってくれたもんだな……あんたら、旅の人だっけか? どういう了見か知らねえが、こんなことしてただで済むと……」
此処はこの辺りの元締めが仕切っている博打場だ、こんなことをすればそいつらが黙ってはいないだろうよという意味合いの込もったその言葉に、遼玄は今まで笑んでいた口元を真に戻すと、フイと瞳を翳らせた。
――そんなことはどうでもいいんだ。邪魔者はいらねえ、俺にはお前が『本当に紫燕であるか』を確かめたいだけ。それだけなんだ。
逸る気持ちのままに熱い面持ちで彼を見つめんと視線を上げた。だがそれより寸分早くに、紫燕と瓜二つの賽振りの男はそんな遼玄の腕をヒシと掴むと、
「とにかく……ここに居るのは不味い。あんたらも早く!」
傍にいた白啓らにもそううながすと、裏手の門の様子を見やり、俺について来いというようにして足早にその場を後にした。
案の定、表の方では騒ぎを聞いて駆け付けた野次馬連中らでごった返しているようだった。それらを避けて、とにかくはひと気の無い田園地帯を目指して走り、ようやくと一息つけそうな林の入り口まで辿り着いて、一同は歩をとめた。
「……ったく、あんたらのお陰でこっちまでお尋ねモンだぜ……」
ゼィゼィと息を切らしながら男は遼玄らを見上げてそう言った。迷惑そうなその言葉の割には何故か楽しげともいうべきか、わずかに口元がほころんで、薄い笑みまでが垣間見えるのは錯覚だろうか。帝雀や白啓、剛准らも彼のそんな様子を前に不思議そうに首を傾げてみせた。
だがまあ、こんな所で大の男が五人も揃って野宿をするわけにもいかないだろうし、ともかくは賭場の関係の人間が自分たちの所在を嗅ぎ付けない内に街を出た方が賢明なのは言うまでもないだろう。帝雀の提案で、一同は紫燕らしき男と連れ立って、この先の街で宿を探すことにした。