極道恋事情
◆21
「張敏――空港で冰を引き渡す約束だったはずだが?」
穏やかな口調ではあるが、凄みも垣間見える鋭い視線で先に会話を仕掛けたのは周の方からだった。
「周焔さん、約束を破ったのは申し訳ない。だが、こちらとしても少々状況が変わったものでね」
張がニヤけまじりで勝ち誇ったように対面を買って出る。
「状況が変わったとはどういうことだ――」
「ふ――。実はこの雪吹君が、あんたの元にいるよりも俺のところに来たいと言い出したんだ」
余裕の上から目線で笑った張を周の鋭い視線がジロりと射貫く。
「冰がお前の元に行きたいだと? ふざけたことを抜かすな――」
「……はは、ふざけてなんかいないさ。そんなおっかない顔をしないでいただきたいね。嘘だと思うなら雪吹君本人に聞いてくれるといい」
張はあからさまに呆れた仕草で両肩をすくめながら、冰へと会話を振った。
「――冰、いいからこっちへ来い。俺が来たんだ。もう何も心配することはねえぞ」
張を無視してそう言葉を掛けた周を驚かせるような返事がなされたのは、その直後だった。
「焔兄さん、ごめんなさい。張さんの言う通りなんだ。俺、このまま張さんのところでお世話になりたいんです」
堂々と言ってのけた冰に、周のみならず鐘崎と源次郎も驚いたようにして目を見張った。
張と冰、そしてその対面のソファに掛けた周と鐘崎、源次郎――両者の間に少しの沈黙が流れる。
「――ほう? 俺の元にいるより、この張の側で暮らしたいとでも言うわけか」
しばらくの後、面白そうに口角を上げながら周が口を開いた。
その様子を眺めていた張にしてみれば、表面上では余裕をみせながらも内心では憤っているように受け取れたことだろう。だが、周には冰が仕掛けた芝居だということが分かったので、いち早くそれに乗っかったわけなのだ。
まずは、『焔兄さん』という呼び方からして、普段の冰では有り得ない言い方だ。言葉遣いも飄々として若干乱暴だし、わざとそうしているのだということは聞かずとも分かる。周はむろんのこと、鐘崎も源次郎も同様で、すぐさまこの芝居の中から冰の真意を読み解く方向にシフトしたのだった。
一方、周の不敵な笑顔から彼がこちらの意向を理解し、乗っかってくれたことを察した冰は、何はともあれ心の中でホッと胸を撫で下ろしながらも、決して顔には出さずにそのまま芝居を続けた。
◆22
「だって――張さんは俺をディーラーとしてすごく評価してくれて、張さんのカジノのフロアに立たせてくれるって言ってくれたんだ。それに、お給料も兄さんのところで秘書をしてるよりもたくさんくれるって……。焔兄さんにはとってもお世話になって、感謝してるんだけど……俺、やっぱりディーラーの仕事がしたいんだ。我が侭だとは思うけど、許してくれたら嬉しいなって」
申し訳なさそうにしながら胸前で両手を組み、視線を左右に振って泳がせつつも、言葉じりは物怖じすることもなく堂々と言ってのける。少々唇を尖らせ、これではまるで駄々っ子の我が侭少年のようだ。普段の冰を知っている鐘崎や源次郎などは、彼の見事すぎる役者ぶりに噴いてしまいそうにさせられたほどで、表面上はしかめっ面を装うのがたいへんなくらいであった。――と同時に、冰が先程から何度も左右に視線を動かしては、何かを訴えようとしているのを見逃す鐘崎らではなかった。
視線の先には張の部下と思われる男が二人、無表情でじっと立っている。いわば見張り役のようなものだろうと思っていたが、冰の仕草からは『彼らには充分気を付けて』という信号が感じ取れる。もしかしたら何か罠が用意されているのかも知れない――鐘崎も源次郎もそう察した。
また、周の方も戦術的な面は鐘崎らに任せながら、冰との芝居のやり取りを楽しんでいた。
「そうか。お前がそんなにこの男の下でディーラーをやりたいのなら好きにすればいい」
「本当!? 兄さん、ありが……」
「――なんて言うと思ったか?」
「え……!? 何だよー! 今の、嘘なの?」
「当たり前だ。そんな我が侭に『はい、そうですか』――なんて言うわきゃねえだろうが」
「そんな……。ぬか喜びさせるなんて酷いよ、兄さん! でも俺、兄さんがどう言おうと、どうしてもここに残ってディーラーがしたいんだ」
「ディーラーならウチのカジノでやればいいだろうが。この前だって春節イベントの時にフロアに出させてやっただろう」
「あんなの、年にたった一度じゃない……。俺は毎日、ちゃんと仕事としてやりたいんだよ」
「毎日俺の秘書をやるのは嫌だってのか?」
「嫌……っていうわけじゃないけど……。でも……」
「冰、お前――ファミリーを舐めてんのか? 黄のじいさんが亡くなったお前を引き取って家族にまでしてやった恩を忘れたか?」
「……それは……だからこうして兄さんに頼んでるんじゃないかー」
「一丁前にひとり立ちしてえってか? お前、俺の側を離れて生きていけると思ってんのか?」
「……何だよ、兄さんはすぐそうやって俺を子供扱いするんだからさ! 俺だってもう大人の男だもんね! 自分の道は自分で決められるんだって!」
「言ったな、このガキんちょが!」
「ガキじゃないってば!」
すっかり他の者は蚊帳の外といった調子で、兄弟喧嘩のような言い争いを始めた二人に、さすがの張も目を丸くしてしまった。
◆23
「周焔さん、雪吹君も……ちょっと落ち着いてくれたまえ」
「あんたは黙ってろ! これは俺たち家族の問題だ」
「何だよ、聞く耳持たないのは兄さんの方だろー? ねえ、張さんからも何とか言ってくださいよ!」
「ほう? 今度は張に助け舟を頼もうってか? だからガキだと言ったんだ」
「くぅー! またそうやって揚げ足取るー!」
「お前にゃ、ひとり立ちなんぞ無理だ。うちのファミリーの中じゃ兄貴の言うことは絶対なんだ。素直に聞いとけ!」
「うわー、うわー、もう焔兄さんなんか知らないもんね! いいよ、だったら風兄さんに頼むもんね!」
「ああ!? 何だと? 風の兄貴に言い付けようってのか!?」
双方共にソファから立ち上がって膨れっ面を付き合わせる。一触即発で取っ組み合いの喧嘩が始まりそうな雰囲気に、張は苦笑しつつも頬をヒクつかせてしまった。
思ってもみなかった展開にすっかりと気を削がれたというのもある。これまでの様子からして、冰が本当にここに残りたがっているのは嘘とも思えないし、一応は警戒していた周というこの男も、ムキになって兄弟喧嘩を始めるくらいだから、思っていたより大したことはないと感じたのだろう。張は自分に勝機があると踏んで疑わない様子だった。そうして有頂天になった彼は、つい二人の演技に騙されて言うつもりのなかったことを口走ってしまっていた。
「だったらこうしたらどうだ。雪吹君がここに残るか周さんの元に帰るかを賭けて、うちのカジノで決着をつけるというのでは?」
その提案に、言い争いをしていた二人がピタリと会話をやめて張を見やった。
「カジノで決着だと?」
周がジロりと眉根を寄せながら問う。
「本来は雪吹君本人の希望を優先すべきとは思うが、周さんにもお立場があろう。俺も知らなかったとはいえ、周さんのご家族の雪吹君を強引に連れて来てしまった詫びの気持ちもあるんだ。ここはひとつ、俺と周さんで勝負をして、勝った方が雪吹君を得るというのがいいんじゃないかと思うが。もちろん、その勝負のディーラーは雪吹君にやってもらうということでどうかな?」
