月妖伝
和国、大正時代――
澄み渡る青空は高く、すぐそこに秋の気配が感じられる。
庭師の仕事を一段落終えて、その出来栄えを観察しながらホッと一息入れていた時のことだ。
「ねえ、あんた……名前何てーの?」
「――!?」
一段高い縁側から誰かに急に声を掛けられて、ハッとそちらを振り返った。
物心ついた時から親はなく、孤児であったのを拾って育ててくれたのが、ここの庭師をしていた親方だ。それから干支が一周りする頃にはその親方も亡くなって、本格的に後を継いだ形で現在に至る。
ここは花街にある名の知れた遊郭だ。
遊郭といっても主に男色の客を相手に男が男に色を売る処、親方がまだ健在だった頃にそう教えられた。まあ、庭師の自分たちにはおおよそ縁のない世界だと深くは勘繰らずにきたが、それでも年頃になってみれば、その意味も薄々と理解できるようになった。
仕事の合間に垣間見る何とも色香を伴った店子たちが、夜になると華やかに灯される邸の襖の向こうで何をしているのかということも想像に容易い。その遊郭の庭を美しく彩ることが自分たちの役目であり、仕事であるわけだ。
邸の塀を挟んだ隣りの竹林に小さな小屋をあてがわれて、ほぼ彼らと同じ世界で寝食を共にしているようなものではあるが、とはいえ店子と親しく会話を交わす機会などは稀で、全くの別世界に生きているといっていい。
他に行くあてもないし、何より恩のある親方から託されたこの仕事から離れるつもりもないわけで、だから格別には何の疑問も抱かぬままにこの生活を続けている。遊郭というこの邸の中で何が行われていようと自分には関係のないことだ、そう思って庭を綺麗に彩る使命だけに目を向けてきたのだ。
「ねえ、名前教えてよ。アンタがいっつもこの庭を手入れしてんのがさ、俺の部屋から見えるんだ」
自分を覗き込む色白の頬が美しく作られた陶器のようで、図らずもドキリとさせられた。
唇はほのかに色付いた桃の花芽のようにふっくらと形のよく、大きな瞳は褐色が陽に透けて、まるで人形のようだ。やわらかなくせ毛ふうの髪が、ちょうど鎖骨を撫でるくらいにまで伸びていて、何とも艶めかしい。おおよそ自分とは縁のないような別世界にいる生き物のように思えるその男は、おそらく店子なのだろう。訊かずとも分かる。
そんな男にあまりにも親しげに話し掛けられて、咄嗟には返答につかえる程のちょっとした衝撃を受けてしまった。
ポカンと硬直し、瞳をぱちくりとさせているこちらの様子が可笑しかったのか、その彼はクスッと笑うと、男のものとは思えないような白魚の手をいきなり突き出してよこしたのに、より一層驚かされてしまった。
「そっち行っていい? ちょっと手、貸してくんない? ここ、高いから降りるのたいへんなんだ」
見れば、確かに飛び降りるにしては高さのある縁側が目の前にそびえている。
――ああ、そういうことか。思うより早くに、差し出された手を受け止めるかのように、自らも両腕を広げていた。それを見た彼はうれしそうに微笑うと、トンと勢いをつけて庭先へと飛び降りてきた。
フワリと立ち上った香りが淡い花のようで、またもやドキリとさせられる。突然の出来事に、しばし言葉を失ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
「俺ね、紫月ってんだ。ガキの頃にここのお父さん(店主)に拾われてきたの」
『あんたは?』というように覗き込まれて、ようやくと我に返った。
「名前、教えてくれよ。アンタ、俺と同じ歳くらいじゃねえ? いつも庭木の手入れしてんの見てて、話してみてえなって思ってたんだ」
屈託のなく、だがそんな中に何ともいえない色香の漂うような視線を向けられて、理由もなく心拍数が上がるのを感じていた。そんなさまを隠すかのように、必死で訊かれた問い掛けに答えた。
「ああ、俺はここの庭師だった親方の後を継いでて……今は一人でやってる。名前は遼二ってんだ」
「へえ、遼二かー」
よろしく、とばかりに首を傾げながら再び顔を覗き込まれて、またもや返答に困り、何だか頬の熱までもが上がるような気になって、遼二はおずおずとうつむいてしまった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、遼玄の転生先へと先回りすべく、神界から降りてきていた帝雀、剛准、白啓の三人は、当の遼玄を捜して奔走していた。
