極道恋事情

10 恋敵2



◆21
 結局、冰と紫月は社長という男に連れられて、遅めの朝食を共にすることとなった。
「キミらには顔を見られたということで、私の部下が先走って一緒に連れて来てしまったということだが……。二人共、日本に住んでいるのかね?」
「ええ、まあ……」
「私としては、あの女のことを黙っていてくれればキミらを帰しても構わないと思っている。だが、変な節介心を出されて警察に駆け込まれたりしては困る。こちらも好き好んであの女を売り飛ばしたいわけじゃない。だが、我が社もそれほど大きいわけじゃなし、例え五千万円といえど痛いところなんだ。やむを得ん事情と思って理解してもらえると有り難いんだが」
「はぁ……それは……お気持ちは分かっているつもりです」
 冰がそう答えながらも、重い表情でいると、社長という男も少々気の毒そうに溜め息をついた。
「キミは本当に心根がやさしい子なんだな。あの女とはいつからの付き合いなんだね? 学生時代の友人かね? それとも……キミらの内、どちらかの恋人というわけか?」
 食事をとりながら社長が訊く。冰と紫月はさすがに食事は遠慮したものの、お茶だけはご馳走になることにして話に付き合わされているといったところである。
 この社長という男も、横領云々がなければ、取り立てて悪どいことに手を染めているような人間でもなさそうだというのが話していく内に感じられた。どちらかといえば堅実に会社経営に尽力している真面目な人柄といえるだろうか。そんな彼が闇市にまで頼らざるを得ないというのだから、社としても苦渋の選択なのだろう。
 事情は理解できるが、それでもどうにか女に色を売らせることだけは勘弁してもらえないだろうか。そんなふうに頭を悩ませていたちょうどその時だった。
「雪吹君! 雪吹君じゃないかい?」
 少し離れたところからそう呼ぶ声に後ろを振り返れば、なんとそこにはあの張敏がうれしい驚きに声を弾ませながらといった調子で近付いて来るのが分かった。
「え……!? 張さん!」
 冰がガタンと勢いよく立ち上がったのを見て、社長は言った。
「何だ、知り合いかね?」
「え? ええ、はい」
「すまんが、今のキミらの状況は黙っていてもらえると有り難いね。助けを求めたりして大事にされたくはない。脅すつもりはないが、ここはひとつ適当に話を合わせて無難に追い返してくれないか……」
 社長としても、元々冰たちに危害を加えるつもりもなさそうである。単に事情を知られてしまった成り行きで、この先の扱いを決めかねているだけの様子が見て取れるので、二人は言われた通りに従うことにしたのだった。
「分かりました。無視すれば逆に変に思うでしょうし、ちょっとご挨拶だけさせてください」
 冰はうなずくと、席を立って張の元へと駆け寄って行った。



◆22
「張さん、こんなところでお会いできるなんて! お元気そうで何よりです!」
「本当に奇遇だなぁ! キミもお変わりないかい?」
「ええ、お陰様で! 先日はありがとうございました! ワンコの着ぐるみとっても嬉しかったです!」
「いやぁ、俺の方こそ素敵な写真を送ってもらえて喜んでいたところだよ! それより、まさかキミたちがマカオに来ているだなんて驚いたよ。今日は旦那様のお姿が見えないようだが、ご一緒じゃないのかい?」
 冰が一人でマカオに来るわけもなかろうし、当然周も一緒だと思ったのだろう。冰らのいたテーブルに目をやりながら不思議顔でいる。
 あまりジロジロと社長のことを勘ぐられてもまずいと思ったわけか、冰はとっさに話を別の方へと振った。
「ええ、今はちょっと別行動でして。それより張さんはこのホテルでお仕事ですか?」
 カジノがオープンするのは大概夜だし、まだ午前中の内からビシッとスーツ姿で決めているのでそう訊いてみることにする。
「いやぁ、実はね。キミのお父上がシャングリラを任せてくださったお陰で、地元のカジノ協会のお偉方からも信頼を得ることができてね。今は協会の青年部の理事に加えてもらうことができたんだ」
「そうなんですか! それはおめでとうございます!」
「いやいや、何もかもキミたちのお陰だよ! 今までは俺もこの業界の重鎮方には敬遠されていたんだが、こんなふうに仲間に入れてもらえるようになったのは、すべてキミやお父上たちのお陰さ」
「そんな……。でも良かった。俺も嬉しいです!」
「それでね、実は今日は理事会のメンバーとしての初仕事を任されてね。その打ち合わせで出向いて来たというわけなのさ」
「初仕事ですか! それは大変ですね」
「そうなんだ。正直緊張しているところさ」
「……難しいお仕事なんですね? 俺、応援していますね!」
「ありがとう。実はね、今夜、とあるカジノに灸を据えるお役目を仰せつかっちゃってね。キミもディーラーをしていたからよくご存知だと思うが、いわゆる闇カジノというか、イカサマばかりで荒稼ぎしている店があってね。このまま放置すればマカオの評判も地に落ちるって危惧されているんだ。そこで、これ以上お客様に被害が及ぶ前にその店を潰してしまおうという計画なんだ」
「えッ!? 潰しちゃうんですか……?」
「そうなんだ。だが、言うほど簡単なことではないからねぇ。今一度その方法を画策しているというか……最終確認を行っているといったところなのさ」
 張が声を潜め気味でそう囁く。本来、関係者以外に暴露していいことではないのだろうが、張にとって周一族であるこの冰は、信頼に値する相手なのだろう。それと同時に、やはり初の大仕事を任されて緊張しているというのも嘘ではないらしく、人畜無害で人柄にも信頼がおける冰に話すことで、気持ちを落ち着けたかったのかも知れない。



◆23
「そうなんですか……。それは大変ですね」
「ごめんよ、突然こんな話を聞かせてしまって。でもキミも同業だったと思ったら、つい――ね」
 張は弱音を吐いてしまって情けないというような顔つきで苦笑したが、意外にも冰としてはとっさに閃いた思いつきに瞳を見開いてしまった。
「ね、張さん。その潰しちゃいたいカジノっていうのは……どんなお店なんです?」
「ん? どんなって、体裁は俺たちの店とそう変わらない普通のカジノさ。ガイドブックなんかにも載っているし、店構えも怪しいわけじゃないから、観光客なんかも結構入っているな。まあ、彼らにとってはそれが狙いなんだけどね。一見さんに等しい客を相手にイカサマで悪どく稼いでいるのさ」
「なるほど。滅多に何度も訪れない観光客が相手なら、訴えられることも少ないというわけですね? でも――イカサマで稼げちゃうってことは、そのお店のディーラーさんも腕はいいってことなんですよね?」
「まあ、そうなんだろうな。と言ってもキミほどの神ディーラーではないだろうけどね」
「いえ、そんな……」
 おどけたようにウィンクをしながらそんなふうに持ち上げてくれる張に、冰は恐縮しつつも思い切って閃きを打ち明けてみようと思った。
「張さん、すみません。ちょっと待っていていただけますか? あ、お時間大丈夫ですか?」
「ん? ああ、構わないよ」
「ありがとうございます!」
 冰はペコリと頭を下げると、社長のテーブルへと戻って逸るようにこう訊いた。
「社長さん! あの……さっき、もしも俺が彼女の横領分を肩代わりできたら許してもいいっておっしゃってくださいましたよね?」
 突飛なことを言い出した冰に、社長はむろんのこと、一緒にテーブルで待っていた紫月も同様、驚いたように瞳を見開いた。
「お金を全額お返しできたら、彼女を闇市に売ることはしないでいただけますか?」
「え? あ、ああ……。それはまあ、構わないが……」
 だが、まさか五千万円もの大金を肩代わりできるはずもなかろうと、半信半疑で瞳を丸めている。
 冰はコクりとうなずくと、
「お金が用意できるかも知れません。数日――いえ、明日の朝までで結構です。待っていただけませんか?」
 真剣な顔つきで社長を見つめた。
「明日までって……まさか、あそこにいる知り合いの御仁に……都合してもらえることにでもなったというわけか?」
 社長は張の方をチラリと見やりながらそう訊いた。冰が少しの間話し込んでいたのを観察しながら、たまたま居合わせたその男がよほどの金持ちかなにかで、金を都合してくれるとでも言ったのかと思ったからだ。



