極道恋事情

8 狙われた恋人1



◆1
「失礼、雪吹冰さんでいらっしゃいますか?」
「え……?」
 それは、とある昼下がりのことだった。上司の李から言付かった資料を隣の系列会社に届けた帰り道のことである。突如知らない男三人に取り囲まれて、冰は驚いたように立ち止まった。
「あの……あなた方はいったい……」
 冰が驚くのも無理はない。男たちが話し掛けてきたのは広東語でだったからだ。
「やはり! 広東語をお話でいらっしゃる!」
 男の一人が瞳を輝かせながら、こう続けた。
「実はあなた様のご養父でいらっしゃる黄様のことで至急ご相談させていただきたいことがございまして、私共は香港からやって参りました」
「じいちゃんのことで……ですか?」
「はい――。この度、黄様が所有なさっていた土地があることが分かりまして」
「土地……ですか?」
「はい。黄様のご名義で、郊外にかなり広大な土地を所有されております。ただご本人様は既にお亡くなりになっており、ご親族や専任の弁護士などもいらっしゃらないご様子――。相続の手続きなどをどうしたものかと思ってお調べしたところ、ご養子の雪吹様に辿り着いたというわけです」
 突然の話に冰は驚いた。
 黄老人が亡くなる際に看取った冰は、老人が生活費として貯蓄していた財産と、周焔が送り続けてくれていた養育費を直接渡されたものの、土地を所有していたなどという話は聞いていなかったからだ。
 冰が戸惑った様子でいると、男が少々急かすようにこう言った。
「雪吹様、突然のことで驚かれるのも無理はないと存じますが、実はその土地のことで少々急ぎのご相談がございます。お時間をいただけないでしょうか?」
「急ぎの相談といいますと……?」
「ここではちょっと……。落ち着いた場所でお話申し上げたいのですが――」
「はぁ……」
 どうすべきか、冰は即答できずにいた。広大な土地というからには、それなりに金額が絡む話なのは想像に容易い。自分一人では判断がつかないことも多かろう。ここはひとつ、周に話してから、何なら彼にも同席してもらって一緒に話を聞く方がいいだろうかと思い、男にそう伝えることにした。
「すみません、ご用件は分かりました。ですが、只今は勤務中ですので、終業後でも構いませんか?」
 丁寧に訊いたが、男は難しい顔で首を縦には振らなかった。
「お仕事中にたいへん恐縮とは存じます。ですが、本当に急ぎのことでして。お時間は取らせませんので、是非お付き合いくだされば幸いです」
「はぁ……。では、上司にひと言その旨を伝えてから……」
「いえ! 本当にお時間は取らせません。ほんの少しですから」
 最初の時とは違い、だんだんと言葉じりも強くなっていく。あまりに強引な様子に、冰は次第に恐怖に似た思いが湧き上がるのを感じた。



◇    ◇    ◇




◆2
 時刻は午後の三時になろうかという時分だった。春風の心地好い、よく晴れたうららかな日だ。
 周の経営するアイス・カンパニーに勤める矢部清美は、営業先から帰って来た社の玄関横で揉めているふうな男たちに気が付いて怪訝そうに瞳をしかめた。
「あら――? もしかしてあの人……」
「清美? どうかしたのか?」
 彼女と一緒に営業に回っていたらしい男がそう声を掛ける。
「やっぱり! あの人だわ」
「あの人って? お前の知り合いなのか?」
 男がそう訊く。
「知り合いっていうか……ほら、前にアタシが受付嬢だった時に訪ねて来た男の人の話をしたことあったでしょ?」
「ああ、もしかしてお前が営業部に回されるきっかけになったっていう、あの話か?」
「そうそう、そうよ! 社長付きの秘書になったっていう人! 確か名前は……雪吹君だったかしら?」
「っていうか、あの人ら……なんかヤバい雰囲気じゃねえ? 揉めてるみてえだけど……」
「そうね、大の男が三人……。雪吹君を取り囲んで……何だか言い寄られてる感じ」
 さほど親しいわけでもないが、同じ社の社員同士だ。困っているならとりあえず助け船を出した方が良いかと、二人は様子を窺いながら冰の方へと歩を進めた。
 ところが――だ。
「困ります! ちょっと待ってくださいッ!」
「つべこべ言うな! いいから来るんだ!」
 男三人に両腕を引っ張られるようにしながら、冰はあれよという間に車へと引きずり込まれてしまった。
「ちょっと……嘘でしょ!? 何なの、あいつら!」
 清美らが駆け付けた時には、既に車は猛スピードで走り出していくところだった。
「……! そうだ、携帯!」
 清美は鞄からスマートフォンを取り出すと、走り去る車の様子をシャッターに収め、すぐさま踵を返してロビーへと走った。そして、古巣である受付嬢たちのいるデスクへ向かいながら叫んだ。
「英子! ちょっと電話を借りるわよ!」
「清美先輩……!? どうかされたんですか?」
 受付嬢時代に後輩だった英子という女子社員が驚いたように瞳を丸くしている傍らで、清美は逸った手つきで内線番号を押した。
「もしもし! 秘書課ですか!? こちら受付ですが、李さんをお願いします!」
 すると、電話の向こうでは冷静沈着なローボイスがこう返してきた。
「李は私だが――」
「李さん! たいへんです! すぐに来てください。たった今、玄関のところで雪吹君が変な男たちに連れ去られるのを見たんです!」
「何だと――ッ!? 分かった、すぐに降りる!」
 李にしては慌てた声でそれだけ言うと、即、通話は切られた。

 ペントハウスの秘書室では、李が血相を変えながら劉に告げていた。
「冰さんが玄関ロビーで不審な者たちに連れ去られたとの連絡を受けた! 私は先に降りる。お前は社長にこのことを知らせろ! あと、監視カメラのチェックだ!」
「え!? は、はい! 分かりました!」

