極道恋事情

1 周焔編(氷川編)2



◆21
「勝手ながら先程、社長からの命で雪吹さんのお泊まりになっていたホテルからお荷物も引き上げて参りました。突然のことで驚かれることも多いかと存じますが、どうかこちらでの生活に慣れていただけるよう願っております」
「いえ、その……はぁ……」
「後程また社長からもお話があるかと思いますが――」
 李はそう前置きをすると、ダイニングから繋がる冰の部屋とは反対側の壁面にある扉を指差しながらこう言った。
「ちなみに――あちらの扉の向こうは社長の私室となっております。お食事の際は社長もこのダイニングでお取りになりますので、朝は雪吹さんとご一緒ということになります」
「え――ッ!?」
 つまりはこのダイニングを挟んで、あの周と隣の部屋ということらしい。朝から食事も一緒となると、これではほぼ一緒に住むようなものということになる。
「あの、李さんたちも……お食事とか、その……ここでご一緒なんですよね?」
 これだけ広いテーブルだ。椅子も数脚用意されている。当然、側近の皆も一緒なのだろうと思ったのだ。ところが、どうやら違うようだ。
「私共はまた別室で取らせていただいてます。こちらのダイニングは社長と雪吹さんお二人の専用となりますので、気兼ねなくお寛ぎいただけると存じます」
「二人って……どうして……」
 周とは会ってまだ数時間だ。何故こうまでの待遇をしてもらえるのか、冰には不思議を通り越してもはや頭がこんがらがりそうだった。
「私の口から申し上げてよいのか分かりませんが――社長はこれまでもずっと雪吹さんのことをお気に掛けておいででした」
 李の話によれば、この部屋も元々は冰の為に用意されていたものだったというのだ。
 十二年前、周が冰を救い出してからこの方、ずっと資金面での援助を続けてきたわけなのだが、彼が日本で起業するようになってからもそれは変わらなかった。周は冰らの住む香港の地を後にしてからも、いつか冰と再会する機会もあろうと思い、万が一そんな日が来たのなら共に住まんと思い描いていたのだそうだ。
 だが、冰は香港暮らしである。日本に来ることなどおおよそないことだろうが、例えば育ての親である黄老人が他界した後、冰が生活に困るようであれば自らの元に呼ぼうと考えていたらしい。あの頃、既に高齢だった黄老人だ。仮にし、まだ冰が未成年の間に老人が亡くなったりすることがあれば、周自らが冰を引き取って育てようと――そう思っていたそうだ。
 幸いにして黄老人は冰が修業するまでは存命であったが、周にはいつでも冰を引き取れる準備があったのだという。
 李からの話を聞いて、冰は驚いた。



◆22
「有り難いことに雪吹さんは自ら周社長を訪ねてくださいました。黄大人がお亡くなりになったことを存じ上げなかったのは私共の手落ちですが、これまでの間にも社長は事ある毎に香港のご家族に黄大人と雪吹さんのご様子をうかがっていらっしゃいました。ずっと気に掛けていらっしゃったのです」
「そんな……周さん……が?」
「ええ。ですから、今回雪吹さんの方からお訪ねくださったことは社長にとってどれほど嬉しいことだったかと思います。雪吹さんにはお住まいやお仕事など、半ば強引にお感じになられたかも知れません。急なことの連続で戸惑われることも多いかと存じますが――社長のお気持ちをご理解くださると有り難く思います」
 丁寧に一礼した李に、冰は驚きながらもとんでもないといったふうにブンブンと首を横に振ってみせた。
「そんな……こちらこそ、周さんがそんなふうに考えてくださっていたなんて……本当に何と言っていいか……有り難くて言葉もありません」
 冰は涙が滲む思いでいた。まさかあの周がそんなにまで気に掛けてくれていただなんて――。しばらくは立ち尽くしたまま、感動でどうにもならないほどであった。
「さあ、お夕飯の支度が整ったようでございます。社長は今夜はそれほど遅くはならないと思いますが、明日にはまたお朝食の時にお顔を合わせられると思いますので、お夕飯が済みましたら雪吹さんはごゆっくりお疲れを取ってください」
「あ……りがとうございます……!」
 冰は感激の涙を拭うと、李に案内されてダイニングの席についた。そして、黄老人を彷彿とさせるようなやさしい真田の微笑みに誘われながら夕飯を済ませたのだった。

 その後、風呂をもらい用意されていた寝巻きに着替えると、冰は大きなパノラマの窓際に立ち、階下の景色を眺めていた。
 今日一日のことが夢のようである。
「あの周さんが――俺なんかの為にこんなにまで……」
 部屋の豪華さはむろんのこと、クローゼットには既に数着の服が用意されていたのにも驚かされた。李の説明では急遽用意したので誂えが間に合わずに店頭で買い揃えたものばかりだそうだが、サイズなどは冰の体型に合うように選んだとのことだった。服だけではなく、靴まで二足ほどが用意されていた。
 おそらくは午後から周と共にテーラーやお茶に出掛けている間に李が用意してくれたのだろう。靴のサイズなどは冰が泊まっていたホテルから荷物を引き上げる際に確認してくれたのだそうだ。李からは勝手に荷物を覗いて申し訳ないと謝罪を受けたが、冰からすれば有り難くこそあれ、謝られるなどとんでもないと言いたいところである。足りないものは社長が追々一緒に選ばれるでしょうからと李は言っていたが、これ以上世話になるのは言語道断と冰は思っていた。



◆23
「はぁ……九時かぁ。周さん、何時頃帰って来るんだろ」
 カーテンを引いてベッドにダイブしてみたものの、すぐには眠れそうもない。
「なぁ、じいちゃん。俺、ほんとにこれでいいのかな……。周さんの側に居られるのはすげえ嬉しいし、仕事も住むところも用意してもらって有り難いことこの上ないんだけどさ」
 黄老人が生きていたら何というだろうか――冰はぼんやりとそんなことを考えながら、しばらくぼうっと天上を眺めていた。
「――にしてもカッコ良かったなぁ、周さん。俺がガキん頃に見た印象のまんまっていうか、もっといい男になってたって感じだし。あんなすげえ人の側にいられるなんて夢のまた夢っつーかさ……」
 周と過ごした今日一日のことが頭の中に蘇る。堂々とした体格、ケチのつけようがないほどに整った顔立ち、幼き日に見た印象そのままの圧倒されるようなオーラ。そして忘れられないほどに鮮やかな濡羽色の髪と黒曜石のように光る眼力を讃えた瞳。おいそれとは近寄れない雰囲気は相変わらずだが、その反面か、ふとした瞬間に見せる笑顔にドキりとさせられてしまう。それに、きちんと視線を合わせながら話を聞いてくれるのは今も昔もまったく同じだ。十二年前と変わらぬ漆黒の男はあの日のままに自分と向き合ってくれた。
 そんな周が自分の為にとこうして用意までしてくれていたというこの部屋――だ。
 黄老人が他界した際に冰がまだ子供だったなら、引き取って育ててくれようとまで考えてくれていた。もしも今日、こうして訪ねることがなかったとしても、変わらずにずっとこの部屋を空けたまま待っていてくれたというのだろうか。一度として絶やすことなく続けてくれていた多額の援助にしてもそうだが、こうまで気に掛けてくれるのは何故なのだろう。冰は周がここまでしてくれる自分が夢のようというか、自分でないような不思議な感覚を覚えるのだった。
「周さん……。寝ちまう前にもっかい顔見てえな……。あの人の部屋、ダイニングを挟んだ隣なんだよな? 会いに行きてえな……。周……さん」
 そんなことをつぶやきながらうつらうつらとし、いつの間にか眠りに落ちていったのだった。