◆24
 だが、よくよく考えてみれば、そんなに美味い話などあろうはずがない。その男――つまりは張だが――彼がどれほど裕福なのかは知らないが、こんな短時間に二つ返事で大金を都合してくれるなど、あるわけもないと思うからだ。
 社長は怪訝そうにしていたが、冰は逸るように身を乗り出しながら、
「あの方に都合していただくわけではありません。ですが、真っ当にお金が用意できるかも知れないんです」
 そう言って、真摯な態度で社長を見つめた。
「全額を一気に返しきれるかどうか分かりませんが、極力揃えられるようにします! ですので――一日ほどお時間をいただけませんか? 決して逃げたり警察に駆け込んだりなんかしないとお約束します!」
「一日って……キミなぁ」
 社長は何が何だか分からずに唖然としながらも眉をしかめていたが、冰のあまりの真剣さと熱のこもった口調に押されて、何となくうなずかざるを得ない雰囲気になってしまう。
「あ、そうだ! 絶対に逃げないということを信じていただく為にもこれを置いていきます!」
 冰は周から贈られた腕時計を外すと、それを社長に差し出してみせた。
「この時計、とても高価なものなんです。俺にはお門違いっていうくらいの高級品なんですが、これは大切な人からプレゼントしてもらった大事な物なんです。これを社長さんにお預けしていきますから、どうか俺たちを信じて待ってもらえませんか?」
 差し出された時計を見れば、確かに値打ち物だ。この善良そうな若い男がホイホイと買えるような代物とも思えない。
「もしも俺が裏切ったら、その時計を売ってお金に換えてくださって構いません。でも本当にそれ、大事な方からいただいた物なんで、俺は絶対に戻ってきます! ご不安でしたら、俺たちに監視役を付けてくださってもいいです! どうかお願いします!」
 ガバリと頭を下げた冰の熱意に、社長はすっかり根負けしてしまった。
「分かった――。キミを信じよう。私はあの女と一緒にこのホテルで待機させてもらう。疑うという意味ではないが、念の為の監視として部下を二人ほど付けるがいいかね?」
「はい、構いません」
「期限は明日の朝でいいんだな?」
「はい! それで結構です。必ずご連絡します! ありがとうございます!」
 冰は心から嬉しそうに言うと、紫月と共に張の元へと戻っていった。



◇    ◇    ◇



「それで? 張敏と会って何か名案でも浮かんだってか?」
 歩きながら紫月が問う。
「はい。詳しくは張さんも交えてお話しますんで」
「オッケー!」
 意思のある様子の冰を横目にしながら、紫月は見守るように微笑んだ。




◆25
「おや! キミはもしかして……写真に写っていた柴犬君じゃないかい?」
 紫月を見るなり張は嬉しそうに握手の手を差し出した。周と鐘崎には会っていたが、紫月とは初対面だったからだ。
「どうも、初めまして。一之宮紫月といいます。その節は可愛い着ぐるみをありがとうございました」
 紫月もフレンドリーに握手に応える。
「いやいや、こちらこそご丁寧に写真まで送っていただいて感激しましたよ! 皆さん揃って本当に着ていただけるなんて、思ってもみなかったよ。本当に嬉しかった!」
 初対面の挨拶が済んだところで、冰は張に切り出した。
「あの、張さん。それでさっきのお話ですけど、それ、俺にも手伝わせていただけませんか?」
「さっきのって、イカサマカジノのことかい?」
「ええ、そうです」
「イカサマカジノ? ……って、いったい何の話だ?」
 二人のやり取りを聞きながら、紫月は瞳をパチクリとさせてしまった。
「実は――」
 冰は先程張から聞いた悪徳カジノを潰したいという話を端的にかいつまんで説明した。すると、勘のいい紫月はすぐに彼の考えていることを察してくれたようだった。

(なるほど。金の都合がつくかも知れないってそういうことか――)

 つまり、張たち理事会が潰したいというそのカジノに乗り込んで、唐静雨という女が横領した五千万円を稼ぎ出すつもりなのだろう。神技級の腕を持つ彼だからこそ考え付きそうなことだ。
「でも雪吹君、手伝ってくれるというキミの厚意は有り難いが、今回はいくらキミでもどうにもならないんじゃないかな。さすがにその店でディーラーをやってもらうってわけにもいかないんだし」
 張が難しい顔をする側で冰は微笑んだ。
「俺がディーラーをするわけではありません。今回は相手のディーラーさんと勝負をするんです」
「勝負って、キミがかい?」
「要は客側がカジノで大勝ちすればいいわけですよね? だから今回は俺が客になります。上手くすればカジノの持つ資金を少しでも吸い上げることができるかも知れません。それならば正攻法でその店を弱体化に追い込めますし、乱闘などが起きる確率も少ないと思うんです」
 決意に瞳を瞬かせた冰に、張はようやくとその意図に気付いたのか、『なるほど』と言って瞳を見開いた。
「そうか……! キミならあのカジノのイカサマディーラーたちを出し抜けるかも知れないな!」
「ええ。ただ、これを成功させるには時間との戦いになります。カジノ側が異変に気付いて、一時クローズなんていうことになる前に、極力時短で大勝ちする必要があります」
 いわば、相手に構えさせる余裕を与えてはならない。ほぼ一発勝負か、多くても二度か三度の対戦で金庫の金を吸い上げなければならず、これもまた、乾坤一擲の大勝負というわけだ。
 綱渡りではあるが、成功すれば一撃で閉店に追い込める。案としては悪くはない。



