極道恋事情

10 恋敵1



◆1
「――本当にいいのか?」
「それは……俺の台詞だよ。本当にいいの?」
 週末の連休前の晩、夕食を終えてくつろいでいた周の部屋のリビングでの会話である。周焔と雪吹冰は大きなソファに横並びで腰掛けながら、風呂上がりの紹興酒を楽しんでいた。
「俺の方はいいに決まってる。香港の親父も継母も、それに兄貴夫婦も満場一致で快諾だしな」
「うん……それはもちろん、すごく有り難いんだけど。でも……図々しくないかな。いくら何でもお父様の養子にしていただくなんて……さ」
 二人が話し合っていたのは、冰が正式に周家の籍に入るかどうかということについてだった。
 恋人として付き合うようになってからの年月としては確かにそう長くはない。だが、出会ってからは十二年余りだ。その間、周はずっと冰を気に掛けていたし、意識としては既に他人ではないのだ。
「もちろん、お前が雪吹の名を大事に思うのは分かっているつもりだ。だが、俺としては籍を同じくしたいってのも事実だ。何なら字に”雪”の字を入れてもいいんじゃねえか?」
「白龍、うん、ありがとう。俺は名前が変わるのは何とも思ってないんだ。ただ……周家の籍に入れてもらうなんて図々し過ぎやしないかなって、それが心配なだけ。ご家族はいいって言ってくれても、周囲の目もあるだろうし……」
「そんな気遣いは必要ねえよ。肝心なのは、お前がこれからもずっと俺と一緒に生きてくれるかってことだけだからな」
「それはもう……! 白龍さえいいなら、俺はずっと側にいさせて欲しいよ」
「だったら決まりだ。周家の籍に入ってずっと俺の側にいろ」
 逞しい腕で肩を抱き寄せ、髪にそっと口づける。
「ん、うん……! ありがとう、白龍」
「ありがとうは俺の台詞だ。明日にも香港の親父に正式に返事をする。いいな?」
「うん」
 父の隼から二人を生涯の伴侶として披露目をと言われてからひと月余り、毎日のように話し合って周と冰はその厚意に応えることを決めたのだった。

 それから数日後、いつものように周と共に自宅のダイニングで夕飯をとっていた時だ。
「冰、今やってる締めの仕事を片付けたら一度香港に行くぞ。一応、来週の中頃にと予定している。披露目の日程や詳細について親父たちと打ち合わせをすることになってるんでな」
「あ、うん! お父様たちに言ってくれたんだ?」
「ああ、親父たちも手放しで喜んでくれてたぞ。継母なんか、もう大はしゃぎで大変だそうだ。俺はともかく、冰に着せる服は何にしようとか、引き出物はあれにしようとかこれがいいとか、実母と一緒になって毎日のようにあちこちの店を見て回っているらしい」
「お母様たちにまでいろいろとご足労掛けて……申し訳ないとも思うけど、でも……そんなふうに気に掛けていただけて嬉しいな」
 ポッと頬を赤らめる冰を、周は愛しげに見つめていた。
「あと数日後だからな。お前も支度しておいてくれ」
「分かった! 白龍の下着とか着替えの服とかも用意しておくね」
「ああ。頼んだぜ、奥さん!」
 ニッと頼もしげに微笑んだ周に、再び頬を染めてうなずく冰だった。




◆2
 そして次の週が明けた頃――。
 一日の仕事も一段落し、夕暮れの社長室で、冰は周と李らと共にティータイムをしていた。
「明後日からはいよいよ香港だ。今夜は接待の会食が入ってるんで、俺は李と劉と出掛けるが、今回の仕事は親父からの紹介があった客なんでな。カネも一緒だ」
「あ、うん! 聞いてる。俺の方は紫月さんと約束してるんだ。新しくオープンしたスイーツとパスタのお店がこの近くなんだって!」
「そうらしいな。カネがこっちに出てくるってんで、一之宮もお前に会いたいと言い出したとか」
「うん! 俺も紫月さんと話したいこともいっぱいあるしね」
 旦那組が接待に行っている間、”嫁”同士で夕飯でもということになったわけだ。
「帰りは少し遅くなると思うが、終わったら一之宮とウチで待ってろ。カネが迎えに寄るそうだからな」
「うん、そうする。白龍たちも気をつけて行ってきてね」
「ああ。お前もいい子にしてるんだぜ」
 季節は初夏――いつもと変わりのない穏やかなひと時であった。まさかこの直後にとんでもない事件が待っているなどとは、この時は誰も思わなかったのである。



◇    ◇    ◇



 周らが出掛けていった後、冰は紫月と共に新しくできたという店で夕食がてらスイーツ三昧を楽しんでいた。
「うはぁ……すごい! ほんとに珍しいスイーツがいっぱいですね! お店もすごく洒落てて綺麗!」
 冰が感嘆の声を上げながら、大きな瞳をクリクリとさせて店内を見渡している。この店はすべての席が個室タイプとなっていて、しかも会計はオーダーと同時に済ませてしまうという形式なので、二人は心置きなくプライベートなおしゃべりに花を咲かせられると気分も上々だ。
「明後日から香港なんだってな? 正式に氷川ン家の籍に入ることになったって、遼から聞いたぜ! 今回は披露目の打ち合わせなんだろ?」
「そうなんです。今から緊張してますよー」
「分かる分かる! 周家の次男坊の結婚式ってことだもんなー。招待客とかすごそうだ!」
 早速に大好物のチョコレートケーキを頬張りながら紫月が笑う。
「それを思うと……もう心臓バクバクしてきちゃって……!」
「はは! そう緊張することねえって。ドーンと構えてりゃいいさ」
「お披露目の宴には紫月さんたちも来てくださるんですよね? それだけが救いですよー!」
「そういや氷川の兄貴の結婚式ん時も招待してもらって行って来たんだけどさ。そん時の写真があったな。見る?」
 スマートフォンを取り出しながら紫月が訊く。
「わぁ! 見たいです!」
「お、あったあった! これだ! ついでに俺と遼の披露目のもあるぜ? 家にはちゃんとアルバムになってるのもあるから、今度来た時にでも見てくれよ」
「うわぁ、是非是非!」
 そうしてしばらくスマートフォンに釘付けになっていた――その時だった。個室の扉がノックされて、二人はそちらを振り返った。
「ん? 店の人かな?」
 オーダーした料理はすべて出揃っていたし、追加を頼んだわけでもない。何だろうと思っていると、現れたのは見知らぬ女だった。
 服装からみても店のスタッフではない。一般客が部屋を間違えて入って来たのだろうかと思った矢先――少々険のある表情でじっと品定めするようにジロジロと視線をくれながら、
「――どっちが雪吹冰?」
 ぶっきらぼうに放たれたひと言に、紫月と冰は驚きに目を見開いてしまった。



◆3
「どっちがって……。つか、あんた誰?」
 紫月が怪訝顔で問う。冰の方は驚きのあまりか、ポカンと口を開いたまま固まってしまっていたからだ。
 女は不機嫌をあらわにした雰囲気ながら、顔立ちだけは整っていて美人といえる。服装も一目で洒落た高級なものだと分かるような出立ちである。年齢は紫月らと同じくらいか、少し若いくらいだろうか。いずれにせよ、冰からみれば若干年上だろうと思える感じだった。
 冰を名指しするくらいだから、この女の方はこちらのことを知っているようだが、見覚えはない。しばし嫌な雰囲気が漂った後、紫月が再び女に問い掛けた。
「あのさ、俺ら――多分初対面だと思うんだけど」
 すると女の方もようやくと二言目を口にした。
「用があるのは雪吹冰に――よ。それで、どっちなの? あなた? それともそっちのあなたなの?」
 早く答えなさいよとばかりに苛立ち口調だ。
「……あの、雪吹は俺ですが」
 冰がおずおずと口にすると、女はますます額に険を浮かべながら、『ふーん』と高飛車に顎をしゃくってみせた。
「へえ、あなたが……。なによ、まだほんの子供じゃないの。こんな子のどこがいいのかしら」
 あからさまに喧嘩腰の言葉を投げつけてよこす。そんな様子に、さすがに黙っていられないとばかりに、紫月は眉根を寄せてしまった。
「あんた、失礼じゃねえか? いきなし割り込んできてさ、冰君に何の用か知らんけど、自己紹介くらいしたらどうよ」
 やれやれ――と、呆れ気味に肩をすくめながらそう促す。すると、女はとんでもなく驚くようなことを言ってのけた。
「アタシは唐静雨。周焔の恋人よ」

「え――ッ!?」
「はぁッ!?]

