極道恋事情
◆41
「信じられない! ねーえ、あなた! まさかとは思いますけどわざとじゃありませんの? これってイカサマですわよ、絶対!」
大袈裟に騒ぎ立てたことで、周囲のテーブルにいた客たちが何事かといったようにザワザワとし始めた。ところが、ディーラーの方は余裕の態度で冷笑してみせる。
「イカサマだなどと、とんでもございません。お嬢様、これがカジノでございますよ」
表向きは紳士的に微笑みながらも、素人はこれだから困るといったふうに笑う。ここからが冰たちの本番だった。
「冗談じゃないわよ! アタクシが素人だと思ってバカにしていらっしゃるのね! でも、おかしなものはおかしいのよ! あなた、アタクシたちが賭けていないところをわざわざ狙ってボールを落としているんじゃなくて?」
「まさか。いくらなんでもそんな奇跡のような技はできませんよ」
やれやれと呆れ気味でディーラーが笑う。
「そんなの信じられませんわ! アタクシにはわざととしか思えませんもの!」
冰が言い張るので、ディーラーの方も次第に迷惑だといったふうな顔付きになり、
「でしたら、次は私が先にホイールを回させていただきましょう。お客様はその後でお賭けください。それでしたらお疑いも晴れるかと存じます」
冰は目的の言葉を引き出すことに成功した。
「あら、そう? いいわ、でしたらそうしてくださる?」
「かしこまりました。ですが、お嬢様。私としてもこのようなお疑いをかけられた以上、一対一でのご勝負とさせていただきたく思いますが如何でしょう?」
これこそまさに冰が望んでいた成り行きだ。
だが、そこはおくびにも出さずに一瞬ギクっとした表情を見せてから、渋々と了承を口にしする。
「わ、分かったわ……。そ、それでよくってよ! どうせだから一目賭けで受けて差し上げるわ」
冰はプライドを突かれたといった雰囲気を醸し出すと、賭け金の方も周囲が驚いて目を剥くような金額を提示してみせた。爺や役の真田に顎でしゃくるようにしながら現金の札束をドカりとテーブルの上に積み上げてみせる。
「これを全部チップに換えていただける?」
「これはまた大胆な御方だ。よろしいのですか? 言っておきますが、一発勝負でございますよ?」
ディーラーはますますニヤけまじりで高飛車に笑う。冰も引っ込みがつかないという態度を装いつつも、プイと頬を膨らませながらうなずいた。
「よ、よろしくてよ! 元々このバカンスで遊ぶ為に持ってきたお金ですもの! それに……この程度の金額、アタクシにとってはお小遣い同然だわ!」
『ふん!』と強気の言葉を口にする。――と、ここで再び真田爺やの出番である。オロオロとしながらも、冰とディーラーの間に割って入った。
「お嬢様、お考え直しください! いくら何でもこのような大金……お父上が知ったら何と申されますやら……」
すると、ますます気に障ったとばかりに”お嬢様”は言い捨てた。
◆42
「爺やは黙っててちょうだいな! アタクシのお小遣いをどう使おうとアタクシの自由よ! お父様には関係なくてよ! それに……もしも勝てば三十倍以上になるのよ? それこそ映画みたいで素敵じゃないの!」
「そんな……お嬢様……! 映画とは違うのですぞ! そのような夢みたいなお話があるわけございません!」
「ああ、もううるさい爺やだこと! いいからあなたは黙っていらっしゃい! ディーラーさんも……早く始めてちょうだいな!」
ディーラーはニヤニヤとしながら、『それでは――』と言ってホイールに手を掛けた。
スマートな手つきでボールが盤の上に放たれると、その様子を見ていたギャラリーたちも固唾を呑んだように静寂が立ち込めた。
冰の視線が鋭く光る。だが、それはほんの一瞬のことで、周囲の誰にも気付かれない程度であった。
「ではお嬢様、どうぞお好きな位置を」
「そうね、じゃあ……赤の九番にするわ! 可愛らしくてアタクシの今日のドレスにもピッタリじゃなくて? きっと幸運の番号よ」
冰が戸惑いながらも気丈な感じでそう告げると、ディーラーはまたしてもニヤりと口角を上げた。つまり、彼が狙った位置とは違う番号だったからだ。
(ふん! バカな娘だ。全部スられるとも知らねえで、意固地になってこんな大金を張りやがって。これで俺の立場もより一層上がるというものだ)
心の中でほくそ笑み、『残念でございました』と告げる瞬間をワクワクとしながら待っていた。
ところが――だ。
ホイールの回転が止まると、なんと冰が言った赤の九番にボールがピタリとはまってしまったのだ。
周囲で固唾を呑んでいた客たちからはどよめきの後で大歓声が上がる大騒ぎと相成った。
「うっそ……。あら、いやだ……本当に勝っちゃったわアタクシ……!」
冰がこれみよがしに驚いてみせる傍らでは、爺や役の真田も歓喜に目を剥いている。
「お、お、お嬢様! なんとこれは……奇跡が起きたのでございますかな!」
「……ホントだわ! 奇跡って本当にあるのね……。っていうよりも……これは実力よね? アタクシの目利きじゃなくて?」
「そ、そうでございますな! さすがはお嬢様でいらっしゃいます!」
「だから言ったじゃない! いったいいくらになったのかしら? すごいわ、アタクシ! なんてツイているんでしょ! きっと神様が味方してくださったのだわ!」
大喜びする冰の目の前で、ディーラーは真っ青になりながら唇を噛み締めていた。
「バカな……そんなはずは……」