張はよほど自信があるのだろう。冰にディーラーをやらせれば、必ず自分を勝たせてくれると思い込んでいるようだった。
勘違いも甚しいところだが、周はその提案に乗ってやるのも悪くはないと思った。冰がこんな芝居をしてまで張の元に残りたいと言うからには、そうせざるを得ない理由があるからなのだろう。もしかしたら張にそう言えと脅しを受けている可能性もある。その脅しの内容がどんなものかまでは分からないが、おそらくは素直に従わなければ身の安全は保証しないというようなことを言われたのかも知れない。
今ここで強行突破して冰を連れ帰ることも可能だが、そうなれば確実に面倒事に発展するだろう。銃撃戦などという最悪の事態になることも考えられる。
そう踏んだ周は、ここはひとまず張の提案に乗ることを決意したのだった。
◆24
「カジノで勝負――ね。俺が勝てば冰は連れ帰るぞ? 例え冰がどう言おうとだ」
周が了解したのを受けて、張は上手くいったとばかりの表情でほくそ笑んでみせた。
「ではそういうことで。俺が勝てば雪吹君は俺がもらう。それでよろしいな?」
「いいだろう。場所はあんたのカジノだな? 今夜でいいか?」
「俺は構わない」
「じゃあ、決まりだ。勝負は何でする」
「……そうだな、ルーレットかポーカーなんてところでどうかね? 雪吹君はどっちがいい?」
張に訊かれて、冰はどちらでもいいと答えた。
「ではルーレットでいこうか」
「――分かった」
周はうなずくと同時にソファから立ち上がった。
「では今夜九時にカジノでお待ちしている」
「――ああ」
周らが踵を返して出て行こうとした矢先だった。冰は、『そうだ!』と言って三人を引き止めた。
「ねえ、源さん! お願いがあるんだ」
周ではなく源次郎に向かって親しげな語り口調で呼び止める。
「……は、はい……! 何でしょう、冰坊っちゃま」
源次郎もこれまでの冰の芝居に合わせるようにして、執事を気取りながら返事をしてみせる。誘拐まがいの目に遭った冰をひどく心配して、オロオロとする感じまでが見事だ。こういうところの機転はさすがに手慣れたものである。一方、冰の方でも普段は『源さん』などという砕けた呼び方はしないのだが、今は源次郎が周家の執事という名目で出向いてくれていることを踏まえて、敢えてフランクな調子を装っていた。
「あのさ、俺の可愛いドッグたち、ハリネラ君とテルヨちゃんに餌をあげるの忘れないでって頼んでくれる? 二匹とも日本に置き去りにして来ちゃったから心配なんだ」
源次郎はむろんのこと、周も鐘崎も突如として突飛なことを言ってのけた冰に、一瞬怪訝そうに眉根を寄せた。
だが、すぐにその意図を読んだわけか、鐘崎が横から割り込むようにしてこう答えてみせた。
「ご安心ください。その二匹なら冰坊っちゃまを追ってマカオに来る際に、一緒に連れて参りました。きっとご心配していらっしゃると思いましたので」
鐘崎もさすがの役者ぶりをみせる。それを聞いて、冰はにっこりと微笑んだ。
「わぁ! 本当? 良かった。安心したよ」
嬉しそうにしながらも、張に向かって、
「ねえ張さん、俺、犬飼ってるんだ。もしも今夜の勝負に勝ってここで暮らせるようになったら、二匹とも一緒に連れて来てもいい?」
まるで勝敗が決まったかのようにはしゃいでみせる。
張は少々驚きながらも、悪い気はしなかったのだろう、
「キミは犬が好きだったのか。もちろんいいとも。見ての通りそこそこ大きな邸だからな。犬の二匹や三匹、自由に飼ってくれていいぞ」
ふふんと鼻高々な様子で、これみよがしに周を見やりながらそう言って笑った。
だが、実際のところ冰は犬を飼ってはいない。つまり、カジノでの勝負で張を勝たせるつもりもなければ、この邸で犬と一緒に暮らすつもりもないということが分かる。むろんのこと、周にもその意図は伝わったのだろう。
「は、てめえら……すっかり勝ったようなつもりでいやがるのか。まあいい。冰、今夜を楽しみにしているぜ」
不敵な笑みを瞬かせながら、周は邸を後にして行った。
◆25
帰りの車中では鐘崎と源次郎が冰の見事な芝居ぶりに感心していた。
「いやぁ、冰さんは実に大した御方ですな。正直なところ驚きました」
「同感だな。やはり張は罠を用意していて、それを盾に冰を脅していたんだろう。冰がヤツの元に残らなければ、俺たちを殺るとでも言われたに違いねえ」
まずは『焔兄さん』という普段は絶対にしない呼び方で異変を知らせ、我が侭少年のような態度で『これは自分の本意ではない』ということを強調してみせた。視線や仕草でも一生懸命に何かを伝えようとしていたし、それになんといっても最後の犬についての会話だ。
「ドッグのハリネラ君とテルヨちゃん、これを繋げると『ドク ハリネラ テルヨ、つまり毒針狙ってるよ』になる。張の手下と思わしき男が二人いただろう? 冰が下手なことをすれば、あいつらが俺たちに毒矢でも打ち込む算段だったのかも知れねえ」
鐘崎の言葉に周もうなずいた。
「やはりお前も気が付いていたか。俺も一瞬、何を言い出すんだと思ったがな。その意味がわかった時は……さすがに理性を失いそうになったぜ。この緊急時にあれだけの演技をして、広東語の中に日本語の犬の名前を混ぜ込んだ絶妙な会話で危険を俺たちに知らせてよこした。あの場で張たちを葬って、冰を連れ帰って抱きしめてやりたい……そんな気持ちが抑えられなかったぜ」
「ああ。お前の気持ちはよく分かる。俺だって、もしもとっ捕まってるのが紫月だったら……我慢できずに即戦争をおっ始めちまったかも知れねえ」
だが、冰が敵の中にたった一人で精一杯覚悟を決めているのを目の当たりにしたのだ。暴力でカタをつけるのは容易いが、彼の気持ちを思えば王道の正攻法で助け出してやりたい。やさしい性質の彼のことだ。誰も傷つけずに、よもわくば自分を拉致した張にさえも傷を負わせずに終息させようと思っているのだろう。そんな冰の気持ちに応えるべく、三人は何としてでも無事に彼を助け出そうと心に誓うのだった。
「――しかし……氷川、ルーレットで勝負と言っていたが、どこに賭けるかってのは分かってんのか?」
鐘崎が訊いた。
冰ならば狙った目にボールを落とすのは可能かも知れないが、問題はその場所だ。示し合わせるならば、周が賭ける目を冰が知っている必要がある。だが、そこまでの打ち合わせをしている時間はさすがになかった。
「もしかしてだが……こういった不測の事態に備えて、お前ら二人の間で事前に示し合わせた決め事でもあるのか?」
張からルーレットでの勝負を持ち掛けられた際に、周はさほど迷うことなくその申し出を承諾してみせた。ということは、周と冰の間ではこういった場合に賭ける位置を決めてあるのかと思ったわけだ。
ところが周の返事は意外にもそういった決め事などは一切していないということだった。
◆26
「――冰が狙う位置なら想像がつく。あいつならきっと赤の一番だろう」
周が自信ありげに言うと、鐘崎は不思議そうに首を傾げた。
「何故そう思う。まさかお前の名前が焔だから赤、冰にとってお前がこの世で一番大事な奴だから――とか言うんじゃねえだろうな?」
「分かってるじゃねえか。その通りだ」
周は自信満々の様子だが、はたして本当にそれで合っているのだろうか。鐘崎からすれば若干不安に感じてしまう。
「お前、そりゃちょいとばかり安易過ぎやしねえか? 賭けの対象は冰なんだぞ? 万が一にも間違った位置に賭けたら取り返しがつかねえことになる」