◆26
「ですから張さん、なるべく詳しくその店のことを教えてください。一番の問題は、お店にプールしてある換金額がどのくらいあるのかということです」
 それによっては一度の賭け金や、勝った場合にどのくらい儲けられるのかが変わってくるからだ。
「店の規模としてはそれほど大きいわけじゃないんでね。本格的に潰すならば綿密な計画が必要だが、今回は灸を据えるのが目的だから、そう大掛かりにする必要はないと理事会の意見も一致している。一番いいのは、決定的なイカサマの証拠を掴んで、営業資格を剥奪できるところまで持っていってしまえればいいんだが」
 それと同時に、資金面でも打撃をあたえて、懲りずに再構築する余力を絶ってしまえれば尚いいと張は言った。
「今ここで運良く閉店に追い込めても、すぐにまたどこかで闇カジノでもオープンさせられたんじゃイタチごっこだ」
「なるほど。イカサマの現場を押さえて資金源も吸い上げられればいいというわけですね。では、とりあえずイカサマを仕掛けてくるディーラーの技を破って、こちらが大勝ちすることを考えましょう。その為にはお店のやり口を知っておく必要があります。例えば、イカサマが一番酷く行われているのはカードゲームなのかスロットなのかとか、ルーレットならヨーロピアン方式かアメリカン方式のどちらでお客様が負かされることが多いのかなどです。あとはルーレットのホイールの型とかも分かれば有り難いんですが」
「ああ、それなら情報だけは十分に調査済みだよ。ルーレットのホイールはうちのカジノと同じで一昔前のレトロタイプだ。アメリカン方式オンリーで、ベットは客が先だ。賭けが出揃ったところでディーラーがホイールを回すという一般的なやり方だね」
 ということは、相手のディーラーは客が賭けていない位置にボールを落とし込む技術を持っているということになる。逆ならば有り難いところだが、これについては少々頭脳戦を強いられると冰は思った。つまり、ディーラーが先にホイールを回してくれれば、その動きから最終的にボールが落ちるだろう位置を予測できるが、賭けた後ではそれが叶わないからだ。
 まあ、ディーラーに先にホイールを回させる手段に持ち込む方法は追々考えるとして、とにかくは張の話の続きを聞くことにした。
「イカサマで一番持っていかれやすいのは、やはりポーカーとルーレットのようだ。スロットも酷いと聞いているが、あれは元々の機械操作で絶対に勝てないように細工されているから、キミの神技を発揮するには不向きだろうね」
「分かりました。それだけお聞きできれば十分です」
 冰は話を聞きながら、早速にどう勝負するかのシミュレーションを頭の中で繰り広げていった。
「先ずはお店に乗り込んでしばらくは様子を見ましょう。目立たないように適当なテーブルをはしごして、少しずつ元手を作りたいと思います」
「元手か。そんなところまで考えてくれているのか! だが、それならこちらで用意できるぞ。理事会からも援助が出せるだろうし、何なら俺の私財を投じてもいい」
 カジノで大勝ちするには、それなりの元手――つまりは賭け金も必要だ。冰は一から稼ぎ出すことを考えているようだが、張としては手伝ってもらう以上、そのくらいは融通したいと思ったようだ。
 だが、冰は丁重にそれを辞退した。



◆27
「張さんのお気持ちは本当に有り難く思いますが、これは賭け事です。万が一にも大負けすることもないとはいえませんから、元手は一から作りたいと思います」
「雪吹君……だが、それじゃキミの負担が大き過ぎやしないか?」
「大丈夫です。少しずつ、テーブルをはしごして元手を増やしていきますので。そして、勝負ができるところまで整ったら――最初は少ないベットで適度に相手を勝たせます。それを数回繰り返せば、ディーラーの癖が把握できると思いますので、油断を誘えたところで一撃で潰します」
 本来、こういったやり方をするには、ある程度資金作りに協力してもらえる人数がいるとスムーズなのだが、今回は時間的に余裕がないし、そうもいっていられない。なるべく目立たずに少しずつ――店側が”今夜はどうも調子が悪い”と気付く頃にはすっかり大金に膨らませる必要があるのだ。それまではどのテーブルでも覚えられることなく、舐められる客でもなく、かといって警戒されるでもなく、空気のようにズルズルと勝ち続けて、一発勝負に出る為の資金を膨らませていかなければならないわけだ。
「目を付けられないように各テーブルで別人になるといった役者的要素が必要ですが、そこは任せてください。夜までに変装用の服などを揃えて、準備を整えたいと思います」
 冰の目は真剣だ。そして何より自信に満ちている。これまでも周ファミリーのカジノでの勝負の時や、張と対決した時などの経緯を見聞きしている紫月であっても、まるで普段とは別人と思えるほどに大人びて見える。空恐ろしささえも感じさせるほどだった。
 これが本物の自信の成せるオーラなのだろうか。紫月はほとほと感服の思いで冰を見つめてしまった。
「遼も言ってたが、冰君はエージェントにしたらめちゃくちゃキレ者になるって、あの言葉の意味が分かったよ。ほんと、大したものだ。それでこそ周焔の姐だな」
 紫月が感心する傍らで、張の方は少々不安そうに考え込んでもいた。
「でも本当にいいのかい? 一応、周焔さんやお父上の頭領・周にもご許可をいただいてからの方がいいかとも思うんだが」
 なるほど、申し出は有り難いが、一応主人である周ファミリーの諾をと思うのは張の誠意なのだろう。それに対しては紫月が返事を買って出た。
「それについては私が責任を持ちますので、冰君にやらせてやってください。それと、万が一を考えて、私も同行させていただきたいと思います。冰君に何かあった時に側で守ってやれるように。つまりはボディガードのようなものです」
「それは有り難いね。実は警備を兼ねて万一の乱闘が起きた時の為にと思って、腕の達つ人材は一応確保してはあるんだよ。ウチの若い連中も連れて行くことになっているんだが、一人でも多い方がいい。特に雪吹君のガードを頼めるなら有り難いことこの上ないよ。何せ彼は周家の大事なお人だ。若い奴らには荷が重いだろうからね」
「お任せください。これでも少しは役に立てると思います。それから、そのカジノの見取り図などもあると助かります。警備関係や万が一の時の為の脱出経路なども頭に入れておきたいので」
「分かった! そちらの詳細は任せてくれたまえ」
 三人はすぐに準備に取りかかるべくホテルを後にしたのだった。




◆28
 時刻はそろそろ昼になろうとしている。紫月は時計を確認すると、張に一報を頼むことにした。
「張大人。すみませんが、周焔宛てに電話をお願いできますか? 俺たちはちょっと訳ありでして、先程いたホテルのラウンジで一緒だった男性の部下が見張り役として後を付けて来ているんです。お手数を掛けて恐縮ですが、伝言をお願いできますか?」
「キミたちも何か事情を抱えていそうだね? 俺も気が付いていたが、ホテルから尾行が付いているだろう? 実はさっき、キミらが見知らぬ男性と一緒だったんで、ヘンだと思っていたんだ。雪吹君の側には周焔さんも見当たらなかったしね」
 張は詳しく突っ込んで訊くことはしなかったが、周家は香港を仕切るマフィアである。他人には言えないところで訳ありの火種を抱えていることも考えられると踏んだのだろう。手放しで理解してくれたようで、周への連絡も快諾してくれた。
「ありがとうございます。では現在俺たちが張さんといることと、今夜のカジノでの計画、それから”唐静雨”という名前を伝えてください。それで周はおおよその事態が把握できると思います」
「分かった。周焔さんにはすぐに伝えよう。私はこれから理事会の重鎮方に今夜のことを知らせに回らなければならないが、変装用具の買い出しなどには車を出すし、資金も調達しよう。キミらを手伝う人員も必要なだけ付けるんで、他にも何かあれば部下たちに遠慮なく申し付けてくれ」
「ありがとうございます」
 そうして張と一旦別行動となった後、冰と紫月は例の社長の部下たちの監視の下、これからの予定を決めることになったのだった。
「さてと! これからどうしようか」
 紫月が訊くと、冰の中では既におおよその計画が出来上がっている様子だった。
「そうですね。先ずは買い出しに出掛けましょうか」
「変装用に必要な物を買い揃えるわけな?」
「ええ。ちょっと入りにくいですが、女性用の服に靴、それから化粧品とウィッグを探しに行きたいと思います」
「女性用? もしかしてまた俺の女装の出番ってか?」
 紫月は苦笑ながらも半ば期待顔で訊いた。以前、周のカジノでモデルのレイ・ヒイラギの連れとして女装した経験を思い出したからだ。
「いえ、今回は俺が女になります」
「冰君が――か?」
 紫月はますます期待満々だ。
「一応、この業界ですから。万が一にも俺がディーラーをしていた時の知り合いなどがいないとも限りませんし。それに後々のことを考えたら、俺も紫月さんも”面”が割れない方がいいと思うんですよ。別人になりすますには女性の方が楽だと思って。何せ、ウィッグひとつで印象がだいぶ変わりますから」
 確かに一理ある。