◇    ◇    ◇



 翌朝、冰は李から聞いていた朝食の時間よりもはるかに早く目を覚ましていた。まだ朝の六時前だったが、冰は香港から持参してきた普段着を選んでとりあえず着替えると、ダイニングへと向かった。昨夜紹介された真田は既に朝食の準備を行っているようで、冰は彼を見つけるとすぐに声を掛けた。
「おはようございます。昨夜はお世話になりました」
「おや、雪吹様。お早うございますな。よくおやすみになられましたでしょうか」
「はい、お陰様で。あの……それで、何か俺にお手伝いできることがあったらと思いまして」
 冰は朝食の為の皿を並べたりなど、自分にもできることがあればと早めに起きてきたのだ。真田は驚いたように目を見張ってしまった。



◆24
 それも当然である。真田にとって冰は、周と同等に仕える主であるという認識でいたからだ。そんな冰が何かできることがあれば手伝いたいというのだから驚きもするわけだった。
「とんでもございません! 雪吹様にお仕えするのが私共の役目です。お食事のお時間までまだ一時間ほどございますので、お部屋でお寛ぎいただければと存じます」
 真田は恐縮しつつも、「お気持ちは本当に有り難く恐縮に存じます」と付け加えた。
「そうだ、温かいお茶でもお持ち致しましょう」
 そう言って、にっこりと微笑んだ。――と、その時だ。
「えらく早いことだな」
 現れたのは周だ。彼もまたラフな普段着といった服装で、髪もまだセットしていないのか昨日見た時とは違って無造作に前髪を下ろしているといった出で立ちだ。そんな彼を目にした瞬間、冰は思わずドキりと心臓が鳴るような心持ちにさせられてしまった。きちんとしたスーツ姿で隙のなくキメた周も格好良かったが、構えずにラフな彼もまた別の意味での色香を放つ男前に思えたからだ。
「周さん……!」
「昨夜はゆっくりやすめたか?」
「あ、はい! もちろんです! すごいでっかいベッドで……風呂もびっくりするくらい広くて夢のようでした」
「そうか、それは良かった」
 淡い笑みと共にそう言った周の笑顔は穏やかで、大らかなやさしさが感じられる。彼の顔を見ているだけで不思議な安堵感を覚えるようでもあった。
「坊ちゃま、おはようございます。ただいまお茶をお持ち致しますゆえ、お二方ともどうぞお掛けになってください」
「ああ、頼む」
 真田が下がっていくと、周は冰に自分の対面の席を勧めながらゆったりと腰掛けた。
「真田を手伝おうと早く起きてきたってわけか?」
 どうやら周には先程の真田とのやり取りが聞こえていたらしい。
「はい。俺にも何か手伝えることがあればと思って。……って、よく考えたら逆に邪魔になっちまいますよね」
 タジタジとする冰に、周はそこはかとなくやさしい視線で彼を見つめながら言った。
「冰――お前ってやつは……。ほんとに黄のじいさんが愛情掛けて育てたってのが目に見えるようだぜ」
「え……?」
「やさしい心根の――いい男に育ったって言ったんだ」
「俺が……ですか? そんな……こと」
「まあ気持ちだけで充分だ。お前には社の方でがんばってもらえばいいんだ。食事の支度や掃除なんぞは真田に任せておけばいい。だが、真田もお前さんの気持ちを聞いて嬉しかったろうぜ」
 周の言葉に応えるかのように、ちょうど茶を運んできた真田もうなずいた。
「坊ちゃまのおっしゃる通りでございます。雪吹様のご厚情がこの真田には心に沁みました。本当にありがとうございます」
 真田本人にまでそう微笑まれて、冰は気恥ずかしげに笑ったのだった。




◆25
 そうして周と二人で朝食を取りながら、冰は昨夜李に聞いたことを告げるべきかどうか迷っていた。李自身からも『私から申し上げてよいかどうか――』と言われていたこともあり、自分の口から告げるのがいいのか、それともいずれ周から直接聞いた際に礼を言う方がいいのかと思ったからだ。だが、周がこうして部屋まで用意していてくれたことを思えば、やはりその気持ちを嬉しく思ったことを伝えたいとも思う。
 何か言いたげにソワソワとしている様子が気になったのか、目ざとい周は訝しげに見つめてきた。
「どうした?」
「え……!?」
「何か不安なことでもあるなら遠慮なく言え」
「いえ……そういうわけじゃ」
「なんか言いたさそうなツラしてるぜ?」
「そ、そうですか?」
 冰は咄嗟にごまかしたが、周のようなデキる大人の男からすれば、自身の挙動不審な様子などごまかしようがないのかも知れない。隠すことで別の心配を掛けるのも本意ではない。当たり障りのない礼の言葉くらいならと、冰は思い切って切り出すことにした。
「あの、周さん。いろいろとありがとうございます」
「何だ、改まって」
「だってこんなにすごい部屋に住まわせてもらって、それに仕事まで与えてもらって……。俺、なんて言っていいか。どうお礼を言っても足りない……」
「何だ、そんなことか」
 言葉は素っ気ないが、その表情は嬉しそうだ。クッと口角が上がっていて、瞳もやさしげに細められている。
「あの――周さんはどうしてこんなに俺に良くしてくださるんですか?」
 それは率直な疑問だった。別段、李からいろいろと聞かなかったにしても、その理由を不思議に思っていたことは事実だからだ。
 周は穏やかな表情で口を開いた。
「初めてお前に出会った頃、黄のじいさんは既に結構な高齢だったからな。もしもお前がまだガキの内にじいさんが亡くなったりしたら――俺がお前を引き取って育てるつもりだった」
 周の口からは昨夜李から聞いたのと同じことが語られた。
「周さんが……俺を……? けど、どうして……ですか?」
「お前は知らんだろうが、お前の両親が亡くなったのは俺たちファミリー下に属していた者たちの抗争が原因だった。俺にはお前に対して責任がある」
「それは……でも、周さんが直接抗争を起こしたわけじゃないんですし……」
「まあ、それもお前のことを気に掛ける原因のひとつではあったんだが――。お前は俺が妾腹だってことを黄のじいさんから聞いてねえか?」
「あ……! はい、聞いてます」
 確かに黄老人はそう言っていた。幼い時に冰をチンピラ連中から助けて出してくれた漆黒の男は香港マフィアの頭領の次男で、妾の子供でもあったと。それで周はファミリーの後継の座を兄に任せて日本の地で起業したのだとも聞いていた。



