極道恋事情
◆プロローグ
「日本人か――?」
そう訊いてきたのは眼光鋭い怜悧な男だった。生まれ育った香港の地での出来事だ。
濡羽色の髪、黒曜石のような瞳、身にまとう服も全身墨一色で、おいそれとは近付けない――いや、近付いてはいけない雰囲気の男。わずか九歳にも満たなかったその時でさえ、それだけは本能で感じ取ることができた。
◇ ◇ ◇
◆1
それから十二年――。
二十歳の誕生日を明日に控えたその日――雪吹冰は東京都内にある巨大なビルディングを見上げながら大きな溜め息を漏らしていた。ここは汐留に林立する商業ビル群の中の一画だ。
「まさかこんなでけえビルだなんてよ……。あの男、ホントにここに居るんだろか――」
見上げる鋼鉄の壁は、その頂上が見えないくらいに天高くそびえ立っている。雲間に呑み込まれそうなそれは、今にもこちら側に倒れてくるんじゃないかというくらいの錯覚をも起こさせる。
幼き日に出会った”漆黒の男”に会う為に一人香港を離れ、ここまでやって来たわけだが、いざとなったら足が竦んでしまいそうだった。
そんな冰の頭上からはちょうど天心に差し掛かった太陽の日射しが、分厚い雲間を縫って、まるでスポットライトのように彼を照らし始めている。
午前中はどんよりと曇っていた天候が、時間を追うごとに刻一刻と変化する。
流れる雲は早く、入道雲を連想させそうなくらいにモコモコと膨らみを増していく。秋深くなったこの時期には珍しいことといえた。
風が撫でるのは、若い男にしてはキメの整った陶器のごとくなめらかな肌だ。顔周りを覆う絹糸のようなゆるい癖毛の髪が、その整った顔立ちを一層引き立てるようにフワフワと揺れている。
ビルの前で上を見上げたまま突っ立っているこの男を、通り過ぎるほぼすべての人々がチラリチラリと遠慮がちに窺っていく。真昼のビジネス街には不似合いなほどに目を引く容姿は、確かに美しいといえた。
「……ッ、ここで突っ立ってても埒があかねえ。こうなったら腹括るしかねっか……」
もったいなくも無造作にワサワサと髪を掻き上げる、そんな仕草のひとつさえ通りすがる誰の視線をも釘付けにしてしまう。気付いていないのは本人のみだろう。
「それ以前にどっから入ればいいのか、デカ過ぎてワケ分かんねえよ……」
ぼやきつつも、ビルを出入りする人の流れに従って視線をやれば、エントランスらしきを見つけて、冰はおずおず、そちらへと歩を向けた。
◇ ◇ ◇
◆2
十二年前、冰はある事件で両親を失った。
当時、冰の親は香港の地で小さな雑貨店を営んでいた。両親は共に日本人だったが、父親が勤めていた商社で海外転勤を命じられて移り住んだのが始まりだったらしい。
両親にとって香港の地が水に合ったわけか、再び別の地への転勤の辞令をきっかけに、勤めていた商社を辞めて小間物雑貨を扱う店を開いて生計を立てるようになったそうだ。冰が生まれたのもちょうどその頃だった。
生活は取り立てて裕福とはいえなかったものの、やさしい両親の下、冰は穏やか且つ幸せな日々を過ごしていた。現地の広東語はむろんのこと、母国語である日本語の他に、日常生活に不自由しない程度の英語も身に付け育った。一家を悲劇が襲ったのは、冰が九歳になろうとしていたそんな或る日のことだった。
冰らの住む繁華街で抗争が起き、それに巻き込まれた両親が一度に命を落としてしまったのだ。どうやらマフィアがらみの諍いのようだったが、銃撃戦にまでなり、街区内は一時騒然となった。
いかに生まれ育ったとはいえ、頼る親類縁者もいない異国の地で、幼い冰は突如として独りになってしまったわけだ。
――が、住んでいたアパートメントの隣人であった黄という老人が親身になってくれたお陰で、どうにか生き延びることが叶ったのは不幸中の幸いといえよう。
黄老人というのは、カジノでディーラーをしながら生計を立てている人物だった。妻や子はおらず、生涯独身を通している仕事人間でもあった。ディーラーとしての才気にあふれ、どこのカジノからも引っ張りだこというくらいの腕前の持ち主の上、裏社会にも顔が利き、各方面から一目置かれる存在だったようだ。
そんな黄氏だが、冰ら家族に対してはいつも穏やかでやさしい、普通の老人だった。幼い冰ともよく遊んでくれたので、冰自身もよく懐いていた。突如として訪れた悲劇の中にあって露頭に迷わずに乗り越えられたのは、まさに黄老人のお陰だったといえる。
◆3
その後、冰は老人と共に生活するようになり、これまで通り学校にも通うことができた。しばらくは穏やかな日々が続き、両親を失った傷もようやく癒えようとしていた頃、運命の出会いは訪れた。
冰らの住むアパートメントのすぐ近くでまたしても抗争が起き、今度は以前にも増す大惨事となってしまったのだ。先の――冰の両親が巻き込まれた事件に絡んだ諍いの報復戦らしく、前回を遥かに上回る大抗争に発展した。
如何にチンピラ同士の揉め事とはいえ、二度も銃撃戦に至るまでの惨事に、事態を重く見た地元マフィアの幹部が鎮圧に乗り出してくることとなったのだ。
そんなどさくさの渦中でのことだった。
冰はまだほんの子供だったが、運悪くといおうか、一見して華のある見目の良い容姿に目を付けられ、チンピラ集団によって人身売買を目的に拉致されてしまうハメとなった。
黄老人は身を盾にしてなりふり構わず冰を守ろうと応戦したが、その甲斐も虚しく、家は荒らされ怪我も負わされてしまった。あわや連れ去られそうになった冰を間一髪で救い出したのが漆黒を身にまとった怜悧な男だった――というわけだ。
なんと、彼は抗争鎮圧の為に出向いて来た香港マフィアの頭領の息子だったのだ。
[こんな小っせえガキを売り飛ばそうなんざ、クズ以下だな]
彼はそう言ってチンピラ連中の手から冰を取り戻した。そして、恐怖の為か真っ蒼になって震える冰の前で屈むと、『怖い思いをさせたな。すまなかった』そう言って謝ったのだった。
冰は動揺の中にあって、広東語と日本語が入り混じった言葉で取り留めのないことを言いながら泣き崩れてしまっていた。その様を見て、男は呟いた。
「日本人か――?」
それはまさしく日本語だった。冰にとって、愛する両親が日常の中で使っていた大切な言語だ。生まれ育った異国の地にあろうとも、本能でそれが自らの母国語だと認識されていたのだろう。冰はそのひと言で泣き止むと、おそるおそる男を見上げながら訊いたのだった。
「お……兄ちゃん、誰? 日本の人……なの?」
そのやり取りを目にしていた黄老人が、すかさず冰を抱き寄せながら男に向かって頭を垂れた。
[申し訳ございません、周大人――! 口の聞き方も分からぬ子供ですので、どうかご容赦ください。お助けいただいて……何と御礼を申してよいか……本当にすみません!]
床に擦り付けん勢いで頭を下げる黄老人に、男が訊いた。
[こいつはあんたの子供か?]