◆29
「そんじゃ、俺は何に化ければいいかな?」
「紫月さんにはロマンスグレーに化けてもらおうかなと……」
「老人か! いいね。さしずめ俺は冰君、いや――冰子嬢のパトロンって役どころかな? それとも執事と洒落込もうか!」
 紫月が面白そうに笑う。
「各テーブルで資金作りをしなければなりませんからね。両方に化けていただけると有り難いんですけど……お願いできますか?」
「もち、喜んで! 役者の経験はねえけど、相手を出し抜くって点ではそこそこやれると思うから! がんばるぜ!」
 後で氷川に焼き餅妬かれねえようにしねえと――と言って笑ってみせた。
「しかしあれだな、氷川と遼だ。夜までには奴らもこっちに到着するような気がすっけどな」
 あの二人のことだ。もしかしたら既にこちらに向けて機中の人かも知れないと紫月は思っていた。
「俺たちがマカオに着陸した時点で、もうGPSも繋がってるだろうからな。今頃は俺らを追い掛けているんじゃねえか?」
 仮にそうでなかったとしても、張からの連絡を受ければすっ飛んで来るだろう。
「俺もそう思って腕時計を彼女の会社の社長さんに預けたんです。白龍ならきっとGPSを辿って彼女の居場所を探り当てられるだろうって思って」
 なるほど。冰が腕時計を預けたのは、単に人質――この場合は抵当という方が正しいか――としてではなく、彼女の安全も考慮してのことだったというわけだ。仮に約束を反故にされ、闇市に売り飛ばされたとしても、社長らの現在地を把握できていれば行方を追えるからだ。紫月はまたしてもひどく感服させられてしまった。
「しかし冰君には本当に驚かされてばかりだぜ。例えるなら――稀代の名軍師……って感じかな」
「とんでもない! 俺なんてそんな……恐れ多いことです!」
 恐縮しつつも、
「じゃあ、紫月さんは名将軍かな。めちゃくちゃ強いですもん!」
「はは! そりゃ褒め過ぎだ」
 二人はそんな話で盛り上がりながら、アパレルショップへと向かったのだった。
 案外朗らかな冰と紫月だが、この直後には少々驚かされる事柄が待ち受けていることとなる。ひと言で”驚く事態”といっても様々あるが、いわばうれしいサプライズとでもいおうか。当初は周の元恋人だという唐静雨絡みで始まった小さな騒動は、ひょんなことからマカオの張も巻き込んでの珍計画を背負い込んで、知らずの内に大海原へと漕ぎ出していたのだった。



◇    ◇    ◇






◆30
 時をさかのぼって、数時間前のことである。
 周と鐘崎は、香港に向けて出発目前だった。離陸間際だったが、兄の周風から冰たちの現在地が掴めたとの連絡が届いたのだ。
『二人のGPSが反応した。どうやらマカオにいるらしい。空港から著名なホテル群が立ち並ぶ市街地へ移動していることが分かったんで、俺が今から現地へ向かう。お前たちが香港に到着する時間にヘリを待機させるんで、すぐに後を追って来い』
 それと同時に、この時間にマカオに到着した便をピックアップして、一般路線からプライベート機まで、それらしいものを洗い出してくれるそうだ。特に拉致という特殊な事態であることから、プライベートジェットである可能性が高いので、それならば簡単に持ち主を突き止められるだろうとのことだった。
 一先ずは二人の所在が分かっただけで安心できたが、残るは容体などの詳しい情報が待たれるところである。怪我をさせられたりしている可能性も考えられるので、その点については兄の風が迅速に動いてくれることは本当に有り難かった。
 そして、前回は留守番だった執事の真田が、今回は是非とも同行させて欲しいと言い張ったので、彼も周らと共に出発するこことなった。真田としても今や実の家族のように思える冰のことが心配で、居ても立っても居られないというのだ。
 真田をはじめ、誰にでも好かれ、方々から気に掛けてもらえるのが冰だ。やさしい性質というだけでなく、思いやりがあって穏やかで、周囲の人間の些細な気持ちなどにもよく気が付く。それでいて芯はしっかりとしていて、見かけからは考えられないような精悍さも併せ持っている。そんなふうにして周囲からも愛されている冰が自分の伴侶だと思うと、周の中では果てしなく彼への愛しさが募るのだった。
 そして、周らが間もなく香港へと着陸しようという頃になると、より一層状況が明らかになってきた。
 先ずは、マカオへと向かってくれた兄の風から、二人が無事でいるようだとの報告が飛び込んできた。また、ほぼ同時に現地在住の張敏からも直接電話が入り、更に詳しいことが分かってくる。それを受けて安堵すると共に、周も鐘崎もうれしい苦笑を誘われてしまった。
「……ったく! こんな事態に巻き込まれたってのに、あいつらときたら……」
 元恋人と名乗ったらしい唐静雨の件に関しては驚いたものの、張との偶然の再会からイカサマカジノをぶっ潰す計画にまで乗り出していくとは、さすがに溜め息をつかざるを得ない。
「とにかく無事でよかった。張たちのカジノの件については俺たちも動かざるを得ないだろう。問題は唐静雨という女の方だな。本当にお前の恋人だったのか?」
 鐘崎が訊いたが、周はそれこそ溜め息ものだと言って苦笑で返した。



