月妖伝
「いつか披露目の日がくることなんてさ、此処に来た時から分かってたことなのによ……いざその日が決まったって聞いた途端に怖気づくなんて、俺って情けないヤツだよな?」
決して華奢ではない、どちらかといえば長身の身体を丸めながら、膝を抱えて紫月はそう言った。途切れ途切れにつぶやかれる声は細くて切なくて、聞いているこちらの方が辛くなる。彼もまた、ひどく苦しそうだった。遼二はいたたまれなくなり、だが何と声を掛けていいのか分からずに、ただただ隣りの彼を見つめるしかできずにいた。
それ以前に胸を締め付けられるような苦しさがこみ上げて、どうしょうもなく気持ちが逸る。披露目の日が決まったということの意味を考えただけで、何ともいいようのない何かに全身を掻きむしられるようなのだ。
この気持ちはいったい何だろう、単に友人に辛い思いをさせたくないというだけでは、到底表しきれないような複雑な気持ち――
酷く不快で、気持ちが逸って、今にも暴れ出したいような奇妙な感覚が全身を這いずり揺らす。
ふと、目の前の彼を隠してしまいたいような衝動に駆られた。誰の目にも触れないように、誰の手にも触れられないように、彼を隠してしまいたい。
――二度と披露目の日などこなければいい。
そんな思いに共鳴するかのように、紫月もまた、うつむき加減だった視線をチラリとあげて、二人は同時に互いをとらえ合った。
「披露目の初日に俺を買いたいって客が何人かいるんだって。そんで一番高い値をつけたヤツにその権利が与えられるって話でよ……どんどん値が吊り上げられていってるらしいんだ。もうお父さん(店主)は大喜びでさ、この際は何人かいっぺんに相手にするのも変わった趣向でいいんじゃないかなんて言い出す始末……ッ、なんかもう……呆れちまって反論する気にすらならねえよ……」
小さな舌打ちと共に漏れ出した蒼白な苦笑いが、何も訊かずとも今の彼の心情を物語っているようで、遼二はどうしょうもない気持ちにさせられてしまった。
できることなら逃がしてやりたい。このまま彼の手を取って、此処から出て行ってしまえばいいと、そんな考えが瞬時に脳裏を巡った。
だが実のところ、そう簡単なものではないことは当に承知だ。今更ながらに無力な自分たちが歯がゆくて堪らなかった。
「なあ紫月……無理かも知れねえけど店を辞めさせてもらうことはできねえのか?」
そんなことは到底まかり通ることではないと分かっていても、そう訊かずにはいられなかった。
その言葉に紫月は切なそうに笑い、そしてまた膝を抱え込むようにうつむくだけだ。訊いてしまってから、より辛い思いをぶつけてしまったようで、遼二はひどく後悔し、どうにもならない壁の大きさを思い知らされるだけだった。
「だったら……俺も一緒に頼んでやるからお館様(店主)の所に話に行ってみねえか? 店を辞めたいって正直にそう言うんだ」
「……ッんなの無理に決まってる……俺、ガキの頃に親に売られて此処に来たんだ。もう両親の顔も覚えてねえし、誰もはっきりとそう言ったわけじゃねえけど……何となく分かってた。此処のお父さん(店主)は将来の俺の稼ぎを見込んで育てたわけだし、今更辞めてえなんて言ったら殺されちまうよ……」
そうだ。そんなことは言われなくたって自分にも分かっている。だが他にどうすればいいというのだ。
歯がゆさを持て余しながら、考え付くことは唯ひとつの結論だけだ。
「なら……ここから出ていかねえ……?」
「え――?」
「俺も一緒に行くから……二人で此処から逃げねえか?」
その言葉に、紫月は抱え込んでいた頭をあげて、驚いたように遼二を見つめた。
「それしかねえだろ? 所詮ガキの俺たちにできることなんて……それくらいしか……」
もしも自分がもっと大人で力もあったなら、紫月に課せられた借金を全部払って見受けして、彼を解放してやることもできるのだろう。だがそんなことは夢にも等しい。庭師としてでさえ親方の後を継いだばかりの未熟な自分に、できることなど微塵もないのだ。それでも紫月を救いたい気持ちはとめどない。遼二には、とにかく目の前の現実から身を隠すことしか方法が思いつかなかった。
「逃げよう紫月……! 俺と一緒に此処を出るんだ。できるだけ遠くに逃げて、そしたら仕事を探して俺……っ、その後のことは何とか考えるから……!」
必死の形相でそう言う遼二を、紫月は驚いたような表情で見つめた。
「なん……で? ど……して……? そこまで俺なんかの為に」
「どうしてって……そんなの……」
分からない――
でもどうしてもお前に辛い思いをさせたくはないんだ。
どこの誰とも分からない、色目当ての客にお前がどうされるのかと、それを想像しただけで気持ちが焼け焦げるようでどうしょうもなくなるのだ。
ちゅうちょしている時間など無い。震える脚を一歩前に踏み出して、今すぐ此処から出て行くんだ――!