[いいえ――。この子は私の隣に住んでいた子供でして]
[隣だと? 親はどうした]
[この子の親は……亡くなりまして]
[亡くなった? 病か何かで――か?]
[……いえ、その……。この子の両親は先日この辺りで起きた抗争に巻き込まれまして……不運にも二人共同時に……]
黄老人の説明に、男はハタと瞳を見開くと、わずかながら眉根を寄せた。先のチンピラ同士の諍いが原因だと悟ったのだろう。直接は関係しておらずとも、自分たちファミリーの息の掛かった者たちが起こした不始末の結果に違いはない。男は静かに詫びの言葉を口にした。
◆4
「――そうだったのか。すまないことをした」
今度は日本語で、幼い冰にも分かるように謝罪したのだった。冰ら家族と親しくしていた関係で黄老人は日本語にも多少なりと明るかった為、その意は通じたのだろう。
[いえ――。大人にそのようにおっしゃっていただけるなど……恐縮です]
未だ頭を垂れたままで、幾度となく深々とお辞儀を繰り返す。
見たところ、この漆黒の衣服を身にまとった男は黄老人よりも遥かに若い。幼い冰にもそのくらいのことは分かるのだろう、何故にこの若い男に対して黄老人がこうまで丁寧にするのかを不思議な面持ちで見つめていた。
[この子供はあんたが育てているのか?]
男が訊いた。
[はい。私には家族もおりませんし、隣家で暮らしてきましたのでこの子も懐いてくれています。この歳になって息子を授かったと思って、これからも大切にしてやりたいと思っております]
[――そうか]
男はうなずくと、再び冰の前でしゃがみ、
「ボウズ、名を何という」
日本語でそう問い掛けた。
冰からすれば、真っ黒い服を着た鋭い眼力の男がいきなり目の前で屈んだのだから驚いたわけだろう。だが、男はわざわざ日本語で話し掛けてくれている。混乱している自身のことを思ってそうしてくれているのだろうことが冰にも分かるのだ。ビクりと肩を震わせつつも、訊かれた問いには懸命に答えようと口を開いた。
「……んと、ひょう……です。ふぶき……ひょう」
「ひょう――か。どんな字を書く」
「えっと……漢字……?」
「そうだ。漢字だ」
「えっとね、ちょっと難しい……です。雪が吹くって書いて”ふぶき”。名前の方は……”にすい”に水だって。お母さんからそう教えてもらった」
男は頭の中で漢字を組み立てたのだろう。少し考えると、
「なるほど。雪吹冰――か」
納得したのか、冰の頭をポンと撫でると、今まで崩さなかった無表情をわずかにゆるめてみせた。
「そうか。いい名前をもらったな。俺は焔だ」
「イェン……? お兄ちゃんの名前?」
「ああ。漢字は――説明するのが難しいが、炎という意味だ」
「炎……。じゃあ、熱いんだね」
あまりに率直な感想に、男は一瞬面食らったように瞳を見開いた。――が、すぐにまたそれを細めると、今度は黄老人に向かって広東語でこう告げた。
[この子供には――俺たちファミリー下の諍いが原因で不憫な思いをさせてしまった。せめて養育費くらいは援助させて欲しい]
男からの意外な申し出に、黄老人は驚き、皺の深い瞼を大きく見開いた。しばしの間、絶句してしまったほどだ。
[……そんな、めっそうもございません! 子供一人のことです。私にも何とかなります故――そのお気持ちだけで充分でございます……!]
だが、男は引かなかった。是が非でも養育費をと言うので、結局は有り難く厚意を受けることになったのだった。
それが漆黒の男――周焔と幼い雪吹冰との出会いであった。
◇ ◇ ◇
◆5
それから十二年が過ぎた。
冰は黄老人に大切に慈しまれ、生きていく為にとディーラーの技も仕込んでもらいながら育った。そして修業後、黄老人の後を継ぐべく一人前のディーラーとして働き始めた冰だったが、その後わずか二年で老人を看取ることとなった。冰が両親を亡くした時には既に結構な歳だったから、天命である。これまで大病することもなく、静かに息を引き取ったことだけが冰にとっての幸いといえた。
そんな黄老人が亡くなる際に言い残したのが、例の漆黒の男についてのことだった。
幼き日に冰をチンピラ連中から救ってくれたこと、その後の養育費と称して使い切れないほどの莫大な支援を今もなお続けてくれていること、そして彼の素性が香港マフィアの頭領一族だということなどを詳しく話して老人は天に召されたのだった。
黄老人からすべてを聞いた冰は、ほどなくして香港を離れる決意を固めた。何故なら老人が亡くなる際に、例の漆黒の男が現在は日本に移り住んでいると聞かされたからだ。
彼は確かにこの香港の裏社会を統治するマフィアの一族ではあるが、妾腹として生まれた身の上であるとのことだった。しかも彼の母親というのは日本人女性なのだそうだ。つまりハーフということだ。
彼には兄もあり、その兄はれっきとした本妻の息子であることから、後継問題で揉めることを望まなかった彼は、自らの母親の母国である日本に移住することを申し出たそうだ。しかしながら、継母や兄と不仲というわけではなく、逆に分け隔てなく家族として慈しまれていたこともあり、その恩義の為に現在は日本で起業し、ファミリーの資金源に少しでも役に立たんとしているらしい。
冰はそんな男が自分と黄老人を気に掛けてくれていたことを知って、是が非でも一目会って礼を述べたいと思ったのだった。
冰とて生まれも育ちも香港だとはいえ日本人であることに変わりはない。今までこの方、訪れたことは一度もなかったが、故国に対する憧れの気持ちもあった。しかも、あの漆黒の男がいるというなら尚更だ。
そうして日本に着いたものの、それこそ頼る者は皆無の孤立無援状態だ。両親と血の繋がりのある親戚がないわけではないが、何処に誰が住んでいるのかといった詳しいことは、今となっては既に分からずじまいだった。
先ずは住む所や仕事を見つけなければならないが、有り難いことに黄老人の残してくれた貯蓄も相続していたので、当座の資金に困ることはなかった。それ故、何を置いても漆黒の男に会いに行くのが先決と思い、老人から聞かされていた男の経営しているという会社を訪ねて来たわけだが、いざ着いてみるとその巨大なビルを眼前にして驚かされてしまったのだ。
「ほんとにここで合ってんだよな……。にしても、まさかこんなにバカでけえビルだなんてよ……」
手にしたメモの住所を何度も確かめながら溜め息をつく。冰は覚悟を固めるように自らの頬をパンパンと叩くと、その巨大なビルのエントランスをくぐったのだった。
◆6
冰の手には通帳と印鑑が握られていた。亡くなる間際に黄老人から手渡されたものだ。
記されている金額だけ見ても現実味のないほどの額面は、十二年前のあの日から漆黒の男が欠かさず振り込んでくれているものだそうだ。だが、老人はその金には一銭たりとも手をつけてはいなかった。冰を育てる為の生活費はディーラーで稼いだ自らの金で養ってくれていたのだ。男からの援助は冰が成人した時の為にと、すべてきれいなままで貯蓄してくれていた。
「しっかし……すげえ金額……。こんなの持って歩ってるだけでも恐ろしいよ……」