◆31
「唐静雨か――。正直なところ、名前を聞いただけじゃ最初は思い出せなかったが。その女は多分、俺の大学時代の後輩だ。取っていたゼミが一緒だったんだが、ちょうどその頃、顧問をしていた教授の昇進祝いをすることになってな。幹事として担当させられたのが俺と唐静雨だった。そういや、祝宴の会場手配や祝い品の買い出しなんかで何度か一緒に出掛けたことがあったかも知れん」
「かも知れんって……お前さんの記憶力も大したものだな」
 鐘崎としては思わず嫌味が漏れるくらい呆れてしまうわけだが、当時の周の記憶にその程度しか残っていないとするならば、元恋人というのは単に女の思い込みか、あるいは都合のいい勘違いなのかも知れない。
「しかし、十年以上も経ってるってのに今頃になってこんな事態を引き起こしたってことは、どこかでお前さんと冰の婚約の噂でも耳にしたってところか。それで慌てて日本にまで会いにやってきたのかもな」
 だとするならば、彼女にとっては学生時代の先輩後輩というだけはなさそうである。当時想いを寄せていた周の婚約を知って、焼け木杭に火がついたのかどうかまでは定かでないが、想いとしてはある程度真剣であるか、もしくは周当人が思いも及ばない根深さのようなものがあるのかも知れない。そうでなければ、周を飛び越えて一等最初に恋人である冰に会いに行くなど考えにくいからだ。彼に会って何を言ったか知らないが、少なからず冰が動揺するようなことであるのは想像に容易い。
 とにかく周と鐘崎は、唐静雨という女の現在から過去までを調べに掛かることにした。
 彼女が何故、突然日本にやって来て冰の前に姿を現したのか、卒業してからどういった仕事に就いて、暮し向きはどうだったのかなどを洗っていく。
「如何せん、機上じゃ調べるといってもたかが知れている。親父と源さんに調査を頼もう」
 鐘崎が父親の僚一へと助力を頼むと、そう時を待たずして彼女の素性が明らかになってきた。さすがは各地に多大な情報網を持つ鐘崎の父親である。彼女が勤めていた会社を辞めて、この春から日本で暮らし始めていることや、以前の会社から大金の横領疑惑で追われているらしいことまでもが分かってきた。
「横領か。だとすると、あのレストランに現れた男たちはそれ絡みということか」
 鐘崎は冷静に事の次第を分析していたが、周にとっては心穏やかというわけにはいかないようである。女が何故横領などという大それたことをしたのかということはともかく、何の関係もない冰と紫月が巻き込まれたという事実が腹立たしく思えてならないからだった。
「それよりも氷川、ちょっと不思議な現象が起こっているようだぞ。マカオの張からの報告では、冰と紫月は一緒に行動しているはずなんだが、GPSの位置がバラバラだ」
「どういうことだ」
「同じマカオに居ることに変わりはねえが、冰のGPSはホテルの中を示している。紫月のは街中を移動中だ」
「二人は別々に行動してるってのか? だが、ホテルを張ってくれている兄貴からの報告では、二人一緒にホテルを後にしたらしいということだったが」
 兄の風がホテルに着いた時には、入れ違いで彼ららしき人物がロビーを出て行ったのをドアマンが覚えていたとのことだった。二人共元気な様子で、楽しそうに見えたことから、普通の観光客だと思ったそうだ。ただ、二人がえらく男前の顔立ちをしていたので、強く印象に残っていたらしい。



◆32
「張の話では、イカサマカジノを潰す手伝いの準備で買い物に出掛けたとのことだったな。ひょっとすると、そのカジノを潰す手伝いってのも唐静雨という女が横領した金を補填するのが本当の目的じゃねえのか?」
 鐘崎の言葉に周は険しく眉根を寄せた。
「補填だと? 何故あいつらがそんなことをする必要がある」
「これは俺の憶測に過ぎんが、レストランに現れた男たちが横領絡みでわざわざ女を香港から追って来たとすれば、そこの会社としては当然女に返金を迫ったはずだ。だが、女は既に金を使っちまって返せる当てはない。とするなら――手っ取り早く色でも売らせるか、もっとするなら臓器を売り飛ばすかってな方法で返済させようとするだろう。それを冰が知ったとしたらどうだ」
「まさか――」
 周が驚きに目を見張る。
「そうだ。そこへもってきて偶然にも張と出会い、イカサマカジノを潰す計画を知った。冰ならどう動くと思う?」
「何とかして女を救おうと……返済の金を揃える為にカジノで稼ぎ出そうとしている――ということか?」
「冰なら考えそうなことじゃねえか? ついでに張の仕事も手伝ってやれることになるし、言葉は悪いが一石二鳥だ」
「まさか――それであいつらは動いてるってのか……」
「そう考えれば辻褄が合うということだ」
 周にはおおよそ考えもつかない行動だが、やさしい性質の冰ならば有り得るかも知れないと思えた。
「おそらく女はホテルに居て、拘束されている。冰が金を持って戻れば解放するという取り引きかも知れん」
「じゃあ、冰のGPSがホテルにあるということは――」
「ああ、その通りだ。取り引きの抵当代わりに高価な腕時計を預けて行った。と同時に、もしも約束を違えて女が売り飛ばされた場合、敵の位置を知る為の手掛かりにもなると思った――ってところかもな」
 鐘崎の推理に、周は珍しくも言葉少なで額を蒼白く染めてしまった。冰にとって、女は何の関係もない人間だ。それどころか、周の元恋人だなどと聞かされて心を乱された、いわば厄介な相手であるはずなのに、その女の為に心を砕いて行動しているのだろうことを思うと全身が掻きむしられるようなのだ。
「女がお前の元恋人と聞いては放っておけなかったのかも知れん。しかし、今俺たちが想像した通りだとするなら冰は本当にすごいヤツだな。ディーラーとしての腕前もさることながらだが、どんなキレ者のエージェントでもこの短時間に事態を把握分析し、出来得る限り最善な方向へ持っていこうとする頭脳と行動力には驚くばかりだ」
「カネ――」



◆33
「正直なところ、初めて冰を紹介された頃は単に心やさしい――お前さんにとって癒される存在なんだろうとしか思っていなかった。逆に言えば、裏社会に生きる者の伴侶としては常に護衛が必要なタイプと認識していた。だが、俺の目は節穴だったと思い知らされる。事実、俺らのような人間にとってみれば、冰のようなやさしいタイプは守ってやり甲斐のある可愛い存在だし、お前もそうなんだろうと思っていたが。ところがヤツはとんでもねえ強さと芯まで兼ね備えていやがる。性質の良さと勘働きの鋭さ、頭で組み立てた計略を実行に移すことができる確実な腕前、どれをとってもこの上ない極上の男だと心から感服だ。ヤツほどお前さんの姐として似合いの伴侶はいねえと高揚感が半端ねえ」
 お前にそんな伴侶ができたということが誇りに思えてならない、そう言った鐘崎に、周もまた目頭が熱くなるほどの思いでいた。
「それを言うなら俺もまったく同じ思いだ。冰の考えを理解し、側であいつを見守ってくれている一之宮がいると思えばこそ、焦れずにこうしていられるんだ。昨夜のレストランで男たちに囲まれた時もだが、ああいった暴力が降りかかったとしても、一之宮ならきっと切り抜けてくれる。どんなに心強えことか知れねえ――。お前にしたってそうだ。危険な状況に巻き込まれたのは冰も一之宮も変わらねえってのに、紫月が一緒だから大丈夫だとまで言ってくれた。一之宮に対するお前の絶対的な信頼感はお前ら二人が最高の伴侶だということの証だ。そんな親友を持てたことは俺にとって何よりの誇りだ」
 周の言葉に鐘崎も照れ臭そうに薄い笑みを浮かべた。
「互いに褒め合ってりゃ世話ねえな」
「だが、俺の本心だ。冰がどう考えてどう動こうとしているのか――なんてことは、お前に言われるまで思いもよらなかった。単にあいつらの身が心配で――無事でいるのか、何が何でもぜってえ取り戻すってことだけに気を取られて……状況を把握するだけで精一杯だった。情けねえ話だぜ」
「今回、お前さんは恋人を拉致された当事者なんだ、身の安全を気に掛けるのは当然だろう。――で、どうする? 冰が残した腕時計から女を辿るのが先か、それとも――」
「もちろん一之宮のGPSを追って二人の無事を確かめる!」
「だろうな。そろそろ着陸だ」
 鐘崎はフッと口角を上げて頼もしそうに笑ってみせた。