「……その時は最終手段だ。冰の為にも大事にはしたくねえが、俺はどうあってもあいつを手放すつもりはねえ。例え戦争をしてでも張をぶっ潰して冰を取り返すまでだ」
周の瞳には裏社会に生きる男の本質ともいうべき決意の焔がユラユラと燃え盛っていた。
「元々、俺のもんに手を出しやがったのは張の方だ。遠慮はいらねえ」
「てめ、最初っからそのつもりだったってか?」
つまり、勝敗などあってないようなもので、どう転ぼうが最終的には力で制圧するつもりだということだ。鐘崎はふうと小さな溜め息をつきながら苦笑してしまった。
「……ったく! そんなところだろうと思って張の応接室のソファの中に盗聴器を仕掛けてはきたがな。おそらく張は賭けの位置を冰と打ち合わせるに違いねえ。情報だけはあって損はねえ」
「――相変わらずに手はずがいいな」
周も苦笑を誘われつつ、と同時に素直な感謝の言葉を付け足した。
「カネ――すまねえな。てめえにまで苦労を掛けちまう」
「水臭えことを言うな。俺だって何度もお前に助けられてる。お互い様ってやつだ」
「ああ――本当にすまねえ。てめえにも親父さんにも、それに源次郎さんや皆にもご足労掛けるが――今夜が勝負だ。すまねえが力を貸してくれ」
真摯に頭を下げた周に、鐘崎も源次郎ももちろんだというふうにうなずいてみせた。
「心配するな。張の手下共は俺たちが万全の態勢を敷いて抑える。冰が言ってた毒矢のことも含めてカジノではどんな事態になっても抜かりがねえように人員を配置する。お前は余計なことを考えずに張との勝負に集中してくれればいい」
「ああ、頼りにしてるぜ」
そんな会話をしていると、鐘崎が仕掛けてきた盗聴器が早速反応したようだ。源次郎が拾った音を録音してパソコン内へと収めていく。音声からは張と冰の会話が聞こえてきていた。
◆27
『雪吹君、昨夜はしっかり休めなかっただろうからな。今夜に備えて少し休んでくれたまえ。キミに使ってもらう部屋へ案内する』
『ありがとうございます。でも張さん、俺、ちょっと練習したいんです。ルーレットのボールを狙った位置に落とすのって本当にたいへんで……しくじったらいけないから張さんのカジノの盤にも慣れておきたいんです。それに、ちょっと買い物にも出掛けていいですか?』
『買い物? 何か欲しいものがあるのか?』
『今夜着るディーラーの衣装を選びたいなと思って』
『衣装ならウチの制服があるが――』
『ええ、それでもいいんですけど、俺の今後の人生を決める大事な勝負ですから。先ずは身支度から気構えを持てっていうのが黄のじいちゃんの教えだったんですよ』
『そうか、そうか。分かった。それじゃ好きな服を選ぶといい』
『ありがとう張さん! ね、張さんはどんな服で行かれるんですか?』
『そうだな、俺は中華服で行こうと思っている。普段はスーツが多いが、今夜は特別だしな。キミの為に正装するのも悪くない』
『うわぁ、嬉しいです! それじゃ、俺も中華服にしようかな。張さんも一緒に買い物に行ってくれますか?』
『もちろんだ。俺はキミの財布でもあるからな。どんな高価な衣装でも遠慮せずに選びたまえ』
『わぁ! 張さんってやっぱりやさしいんだー! 嬉しいなー』
喜々とはしゃぐ音声を聞き流しながら、周は『チッ――』と小さな舌打ちをした。これが芝居だと分かってはいても、実際気分のいいものではない。
「――ったく! 冰のやつ……戻ったら抱き潰す――!」
フン! と唇を尖らせ独りごちながらも、すかさず携帯を取り出してはホテルで待機しているファミリーの側近たちに連絡を入れるのも忘れない。
「――俺だ。これから冰が張と共に買い物に出掛けるから、気付かれないように後をつけてくれ。何を買ったかをできる限り詳細に報告して欲しい」
盗聴器の音声からは今夜着るディーラー用の服を買いたいと言っていたが、周にはそれがどうにも引っ掛かっているのだ。服などカジノ専用の制服があるだろうに、わざわざ新しいものを用意したいということは、そこに何らかの意図があるような気がするからだった。
冰なりにいろいろと考えを巡らせているのだろうことを思えば、その意図を漏らすことなく察して受け止めてやりたい。周の深い愛情が窺えた。
嫉妬の言葉を口走りながらも、すべき手立てに抜かりはみせない。そんな周を横目に、鐘崎と源次郎はやれやれと目配せをし合ったのだった。
◇ ◇ ◇
◆28
周がホテルへ戻ると父親の隼と兄の風が帰りを待っていた。
「お前に言われた通り、若いヤツらを冰たちに気付かれないように張り付かせて様子を窺わせている。行き先や買い物の内容などをできる限り詳細に把握するつもりだ」
「父上、兄上、ありがとうございます。お二人にはもちろんのこと、ファミリーの若い衆たちにもご足労をお掛けして恐縮です」
深々と頭を下げると、父も兄も『とんでもない』と言って首を横に振った。
「冰はもう我々の家族も同然だ。俺にとっても風やお前と変わらない息子と思っている。何も遠慮はいらない」
「手配して欲しいことがあれば、どんなことでも全力で力になるから遠慮せずに言い付けてくれ」
父と兄の頼もしい言葉を周は心から有り難く思うのだった。と同時に、もしもカジノでの勝負が上手く運ばなかった場合に備えて、力尽くで冰を奪還する手はずの方も抜かりなく整えていく。カジノの表玄関に裏口、周辺の道路の至る所に奪還用の車の手配、ヘリポートまで最短で抜けられる道筋。そして張のカジノの見取り図なども入手して、事細かに導線を考えていく。周一族はむろんのこと、鐘崎と父親の僚一や源次郎も加わって、細心の手配が敷かれていった。
その頃、冰の方では今夜着用する為のディーラーの衣装の買い物などに動いていた。彼の尾行を続けていたファミリーの若い衆らからも続々と情報がもたらされてくる。
『ただいま冰さんの買い物が済みました。購入されたのは白い無地の中華服です。柄などは入っておらず、まったくの白地でした。さすがに誂えるには時間がないので、吊るしのもので冰さんのサイズに合ったものを選ばれていました』
『次の店では中華服に合わせた靴を一足購入されました』
『その後に行かれたのは手芸用具専門店です。そこでは刺繍の入ったデザインシールを数点選ばれていました。いわゆるアイロンなどで服に貼り付けることのできる即席の”アップリケ”のようなものだそうです。買われたのは龍や花や雲など古典的な柄がデザインされた刺繍のアップリケ数種類です。それから、手作り用のアクセサリーのパーツを数点選ばれました。女性たちの間で人気の趣味で作るブレスレットやチョーカーなどの材料だそうで、イミテーションの宝石っぽいものです。アクリルやガラスなどの素材を求められていました』
『最後に行かれた店では小さな花束をお一つ買われました。花の種類は、冰さんたちが帰られた後で店主に聞いたところ、白い蘭と紅薔薇をメインにかすみ草とグリーンを少々入れたごく普通の花束とのことでした』
『現在は張のカジノに立ち寄られています。店はまだ開いていないので、中の様子は分かりませんが――おそらくルーレットの盤などの確認の為かと思われます。引き続き監視を続けます』
皆からの報告を受けて、周は冰が何を考え、どう動こうとしているのかを思い巡らせていた。
◆29