◆26
「俺の継母や兄貴は、妾腹の俺を実の家族のように扱ってくれた。本来なら恨まれて当然のこの俺を――だ。俺はそれが本当に有り難くてな。ファミリーの為に少しでも役に立ちたいと思って起業し、社を大きくすることだけを考えてきたんだが――」
「周……さん」
「初めてお前に会った時、俺は幼い頃の自分を見ているような気がしてならなかった。黄のじいさんは隣家に住んでいたというだけだったが、お前を本当のガキのように大切にすると言った。異国の地で両親をいっぺんに亡くしたお前の姿が――自分と重って思えたんだ。幸い、俺は継母や兄貴に大事にしてもらえたが、もしも疎まれていたなら、きっと孤独を味わっただろうし、辛え思いをしたかも知れない。だからお前のことも絶対に幸せに育って欲しい、辛く苦しい思いなんかしてほしくねえって――それだけを願ってきた」
 周は、万が一にも冰が路頭に迷うようなことがあってはいけないと強く思ってきたのだと言った。
「だが黄のじいさんはお前が成人するまで立派に育ててくれた。例え俺とは二度と会うことがなくても、お前がこの先も無事で幸せに生きていってくれたならそれでいいと思った。だが、お前の方からこうして俺を訪ねてくれた。――嬉しかったぜ、冰」
 そう微笑まれた瞬間に、冰の双眸からボロりと大粒の涙が頬を伝った。と同時に、ドキドキと得も言われぬ熱い想いが身体中を巡るような心持ちに陥っていく。

『嬉しかったぜ、冰』

 そう言った時の周のはにかんだような笑顔が心臓のど真ん中を射貫いたかのような衝撃が走った。
 それは、嬉しい、有り難い、こんなにも気に掛けてもらえて幸せだという気持ちと同時に、それらとはまた違った感覚でうずき出すような例えようのない思い――この気持ちはいったい何なのだろう。
 戸惑う冰がその答えを知ったのは、テーブルを挟んだ向こう側から身を乗り出した周の指先が、頬を伝う涙を拭ってくれた瞬間だった。
「泣くやつがあるか」
「……っすみません……、でも……俺……っ」
「お前は俺の家族も同然だ」
「……っ周……さ……」
「余計な気遣いや心配なんかする必要はねえ。じいさんの代わりにはなれねえかも知れねえが、俺にできることならどんなことでもしてやる。ずっと――俺の側にいればいい」
「……ッ、しゅ……さん……!」
 差し出された手を無意識に握り返した時にはっきりと悟った。この気持ちはきっと恋なのだ――と。
 初めて助けられたあの幼い日からずっと心の奥底に息づいてきた想い。
 それは憧れであり恩でもあり、だがそれだけでは括れない大きな運命を感じさせるような格別の思い――。
 周の住む日本の同じ大地で生きていきたいと思ったのも、彼に対する特別な想いがあったからこそなのだ。
「周さん、俺……」
「ん――」
「側に居たいです。ずっと……あなたの側に……」
「ああ。そうしろ」
 立ち上がり、テーブルの向こうから回り込んで頭を撫でてくれる手は、冰にとって何ものにも代え難い温かなものだった。



◇    ◇    ◇






◆27
 朝食を済ませた後、冰はクローゼットに用意してもらっていた真新しいスーツに着替えると、周と共に社屋の方へと移動した。冰にとっての初出社である。社長室に着くと、既に李が待っていた。
「おはようございます、社長。雪吹さん」
「ああ」
「おはようございます! 改めまして今日からどうぞよろしくお願いします」
 一通りの挨拶を済ませると、李から仕事についての細かい教示を受けることと相成った。
「雪吹さんのお仕事は社長のお側でいろいろと雑務所用を行っていただくことです。内勤の時は社長のお茶を淹れていただいたり、コピーを取ったりなどの雑務をお願いすることになります。また、社長が打ち合わせなどで外出の際は、特殊な場合でない限りはご同行していただき、昼食なども一緒にしていただければと思います。その他の細かい用事は私の方から逐次お願いしますので、その際はどうぞよろしくご助力ください」
「はい、承知致しました。よろしくご指導ください!」
「それと――ひとつ大事なお願いがございます」
 李は周の方にも視線をやりながら、大事だというその説明を始めた。
「社内では社長のお父上が香港マフィアの頭領だということを公表しておりません。知っているのは私共側近と私邸を預かる真田たち家令のごくわずかの者たちだけです。そういった理由で、この社内にいる時は社長のことを日本名の”氷川社長”とお呼びいただけると幸いです」
「氷川社長ですか?」
 それに答えたのは周当人だった。
「俺の実母の性だ。一応下の名前もあるぞ。氷川白夜――これが俺の日本名だ」
「……! そうなんですか」
 冰は驚いたが、よくよく考えてみればそれも当然なのかも知れないと思えた。如何に若くしてこのような大会社を率いているトップとはいえ、そのバックが異国のマフィアだと知れれば、口さがない連中がでないとも限らない。そういった意味でも素性を明かす必要はないのだろうと思えた。
 李が続ける。
「社名も氷川の性にちなんで”アイス・カンパニー”というのが正式名称となっています。職種でいえば商社です。貿易を主としていますが、子会社もいくつか持っておりまして、その中にはファッション雑貨を扱った小間物系のショップやレストランにバーなどの飲食関係の店も展開しております。社長はそういった系列会社の見回りなどで各所に赴くことも多いのですが、その際も氷川白夜の名で通していますので、雪吹さんも何卒厳守でお願い致します」
「はい、承知致しました。肝に銘じます」
 李と冰のそんなやり取りを横目にしながら、周はフイと軽く笑んだ。
「氷川社長と呼ぶのはオン――つまり仕事の時だけでいいぞ。普段はお前の呼びやすいようにするといい」
「あ、はい! じゃあ……周さん? でいいんですよね?」
 小首を傾げて訊いた冰に、周はといえば少々小難しげに眉根を寄せた。
「周さん――ね。何だか他人行儀だな。名前の方の焔で構わねえぞ」
 そうは言うが、周は冰よりも随分と年上のはずである。



◆28
「そんな! 馴れ馴れしくなんて……とんでもないです」
 冰とていきなりそこまで砕け過ぎるのは躊躇するところだ。日本名でいうならば、「白夜さん」と呼ぶようなものだからだ。だが、周にとってはそんな遠慮が幾分面白くないふうである。
「別に構わねえがな、俺は」
「や、無茶です! 俺には到底そんなのムリですから!」
 言い張る冰に、
「ふん――、だったらこう呼べ。白龍だ」
「白龍……?」
「ああ。俺の字だ」
「あ……ざな?」
「香港の親父が付けてくれたものだ。俺は白龍で兄貴が黒龍。ちなみに親父は黄龍という。字呼びするのは身内だけだが――お前が呼ぶには最適じゃねえか」
 ニッと不敵に笑いながら周は楽しげだ。
「別に日本名の”白夜”でもいいが、どうせお前は呼び捨てがどうとか言って嫌がるんだろう?」
「それは……まあ、そうですけど……」
「だったら白龍だ。これだけは譲らねえ」
 どうあってもそう呼ばせたいらしく、周は片眉を吊り上げ気味でじろりと冰を見やってくる。そんな目で見られれば、さすがに迫力を感じざるを得ない。冰は半ば脅され気味ながら渋々と了承したのだった。
「分……かりました。じゃあ、白龍さん」
「――おい。字に”さん”付けするヤツがあるか」
「え? おかしいですか?」
「ああ、おかしいね。お前だって香港育ちだ。それくらい分かるだろうが」
「はぁ……」
 何ともくだらない――と言っては語弊があるが、堂々巡りが始まりそうな二人のやり取りに、李が助け船とばかりに口を挟んだ。
「雪吹さんに折れていただくのが妥当かと――」
「おう、その通りだな。さすが李だ。よく分かっている」
 周はご機嫌の様子だ。
「はぁ……。分かりました。では――白龍」
「そうだ。それでいい」
「――っていうか、今は社内ですからね。氷川社長――と呼ばせていただきますよ」
 冰が一本取ったように言うと、周はやられたとばかりに苦虫を嚙み潰したような表情でじろりと冰を見遣った。
 そのさまが少しスネた子供のようでもあり、李などは笑ってはいけないと思いつつも堪えるのに苦労したようだ。
「それでは氷川社長、雪吹さん。早速ですが系列会社への視察のお時間です。お車の用意はできておりますので、ご移動願います」
「おい、もうそんな時間かよ。今日はやけに過ぎるのが早えな」
 周はやれやれとばかりに溜め息まじりだったが、その機嫌はすこぶる良さそうである。不敵な笑みをたずさえながら、「行くぞ」と言って冰の頭を撫でた。
 さも自然と出たような周のこんな仕草が冰の心拍数を速くするのだが、今は仕事中である。邪なことは考えずに気を引き締めねばならない――そんな思いを胸に秘めながら、冰の日本での新たな第一歩は始まりを告げたのだった。