◆34
「このくらいのこと、普段のお前さんなら簡単に考え付きそうなもんだがな。やはり冰のこととなると勘が鈍るといったところか」
「ああ――。情けねえがその通りだな」
「心配が先立つ気持ちは分かる。俺も……これが俺の過去に関することで、紫月が心を痛めながらも今の冰のように動いているとするなら同じようになるだろうからな。それどころか、もっと大人げなく苛立っちまうかも知れん」
「カネ――」
「だから俺たちがいるんだ。お前には俺が、冰には紫月がついてる。逆も然りだ。俺たちが窮地に居れば、お前と冰が支えてくれる。そうだろう?」
「ああ……。ああ、もちろんだ!」
「冰のやさしい――何の見返りなど求めずに純粋に他人を思いやるあったけえ気持ちに精一杯花を添えてやろうじゃねえか。今夜のカジノ潰し、俺たちも全力でバックアップしよう」
「すまねえ、カネ……。恩にきるぜ――!」
 二人は固く拳を握り合ったのだった。



◇    ◇    ◇



 一方の冰らは、街中に出て女性用のアパレルショップを見て回っていた。
「うーん、男二人じゃさすがに入りづらいですね」
 だが、そんなことを言っている場合でもない。
「大丈夫さ。彼女用のプレゼントだってことで、店員の応対は俺が上手く引き受けるから、冰君は欲しい服の目星をつけていってくれ」
「ありがとうございます。それじゃ、まずは目立たない服装から選びましょうか」
 とはいえ、一応カジノに入るわけだから、それなりにドレッシーなものを選ばなければならない。
「ここなんか良さそうですね。ちょっとおとなしめのワンピースに……靴は歩きやすい物を調達しましょう。その後は別のお店に行って、一発勝負用にちょっと派手目なドレスを選ぼうと思います」
「オッケー。そんじゃ、早速行ってみるか!」
 二人が店に入ると、監視役の男たちはさすがについて来づらいわけか、入り口付近で様子を窺うことにしたようだ。
 冰が数着を手に取っていると、後方から店員らしき男性が声をかけてきた。
「お気に召したものは見つかりましたか? よろしければご試着などもしていただけますが」
「あ、はい。ありがとうござい……」

 ――――!?

 店員を振り返ったと同時に、冰は驚きに瞳を見開いてしまった。なんと、そこにはにこやかに微笑んだ鐘崎が立っていたからだ。
「……か、鐘崎さんッ!」
「しー! 静かに。このまま試着をするふりをして裏口へ向かえ。氷川が待ってる」
 鐘崎は言うと、目配せで店の奥を指した。そこには紫月がおり、『こっちだ!』というように手招きをしている。
「あ、あの……ですけど、監視の人が……」
「ああ、知っている。あの二人は既に李さんが対応中だ。さ、行くんだ」
 鐘崎に促されて、冰は裏口へと急いだ。
 待っていた紫月も頼もしそうに微笑んでいる。彼の方が一足早く店内で鐘崎と落ち合ったのだろう。



◆35
 そして、裏口の扉を開ければ、そこにはこの世で一番愛しい男が両手を広げて待っていてくれる姿が視界に飛び込んできて、冰は無意識のままにその腕へと飛び込んだ。
「白龍……! 白龍、来てくれたんだ……」
 広く逞しい胸板、嗅ぎ慣れた淡い香水の香りが全身を押し包み、ひび割れた大地をみるみると潤すごとく安堵感が広がっていく。
「遅くなってすまない。無事で良かった……!」
 心地好いバリトンボイスが耳元までをも潤してゆく。ギュッと、息もできないほどに抱き締められ、大きな掌でグシャグシャっと髪も頬もすべてを奪うように撫でられて、冰の双眸はあふれ出した涙でいっぱいになっていった。
「すまなかった。辛い思いをさせたな」
「ううん、ううん! 全然……!」
 ブンブンとちぎれそうなくらいに首を横に振って応える。
「お! やっぱ冰君と氷川はこうでなくっちゃな!」
「違いねえ」
 しばし、人目も憚らずの強い抱擁の後、紫月と鐘崎の朗らかな声で二人はようやくと落ち着きを取り戻したのだった。
「よし、とにかく車に乗ろう。話はそれからだ」
 鐘崎がワゴン車のドアを開けてくれたので、皆で一緒に乗り込んだ。
 広めの車内に四人が向き合えば和気藹々、突飛な事件に巻き込まれたことなどまるで夢のように普段と変わらない幸せが戻ってくる。運転手と付き添いの男も周が汐留から連れて来た側近たちだったので、冰もよくよく顔見知りであり、
「冰さん、紫月さん! ご無事で良かった!」
「ありがとうございます! 皆さんにもご足労お掛けしてすみません!」
 誰しもが安堵した表情で、車内は明るい笑い声に包まれた。
「――冰、それから一之宮にもとんだ災難に遭わせちまったが、本当にすまない」
 周が真摯に謝った側では、紫月が冷やかし半分で明るく笑っていた。
「しっかし早かったなぁ! お前らのことだから、ぜってえ追っ掛けてくるだろうなとは思ってたけど、早くても夕方かなって」
「そりゃ、お前。愛の力ってやつだろうが」
 鐘崎も軽口で返す。
「カネにも一之宮にも本当に世話になったが、とにかく無事で良かった。それで――まずは言っておかなきゃならねえが、冰――」
 周がじっと真剣な顔つきで冰を見つめる。
「うん?」
「お前を訪ねていった唐静雨だが、あの女は俺の元恋人なんかじゃねえ」
「え!? ……そうなの?」
「ああ、とんだ濡れ衣だ」
「そうだったんだ……。実はその女の人だけど、今ちょっと……いろいろと……その、あって」
 冰はホッとしながらも言いづらそうに言葉を濁したが、周も鐘崎も既に彼女の抱える事情は把握しているとのことに驚かされた冰だった。