 穏やかな午後が一瞬にして暗転した。



◆3
 李がロビーへ降りると、矢部清美が待ちかねたようにして駆け寄ってきた。
「李さん! お待ちしていました!」
「キミは……確か」
「営業部の矢部清美です。以前に受付嬢をしていました」
 李も彼女のことは記憶していた。そもそも彼女を営業部へと飛ばしたのは他ならぬ李本人だからだ。そして、そうせざるを得なかった理由が、冰が初めてこの社を訪ねて来た際に彼女が非常に失礼な態度を取ったからだということもよく覚えていた。
「雪吹さんが連れ去られたのを見たというのはキミだったのか?」
「はい。彼と一緒に営業先から帰って来たところで雪吹君が知らない男たちに囲まれているのに気付きました。遠目でしたが何だか揉めているようだったので、声を掛けようと思ったらいきなり車に押し込まれるようにして連れて行かれてしまったんです!」
 彼女と一緒にいた男もその通りですとうなずいている。
 これがその車ですと言って、清美はスマートフォンで撮影した画像を李へと差し出した。
「写真を撮ってくれたのか……」
「はい! 咄嗟のことであまりよく写っていないかも知れませんが……」
 画像には車の色や車種、少しブレてはいるがナンバーもどうにか確認できそうだった。
「よくやってくれた。感謝する」
 李に頭を下げられて、清美は恐縮したように首を横に振った。彼が社長秘書であると共に、社の中では重役の位にあることを知っているからだ。清美は、思い掛けず役に立てたことを嬉しく思っているようだった。
「そうだ! それから……大事なことを言い忘れていました! 連れ去られる時に雪吹君は外国語を話していたようでした!」
「外国語だと?」
 これは非常に貴重な情報だ。犯人たちを突き止めるのに重要な手掛かりとなるからだ。
「英語ではなかったので、多分中国語か韓国語だと思います……」
 清美が言う傍らで、営業部の同僚だという男が付け加えた。
「中国語だと思います。自分はバス通勤なんですが、最近は近々開かれる国際的なイベントの影響でか、バスの案内も多国籍語が流れているんです。彼らがしゃべっていたのは、おそらく韓国語ではなく中国語の方だったと思われます」
 ということは、香港絡みの可能性が強い。敵の正体はまだ分からないが、冰はずっと香港暮らしだったし、周の実家も然りである。もしかしたら、目的は冰ではなく周であるのかも知れないと李は思った。
 そこへ劉からことの次第を聞いた周が血相を変えてやって来た。
「李! 状況は?」
「社長! 営業部のこの二人が現場を目撃したとのことです」
 李は清美が撮った画像を差し出しながら手短に報告をした。
「よく知らせてくれた。礼を言う」
 周からもそう労われて、清美と同僚の男はそれこそ恐縮しながらペコリと頭を下げたのだった。
「雪吹さんのことは私たちで対応する。キミらは部署へ戻ってくれ」
 李が言うと、清美は心配そうに眉根を寄せた。
「あの……雪吹君は大丈夫なんでしょうか?」
「ああ。キミたちがすぐに知らせてくれたからな。それに撮ってくれたこの写真もある。必ず助け出すさ」
 李は二人を見送りがてら、事がはっきりするまでこの件はなるべく他言無用にして社員たちに触れ回らないで欲しいと伝えるのも忘れなかった。




◆4
 周と李が一旦社長室へと戻ると、劉が既に監視カメラの映像を洗い出して待っていた。
「現場の様子が写っているカメラが二台ほど見つかりました。冰さんは隣のビルから出てきたところで奴らに声を掛けられたようです」
 確かに隣のツインタワーの方から歩いてきた冰が確認できる。いつものように関連会社へ資料を届けに行った帰りだろう。矢部清美が写した画像と同じ車が、ツインタワーの間にある小道に停められているのも確認できた。小道といっても車両も通行可能な一般的な道路である。ただ、景観に配慮されている為、歩道や街路樹などが洒落た造りになっているというだけである。
「相手の男は三人だな。車のナンバーから持ち主は割り出せたか?」
 周が訊くと、それを調べていた劉が少々苦い声で答えた。
「どうやら偽造ナンバーのようです。照会しましたが、実際にこのナンバーに当たる車は登録されておりません」
 ということは、本物に似せて作ったプレートを上から貼り付けただけなのだろう。
「GPSの方はどうだ」
「はい。冰さんのスマートフォンは反応しませんが、老板がお贈りになった腕時計に付いている方は確認できています」
 腕時計というのは、つい先日、春節で香港に帰った際に周が贈った宝石付きのものだ。鐘崎が紫月にGPS付きのピアスを贈ると聞いて、周もそれを羨ましく思いマネしたわけだが、まさかこんなにすぐに役立つことになろうとは思わなかった。
 案の定、スマートフォンの方は反応しないということだから、敵が冰から取り上げて電源を落としたのだろう。相手も素人ではなさそうだ。
「現在地は?」
「つい先程、高速道路に乗ったのを確認しました。西へ向かっているようです」
「西か――。羽田かも知れんな。中国語を喋っていたというし、もしかしたら国外へ連れ出す気なのかも知れん」
「国外というと……香港でしょうか? ですが、何故冰さんを……」
「分からん。本来の目的は俺で、冰はおびき出す為の人質か、餌に使われたのかも知れねえが――」
 だとしたら、こちらの正体が相手にも分かっているということだろう。つまりはマフィア絡みということだ。
「香港の親父に連絡を入れる。向こうでも既に何か起こっているかも知れねえ」
 周は言うと、すぐさま父の隼と兄の風に電話を入れた。ところが、ファミリーの方には特に変わった様子はないという。
「俺が目当てじゃねえってのか――」
「では、冰さんご本人が目的だと――?」
「分からねえ。とにかく腕時計のGPSが敵に気付かれる前に突き止める! すぐに追い掛けるぞ!」
「かしこまりました。ではお車を回します。念の為、装備なども一通り用意して参ります」
 つまり、銃器類や防弾機能の付いたベストなどを装着していくということだ。
 白昼堂々、手際のよく拉致を成功させている点から見ても、相手も裏社会に生きる人間かも知れないからだ。
 冰が連れ去られてから、未だに何の連絡もないということも気に掛かる。社長室と秘書室の内線電話を携帯に転送させると、周は李と劉を伴って、ペントハウスから直に階下へと降りられる駐車場へと向かった。



◆5
 ご存じの通り、周の社屋はツインタワーになっている。メインのアイス・カンパニーが入っているのは第一タワーで、周の住居部分と系列会社が占める第二タワーを繋ぐ連絡通路が最上階にある。普段はそこを通って出勤しているわけだが、その最上階から直接車に乗り込める駐車場は第二タワーの方に設置されていた。つまり、住居の前を通って向かうわけだ。
「念の為、真田にも伝えておこう。自宅に何らかの連絡が入るかも知れねえ」
 険しい表情で連絡通路を急いでいると、向こうからその真田が朗らかな様子でやってくるのが見えた。まだ彼は冰が連れ去られたことを知らないので、それも致し方ない。
「坊ちゃま、ちょうど良うございました。只今お知らせに上がろうと――。鐘崎様と一之宮様がお見えですぞ」
 その報告に、周はハッと瞳を瞬かせた。
「カネが来てるのか!」
「ええ、例のケーキをお土産に持って来てくださいましてな」
「そいつぁ、有り難え!」
 周は言うや否や、邸へと向かって通路を走り出した。
「坊ちゃまー……! あら、あらあら……李さんも劉さんも慌てて、どうなされましたのです?」
 瞳をまん丸くしながら驚いている真田に、李がことの次第を話して聞かせた。

 一方、周の方では、偶然にも訪ねてくれた鐘崎と紫月に事情を説明すると、彼らもすぐに助力すると言ってくれた。
「氷川、ここ数日の監視カメラの映像をもらえるか? 奴らが冰の顔を知っているとすると、事前に下調べに来ている可能性が高い。それを親父と源さんに送って敵を突き止めてもらう。俺たちはすぐに冰を連れ去った車を追おう」
 さすがに鐘崎の考えることは俊敏だ。裏の世界で右に出る者はいないという僚一の息子だけあるというものだ。周は早速二人の側近たちに手配するよう伝えながら、リアルタイムの動向を探っていた。
「現在地はどうだ」
「高速を羽田方面に向かっています。やはりこのまま海外へ飛ぶ気でしょうか」
「念の為、もう一度香港の兄貴にも事情を伝えよう。香港行きが本当なら空港で押さえてもらえる」
 その会話を横でうかがっていた鐘崎は、源次郎らに監視カメラの映像を送り終えると、自らの見解を周へと告げた。
「氷川――こうは考えられねえか? 冰をさらった奴らの目的だが、ディーラーの手腕が欲しかったとしたらどうだ」
「ディーラーの手腕だと?」
「この前の春節イベントに来ていた客の中にはカジノ関係の人間もいただろうからな。その時に目を付けられたと考えれば、今回の拉致にも合点がいく。奴らの目的はイカサマ騒ぎを見事に破った冰の腕を欲しがってのことかも知れねえと思ってな」
 鐘崎の推測に、周はハッと瞳を見開くと、
「招待客と当日の来場者リストを至急親父に確認する――」
 再び、すぐさま香港へと連絡を入れたのだった。