その後、少しすると張と冰の二人はカジノでの視察を終えて邸へと戻ったとの報告が入ってきた。と同時に鐘崎が仕掛けてきた盗聴器から、またもや彼らの会話が聞こえてくる――。
『雪吹君、夜まではまだ充分に時間がある。キミの部屋へ案内するから、少し休むといい。大事な勝負だからな。とにかく身体を休めて万全の態勢で迎えてくれたまえ』
『ありがとうございます。お借りしてきたルーレットの盤で少し練習させていただいたら、お言葉に甘えて休ませてもらいます』
『ところで、今夜のルーレットの位置だが、俺はどこに賭ければいいかな? 一応打ち合わせておいた方がいいと思うんだが』
『はい、張さんのお好きな箇所を教えてくだされば、そこにボールをはめられるようにがんばります』
『そうか。では……縁起のいい番号がいいな。黒よりは赤の方が幸先がいい。赤の一番あたりでどうだろうか。一目賭けで構わないか?』
『ええ、大丈夫です。どちらにせよ、一目賭けの方がはっきりと勝敗がつきますから……。赤の一番ですね! 上手くそこを狙えるように精進します!』
『キミなら大丈夫さ。期待しているよ』
『はい! がんばります!』
その後は応接室を後にして、冰は用意された部屋へと向かったようだった。張も仕事があるということで、自身の書斎へと引っ込んで行ったらしい。
ホテルでは、盗聴器の音声を聞きながら、周と鐘崎が頭を痛めていた。
「おいおい、張の賭ける位置が赤の一番だと? 言わんこっちゃねえ……」
鐘崎がやれやれと眉根を寄せてみせる。赤の一番は周が賭けようとしていた目だからだ。
「冰もまったく動じねえで快諾していたところをみると、お前さんの目論みは外れてたってことになるが……」
この際、冰がどこにボールを落とすつもりなのかを探るよりも、やはり最初から実力行使の方向で準備を手厚くすることに重点を置いた方がいいと鐘崎は思っていた。
だが、周は思いの外、落ち着いている。
「――まだ手はある。冰が服だの小物だのを買い集めたってことは、そこに何らかのメッセージが込められているに違いねえ」
「メッセージだ?」
「ああ。さっきあいつが様々な方法で俺たちに危険を知らせてよこしたように――だ」
「冰が買ったってのは中華服と刺繍のアップリケ、イミテーションのアクセサリー小物だったな? あとは花束か……。そこから何か想像できるってのか?」
「正直なところ今はまだ分からん……。分からんが、おそらくそれらを使って何かするつもりなのは確かだろう。だがまあ、俺がそれを読み解けなければアウトだ。勝負に負けた時のことを踏まえて安全且つ迅速に冰を連れてカジノを脱出する手立てはしっかり準備しておく」
「脱出経路の導線はファミリーの側近方に任せるとして、俺と親父と源さんでお前ら二人を完璧に援護するから心配するな。当然カジノの入り口では持ち物検査をされるだろうが、別ルートで銃器類を持ち込む算段は親父がつけている。お前は冰を連れて安全にカジノを出ることだけに集中してくれればいい」
「ああ。すまねえな、カネ」
「構わん。任せておけ」
二人は今一度覚悟を新たにうなずき合ったのだった。
◇ ◇ ◇
◆30
そうして、いよいよ夜がやってきた。
勝負は午後の九時からだ。周は黒のタキシードという正装の姿で、その付き添いとして鐘崎と源次郎も同行する。鐘崎の父親の僚一は表からは入らずに、業者を装って裏口から潜入することとなった。万が一の時の応戦用に、銃器類などを密かに持ち込む為だ。それらを化粧室に隠し、表からやって来る周と鐘崎、源次郎が受け取るという算段だ。
他には通常の客にまぎれて周ファミリーの側近と若い衆らがガッシリと脇を固める。頭領の隼と兄の風はカジノ近くに付けたワゴン車の中で待機することとなった。
張の店の外観はさすがにマカオでは一、二を争うというだけあって、立派な構えといえた。香港の周家のカジノに勝るとも劣らないといったところだろうか。
「ほう? 張のヤツも経営の腕は満更でもないようだな」
周が表玄関で店を見上げながら不敵な笑みを見せる傍らで、鐘崎と源次郎は警備に細心の目を光らせていた。
「先に入ったファミリーの側近たちからの報告では、武器を持ったと思われる張の手下共が各所に配置されている様子だ。拳銃なのか毒矢なのかは分からんが、ある程度の配置は見切れたとのことだ。既に親父が二階にある照明コントロール室の係員を眠らせて部屋の占領に成功している。あそこからならフロア全体が見渡せるから、万が一の銃撃などに対応が可能だ」
「警備の方はお前らに任せる。俺は冰の示すメッセージに集中させてもらうぞ」
「ああ、それでいい」
周らがカジノへと入ると、揃いの中華服姿で冰を伴った張が得意満面の様子で出迎えてよこした。
「ようこそ、周焔さん。我がカジノは如何かな?」
「――ああ。なかなかにいい店だ。楽しませてもらうぜ」
「それはよかった。こちらこそ、香港の頭領・周ファミリーのあなたと、このような機会が持てて光栄だ。では早速だがテーブルへ案内させていただこう」
鼻高々といった優雅な微笑みを見せる張の腕は、既に我が物といったように冰の肩に添えられている。それを目にしながら、周は舌打ちしたい気持ちを抑えて表面上は余裕の微笑を装った。
――と、次の瞬間だった。
周らを案内するべく前を歩き出した張と冰の後ろ姿を目にしたと同時に、周は驚きに息を呑んだ。冰の中華服の背中の文様が視界に飛び込んできたからだ。
真っ白な服地に施されているのは、昼間冰が買ったという即席で付けられるアップリケだろうか。背中全面に三頭の龍と蘭の花の刺繍で埋め尽くされている。
一番下に大きな蘭の花があり、その花から生まれ出でるようにして三頭の龍が天を目指して飛び立つように配置されていたのだ。何より驚いたのが、それぞれの龍の額部分にガラスかアクリル製と思われるアクセサリーが縫い付けられていたことだった。
アクセサリーの色は左の龍から白――つまりは透明のクリスタル。真ん中の龍には黄色、右の龍には黒のアクセサリーが縫い付けられていて、カジノのシャンデリアに照らされてキラキラと光っている。遠目から見れば宝石に見えるような輝きだ。
周は一瞬、息が止まりそうなほど驚かされてしまった。というのも、その配置は母親の香蘭が考えたという――周本人と父親の隼、そして兄の風――親子三人の背中にある彫り物を象ったものだということに気付いたからだった。
◆31
初めて冰を抱いた時に話して聞かせたことがある。それは、周親子三人の背中の彫り物についての経緯だ。
母親の香蘭が考えてくれた三人の”字”に基づいた龍の彫り物の図柄は、父の隼が黄色い龍、兄の風は黒い龍、そして弟の焔には白の龍。
黄龍、黒龍、白龍という”字”に合わせて三人が家族であるという絆を表した図柄だった。
それを話して聞かせた時に、冰は涙ぐみながら『あなたが家族に愛されていて自分もとても嬉しい。幸せだ』と言って喜んでくれた。今、彼の背中には、まさにその三頭の龍と蘭の花の刺繍が施されている。
親子を示す三頭の龍。その中でルーレットの盤にある色は黒だけだ。そして数字は三人を示すならば三になるのだろうが、ルーレットでは黒の三番という目はない。とすると、母親の香蘭を入れた四人家族の絆を意味していることになる。つまり賭ける位置は”黒の四番”だと云っているわけだ。
周の名である”焔”からすれば赤が想像に容易いが、それは既に張が賭けると決まっているので”赤”は有り得ない。
(冰……お前ってヤツは……!)