◇    ◇    ◇






◆29
 それからひと月が過ぎるのは早かった。冰は仕事にも慣れ、周の側近たちや家令の真田らともすっかり馴染んだ頃。――とある朝のことだった。
 いつものように周と真向かいの席で朝食を取りながら、たわいもない会話を楽しんでいた中、ふと冰がひょんなことを呟いた。
「そういえばさ、白龍って幾つなの?」
 もうすっかり敬語も少なくなって、仕事を離れればフランクなやり取りが通常となりつつある。
「幾つってのは何だ。歳のことか?」
「うん、そう。そういえば今まで聞いたことがなかったなって思ってさ。俺よりはだいぶ上なのかと思って」
「だいぶってこたぁねえだろ? 大して離れちゃいねえよ」
「だって――初めて会った時はもう大人だったし。俺、確かあの時は八歳か……九歳にはなってなかったはず。そん時にすごい大きいお兄ちゃんだって思ったからさ」
「あれから十二年ってことは――お前は二十歳ってわけか」
「うん、ついこの前だけど。なったばっかり」
「――てことは俺とは九つか十違うだけだろ」
「九つか十って!? じゃあ……白龍は二十九歳? それとも三十歳?」
「ああ、そんくらいだろ?」
「そのくらいって……」
 自分の年齢も覚えていないのかと突っ込みたいところではあるが、どちらにせよ想像していたよりも遥かに若いことに驚かざるをえない。
「えっと……じゃあさ、あの時は今の俺より若かったってこと?」
「さぁ、どうだったか――。もう高校は出てたとは思うが?」
「ええー、見えなかったよー! あの時で今くらいの歳かと思ってた」
「――お前、俺をじいさんにしてえのか」
 さすがの周も実年齢より一回りも老けてみられていたとあっては、苦笑せざるを得ない。冰に悪気はないと分かっていても、ツッコミたくもなる言われようである。当人もそれに気付いたわけか、焦った様子でタジタジと言い訳を口にする。
「あ……! で、でもそんな若さでこんなでっかい会社の社長だなんてって……思ったの! っていうか白龍がすご過ぎるんだよ」
「そんなすごかねえだろ。俺には元手もあったしな」
「香港のお父さんが援助してくれたってこと?」
「立ち上げる時にな。だがもうすっかり返済したぜ?」
 ニヤッと不敵な笑みを見せながら言う。こんな仕草と表情を見せられる度に、冰は頬が染まりそうになるのを必死で堪えるのが今では苦行となりつつある。周と暮らす内に、冰の中に芽生えた恋慕心も日に日に大きさを増していくようで、気が気でないのだ。
 こんな気持ちを周に気付かれていやしないかと思う度にハラハラと心がざわめくのが何とも苦しくて仕方ない。当初は憧れや安堵感だと思っていた気持ちが、それだけではないということに気付いてから既にひと月になろうとしている。いったいいつまで隠し通せるものだろうか――近頃の冰はそんな悩みで悶々とした日々を過ごしているのだった。
 周は相変わらずにやさしいが、それが親心に近い愛情なのか、それとも自分と似たような恋情を持ってくれているのかは不明である。冰とて、むろんこんな気持ちを打ち明けるつもりもなかったし、勇気も当然ない。だがまあ、周に家族のようなものだとまで言われ、共に暮らせているだけでも幸せと満足しなければならない――冰は常に自分にそう言い聞かせてもいたのだった。
 そんな冰の心を揺さぶる出来事が起こったのは、それから間もなくしてのことだった。初めて周を訪ねた日に連れていってもらった、例のケーキが美味しいと評判のホテルのラウンジでのことだった。



◆30
 その日もあの時と同様に、お茶をしがてらケーキをシェアして食べていた時だった。周宛てにかかってきた一本の電話の内容が冰の心を揺さぶるきっかけとなったのだ。
 誰からのものなのかは冰には分からなかった。ただ、周がとびきり楽しげに笑いながら、いつも以上にリラックスして会話している様子を見て、相手がどういった人物なのかが無性に気になってしまったのだ。

『ああ、悪いが今夜は都合がつかねえ。接待の会食が入ってるんだ。――ああ、ああ分かった。週末なら時間が取れそうだから、また連絡する』

 それだけを聞けば仕事の相手かも知れないと思えた。だが、周が続けて言った言葉がどうにも耳に残ってしまったのだ。

『そういや今、例のラウンジでケーキを食ってるところだぜ。お前さんの気に入りのティールームだ。ああ? なんだって? 分かった分かった。それじゃいくつか見繕って、後で誰かに届けさせる。そんな事は気にするな。ああ、楽しみに待っとけ』

 至極楽しげにそう言って通話を切った周が気になって、冰は何だか気分が沈んでしまうような心持ちに陥ってしまったのだった。
 相手はいったい誰なのだろう。
 そういえば思い出した。初めてここへ連れて来てもらった時、周は甘いものが大好きな友人の影響でケーキを食べるようになったと――確かそんなことを言っていた。
 つまり――相手は女性なのだろうか。ごく普通に考えるに甘いもの好きといえば女性――男ではないのだろうと思えたからだ。
 周は”友人”と言っていたが、もしかすると付き合っている恋人のことなのかも知れない。今の今まで周にそんな相手がいるかどうかすら思い至らなかったが、逆に言えばいない方が不自然といえる。
 あれだけのいい男だ。容姿はむろんのこと、経済力もある。若くしてこんな大会社を率いている社長なのだ、女性なら誰しもが放っておかないだろうと思う。それに、周の社を訪れた最初の時に受付嬢がホストの男が営業を掛けに来ると言っていたことまで思い出してしまった。ということは、女性のみならず男にもモテるということなのだろうか。
 周と暮らすようになって一ヶ月が経つが、男性だろうが女性だろうが恋人がいるなどという話は聞いたこともないし、時間的に考えてもデートに出掛けているといったふうでもない。
 平日の昼間は仕事でずっと一緒なのだし、休日も家にいるか、もしくは香港育ちの冰の為にと、日本の観光名所を案内してやると言っては連れ出してくれたりする。つまり、二人で一緒に過ごす時間を大切にしてくれているように思えるのだ。
 そんな冰にも把握しきれていないことがあるとすれば、夜の接待の間のことだ。冰は秘書として周が出掛ける際にはほぼ同行することの多いものの、夜に接待がある時は李や劉といった側近の者たちが付き添うことが多い。もしかしたらそうした中に恋人と会う日も盛り込んでいるのかも知れないと思ってしまった。