◆6
 冰をさらった車は予想通りか、GPSが示す位置は羽田空港の中へと入っていった。拉致からここまでの間、周宛てに連絡が入らないことを考えても、冰を人質にして周をおびき出すという目的は薄いのかも知れない。
「やはり――カネの言う線が濃厚かも知れんな」
 つまり、ディーラーとしての冰の手腕が欲しいという目的のことだ。
「奴らが使うならおそらくはプライベートジェットだろう」
 一般路線に拉致した人間を連れて怪しまれずに搭乗させるのは難しいだろうからだ。
 そのことから、敵の正体が段々と掴めてくる。経済的にも余裕があり、飛行許可などもある程度思うように取れる人物となれば、自ずと限られてくるというものだ。裏社会の人間か、あるいはとてつもなく力を持った大富豪か――。
 鐘崎が監視カメラの映像と合わせて、その線からも範囲を絞っていく。一方、周と李は自分たちもすぐに飛び立てるよう飛行許可の手続きを進めていく。そんな中、紫月が心配そうにソワソワと胸を逸らせていた。
「冰君は俺たちが後を追っていることを知らねえだろうからな。スマホも取り上げられて連絡も取れねえしで、きっと心細いだろうな……。無事でいてくれるといいんだが……」
 祈るようにしながらそうつぶやく。
「ディーラーとしての冰の腕が目当てなら、そうそう乱暴には扱うまい」
 とりあえず命を狙われるという可能性は低いと考えてよいだろうと鐘崎が励ましの言葉を口にすると、紫月も少しホッとしたようにうなずいてみせた。それには一理あると思いつつも、周はまた別の角度からの可能性も考えていた。
「だが――もしも冰が素直に従わなかった場合、最悪の事態も視野に入れなければならない。とにかくは急ぐんだ」
 今は彼らの行き先を割り出すことが何より先決だ。周は一見冷静でいるようでいて、その瞳の中には怒濤の焔を揺らめかせているようだった。

 冰の示すGPSの位置は、少しの間、空港内で停滞し、そう時を待たずして滑走路へと移動した。当然のこと、飛び立つ前に救出するのが理想だが、既に拉致から離陸までのタイムスケジュールを組んであっただろう敵を追うには時間が足りなかった。
「仕方がねえ。こうなったら着陸後に押さえる方向でいこう」
 強行突破で冰を奪還することもまったく不可能ではないものの、下手をすれば大事になりかねない。焦った敵が冰に危害を加えることも考えられるし、と同時に拉致犯の正体が分からないことには今後もまた同じことが起こり得るかも知れない。ここは少々忍耐を強いられるが、ある程度泳がせて完全に外濠を埋めてから一気に押さえ込み、大元から根絶やしにするしかない。
 周はもちろんのこと、鐘崎や紫月にとっても我慢の時が続いた。



◇    ◇    ◇



◆7
 気持ちだけが逸る中、時を追うごとにそれぞれの調査によって情報の方もかなり集まってきていた。
 渡航許可が降りるまでの間に鐘崎の父親の僚一と側近の源次郎も現場へと到着し、皆で一緒に周所有のジェット機に乗り込んでの待機が続く。監視カメラの映像や今後の動向を探る為の機器類はむろんのこと、不測の事態に備えて応戦用の銃器類なども積み込まれ、体制は万全を期していく。鐘崎と紫月の分のパスポートなども僚一が持参してきていた。
「焔、拉致犯の渡航先だが――行き先はおそらくマカオだ。だが、ジェットの所有者までは割り出しにもう少し時間を要する」
 このわずかの間に情報収集を成功させた僚一がそう告げる。
「――マカオか。ということはやはりカネの睨んだ通り、カジノ関係者の線が有力だな。俺たちは一旦香港に飛び、そこからはヘリでマカオに潜入するしかねえか……。下手に空港で入国の時間を費すよりは融通がきく香港の方が都合がいい。兄貴に手配を頼もう」
 周が香港到着と同時にヘリを待機させておいてくれるよう段取りをつける。と同時に、春節イベントに来ていた来場者の中からマカオに拠点を置くカジノ関係者を洗い出す作業が進められていった。

 一方、その少し前のこと――、冰の方も拉致犯に拘束されたまま、彼らのものとおぼしきプライベートジェットへと連れ込まれていた。
 周の社を出ると、まずは車の中でスマートフォンを取り上げられ、目隠しまでされてしまった冰は、身の安全を考えて、敢えて逆らう素振りを見せずにここまで来た。下手に抵抗すれば何をされるか分からないからだ。
 特には会話もなく、じっとしたまま言いなりの彼が目隠しを解かれたのは、機内に乗り込んですぐのことだった。
「手荒なことをしてすまない。どうしてもキミと話がしたくて、少々強引なことをした無礼を謝罪する」
 視界が戻ってきたことで眩しさに目を細めた冰を待ち受けていたのは、腰まである黒髪が印象的な長身の男だった。
「あなたは……いったい……。何故、俺を……ここは何処ですか?」
 見たところすぐに飛行機の中だというのは理解できた。いわゆるファーストクラスのような座席が並ぶ室内の装飾と、先程から聞こえている飛行機の離着陸の音で、ここが空港ではないかと思っていたからだ。
 確かにラグジュアリーな造りながら、周のプライベートジェットを体験している冰からすれば、かなり無機質に感じてしまう。周のジェットには通常の航空機のように座席ももちろんあったが、豪華ホテルの客室のような部屋がいくつもあり、空を飛んでいるという感覚を忘れさせてしまうような異次元だったからだ。
 恐る恐る室内を見渡していると、目の前の長髪の男が自己紹介をしてよこした。
「私は張敏という。マカオでカジノを経営している」
「カジノ……」
 冰は驚きに眉をひそめた。