前世であまりにも無惨な生涯を遂げた彼のことが気掛かりで、早めに転生先である次の世へと先回りしたはずだったのだが、どういうわけか一向にその遼玄と巡り会えずにいたのだ。
一応、神である立場の彼らにとって、遼玄の所在を突き止めるなど容易いことであるはずなのに、今生においてはどうにも儘ならない。今まで幾度も転生先に赴いては見届けてきたというのに、何故、今回に限ってはこんなに苦労を強いられるというのか、ワケが分からずに三人は途方に暮れていた。
「どういうことだ? 転生する先を間違ったんじゃねえのか?」
白虎神である白啓が多少苛立ちながらそんなことを吐き出せば、
「いや、時代と場所は合っているはずだ……」
こちらも頭が痛いといったふうに帝雀も首を傾げる。
「まさか……五龍のじいさん共の仕業じゃねえのか……? 俺たちが遼玄の手助けをしてるのがバレちまったんじゃあ……」
【五龍】というのは神界の頂点を司る五大神で、この世界をおさめている神々たちのことだ。隕石の衝突をきっかけに、魔界の封印を破って蘇った四凶獣を討伐する際に自分たちを召喚したのも、彼ら五龍に他ならない。
その後、遼玄が神界の掟を冒し、紫燕と契りを交わしてしまったことで、世界は闇に覆われるという異変に見舞われた。その罰として、遼玄と紫燕は地上界へと追放され、それぞれに『遼二』と『紫月』という名前を与えられて、向こう千年を人間として輪廻転生することを強いられたわけなのだ。
そんな彼らのことを放っておけずに、自分たちも神界を抜け出し、地上へと降り立ってから幾年月を過ごしただろうか、かれこれ千年の内の半分はゆうに超しているだろう。
そのことに五龍が気付き、それでは戒めにならないと、遼玄らの所在を突き止められないような妨害措置を施したとでもいうのか。いや、そんなはずはない。第一、自分たちが地上界に来ていることなど、五龍にはとうの昔からお見通しのはずだからだ。
今までは見て見ぬふりをしてくれていたのだろうが、今になって急にそれらを阻むなどとは考え難い。ではいったい何故、遼玄の所在がつかめないのだろう。
仲間内でも一番の年長者である剛准が、ふと思いついたようにつぶやいた。
「もしかしたら遼玄のヤツ、前世での嫌な記憶を自ら封じ込めてしまっているのかも知れないな……」
どういうことだ――と、他の二人が首を傾げる。
「いや、この前あんな無惨な生涯を遂げたせいで、それを思い出したくないあまりに記憶障害に陥っているのかも知れないと思ってな?」
「記憶障害だと? つまり……遼玄は紫燕と同様、今までの記憶が一切無い状態で今生に転生しているということか?」
帝雀が驚いたように相槌ちを入れた。
「断言はできないが、有り得ない話じゃない。ヤツの記憶の波動が辿れないのはそのせいなのかも知れないと思ってな」
なるほど、そういうわけか。今まで遼玄を見つけ出すのが容易だったのは、彼にすべての記憶が蓄積されていたからだ。その波動を辿って彼を捜し出し、そのもとへと赴いていたのだから――
逆に紫燕を捜し出すのが難儀だったのは、彼の記憶は生まれ変わる度に真っ更に戻されてしまい、波動を感じる取ることができなかったからということになる。 こう考えれば剛准の仮設にも合点がいくというものだ。
「しかしそうであれば困ったことになったな……どこから手をつけていいのか八方塞がりだ」
「だが捜すしかあるまいよ。紫燕でも遼玄でもいい。どちらか一人でも見つかれば何とか道は開けるだろう」
そうして帝雀らは、手掛かりの薄いままに、二人の居所を掴むべく再び奔走するのだった。まさか、当の二人が既に出会っているなどとは思いもよらぬままに――
◇ ◇ ◇
その頃、帝雀らの想像通りに今までの記憶の一切を失くした状態で転生していた遼玄は、花街にある遊郭の庭師として成長を遂げていた。
前世での惨い出来事に堪え難い苦痛と衝撃を受けたことで、今生では自らも意識しないところで記憶を封じ込めてしまっていたのだ。
とはいえ今まで同様、孤児として生まれた彼は、幼い頃に遊郭の庭師をしていた親方に拾われて今日まできた。故に帝雀ら仲間の助力がなくとも、何とか生き延びられたといったところであった。