これほどまでに気に掛けてくれるのはどうしてだろう――と、むろんそういった思いもあったが、何より今日この日までずっと援助を続けてくれているその男に会って、直に礼を述べなければ気がすまない。そして、身の丈に合わないような大それたこの援助金も返すべきだ。冰はそう思っていた。
広大な吹き抜けが天高く伸びているロビーに足を踏み入れると、とにかくは受付へと向かった。
都会的な美人といえる若い女性が二人並んで腰掛けているのは、重厚な造りのデスクだ。
そちらへと歩を進める冰に気付いたわけか、彼女らは少々奇妙な雰囲気でこちらの様子を窺っているようだった。
一人は、どちらかといえばおとなしくおっとりとした感じの女性で、冰の容姿に見とれるように頬を染めながら好意的に話を聞こうとデスクから立ち上がってくれている。だが、もう一人の方はそれとは真逆で、何故だか値踏みするような視線をくれてよこす。場にそぐわない格好で来てしまったのかと一瞬不安が過ぎったが、冰は一応スーツ姿で出向いて来ているし、特に悪目立ちするような服装でもないはずだった。
「あの、すみません――。こちらの社長さんにお会いしたいのですが」
冰がそう切り出すと、案の定といったふうに挑戦的な態度の方の女性がますます怪訝そうにして、整った顔立ちに剣を浮かべたようだった。
「失礼ですが、アポイントメントがお有りですか?」
かなりの上から目線で冷たく言い放たれて、冰は一瞬面食らってしまった。聞く耳を持たないとはまさにこのことだ。彼女の隣では、もう一人のおとなしい方の女性が少々ハラハラとした様子で成り行きを窺っている。どうやら彼女は後輩か見習いといったところなのか、口を挟めずにいるといった雰囲気だ。
冰が戸惑っていると、挑戦的な方の女性が更に棘のある言葉を投げつけてきた。
「お客様、お約束がございますか?」
何故か苛立っているようにも感じられる。
確かにアポイントを取らずに押し掛けたのは悪かったかも知れないが、初っぱなから有無を言わさずといった態度に出られて言葉が出なくなってしまったのだ。
「あ、いえ……。特に約束はしていませんが――」
「でしたら申し訳ないのですが、お取り次ぎは致しかねます」
さも当然といったふうにツンと唇を結んだまま、とりつく島もない。だが、冰もここで素直に引き下がるわけにはいかなかった。
生まれ育った香港を後にして、初めて踏んだ日本の地だ。せめて漆黒の男に会って礼のひとつも告げないままでは、おいそれと帰るわけにもいかない。それ以前に、初対面の受付嬢にここまで冷たくあしらわれる理由も分からない。冰は今一度、気を取り直して丁寧に面会を申し入れることにした。
◆7
「連絡をしなかったのは申し訳ありません。ですが、どうしても社長さんにお目に掛かってお渡ししたいものがあるんです。今日のご都合が悪いようなら、せめてご予定だけでも訊いていただくことはできませんか?」
精一杯丁寧に頼むも、受付嬢の態度は変わらなかった。それどころか、ますます機嫌を損ねたような表情があからさまだ。そこまでされても帰る気配のない冰に業を煮やしたのか、剣のある方の女が耳を疑うようなことを言ってよこした。
「あなた、もしかしてどこかのホストかなにか?」
「え……?」
冰は一瞬何を言われているのか分からないとばかりに首を傾げさせられてしまった。
「たまにいるのよね。社長が接待で呼ばれた席で知り合ったかなんか知らないけど、一度会っただけで営業掛けてくるような人! どうせ社長がいい男だし羽振りも良さそうなんで目を付けたってところでしょ? ちょっとくらい顔がいいからって、図々しく社にまで押し掛けてくるなんて勘違いもいいところだわ。そんな人を社長が相手にすると思って? 悪いけど、我が社はそういうの一切お断りよ!」
言葉遣いすら最初の丁寧さはなく、取り次ぐ意思のないのがあからさまだ。分かったらとっとと帰ってちょうだいとばかりにソッポを向いてしまった。
だがまあ、これで彼女がそっけない態度を取る理由が一応は理解できた。あまり好ましくない前例があったからなのだろう。こちらの雰囲気がそのように見えてしまったのなら仕方がない。とにかくはそういった用件でないことを説明すれば納得してもらえるだろうか。
「あの……俺は違います。ホストではありませんし、営業ということでもありません。知り合いがこれまでずっと社長さんにはお世話になっておりまして……それで……」
世話になっているのは自分も含めてなわけだが、この場でそこまで説明する必要もないだろう。冰は当たり障りのないよう、丁寧に面会したい意思だけを伝えんとした。だが、どうやら無駄だったようだ。
「しつこいわね! 分かっていただけないようなら警備の者を呼ぶわよ」
女が苛立ちながらそう怒鳴り掛けたその時だった。
「何をしている! こんなところで大声を出して、揉め事か?」
後方から男の声がそう言った。見れば、エレベーターを降りてきた一人の男が冷たい視線でこちらを見据えている。きちんとした身なりの、いかにもできそうなエリート感をまとった冷静沈着といった雰囲気の男だ。
彼に気付くなり、女は百八十度態度を翻したようにして猫撫で声を出した。
「李さん!」
男は李というらしい。この高飛車な女でも一目置く存在のようだ。
「すみません。実はこのお客様が突然訪ねていらして、社長に会いたいと言うものですから……」
すごすごと言い訳めいたように説明するも、その”お客様”は怪しい人物で困っていると目線が訴えている。
男は冰を一瞥すると、女たちよりは丁寧な仕草で、
「ご用件を伺います」
と言ってきた。
冰はホッと胸を撫で下ろすと同時に、”李”というらしい男の名前から、彼が香港の人なのだろうと思った。あの漆黒の男の縁者か部下なのかも知れない。
受付嬢の女が広東語を話せるかどうかは分からなかったが、ここはひとつ賭けに出てみるのも手だろうか。冰は敢えて広東語で李に自己紹介を試みることにしたのだった。
◆8
[突然押し掛けた失礼をお許しください]
すると、李は少々驚いたようにわずか瞳を見開いたが、受付嬢らは面食らったように固まってしまったのが気配で分かった。やはり彼女らに広東語は分からないのだろう。冰にとってはこれ幸いである。別段聞かれて困ることもないが、聞く耳を持たない相手に敢えて聞かせてこじらせることもない。冰は広東語のまま李という人物に用件を告げることにした。
[自分は雪吹冰と申します。周焔さんにお世話になっている者です]
李はその名に聞き覚えがあったのか、更に驚いたように目を見張ると、すぐに広東語で応じてよこした。
[――では黄氏のご子息の……]
[黄をご存知なのですか?]
[――失礼。申し遅れました。私は周の秘書をしております李と申します]
[あ、はい、初めまして。実はその黄が亡くなりまして……。周大人にはたいへんお世話になっていると聞きました。それで、どうしても一目お会いして御礼を申し上げたくて伺いました]
李はひどく驚いたようだった。
[――亡くなられたのですか?]