拉致され、マカオにまで連れてこられ、毒矢を打ち込むとまで脅されながら、この短時間の中で考えに考え抜いたのだろう。賭ける位置を打ち合わせる時間もなく、それでもこうして精一杯の方法でそれを伝えんとしてくれている。敵中にたった一人試行錯誤し、そしてこれから行われる勝負では、狙った位置に確実にボールをはめるという神技に挑もうとしている。
あの華奢で細い身体のどこにこんなパワーが秘められているというのだろうか。周は思わず熱くなった目頭から涙が潤みそうになるのを必死に堪えたのだった。
例え勝敗がどう転ぼうと、命をかけてこの愛しい恋人を守り抜く。
周の胸の内は揺るぎない決意であふれにあふれていた。
テーブルに着くと、冰はディーラーブースの中に入り、昼間買ったと思われる花束を手にして一礼をしてみせた。そして、その中から先ずは紅薔薇を一本抜き取って張へと差し出した。渡された一本の紅薔薇が打ち合わせた通り赤の一番を示しているのだと思った張は、事が予定通りに運んでいることに微笑する。
次に白い蘭が一本、今度は周に向かって手渡された。
「張さん、焔兄さん、お二人の幸運を祈って」
冰は穏やかな微笑みを見せながら、
「では始めさせていただきます。今宵の賭けはヨーロピアン方式のホイールにて一目賭けで行います。そして賭けていただくタイミングですが、私が盤にボールを放った後にお二人それぞれ賭ける位置を一箇所だけお申し出ください」
通常、ルーレットでは客が賭ける位置を決めてからディーラーがホイールを回すのが一般的だが、今宵の勝負では、冰の説明にあった通りディーラーがルーレットの盤にボールを投げ入れた後で賭ける位置を決めるというやり方で行うという。つまり、客が事前に賭けた位置をディーラー側で狙うことができない方式ということになる。しかも一目賭けなので、複数の箇所を選ぶこともできない。客にとってもディーラーにとっても乾坤一擲の大勝負となる。
このやり方を提案したのは、実に張の考えだった。万が一にも周と冰が共謀して裏切ることも踏まえての保険ということだろう。実に抜かりがない男である。
「では、入ります」
冰の白魚のような手がボールを掴んで張と周の前に掲げられる。
なめらかな仕草で盤が回り出す。
「ではお二人とも賭けベットを――」
冰からの言葉を受けて、まずは張が第一声を発した。
「私からでよろしいか? それとも周焔さん、あなたから賭けられるか?」
「いや、あんたからでいい」
「ではお言葉に甘えて、私は赤の一番に」
やはりか、張は予定通り赤の一番を狙ってきた。周は冰から手渡された蘭の花を見つめながら、運命の位置を確信した。
蘭の花は母親の香蘭を示す冰からのメッセージであろう。彼女が決めた龍の彫り物の図案を指し示す。つまり、香蘭も混じえた四人家族、黒の四番へ賭けろという決定的な合図だ。周は迷うことなくその場所を告げた。
「ノアールの四番」
広大なフロアが静寂に包まれる中、張は唇に微笑を、そして周は感情を見せない無表情で運命の瞬間を待った。
◆32
カラカラとボールが盤の上で跳ね、転がる。
ゆっくりと回転が止むと、ボールは黒の四番の位置に落ち着いた。
「ノアールの四番。焔兄さん、あなたの勝ちです」
その瞬間、場内は水を打ったように静まり返り、しばらくは誰一人として言葉を発するどころか身動きさえもとれずに、まるで時が止まってしまったかのような静寂に包まれた。
驚愕に蒼ざめた張が声を震わせたのは、それからしばらくしてのことだった。
「何故だ……まさか裏切ったのか……?」
張が冰を見上げたと同時に、フロア内に散らばっていた彼の手の者たちが懐に隠した武器を取り出そうとする動きが見て取れた。おそらくは毒矢か、あるいは実弾の入った銃器類だろう。
だが、その動きよりも一瞬早く鐘崎の厳しい声がフロア内にこだました。
「動くな! 既にあんたたちはこちらが包囲している。ここで騒ぎを起こしてカジノを蜂の巣にされたくはないだろう?」
と同時に張の手下たちがおずおずとしながらも一斉に両手を上げて降伏の姿勢を見せ始めた。彼ら一人一人の背後には、通常の客たちには分からないように腰の低い位置に拳銃が突き付けられていたからだ。鐘崎の言った通り、張の手下全員に周ファミリーの者たちがピッタリと張り付いていて、知らない内にカジノは完全に制圧されていたのだった。
驚いたのは張だった。自らの本拠地でありながら、既に敵中の四面楚歌状態に反撃の言葉もままならない。驚愕の中でようやくと発した言葉は、冰にすがるか弱くも細い声音だった。
「雪吹君……何故だ……まさかキミが……裏切ったというわけか……」
驚愕に揺れる張を見つめながら、切なげに瞳を細めて冰は言った。
「ごめんなさい、張さん……。あなたを騙すようなマネをして申し訳ないと思っています。ですが、俺にとって周焔は誰にも代えられない大事な人なんです」
「大事なって……それは確かに……キミにとっては兄さんだろうから……分からないではない。だが、キミはその兄さんよりも俺を選んでくれたんじゃないのか?」
何故、最後の最後で裏切るようなことを!