名を『遼二』とされ、親方からはずっとそう呼ばれて育てられた。
その親方も亡くなった今、思いがけずに紫燕の生まれ変わりである『紫月』と出会ったのは単なる偶然だろうか、皮肉なことに二人にはお互いに関する記憶が一切無い状態だ。つまりは、地上界の人間の一生と何ら変わりのない境遇で、彼らは出会い、生きているということになる。
紫月の方は遊郭の店子として、幼い頃に店主に拾われたらしい。生活苦から両親が売り飛ばしたようなものだった。
当時、まだほんの子供だった彼は、遊郭の掃除やら雑用をはじめ、先輩の店子たちの支度の手伝いなどを仕込まれながら育てられた。今年で数えの十八歳を迎える年となった今、そろそろ店子としての披露目の日が近いことも承知していた。
それを証拠に近頃では、店主から数々の着物を新調されたり、部屋も広い間取りの雅な場所へと移されたりと、日に日に忙しなさが増してゆく。
店主による教育は無論のこと、先輩の店子たちをずっと見続けてきた彼には、男が男に色を売るということが、どんなことなのかも察しがついている。幼い頃からそれが当たり前の世界で育ったせいで、別段嫌悪感や拒否感があるというわけではなかったが、披露目の時が迫っていることを実感するにつれ、何となく気重な感が否めないのもまた事実であった。
店主から与えられた新しい自室は、建物の上層階にある高級で雅な部屋だ。
非の打ちどころのない美しい容姿もさることながら、何もせずともにじみ出る色香はその類の客を夢中にさせられるのだとかで、とにかく相当な期待をかけられ、見込まれて育てられてきた。
お前には生まれもっての才覚があるのだと、幼い頃から店主に散々言いつくされてきたことだ。それ故、他の店子らよりも大事にされてきたようだ。
とはいえ当の紫月にしてみれば、自分にそれ程の才能があるのだなどと言われても、正直なところピンとはこない。まあ、まだ客を取る段階の披露目にさえ至っていない今の状況では、それも当然かも知れないが、とにかく自分はこの遊郭の稼ぎ頭として見込まれているのだということには薄々勘付いていた。
稼ぎ頭――
曰く、それ相応の客数を相手にしなければならないのだろうか。それとも他の店子たちよりも高値で売買されるというわけか――いずれにせよ、見も知らない誰かに色を売ることに変わりはない。
客の機嫌を取り、身体を開いて床を共にする。分かってはいたことだが、そんなことを考えればどうにもやるせなくて仕方がない。優雅な部屋の窓辺にもたれながら、それとは裏腹にため息の絶えない日が続く。美しく彩られた庭に陽が落ちるのを眺める瞬間が、最も憂鬱に思える瞬間だった。
そんな中で、その庭木を懸命に手入れしている一人の青年の姿に気をとられるようになったのは、いつの頃からだったろうか。自らと同じくらいの年頃の彼が、額の汗を拭いながら、真剣な顔つきで木々と向かい合っている様子が新鮮に映った。その瞳にはキラキラと輝く夕陽の色が映し出されてとても綺麗だ。いつも気重に感じていた夕陽の橙が、不思議と憂鬱に感じられなくなったのは、働く彼の姿があまりにも清々しく思えたからだろうか、いつしか紫月は庭師のその青年にひどく興味を惹かれるようになっていった。
◇ ◇ ◇
「なあ、あの花もアンタが育ててんの?」
庭の中央にある池の周辺で風にそよいでいる花々を指さして、紫月はそう訊いた。
「あ、ああ……桔梗っていうんだ」
「へぇ、桔梗か。綺麗な色だよなぁ? 俺の名前と一緒で紫色だし!」
そう言ってやわらかに瞳を細める彼の為に、遼二は池の傍まで歩を進めると、群生している中の一輪を摘んで彼のもとへと差し出した。
「よかったらコレ……」
「え!? 俺に……? 貰っちまっていいの?」
うれしそうに瞳を丸くしながら、彼はそっとその香りを確かめるように顔を近づけてみせた。
と、その瞬間に、花の茎を持つ互いの指先が軽く触れ合って、二人は同時に互いを見合った。
――初秋の涼やかな風が頬を撫で、髪を揺らす。
その瞬間に、フッと、それまでにこやかだった彼の笑顔が哀しげに翳ったような気がして、ドキリとさせられた。