[ええ。息を引き取る間際にこれまでのことを聞きまして]
[少しお待ちください]
李は言うと、懐から携帯電話を取り出して通話を始めた。おそらく相手は漆黒の男、周焔なのだろう。丁寧な話し方で、たった今冰が告げた内容を伝えているようだった。むろん広東語でだ。
すると、その様子を窺っていた受付嬢の女が小声でこう言った。
「内緒話だなんて、卑怯なことするのね。外国語で喋るなんて、私たちには言葉が通じないからってバカにしてるのかしら? ほんっと……クズ!」
広東語でのやり取りが気に入らなかったのだろう。と同時に、通話中の李には聞こえないと思ったらしく、冰に向かってきつい眼差しで言い放った。
[お待たせ致しました。ご案内致します]
通話を終えた李は冰に向かって丁寧に頭を下げると共に、女に向かってひと言、
「それがお客様に対する態度か? キミは今日はもう上がっていい。それから――のちほど配置換えの辞令が下ると思っておくように」
今度は日本語でそう言い、怜悧に一瞥をくれると、すぐに踵を返して冰に道を譲るべく今一度腰を折って深々とお辞儀をしてみせた。
驚いたのは女だ。配置換えと聞いて、受付嬢をクビになると悟ったのだろう。
「待ってください、李さん!」
冰に放った嫌味が聞こえてしまったと思った女の顔色は真っ青になっていた。焦った声を裏返して縋ったが、李はもう彼女を振り返ることはなかった。
エレベーターが閉まると、
[只今は弊社の者がたいへん失礼を致しました。どうかご容赦ください]
またしても深々と頭を垂れる。
[いえ……そんな……]
[周がお目に掛かります]
エレベーターはペントハウスで止まった。
◆9
通されたのは、この巨大な建物にふさわしい――いかにも高級感あふれる部屋だった。まるでどこかの雑誌で見た五つ星ホテルのラグジュアリールームのような雰囲気だ。広々とした部屋には重厚な造りの応接セットが設えてあり、冰は少しここでお待ちくださいと言われてソファを勧められた。
室内にしては珍しい木彫りの極細彫刻が施されたアーチ型の扉の向こうには、次の間があるらしい。李という男は軽いノックと共にそちらへと入っていった。周焔への取り次ぎの為であろう、少しすると李が戻って来て、お待たせ致しましたと告げた。
中で待っていた人物を目にするなり、冰は驚きに目を見開いてしまった。
墨色の、見るからに品の良さそうなダークスーツをまとった長身の男がゆっくりとした所作で大きなデスクから立ち上がる。整い過ぎたという以外に形容のし難い男前の顔立ちながら眼力は半端でない。一目で万人を虜にするような華やかな雰囲気は、まるでファッションモデルさながらだ。濡羽色の髪をゆるくバックにホールドしていて、背後にある一面ガラス張りの窓から差し込む午後の陽射しに照らされ、その黒がキラキラと光る。まごうことなく、それは幼き日に会った漆黒の男だった。
[周焔だ。よく訪ねてくれた]
短くも心のこもったそのひと言を掛けられた瞬間、冰の心臓は跳ね上がった。理由もなくドキドキとし出し、思わず挨拶も忘れてその場で硬直してしまう。男を捉えたまま視線が外せずに、ポカンと大口を開けて立ち尽くしてしまっていた。
そんな様子を変に思ったのだろうか、周という漆黒の男が、今度は日本語で話し掛けてきた。
「どうした? 日本語の方がいいのか?」
李から事の次第を聞いた際に、冰と広東語でやり取りをしたことも聞いていたらしく、先ずは広東語でと思ったようだ。
「あ、いえ……すみません。広東語でも日本語でもどちらでも大丈夫です。雪吹冰です! 今日は突然お訪ねして申し訳ありません!」
ガバッと腰を折ると、慌てて自己紹介をした。
「そう畏ることはねえ」
周はわずかに口角を上げると、冰にソファを勧めた。
「黄のじいさんが亡くなったそうだな。知らなかったとはいえ、葬儀にも出られずに不義理をしてすまなかった」
「いえ……! とんでもありません! 俺――いえ、私の方こそ周さんにはひとかたならぬお世話に与りまして、何と御礼を申し上げても足りません!」
「――亡くなったのはいつだ」
「はい、ひと月ほど前です。その際に、周さんから多大なご支援をいただいていたことを聞きました。どうしても直に御礼を申し上げたくて押し掛けたご無礼をお許しください」
「いや。わざわざすまない。それにしてもお前さん、香港に住んでた割には随分と日本語が達者なんだな」
冰との今のやり取りでそう感じたのだろう、周は感心顔で言った。
◆10
「恐縮です。じいちゃん……いえ、黄が日本人の多い学校に通わせてくれておりました。お陰で日本語を忘れずにすみました」
「そうだったのか。黄のじいさんはお前を大切に育てたんだな」
冰の丁寧な話し方や仕草ひとつを取ってみても、それが手に取るようだ。今時は日本人の若者でさえすんなりとは出てこないような言葉遣いにも感心させられる。周は俄然興味をそそられたかのように会話を続けた。
「わざわざ訪ねてくれたことに感謝する。それで――お前さんはいつまで日本に居られるんだ?」
当然、観光的な短期滞在だと思ったのだろう、周はそう訊いた。
「はい、あの――実は俺、当分日本に居ようと思いまして……。というより、日本で暮らせたらと考えています」
「ほう? こっちに頼れる親戚でもあるのか?」
周にとっては嬉しい驚きに思えたようだ。
「いえ――。親戚は……調べればいるとは思いますが、俺にはツテがありません。ですが、両親の生まれた国ですし、香港に帰ってもじいちゃんももうおりません。それに――周さんのいらっしゃる同じ日本の地で暮らしたいと思って……」
緊張の為か、冰は思ったままを口走ってしまったところで、ハタと口を押さえた。周がいるから日本で暮らしたいなどと言ってしまい、ヘンに思われたらいけないと気付けども、既に後の祭りだ。今までも散々援助を受けてきたというのに、まさか引き続き世話になりたい――などと受け取られたらどうしようと、一気に肝が冷える思いに陥ってしまった。
だが、周はまったく別の意で解釈したようだ。
「俺がいるから日本で暮らしたいってのか? 可愛いことを言う」
「え――ッ!? いえ、その……! せ、世話になりたいとか……そういう意味じゃありません! ただその……」
「何だよ」
「いえ……」
そこから先は言葉にならない。
確かに本心では周と同じ大地を踏んで暮らせるならと――そう思ったのは事実だ。別段この先も支援をして欲しいと思ったわけでは決してない。ただ、同じ大地を踏んで暮らしたいなどと口がすべってしまったことも、ある意味ではまずかったと思えたのだ。これではまるで周に特別な思いを寄せているかのようにも受け取れるではないか――。
冰は大きな瞳をパチパチとさせながら口籠もってしまった。
「あの……と、とにかく……両親の故国でもありますし、日本で一から生活するのもいいかなと思ってまして……その」
まるで挙動不審というくらいに上がりまくっている様子の冰に、周はフッと薄く笑むと、意外にも楽しげな視線を向けながらこう言った。
「――で、これからどうするつもりなんだ。こっちに住むというなら、引っ越しなんぞも済んでいるわけか?」
「えッ!? ああ、いえ、それはまだ……。日本には昨日着いたばかりでして。当分はホテルに滞在しながら職を探そうと思ってます。職さえ見つかればアパートも借りられると思いますし」