◆8
「キミを知ったのは春節に香港で行われたカジノイベントだ。その若さで見事という他ない腕前だった。すっかりキミに興味が湧いて、直に会ってみたいと思ったわけだ」
 ということは、この男もあの時に来ていたということか。
「雪吹冰君――どうだ、俺のカジノで働いてみる気はないか?」
 突然の誘いに、冰は思わず眉根を寄せてしまった。
「キミのことを少し調べさせてもらったが、香港の伝説のディーラーと呼ばれていた黄の養子だそうだな? それだけの見事な腕を持っていながら、何故今はディーラーをしていない?」
「……それは」
 冰は何と答えたらいいのか迷っていた。会って間もないこの男にベラベラと理由を語る筋合いもないというのも勿論だが、はたしてこの男がどういった人間なのかがまるで分からないからだ。
 カジノの経営者というなら周ファミリーとも面識があるのかも知れないが、双方が友好的な仲なのか敵対関係なのかも分からない。第一、こんな強引な方法で拉致まがいのことをするような人物だ。個人的には、とてもじゃないが好意的な感情を持つこともできそうにない。
 あまり多くを語らずにいた方が賢明と感じた冰は、言葉を濁すことにした。
 それに、スマートフォンは取り上げられてしまったが、GPSの付いた腕時計にはまだ気付かれていない。もしかしたら周や李たちが自分が戻らないことに気付いて、行方を追ってくれるかも知れない。それまではやたらなことをしゃべらないに越したことはないと思ったのだ。
 冰が黙り込んだままでいると、男が更に無礼と取れるようなことを口走った。
「あんな商社でサラリーマンをしているなど、キミには似合わないと思うがね。俺のところに来れば給料も今の十倍は出そう。贅沢な生活も存分にさせてやるぞ?」
 考えるまでもなく自分の方がいい条件だろうと言わんばかりだ。給料を十倍出すなどと言うが、現在どれだけの額をもらっているのかも聞かない内から随分とまた大きく出たものだ。いわゆる一般的な会社員の月給を基準に考えているのだろう。
 推察するに、この男はこちらが単に商社に勤める平社員だと決め込んでいるようだった。
 ということは、あの会社が周ファミリーの次男坊である周焔白龍が経営していることまでは調べがついていないということだろうか。だとすれば、周との関係についても知られてはいないのかも知れない。彼とは恋人同士で、彼の住まう豪華な邸で一緒に暮らしているということも含めて、そう詳しいことまでは知らないのだろうと思えた。
「せっかくのお話ですが、俺は今の会社を辞める気はありません」
 冰は毅然とした態度で、その意思だけをはっきりと伝えた。すると、男の方は怒るでも機嫌を損ねるでもなく、薄く笑うと、
「まあいい。マカオに着いて俺の邸を見れば気も変わるだろう。それに、美味い話にホイホイと乗らない堅実なところが実にいい。信頼に値する人間性が感じられる」
 男はますます気に入ったとばかりに上機嫌で言うと、
「そろそろ離陸だ。とにかくは現地に着くまでゆっくり寛いでくれたらいい」
 そう言って不敵に微笑んでみせた。



◆9
「ちょっと待ってください! マカオって……離陸ってどういうことですか? 第一、俺はパスポートさえ持ってきていません!」
 冰が必死に訴えれど、男の態度は変わらなかった。
「パスポートなぞどうにでもなる。これでもマカオでは顔がきくもんでね」
 自信満々の様子からして、それなりの実力者であるのは確かなのだろうが、それにしても強引が過ぎる。権力者というのは、何でも自分の思い通りになると考えている者ばかりではないだろうが、この男はかなりの勢いで自我が強い。同じ権力者でも周や鐘崎らとはまったく違うと冰は思った。
「とにかく困ります! すぐにここから帰してください!」
「そう言われた時の為にと、先手を打ってキミをここまで連れてきたんだ。少々強引なことは承知の上だがね。俺は是が非でもキミが欲しい。キミがどう思おうと――だ」
「そんな……!」
「キミの意向はマカオに着いてからまたゆっくり聞くとするよ。きっと俺の邸を見れば気が変わるだろうからな」
 つまり、それだけの豪邸だという自信があるのだろう。そこで贅沢三昧できると思えば、冰の気持ちも傾くと信じているようだった。
「私は少し用事があるんで、これで失礼する。キミは到着まで自由にしていてくれたまえ」
 男はそれだけ言うと、手下の者たちに冰の世話を任せると言って部屋を出ていった。
「では、どうぞこちらへ。安定高度に入ったらお食事をお持ちします」
 冰が連れてこられた部屋は、こじんまりとした個室だった。一応は横になって休めるベッドとソファにテーブル、化粧室などはあるものの装飾は簡素で窓もない。周のプライベートジェットとは大違いである。それより何より、これではまるで監禁部屋のようだ。行き先はマカオだというが、どこをどう飛んでいるのか、外は明るいのか暗いのかさえも分からない。四角い部屋でただ一人、不安が冰を苛んでいくようだった。

(白龍……こんなことになって、きっと心配をかけているだろうな……。俺、これからどうなっちゃうんだろう。会いたいよ、白龍……!)

 だが、ふさぎ込んでいても仕方がない。周には手間をかけてすまないと思えども、彼が気付いて助けに来てくれるのを待つしかない。
 それに、マカオからなら香港も近い。隙を見て逃げ出すことさえできれば、周ファミリーの元へ助けを求めればいい。それだけを励みに、冰は今この時を耐えるのだった。



◇    ◇    ◇



◆10
 一方、周たちの方でも着々と冰の奪還に向けての準備が整ってきていた。
 鐘崎組からは僚一と遼二親子、それに源次郎といった組の中枢が現地に出向くので、留守を守る幹部の清水が若い衆の春日野を連れて空港まで見送りに来ていた。渡航前に外からの様子を伝える為である。

『若、ただいま拉致犯のものと思われる機体が滑走路に出たのを目視致しました』

 清水からの連絡で、的確な状況が把握できた。
「ご苦労。向こうへ行っても逐次連絡は入れるが、留守を頼む」
『お任せください。若たちもどうぞお気をつけて』
「ああ、頼んだぜ」
 周のジェットが飛び立つのは、どうやっても拉致犯の離陸後となるわけだが、それでもさほど間を置かずに飛行許可が取れたのはさすがといったところか。こうして一路、香港へと向かったのだった。

 離陸後、機体が安定高度に入って通信機器が使えるようになると、状況はかなり具体的なことまでが明らかになってきた。
 香港のファミリーからの知らせで、春節のイベント時にマカオから来ていたカジノ関係者の名前も絞り込めてきて、幸先が感じられる。周の父の隼と兄の風自らが陣頭指揮を取って、冰をさらった者の割り出しに全力を尽くしてくれていたからだ。既に多数の人員をマカオに差し向けて、詳細な調査に当たってくれているとのことだった。
「兄貴からの連絡で、犯人が三人に絞れ込めたらしい。今、一人一人の所在を確認中だそうだ」
 周の報告を聞き、パソコンの中のリストを見ながら鐘崎親子が三人の素性を洗っていく。その中の一人に目をつけた僚一が、確信したかのように言った。
「張敏……か。どうもこの男が臭いな。マカオではそこそこ羽振り良くカジノを経営しているようだが、どちらかといえば新参の部類だ。こいつは一代で店を立ち上げてここまで大きくしたらしいが、資金作りに裏ではかなり黒いことに手を染めているようだ」
 僚一の情報網は広大で、各地に信頼できる大物権力者との太いパイプを持っている。当然マカオにも古くから裏社会で顔のきく人物との繋がりも多い。
 その彼らに訊いたところ、張という男がかなり強引な手段でのし上がってきているという噂を突き止めたわけだ。
「ヤツは自分が欲しいと思ったものには手段を選ばないとの評判だ。年齢は三十半ばで、この世界では若造といえるが、マカオでも仁義を重んじる古参の重鎮連中たちからは疎まれている様子だ」
 つまり、現在のカジノを更に大きくするべく、冰の見事な腕が欲しいというわけなのか。突然、日本にまでやって来て拉致している点から考えても、強引と言われる男のやりそうなことだ。
 それだけでも腹立たしいところではあるが、周にとってはもっと憤りそうな事実があると僚一は少々口を濁した。
「実はな、焔……。この男についてはもう一つ嫌な噂を耳にした。ヤツは色に関してもかなり派手で、しかも両刀――つまり男女見境ないということだ。玄人から素人まで気に入った者には金にモノを言わせて片っ端から手をつけると有名らしい」
 僚一の言葉に周のみならず、鐘崎や紫月も途端に険しく眉根を寄せた。