◆31
 考えれば考えるほど、冰は覇気を失くしてしまいそうだった。あの周に恋人がいるかも知れないと思うだけで胸が潰れそうになる。モヤモヤとした何かが全身を這い回るようで、ひどく苦しくて仕方がないのだ。
 ラウンジの出口で、周がウェイターから受け取ったケーキの箱を目にすれば、そんな気持ちに更に拍車が掛かるようだった。
 いつものように後部座席に並んで座り、社屋へと向かう車中で、冰は抑えがきかないまま周へと切り出してしまった。
「あの……それ……」
 チラリとケーキの箱を見やりながら遠慮がちに言う。
「――ん? どうした」
「あの、もしよかったら……それ、俺が届けてさせてもらってもいい?」
「あ――?」
 周は一瞬何のことを言われているのか分からなかったようだ。
「えっと、そのケーキ。今夜は接待があるんだったら李さんや劉さんも行くんだろうし――だったら俺が届けて来ようかと思って……」
 目一杯平静を装いながらそう告げたが、それはすぐに却下されてしまった。
「お前はダメだ」
「……どうして?」
 俺だって秘書の一人だ。それくらい任せてくれても――冰はそう思ったが、胸の中は言い様のない気持ちでぐちゃぐちゃになりそうだった。
 やはり恋人の存在は隠しておきたいのだろうか。それとも共に暮らしてひと月足らずの自分を恋人に会わせるまでもないと思っているのか。冰はあることないこと考えては嫌な人間になっていくようで、そんな自分にも嫌悪感でいっぱいだった。
 だが、冰の胸中を知る由もないといったところの周は、まったく的外れともいえるような返答をしてよこした。
「今夜の接待はお前にも出てもらう。だから他所へ行かせてる時間はねえ」
「――え!?」
「接待の客人が香港の兄貴と懇意にしている御仁でな。李と劉ももちろん同行するが、お前とも顔合わせをしておきたいのさ」
「お……兄さんの知り合い……なんだ?」
「ああ。兄貴の学生時代の先輩で、今は弁護士をやってる。香港のファミリーとも付き合いがある人だ。観光がてらの来日だそうだが、兄貴の知り合いが来てると知ってて無視するわけにはいかねえ。メシの一回くらいは誘わねえとな」
 周はそう言って、黒曜石のような瞳の中にいつもの不敵な笑みを瞬かせた。
「いい機会だしお前のことも紹介しておきてえと思ってな。こいつを届けてくれるって気遣いは有り難えが、気持ちだけもらっとくぜ」
 周はケーキを指しながら再び瞳を瞬かせると、そのままいつものように頭を撫でてよこした。
「今夜は料亭で和食のフルコースだ。お前には初対面の相手だが、気を遣う必要はまったくねえ。ちょっと遅くなるかも知れねえが、付き合ってくれるな?」
 『ん――? どうだ?』と尋ねるように顔を覗き込んでくる。瞳を細めて、やさしい笑みが見つめてくる。
「ん……。うん、もちろん。俺なんかが一緒に行っていいんだったら」
「いいに決まってるだろうが。俺が連れて行きたいんだ」
「白龍……。ん、ありがと……う」
 よし、いい子だといったようにクシャクシャっと頭を撫でる。周の掌は相変わらずに大きくて温かい。そんなすべてがより一層冰の胸を締め付けるのだった。




◆32
 その後、日が経つにつれて冰は何となく気分の晴れないことが多くなっていった。原因は言わずもがなだ。
 周に付き合っている恋人がいるのかどうかということが気になって、頭から離れないのだ。つとめて平静を装わんとするも、どことなく気落ちした感じは伝わってしまうのだろう。周はもとより、家令の真田や側近の李らも様子のおかしな冰のことを気に掛けるようになっていた。
「おい、冰――。お前、何か悩みでもあるのか?」
 それはある朝のことだった。いつものように朝食を取りながら周が問う。
「このところえらく元気のねえツラしてるじゃねえか。何か心配事でもあるんだったら遠慮しねえで言ってみろ」
 真向かいに座った周からじっと見つめられて、冰は慌てたように瞳を見開いた。
「べ、別に……! 何もないよ」
「何もねえってツラじゃねえだろが。李や真田も心配してるようだぜ?」
「え――!? そんな……李さんたちまで……?」
「まあ、俺も同感だがな。お前も日本に来てひと月か――。ホームシックにでもかかったか?」
 あえて冷やかすように言ってくれるのは周の気遣いだろう。そんなふうにやさしくされると、ますますもって胸が痛むようだった。
「ホントに何もないよ。ホームシックとか……そういうのじゃないし」
 ホームシックというのは一つの例えだが、それではないと言い切るところを見ると、やはり他に何か思い詰める節があるのだろう。目の前でうつむき加減に食事をとる冰の様子をそれとなく目にとめながら周は言った。
「俺はお前がホームシックにかかったとしても、ガキ扱いしたり呆れたりなんかしねえ。悩みがあるなら独りでため込んでねえで言ってみろ」
「白龍……。ありがと。でもほんとに何でもないんだ。何かあったら白龍にちゃんと言うよ……」
 とは言うものの、歯にものを挟んだようなのは変わらない。しつこく問い詰めても逆効果と思ったのか、周はそれ以上訊くことはしなかった。
「――冰、俺とお前の間で遠慮なんかいらねえ。俺はお前の言うことならどんなことでもちゃんと聞いてやる」
「白龍……」
「小さいことでも、くだらねえことでも構わねえ。いつでもお前の側には俺がいるんだ。それだけは覚えておけよ?」
「ありがとう……白龍。――えっと、俺ね……」
 冰もさすがに申し訳ないと思ったわけか、少々固い表情ながらも懸命に作ったような笑顔で先を続けた。



◆33
「あの……俺、夢……。そう、夢を見たんだ」
「――夢? どんな?」
「んと、じいちゃんが出てきた夢」
「黄のじいさんか」
「うん。それで、いろいろ懐かしいこととか思い出しちゃって。やっぱりちょっとホームシック……なのかも」
 えへへ、と所在なさげに笑う。実際には夢など見たわけではなかったのだが、こんなにも親身になってくれているのに『何でもない』の一点張りではあまりにも申し訳なくて、咄嗟に嘘が口をついて出てしまったのだ。
 そんな彼の様子を見つめながら、周もまた内心では合点がいかない思いを拭い切れずにいた。少しでも気持ちを話してくれたことには安堵するも、その笑顔が精一杯装ったものであるように思えてならなかったからだ。
「――そうか。もしかしたら時期的なものもあるのかも知れねえな。新しい仕事に新しい住処――短い間に環境がめまぐるしく変わって、お前にとっては緊張の連続だったろうからな。だが、そろそろここでの生活に慣れてきたっていう証拠なのかもな。黄のじいさんのことや香港でのことを思い出す余裕ができたってことなんだろう」
「……白龍。そっか。そうなのかも。ありがとね、白龍」
「少しは元気が出たか?」
「うん。……うん! なんか心配掛けちゃってごめん……」
「そんなことは気にするな。お前が元気になったならそれでいい」
 話はそこで終えて二人は出社したが、それでもやはりどことなく元気のない感じは変わらなかった。心配をかけまいと、努めて笑顔を見せる様子は健気であると同時に痛々しく思えなくもない。
 周も気掛かりな様子だったが、生憎とその日は立て続けに来客があり、プライベートなことは話す間もなく昼を迎えた。
 しかも、いつもだったら昼食は二人揃って出掛けることが多いのだが、周は午後から日帰りで関西方面での打ち合わせがあるとのことで、どうしても外せないらしかった。李を伴って午後一の新幹線に乗るというので、冰は一旦隣の棟にある自室に戻って昼食を取ることとなった。一人だし、そんなに食欲もないので、真田には軽めのものをお願いしてダイニングのいつもの席へと腰掛ける。窓の外をぼうっと眺めながら、冰は重たい溜め息を漏らしていた。
「はぁ……。俺もほんとダメなヤツだよなぁ」
 今し方、食事の為のカトラリーなどを揃えてくれた真田も、いつにも増して穏やか且つ丁寧で、『お仕事にも慣れられましたか』などと訊いてくれていた。少なからず心配を掛けているということだろう。