冰の説明に、周はわずか呆れたように瞳を見開いてみせた。
◆11
「なんだ、お前さん。まだまるっきり白紙というわけか。ホテル代だってバカにならねえだろうが」
「ええ、まあ。でもじいちゃんが貯蓄を残してくれたんで、当座の生活費は何とかなります。とにかくどんな仕事でもいいんで、職を探そうと思ってます」
と、ここで金の話が出たことで、冰は思い出したように周を見つめた。
「そういえば大事なことを忘れてました……! あの、これを……」
冰は抱えていた鞄から通帳を取り出すと、周の前へとそれを差し出した。
「――これは何だ」
「じいちゃんから預かった通帳と印鑑です。周さんがずっと援助してくださっていたお金と聞きました」
むろんのこと、周には身に覚えのある話だ。冰の養育費として、黄老人の口座へ欠かすことなく振り込んできたものだからだ。
「あの――じいちゃんはこのお金には手をつけていないと言っていました。それで、これを周さんにお返ししようと思って、俺……」
冰が丁寧に両手で通帳の向きを周の方へと向けて差し出す。まるで茶道を嗜んだ者のように流麗な仕草が美しい。
「周さんのご厚情は忘れません。本当に今まで……こんなに気に掛けてくださっていたなんて、俺は何も知らないで……。本当にありがとうございます」
「――おい」
深々と頭を下げる冰に、周はわずかに片方の眉を吊り上げた。
「お前、これを返すってのか?」
「……は、いえ、あの、周さんにはお世話になって……心から感謝でいっぱいです。ですが、こんな大金、俺にはどうしていいか……。やはりお返しするべきかと思いまして……」
だが、周の表情は先程までの親しげな感じとは明らかに違っている。気分を害したというわけでもなさそうだが、やわらかな笑みは消えていて固い無表情なのだ。冰はまたしてもハッとしたように硬直してしまった。周が厚意で支援してくれていたものを返すと言えば、それはそれで失礼だったろうかと思い至ったからだ。むろん、冰に悪気はこれっぽっちもなかったのだが、周の立場で考えるならば、やはり失礼に当たるのかも知れない。
冰は今更ながら焦ってしまい、それこそどうしていいやら目の前が真っ白になってしまいそうだった。
「も、申し訳ありません……! ご気分を害されてしまったなら謝ります……。ですが、その……俺は」
しどろもどろで言葉にならない。全身は冷や汗でびっしょりといった具合のまま、冰は垂れた頭を上げることさえできなかった。
「――ふ、正直なヤツだな」
見ずともそれが決して機嫌の悪い声音でないことが分かった。周の低めの声が笑みを帯びているように感じられたからだ。
「いいから頭を上げろ。怒っちゃいねえよ」
「周……さん」
ようやくと冰は顔を上げ、おそるおそるといった調子で対面の周を見上げた。
◆12
「お前に悪気がねえことくらい分かる。逆に――金をせしめるつもりなんざ、これっぽっちもねえ正直で人の好いヤツだってこともな」
周は言うと、またも楽しげに瞳をゆるめながら口走った。
「職を探してると言ったな。だったら――俺のところで働く気はねえか?」
「え……!?」
冰は驚きに瞳を見開いたままで固まってしまった。意外も意外過ぎて、すぐには言われたことの意味を理解できなかったのだ。
「何て顔してる。ガキみてえにポカンとしたツラしてるぜ?」
「え!? あ、はい……すみません!」
「――ったく、飽きさせねえヤツだな。黄のじいさんは確かに育て方が上手かったんだろう」
周は冰の性質の良さが気に入ったようだった。
「もう一度尋ねるが、俺の社で働く気はねえかと訊いてる。さっき、どんな職でもいいと言ってただろうが」
「あ、はい……すみません! あまりにも夢みたいな話で……ちょっとビックリしちまって。あの、俺なんかでよろしければ是非働かせていただきたいです!」
「そうか。だったらよろしく頼む」
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」
冰はまたしてもガバッと頭を下げて、あまりに勢いをつけたせいで大理石のテーブルの上に頭をぶつけてしまったほどだった。
「ふ――、本当に面白い男だ。ああ、そうだ。ついでにウチは寮も完備だ。住むところも探さなくていいぞ?」
そうはいうものの、実際には社員寮などはない。だが周は何故かこの冰のことがえらく気に入ってしまい、部屋を与えて面倒を見たいという気にさせられてしまったのだ。会ったばかりの人間相手に周がそこまで入れ込むのは皆無といっていい。だが、周自身、無意識の内にもこの冰を自分の目の届く範囲に置いておきたいという不思議な願望に突き動かされるような気分だったのだ。むろん、物理的にも周がその気になれば、住む家の一つや二つどうとでもなる意のままというのもある。
「えッ!? 本当ですか?」
「ああ。これで職と住まいは揃ったな。あとは食う方だが――それも心配はいらねえ」
「まさか……社食が出る……とか?」
あまりの待遇の良さに、冰の瞳はこれ以上見開けないというくらいまん丸になっている。そんな様子は周にとって堪らなく可愛らしく映ったようだ。
冰は外見だけでいえば顔立ちも端正で、背も周ほどでないにしろ長身といえる。スレンダーではあるが、そこそこ筋肉もあるし、男前という印象だろう。幼い頃にその見目の良さを買ってチンピラ連中が売り飛ばそうとしたくらいだ、そのまま美麗な青年に育ったということなのだろう。
余談だが、先程エントランスで受付嬢の女がホストと間違え、『ちょっと顔がいいからって図々しいわ』と言ったくらいだから、誰が見ても華やかな雰囲気をまとった”いい男”だといえる。周は十二年ぶりに会った冰を見た瞬間から想像通りに育ったなという印象を受けたようだが、外見はともかく内面にも興味を惹かれ始めていた。たった短いやり取りの中で、まさかこんなにも和む気持ちにさせられるとは思っていなかったのだ。このままもっと冰という男を知ってみたいという欲が顔を出したようだった。
「社食――ね。まあ、そんなところだ。それで、いつから来られる?」
笑いを堪えながら訊くと、冰は思った通りの反応で周の興味を更に底上げしたのだった。
「はい! 今日からすぐにでも! どんなことでも一生懸命やります!」
「そうか。だったらちょうどいい。これからちょっと付き合え。仕事内容を説明しがてら茶でもしよう」
「はい――! よろしくお願いします」
目に物くれる速さのトントン拍子である。これでいいのかと戸惑う間もなく、冰の日本での衣食住はいとも簡単に決まってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
◆13
周が冰を連れて出掛けた先は銀座にある一件のテーラーだった。周の社屋は汐留にあるので、車ですぐだ。どうやら周の社長室がある最上階には直接車がつけられる駐車場も完備されているらしく、エントランスへ降りずともそのまま外出が可能になっていることを知った冰は驚きに目を見張っていた。キョロキョロと窓の外を眺めては、またしてもポカンと大きな口を開けている。そんな様子を横目に、周の方は楽しげに口元をゆるめる。
「お前、日本に来るのは初めてか?」
「え――?」
ようやくと我に返ったようにして冰は周の方を見た。
「まるでガキみてえな顔付きだったぞ? 日本の景色が珍しいのか?」