そう言いたげな張に向かって、今度は周が静かに口を開いた。
「兄さんじゃねえ。冰は俺にとってこの世で唯一無二の存在だ」
張は驚きに目を見張った。
「唯一無二だと……? どういうことだ……」
「俺たちは家族といっても兄弟という意味じゃねえ。互いに生涯唯一人と誓い合った仲だということだ」
「……まさか、そんな……」
張はうろたえた瞳で冰を見やった。
「ごめんなさい、張さん。本当なんです。俺、あなたに突然マカオに連れて来られた時は驚いたし、とても怖かった。でも、あなたは俺が思ったような悪い人じゃなく、とてもやさしかった……。だからあなたを騙すのは苦しかったです。あなたがもっと嫌な人だったらよかったと思ったくらいです……。俺のことをディーラーとして認めてくれて、たくさんの買い物にも快く付き合ってくれて……そんな張さんを裏切るのは本当に苦しかった。でも分かってください。こんなにやさしくしてくださった張さんを欺いても、俺にとってこの周焔は誰にも代えられない大事な人だということを……」
双眸を潤ませながら告げる冰の言葉には今度こそ偽りは微塵もない、張にも本能でそれが伝わったのだった。
◆33
「そうか……そうだった……のか」
張はヨロヨロとしながら立ち上がると、疲れた表情に弱々しい苦笑を浮かべてみせた。
「俺は何も知らずに……キミに横恋慕しようとしていたということか……」
だったら最初にそう言ってくれればよかったものを――そうも思ったが、よくよく考えてみれば、拉致まがいのやり方で有無を言う暇も与えず強引に冰をさらってきたのは事実である。周焔という香港マフィアの倅がいち早く追い掛けて来たのも、単に養子にした家族を取り戻す為だけではなかったということに気付かされる。
「俺は事を急ぎ過ぎたというわけだな……」
張はうなだれながらも自身の計画の甘さに苦笑が抑えられずにいた。
もっと時間を掛けて焦らずに情報を集めてからにすればよかったのか。冰というこの青年が、まさか香港を仕切るマフィア頭領ファミリーの大事な存在だということまでは突き止められずに拉致してしまったからには、それなりの制裁は免れないだろう。もしかしたらこのカジノも潰されてしまうかも知れない。いや、それだけで済めばいい方で、最悪は命を取られるなどということも有り得ない話ではない。周ファミリーからどんな報復が待っているのか考えるだけでも目眩がしそうだった。
「俺は大それたことをしてしまったんだな……」
張が諦めの言葉を口走ったその時だった。
カジノの入り口辺りがザワついた様子に、皆が一斉にそちらを見やると、何とそこには周の父親と兄が側近たちを従えながら姿を現したのに場内は騒然となった。
「済んだようだな」
父親の隼が重々しい声音で言うと、周と冰は揃って深々と頭を下げた。
「父上、ご心配をおかけ致しました」
隼と風は盗聴器を通して店内の様子をずっと聞いていたのだ。無事に勝負がついたことを受けて、頭領本人が出向いてきたというわけだった。
隼は張の前に立つと、怒るでもなく冷静な口調で淡々とこう言い放った。
「張敏だな。冰が我が一族の縁者ということを――知らなかったとはいえ、此度のことはたいへん遺憾だ」
「も……申し訳ございません……!」
「冰は俺の大事な息子に変わりはない。無事に戻ったとはいえ、けじめはつけさせてもらうぞ」
「……はっ」
「既にあんたの持っている資金ルートを一つ潰させてもらった。依存はないな?」
「……は」
資金ルートを潰されるのは非常に痛い。だが、それも致し方ないといえる。問題は――それだけで済むはずがないということだ。
次はどんな制裁を言い渡されるのだろう。頭の中を真っ白にした張を待ち受けていたのは、意外も意外、信じ難いような隼の言葉だった。
「ここマカオには我がファミリーの息の掛かった店がある。シャングリラを知っているか?」
シャングリラといえば張の店とも一、ニを争う大型カジノだ。むろんのこと知らないわけもない。
「存じております……」
「そのシャングリラの経営権をあんたに任せようと思うが如何かな」
信じ難い申し出に、張は驚いたように隼を見上げた。
◆34
「経営を任せるって……それはどういう……」
「言葉通りだ。あんたの経営手腕は大したものだ。むろん、やり方すべてを認められるかといえば、そうではないがな」
張の店は彼一代で築き上げたということだし、実際のところ手腕も実力もあるのは確かだろう。それと共に黒い噂もチラホラと聞かれるのも本当のことだ。ただ、腕一本でここまでのし上がるには、そうせざるを得なかったのだろうことも分からない隼ではなかった。
「だが――腕がいいのは大いに認める。これからは汚い手はすべて改め、王道を行けばいい。あんたのその腕でシャングリラを更に発展させてくれたらと思うんだが、どうだ?」
「頭領・周……」
張は身体中に走った震えを抑えられないまま、その場で床へと突っ伏すようにして頭を垂れた。
「あんたの手腕に掛かれば――潰した資金ルートの分などすぐにでも取り返せるはずだ。もちろん――バックは入れてもらうがな」
「は……! こんな大それたことをした私に……なんというご厚情……。言葉もございません。本当に許されるならば、私にでき得る限りの心血を注いで……全力でシャングリラをお預かりする所存です……!」
「よろしい。では細かい契約などは後程連絡する。今日のところはこれで失礼しよう」
隼は口元に微笑を浮かべると、その場を後にして行った。
本来であれば、張に報復をするだけで終わらせるのが当然かも知れない。だが、報復の後には恨みが生まれる。そしてまたその報復をと繰り返す堂々巡りの悪循環が待っているのだ。
そんなことに労力を使うのは隼の本意ではなかった。誤ったことをした者に対して、けじめはけじめとしてつけるが、それと共に救いの道も合わせて与える。相手を尊重する気持ちを忘れずに、良いところは大いに認めて、それを更に引き上げられればいい。相手が幸せになれば、いつかはそれが巡り巡って自分にも返ってくるのが自然の道理というものだろう。仮にし返ってこないにしても、互いに嫌な感情を抱き続けることはないはずである。同じ堂々巡りならば、報復という闇の感情を育てるよりも幸福を分かち合える仲になれた方がいいと思うわけだ。
実に隼はこのようにしてファミリーを大きくしてきたのだった。
ここで温情をかけてもらえた張は、彼自身の為、そして周ファミリーの為に精一杯シャングリラというカジノを大きくして生き甲斐を持つに違いない。張が生き生きとすれば、彼の家臣たちも同じように目標を持って気持ちよく過ごせるはずである。果ては周ファミリーにとっても明るい未来が切り開かれるというものだ。
これが香港を仕切るマフィア頭領の、頭領たる器の大きさであった。
◆35
そんな隼の後ろ姿を見送りながら、張は残った周と冰にも改めて床に頭を擦り付けて詫びと礼の言葉を口にした。
「周焔さん、雪吹君……本当に申し訳ないことをした。それにもかかわらず……頭領・周の身に余る光栄なご配慮をいただき……本当に言葉もありません……」
涙まじりの嗚咽と共に懸命に言う張に、冰も堪えきれない涙を拭いながら、そして周もやわらかな笑みでうなずいたのだった。
「張さん、またいつかあなたのお店に遊びに来させていただけるのを楽しみにしています」
冰が屈み込んで張の肩に手をやると、張はようやくと頭を上げた。
「雪吹君、ありがとう。そして……本当にすまなかった」
「いいえ……。いいえ! 俺の方こそ……ごめんなさい。でも張さんとこうしてご縁をいただけたことをうれしく思っています」
「雪吹君……キミは本当に……」
言葉を詰まらせながら張は続けた。
「周焔さん、あなたが羨ましい……。こんなにも寛容で素晴らしいお父上と……そして雪吹君のような伴侶を持たれているあなたが……。俺は今まで……店や邸を大きくする為だけにがんばってはきたが……いつも孤独と背中合わせだ。こんなにあたたかいご家族に囲まれているあなたが本当に……」