遼二は自分に言い聞かせるように拳を握り締めては、決意のある目で真っ直ぐに紫月を見つめた。
その、嘘偽りのなく曇りのない眼に、紫月の方は身体中が熱く火照るのを感じていた。
生真面目なこの男にこんな大それた決意までさせて、自分はいったいどうしたいというのだろう。少し冷静になって考えてみれば、単なる我がままから出た不安で、彼を掻き回して惑わせているだけじゃないか。紫月はそう思うと、いたたまれない気持ちになって、自分を恥じずにはいられなかった。
一緒に逃げて、もしもそれが店側にバレでもしたら、それこそとんでもないことになるのは目に見えている。重い罰などという言葉では到底足りないような過酷な仕打ちが待っているに違いないこともしかりだ。
そんな思いを噛み締めながら、紫月は薄く微笑った。
「なあ遼二よぉ、あと何年かして……俺が立派に一人前の店子になったとしてさ? お父さんに育ててもらった恩とか、全部返せるくらいの立場になったとしたらさ……そん時もお前、同じようにそう言ってくれんのかな……?」
「――?」
「ちゃんと独り立ちできるようになって、堂々と店を辞めたいって言えるくらいになれた時、今みてえに『一緒に此処から出て行こう』って言ってくれる?」
そうだ。コソコソと逃げ惑うのではなく、一人前の大人としてすべてに責任が持てるようになった時に、誰に臆することのなく堂々と此処から旅立っていけるのなら――
店子として客を取り、幾多の数知れぬ誰かと情事を重ね、巡りくる夜に心が砕けてしまいそうになったとしても、変わらずにお前は今と同じ言葉を俺にかけてくれるだろうか。
共に此処を出て、一緒に行こうと言ってくれるだろうか。
今みたいな真剣な目で、俺だけを見つめてくれるだろうか。
だとしたら俺はどんな過酷な思いにも堪えてみせる。
いつか本当の意味ですべてから解放されるその日を支えに、精一杯生きていける気がする。お前がずっと傍にいてくれるなら――
この気持ちはいったい何だろう?
ただ、心を許せる友というだけじゃない。
その存在を思うだけで、
その姿を目にするだけで、
その少し低めのやさしい声を聞くだけで、
心が高鳴り、締め付けられ、甘く、苦く、うずくようなこの気持ちはきっと、恋――なのだろうか。
これを人は恋と呼ぶのだろうか。
客をとるようになっても、決して特定の誰かに恋をしてはいけないと、再三言われてきたことだ。
店子の先輩でもある兄さま方が、口酸っぱくそうこぼす愚痴を幾度聞かされたことか知れない。そのたびに『俺にはきっと関係のないことだ』と笑い流してきたことを思い出す。
そうだ、客になる誰かに真剣な想いを抱くことなど想像さえつかなかった。色を売るということ自体も漠然としかとらえていなかったあの頃の自分には、それで当然だっただろう。
だが今なら分かる。兄さま方が溜息混じりにつぶやいていたあの忠告は、きっとこんな想いに悩む苦しさの証だったのだろう。
いつの間にか、ほのかな友情が甘苦しい愛情へと変わっていた。
何ものにも代えられない大切な、唯一人の存在としてこの男を意識するようになったのはいつの頃からだろうか。
何の曇りもなく、不安もなく堂々と、こいつと共に生きていける日がくるのなら、何もいらない――!
