月妖伝

7 夜叉



 所詮は甘い夢、罰を背負って輪廻を彷徨う身の上で、それを追うことは許されなかったということか――
 目の前から『紫月』が姿を消し、そして再び彼を手中に抱いたその時に、こんな想像もし得ない程の変わり果てた姿になっていようなどとは、この時の遼玄には想像さえ出来得ずにいた。
 永い間の夢だった紫燕の生まれ変わりをその手に抱いて、甘夢に浸ったのは束の間。共に生きようと固く交わした約束がこんな形で壊れていくのを目の当たりにするだなんて……!
 これが罰なのか?
 これが五龍が科した永遠の苦渋だというわけなのか――!

 目の前の大地が歪み、乾いた土にボタボタと大粒の雫がこぼれて落ちた。遼玄の涙だ。その傍らには仲間である帝雀、剛准、白啓がたたずみ、誰もが苦渋を飲み込んだような表情で拳を握り締めていた。
 腕の中に最愛の男を抱えたままで、このどうしょうもない喪失感にすべての感情が凍てつくような気がしていた。



◇    ◇    ◇



 腕の中で冷たくなっていく身体を無意識に支えているのが精一杯、唯一人の愛しい男を抱き包む腕はダラリと垂れ下がり、まるで力が入ってはいない。行き場を失った激情をそのままに映すかのように、毒々しい程に赤く染まった夕闇の中で、遼玄は呆然としながら、その視線の先には何も映してはいないようだった。
 紫燕の生まれ変わりであろう『紫月』と巡り合い、そして肌を重ね、永い間の想いのたけをぶつけたのはつい半日前のことだ。
 共に生きようと約束を交わし合い、朝もやの中で至極の夢に浸っていたのは、ほんの僅かに先刻のこと――
 幸せの絶頂を噛み締めるような甘やかな笑みを浮かべ、少し照れたような仕草で紫月が厠へと向かった時の後ろ姿が鮮明に脳裏をよぎる。
 もぞもぞと布団を抜け出し、はにかんだような表情で微笑んだ。
「ん……? どこ行く?」
「ああ、ちょっと手水にさ」
 こっ恥ずかしいから付いて来んなよとばかりに、悪戯そうに微笑んだ彼の横顔を思い出せば、ボロボロと玉のような涙が頬を伝い、流れて落ちた。
 何故、あの時すぐに彼の後を追わなかったのだろうと、後悔の念に全身を悪寒が伝う。何故、共に厠へと足を運ばなかったのだろうと、自らを呪いたい程の苛立ちが全身を苛む。
 何の疑いも持たぬままで、何の予測もできないままで、天をさまようような幸せの図中に浸り、ウトウトと眠りに落ち、すぐに彼が帰って来ると信じ込んで甘夢を漂った。そのまま深く眠り込んでしまったのだ。
 気がついた時は既に陽が高くなっていて、隣りの部屋で休んでいた帝雀らに揺り起こされて、現状を理解した時には遅かったということだ。
 厠に行った白啓が紫燕のものらしき草履が散乱しているのを発見、その周辺には何かを引きずった痕のようなものが地面を這い、宿前の通りへと続いている様子に嫌な予感が脳裏をよぎった。
 状況から察するに、紫燕は厠で誰かに捕らえられ、連れ去られてしまったということだろうか。誰しもの脳裏には咄嗟にその光景が思い浮かんだ。もしもそうであれば一刻の猶予も儘ならない。おそらくは昨夜の賭場にいた元締めとかいう連中らの仕業であることにほぼ間違いはないからだ。
 取るものもとりあえずに宿を出て、隣り街へと向かったのは、すっかりと午後の陽射しに変わった頃だった。どんなに急げども、陽が落ちるまでに辿り着けるかギリギリのところだ。
 途中の民家で馬を借り、酷な程に走らせて、やっとの思いで賭場に戻ったのは数刻の後。胸騒ぎのする程、真っ赤に染まった夕空が、薄雲に紛れて気味の悪いくらいによどんでいる、そんな時分だった。