「なあ、アンタさ……ずっと此処で庭いじりしてんの? それとも最近来たばっかりか?」
「え――?」
「俺はさ、ガキの頃に此処に連れて来られて以来、ずっと邸の中で掃除とか手伝わされてたんだけど……俺たち一度も会ったことないもんな? アンタのことを見かけるようになったのは部屋を移った最近なんだー」
確かに広い遊郭の中では、こうして誰かと出会ったり近づきになったりすることさえ稀だ。ましてや店とは直接関係のない庭師の自分と店子の彼との間柄では、それで当然だろう。遼二は彼の問い掛けに答えるように、自らのことを手短に述べた。
「俺もガキの頃に此処へ連れて来られたってのは一緒だ。俺、親がいなかったから……。庭師をしてた親方に拾われてさ、育ててもらったんだ」
「へえ、そうなんだ。だったら俺たち、同じなんだな?」
今しがた翳らせた表情を今度はフイとゆるめると、紫月はうれしそうにそう言って微笑んだ。
「な、又ここに来てもいい? またアンタに会えるかな?」
「え? ああ、もちろん……俺は毎日ここで手入れしてるから……」
それを聞いて、紫月は再びうれしそうに微笑った。
それ以来、言葉通りに紫月は度々庭へとやって来るようになった。
一緒に過ごせるのはほんの僅かな時間ではあったが、ほぼ毎日のようにやって来る彼と少しづつ会話を交わすようになり、そうする内に気心が知れるようになっていった。
遼二にしてみれば、あまり邸内の人間と交流する機会など無かったのもあって、最初は戸惑ったが、それでも時を重ねる内にだんだんと彼が訪ねて来る時間を心待ちに思うようになっていった。彼にまた会えた時の為にと鉢に植え付けておいた桔梗の花を差し出せば、初めての時と変わらぬ笑顔で花の香りに顔を近づける仕草に、思わず心があたたまるような気にさせられた。
不思議な感覚だった。
一緒にいるだけで安らぐような、それでいて心躍るような何とも言い難い感覚。そんな気持ちが、より深いものに変化していくのに大して時間は掛からなかった。
午後の日差しが傾き出す頃になると、決まってソワソワと人待ち顔になる。あの少々高い縁側から手を伸ばし、飛び降りて来る紫月の姿を連想しては、早くそれを見たいと心は逸った。
初めて友達ができたことがうれしくて、楽しくて、それでいて彼が帰ってしまった後は何だか急に寂しくなっては心が揺れた。それは紫月の方も同じだったのだろう、頬を紅潮させながら縁側を駆けて来る足取りが、それらを物語ってもいた。
こいつと一緒にいると不思議と心が和む――
二人は次第に互いを大事に思うようになり、と同時に一緒に過ごす時間も長くなっていった。
紫月が遼二の住む竹林の小屋を訪ねて来たのは、そんなある日のことだった。ついぞ先刻までここへ遊びに来ていて帰ったばかりだというのに、ほんの数時間でまた訪れた彼に、遼二は驚きながらも心が温まるようなうれしい気持ちになった。
だが、そんな遼二の思いとは裏腹に、紫月の方は何やら物憂げだ。
宵の口、まるで人目を避けるようにして走って来たとでもいうのだろうか、すっぽりと顔を隠すように覆われた羽織とは裏腹に、弾んで乱れた呼吸に何ともいえない焦燥感がこみ上げる。
「どうしたんだ、こんな時間に……?」
遼二は湯を浴びたばかりの髪を濡らしたままで、紫月の傍へと歩み寄った。
「ごめん、どうしてもお前の顔が見たくなって……来ちまった……」
にこやかな笑顔ながらも、何となく蒼白そうに感じられる雰囲気に、慌てたように彼を小屋の中へと促して扉を閉めた。まるで誰かに見つかってはいけないとでもいうように肩をすぼませた彼の様子が酷く気になったのだ。
「とにかく入って!」
遼二は濡れた髪を拭いながら、紫月の為に腰掛ける場所をこしらえた。
扉を閉めたことで安心したのか、紫月の方はほうっと小さなため息をつくと、ようやくと羽織っていた着物から顔を覗かせた。
いったいどうしたというのだろう、何だか様子が変だ。
「どうした? 何かあったのか……?」
隣りへと腰を下ろし、顔を覗き込むようにしてそう訊いた。
だが、紫月は薄く笑うだけで格別には何も言おうとはしない。
しばらくの後、
「なあ遼二……実は俺……」
――披露目の日が決まったんだ
ポツリと呟かれたその言葉に、『えっ!?』というように彼を振り返った。