紫月は抱えていた膝から手を離し、顔をあげて真っ直ぐに遼二を見つめた。
「ごめん。俺、なんか情けねえこと言っちまって……すげえ無粋だよな。一緒に逃げようだなんて、お前にそんなことまで言わせちまって、同じ男なのにホント情けないって思うよ。でもお陰で決心がついたぜ?」
「紫月……?」
「ん、俺……がんばっていけそうな気がしてきた。ちゃんとてめえのするべきことをがんばってさ、一丁前に稼げるようんなったら……そン時こそお前と一緒に此処から出て行きてえなって。ま、その頃にはお前もそんな気ィ、起きなくなってるかも知れねえけどー」
クスクスと笑いながら、わざと悪戯そうにそう言う紫月の肩が震えていた。
儚い夢と希望を胸に、これからの、気の遠くなるような日々をなんとか生き抜こうとする決意と諦めの入り混じったような感情が堪らなかった。
無意識に遼二は手を伸ばし、気付けば華奢な肩を抱き包んでいた。
「……馬鹿野郎……ッ、ンなことっ、俺は……ッ!」
思いが交差し、とめどなく、言葉になどならなかった。
無力な自分が歯がゆくて悔しくて、大人の世界の壁がこんなにも高くて分厚いことが絶望となって我が身を押しつぶすようだ。
紫月をしっかりと腕の中に抱き包みながら、ふと、頬に一筋の涙がこぼれて伝った。
やるせない思いを、『涙』などという形でしか表しきれないちっぽけな自分も、情けなくてならなかった。
「俺なんかっ、何もできねえ……ッ! お前を救ってやることも助けてやることも逃がしてやることさえ、何も……ッ」
しぼり出すように耳元で囁かれる声が涙色にくぐもって、遼二の悲痛な叫びがドクドクと脈に乗り、伝わってきた。
これほどまでに自分を思ってくれるその気持ちに、感激ともつかない熱い想いがあふれ出す。それと共に、打ち破ることのできない現実が、大きく高い壁となって自分たちに圧し掛かってくるような切なさに、涙がこみあげた。
自らを抱き包む遼二の背中に腕を回し、すべてをゆだねるように抱きつきながら紫月は言った。
「なあ遼二……お前に頼みがあるんだ……」
その言葉に遼二は顔を上げ、互いの額と額とを擦り合わせるようにして彼を見つめた。
「俺、自由になれる日までがんばるよ。店子としてちゃんと立派に勤めあげてみせる……だから……だからさ、俺の初めての……オトコになってくんない……?」
「……!」
「お前に……」
抱いてもらえたら――
「そしたら俺、きっと……」
どんなことがあっても生き抜いていけそうな気がする。
お前が俺の初めての男だって、ずっとそれを支えに思っていけるから――
「けど、やっぱそんなのは気色悪い……っか? お前は此処に来る客とはワケが違う……」
思い直したように苦笑する声を震わせて、紫月は視線を泳がせた。
重なり合った額と額の合間からぼやけて見えるその瞳は大粒の涙でうるみ、今にもこぼれて落ちそうだ。深秋の冷気が互いの吐息と絡み合って上気する。
視界に入りきらないくらいに寄せ合った唇を、おそるおそる近付けて重ね合わせれば、瞬時に切なさが互いを欲する欲情へと変わるのを感じた。
――くちづけを交わすなど初めてだった。
物心ついてからこのかた、親もなく、庭師をしていた親方に拾われて育てられた。その日その日をしのぐことだけで精一杯だったこれまでの人生で、初めて得た他人との触れ合いに、言いようのない高揚感がこみあげる。
まるで意志とは切り離されたように熱を増す自身の変化が、我がものとは思えない程に遼二を高揚させていった。夢中で唇を貪り、かってが分からないことが逆に高みへと押し上げて、火照った気持ちをあおっていった。
二人はそのまま倒れ込むように敷物の上へと転がり込んで、しばらくはきつく互いを抱き締め合った。
「紫月……俺、その……こーゆーこと初めてで……」
慣れていないし、だから何事も上手くできなくて格好悪いよなとでも言うように口ごもり、だがそれとは裏腹に身体は素直に反応していて、押し倒されて重なり合った腰元あたりに遼二の硬く熱いモノがぶつかっているのを感じて、そんな様子に紫月はこの上なく愛おしい気持ちに駆られていくのを感じていた。
「いいんだ。俺だって同じ……。兄さんたちのを一応見聞きしちゃあいるけど……こうするのはお前が初めてだから」
逸る気持ちのままに、きつく互いを抱き締め貪り合うことだけで精一杯だった。
何をどうしていいか分からずに、絡み合う内に着物の裾が乱れて、肌があらわになっていく。熱にうなされるままにそれらを脱ぎ捨て、敷物代わりにして素肌をさらし合い、これ以上はくっ付けないというくらいに互いのすべてを密着し合った。
乱れた下着を脱ぎ、勃起した雄同士を擦り付け合って、荒くなる吐息に目眩がしそうだ。欲情した瞳で見つめ合い、先走りで互いの腹部を濡らし合い、軽い痛みを感じる程に硬さを増したモノを持て余しては焦れ合って――
「ココ、触っても……い?」
「ああ……いいぜ、触って……」
お前にならどこに何をされてもいい。むしろこの身体中のすべてをお前に浸食されてしまいたい。
二度と忘れないように、お前を俺に刻みつけてくれ――!