「や、もちろんそれもありますけど……あんな高いビルのてっぺんに車が待ってるなんてさ」
すっかり敬語も飛んでしまっていたが、冰にとってはそれほどの驚きであるのだろう。そんな素直な反応も周には心そそられるものだったようだ。
「それが珍しかったのか」
「っていうか、この車だって……すげえ高級車だし……。周さんのことはじいちゃんから聞いてはいたけど、あんまりすごいんでびっくりした……」
事実、この車が待っていた時にも驚かされたのは本当だ。磨き抜かれたという形容がふさわしいほどに黒光りしている超がつくほど有名な外国車だ。運転手もビシッとしたスーツを着こなし、白い手袋をはめていて、周の姿が見えたと同時に後部座席のドアを開けてスマートにお辞儀をしていた。まるで古き佳き時代の映画から抜け出してきたようなのだ。
黄老人の話では、周は香港マフィアの頭領の次男坊ということだったから、ある程度の想像はしていたもの、実際に目の当たりにしてみれば溜め息の連続である。まるで住む世界が違う。
マフィアというからにはもっと強面の雰囲気の人々が多いのか思いきや、品の良く紳士そのものだ。この運転手にしてもそうだが、先程会った李という男も洗練された紳士という印象だった。むろんのこと、周自身も上流階級に生きる紳士そのものだが、ただ彼に関してだけいえば、他とは一線を画する雰囲気があるにはあった。
それは幼い頃に出会った時の印象そのままの――黙っていても”圧”があるというか、決して怒っているわけではないのだろうが、ちょっと視線を向けられただけでビクりと身構えてしまうというか――とにかくおいそれと近付いてはいけないようなオーラが漂っているのだ。ほんの小さい子供の時分でさえも本能でそう感じたほどで、冰は何故かその時の印象だけは鮮明に覚えてもいたのだ。
墨色の服、黒曜石のような瞳、濡羽色の髪、まさに漆黒の男は危険な香りを身にまといながらも幼い冰に対しては紳士的でやさしかった。そんな彼に助けてもらったことは、冰にとって何ものにも代え難い特別な出来事だったのだ。だからこそ、その周が日本にいると知って、自らも同じ大地を踏みしめて暮らしたい、生きたいと思ったのだろう。冰にとって周は、恩人であると同時にあたたかい希望の光のような存在だったのだ。
◆14
そんな周と今はこうして同じ車の中で肩を並べている。彼の経営する会社に勤められることも決まって、まさに夢のようだ。彼と同じ日本の大地で生きられればいいと思っていたが、それどころか同じ社内で使ってもらえるのだ。周は社長だし、そうそう頻繁に会う機会もないだろうが、それでもたまにはその姿を見ることが叶うかも知れない。そう思うと、まさに希望の光が頭上から降り注ぐようだ。冰はこの幸運に心の中で思い切り手を合わせたい心持ちだった。
「俺、ほんとに幸せモンだな。じいちゃんに報告しなきゃ」
思わず漏れた冰の独り言を周もまた聞き逃さなかった。ちらりと横目に窺えば、言葉通り本当に幸せを噛み締めているといった表情でいる。胸前で無意識に手を合わせ、ほんのりと上気させた頬の色はまるで桜の花びらのようだ。周は特には言葉を掛けこそしなかったが、そんな冰を眺めているだけで心温まるような不思議な感覚を覚えるのだった。
テーラーに着くと、そこには既に周の部下と思わしき男が待っていた。車のドアを開けて、降りてくる周と冰に丁寧なお辞儀で出迎える。
「李さんから話をうかがっております。テーラーの方にも伝えておりますので、すぐに採寸していただけます」
スマートな仕草と身のこなしは、先程会った李という男を彷彿とさせる雰囲気だ。
「ご苦労だったな。ああ、冰――。これは俺の側近の一人で劉という」
周がそう紹介すると、劉当人もまた冰に向かって丁寧に頭を垂れた。
「劉と申します。どうぞお見知りおきください」
「あ、はい! 雪吹冰です。お世話になります」
劉という側近のあまりの流麗な物腰に、またしても冰は緊張気味で背筋が硬直状態――まるで壊れた機械仕掛けの人形のようなギクシャクとした動きでぺこりと腰を折る。そんな様子が可笑しかったのか、周はクククと笑いを堪えるように口角を上げていた。
驚き顔にさせられたのは劉だ。普段は周のこんな柔和な表情には滅多にお目に掛かれないからだ。
李もそうだろうが、劉ら側近たちにとっての周は、企業の社長というよりも香港マフィアの頭領ファミリーという認識の方が通常だ。よって、周は雲の上の存在であり、と同時にその肩書きに恥じない器の持ち主であることも確かなので、とにもかくにも尊敬する”ボス”そのものなわけだ。
普段の周は機嫌こそ悪くはないものの、よほどのことでなければ表情を崩すことはなく、どちらかといえば無表情でいることが多い。笑った顔を見たことがないとまでは言わないが、こんなふうに自然と笑みを誘われているようなことは珍しいといえる。
周が連れているこの雪吹冰という若い男について李から簡単な説明を受けてはいたが、いったいどれだけ親しい間柄にあるのかまでは知り得ないままだ。側近である自分たちとの間でさえ必要以外は会話らしき会話もない周が、こうまでリラックスしたふうに見えるのが劉にとっては驚きだった。
◆15
一方の冰にとっては、テーラーに入るなりまたまた驚かされる出来事が待ち受けていた。
そもそも何故この店に連れて来られたのかということさえ分からないままだ。周は今後の仕事内容の説明がてらと言っていたから、先ずは社内を案内されるか、もしくは支社のようなものがあってそちらから見学させてもらえるのだろうかなど、漠然と思いながら言われるままについて来たというだけなのだ。
「では早速採寸から始めさせていただきます」
またしてもビシッとしたスーツで決めた初老の男が丁寧な態度で一礼する。見たところ彼がこの店の担当者なのだろう。周や劉とはよくよくの顔見知りのようで、阿吽の呼吸だ。
そんな男が自分の前に来て『失礼致します』と言い、メジャーを当て始める。
「あの、周さん……? 採寸って、俺の……ですか?」
冰はワケが分からず周を見上げてしまった。
「そうだ。お前さん、荷物は殆ど香港で処分してきちまったんだろう? 先ずは勤めるに当たっていろいろ必要だろうが」
引っ越しも済んでいないまま香港を離れ、この日本の地で暮らそうと思ってやって来たのなら、大した荷物も持って来ていないのだろう。周はそう察したようだった。
確かに日常の必需品は日本で新しく揃えればいいと思って、必要最低限のものしか持って来なかった。就職するに当たってのスーツは確かに必要だし、面接の際にも入り用かと思って二着ほどは持参してきた。あとは追々揃えていけばいいと思っていたのだが、周の行動の速さには驚かされるばかりだ。
「もしかして……制服とかがあるんですか?」
周の会社では制服まで支給されるのだろうかと思ったわけだ。そういえば、先程の受付嬢らも揃いの制服姿だったことを思い出し、冰はとっさにそう訊いたのだった。
すると周はまたしても可笑しそうに瞳をゆるめてみせた。
「制服――ね。まあそんなところだ」
「はぁ、それは助かります」
まさに素直な感想だった。制服があるなら今後のコーディネートに悩むこともないので有り難い限りだが、それにしても一目で高級店だと分かるこんなテーラーで揃えるだなんて、いったい周の会社というのはどれほど儲かっているのだろうと目を丸くしてしまう。冰にとってはまさに夢幻の如くだった。