 冰と紫月は同時に大声を上げさせられてしまった。
「周焔の恋人だ? ウソこくなって!」
 硬直したまま動けずにいる冰に代わって紫月が対面を買って出る。
「嘘じゃないわ! まあ……正しくは元恋人……だけど」
「元恋人だ?」
「そ、そうよ! 焔とは大学が一緒で、ず……ずっと……そう、ずっと付き合ってたん……だから!」
 何とも歯切れの悪く口ごもりながらも語気を強めて言う。
 まあ、周とてそれなりの年齢だ。いい男なのは万人が認めるところだし、過去に付き合った女の一人や二人はいたとしてもさして驚くことじゃない。だが、冰にとってはやはり心穏やかではいられないのも仕方なかろうか。すっかり硬直状態のまま言葉にもならないといった様子に、とにかくは紫月が代わりに受け応えをすることにしたのだった。
「で、その元彼女さんが何の用なのかな?」
「決まってるじゃない! 今すぐ焔と別れてちょうだいって言いにきたのよ!」
 女は上から目線で高飛車にそう言い捨てた。



◆4
「別れるって……あんたねえ」
「あの焔が男と付き合ってるだなんて、何の冗談かと思ったけど……それがこんな子供だなんて信じられない! あなた、噂じゃ焔の秘書をしてるっていうじゃないの! しかも……今度彼と結婚まがいのお披露目をするんですって? それこそ冗談じゃないわよ! どれだけ図々しいのかしら!」
「ちょっ……待て待て! いったいどこでそんな話聞いて……」
「とぼけたって無駄よ! 香港の社交界じゃもっぱらの噂になってるそうじゃない! アタシは今は日本暮らしだけど、香港の女友達に聞いたんだから確かよ! あの周ファミリーが養子を取ることになったって……。しかもただの養子じゃなくて、焔の生涯の伴侶だなんて……納得できるわけないわよ!」
 金切り声で女は騒ぎ立てた。
 とにかくは彼女を落ち着かせて、言い分を聞くしかない。冰の胸中が穏やかでないのは百も承知だが、少しでも情報が多い方が後で周に確かめる為にもいいと思った紫月は、なるべく感情を逆撫でしないように話を聞き出すことにした。
「あんた、こっちに住んでるってわけか? 元々は香港なんだろ?」
 女の方も何か話さずにはいられないのか、それとも自分がどれだけ冰よりも勝っているのかということを誇示したいのか、こちらから尋ねもしないことまで饒舌に語り始まった。
「アタシが日本に来たのはこの春からよ! 焔がこっちで起業したって聞いてから、彼を追い掛けてくる為に苦労して日本語だって覚えたんだから! やっと就職が決まって、引越し先を探すのだって本当に大変だったわ。でも焔に会う為だもの。いろんなこと犠牲にして頑張ってきたのよ! それで……ようやくこっちでの生活にも慣れて……いざ焔に会いに行こうと思ってた矢先だったのに……」
 つまり、そんな中で周と冰の縁談話を耳にしたというわけか。
「だったらさ、まずは氷……いや、周焔本人に打診するべきじゃねえか? いきなり冰君に向かって文句言うのは筋違いだろうが」
「そんなこと分かってるわよ! 焔に会いに彼が経営してるっていう会社に行ったけど追い返されたの!」
「追い返された?」
「アポイントはあるかとか、仕事以外のプライベートは取り次げないとか……何なの、あの受付の女! とりつく島もない門前払いだったわよ!」
 女が捲し立てるのを聞きながら、冰は自身の中で必死に気持ちを整理していた。

(この人……随分難しい言い回しを知ってる……。必死に日本語を勉強したって言ってたけど、本当にすごい努力をされたのかも)

 『とりつく島もない』とか『門前払い』とかの言葉がすんなり出てくるということは、外国人が話すにはかなり慣れていないとなかなか難しいのではないかと思えるからだ。
 それに、受付嬢に追い返されたということだが、もしかしたらあの矢部清美あたりが応対したのかも知れないと思った。彼女ならありそうだ。



◆5
 周の元恋人ということについては気持ちが穏やかではないが、この女性も周を想う気持ちは真剣なのだと思えた。
「あの……よろしければ俺が彼に話しますんで、お会いになりますか? 今夜は仕事の接待があって出掛けていますが、また後日にでも時間を作ってもらいますから……」
 何だか気の毒に思えて、気が付けば冰はそう口走っていた。ところが、女の方は冰からそう言われたことが癇に障ったのか、額の剣を更に険しくすると、
「何よ……あなたが取り次いでやろうっていうの? アタシのことを憐んででもいるのかしら!?」
 キッと睨みを据えながら暴言とも思えるようなことを口にした。
「そんなつもりじゃ……」
「恋人面しないでよ! ほんっと、図々しいんだから!」
 さすがにこれでは冰が気の毒だ。紫月は思わず「おいおい――」と二人の間に割って入った。彼が他人を憐れんだり蔑んだりする性質でないことはよく知っているからだ。
「冰君はあんたが思ってるような嫌な人じゃねえって! とにかく落ち着けよ」
「指図しないで! っていうより……あなたいったい誰よ!? さっきっからお節介だわ!」
「誰って……俺は氷……いや、周焔とこの冰君の友人だって」
「へえ、そうなの。友人――ね。だったら、あなたが焔に取り次いでよ。とにかくこの子の世話になるのだけは絶対にご免だわ!」
 冰を睨み付けながらあからさまにプイとそっぽを向いた女に、やれやれと肩をすくめる。
「まあ、とりあえず周焔に報告しないわけにもいかねえだろうから?」
 紫月が呆れ気味にそう言った時だった。またしても突如個室の扉が開かれたと思ったら、今度は見知らぬ男が三人ほど、ドヤドヤと割り込んできた。見るからにガラの悪そうなチンピラ風情である。
[見つけたぞ、このアバズレ!]
[もう逃がさねえぞ! 覚悟しやがれ!]
 広東語らしき言葉でそう言い放ち、あっという間に女を取り囲んで羽交い締めにしてしまった。
[きゃあッ! 何するのよ! 離して! 離してったら!]
[うるせえ! ギャアギャア騒ぐな、クソ女が!]
 突然の騒動に紫月も冰も唖然である。
[ちょっ……! 何なんだ、あんたら]
 紫月がたどたどしいながらも広東語でそう叫んだが、男たちの目当てはどうやら女だけのようだ。
[てめえらにゃ用はねえ! 怪我したくなかったらおとなしくしてろ!]
[嫌ー! 離して! 離してよッ!]
 女は無我夢中といったように暴れまくっている。
「チッ……仕方ねえ。とりあえずこの場は逃げるっきゃねえな」
 紫月は言うと同時に、一番近くにいた男の脚を蹴り飛ばして、よろけた隙に鳩尾に拳を入れた。
[ぐぁッ……!]
 一人目をその場に沈めると、立て続けに二人目の首筋を薙ぎ払うように一発を見舞う。
「冰君、逃げろッ! ここを出るんだ!」
 冰はコクコクとうなずくと、
「あ、あなたも……早く!」
 とっさに女の腕を掴んで部屋を飛び出した。すぐ後からは三人目の男も沈めた紫月が駆けてくるのを確認しながら、一目散に店を出て全速力で夜の街を走り抜けた。