欲情の合間から顔を出す感激と愛しさの入り混じったような気持ちに自然と涙があふれ出す。紫月は自らを組み敷くぎこちない愛撫を、ひとつ残らず記憶の中に刻みつけるように、全身全霊で彼にすがりつき、そして受け止めた。
◇ ◇ ◇
決して超えてはならない一線という言葉を聞いたことがある。
堪え難き苦渋に身も心も翻弄されながら、流れゆく時に身を任せ、晴れてすべてから解放されるのを待つのが賢い大人の選択だというのなら、俺たちはそれを望まない。
一時の激情に流された愚かな生き方だと憐れまれても蔑まれても構わない。
永き苦悩の末に、ささやかな自由を手に入れられるのだとしても、俺たちはそれを待ってなどいられない。
例えこの身が滅びてしまうと分かっていても、互いのぬくもりを手放すことなど出来得はしない。
それが若い二人が選んでとった道だった。
求め合い、貪り合い、そうすることでより一層激しく燃えあがる気持ちが自らをもっと苦しめることになることなど、微塵の想像もつかないままに、ただただ目の前の衝動に身をゆだねた。
一夜を共にし、離れ難い辛さに押しつぶされそうになっては幾度も幾度も求め合い、秋のやわらかな陽が沈む頃になってようやくと現実感が互いを襲い――
一昼夜もの間、遊郭に戻らないことで、逆に店主らに疑われることを気に病んだ紫月が、後ろ髪を引かれる思いで帰って行く姿を見送る遼二の気持ちもまた、堪らない焦燥感でいっぱいになっていた。
急激に襲い来る現実が酷な思いに拍車をかける。
『月が高くなる頃に、こっそり抜け出してまたここへ来るから――』
はにかんだようにそう言った紫月の笑顔がとめどなく脳裏に浮かんでは、ハラハラと気持ちが急いて何事も手につかなかった。
夕刻に別れてから月が天心に昇るまでの僅かな時間が、永遠にも思える気がしていた。
店子として立派にやっていく決心をし、自らに身を委ねた紫月の横顔、
いつか自由を手に入れられた時に一緒に此処から出て行ってくれるかと訊いてくる不安げな面持ち、
ゴツゴツとした骨っぽい感覚の痩せた背中、
そのくせ男のものとは思えないようなきめ細やかな白い肌、
熱い吐息、
遠慮がちな嬌声……
欲情――
つい先刻まで手中にしていたそれらすべてが次から次へと浮かんでは気持ちを掻き乱す。
やはり今すぐにでも、此処から出て行った方が賢明なのではないか――?
自由を手に入れられるその日まで待ってなどいられない。
たった数時間が千秋にも思える中で、遼二は逸る心を持て余しては、ウロウロと手持無沙汰に小屋の中を行ったり来たりと、落ち着かない思いで過ごした。
ふと、格子から外を覗けば、隣りの遊郭との間に隔てられた高い竹垣の隙間から、色めいた灯りがちらほらと垣間見えた。
あの灯りの中で紫月は今、何を思い、どう過ごしているのだろう。
いつものように先輩の店子たちの世話をしているのか、それとも自室にいるのか、あるいは店主の下で披露目の日の為の段取りなどを相談させられているのか、ありとあらゆる想像が浮かんでは消え、不安を掻き立てる。
早く、
早く、
早く戻ってこい紫月――!
頭上を見上げれば、小さくなった月が煌々と輝きを増している。
あと少し、ほんの少しあの月が西へと動いたら、きっと紫月はやって来る。
いつものように息を弾ませて、少し早足でパタパタと着物の裾をひるがえしながら走って来るだろう。
ああ、早く会いたい。
会って顔を見て、安心したい。
そうしたら二人で此処を出ようと伝えるんだ。今度こそ、もう迷わずに、すぐにでも此処を出て運命を共にしよう。身支度などどうだっていい、後のことなど考えるな!
着のみ着のまま、お前が一緒なら他には何もいらないのだから――
祈るような思いで遊郭から繋がる一筋の道を見つめていた遼二の視界に、微かな灯りが近づいてくるのが飛び込んできた。
遠く近く、時折上下に揺れながらこちらへと向かってくる行燈の光にすべての思いがあふれ出す。
いてもたってもいられずに、遼二は小屋を飛び出した。
その光の先に愛しい者の温もりとは真逆の、辛辣な運命が迫っているなどとは夢にも思わないままで――