◆11
 つまり、欲しいのは冰のディーラーとしての腕だけではなく、冰本人にも興味を抱いての拉致ということだろうか。公私共に手に入れれば一石二鳥と思ったのだとしたら、今回の強引な行動にも合点がいくというものだ。
「……ふざけやがって」
 誰もが言葉を失う中、周がポツリと短くそれだけをつぶやいた。声自体は怒鳴るでもなく、一見冷静とも取れるが、低く地鳴りのするようなそのひと言の中には周の怒りの度合いがありありと見て取れる。如何に学生時代からの友人で気心が知れた鐘崎と紫月でさえも、彼の本気の怒りを感じさせられるに充分なほどの烈火の如く感情がヒシヒシと伝わるのを感じていた。
「どうやら拉致犯は張敏で間違いないようだ。ヤツの所有するプライベートジェットが冰を乗せた機体と一致した」
 傍らで僚一がそう告げた。
「僚一……張という男に直接連絡の取れる番号は割り出せるか?」
 周が訊く。
 普段は鐘崎の父親ということもあり『親父さん』と呼ぶことの多い仲だが、今の周からすれば僚一は裏社会での仕事仲間というオンの意識下にある。年齢を越えたところでの一人の男同士としての会話なのだ。僚一もそれが分かっているから、彼を息子の一友人としてではなく、互いに背中を預けるような仲間と意識して接していた。
「プライベートナンバーか……。少し待て」
 僚一はすぐさま張への通信手段の割り出しに取り掛かった。つまり、個人的な携帯番号の調査だ。
 それ自体は僚一の情報網をもってすれば、さほど難なく突き止められるだろうが、問題はその先だ。
 仮に周が直接コンタクトを取ったところで、今は別々の空の上にある。触発された張が速攻で冰を餌食にしないとも限らない。というよりも、張が噂通りの人物ならば、今この時に既に冰の身の安全が百パーセント保証できるものでもない。気の早い男であれば、機上だろうが関係なく、とっくに冰を我がものにせんと牙を剥いているかも知れないのだ。
 それを想像するだけで、周は全身の血が噴き出しそうな思いでいた。
 怒号し、張を脅すのは容易いが、仮にまだ彼が冰を手に掛けていなかった場合は、逆にそれを促してしまう危険性も考えられる。
 連絡をすべきか、あるいはまだ何も起こっていないことを信じて時を待つべきか、周は苦渋の選択を迫られていた。




◆12
 ひとたび、重い沈黙の時が続く。

 苦しむ周が出した答えは、真っ向から敵と向かい合うことだった。
「焔、番号を入手できたぞ――」
 僚一からの報告を受けて、周は迷わずに通話を決意した。
 鐘崎や紫月、李ら周りの者たちが不安げに見守る中、毅然とした態度で番号を押す――。しばしのコール音の後、ようやくと相手が通話に出た。
「張敏か。そこに雪吹冰がいるな?」
 低く重々しい声がそう訊くと、スマートフォンの向こうでは怪訝そうな声が応答した。
「……誰だ」
「周焔だ。雪吹冰を拉致したのはお前だな?」
「……何の話だ。言っている意味が分からないが」
 相手は確かに張本人なのだろう。はぐらかしてはいるが、周焔と名乗ったと同時にスマートフォンの向こうの息遣いが瞬時に強張ったのを聞き逃すはずもなかった。
「周焔さんという名前には聞き覚えがあるが、まさかあの香港の頭領・周の息子さんか? 面識はないはずだが、いったい俺に何の用だ?」
「うすらっとぼけるな。雪吹冰は俺の家族だ。貴様、とんでもねえことをしてくれたもんだな」
「家族だと? 確か彼は黄の養子だったはずだが。人違いじゃないのか?」
 平静を装ってはいるが、張という男は相当焦っているのだろうか、自ら冰についての素性を口走ってしまっていた。つまり、彼が冰とまったくの無関係ではないということを、今のひと言で暴露してしまったわけだ。
「黄の養子だったなどとよく知っているもんだな。冰のことを探りやがったわけか」
「探ったなどと人聞きが悪い言い方はやめてもらいたい。まあ……確かに彼は今、ここにいるがな」
 やはりか――!
 素直に認めたところを見ると、突然の電話の相手が想像もしていなかった周という大物だと知ったからだろうか。下手にシラを切っても香港の裏社会を仕切る周一族が相手では、分が悪過ぎると踏んだのだろう。早々に認めて開き直るつもりなのかも知れない。
「……ッ、では聞くが、周さんこそ彼に何かご用か? こちらはただ、彼をディーラーとしてウチのカジノにスカウトしたいと思い、少々お付き合いいただいたまでなんだが」
 案の定、こちらから訊きもしない内から冰を連れ去った理由をペラペラと並べ立ててくる。
「スカウトだ?」
「確か周さんのところもカジノを経営しておられるようだが、雪吹君はお宅のディーラーというわけではないだろう? 俺だって他所のディーラーに手を出すなんてことはしないさ。彼は現在日本の商社に勤める会社員と聞いている。それならどこのカジノにも迷惑が掛かる話じゃないとスカウトを考えたまでなんだがな」
 いったいそれのどこが悪いんだと言いたげだ。言い訳にしても、もっとマシなことが言えないものかと、周は憤りを隠せなかった。



◆13
「その商社の経営者は俺だ。冰が俺の秘書をしていることは知らなかったか?」
 周が訊くと、通話の向こうからは『グッ……』と押し殺したような声の気配が伝わってきた。
「……あんたの会社だって?」
 張の様子からは初めて知ったのだろうことが窺えた。
「そういうことだ。冰は返してもらう。スカウトへの返事もノーだ。既に香港からファミリーがマカオへ向かっている。あんたらが到着次第、冰をこちらへ渡してもらうぞ」
「……ッ!?」
 よほど驚いたのか、まともな返事ひとつままならない様子だ。周は更に畳み掛けるように言った。
「冰に指一本触れてみろ。その時は貴様を地獄へ送ってやる。俺はやると言ったら必ずやる。これは脅しじゃねえ」
 決して怒鳴っているわけではないのだが、地を這う大蛇のような静かな中にも寒気がするような低いバリトンは、周りで聞いている者たちでさえゾクッとさせられるほどのものだった。通話相手の張にしてみれば、それ以上だったことだろう。案の定、彼は素直に諦めの言葉を口にした。
「……ッ、分かった。雪吹君はお返しすると約束しよう。まさか彼が周さんの縁者とはな……。知らなかったということで勘弁してもらえると有り難い。だが――さすがに周一族だな。……情報が早い」
 冰を拉致してから、まだほんの数時間だ。それなのにもうファミリーの手が回っているとはさすがに思わなかったようだ。
「分かればいい。あんたとの話はこれで終わりだ。冰の無事を確かめさせてもらうから、通話口に出せ」
 張は仕方なく言われた通りに従うしかなかった。