◆6
 どこをどう走ったのか――はっきりとは分からないながらも、見慣れた川と橋が見えてきたところで冰はようやくと歩をゆるめた。女の腕を未だ握ったままだったことに気付いて、とっさに離す。紫月もすぐに追いついて来た。
「はぁッ、くそ……! 冰君、無事か? いきなし全力疾走させられちまったぜ……」
 ゼィゼィと息を荒くしながら、川縁りのベンチに大の字になってなだれ込む。
「お……お陰様で俺はこの通り無事です。紫月さんがいなかったらたいへんでした……!」
 紫月は道場育ちなだけあって武術には長けている。しかも裏の世界で極道を張っている鐘崎の伴侶だ。男三人くらいの相手なら朝飯前なのだ。
「でも……さすが……紫月さんですね! 相手の人、三人もいたのに……あっという間に片付けちゃって……」
 まだ息の荒いままで冰が言う。走ったからというのもあるが、突然の出来事から何とか逃げ切れた安堵感と共に、今頃になってバクバクと心拍数が上がりだしたわけだ。
 そんな二人を横目に、女が恐る恐るといった調子で訊いてよこした。
「まさか……殺したの……?」
「ああ?」
「片付けたって……さっきの男たち……」
「まさか! 峰打ちよ、峰打ち! 殺るわきゃねえべ」
 全速力で走った直後で暑いわけか、紫月がシャツをバフバフと揺らして風を送り込みながらそう答える。それを聞いて、女は少しホッとしたように深く息をついた。
「つかさ……、あいつらいったい誰よ? あんたを捜して来たようだけど、知り合いなわけ?」
「……知り合いっていうか……」
「しゃべるのも広東語だったろ? つーことは、香港から来たってのか?」
「……あの男たちは……借金取りよ」
 言いづらそうにしながらも、女がおずおずと暴露した。
「はぁッ!? 借金取りだ?」
 紫月はむろんのこと、冰もめっぽう驚かされてしまい、唖然としたように彼女を見つめてしまった。
「何よ……そんな蔑んだ目で見ないでよ……!」
「や、別に蔑んでなんかねえけどよ」
「……仕方なかったのよ! 焔に似合いの女になる為にはお金が必要だったの!」
「似合いのって……」
「彼に会うのは十年ぶりくらいだもの……。しかもあんな大きな商社の社長にまでなってる彼に……引けをとらないようにって思って、服も靴も鞄も……それに住む部屋だって美容にだってお金が掛かったわ! 彼と再会して、もしも部屋に来てくれるような流れになった時に恥ずかしくないように……少しでもいい部屋に住みたかったのよ!」
 それで借金までして体裁を整えたというわけなのか。
「日本語の勉強や……就職試験や、他にもいろいろ。アタシの家は焔の家と違って大金持ちってわけじゃないし、ごく普通の家庭だもの。お金なんていくらあったって足りなかったわ」
 涙目になりながらも気丈に言う彼女に、紫月も冰もしばし何と声を掛けていいやら分からなかった。



◆7
「あんたの気持ちも分からねえじゃねえけどよ、周焔ってのはそんな……服とか部屋とかの外観だけで人を見るヤツじゃねえと思うけどな」
 紫月に言われて女は顔をしかめた。
「男のあなたには分からないわよ! 誰だって綺麗な女に興味を引かれるでしょうし、特に彼は容姿もお金も何でも揃ってる一流の男だもの。普通の女じゃ相手にしてくれっこないわ」
「そりゃ、あんたの思い込みだろ?」
「それなのに……! こんな子供みたいな若い……しかも男と付き合ってるだなんて信じられない! あなた、いったいどうやって焔に取り入ったのよ!」
 今度は矛先を冰に向ける。
「冰君は別に取り入ったわけじゃねえよ。ま、とにかくいつまでここに居たって仕方ねえ。車を拾って帰った方が身の為だな」
 確かにその通りだが、冰にはこの女のことが気に掛かってもいて、気付けば少々節介なことを口走ってしまっていた。
「あの……さっきの男の人たちはあなたのご自宅もご存知なんじゃないですか? よろしければ一緒にウチにいらっしゃいませんか?」
 このまま彼女を一人で帰してまた襲われたらと思うと、ついそんな心配に駆られてしまったからだ。それに、この女のことを周に黙っているわけにもいかないし、それならばいっそこのまま一緒に連れて帰るのがいいのではないかと思ったのだ。
 ところが女の方は意外にも躊躇しているようだった。
「嫌……よ。そんなの……」
 冰に世話になることがプライドに障るのだろうかと思えたが、そうではなかったらしい。
「借金取りに追われてるなんてことが焔に知れたら……恥ずかしくて生きていけない……。絶対に嫌よ……!」
 だが、冰が言うようにこのまま自宅に帰ったとて、すぐに彼らに捕まってしまうだろう。それはそれで困る。どうしていいか分からないとばかりに困惑状態の女に、冰は言った。
「さっきの男たちのことは黙っていると約束します。俺たちからは何も言いませんから。とにかくまた彼らが追って来る前にここを去った方が無難だと思います」
「でも……」
「とりあえずウチに行けば周にも会えますから。後のことはそれから考えましょう」
 冰の言葉に紫月もうなずいた。
「冰君の言う通りだ。いつまでここでグズグズしてたら危険だ。とりあえず車を拾おう」
 川沿いの遊歩道から車道を指差しながらそう促す。女は未だに迷っている様子だったが、二人にそう言われて渋々一歩を踏み出した時だった。
 突如、植え込みの陰から現れた男が紫月の背後から襲い掛かり、スタンガンを浴びせたのだ。
「……ッぐ」
「紫月さんッ!?」
 冰が紫月を振り返った時は、既に彼が意識を失って地面へと倒れ込む瞬間だった。と同時に自身の背中にも鈍い衝撃を感じた時には、冰もまたスタンガンの餌食となっていた。



◇    ◇    ◇






◆8
 一方、周の方は接待の会食が済み、鐘崎や李らと共に汐留の邸に戻ってきていた。時刻は既に夜の十一時になろうかという頃だ。帰りを待っていた真田が、少々心配そうな面持ちで出迎えた。
「お帰りなさいませ、坊っちゃま方」
 周と鐘崎の姿を見ながらも、何やら所在なさげにキョロキョロとしている。
「あの……冰さんと紫月さんはご一緒ではないのですか?」
 二人が周たちとは別々に夕飯に出掛けたことは真田も知っていたのだが、当然周たちよりも先に帰って来ると思っていた為、気になっていたのだ。もしかしたら途中で周らと合流して、一緒に帰って来てやしないかと思ったようだった。
「何だ、あいつらはまだ帰ってねえのか?」
「ええ。……お二人で盛り上がっていらっしゃるのでしょうか?」
 それにしても少し遅くはないかと心配顔である。
「……ったく、仕方のねえ奴らだな。どれ、ちょっと電話してみるか」
 周が苦笑しながら電話をかけたが、通じない。どうやら電源が落とされているようだ。
「こっちもダメだ」
 鐘崎も紫月を呼び出せど、やはり電源自体が落ちているようだと言った。
 まさかとは思うが、また何かの事件にでも巻き込まれたのだろうか。嫌な予感に、周はすぐさま冰の現在地を確認すべくタブレットを立ち上げた。
「……おかしい。GPSもダメだ。カネ、お前の方はどうだ」
 紫月もGPS付きのピアスをしているので確かめてもらう。
「紫月のヤツのも反応がねえ。何かあったのかも知れない」
 鐘崎の言葉を受けて、周はすぐに李と劉を呼び寄せた。
「帰って早々すまねえ。冰と一之宮、二人のスマートフォンと腕時計のGPSが反応しねえんだ」
 李らも驚いて、もう一度メインの別のパソコンを立ち上げて確認を急ぐ。
「やはり繋がりません!」