◆34
 真田だけでなく李も劉も気に掛けてくれていたようだし、これ以上皆を煩わせてはいけない――冰はしっかりしなければと自分に言い聞かせていた。
 そもそもこれは自分自身の我が侭なのだ。周やまわりの皆にこれほどよくしてもらっているのに、それ以上何を望むというのだ。周に対する恋心とて、冰の一方的な想いであって、そんなことで周囲に心配を掛けるのは筋違いといえる。仮にし周に恋人がいたとしても、それに対してどうこう言える立場では決してないのだ。
 周があまりにもよくしてくれるから、つい勘違いをしてしまいがちだが、冰は自らの立場というものを今一度わきまえなければと反省の思いでいた。
「いつまでも心配掛けてちゃいけない。白龍が帰って来たら元気に迎えてあげなきゃ!」
 いつか周から『俺の大事な女性だ』と言って恋人を紹介される日がくるかも知れない。その時に困惑しないよう、一緒に幸せを願ってあげられるよう、気をしっかり持たなければならない。
「はぁー、俺が女だったらなぁ」
 もしも女性だったなら、想いを打ち明けられただろうか。
「や、それはそれでムリだったかも」
 例え女性だったとしても、そんな勇気はないだろう。それどころか、玉の輿を狙っているようで、逆に打ち明けづらいと感じるかも知れない。どちらにせよ、恋慕心など抱く自体がやはりお門違いなのだろう。
「そうは言ってもなぁ。あんなにカッコいいし、同性の俺から見てもドキドキするくらい男前だもんな。それなのにめちゃくちゃやさしいし――」
 とはいえ、冰がそう感じているだけで、実際の周は誰に対しても”めちゃくちゃやさしい”わけではない。冰や側近などのごく近しい者たちの前では穏やかな顔しか見せないが、外に対してすべてそうであるかといえば、大概は逆である。
 一起業の経営者として厳しい面もむろんのこと持ち合わせているし、それに何といっても彼はマフィア頭領の倅でもある。当然、裏社会での顔はまた違ったものになるのだろう。冰が気付かないだけ――というよりも、冰の前では極力そういった面を見せないようにしているだけなのだ。
「ウジウジ考えたって仕方ねっか……」
 冰がどう思おうと、周に大切に想う女性がいればどうにもならないし、もっといえば、いつかは彼も結婚する時がくるのだろう。その時に動揺しないで祝福してあげなければならないのは当然だ。家族も同然だとまで言ってくれている周だ。そんな時には誰よりも一緒に喜んで欲しいと思うことだろう。冰は心をしっかり持たなければと強く決意するのだった。



◇    ◇    ◇






◆35
 昼食を済ませると冰は社屋へと戻った。周と李は出掛けているし、明日からは週末の連休だ。社長室の隣の部屋で留守を預かっていた劉からも、特に雑務もないので午後は上がっていいと言われたのだが、部屋に帰ったところでやることもない。ちょうどいい機会だし、冰は社内を見てみたくなって、ふらりと巡ることにした。
 周の秘書となってこのかた、殆どは社長室で過ごすか外出するかのどちらかだったので、社内を見て回ることなどなかったのだ。この大きなビルの中全体が周の統治する企業が入っているらしく、もちろん子会社などの系列もあるようだが、他社のテナントなどはないと聞いている。これだけの巨大ビルの中で他の社員たちがどのような仕事をしているのか興味が湧いていたのだ。
 吹き抜けのロビーを見渡せる社屋の最上階からエスカレーターで一階ずつ降ってみる。全面ガラス張りで仕切られたような近代的な造りの階や、間仕切りのなく部屋全体が見渡せるような階、それとは対照的に内部の様子が分からないように壁で覆われた階など様々だが、どこの部署も洒落た建築の格好いいオフィスという印象だった。
 各部署を行き交う社員たちも何となく洗練されているような雰囲気で、仕事に誇りを持っているのか”デキる”人々といった感じである。冰は軽いカルチャーショックを受けながらも、もしも自分が一社員としてここに就職していたとしたら、正直なところ務まっただろうかという気にさせられてしまった。
 やはり自分はこれ以上ない待遇を与えられているのだ。周への独りよがりの想いや、彼の恋人への焼きもちなど、甚だお門違いだというのを痛感させられる思いだった。
「やっぱ俺、めちゃくちゃ我が侭なこと考えてたんだよな……。ほんと、マジでわきまえなきゃいけないや。白龍の秘書なんてすごい役職与えてもらって、あんな豪華な部屋に住まわせてもらってるだけでもとんでもないってのに、反省しなきゃ――」
 苦笑しつつも気を引き締めなければと改めて思う。そろそろ戻ろうかと歩き出した時だった。
「ねえ、あなた! ちょっと待って」
 後方から呼び止められて、冰は声の主を振り返った。

「……あ!」

 そこには見覚えのある女性の姿があった。向こうもこんなところで会った偶然に驚いているといった表情でいる。なんと彼女は、初めて周を訪ねた日に出会った受付嬢の女だったのだ。
「あんた、確か……」
「……まさかこんなところで会うなんてね」
 女の方は少々バツが悪いわけか、おずおずとしながらも近寄って来た。



◆36
「あの、今……時間ある?」
 少々言いづらそうではあるが、そう尋ねられて冰は驚きながらもコクリとうなずいた。
 女は吹き抜けが見渡せる一画にある休憩用の長椅子に冰に誘うと、彼女の方から切り出した。
「あなた、社長の秘書になったんですってね」
「ええ、まあ……」
「アタシの方はお陰で受付嬢を外されちゃったわ。降格人事っていうのかしら……。あなたに会ったあの後すぐに辞令が出てね」
「……そうだったんだ」

(それってもしかして俺のせいで――?)