 通話口に出た冰の声の感じからは、周が心配していたような最悪の事態になっている様子は見て取れなかった。口調も割合しっかりしていることに安堵する。
「冰、無事か!?」
「う……うん、俺は平気。それよりごめん……心配掛けちゃった……」
「お前は何も悪くねえ。心配せずに待っているんだ。必ず助け出す」
「ありがとう。本当に……ごめんなさ……」
「俺たちも今、お前の乗ったジェットのすぐ後を追い掛けてる。香港の親父と兄貴も既にマカオの空港に向かっている。すぐに迎えに行くから、もう少しの辛抱だ」
 周らも既に機上にいると聞いて、冰は驚きつつもひどく安堵したようだった。若干、口数が少ないようにも思えるが、敵の前ではやたらなことを喋らない方が賢明と思っているのだろう。こんな事態にあってもできる限り落ち着いて判断をしようとしている様子がありありと伝わってくる。周は不憫な目に遭わせてしまったことを痛みながらも、一刻も早く助け出してやりたいと心底思うのだった。
「さあ、もういいだろう? この通り雪吹君は無事だ。あとは到着後にあんたらに引き渡すだけだ」
 張が電話を取り上げたのだろう。冰との会話を終えた周は、今一度冰の安全を約束させてから、一先ずの通話を終えた。



◆14
「とりあえずのところ冰は無事のようだった。本人も思ったより落ち着いていたようだし、声の調子からも怯えた様子は見受けられなかった。こんな時だってのに――本当に強いヤツだ、あいつは……」
 無事を確認できたことで安堵すると共に、敵の中にたった一人でがんばっていることを思うだけで堪らない気持ちがこみ上げる。
 思えば、冰と出会った十二年前もそうだった。繁華街で起きた抗争に巻き込まれて一度に両親を亡くし、その後、隣人だった黄老人に引き取られた後も素直でやさしい青年に育った彼だ。どんな苦境にも卑屈になったりひねくれたりすることなく、その時々を一生懸命に過ごしてきたのだろう。真っ直ぐ健やかに天を目指す竹の強さを持ち、また、時には風にしなる柳のように柔軟な心を併せ持つ。そんな冰が愛しくて堪らなかった。
 早く救い出してやりたい。そして思い切り抱き締めてやりたい。逸る気持ちを抑えるように、周は人知れず拳を握り締めるのだった。
「けど、良かった……。冰君の気持ちを考えたら気が気じゃねえからな。氷川が追い掛けてることを知ることができただけでも心強いだろうしな」
 皆の中でも一等ハラハラとし、まるで我が事のように心配していた紫月がホッと安堵の言葉を口にする。
「ああ――。張の野郎も一応は分かったふうなことを言ってやがったが、鵜呑みにしねえ方が賢明だろう」
「けど、冰君のことは諦めると言ったんだろ?」
「とりあえずは――な。着陸次第、冰を引き渡すとは言っていたが――」
 それにしても、いやに素直に冰を返すことに同意したものだ。冰が周一族の縁者と知ったからなのか、それとも本気でファミリーを敵に回すことを恐れたからか――。いずれにせよ、自ら日本にまで出向き、拉致などという強引な手段に出たにもかかわらず、あまりにも呆気なく引く素振りが腑に落ちないところではある。返すと言っておきながら平然と裏切ることも視野に入れて、その場合の手段を準備しておくに越したことはないだろう。周は改めて気を引き締めるのだった。

 そんな周の考えが見事に的中したことを知るのは、マカオに到着してすぐのことだった。空港へ先回りして張の便を待ち構えていたファミリーから、いくら待っても彼らが見当たらないとの報告を受けたのだ。既に頭領の隼と兄の風もマカオ入りして冰の到着を待っていたのにもかかわらず、彼らは煙のように姿を消してしまったという。
「――ッ、やはり口先だけだったか……」
 憤る周の傍らで、鐘崎がつぶやいた。
「何かカラクリがあるんだろう。張という男はこのマカオではそれなりに顔がきくらしいし、もしかしたらもう空港にはいないのかも知れねえ」
「だが、飛行ルートを変えた形跡はない。間違いなくここ――マカオへ降りているはずだ」
 鐘崎の父の僚一も口を揃えてそう言う。
「とにかく張のヤサを一つ一つ当たるしかねえ。こうなったら人海戦術だ」
 一口にヤサといっても、おそらくは方々に隠れ蓑にできるような拠点を持っているに違いない。ファミリーの側近たちが手分けをして張の立ち回りそうな所をしらみ潰しに当たることとなった。



◆15
 その後、夜通しでの捜索が続けられ、一夜が明けた頃のことだった。
「頭領、張を発見しました! ヤツがたった今、郊外にある自宅に戻って来たのを確認しました。冰さんも一緒です!」
 張の邸を張っていた者たちからの報告にどよめきが起こる。
「よし、すぐに出向くぞ!」
 時刻はまだ朝方だったが、周は間髪入れずに立ち上がると、鐘崎と源次郎を連れて張の邸へと向かった。

 その頃、冰もまた苦渋の選択を迫られていた。
 周との電話では、マカオの空港に付いたらすぐに解放するような話向きだったはずが、張は何とその約束をあっさり反故にしたのだ。通話を終えた後も、さすがに周一族の縁者と知ってか手荒なことはされなかったものの、懇々と嫌味のようなことを聞かされ続けたのであった。
「まさかキミが周家の養子になっていたとはな。厄介なことになったもんだ」
「養子……?」

(……白龍がそう言ったんだろうか……?)

 冰は確かに周と共に暮らしているし、彼の家族にも会ったものの、周家と養子縁組をしたわけではない。張というこの男が聞き違いをしたのか、はたまた周に何か考えがあって養子だなどと言ったのかは不明である。ここは、むやみなことは言わないに限ると冰は思っていた。
「とぼけても無駄だ。今の電話で周焔がそう言っていた。キミは家族だとな」
「――家族」
「てっきり黄の養子だとばかり思っていたが、育ての親が亡くなった途端に周家の養子になるなんざ、キミも案外薄情なヤツだな。いや――やり手というべきか。香港マフィアの頭領の周一族相手に……どうやって取り入ったのか知らないが、大したタマだな」
「……そんな。取り入っただなんて……」
「まあ、周一族もキミのディーラーとしての腕を買ってのことなんだろうが、まさか養子にまでするとは……。つまり、それほどキミの腕がいいってことなんだろうがな」
 張にとっては、周一族がそんなにまで欲しがるこの冰という男の腕前に、ますますもって興味と執着心が湧いたようだった。――だが、それならどうしてカジノのディーラーとして使わずに、日本の商社などで秘書をさせているのかということが理解できないところではある。
「周焔というのは――確か次男坊だったな。ヤツが日本で起業していたのは意外だったが、キミを秘書として側に置いているのは何故だ?」
「……何故って……それは……」
 まさか本当の経緯など言えるはずもない。というよりも、言う義理もないといった方が正しいか。冰が黙っていると、張は焦れたように自らの推測を語り始めた。
「確か、キミの亡くなった両親は日本人だったな。つまり――キミは日本語が達者だから日本の企業で重宝されているということか? そんな理由でディーラーをさせずに秘書として使うなんぞ……まったく、宝の持ち腐れもいいところだ!」
 張は一人で憤っていたが、その後に彼から飛び出した言葉は冰にとって驚愕といえることだった。