 深夜のダイニングが一気に緊張感に包まれた。

「とりあえずあいつらが出掛けた店を当たってみよう。この時間ならまだ開いているはずだ」
「かしこまりました。すぐに車を手配します! 念の為、劉はここに残って冰さんたちのGPSを再度追ってくれ。何か新しい状況が掴めるかも知れない」
「承知しました!」
 周と鐘崎は、李と共に冰たちが行っていたというスイーツの店へと急いだ。

 店は閉店間際だったが、まだ開いていて店長が出てきて応対してくれた。今夜何か変わったことがなかったかと確かめてもらったところ、冰らのことを覚えているという店員が見つかった。
「ええ、実はちょっと気になったお客様がおりまして。随分と慌てて店を出て行かれたのでよく覚えております」
「それは何時頃だったか分かるか?」
 周が訊くと、店員は『はい』と言ってうなずいた。
「確か……八時半頃だったと思います。ウチの店は事前会計ですので、お客様がお好きな時間にお帰りになるのは特に問題ないのですが、それにしても血相を変えてというくらいのご様子だったので、何だろうと思っていたんです」



◆9
「防犯カメラがあれば、記録を見せてもらいたいんだが――」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
 店長に案内されて事務室へと向かう。
「当店はすべて個室仕様となっておりますので、各部屋にカメラを置かせていただいております」
 新しい店だし、昨今の防犯事情からか、よく設備が整っていることは幸いである。映像を追っていくと、冰らが入店した時から個室での様子までが詳しく記録されていた。
「ここまでは特に何もないようだな」
 二人仲良くおしゃべりに花を咲かせながら、パスタやケーキなどを頬張っている様子が映っている。早送りで見ていくと、途中で見知らぬ女が二人のいる個室を訪ねて来た様子が映り込んできた。
「女か……。いったい誰だ?」
 一見したところ、なかなかに洒落たスーツ姿の女性である。髪はショートで、細身の若い女のようだった。
「――後ろ姿だけか。顔は分からねえな」
 カメラの位置からは彼女の後ろ姿だけしか見えなかったが、反対に紫月と冰の表情ははっきりと映っている。二人共、怪訝そうな顔付きでいることから知り合いではなさそうだ。冰はひどく驚いたような感じで、女と会話をしているのは主に紫月の方であった。
「すまない、今のところを巻き戻してスローで見せてもらえるか?」
 鐘崎が紫月の表情を真剣に見つめている。
「あ、ん、た、誰?」
 女の頭が左右に動くので部分的にではあるが、紫月の表情がはっきりと映っている時の口元の動きから読唇術で会話を読み取っているのだ。
「どうやら知らねえ女のようだな」
 少しずつ映像を送ると、驚くような会話がなされていることに気がついた。
「ここだ。ちょっとスローでもう一度回してくれ」
「はい」
「元、こ、い、び、と、だ? ――と言っているようだ」
「元恋人だと? いったい誰のだ」
 周も怪訝そうにして画面に食いつく。
「さあ……話の流れが分からねえことには何とも言えねえが。ただ、二人の表情から察すると冰がえらく驚いた感じに見えるな。紫月のヤツは余裕がありそうだから、ひょっとすると氷川、お前の関係者じゃねえのか?」
「――俺の?」
「この女に見覚えはねえのか? 以前に付き合ったことのある女とか」
「いや――、俺は日本に来てから恋人を作ったのなんざ冰が初めてだ」
「じゃあ香港にいた頃はどうだ? 向こうで付き合ってた女に心当たりはねえのかよ」
 周はしばし考え込みながらも、マジマジと画面を見つめていたが、思い当たらないようである。
「俺が香港にいたのは学生の時分までだが――そもそもこんな髪の短い女に心当たりはねえがな」
「おいおい、髪型だけで決めるなよ。元は長かったがカットしたってこともある」
 鐘崎が随分と執拗に訊いてくるので、周はますます怪訝な顔つきで眉根を寄せてしまった。
「てめ、どうしてもこの女を俺の元恋人にしてえってのか? それよりてめえの方こそどうなんだ」
「俺に心当たりはねえ。男であれ女であれ、例え後ろ姿でも一度関係を持った人間なら見分けはつくからな。ああ――誤解のねえように言っておくが、関係ってのは……寝たとか寝ないとかの意味じゃねえぞ?」
 片眉をしかめながら苦笑気味にそう付け加える。
 まあ、鐘崎の仕事柄から考えればそれも嘘ではないのだろう。幼い頃から常に危険と隣り合わせの環境が、必要以上に人間を見分ける目を養ってしまっているからだ。



◆10
 周とて似たような感覚は持っているつもりだが、それでも鐘崎と比べると若干そういった部分は鈍いといえるかも知れない。
「香港にいた頃と言われてもな……。まあ、メシを食ったりどこかに出掛けたりってなことはあったが、そんな些細な付き合いまで入れりゃ数え切れねえしな。だが、冰のような恋人なんてもんは特にいた覚えはねえが――」
 頭をひねらせている周の傍らで、鐘崎は呆れたように肩をすくめてしまった。
「数え切れねえとはお言葉だな。いったい何人の女を泣かせてきたんだか――」
 鐘崎は肩をひそめて苦笑気味だ。
「バカ言え。泣かせるほど深い付き合いなんざしてねえって話だ」
 周も多少ムキになって反撃に出るが、さすがに今は冗談を言い合っている余裕はなさそうである。もしも本当に自分の過去絡みならばと思うと、より一層冰のことが心配に思えるのだろう。
「てめえにそのつもりがなかったとしても、相手にとっちゃ”彼氏”ってな感覚だったのかも知れん」
 だが、まあここで周の記憶を辿っていても埒があかない。防犯カメラの続きを見ることに専念した方が良さそうだ。
 鐘崎が画像を送っていくと、今度はまたもや見知らぬ男が三人ほど、かなり図々しい感じで押し入って来る様子が映し出された。いわばガラの悪いデカい態度といえる。女を羽交い締めにして罵倒を繰り返しているようだ。その映像を確認した瞬間に、やはり冰たちが何らかの厄介事に巻き込まれたのだと察知できた。
 ――と、その直後だった。紫月が男たちをねじ伏せて、冰は女を連れてその場から逃げ出して行く姿が確認された。別のカメラの映像には店内を走り抜ける様子もしっかりと映っていた。だが、残念なことにここでも後ろ姿だけで肝心の顔は確認できない。時刻は店員が証言した通りで、八時半頃であった。
「この映像を拝借できますか?」
 李がすかさず訊くと、店長は『どうぞ』と言って快諾してくれた。
「これを劉に送って男たちの割り出しを急ぎます。それと共に周辺の監視カメラから行き先を追えるところまで追ってみますので――」
 李は映像を送り終えると、一足先に社屋へと戻って行った。
 残った周と鐘崎は、李からの解析を待って実際に冰らが通ったと思われる道筋を辿ってみることにする。その結果、彼らが川べり付近まで走って逃げたことが分かってきたが、そこから先の足取りは掴みきれなかった。
 一先ず社に戻ることにして、防犯カメラの映像からガラの悪い男たちの素性を突き止めることを急ぐ。店内での様子から、彼らが広東語で会話しているのだろうことまでが明らかになってきた。
「どうやら目的は女のようだな。男の一人が紫月らに向かって『てめえらに用はねえ』と言っていることだけがはっきりと分かる。広東語ということは――こいつらは香港から女を追って来たってことか」
 では何故、冰と紫月は女を連れて逃げたのだろうか。
 やさしく人の好い性質の冰のことだ。単にか弱い女が一人、男たちに襲われそうになっているのを見逃すことができなかったというわけか――。それとも、この女が少なからず捨て置けない存在であると知ったからなのか。
 女は、やはりどこかで自分と繋がりのある相手なのかも知れない――周はそう思い始めていた。