 真っ先に賭場に向かったが、そこに人の気配は無く、昨夜の乱闘の痕がそのままに放置されていた。
「いねえよ……畜生ッ、何処行きやがった……ッ!」
「元締めって奴のヤサじゃねえのか!?」
 誰でもいいから取っ捕まえて胸倉を掴み、居所を訊き出そうとする遼玄を抑えて、白啓と剛准が近くの路地裏に潜り込んだ。大騒ぎを起こして、彼らに撤収の余裕を与えない為だ。
 放浪れのヤクザ者を装って、それとなく探りを入れれば、彼らはどうやら繁華街の広小路を抜けた辺りの林を少し入った所に、大層な体裁の邸を構えているらしかった。
 そこへ向かう途中で、道から外れた林の奥の方から出てきた男の二人連れを見かけて、遼玄らは林道に身を潜めた。見てくれから察するに、一家の子分の男のようだ。コソコソと周囲を気に掛けながら、割合急ぎ足で目の前を通り過ぎてゆく。それに勘付かれないように気を配りながら、彼らの会話に聞き耳を立てていた。
「兄貴、あのまま捨て置いてきちまってよかったんですかい?」
 弟分らしい細身の男が、もう一人のガタイのいい方に、苦々しく口元をひん曲げながらそんなことを耳打ちしているのが目に入る。相手は二人連れ、このまま取っ捕まえて元締めの所まで案内させるのはワケないことだが、どうにも彼らの様子が引っ掛かって、もうしばらく経緯を窺うことにした。だが、その直後になされた会話の内容を耳にした途端、絶句する程の衝撃が一同を硬直させた。
「しかし親分も惨いことなさりやすよねぇ? あの優男をひん剥いたまではいいが、まさか男色小屋の奴らを呼びつけて輪姦(マワ)させるなんざ、あっしらにゃ、到底思いもつきませんぜ」
「仕方ねえだろ。親分がやさしく可愛がってやるってのに、あの野郎が断りやがったんだから! なんでも親分にツバまで吐きかけたって話じゃねえか」
「ホント、馬鹿な野郎ですよねぇ、おとなしく可愛がられてりゃあんな酷え目に遭わずに済んだってのに。けど、ちょっと惜しい気もしやすよね? どうせならあの野郎を捨てる前に、俺たちもお零れに預かりゃよかった。何せ絶世の遊女に勝るとも劣らねえぐれえの男前でさぁー、一度くれえはあんなの抱いてみるのも悪かねえんじゃねーかって」
「ばっきゃーろーッ! あんなくたばり損ないなんぞ、抱く気になるかってんだ! しかも男色小屋の連中が食い散らかしてボロ雑巾みてえになってるヤツだ? そんなの相手に勃つかってんだ。もとがどんなに綺麗だろうが真っ平御免だぜ」
「はぁ、そりゃそうですけどねぇ。でも、そんならトドメぐれえは刺してやった方がよかったんじゃねえですかい?」
「心配いらねえよ。あの傷じゃ、くたばんのは時間の問題だ。隙をついて親分の床の間にあった刀で、てめえの脇腹掻っ捌きやがったんだ。こっちも数人巻き添え食って、危うく死人まで出ようって始末だ。散り際に大暴れして面倒事を増やしやがった! それより急ぐぞ! 気を取り直して親分が晩酌つけてんだ」
 木立の中を邸の方へと遠ざかってゆく男らの姿を呆然と見つめながら、帝雀らはあまりの内容に蒼白となっていた。遼玄に至っては、最早蒼白どころではない。血の気の失せた唇をガタガタと震わせながら、開いた瞼は乾ききり、瞳孔は開きっ放しのような状態で硬直していた。
「とにかく……あの男たちが来た方へ急ごう……紫燕が近くにいるかも知れない!」
 帝雀にうながされ、皆は固唾を飲むように互いを見合った。