◆16
「――まあいい。立派な道具の使い道も分からんヤツらにキミを持たせておくのは勿体ないというものだ。俺がもっと有意義に使ってやるさ」
「道具って……」
「既に空港には周の手が回っているだろうからな。とりあえず時間を稼ぐ為、裏ルートで空港を脱出し、ヤツらを上手く巻いたら邸へ戻る」
 そうして一晩かけて車を数台乗り継ぎ、各所を転々とした後、夜が明ける頃になって冰は張の邸へと連れて来られたのだった。
「見たか? やはり周の手先がこの邸を見張っていたようだ」
「え……?」
「邸の周辺に怪しい車がいるのを確認している。俺たちが帰って来るのを張っていたんだろう。さほど時を待たずして周がキミを取り返しにここへやって来るだろう。そうしたらキミは自分の意思で俺の元に居たいと言うんだ。さもなくば……」
 不敵に笑った張の背後から現れたのは、銃を手にした部下らしき男が二人、ニヤニヤと薄気味悪い笑いを浮かべていた。
「この中には鈍行性の毒薬を仕込んだ吹き針が入っている。体内に入れば跡形もなく消えるという特殊な針だ。もしもキミがヘタなことを言えば、この二人が周にこれを打ち込むぞ」
「そんな……!」
「傍目には打たれたと分からない精巧な代物だ。ここを出て小一時間もすれば徐々に毒が回るようになっている。我々が手を下した証拠を残さずに周は原因不明の発作を起こしてお陀仏となる」
 冰は蒼白となった。
「それが嫌なら周が迎えにやって来たらこう言うんだ。キミは周一族の元で秘書などしているより俺のカジノでディーラーとしての人生を歩みたくなったとな。素直に言う通りにすれば、周には手を出さないでやる」
「そんな……! やめてください、そんな酷いこと……」
「俺は欲しいものはどんな手を使っても我がものにする主義だ。これまでだってそうやってすべてを手に入れてきたんだ。店もこの邸も、ここまでデカくするのにはそれなりの代償も払ってきた。キミという出来のいいディーラーを使ってもっともっとデカくなってやるさ」
「そんな……」
「とにかく! 周を生かすも殺すもキミ次第だ。考えるまでもない。簡単なことだろう?」
 張が勝ち誇ったように笑う傍らで、冰はグッと拳を握り締めた。

 もうすぐ周がやって来る。彼のことだ、既に此処を突き止めているようだし、早々に彼が自ら迎えに来てくれるだろう。だが、来ればとんでもない罠が待っている。
 周のもとへ帰りたいのは言うまでもないが、彼を守るにはここへ残るしかない。何かの策を講じようにも時間はない。苦渋の中で冰は以前に紫月から聞いた言葉を思い出していた。




◆17
『俺が組を守り通せば、遼は必ず無事に帰って来る。そう信じて、今は組を守ることに全力を注ごうと思ったんだよ』

 それは鐘崎が他所の組から罠に嵌められた時の話だ。宴席でいかがわしい薬を盛られて窮地に陥り、たった一人で夜の街を彷徨うハメになった鐘崎の行方を捜す傍らで、組事務所には彼を嵌めた組織が乗り込んできて暴れ始まったという事態に、紫月が立ち向かった際のことだった。
 今、まさに自分と周の上にも似たような窮地が訪れる中、冰はその時の紫月の心意気を思い出しながら、自分はどうすべきかを必死に思い巡らせるのだった。

 どうすればいい――?
 周を張の魔の手から守り、また自らも周のもとへと無事に帰るにはどう立ち回ればいいというのだ。
 焦る冰の脳裏に、ふと在りし日の黄老人の言葉が蘇った。

 いいか、冰。ディーラーは常にポーカーフェイスを崩してはならない。これは基本中の基本なのは分かるな? だが、それだけじゃダメだ。
 客のタイプをいち早く読み取り、それに合わせて自分を自由自在に変えられるようになるんだ。
 押しの強いタイプには、真正面からぶつからずに、かと言ってあからさまに避けることなく適当にあしらいながら相手を軽くかわせる柔軟さ。
 常に自分が一番で他を見下す自信家タイプには、一見相手を持ち上げつつも、柔和でいながらしてサラりと裏切る狡猾さ。
 気のやさしく何でも他人に譲ってしまうようなタイプには、ポーカーフェイスを装いながら自然と勝たせてやるさりげなさ。
 ――つまり役者的な要素だ。客のタイプによってお前はまったく違う人間になり、その時々の相手を上手く掌で転がしていく臨機応変さを身に付けるんだ。

 相手のタイプによって上手く掌で転がしていく臨機応変さ――。
 では、この張という男はどんなタイプといえるだろう。
 自信家で強引で、何でも自分の思い通りにならないと気が済まないタイプ――俺にこの人を狡猾に転がす演技ができるだろうか。この人を操って、この人の上を行くにはどんな人間になればいいのだろう。

 だが、迷っている時間はない。一か八か、賭けに出るしか道はない。

 じいちゃんの教えてくれた通り、上手くできるか分からないけどやるしかない。
 今から俺は役者だ――。
 張というこの人を受け入れるふりを装いながら油断させ、こちらのペースに引き込んで一気に突き崩す。
 あまり自信はないけど、白龍を救うにはそんな弱気じゃダメだよね。
 ――できるよ、できる。紫月さんが鐘崎さんを信じて身体を張ったように、俺も覚悟を持つんだ。裏社会に生きる男の伴侶であるなら、時にはそういう強さも必要なんだって紫月さんが身をもって教えてくれたんだもんな。俺にもできる。だって俺は、周焔白龍の唯一無二の恋人、伴侶なんだから――!

 冰はひとたび大きく深呼吸をすると、覚悟を決めたようにカッと意思のある瞳で目の前の張に微笑みかけた。
「張さん――でしたね。あなたはそんなに俺のことが欲しいんでしょうか?」
 今までの素直で気の弱そうな青年の印象を百八十度翻すような、ひどく落ち着いた物言いに、張は不思議そうに首を傾げながら冰を見やった。