◆11
「カネの言うように、この女は何らかの形で俺と縁があるのかも知れねえな……」
 元恋人といわれても正直なところ思い当たらないが、冰がわざわざ自ら危険を冒してまで連れて逃げたところからすると、そう考えるのが妥当だ。
 きっと心を乱しながらもこの女を庇わずにいられなかったのだろう。今現在、彼がどこでどうしているのか、どんな気持ちでいるのかということを想像すれば、周は居ても立っても居られない心持ちだった。
 ただひとつ救いがあるとすれば、冰の側に紫月がいてくれるということだ。
「カネ、すまねえな……。俺のことで一之宮まで危険に追い込んでしまっているかも知れん」
 自責するように言う周に、鐘崎は首を横に振ってみせた。
「まだお前のせいと決まったわけじゃねえ。仮にそうだとしても気に病むんじゃねえ。冰のことは心配だろうが、紫月も一緒なのは不幸中の幸いだ。俺とお前で必ずあいつらを救い出そう」
 力強い言葉が心に沁みる。鐘崎とて紫月も行方不明になっているこの現状では、心配なのは変わらないはずだが、冰の側に彼がいるから幸いだとまで言ってくれる。それだけ自分の伴侶に対して自信があり、彼ならばある程度どんな事態に陥っても、その時々で一番安全と思える対策が取れると信じ切っているからこその言葉なのだ。
「ああ、二人共に……ぜってえ無事に取り戻す――」
 周の短いひと言には渾身の思いが込められていた。



◇    ◇    ◇



 その頃、紫月と冰の方は既に日本を離れた機上の人となっていた。
「……さん、……月さん! 紫月さん!」
 ユサユサと肩を揺さぶられる感覚で、紫月はぼんやりと目を開けた。まぶたの向こうには真剣な顔つきでこちらを覗き込んでくる大きな瞳が揺れている。
「……? ん、あれ……? 俺、どうした……んだ?」
 次第に意識がはっきりしてくる毎に記憶も蘇ってきた。
「――ッ!? そうだ! 冰君……! ……って、痛っ……!」
「紫月さん! よかった、気が付いた! あ、急に動いちゃダメです!」
 ガバッと起き上がろうとしたところを必死の勢いで止められた。
「そういや俺ら……確かあの川っぺりで――!」
 そう、スタンガンのようなもので急襲されたことを思い出したのだ。
「……けど、冰君が無事で良かった。あの状況じゃヘタしたら離ればなれってことも有り得たからな」
「ええ、俺もそれだけは安心でした。実は俺もスタンガンを食らったようなんですが、紫月さんの方がマトモに入っちゃったようなんです。俺のは擦った程度だったんで、かろうじて意識だけはあったんですよ」
「そうだったのか……。つか、女は? 例の女はどうした?」
 側には冰だけで、肝心の女の姿が見当たらない。狭くて薄暗いが、ザッと見渡したところベッドやソファなどがある小さな部屋といった感じの場所にいるらしかった。
「つか、ここ何処なんだ?」
「それが……驚かないでくださいね。多分ですが、ここは飛行機の中です」
「飛行機……!?」
 冰が声を潜め気味で言うので、一瞬大声を上げそうになったのをグッとこらえて小声で聞き返した。
「俺は……意識はあったんですが、身体が思うようにならなかったんで、ずっと倒れたふりをして様子を窺っていたんです。あのレストランに押しかけて来た男たちは、やはり例の女の人を追って香港からやって来たらしいことが分かりました」
「やっぱ香港絡みか――」



◆12
「ええ。それで――あの女の人ですが、どうも彼らの話ではただの借金取りに追われているというわけではなさそうなんです。嘘か本当か知りませんが、あの男たちは彼女が日本に引っ越してくる前に勤めていた香港の会社の人間のようです」
「じゃあ、奴らは会社員ってことか? どっちかっつったら……チンピラ風情の物騒な連中に見えたがな」
 会社員だというなら、それはまたえらく話が食い違うではないか。例の女が嘘をついたのか、それとも男たちの言うことがデタラメなのかは分からないが、どうにも腑に落ちない。だが、冰の聞いた話によれば、もっと驚くようなことが明らかになったというのだ。
「彼女、その会社で経理を担当していたらしいんですが……会社の金を横領したんだとかって……」
「横領だ……!?」
 思わず大声が出そうになって、慌てて潜める。
「男たちはそう言っていました。金が返せないなら彼女自身に働いて返してもらうとかで……身体を売る闇市に堕とし込むとか言ってて……」
「人身売買か――。まあ、手っ取り早く稼がせるには……一番に思い付きそうな方法だな」
「なんだかすごく怖いことを言ってて……裏ビデオに出すとか、演技ができないなら強姦ものにするとか……」
 冰が声を震わせながら眉をしかめている。紫月も溜め息を隠せなかった。
「――で、女の件はだいたい分かったが。何だって俺らまで一緒に拉致られちゃってんだ?」
「ええ、それについては彼らも扱いに困っていたようです。ただ……顔を見られた以上放ってもおけないらしくて。それどころか、容姿からして男色好みだから、一緒に連れて行って売っちまえばいいとか……そんなことも言ってて」
「はぁ!? おいおい、俺らまで売り飛ばされようとしてるってわけか? ンなの、遼と氷川の耳に入ったら、それだけで血の海と化しそうだ……」
「……そういう使い道もあるっていう仮の話のようでしたけど……。俺と紫月さんのことは、とにかく向こうに着いて彼女が勤めていた会社の社長に会ってから相談するとかって」
「ふぅん。なら、まだ身売りさせられるってのは決定じゃねえってわけな?」
「多分……」
 落ち込む冰の肩に腕を回してなだめながら、紫月は元気付けるように微笑んでみせた。
「ま、心配すんなって! 今頃は遼と氷川も俺らが消えたことに気付いてっだろうから。じきに助けが来るさ!」
 モゾモゾと上着のポケットを弄りながら、
「そういやスマホは?」
「取り上げられました……」
「はぁ、やっぱしか。ま、そうだろな。けど、コイツは無事だ」
 紫月は自身のピアスを指差しながら、ニッと白い歯を見せて笑った。
「GPS付き愛のシルシさ。冰君のもちゃんとあるじゃね?」
 今度は冰の腕時計を指してウィンクする。