 ふと、そう思ったが冰は言葉に出して訊くことを躊躇ってしまった。
「まあ、当然だけどね。あなたに失礼な態度をしたんだもの」
「そんなこと……」
「正直、ショックだったわ。受付嬢は花形だし、入社した時からの夢だったから」
「……」
 何とも返答に詰まってしまう。だが、彼女は意外にも饒舌に先を続けた。
「でも、今はそれで良かったと思ってるの。アタシの回された部署、営業部で――ノルマはあるし厳しいことも多いんだけどさ。でも……いいこともあったし」
「いいこと?」
「うん。ちょっといいなって思える人に出会って……今うまくいってるんだぁ」
 冰はハッと瞳を見開いた。
「もしかして――彼氏ができた……とか?」
「まあね」
 わずか照れたように頬を染めてモジモジとうつむく彼女は、あの日の印象とは別人のようだ。
「だから――移動になって良かったっていうか、不幸中の幸いっていうのとは……ちょっと違うかもだけど。とにかく良かったって思えてる。それで、あなたの噂も聞いてね。社長の秘書になったって知って驚いたけど。あの時は……その、ごめんね」
「え?」
「初めて会った時、アタシ散々あなたに失礼なこと言っちゃったから気になってたんだぁ」
 予想もしていなかった素直な謝罪の言葉に冰は驚いてしまった。
「あ、いや……そんなの全然! 俺の方こそいきなり訪ねてって悪かったって」
 焦る冰に、彼女はその性質を感じたのだろうか、
「あなたっていい人ね。ほんとだったら怒ってても当然なのに……。社長が何で秘書にしたのか分かる気がするなぁ」
 長椅子の上で脚をブラブラとさせながら笑ったその表情が、何だかとても穏やかな親近感を感じさせるようだ。――だが、それと同時にどうしてか切なさのようなものを感じてしまうのは何故だろう。冰は何ともいえない気持ちにさせられてしまった。
 もしかしたら、夢見ていた受付嬢から移動させられてしまった彼女の境遇が、冰にとって、周への叶わぬ片想いの気持ちと被るように感じられたからかも知れない。
「あのさ……」
 冰は何かに突き動かされるように、自分から話し掛けていた。
「なぁに?」
「その……彼氏と……仲良くな。って、俺が言うのもヘンだけど。……とにかく、あんたが幸せそうで良かったって、そう思って」
 ところどころ口籠もりながらも一生懸命な気持ちが伝わったのだろう。彼女はとびきりの笑顔で微笑むと、「ありがと!」と言って頬を染めた。



◆37
「な、あのさ。ひとつ訊いてもいいか?」
「ん? なぁに?」
 今まですっかり忘れていたが、冰は彼女に会ったことで疑問に思っていたことを思い出したのだ。
「悪い意味じゃ全然ねえから、気を悪くしないで聞いてくれる?」
「うん」
 何かしら? といったように彼女が首を傾げる。
「実はさ、初めて俺がこの会社を訪ねた時、あんた最初からちょっと冷てえなって思ってたんだ。俺ら、会うのはあの時が初めてだったろ? だからどうしてかなって不思議だったんだ。俺、どっか勘に障るところがあったのかなって」
 それは正直な疑問だった。確かにもう一人の受付嬢は普通に客に対する応対をしてくれようとしていたが、今ここにいる彼女は最初から敵意剥き出しといった調子だったからだ。
 冰が問うと、彼女は苦笑気味ながらも正直にその理由を答えてくれた。
「そう、やっぱり冷たいって分かった?」
「まあ……ね。俺、なんかマズいことしちまったのかーってさ」
「ん、そうじゃないんだけどね。あの時も言ったかもだけど、ちょっとしつこいっていうか図々しいお客がいてね。その人、ホストだったんだけど、何度か訪ねて来てたの。アタシたちがいた受付に社長の予定を教えてくれって言ってきたこともあるけど、会社の前で社長が出てくるのを待ち伏せしてたりすることもあってね」
「……そうだったんだ」
「それだけならまだしつこい営業だなって、よく言えば熱心といえなくもなかったんだけど。噂だけどその人、どうも社長個人のことを気に入っているっていうか……社長のことが好きだったみたいなの」
「好きって……。だってホストっていうんなら男……なんだろ?」
「バカね! 今時、好きになるのに男も女もないわよ。男同士や女同士で付き合うのが珍しい時代じゃないし」
「……そっか。そりゃまあ、そうだ……よな?」
「まあ好きになるのは自由だから、それはいいとして。その人の場合はちょっと常軌を逸してるっていうか、ほんっとにしつこかったのよ。あの李さんが直接断っても全然動じなくて。それに、その人の格好も態度もいつもチャラチャラしてて、しまいには見てて腹が立ってきちゃったのよ。そりゃ、顔はまあイケメンだったけど態度がね。社長を好きなのはお金持ちでもあるからっていうのが見え見えだったし。もしも社長が一文なしなら、きっと鼻も引っ掛けなかったと思う。そんなのが社長に釣り合うわけないじゃんって思ったの」
 興奮気味に彼女は語った。
「そっか。それで……俺がそのホストさんに似てたとか?」
「今考えたら全然似てない! あなたの方が俄然ハンサムだけど、あの時はパッと見ちょっと似てるかなって思っちゃって。またどこかの店で会った新たな虫が湧いて出たのかーって」
 虫って――そこまでけなしたら気の毒だろうと思ったが、それは胸の内だけに留めて彼女の言い分の続きを待つ。
「受付嬢って会社の顔じゃない? だったらアタシがここで退治しなきゃとか、ヘンな正義感が湧いちゃって……」
 今考えたらアタシ自身がヘンな奴そのものだったわよねと言って彼女は苦笑した。そして、冰にとっては少々ドキっとさせられるようなことも言ってのけた。
「実はさ、アタシも社長のこと……好きだったのよね」

――――!?




◆38
「だってあんなにカッコイイし、まだ若いのにこんな大会社の社長だもん。お金持ちだし、あんな人と腕組んで街を歩けたらいいなって思うじゃない? なんてね。こんな言い方すると、アタシもあのホストの人のことをどうこう言えた義理じゃないって思われるかも知れないけどさ」
 苦笑しながらも彼女は続けた。
「あれは――入社してすぐの頃だったな。新入社員の歓迎パーティーの時に、宴会場でアタシ、社長のすぐ側で立ってたことがあってね。立食パーティーだったから皆自由に動き回ってたんだけど、たまたま社長がお偉いさんと挨拶してた時にアタシはその隣のテーブルにいたのよ。間近で見た瞬間に心臓射貫かれちゃったのよねぇ。ほんと、言葉にならないくらいすっごいカッコ良くて! それ以来、一目惚れしちゃったっていうか」
 だから余計にそのしつこいホストに対して対抗心が湧いてしまったのだと彼女は言った。
「でもさ、今の彼に出会って思ったの。アタシにとって社長は……恋人になりたいとか好きな人っていうより、芸能人に憧れるような感覚だったんだなって。それに気付かせてくれたのも今の彼だし、好きっていうのはこういう感覚なんだってはっきり分かったのよね。だから彼とのこと大事にしたいなって」
 頬を染める彼女は女性らしく、初対面のあの日に見た高飛車な面影は微塵もない。もちろん勝ち気なところが皆無ともいえないが、それが彼女の長所なのだと思えるし、何事も思ったままを言ってのける素直さが冰には可愛らしく、また羨ましくも思えたのだった。
「あ、もうこんな時間! 長々と引き留めちゃってごめんね。でも会えて良かった。あなたには悪いことしちゃったって、ずっと気になってたから……」
「俺も会えて嬉しかったよ。話せて良かった」
「じゃあ、もう行くね。あなたも社長の秘書がんばって!」
 笑顔で言うと、手を振りながら彼女は自らの営業部へと戻っていった。