◆36
「お前たちが唐静雨の横領の件で心を砕いてくれようとしていることには本当にすまないと思っている」
「……白龍はもうそのことも知ってるんだ……?」
「ああ。カネやカネの親父さんたちの協力のお陰でな。横領については俺も驚いたが、それよりも……何の関係もない女のことでお前が心を痛めただろうことには申し訳ねえ気持ちでいっぱいだ」
 だが、自分の以前の知り合いというだけでそんなふうに思いやってくれている冰のやさしさと、それをあたたかく見守って助力をしてくれていた紫月の理解には、深く感謝の気持ちでいっぱいだと言って周は頭を下げた。
「あの女は大学時代の後輩でな。受講していたゼミが一緒だったというだけだ。まったく……! 何をどう勘違いすりゃ、元恋人だなんて台詞が出てくるんだか分からんが、とにかくお前にも皆にも心配をかけてすまないと思っている」
 冰は瞳をパチクリとさせながらコクコクとうなずいていたが、紫月は呆れ気味に背伸びをしながら苦笑してしまった。
「はぁ、やっぱなぁ。ンなところだろうと思ったぜ! マジで元恋人だったら、もーちょい余裕っつか自信っつか、こう……それっぽいオーラみてえなの? そーゆーの感じてもおかしくねえのになって思ってさ。けど、あの女はからっきしで、てめえのことっつーか、目の前のことしか見えてねえってな感じだったしな」
 確かにそうだ。周に会う為に必死で日本語を勉強して、就職やら移住やらに努力をしたことは認めるところだが、自分がどうしたいかということにだけ一生懸命で、周囲の人間の立場や気持ちなどはまったく頓着しないといった調子だったからだ。
 そもそも、周に会う前に冰を訪ねて別れさせようなどという考えからしていただけない。日本への移住など、まずは周に似合う女になるという、自分の目的の為に必要なことを揃えたまではよしとしても、次には”邪魔なものを排除”した上で会いに行こうという考えには首を傾げさせられるところだ。
 だが、まあ冰にとってはそんな女でも周の昔の関係者と聞かされれば放ってはおけなかったのだろう。闇市に売り飛ばされるというのも、さすがに気の毒と思ってしまい、何とか他の方法で解決できないものかと一生懸命に頭をひねらせたわけだ。周は、そんなやさしい恋人に申し訳ないと思いつつも、心底愛しくてたまらなく思えるのだった。
「でも、まあこうして遼と氷川とも無事に合流できたことだし、とりあえず良かったわ。それに、唐って女の会社の社長が割合マトモだったっつうかさ。俺らの話にも一応は耳を傾けてくれたし、その点は助かったな」
 紫月がそう言う傍らで、冰もその通りだとうなずいた。
「そうですよね。あの社長さんは俺たちに危害を加えるつもりとかはなかったみたいですし、社員の人たちも朝ご飯を出してくれたりしましたもんね」
「だよな。態度はチンピラ入ってたけど、根っから悪いヤツらってわけじゃなさそうだったしな」
 二人の会話を聞きながら、周と鐘崎はやれやれと苦笑させられてしまった。



◆37
「ったく、暢気なことだ。だが、とにかくは無事で良かった。お前らが拉致されたと思った時は正直肝が冷えたからな。なぁ、氷川?」
「ああ。実際、戦慄が走ったぜ。もしもお前を無事に取り戻せなかったらと思うと、俺は修羅か夜叉になっちまうところだった」
 確かに、拉致された当人たちも大変な思いをしたのは事実だが、それを知った時の周と鐘崎の気持ちを考えれば、当事者以上に動揺したに違いない。事態が分からない故に、有る事無い事想像してしまっただろうし、心配もひとしおだったはずだ。冰は無意識の内に周の腕を取り、しがみつくようにして頬を寄せていた。
 あえて言葉には出さずとも、その仕草からは『心配を掛けてごめんなさい』という切ない気持ちが伝わってくるようだ。長い睫毛を震わせる――そんな心やさしき恋人に、周もまた、ますます愛しさを募らせるのだった。

「さて――張から今夜のことは詳しく聞いている。お前たちがあの女の為に金の都合をつけようとまでしてくれたことは申し訳ないのひと言に尽きるが、正直なところそこまでしてやる義理はねえと思っている。特に……冰に嘘偽りを吹き込んで、要らぬ心配をさせたってだけでも許し難いってのに、その上てめえの横領絡みでお前らまで危険な目に巻き込んだ女だ。俺の気持ちとしては到底許せるものじゃねえ。だが、困っているのを見過ごすことができないお前らのやさしい気持ちには感謝でいっぱいだ。女のことはひとまず別として、張の仕事に手を貸すのは大いに賛成だ。いろいろと準備がありそうだが、俺たちも手伝うぞ」
 周が決意を秘めた顔つきで言うと、冰はまたもや驚きに瞳を見開いた。
「本当!? いいの……?」
「ああ――。張にもシャングリラの経営をはじめ世話になってるしな。お前が動きやすいように全面的にサポートさせてもらう所存だ。まずは必要なものの買い出しってことだが、賭け金の元手については考える必要はねえ」
「え……ッ!?」
「張の話じゃ、お前が元手から稼ごうとしてくれているってな。えらく恐縮していたぞ? 張は私財を投じて元手を作る労力は端折るつもりのようだったが、それは俺が持つから心配するな。お前の考えた方法で、ここ大一番の勝負だけに集中すればいい」
「いいの……?」
「もちろんだ。お前らをこんな目に遭わせたってのに、そんなことくらいしかできねえのが情けねえがな」
「ううん、そんなこと……! でも……それならすごく助かるよ。勝負に集中できるもの。ありがとうね、白龍!」
 冰は安堵の表情で素直に喜んでみせた。
「でもさ、白龍……。あの女の人のことだけど……実は俺、あの人の会社の社長さんにお金は何とかしますって約束しちゃったんだ……。だって闇市に売り飛ばすなんて怖いこと言うから……いくら何でもあんまりだと思っちゃって……。それに、怒らないで聞いてね……? 俺がお金を持って戻るっていう約束の証に……白龍からもらった腕時計を預けてきちゃったんだ」
 冰が少々シュンとしながら言うと、周は心底申し訳なさそうに眉をひそめた。
「やはりそうか」
「あ……やっぱり気がついてた? 腕時計をしてないこと……」
「いや、カネが推測した通りだと思っただけだ。それについては俺がカタをつける。腕時計も勿論取り返す」



◆38
「白龍……ごめんなさい。せっかく買ってもらった大事な時計なのに……」
「時計なんぞ構わん。例え返って来ずともまた新しいのをいくらでも贈るさ。お前の純粋に他人を思いやる気持ちは充分分かっているし、有り難いのひと言だ。カジノで得た収益を女の横領分に当ててやりたいというお前の厚意はきちんと伝えるし、張を手伝いがてらの副産物としてなら実際に現金をくれてやっても構わねえが、それは今回の件について女がことの重大さを理解しているかどうかを見極めてからだ。十分に反省して、今後一切俺とお前を煩わせないことを約束するというなら、お前のその温かい気持ちに甘えるのも有りだが、女の態度次第と思っている。いずれにせよ、きっちり話はつけるつもりだ」
「そっか。俺はあの人が闇市に売り飛ばされたりしなければいいなって、それだけだからさ。あとは白龍に任せるよ」
「ああ。すまねえな、冰。お前にはどれだけ礼を言っても足らねえ」
「ううん、そんなこと……」
 周はそんなやさしき恋人の肩をギュッと抱き寄せては、愛しそうに髪にキスをした。
「よし、その前にメシだ。もう昼も過ぎてるからな。腹ごしらえをしてから、買い物に回るとしよう」
 もう女の話で今の楽しい雰囲気に水をさすことはない。そう言いたげな周の言葉に冰もこくりとうなずいた。
「ご飯……! そういえばお腹空きましたね!」
 すっかり普段の明るさを取り戻した冰が喜ぶ側で、紫月も食指ウズウズといった調子でうなずいた。
「だよな! そういや、昨夜っからロクに食ってなかったわ」
「そりゃ俺らも一緒だ。何せ嫁が二人で姿を消しちまったんだ。メシどころの騒ぎじゃなかったぜ」
 鐘崎も半ばジョークを飛ばしつつ紫月を抱き寄せながらそう言って、周同様にチュッと髪に口づける。それを見ていた周も冰も、やはりこうして四人で向き合えるひと時が何よりの幸せなのだと実感する。
「それじゃ、しっかり精のつくもんでも食いに行くとするか!」
 周が早速に頭の中で良さそうな店をセレクトしていく。
「いいな。精がつくと言や、やっぱ肉だろ?」
「俺、汁モンも食いてえ! ラーメンとかスープとか」
「じゃあ中華ですかね? 肉団子もフカヒレスープも両方ありますし!」
 和気藹々、ポンポンと飛び出す会話が本当に楽しい。四人はそのまま老舗の中華飯店で大満足の昼食のひと時を堪能したのだった。