◆18
「……何だ、藪から棒に――」
「自分で言うのもナンですが、確かに俺は――ディーラーとしての腕はまあまあいい方だと思います。でも、神業というほどじゃない。そんな俺を――周一族を敵に回してまで手に入れる価値はあるのかなって思いまして」
「――いきなりどうした。謙遜するな。キミの腕が確かなのは春節イベントの時にこの目で確かめさせてもらった。”その”周一族を敵に回したとて手に入れる価値は充分にある。俺はそう踏んでいるが――」
「……そうですか。そんなに高く見てもらえて、俺も光栄ですけどね。でも――正直なことを言ってしまうと、俺、そんなにいいヤツじゃないですよ?」
「――どういう意味だ」
 この張という男は、どうやらこちらのことを周家の養子だと思い込んでいるようだし、ここはひとつそれで通すのもいいかも知れないと冰は思っていた。
「あなたもさっき飛行機の中でおっしゃってましたけど、身寄りを亡くした俺を拾って育ててくれた黄のじいちゃんが亡くなった途端に、周一族に取り入って養子にまでしてもらった俺です。恩も感謝も、義理も人情も全然ない無礼なヤツですよ? 周さんの養子になったのだって、香港マフィアの頭領といわれる家柄なら贅沢な暮らしができると思ったからですし」
 まるで悪気のなく平然と言ってのける冰の様子に、張は軽く眉根を寄せてみせた。
「――それが本当のキミだというのか? さっきまでは随分と気の弱そうな、というよりも性質の好さそうな若者に見えていたがね」
「猫を被っていただけです。だってそうでしょう? あなたがどんな人なのかも分からないし、おとなしく様子を見るのは当然でしょう? ただ、張さんが本当にこんな俺でもいいとおっしゃってくださるなら――俺、張さんの元で暮らす人生もありかなって思って」
「――ほう? これはまた……驚きの発言だな」
「正直言って、俺は安泰に暮らしていけさえすれば、周さんでも張さんでもどちらでもいいんですよ。ただ、周さんに毒針を打ち込んで殺したりとか……そういうのは絶対に御免です。例え足がつかないって言われても、ここに来た直後に周さんに何かあれば、疑われるのは必須です。相手は香港を仕切っているマフィアなんですから。追い掛けられて一生逃げ回るなんて冗談じゃない。俺は平穏に生きたいんです」
「ほう……? 随分とまた狡猾なことだな」
「そういう人間なんですよ、俺。周さんの養子になったのだって、大きなカジノでディーラーをさせてもらえるんならと思っていたのに、日本語ができるからって理由だけで、今は日本の商社で秘書をさせられてます。生活はまあ快適だし、仕事は楽だし、別に今のままでも文句なんてないんですけどね。でも、本心を言えばやっぱりディーラーがしたいんです。張さんは俺をディーラーとして認めてくれているようですし、俺としてはその方がどんなに嬉しいか……」
 切なげに瞳を震わせながら、上目遣いで張を見やる。今にも瞳にたまった涙の粒が零れて落ちそうな表情で、冰は儚げに微笑んでみせた。



◆19
 すると張の方も満更ではなく思ったわけか、みるみると瞳を輝かせながら冰の側に来て、その顎をクイと持ち上げた。
「なかなかに可愛いことを言う」
「……張……さん。俺……本当にここに置いてもらえる……?」
「ああ。ああ、勿論だ! まさかキミが周家でそんなふうに肩身の狭い思いをしていたとは驚きだが、俺としては願ってもないことだ」
「俺、我が侭……だよ? 贅沢な暮らしもしたいし、服とか靴とか流行のファッションにも興味あるし、いろんな物ねだるよ?」
「ふ――、そんなもので良ければ嫌というほど買ってやるさ。なんなら――服や靴だけじゃなく、車でもクルーザーでも、欲しい物は何でも与えてやる」
「本当……?」
「ああ、本当だ。約束しよう」
「そう――。だったら俺、もう迷わない。張さんの為に、そして自分の夢の為にカジノでディーラーがんばるから……!」
「そうか。そうか――! いい子だ」
 張は思わず両の腕で冰を抱き締めた。
「張さん……。頼むから周さんを殺したりしないで。もしもそんなことをすれば、俺もあなたも一生あのファミリーに追い掛けられるハメになっちゃう。そんなのは絶対ごめんだよ」
「ああ。キミが俺のモノになるというなら周に手は出さない。俺だって別に周一族と戦争をしたいわけじゃないからな」
「良かった。それを聞いて安心したよ。俺、周さんがやって来たらここに残りたいってちゃんと言うからさ。そのかわり、張さん……俺を守ってよね? 俺だって周ファミリーを敵に回すのは怖いよ。だからちゃんと守って――」
「ああ、勿論だ。俺とてこのマカオじゃ周に負けないだけの自信はある。自信だけじゃなく、金も力もあると自負している。キミは何も心配することはない」
「そう、ありがとう張さん。俺、がんばって張さんのカジノの役に立てるように努力するよ!」
「なんて可愛いことを言ってくれるんだ!」
 張はすっかり有頂天になっていた。胸の中に抱き締めた冰の髪をやさしく撫でながら、これからやってくる周がどんなふうに悔しがるかと思うと、それを想像するだけでもワクワクと心が踊るようだった。冰のディーラーとしての素晴らしい腕が手に入るだけでも一先ずは満足だが、ゆくゆくは容姿も美しいこの若者を公私共に自分のものにするのも夢ではなさそうだ。張の機嫌は最高潮だった。
 そんな彼の腕の中で、冰もまた揺るがない決意をより強くするのだった。

 ごめんね、白龍。でも今はこうするしか貴方を守る術はないんだ。目の前で毒針を撃ち込ませるわけにはいかない……!
 例えどんな嘘を並べ立てても貴方を守り通す。そして、俺のついたこの嘘を……貴方なら見破ってくれると信じてるから……!

 そんな中、張の部下から周がやって来たという知らせが届いた。



◆20
「よし、通せ」
「相手は三人で来ています。周焔と、若い世話係だという男が一人に、もう一人は執事だとか抜かしていますが初老の男です。奴ら全員を通してもよろしいんでしょうか?」
「構わん。今更、何人で来ようが周に何ができるわけでもなかろう。それに……もしもゴタつくようなら、手始めに周の手下の奴らに毒針を試すのも面白いというものだ」
 この後に及んでまだそんなことを考えているというわけか。鼻で笑う張の横で、これはいよいよ覚悟をもって演じなければと肝に命じる冰だった。
 部下に案内されて姿を現したのは、冰にとってこの世で一番愛しい男――周焔その人と、彼の付き添いで来てくれたのだろう鐘崎と源次郎の三人だった。



◇    ◇    ◇



 周の姿を目にした途端に冰の心は激しく揺さぶられた。
 どんなに見慣れようと、幾度でも心臓を鷲掴みにする男前ぶり、何気ない仕草のひとつひとつ。鋭い中に垣間見えるやさしい視線、低く落ち着いたバリトンボイス、その存在すべてが心拍数を跳ね上げる。
 戻りたい。今すぐにでもあの腕の中へ飛び込んでしまいたい。だが、そんなことをすれば周はむろんのこと、一緒に付いて来てくれた鐘崎や源次郎まで危険な目に晒すことになるのだ。冰にとっての正念場だった。
 一方、周の方も当初の約束を反故にされた手前、一晩中姿をくらまされたことで冰に変わった様子がないかということを気に掛けていた。もしかしたら色事に派手だという張が、既に冰を手に掛けているかも知れないと、気が気でなかったからだ。
 だが、一見したところ冰に変わったところは見受けられない。怯えているふうでもないし、心身共に傷を負っているといった様子でもない。ただ――そんな冰の落ち着き過ぎているとも取れる雰囲気が、逆にいつもと違っているように思えるのも事実だった。具体的にどこがどうというのではないが、強いて言えば普段よりも大人びて感じられるといったところだろうか。春節のイベント時に周家のカジノの危機を救ってくれた際の冰の雰囲気に近かった。
 そんな彼を目の当たりにして、周はいち早く異変を感じ取ってもいた。

(何だ――。何をする気だ、冰?)

 もしかしたら言葉にはできないが、何か伝えたいことがあるのかも知れない。
 周は、冰のわずかな視線の動きや仕草、言葉遣いなどから彼の気持ちを見逃すまいと神経を研ぎ澄ます――。

(白龍……あなたならきっと分かってくれる。そう信じて一世一代、乾坤一擲の俺の賭けを受け止めて――!)

 二人は今、互いの絆を信じて、心と心の会話に踏み出そうとしていた。




Guys 9love

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