◆13
「ええ。さすがにこれまでは気が付かなかったようです」
「つか、あいつら――さらった相手が悪かったわな。冰君の正体知ったら後悔するぜ、きっと!」
 香港に住む者ならば、裏社会を仕切るマフィア頭領の名を知らぬ者はいないだろう。冰が周ファミリーの縁者だと知れば蒼くなるに違いない。
「そン時の奴らの吠え面を想像すっと――うーん、笑えちゃうわな」
 場にそぐわない悠長な台詞だが、これが紫月なりの励ましであり、少しでも明るい気分にさせてくれようとしているのが分かるので、冰はそんな気遣いが心底嬉しく思えるのだった。
「ま、心配には及ばねえ。とりあえずおとなしく様子を見て、遼たちの助けを待とう。どこかで隙をついて逃げられそうなら迷わず脱出だ」
「――はい」
「冰君、俺から離れるんじゃねえぜ!」
「ありがとうございます……。あの、紫月さん……?」
「ん?」
「あの……すみません、巻き込んじゃって」
 申し訳なさそうに謝った冰に、紫月は瞳を見開いてしまった。
「んな――、別に冰君のせいじゃねんだから! 謝ることなんかねって」
「でも……。あの女の人が……本当に元恋人なのかどうか分かりませんが、周のことで紫月さんまでこんな目に遭わせることになっちゃって」
 膝を抱え込みながら苦しげに声を震わせる。そんな冰を見つめながら、紫月はフッと微笑ましげに瞳を細めてしまった。
「――ん、もうすっかり姐さんだな、冰君は」
「え……?」
「今さ、氷川のことを『周のことで――』って言ったろ? 日本じゃ、よく嫁さんが旦那のことを名字で『うちの何々が――』って言うんだ。例えば俺だったら『うちの鐘崎が』とかさ」
「ああ、なるほど……! そういえば聞いたことがありますね。取引先にご挨拶に同行した時に、相手の社長さんの奥様がそう言っていたのを覚えています」
「だろ? それがすんなり自然に出てくるってことは、冰君と氷川は本物なんだなって思うわけよ。今、聞いててカッコいいなって思った」
「そ、そうですか……? 恥ずかしいな……」
 冰は思わぬことで褒められて、顔を真っ赤に染め上げている。
「微笑ましいっつか、誇らしいっつかさ。氷川も冰君も俺の大事なダチだけど、そんな二人がしっかり夫婦してんのがすっげ嬉しいなって思ったの!」
「紫月さん……」
「つか、俺も言ってみっかな。『うちの鐘崎がお世話になってます』なーんちって!」
 デヘヘと笑って照れる紫月に、冰も自然な笑みを誘われていく。こんなふうにジョークを交えながらも気持ちをポジティブな方向に導いてくれることが本当に有り難くて、思わずうれし涙を誘われてしまいそうだった。
「紫月さん、ありがとうございます! 白龍たちが助けに来てくれるまで一緒にがんばりましょう!」
「だな! そんじゃ、先ずは体力温存だ。少しでも横になっとくか!」
「はい!」
 幸い、ベッドも設えられている。二人は着陸後に向けてしばし仮眠をとることにしたのだった。



◇    ◇    ◇






◆14
 一方、深夜の汐留では、周らが一連の関係者の割り出しに苦戦していた。
 マフィアファミリーの中で育った周の側近として、幼い頃からずっと人生を共にしてきた李は、こういった非常事態にはある意味慣れているといえる。恨みを買うことも多い環境下にあって、襲撃してきた相手を突き止めることには多彩な手腕を持っている李であったが、今回はなかなかにそれが発揮できずに苦汁を飲まされているといった状況なのだ。
「香港の裏社会の関係者から洗っていますが、今のところこれといった人物は浮かんできません……」
 如何に精通していようと、各組織のトップから幹部あたりまではすぐに洗い出せるが、下っ端まですべてとなると、とてもじゃないが把握しきれるものではない。
「冰さんと紫月さん、お二人のスマートフォンは取り上げられたとしても、GPS付きのピアスと腕時計までが反応しないのが気になります。仮にそれらにまで気が付いて潰したというのであれば、かなりの精鋭と思われますが――今回はこの女性絡みのようですし、そちらの線は薄いのではないかと」
 李がパソコンを操作しながら言う。
「――そうかもな。まだGPSに気付かれていないとして、そいつが反応しねえってことは電波の届かねえ場所にいるのかも知れねえ」
「はい。相手は広東語を操っていたとのことから考えて、もしかしたら既に国内を脱出しているかも知れません。ただいま、今夜の渡航便を一般路線からプライベート便まですべて確認しております」
 まだ国内にいてGPSが生きているなら、当然反応するはずだ。それがまったくないということは、李の言うように既に空の上なのかも知れない。
「先ずは男たちよりも女の素性を突き止めるのが近道だろう。この女が何故、広東語をしゃべる連中に追われているのかが分かれば、拉致した奴らの正体も自ずと見えてくる」
 周と鐘崎は、スイーツの店から転送した防犯カメラの映像を一から詳しく調べ直しにかかっていた。その結果、女が飲食を注文せずに直接冰らの個室へ向かっていたことが分かってきた。
「やはり女の目的は冰か紫月のどちらかだろう。迷いなく個室を訪ねているところからして、少し前から見張っていたか、後を付けられたのかも知れねえ」
 もしも後を付けられたとするなら、この社屋からと考えるのが妥当だろう。周と鐘崎は社屋近辺の監視カメラの方も調べていくことにした。
「あいにく――店内で女の顔が映っている箇所が見当たらねえな。所々に姿は確認できるが、そのすべてが一部分だけだ」
 客と客の間に頭とスカートの裾だけというような映像ばかりで、唯一大きく映っているのは個室での後ろ姿だけだ。
「可能性は薄いが、わざとカメラを避けての行動だとすれば――かなりのやり手といえる」
 そうなると、目的は冰や紫月個人というよりは、彼らを餌にして周か鐘崎が本命のターゲットということになる。だが、既に事件から数時間が経過した今、どこからも何の連絡もないということは、そちらの線は考えにくいと思えた。



◆15
「よし――早朝一番で香港へ飛ぼう。女の正体も向こうでの方が捜しやすいかも知れん」
「分かった。仮に冰と紫月がまだ日本にいることを鑑みて、こっちでの状況は親父と源さんに頼んでいく」
「ああ、すまねえなカネ。向こうに行けば、ファミリーの方からも動ける人員は出してもらえる。親父と兄貴に連絡を入れておく。李と他に数人を一緒に連れて行くが、劉はここに残ってカネの親父さんたちと合流し、引き続き女と拉致犯の割り出しに当たってくれ」
「かしこまりました。ではすぐに手配を――」
 こうして、周と鐘崎は一路香港へと向かうことになったのだった。



◇    ◇    ◇



 一方、冰と紫月はそろそろ香港に着陸しようとしていた。
 二人が部屋で寝ていると、見知らぬ男が朝食を持ってやって来た。
[――は、まだ暢気に寝てやがる。おい、起きろ! メシを持ってきたぞ]
 言葉じりは荒いが、特に蹴るでも殴るでもなく、丁寧に朝食の乗ったトレイをテーブルへと置いている。いわば”付録”で連れてきてしまった二人への扱いに戸惑っている様子が窺えた。
 モゾモゾと起き出した紫月を見るなり、ホッとしたように溜め息をついたことからして、どう接するべきか決めかねているのだろう。
[気が付いたか? もうすぐ着陸だ。その前にメシを食っておけってよ]
 言い方からして、誰かに指示されて食事を運んできただけと思われる。
[あー、さんきゅ。んじゃ、遠慮なくご馳走になるわ]
[お、おう……。飲み物はそこだ。冷蔵庫に入ってるから適当にやってくれ]
 男はそれだけ言い残すと、すごすごと部屋を後にしていった。
 トレーの上にはパンとフルーツ、ハム、ソーセージに卵料理といった、いわゆる機内食のようなものが乗せられていた。
「ふぅん? ま、当然一般路線じゃねんだろうから? プライベートジェットってところかね。つーことは、拉致犯はそれなりに金持ちってわけか」
 紫月が独りごちていると、冰も目覚めたのか、まぶたを擦りながら布団から顔を出した。
「冰君、おはよ! 朝メシだってさ」
「ご飯……ですか?」
「ああ。今、チンピラ君が置いてった」
 トレーを指差しながら紫月が笑う。彼の軽快な仕草もそうだが、言葉遣いのひとつひとつにしてもユーモアが感じられる。何故だかとても癒やされる気がして、冰もつられるように微笑んでしまう。
 正直なところ、こんな状況下で笑顔を見せていられるのは紫月のお陰である。冰は本当に有り難く思うのだった。
「そういえば紫月さん、広東語お上手ですよね」
 昨夜の店内でも男たちに広東語で応対していたし、今し方の朝食についてのやり取りもおそらく広東語だったのだろう。
 鐘崎親子は仕事柄、香港や台湾などに出向く機会も多いとのことだから、流暢でも不思議ではないが、紫月が話せることは正直なところ意外だったのだ。