未だこぼれる涙を拭いながらの張の言葉は偽りのない本心なのだろう。そんな彼を見つめながら、周は言った。
「この店には、こんなに大勢の――あんたを支えてくれる人々がいるじゃねえか。それに――あんたにだっているはずだ。俺にとっての冰のような存在が――あんたにも必ず現れる日が来る」
「周焔さん……」
張は何度も首を縦に振りながら言った。
「そんな日が来ることを願って……がんばります。頭領・周からいただいたご厚情を励みに、今まで以上に精一杯――! お約束します!」
「ああ。楽しみにしてるぜ」
周はそう言い残すと、冰と共に店を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
帰りは父親の隼からの手配で、香港までの道のりにはフェリーが用意されていた。ヘリ数台で飛ぶよりも皆が一緒に乗船できるようにとの配慮からだった。
港までの車の中では周が片時も離さずといった調子で冰の手を握り締めていた。
「冰、よくがんばったな」
「白龍……心配掛けてごめんね。来てくれてありがとう……!」
「当たり前だ。お前は俺の命だからな」
すぐにも二人きりになって抱き締めたい思いに代えて、周は冰の髪に何度も口づけながら愛しい恋人が戻ってきたことに安堵していた。
冰もまた同様で、広い胸に頬を預けては今この時が夢ではないのだと実感する。
「白龍の匂いだ……。夢じゃないよね?」
「ああ、もちろんだ。もう二度と離さねえ」
「うん……。うん!」
運転手が見ていなければ、今すぐにでも唇を奪い合いたい。二人共にそんな気持ちを抑えるのがたいへんなくらいだった。
◆36
港に着くと、紫月が一目散といった調子で駆け寄ってきた。冰の無事を今か今かと首を長くして待っていたのだ。
「冰君! 冰君ー!」
「紫月さん! うわぁ、紫月さんも来てくださったんですね! ご心配お掛けしてすみません!」
「とんでもねえ! 俺りゃー今回は全く役に立ってねえけど……とにかく無事で良かった!」
紫月は半泣きといった調子で、心から案じてくれていた様子がありありと分かる。冰はそんな彼の思いがとても嬉しかった。
「紫月さんにも鐘崎さんにも、それに皆さんにも……こんなにたくさんの方々にご心配お掛けしてしまって、ご足労いただいて……何とお礼を申し上げてよいか……本当にありがとうございました」
船が動き出すと同時に、奪還に携わってくれた全員の前で、冰は周と共に深々と頭を下げたのだった。
「お父様、お兄様にまでお手間をお掛けして……本当に恐縮です」
隼と風の前でも心からの礼を言う。
「いや、本当に無事で良かった」
「冰は本当によくがんばってくれた! こんな不測の事態に冷静に対応して、しかも的確で見事な判断には感服だ」
拉致した相手がどういう人物なのかを冷静に観察して、見事な芝居で出し抜いてみせた。そして何よりカジノでの勝負では周に賭ける位置を自らの衣装の背中に施したメッセージで知らせ、神技といえる素晴らしい手腕で狙った位置にピタリとはめたのだ。お陰で銃撃戦などという大事にせずに張の心まで折って、と同時に彼を心酔させ、すべてを丸く収めてしまったのだから、皆が感服するのも当然だった。
「しかし――あれだな。冰が我がファミリーの一員だということを世間に知らせる為にも、一度きちんとした披露目を行った方がいいかも知れんな」
父親の隼が独り言のようにして呟く。今後また似たようなことが起きないようにするには、正式に冰の立ち位置を明らかにすべきと思ったわけだ。周一族の者と知っていれば、簡単に手は出しにくいからだ。
「焔、冰。もちろんお前さん方二人の意見を第一に考えたいが、どうだろう」
披露目をするということは、周ファミリーの次男坊の生涯の伴侶として正式に冰を迎え入れるということを指す。二人は男同士だから、結婚という形ではないにせよ、生涯を共にする伴侶ということで世間に公表するという意味なわけだ。
周と冰が共に暮らし始めてからまだ日は浅いといえるが、もしも二人の気持ちが固まっているのであれば公式に認めたいという父からの寛大なる提案だった。
「父上、そのような勿体なくも有り難いお言葉、心から感謝致します。冰とよく話し合って、改めてお返事をさせていただきます」
周は冰と共に真摯に頭を下げたのだった。
◆37
「うむ。急ぐことはない。二人でよく考えてくれればいい。ともかくはこんな事態の直後だ。お前さん方も疲れたろうから、今夜はゆっくりと休んでくれ」
隼の労いの言葉に続けて、今度は兄の風がうれしい知らせを告げた。
「今日は我がファミリーの経営するホテルの最上階に部屋を用意している。本宅に泊まってくれても勿論いいが、どうせお前さん方は二人きりの方が気兼ねがなかろう?」
クスッと笑いながら言う。
こんなことがあった後だ。きっと二人水入らずで過ごしたいのは想像に容易く、それ以上に、片時も離れていたくはないだろうとの配慮からだった。
そんな兄の気遣いをうれしく思いながら、周は冰と共に有り難くその厚意を受けたのだった。
ホテルは湾に面した高楼にあり、鐘崎と紫月や僚一、源次郎、それに周の側近の李と劉らの為にも同じペントハウスに部屋が取ってあった。鐘崎、紫月のカップルとはまたしても真向かいの部屋で、他の四人は少し離れた位置に用意されている。こんな細かいところまで完璧な兄の気遣いだった。
「それでは皆さん、本当にありがとうございました! おやすみなさい」
冰は皆に今一度礼を述べると、周と一緒の部屋へと向かった。
「うはぁ……すごい……! 湾が一望できる!」
大きなガラス張りの窓に向かって感嘆の声を上げた冰を見つめながら、周はふいと瞳を細めた。汐留の社で突然拉致されてから二晩が経った今、本当にいろいろなことがあったわけだが、これまでと何ら変わらない冰の様子に心から安堵する。こうして美しい夜景に感動することもできているし、本当に芯の強い、そして賢くやさしいところもそのままだ。周は自らも窓辺へと歩を向けると、そっと背後から華奢な肩を抱き包んだ。
「冰――」
「白龍……」
たった一晩離れただけなのに、もう随分と会っていなかったような不思議な気分だ。
「心配かけてごめんね……」
「――お前が無事でよかった」
本当はもっともっと、そう――たくさん話したいことがあるのに、どちらからもすぐには言葉が出てこない。強く激しく身体を重ね合いたい気持ちもあるが、いまはただこうして互いの温もりを感じながら同じ景色を眺めていられることが何よりもうれしかった。
しばらくそうして特には何を話すでもなく香港の夜の絶景を見つめた後、静かに周が口を開いた。
「この背中の紋様、これを見た時は本当に驚いた。正直なところ息が止まりそうになったくらいだ」
ずっと、背中から抱き包んだまま、時折髪に口づけを落としながら言う。
「白龍、気がついてくれたんだね。俺も白龍が黒の四番って言ってくれた時は……心臓が飛び出しそうになっちゃったよ。ああ、分かってくれたんだって……」
◆38
「正直なことを言っちまうと、これまでの人生で一番っていうくらい真剣に考えたぞ? 万が一にもお前のくれたメッセージを読み解けなかったらと思うと気が気じゃなかった」
「白龍、うん……俺もこんな伝え方で大丈夫なんだろうかって……白龍が黒の四番って言ったのを聞くまでドキドキだったよ」
「まさか……お前がディーラーで、俺が客として賭けるなんて……こんな展開になるとは想像もつかなかったからな。どこに賭ければいいかってのを打ち合わせることもできなかったしな」
「うん、そうだよね。俺もまたディーラーをやるなんて思ってなかったからさ」
「けど、冰。お前、さすがだな。俺に賭ける位置を知らせてくれた方法にも驚いたが、狙った位置に確実にボールを落としたことも信じられねえくらいだったぜ。この前の香港での勝負の時も紫月の賭けた位置にピタリとハメちまったし……神技なんてもんじゃねえな? あの時はお前、偶然だったなんて言ってたが、本当は偶然なんかじゃなかったんじゃねえのか?」