◇    ◇    ◇



 林の奥まった方へ分け入ると、所々に血のかたまりの落ちた痕が目に付くようになった。先程の男らの話の内容からしても、おそらく紫燕のものに違いない。
 皆は必死でその後を追い、紫燕の行方を捜した。だが、そうこうする内に、もと来た林道の入り口付近へと戻っていることに気がついた。
 血痕は明らかに林を抜けて街の方へと続いているようだ。瀕死に近い傷を負っているのだろうに、紫燕は移動を続けているということか――
「まさか……あいつ、俺たちの所へ帰ってくるつもりなんじゃねえのか……っ!?」
 そうだ、昨夜いたあの街の、あの宿に向かっているとでもいうのか――
 白啓の言葉に、皆は一気に焦燥感に包まれた。

――紫燕……いや……紫月ッ……!

 たまらない思いに、遼玄は駆け出した。何処へ向かうともなしに、ただ本能の呼ぶままに、何かに導かれるとでもいうように駆け出した。
 真正面には街へ向かう一本道が、奇妙な程の夕闇の赤で染められている。
 まるでその毒々しい色に紛れるようにして道端にうずくまっている一人の男を見つけた時に、すべてがとまった――
 左半分が血染めになった着物は、昨夜泊まった宿で貸し出されていた寝巻の浴衣だ。その袷を開き、彼の熱い素肌に口づけたのは他でもない、この自分――

 甘く幸せな夢のひと時が脳裏を巡る。

 無我夢中で駆け寄って、彼をその手に抱き起こせば、驚いたように開かれたその瞳が、僅かに微笑んだように思えた。
「……っ……遼二……? な……んで……ここ……に……?」
「しゃべるんじゃねえッ……! じっとしてろ……じっと……じ……ッ」
 昨夜、愛しんだばかりの懐かしい頬には、殴られたようなドス黒い痣が浮かび、切れた口元の端が紫色に腫れている。
 肌蹴た着物の襟から覗く肌には掻き毟られた爪痕のようなものが無数に飛び散り……。
 そして、脇腹に滲む流血とは別に、内股あたりから伝って乾いたような血生臭い痕が思考を破壊してゆく。
 何も言わずとも聞かずとも、それらが彼に起った惨事を物語り、あまりのことに目の前が真っ黒の闇で閉ざされた。
「……ご……免な……りょ……じ、遼二……ッ、アンタ……との約束……守れな……い……俺……」

 そう、多分もう一緒にはいけない。そんな気がする――
 どんどん意識が遠のいていくのが分かる。きっと俺はこのまま死んじまうんだろうな……?
 でも最期にアンタに逢えてうれしかった。ほんの一時でもアンタのようなイイ男と巡り会えて幸せに浸ることができた。
 一緒に生きようとまで言ってもらえて、信じられないくらいにうれしかった。
 あんまり幸せなんで、夢でもいいと思った程だ。
 今だってこうして抱き包んでくれてる。
 それだけでもう何も思い残すことなんかねえよ――
 できれば一緒に生きたかったけれど。もう少し、ほんの少しでいいからアンタと一緒の時を過ごしたかった。
 けれどもういい。
 こうしてちゃんとアンタのもとに辿り着けたんだから、もう何も望むことはないよ――

「……じ、……遼……二……アンタに逢えて……俺……」


 幸せだった――


「……? ……燕……? 紫燕ッ……! おい、どうした……目を開けろよ……紫燕……紫……紫月ーッ……!」
 辺りをつんざくような絶叫に、何処からともなく人々が集まって来る。そして惨状を目にすれば、その惨さに顔を背けるように悲痛な表情で遼玄らを取り囲み、それらがより一層の悲しみをえぐり出すかのようだった。