◆16
「ああ、それな。遼と俺は生まれた時からの幼馴染みでさ、アイツん家は親父さんの仕事柄、外国語は必須って感じで育ったんだよな。こーんな小っせえガキん頃から多国語を覚えさせられてたアイツを見ててさ、俺もよく付き合って一緒に広東語とか英語とかで会話するようになってたんだ」
「そうだったんですね! そんな小さい頃から……!」
「俺は特に覚える必要もねえし、使うこともねえわけだから。ほんっとに付き合い程度の遊び半分だったな。けど、遼は違ってさ。例えば仕事がらみで逆恨みに遭ったとするだろ? 相手にとっちゃ親父さんが目当てなんだけど、ガキの遼二を人質にとって拉致られたりした場合、それが外国人ってことも有り得る世界なわけだよ。そういう時に相手の会話を聞き取れねえと命を守れないっつって、スパルタってくらいの勢いで仕込まれてた。アイツも気は強かったし根性もあったと思うけど、それでもたまにあんまりに厳しくされて、悔しくて泣いてたこともあったっけな」
 鐘崎の父親の仕事からすればそれもうなずける話である。スパルタになるのも、教育以前に命にかかわってくる世界だからだ。
「でさ、その頃から何となく思ってたんだ。俺はこいつと一生一緒に生きてくんだって――心のどっかで感じてたんだな。だから遼がやらされてる外国語も……俺も一緒に覚えなきゃいけねんだって思っててさ。まだあいつのことを好きとか嫌いとか、そういう感情も分かんねえガキの頃だったんだけどね」
 きっとその頃から意識せずとも本能で互いを生涯の伴侶と思っていたのかも知れない。冰はそう感じていた。
「運命――だったんですね。鐘崎さんと紫月さんも」
「かもなぁ」
 紫月は懐かしがって笑ったが、話に聞くのとは違って、幼い子供の内からたくさんの修行を積まされてきた鐘崎と、その彼に寄り添って一生懸命外国語を身につけようとしてきた紫月の努力を思えば、心から尊敬の念を感じずにはいられなかった。
「でも鐘崎さんも紫月さんもすごいですよ! 外国語の他にも武術まで身につけておられるんですもん」
「まあ、俺ン家は道場だったからさ。そっちの方はそれこそ雛の刷り込みっての? 物心ついた時には当たり前になってたなぁ。遼もガキん頃はウチの道場に通って来てたこともあったけど、中学に上がる頃にはもっと本格的な――傭兵上がりのようなプロの師匠に教わるようになってたな。だから俺とは技の使い方からして違うっていうかさ。格段にあいつの方が強いわけよ」
「はぁ、すごいですね……! 俺なんか武道の方はからっきしダメです。育ててくれた黄のじいちゃんからは、男の子なんだし、少しは腕っ節の方も鍛えなきゃダメだって言われてたんですけどね」
「けど、冰君はディーラーの特訓でそれこそ大変だったんじゃね? 何つっても神業だもんな!」
 そんな話をしていると、先程朝食を運んできた男が再びやって来た。
[おい、メシは済んだのか? あと五分で着陸態勢に入るからこっちへ来いってよ]
 どうやらシートベルトが使える椅子付きの部屋へと移されるようだ。男に連れられていくと、そこには昨夜の女の姿もあった。



◆17
「あんた、無事だったか……」
 一見したところ、特に暴力を受けたような痕跡は見当たらなかった。ただ、あまり顔色は良くないし、終始うつむき加減でいる。まあ、それも当然といえばそうか。これから連れて行かれるのは金を横領したという元いた会社なわけである。紫月が声を掛けても、返事すら返せないといったふうだった。
[俺たちはこれからマカオに降りる。着いたらホテルで社長が待っているから会ってもらうことになるぞ]
 男の一人からそう説明されて、紫月らは少々驚いたように瞳を見開いた。
[マカオかよ……。香港じゃねえの?]
[社は香港だが、今回はマカオに行く。闇市に売り飛ばすのに都合がいいんでな]
 ニヤニヤと薄ら笑いながら言う。
[女はともかく、お前たちの処遇も社長が決めるから。おとなしくついて来るんだ。いいな?]
[へいへい、了解でございますよ]
 紫月が軽口で返し、一先ずは従うふりを通す傍らで、冰は少し前に張に捕らわれた時のことを思い出していた。

(マカオ――。まさかまたマカオに来ることになるなんて)

 あの時も最初は驚いて、どうなることかと思ったが、周が一目散に捜しに乗り出してくれて助けに来てくれたのだ。

(はぁ……白龍。今頃どうしてるかな。きっとまた心配掛けてるんだよね、俺……)
 元恋人だと名乗る女性のことも気に掛かる。本当だったら、もう明日には周と共に香港に発つはずだったのだ。同じ着陸の瞬間でも、あの逞しい肩に寄り掛かりながら一緒に窓から香港の景色を見るはずだった。そんなことを思えば、愛しさが募った。何だか所在なげで、すぐにもあの広い胸板に抱き締められたい――そんな気持ちだった。



◇    ◇    ◇



 その頃、周の方でも朝を待っての出国の準備が整えられているところだった。
 機内に持ち込む荷物をザッと見繕っていたが、冰が支度していたスーツケースを見つけて、胸を締め付けられる思いに陥った。
 着替えの下着や靴下などが丁寧に畳まれてケース内にきちんと収まっている。髭剃りなども普段使い慣れているものが綺麗に仕分けされて詰め込まれている。スーツは皺や埃にならないようにとの配慮からか、一着ずつカバーがかけられているし、何より驚いたのはギフト用の品々がたくさん用意されていたことだった。
 いつの間に揃えたのか、おそらくはファミリーたちへの土産品と思われる。両親や兄夫婦、主たる側近の者たちにまできちんと人数分が揃えられている。一等大きな包みは菓子折りだろうか。日本の老舗菓子店の日持ちするタイプの物らしく、箱数も多いことから、ファミリーの周囲で働く家令の者たちにも行き渡るようにと冰なりにいろいろと考えて購入したのだろう。それらひとつひとつを見つめていると、彼の温かい心遣いが隅々まで息づいているようで、ますますたまらない想いが募っていった。
 本来ならば、この荷物を持って冰と共に朗らかな気分で出発していただろうことを思えば、言い様のない気持ちが胸を苦しくするのだった。

(待ってろ、冰――。すぐに迎えに行くからな)