だがまあ、実際にはすべての社員に制服をあつらえているわけではない。受付嬢など制服を支給する部署もあるにはあるが、男性社員は基本的に自由としている。つまりは自前のスーツということだ。だが周は、この日本の地で一からスタートをしようとしている冰に必需品を揃えてやりたいと思い、馴染みのテーラーへ連れて来たというわけだ。それに、こうして冰に質のいいスーツを与えるのにはもうひとつ理由があった。まだ冰には告げてはいないが、周は彼を自らの秘書として勤めさせる心づもりでいたからだった。
◆16
テーラーでの採寸が済むと、冰は周に連れられて近くのホテルにあるラウンジに来ていた。お茶をしがてら、今後の仕事内容についての打ち合わせをするらしい。それ自体は特に驚くでもないことだが、場所が普通ではなかった。
冰は日本のホテルについて詳しいわけではなかったが、訊かずとも名のある高級ホテルなのだろうことが分かる。案内されたラウンジも広々としたゴージャスな造りで、ウェイターなども黒服を着用しており、上客を相手にするまさにプロといった雰囲気に圧倒される。冰ははしたないと思いつつも、ついキョロキョロと周囲を見渡してしまうのをやめられなかった。
「好きなものを頼め。ちょうど三時のティータイムだ。ケーキでも頼んだらいい」
「あ、はい……。ありがとうございます」
ウェイターからメニュー表を渡されたが、どれもこれも目を疑うような価格に先ずは驚きを隠せない。何でも好きなものを頼めと言われても、一番安いコーヒーですら、冰の感覚からすれば桁違いだ。どうせ周が払うのだろうから、あまり高額なものは申し訳ない。そう思った冰はオーソドックスなブレンドコーヒーをウェイターへと告げた。
「お前、甘いものは苦手か?」
対面に腰掛けた周が身を乗り出しながら訊いてくる。
「えッ!? いえ、そういうわけでは……」
「だったらケーキはどうだ。ここのは美味いぞ」
「はぁ……どうも……」
何とも間の抜けた返答しか出てこない。
「じゃあお前も好きなのをひとつ選べ。俺のと交換しながら食えば両方の味を楽しめるぜ」
周は頼もしげに言って笑う。
「もしかして……周さんは甘いものがお好きなんですか?」
まさか周もケーキを食べるとは思わずに、ついそんな台詞が口をついて出てしまった。それこそ苦めのコーヒーが似合いそうな雰囲気だからだ。
「まあな。大好物ってわけでもねえが――食うぜ。俺の友人に甘味大魔王ってくらいの奴がいてな。そいつがここのケーキが大のお気に入りなんだ。付き合いで食う内に俺も気に入っちまったってところだ」
「……そうなんですか」
冰自身も甘いものは嫌いでないので、せっかく周が勧めてくれていることだしと思い、ホワイトチョコレートのシフォンケーキを注文することにした。真っ白なチョコレートが削られてケーキ全体に振りかけられているのがとても綺麗で美味しそうだったからだ。
「じゃあ俺はこれだ。ラズベリーのムースケーキってのを頼む」
周がウェイターに告げたのはピンク色がやさしい風味のムースの上にラズベリーの果実とソースが添えられているものだった。鮮やかな赤い果実がまるで宝石のような綺麗なデコレーションだ。
「ピッタリだな」
周の言葉に、冰は「え?」と不思議そうに彼を見つめた。
◆17
「俺らの名前にピッタリだと言ったんだ」
「名前……ですか?」
「ああ。お前は雪吹冰だから雪のような白いケーキ。俺は焔で赤いケーキってことだ」
「……! ほんとだ」
そういえば思い出した。周の名は焔だ。
「お前は覚えてねえかも知れないが、初めて俺らが会った時、お前さんは俺にこう言ったんだぜ。じゃあ熱いんだね――ってな」
「熱い……ですか?」
「俺が焔の意味は”炎”だって説明したからな。お前はまだガキだったが、でっけえ目をクリクリさせて一生懸命俺を見つめながらそう言った。可愛かったぜ」
ニッと口角を上げて笑う周の笑顔に、思わず頬が熱を持つ。何気ない仕草だが、あまりにも整ったこの顔立ちでスマートにそう言われて、急にドキッとさせられてしまったからだ。
「俺、そんなこと言ったんだ……」
「まあ、ガキだったからな。覚えてなくて当然だ」
「すみません……。でも、その――周さんと会った時のことは覚えています。真っ黒な服を着てて、真っ黒な髪で――すごく印象に残ってます。だから俺、周さんのこと”漆黒の人”って呼んでたんです」
「なんだ、それは。ガキのくせに、またえらく難しい言葉を知ってたじゃねえか」
周は面白そうに興味を示す。
「いえ、漆黒っていうのは黄のじいちゃんが後から教えてくれたんです。周さんたちが帰った後、俺が真っ黒な服を着たお兄ちゃんって呼んでたら、まさに漆黒が似合うお人だって言って」
「ほう? 黄のじいさんがそんなことをな」
「じいちゃんは周さんのことをよく知っているようでしたから」
つまり、マフィアのファミリーだという素性のことだ。黄老人もまた裏社会に顔の利く人物だった為、ファミリーのことは多少なりと見知っていたのだろう。あの時も若かった周を見て、一目でその正体を理解したのだろう。
「それでお前はその”漆黒の”俺に会いに来てくれたってわけだな」
「あ、はい……。周さんにはちゃんと会って御礼を言いたいと思って」
そんな話をしていると、注文したコーヒーとケーキが運ばれてきた。サンプルで見たケーキが大きな皿に乗せられていて、周囲には粉雪のようなデコレーションまで添えられている。周の方にも同じようにデコレートされており、真っ赤なミニバラまでが添えられていた。
「すげえ……。綺麗で食べるの勿体ないくらいだ」
冰がケーキをマジマジと見つめながら溜め息を漏らしている。周はそんな様子も飽きないといった顔付きで、笑いながら皿を勧めてよこした。
「ほら、食え。半分食ったら交換だ」
銀色のフォークでベリーのムースをすくいながら口元へと運ぶ。ダークな漆黒のスーツをビシッと決めた男前とはよくよくミスマッチな印象だが、それもまたギャップルールといおうか。周がやると目を引かれる。ただケーキを食べているだけなのに、何とも粋でサマになっているのだ。
◆18
案の定か、他の席にいる客らの視線もチラホラとこちらの様子を気に掛けているようで、冰は何とも形容し難いむず痒いような気分にさせられてしまった。
若い女性はむろんのこと、年配の女性同士の客らの視線までが熱っぽく、ドキドキとしながら窺っているだろうことが聞かずとも分かる。今にも黄色いはしゃぎ声が聞こえてきそうである。皆、周の格好良さに見とれているのだろう。当の本人は気付いているのかいないのか、早くも半分ほどを食べ終えると、ごく当然のようにして自分の皿を差し出してよこした。
「ほら、約束通り半分こだ」
「あ、はい……! すぐにいただきます!」
冰は慌てて自らの白いケーキをすくった。
「慌てんでもいいさ。ゆっくり食えばいい」
周はコーヒーを口に含みながら、また笑う。そんな仕草に、なんともソワソワとさせられてしまう。周囲からすれば、自分たちはどんなふうな間柄に映るのだろうか。女性客らが頬を染めながらチラチラと見つめる男前の周とケーキをシェアしているこの現状。きっと羨ましいと思っていることだろう。結局、冰はケーキの味も殆ど覚えていないくらい緊張しまくったまま、周とのティータイムを終えたのだった。