◇    ◇    ◇



 そして夕刻、カジノが開くまでにはまだ数時間ほど余裕があったので、一先ず近隣のホテルに部屋を取って待つこととなった。
 周が手配しただけあって、窓からはマカオの街並みが見渡せる素晴らしい景観の部屋だ。むろんのこと最上級のスイートタイプで、お茶やアメニティをはじめ、すべて痒いところに手が届くような設備も兼ね備えていた。
 そして、もうひとつ驚いたことには、なんと今夜の手伝いとしてモデルのレイ・ヒイラギと、その息子でヘアメイクアーティストをしている倫周が顔を出したことだった。
「冰の算段では変装が必要ってことだったからな。急遽、香港から駆け付けてもらったというわけだ」
 元々、周と冰の披露目の際には衣装やメイクなどの相談に乗ってもらうとして、今回の打ち合わせの為、彼らも周ファミリーの邸を訪れていたのだ。



◆39
 冰は自分でメイクなどをして変装するつもりでいたようだが、プロの倫周の手に掛かれば鬼に金棒である。再会を喜んだ後、早速に支度が整えられていった。
「今回は冰君が女性に変装するんだってね! それで、どんな雰囲気にすればいいかな?」
 倫周に訊かれて、冰はまず買ってきたドレスを広げてみせた。絹地が美しく、真紅に金の刺繍が施されたチャイナ服である。
「おや、これはまた! とても綺麗な色合いの素敵なドレスだね!」
「ええ、今回は外国からマカオに観光にやって来たお金持ちのお嬢様っていう感じでいきたいと思います」
 冰は照れながらも、あまり世間を知らない箱入り娘が執事の爺やを伴って初めてのカジノを体験するというシチュエーションを説明する。
「それで敢えて中華服なわけだね! それじゃ、カラーコンタクトを使って外国人ふうにしようか」
 倫周もワクワクとしながら冰のコンセプトを頭に入れていく。裕福な家庭に育ち、珍しいことには興味を示して物怖じしない、少々我が侭娘といった雰囲気がいいそうだ。バカンスで訪れたマカオで憧れの中華服に身を包み、映画で観た世界を堪能すべくカジノ体験に興味津々というお嬢様を目指してヘアメイクを作り込んでいく。
「よし! いい感じに仕上がった。こんなんでどうかな?」
 鏡に映った姿は、まさに冰が思い描いていた通りの箱入り娘の出来上がりである。といっても、我が侭娘の演技をしていない今の段階では、とても美しく気品のある娘にしか見えない。周はもちろんのこと、全員が溜め息もので心拍数を速くしたのは言うまでもない。
「冰……なんて美しいんだ……。このままカジノへ行かずにお前を拐っちまいてえくらいだ……! というよりもこんな綺麗なお前を人前に出すのは妬けて仕方がねえ」
 周は今にも抱き締めたくて堪らないといった表情でクイと華奢な顎を持ち上げる。
「白龍ったら……褒め過ぎだよ……」
 冰の方もそんなふうに色香のある仕草をされれば、なんだかムズムズとしてしまいそうだった。
 そんな二人の様子を微笑ましく眺めながら、次の役者を変装させようと倫周が笑う。
「えーと、お熱いお二人さん! お取り込み中のところお邪魔虫が失礼致しますよー?」
 ウィンクを飛ばしながらクスクスと冷やかすように微笑まれて、冰はモジモジと頬を染めた。
「えー、ゴッホン! それで、執事の爺やさん役はどなたがなさるのかな?」
 未だフフフと笑いながら倫周が問う。前回は周を初老の紳士に変装させたわけだが、今回も彼が演るのかと思ったわけだ。
 すると、珍しいことにその役は是非自分にやらせて欲しいと言って真田が名乗りを上げた。
「僭越ながら、私ならば変装も要りませんし、少々我が侭なお嬢様に手を焼いている爺やという役柄も素のままでいけると思います。是非とも私にやらせてください!」
 真田がそう言ってくれるので、厚意に甘えることにした。そうすれば周や鐘崎、そして紫月の手も空くので警備の方も万端となる。まさに適役といえた。



◆40
 それでも念には念を入れて面が割れないようにと、倫周は長い白髭のセットを持ち出してきて、真田にもメイクを施していく。まさに爺やの出来上がりである。
「真田さん、俺はかなり我が侭な言動で相手のディーラーさんを揺さぶろうと思っています。真田さんに対しても爺や扱いで高飛車な態度をとってしまいますが、びっくりしないでくださいね」
「かしこまりました。私も大役をお任せいただくことができてワクワクしておりますよ! 冰さんの演技にがんばってついていきたいと思いますので、よろしくお願い致します」
 言葉通りに期待満々の様子の真田を囲んで明るい笑い声に包まれる。誰もが共にこうしていられる幸せを噛み締めるかのように和やかなひと時となった。
 こうして皆が一丸となってカジノのオープンに備えたのだった。

 そして、いよいよオープンの時刻がやってきた。
 目的のカジノでは張と理事会の重鎮方が待ち受けており、まずはどのテーブルで勝負をかけるかの目星をつけていく。
 その間、カジノでの賭け事にも比較的精通している鐘崎は、紫月と共にダイスゲームやカードゲームに参加し、少しでも勝ちを得ることに協力することとなった。それと共にイカサマが行われていないかということにも目を配る。
 こうして少しずつ様々な箇所を観察して回った後、一番潰し易いと思えるルーレットのテーブルで今宵大一番の計画を実行に移すことと相成った。
 我が侭お嬢様に扮した冰が真田を伴ってルーレットへと近づいていく。いよいよ二人の演技の始まりである。
「爺や、爺や! これよ、これ! アタクシ、一度やってみたかったのよ、ルーレット!」
 我が侭お嬢様に扮した冰が嬉々とはしゃぎながらテーブルにつく。最初の数回は、わざと負け越して相手の出方を見極めるのが目的である。したがって、多くもないがそこそこには大金といった金額で賭けに参加することにした。
 冰は意気揚々とした素人ぶりで、お付きの真田は少々ハラハラとしながら成り行きを見守っているという演出を強調してみせる。ディーラーにしてみれば、いいカモが迷い込んできたという印象を持ったようだった。
 賭けは客の方が最初という方式なので、他の参加者に混じって適当な位置を指定する。
 すべての賭けが出揃ったところで、ディーラーがニッと口角を上げたのを見逃す冰ではなかった。
 ホイールが回されボールが止まると、結果は見事に客の全員が惨敗という形で勝敗がついた。
「ああーん、やっぱりそんなに上手くはいかないわねぇ……。何だか悔しいわ!」
 冰はあからさまに残念がって、二度目の勝負にはもう少しだけ大きな金額を賭けることにする。他の客も同様で、今の分を取り戻さんと再び結構な金額が賭けられていった。
「いいわ、次こそ……!」
 冰は期待顔で勝負を見つめる。だが、二度目もあっさりと客側がスられる形で終わった。
 それらをもう二度ほど繰り返し、相手のやり方や癖を頭に入れていく。そろそろ勝負に出られると踏んだところで、冰がガタりと立ち上がって、ディーラー相手に食って掛かった。



Guys 9love

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