 どうしてこんなことになるんだ――
 ついぞ先刻までは確かにこの腕の中にあったものが、こんなに惨く形を変えてしまう。
 森羅万象を操り、四凶にさえ打ち勝ったはずの、不老不死の玄武神とまでされた男が聞いて呆れる無様さだ。
 今更ながらに自らの犯した罪を悔いては気が違いそうになる。不安に苛まれ、欲望を抑えられずに流されてしまったあの時の愚かさが、重く頭上に圧し掛かってやまない。
 自らの過ちと無力さを呪っても、どうにもならない現実が身を引き裂くようだ。
 立場に甘んじ、仲間さえをも巻き込んで、辿り着いたのがこんな結末だなんて。
 何もできずに、何も変えられずに、たった一人の愛する者さえ守れずに、それでも俺はのうのうとこうして生きている。この身体には血が通い、心臓が脈打ち、何不自由なく平然と生きているだなんて……!
 こんな惨い現実をどう受け入れろというのだ。
 嗄れた声で絶叫を続け、声を、喉を、自分の持てるすべてを潰してしまうかのように遼玄は泣き続けた。
 血まみれの冷たい身体にすがりつき、狂気のままに抱き締めては、そのまま一緒に土にかえらんとでもいうように地面に突っ伏し、身を震わせ続けた。



◇    ◇    ◇



 気が違う程の赤い夕闇に漆黒が降り立ち、混ざり、この世界をどす黒く染めてゆく。
 あふれる涙がどうしょうもなくて天を仰げば、今までの数百年の日々が一気に蘇るような気がした。
 天上界で寄り添い、支え合って生きた日々のこと、
 神界で共に戦った時のこと、
 この地上にて、地獄のような永遠を彷徨いつづけ、ようやく巡り会えた唯一人の愛しい人を腕に抱いて甘夢に浸った――
 そしてこの惨劇の結末。
 誰のせいというわけでもなく、もとを正せば自らの過ちのなれの果てだと分かっていても、遼玄には目先の憎しみをとらえることでしか、今の己を保つことができなかった。
 それは帝雀らにとっても違うことのなく――

「……る……さねえ……っ、あいつらぜってー許さねえっ……!」

 フラフラと立ち上がり、まるで夢遊するかのように、来た道を戻ろうとする遼玄の腕を帝雀が掴み、引きとめた。
「何処へ行くつもりだ……ッ!? 遼玄……っ!?」
 掴まれた腕を振り解き、彼の目に映る先は最早ひとつしかありはしない。
 誰の問い掛けも耳に入らず、誰の思いも通じない。
 そんな彼を止められる者もまた、皆無であった。
 帝雀も、剛准も、白啓も、遼玄が何処に向かい何をするつもりなのかが分かっていても、それを止めることは誰にもできなかった。
 遼玄に代わって紫燕の亡骸をそっと抱き締めながら、帝雀らは涙を噛み締めた。

 その後、賭場の元締め一家を惨殺した大罪で、遼玄は捕らえられ、公開処刑とされた。
 あの夏の時からしばらくの後、壮絶な悲しみを代弁するかのような深紅の枯葉が舞い散る季節のことだった。
 河原にて人々への見せしめ引き回しの上、討ち首獄門、それが遼玄に下された沙汰であった。
 遠目からその様子を窺えど、何の手助けも手出しもできないままで、帝雀らもまた、苦渋の思いを噛み締めていた。
 如何に神といえども、人の世の摂理を捻じ曲げてまで遼玄を救うことはでき得ない。そしてまた、紫燕亡き今となっては、例えこの世界に生きながらえたとしても惨い思いを重ねさせるだけだ。
 行き場のない思いと自分たちの無力さを持て余し、唇を噛み締める白啓と剛准を背にしながら、帝雀は言った。
「……さあ、こうしていても仕方がない。俺たちも遼玄の転生先へ急ごう……そしてつぎの世ではきっと……」

 そう、きっと何が何でも再び紫燕の生まれ変わりを捜し出し、今度こそ必ず彼らを添い遂げさせてやれるように――

 遠く河原に立ち上った魂の気配に、今生での遼玄の生きざまを看取ると、帝雀らは次の世へと先回りすべく、その場を後にした。



Guys 9love

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