 冰が用意してくれていたスーツケースを携えながら、まるでそれが彼の分身であるとでもいうような心持ちで、周もまた愛しい恋人の面影を胸に汐留の邸を後にしたのだった。



◆18
 そうして周らが日本を飛び立とうとしていた頃、紫月と冰の方は男たちに連れられてマカオのホテルに到着していた。
[社長がおいでになるまでここで待機だ。おとなしくしてろよ]
 二人が押し込まれたのはスタンダードな造りのツインルームだった。女の方はどうやら別の部屋で待機させられるらしい。窓辺に寄ってカーテンを開けると、初夏の陽射しが燦々と降り注ぐマカオの街並みが見下ろせた。
「うっはー、いい天気だ。なーんか観光に出掛けたくなっちまうなぁ」
 相変わらずに暢気な紫月の背中を見つめながら、冰も思わず笑みを誘われる。部屋の外には当然見張りがついているのだろうが、それも一人か二人であろう。紫月の武術をもってすれば、逃げるのには絶好のチャンスといえる。
「脱出って手もあるけど……ま、ここはおとなしく待機って選択だろうな」
 紫月が笑う。
 確かにその通りなのだ。今なら割合難なく逃げられるだろうが、そうなると女を置いていくことになる。二人にとっては関係のない女といえど、冰の性質からすれば、周の元恋人だという彼女を見捨てることができないだろうと思うからだ。
「すみません、紫月さん……。せっかくのチャンスなのに」
「いや、全然。逃げる機会ならまた巡ってくるさ。今がその時じゃねえってことだ」
 ファンキーにウィンクを飛ばしながらそう言ってくれる紫月に、冰は申し訳ないと思いつつも有り難い思いでいっぱいだった。
 それから小一時間待たされた後、迎えの男がやって来た。どうやら社長というのが到着したようだ。二人はまた別の部屋に連れて行かれたが、今度は割合大きなスイートタイプの客室だった。そこには例の女もいて、社長らしき中年の恰幅がいい男の前で小さく肩を丸めて座らされていた。
 紫月は冰をかばうように側に立ち、いつ何時どの方向から攻撃を受けたとしても応戦できるようにと気を配る。周も鐘崎もいない今、冰を守るのは自分の役目と心得ているからだ。
 だが、心配をよそに、敵は危害を加えるつもりはないらしい。どうやら思っていたよりも案外まともというか、いわば裏社会の人間ではないようだった。冰が機内で聞きつけてきた通り、本当に一般企業の社長と社員であるらしい。
「キミたちがこの女と一緒に食事をしていたという若者か。随分とまた邪魔をしてくれたようだが、いったいどういう関係なのかね?」
 社長という男が怪訝そうにしながらも、溜め息まじりの様子でそう問う。
「いや、どうって言われても……まあ、成り行きというか」
 確かにそうとしか答えようがない。
「まあいい。この女と一緒にいたということは、まったくの無関係でもないということだろう?」
「はぁ……いや、まあ……」

(無関係っちゃ、無関係なんだけどな……)

 だが、素直にこの女との関係を言ったところで信じてはもらえないだろう。それ以前に説明のしようがないといった方が正しいか。紫月が曖昧な返事を繰り返す中、社長という男が続けた。
「この女には我が社から横領した金をすべて返済しきれるまで働いてもらうことになるが、それにしては金額が膨大でね。キミらも知り合いだというのなら、少し応援してもらえやしないかね?」
 寝耳に水の話だが、紫月はとにかくもう少し詳しく状況を尋ねてみることにした。



◆19
「失礼。話がよく読めないんだが、いったい彼女が横領したというのは幾らなんでしょう?」
 すると、驚くような金額の答えが返された。
「ふ、こんなことを暴露しては我が社の恥とも言えるがね……」
 それは日本円にして五千万円ほどの金額だった。
「マジかよ……。けど、いくら何だって女が一人でそんな金額をどうこうできるものですかね?」
 彼女は経理を担当していたというが、それほどの金額が使徒不明に動かされていることに気付かない会社というのもどうかと思ってしまう。第一、彼女本人から聞いた話によると、服や鞄などの身の回りの物を揃えたかったということだったが、それだけの為にそこまでの大金に手を出す必要があるだろうか。まあ、住む家もそれなりのところを望んでいたようだから、家まで購入したとするなら満更嘘ではないのかも知れないが、かなり度胸のいいことである。横領自体が事実だとしても、彼女の他にも共犯者がいるのではないだろうか。紫月はそう思っていた。
 すると、予想を肯定するかのように女が話に割って入ってきた。
「アタシは……横領をしたつもりはないわ! お金は……専務の丁さんから報酬としていただいたものよ! ちゃんとした正規のお金なんです!」
 またえらく話が食い違うようなことを言ってのける。すると、社長の方はそれこそ寝耳に水だと言って反論を繰り出した。
「ふざけたことを抜かすな! 専務の丁はお前さんが我が社から行方をくらます少し前には既に定年退職となっている。その彼が一社員のお前にそんな大金をくれてやるわけがないだろう! いい加減なことを言うんじゃない!」
「いい加減じゃありません! アタシは……丁さんが定年になる時にもらえる退職金の中から、アタシに五千万円をくれるっていうから……。そういう約束で……ずっと……この七年の間、あの人の愛人として耐えてきたんだから……!」
 女は驚くようなことを暴露してみせた。
「愛人だと!?」
「そうよ! あんな年の離れた……父よりも年上のような専務と……嫌々付き合ってきたのもすべてお金の為よ! あの人が退職する直前に会社の口座からお金を動かすように言われて、その通りにしたわ。それが約束の五千万円だって丁さんは言った。好きに使えばいいって! だからアタシは横領なんかしてない!」
 女は声を嗄らしながら必死に弁明を叫び続けた。
 要するにこういうことだろう。女は金の為に専務という男の愛人を続けてきた。その報酬として彼の退職金の中から分け前をもらう約束で、専務も表向きではそれを守ったと思われる。だが、その方法に問題があったということだ。
 おそらく専務は退職と同時に女に会社の金を不正に動かさせて、自分がもらえる退職金は確保しながら彼女には会社の金を着服させるという形で補おうとしたのだろう。実にずる賢いやり方といえる。
 万が一、着服がバレても、実際に金を動かしたのは彼女である。知らぬ存ぜぬで逃げおおせるつもりだったのかも知れない。



◆20
「とにかく! 今更誰のせいだと言ったところで始まらん。お前にはどうあっても全額を返済してもらうからな! 既に働き口も用意してやっている。今夜にも相手方に引き渡す予定だから、そのつもりでいるんだな」
 社長という男が言い捨てると、女は刃向かってもムダだと思ったのか、その場で泣き崩れてしまった。
 その様子を見ていた冰は、恐る恐るといった調子ながら社長に向かって切り出した。
「あの……働き口とおっしゃいますが……それはどういったところなんですか?」
 来る途中の機内で男たちが話していた通り、本当に闇市で身売りさせられるようなことになったらと思うと、どうにも不安で仕方なかったのだ。
「どういったところと言われてもな。まあ、普通に勤めるよりは手っ取り早く稼げる仕事といったところかね。この女には色を売って稼いでもらう。それだって何年もかかるんだ。まったく、とんだ災難だよ!」
 やはりか。いくら女に非があるといえど、それはあまりな仕打ちと思ってしまうのは冰のやさしさ故だろうか。
「あの……他に方法はないんでしょうか? 例えば被害届けを出すなりして……彼女の言い分もきちんと聞いてもらって、公正に判断してもらえるような機関に任せるとか……」
「つまり、なんだね? 警察にでも届けろということかね?」
「そういった選択肢もあると思うのですが……。それでしたら社長様と彼女の双方の言い分を聞いて、本当に横領に当たるのかということも調べていただけるんじゃないかと……」
 冰が遠慮がちながらも提案すると、社長は鼻で笑うようにこう言い放った。
「冗談じゃない。警察などに言ったところで金が返ってくると思うかね? 通りいっぺんに話を聞いて被害届を受け取るだけだ。結局金は戻らず終いだ。誰がそんな得にもならないことをするかね。それよりは闇市に堕として、例え微々たるもんでも取り戻したいと思うのが当然だろうが」
 社長の立場に立って考えるならば、確かにそうかも知れない。だが、やはり彼女が身売りさせられると思うと、冰は心が痛んでならなかった。
「そんな心配をするということは、やはりキミらはこの女の友達か何かかね? 何なら、この女の横領分をキミが肩代わりしてくれても構わないがね。私としては金さえ戻ればとりあえずのところ文句はないんだ。腹立たしいことに変わりはないが、全額返済してくれるというならこれ以上大事にはしないでやってもいい」
 だが、若いキミに肩代わりすることなど到底不可能だろうと言わんばかりに社長は鼻で笑った。
「まあ、いい。私はこれからラウンジで朝食をとるが、キミらも一緒にどうだね? 今時、友人思いの正義感があることには感心だ。キミらのことをどうするかも決めなきゃならないし、何よりもう少しキミと話をしてみたくなってね」
 思い掛けず食事に誘われて、冰は瞳を白黒させてしまった。



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