◇    ◇    ◇



 彼女と別れた後、冰は何だか不思議な心持ちに陥ってしまっていた。
 第一印象がお互いにあまり良くなかった相手と、思い掛けず打ち解けることができた嬉しさ――というのもあった。日本へ来て初めてできた同僚というか、友人とまではいえないにしろ、それに近い感覚の知り合いができたようで素直に嬉しく思えたのだ。
 それとはまた別に、彼女から聞かされた周への気持ちなどを知ったことによる心の揺れも感じていた。揺れといってもナイーブな意味ばかりというわけではない。
 間近で周を見て心臓を射貫かれるくらいドキドキしたという彼女の言葉がさざ波のように心を震わせる。彼女だけではない。何度も訪ねて来たというホストという男も、周に気があるようだったと彼女は言っていた。
 男だろうが女だろうが関係なく、誰から見ても周は魅力あふれる男なのだろう。例えばこの社内にだって、言葉にせずとも密かに周に憧れている社員がどれほどいるだろうか。そう考えると、何とも心ざわめくような不思議な気持ちが込み上げてくるのだ。



◆39
 間近で見たらドキドキしたという彼女の気持ちがよくよく分かる気がしていた。誰もが憧れる、そんな周の側にいられるという今の自分が夢幻のようにも思えてくる。
 周に恋人がいようがいまいが、彼を好きだと思う気持ちだけは大切にしていてもいいのではないかと思ってしまう。
 例え告げることはなくとも、この甘く苦しいほどの想いを無理に葬ってしまうことなく持ち続けていたい、冰はそう思ったのだった。

「白龍……会いてえな」
 会って顔が見たい。おかえりと言って、お疲れ様と言って迎えたい。そしてあの自信に満ちた瞳で不敵に笑う笑顔に触れていたい。そんな気持ちを胸に温めながら、冰は一人、周の帰りを待つのだった。



◇    ◇    ◇



 時刻は午後の十時を回ろうとしていた。
 隣のダイニングからバタバタとした足音と話し声が聞こえてきたことで周が帰宅したのだと悟った冰は、待ち焦がれていた思いのままに慌てたように部屋の扉を開けた。
 そこにはたった今帰宅したばかりといういでたちで墨色の滑らかなコートを手にした周と、それを受け取らんとしている真田の姿があった。
「白龍……! おかえり!」
 冰は待ちきれないとばかりの表情でそう叫ぶと、逸ったような仕草で広いダイニングの中央に立つ周のもとへと駆け寄った。
「お疲れ様! もうちょっと遅くなるのかと思ってた」
 まるで無事に帰って来てくれたことに安堵するように、大きな瞳を潤ませる勢いで出迎える。そんな様子に、周の方も少々驚いたようにして瞳を見開いた。
「おう、えれえ歓迎ぶりじゃねえか。俺が帰ってくるのがそんなに待ち遠しかったってわけか?」
 ニヤッと不敵ないつもの笑みを瞬かせながら、周は両手を広げてみせた。まるで父親が小さな子供を抱きとめるかのような仕草だ。冰もまた、迷うことなく差し出された広い胸へと飛び込んだ。
 共に暮らしていれども、これまでは一度たりとてこんなふうに互いの距離を交えることはなかったのだが、今日は違う。ここ数日、塞ぎ込んでいた気持ちや、自らの我が侭や欲張りな感情を反省する気持ち。そして昼間出会った受付嬢だった彼女との触れ合いの中で芽生えた様々な思いが、冰の中で何かを変えるきっかけとなったのだ。
 周と共に居られるという現実を、今はただ喜びたいという素直な気持ちがそのまま行動となって現れたのだった。
「遠かったから疲れたろ? 本当にお疲れ様!」
 胸の中に頬を埋めながらそう言って見上げてくる様子に驚かされつつも、周はとびきり穏やかに瞳を細めたのだった。



◆40
「ホームシックは治ったようだな?」
 周はおどけ気味に言うと、自らの胸に抱き付いていた冰の頭をクシャクシャっと撫でた。
「ほら、土産だ。あまり時間がなかったから帰り際に駅で買ったものだが、京都の八ッ橋だぜ?」
 そう言いながら、クッと腰を屈めて冰の額に自分のおでこをコツンと付き合わせて笑った。冰にしてみれば思わず頬が染まってしまう仕草だが、今日は少し大胆ともいえるそんな触れ合いが素直に嬉しかった。
「えっと、その……八ッ橋ってどんなの?」
 照れ隠しの為か、慌てたようにして差し出された菓子折へと視線を向ける。
「そういや香港じゃ滅多に見掛けねえかもな。日本の和菓子だが――食ったことはねえか?」
「うん、ない。聞いたことはあるかもけど、食べるのは初めて!」
「そうか。そんなに甘くねえし、なかなかに美味いぞ」
「ほんと? 嬉しいな。すごい楽しみ! ね、真田さん」
 子供のように瞳を輝かせて、すっかり意識は八ッ橋へと向いている。当然のように真田とも一緒に味わいたいというその心根が実に可愛いらしくて、周も思わず笑みを誘われるのだった。
「そうだな。じゃあ一休みしがてら三人で食うか。もう夜も遅いし、他の者たちには明日にでも出してやってくれ」
 そんな二人の様子を横目にしていた真田が恐縮しつつも、
「お二人とも……私にまでそのようなお言葉。本当にありがとうございます。それではお心に甘えましてご相伴に与らせていただきます。只今お茶をお淹れ致しますゆえ」
 にこやかに微笑みながら下がっていった。その後ろ姿を見送りながら、
「ね、白龍。京都までってどのくらい? 遠いんでしょ?」
 周が帰って来てからこのかた、やたらとスキンシップの多かったことにドキドキと心拍数を上げつつも、それらをごまかすかのように冰は饒舌に語り掛けていた。
「新幹線で二時間とちょっとだな。まあ、乗っちまえば案外すぐだ。京都には情緒ある日本の名所がたくさんあるからな。今度は仕事じゃねえ時にゆっくり連れてってやるさ」
「ほんと? ありがとう! すごい嬉しい」
 冰は子供のように瞳を輝かせながら素直に喜んだ。そんな仕草は幼かった頃に一生懸命な様子でまっすぐに見つめてきた最初の出会いを思わせる。周にとってはその一つ一つが心から可愛く思えてならないのだった。
「でもさ、お昼過ぎに出掛けてって今帰って来れたってことは……向こうじゃちょっとしか居られなかったんでしょ? ハードスケジュールで疲れたんじゃないの?」
「それほどでもねえさ。今日のは商談と言っても、ほぼ顔合わせみてえなもんだったし大して疲れちゃいねえよ。それよりお前はどうしてたんだ。いい子で待ってたか?」
 またも不敵な笑みを瞬かせながらそんなふうに訊く。まるで子供扱いだが、冰はこの周の自信ありげな微笑み方が気に入っていた。片方の眉をクッとひん曲げるように上げて、口元には粋を通り越して気障と思えるほどに自信を讃えた独特の笑みだ。この表情は周のクセなのか、何かにつけて目にするわけなのだが、これが何とも言えずに格好いいと思えるのだ。
 むろん、他の誰かがやったら少々呆れてしまうような不敵な仕草だが、周という男にはそれが憎らしいほどによく似合う。声も低めで色香があって、この顔で――この声で――この瞳で見つめられるだけで幾度心臓が跳ね上ったことだろう。
 冰はそんなことを思いながらも、訊かれた問いには存外素直にうなずいてみせたのだった。
「ん――まあね。ちゃんといい子で待ってたよ」
 照れて視線をキョロキョロと泳がせる様が、周にとってもまた眼福のようだった。



Guys 9love

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