あの時、冰は黄老人が天国から力を貸してくれたんだと思いますと言っていたが、実のところそれは冰の謙遜であって、本当はものすごい技術を持っているのではないかと思ってしまう。彼は謙虚な性質だから、自らすごいだろうなどとは決して口にしないだけで、本当に神がかっていると思えるのだ。
だが、冰は恥ずかしそうに笑いながら首を横に振った。
「ううん、あの時は本当に偶然だったんだよ。今回とは盤の仕様がちょっと違ってたからさ」
「盤ってのはルーレットのホイールのことか?」
「うん、そう。実は張さんのお邸に連れて行かれた時さ、玄関を入ってすぐのところにルーレットのホイールが飾ってあったんだ。ちょっとアンティークな造りの、今では珍しいやつなんだけど。俺がそれをじっと見てたら、張さんが教えてくれたんだ。このホイールは今は殆どのカジノでは使われてない昔の仕様のものなんだって」
「要は古い型だってことか?」
「率直にいえばそうなるのかな。でも張さんにとっては初めてカジノに興味をもった子供の頃に使われてた思い入れのある盤なんだって。それで、張さんのお店では今でもわざと新しいのを使わずに、昔の仕様のものを使ってるって言ってた。案外、新品より高くついたりして、集めるのに苦労したとか言ってたよ」
「ほう?」
「でね、実は昔のルーレットの盤っていうのは、今普及してるものよりも溝が深くなっててさ。狙った位置にボールをハメやすい造りなんだよね。黄のじいちゃんたちの時代はそういった溝の深い盤が主流だったから、俺もそれでよく練習させられたんだよ。今はイカサマとかがしにくいようにって、溝が浅いものに改良されちゃったから。白龍の家のカジノも溝が浅いタイプだったから、あの時は本当に偶然だったんだ」
照れ臭そうにはにかむ様子が堪らずに愛しくて、周は思わず瞳を細めてしまった。
◆39
「だが、まあ……それにしたってお前の技は本当にすげえってことだ。張が興味を持つのも分かるってもんだ」
「白龍ったらさ」
「それに……俺たちが張の邸を訪ねた時の芝居も見事だった。毒矢のことを知らせてくれた方法も、あんな状況で咄嗟によく思い付いたもんだって、カネのヤツも源次郎さんも感心しきりだった。カネなんかお前がエージェントならめちゃくちゃキレ者になるだろうなんて冗談言ってたくらいだしな」
「ええッ!? ……鐘崎さんがそんなことを?」
「ああ。俺の側に置いておくのはもったいねえくらいだなんて言いやがって」
「あははは……! 鐘崎さんにそんなふうに思ってもらえたなんて俺も案外捨てたモンじゃないってことだったりして?」
「バカ言え! 誰が捨てたりするか。例えお前がキレ者だろうとそうじゃなかろうと、お前は俺にとって唯一無二の命だからな。絶対に離しゃしねえ」
「白龍ったら……さ。過大評価し過ぎだよ」
「そんなことはねえ。お前がどれほど大事かってことを――もっとちゃんと教え込んでおかなきゃいけねえな」
そう言った周の声音は甘みを帯びていて、次第に色香がまじっていく様子が抱き包まれている冰にもダイレクトに伝わっていく……。明らかな欲情の印でもあった。
そっと、背後から回り込むようにして唇が耳たぶを掠る。
「白龍……」
「ゆっくり休ませてやりてえが、できそうもねえな」
「ん、うん……俺も……!」
そのまま逸るようにベッドへと向かうと、どちらからともなく互いの唇を貪り合った。
「この服は大事に取っておかなきゃな。お前が全身全霊を込めて伝えてくれた何より大事な宝物だからな」
周は言葉通り丁寧にボタンを外していった。
「うれしかったぜ、冰……。この紋様を見た時は心臓が震えた。こうしてお前に触れて抱き締めている以上にお前を近くに感じた」
「白龍……」
「こういうのを言葉で表現するにはどう言えばいいんだろうな……魂と魂が触れ合ってるっていうのか、例え身体が離れていても誰よりも何よりも強く激しくお前と重なり合っていられる。そう、これだ。一心同体」
「一心同体?」
「ああ。俺たちは今、一心同体でいるんだと心からそう思った。例え言葉を交わさずとも、お前が俺を想ってくれているってことが確信できた。どんなにうれしかったか分かるか?」
そう、昼間は張の邸で兄弟喧嘩の芝居をし、言葉の上では張の元に残りたいと言い張った冰を、そのまま邸に残して帰るのがどれほど苦しかったことだろう。例えそれが芝居だと分かってはいても、少なからず心は揺れた。
冰というこの世で一番愛しい者を賭けの対象にし、万が一上手く取り戻せなかった時のことを想像すれば、全身を掻き毟られるようだった。ザワつく気持ちと闘いながら、最終的には戦争をしてでも取り戻すと決意を固めた。夜がくるまでのたった半日が千秋のように思えてもいたのだ。
そんな中で、冰が背中の紋様に込めてくれた龍の図柄の意味を知った時の気持ちは、言葉などでは到底言い表せない。身も心も打ち震えるような激しい高鳴りが全身を押し包み、仮にしこの場で召されても悔いはないと思えるほどの感動が貫いた。
そんな気持ちを込めて、周は今、腕の中に戻ってきた恋人を隅から隅まで実感すべく、ありったけの想いを込めて抱き締めたのだった。
◆40
そして、それは冰の方にしても同じだった。
限られた時間の中で懸命に考えた賭けの位置を知らせる手段。
はたしてこれで伝わるのだろうかという不安を抱えながらも、慣れない裁縫に一針一針心血を注いだ。その想いが実を結び、この世で一番愛しい男が『黒の四番』と告げた時の声を一生忘れることはないだろうと冰は思っていた。
そんな彼は丁寧に脱がした服をより一層丁寧にベッド脇のソファへと置く。背中の紋様を一生懸命に作った思いを尊重してくれているからだろう。その仕草に計り知れないほどの愛情を感じながら、胸の奥底からじんわりと大きさを増していく熱い気持ちが涙となって冰の双眸からあふれ出した。
互いに一糸纏わぬ姿になり、愛しい男が自らを抱き包む。その幸福感を噛み締めながら冰は言った。
「ね、白龍……我が侭言っても……い?」
「――? 何だ。何でも言え。どんなことでも聞いてやるぞ」
「ん、それじゃ……」
冰はモゾモゾと逞しい腕の中で起き上がると、周の硬くなり掛けた雄に向かって顔を埋めた。
「冰……!?」
「白龍を感じたいんだ……。多分、すごく下手だと思うけど……ごめん。でも……」
どうしてもしたいんだ!
たどたどしいながらも懸命に雄を口に含んで舌先を動かす。いつもは周によってもたらされる行為だが、自らそうしてみることで堪らない愛しさが込み上げた。
「……冰、無理をするな」
「無理なんかしてない……すごく……幸せ……なんだ。白龍にこんなふうに……させてもらえる自分が信じられないくらい幸せ……!」
頬を真っ赤にしながら瞳を潤ませてそんなことを言われれば、周もまた我慢などできようはずがなかった。
決して上手いとはいえない慣れない愛撫が、逆にとてつもない快感となって身体中を熱くする。
「お前……本当に俺を焔にする気か」
吐息まじりに周は言うと、股間に顔を埋めている愛しい者の髪をクッと掴んで撫で回しながら、ゾクゾクと押し寄せる快楽の波を味わった。
「冰……!」
それ以上待てずに周は華奢な腕を取ると、そのまま冰を自分の腹の上に抱え上げながらシーツの海へとダイブした。
そこから先はもうどんなふうに愛したのかも覚えていないほどに組んず解れつで激しく互いを求め合った。白い肌に真っ赤な口づけの跡を散らし、これ以上くっ付けないというくらいに身を寄せ合い、髪の一本から爪先まで、どこひとつ余すところなく貪っていく。張の邸を訪ねた直後に盗聴器から聞こえてきた会話を聞いた際に、半ば冗談で言った『戻ったら抱き潰す』という言葉の通りに、周は愛しき者を意識が遠のくまで愛し尽くしたのだった。