ラウンジを出た頃には午後の四時を回っていた。今は秋も深まった師走間際だ。暮れるのも早い。もうあと三十分もすれば夜の闇が訪れるだろう。周と冰を乗せた車はそのまま汐留にある周の社屋へと戻った。
「お帰りなさいませ」
社長室に戻ると李が待っていた。
「手はずはどうだ」
周が訊くと、李はスマート且つ的確にその質問に答えた。
「はい、ホテルの方は滞りなく引き払って参りました。雪吹様のお住まいもご指示の通りのお部屋をご用意してあります。お荷物は既にお部屋の方に運び入れてありますので」
「そうか、ご苦労だったな。真田にも話は伝わっているな?」
「はい。お住まいの方でお待ちです」
「では行くか」
周に連れられて向かった先は、これから冰が住まわせてもらうという”社員寮”だった。
「まさか……寮って……ここが……ッ!?」
そこに案内された瞬間に、それこそ壊れた人形のように硬直したまま動けなくなってしまう。無理もない。そこはまさに先程の社長室と同様、豪華な造りとしか言いようがないような部屋だったからだ。
社長室を出てからここに来るまでの間、長い廊下をずっと歩いて来た。途中にはビルとビルとを繋ぐ連絡通路のようなところを通り、窓から見下ろす階下には大都会の街並みが広がっていた。夕暮れ時、街には灯が点灯し出した時間帯はまさに絶景である。
「どうぞ、こちらです」
連れだってきた李がドアを開けてくれたその室内を見た瞬間、冰はまさに絶句しそうになってしまったのだった。
◆19
「あの……ここ……は?」
「お前の部屋だ」
答えたのは周だった。
「ええッ!?」
冰は思わずすっとんきょうな声を上げて叫んでしまった。まるで高級ホテルのような広々とした部屋には重厚な造りの家具や調度品、カーテンに至るまでが別世界なのだ。
「あの……ここが寮……なんですか?」
社員たちは皆がこんな豪勢な寮を与えられるのだろうかと、あまりの待遇に目眩がしそうになる。確かに社屋とこのビルとを繋ぐ連絡通路のような廊下を渡ってきたわけだし、二つのビルはどうやら双子のような建物のようにも思えた。いわゆるツインタワーというやつだ。もしかしたらこちら側のビル全体が社員寮になっているのかと思ってしまったのだ。
「あの……こんなすごい部屋……本当に住まわせていただけるんですか?」
冰は別の意味で心配になってきた。先程のテーラーでのあつらえの制服といい、この――目の玉が飛び出そうな豪華な寮といい、いったい自分にそれだけの待遇を受けられるような仕事が務まるのだろうか――と。
「気に入ったか?」
周がわずか不敵に微笑みながら訊く。
「や、その……気に入ったもなにも……凄すぎて……。俺、こんなすげえところに住まわせてもらって……ちゃんとそれに見合った仕事できるんだろうかって」
「なんだ、そんなことか。だったら心配はいらねえ。仕事は李が丁寧に教えるさ」
なあ――といったふうに李を見やる周は楽しそうだ。
「社長のおっしゃる通りです。雪吹さんに手伝っていただくお仕事は出社後に私からご説明申し上げますので、どうぞご安心ください」
「は、はい……! よろしくお願いします!」
冰は勢いよく頭を下げた。
「おい――今度はぶつけねえように気を付けろよ」
「え――?」
昼間、周の社長室のテーブルに勢いよく頭をぶつけてしまったことを言われたのだろう。冰は恥ずかしそうにうつむいてしまった。そんな様子を見つめる周はえらく楽しそうだ。
「夕飯を一緒にと言いたいところだが――あいにく今日はこれから接待の予定が入っていてな。後のことは李が面倒を見るんで、メシを終えたら今夜は早めに休むといい」
周は手元の時計を見やりながらそう言ってよこした。これから会社関係の接待があるようだ。
「あ、はい……! 今日は本当にありがとうございました! 俺、明日から一生懸命働きます!」
冰は今度は慌てすぎないように気を配りながら、深々とお辞儀をしてみせた。
「俺もそんなに遅くはならねえと思うが――いい子でいるんだぜ?」
周はニッと笑むと、ポンポンと頭を撫でてよこし、部屋を後にしていった。
突然のスキンシップに冰の心臓は跳ね上がる。まるで子供に対する扱いだが、髪を撫でた周の掌は大きくて、そして温かい気がした。
◆20
その後、李によって施設内の決まり事などの軽い説明を受けた。
「ご紹介します。こちらは真田さんです。お食事やお部屋のお掃除などの生活全般の手助けをさせていただきます」
紹介されたのは白髪が見事な初老の男だった。彼もまた、年齢はいっているが紳士的で、黒のタキシードのような服装の男だ。
「真田と申します。焔の坊ちゃまが生まれる以前からこちらのお邸でお世話になっております」
「雪吹冰です。どうぞよろしくお願い致します!」
坊ちゃまという形容がしっくりとこないが、周のことを言っているのだろう。彼が生まれる前からということは、かれこれ三十年以上にはなるということか。
「こちらの真田さんは執事のような役割を担われている方です」
「執事……さんですか」
「ええ。私や――先程テーラーで雪吹さんがお会いになった劉とはまた別に、主に社長がご自宅にいらっしゃる時にお手伝いさせていただくのが主です。仕事の面では私共が、普段の生活の面ではこちらの真田さんがお世話させていただいております」
「では早速お夕飯をご用意させていただきます」
真田は丁寧に頭を下げると、そう言って一旦下がっていった。
「ダイニングはこちらです」
李に案内されたのは冰の住むことになる部屋の中から通じている扉の向こうだった。やはり同じような豪勢な造りで、大きなテーブルを囲むようにいくつかの椅子が置かれている。
「平日の朝は七時にお朝食をご用意致します。週末の連休はブランチを兼ねて十一時頃からが通常です。昼食と夕食については、仕事の関係で外で取ることもありますので、その辺りは状況下となります」
「あ、はい……承知しました。それにしても――すごい部屋なんでびっくりしました……。こちらの社員さんは皆さんこんな贅沢な暮らしをされていらっしゃるんですか?」
思ったままが言葉に出てしまう。李はわずかに笑むと、冰にとっては首を傾げさせられるようなことを答えてよこした。
「社員全員がというわけではございません。ここは社長のごく近しい者しか立ち入れないようになっておりますので、一般の社員はこのフロアには来ません」
「え――?」
「この階には私や劉、それにもう数人の側近たちと先程の真田ら家令の者たちが住んでいるだけです。こちらの棟はここからすぐ下、五階ほどが社長のプライベートを兼ねた施設となっておりまして、それより下はすべて系列の子会社などが入っております。一般の社員たちは基本的に自宅からの通勤となりますので、実際のところ我が社に社員寮というものは存在しません」
「えッ!? それじゃあ……どうして」
冰は何故自分には住まいが与えられて、側近のような上層部しか入れないような場所に通されているのだろうと驚き顔だ。
「社長のご要望で、雪吹さんにはこちらにお住まいいただくことになりました」
「要望って……周さんの……ですか?」
「ええ。雪吹さんにしていただくお仕事は社長の秘書ですので」
「秘書……ッ!? 俺が……ですか?」
冰はあまりの驚きにポカンと口を開いたまま硬直してしまった。