それもそのはずである。ディーラーにしてみれば、自分が狙った位置とは別の枠でボールが止まってしまったからだった。
(こ、こんなはずでは……)
だが、実はホイールにボールが投げ込まれた時点で、冰には彼が狙った位置が読めていたのだ。ただ、その時のわずかな手のブレもまた見切っていた冰であった。直前の交渉と大勢の観客たちの視線に押されてか、彼が絶妙に指の動きをミスしたことに気付いたからだった。
とにかくは”お嬢様”冰の大勝ちである。見ていた客たちの歓喜はおさまらず、店側も何事かと黒服や支配人までもが集まり出してきた。
ディーラーはますます蒼くなり、どうにかしてこの負けを覆さんと焦燥感に駆られていったようだ。
◆43
「お、お客様……お待ちください……! 如何でしょう? もう一度私にチャンスをくださいませんか? 私としてもこのままでは立つ背がございません。よろしければもう一度勝負を……」
その申し出に、観客たちは期待の視線を輝かせる。そうは断れないようにと、周囲を味方にせんとのディーラー側の思惑である。冰の方は一瞬戸惑うように困惑顔をしてみせたが、ムキになったようにしてその勝負を受けると言った。
「……いいわ。だったら次で本当に最後よ?」
「ありがとうございます。それで、賭けの額ですが――今お勝ちになられた分を全額というのでは如何でしょう?」
「……全額ですって!?」
「ええ。お嬢様は先程こうおっしゃいました。元々このカジノで遊ばれる為のお金だと。それに、私としましてもイカサマ呼ばわりもされたことですし、ここはひとつ名誉挽回をさせていただきたく思うのですが」
ディーラーの言葉を受けて、再び観客たちが騒ぎ出す。こうなれば嫌とは言えないだろうとの目論みなのだ。
冰は少々眉をしかめつつも首を縦に振らざるを得なかった。
とはいえ、この流れに持ってくるのが本当の目的であるわけなのだが、そこはおくびにも出さずに演技を続ける。真田も大わらわといった調子で援護射撃にかかった。
「お嬢様、おやめください! 爺は今度こそ絶対に反対でございますぞ! いくら何でも二度も奇跡が起こるなど有り得ません! それに……せっかくこんな大金を稼げたのでございますよ? 勿体のうございます! このまま換金して今夜はお暇致しましょうぞ!」
だが、観客たちは既に興奮状態である。続きを見たいと次々と野次馬が集まっては、終ぞヤジまで飛び出す始末となった。
「爺さん、やらせてやりなって!」
「そうだ、そうだ! 勝負なんてものは咲くも散るも一瞬の花なんだぜー!」
「お嬢様もまさかここで逃げたりなんかしねえよなー?」
まるでてんやわんやの大騒ぎである。客たちの声援に後押しされたディーラーはホッとしつつも今度こそ失敗しないとばかりに額をヒクつかせている。冰は致し方なくといった形で申し出を受けることとなった。
「わ、分かったわよ……。お受けすればいいんでしょう……?」
「そんな! お嬢様! おやめください! なんと言われても爺は反対でございます!」
「う、うるさいわよ! 爺やは黙ってなさい!」
「いいえ、黙りません! 絶対に反対でございます!」
「そ、そんなにキィキィ騒がないでちょうだい! 他の方々が見ていらっしゃるじゃないの! みっともないわ! それに……も、元々遊びなんですもの……」
例え負けても仕方がない、そんなふうに諦めの表情で唇を噛んでみせる。すると、波に乗ったディーラーからは少々上から目線の言葉が飛び込んできた。
◆44
「なんでしたら――勝敗にかかわらず、お嬢様が一等最初にお持ちになった元手の金額はすべてお返しするということで如何でしょう。それでしたら本当にお遊びです。気兼ねなくカジノの夜を楽しんでいただけると思うのですが――」
とにかくは今の勝負で持っていかれた分を取り返さねばと焦る気持ちが先立って、このお嬢様には是が非でも承諾してもらわなくては困る。今の勝負で負け越したものに比べれば、一番最初の掛け金など大した額ではないといえる。それに、こう言えば受けてもらいやすだろうと思う傍らで、彼もまた意地とプライドを見せたいわけか、観客の前で”いい格好”を装い始めたのだ。
こうなればいよいよ受けざるを得なくなる。冰は「それなら……」と言って受けて立つことを承諾した。
さて、フロアは稀に見る大騒ぎである。各所で賭けを楽しんでいた客たちが、一旦各自のテーブルを離れてルーレットの周りに詰めかけては、黒山の人だかりであふれかえってしまった。
今現在でも数億単位の賭け金である。もしもお嬢様が勝てば、一瞬で百億近い金額が動くわけだ。ギャラリーたちが浮き足立つのも当然といえる。
それらの様子に目を光らせながら、周と鐘崎、紫月らにも緊張が走る。万が一の乱闘に備えての体勢で身構える彼らと同様、張ら理事会の面々もディーラーのすぐ後ろ側に陣取って勝負の行方を見守った。
「では――入ります」
ディーラーがホイールを回し、ボールを投げ入れる。
無表情を装いながらも、彼は内心でほくそ笑んでいた。
(これで取り返せる――! こんな世間知らずのガキに恥をかかされてたまるかってんだ! どうせこの小娘が張りそうな位置なんぞ想像がつくってもんだ。女の好みそうな赤の一番か七番、もしくは女王を表す十二番ってところだろう)
そんなことを思い描きながら投げられたボールが勢いよくホイールの上で回転を繰り返す。
「それではお嬢様、どうぞ――」
余裕たっぷりの様子で言い放つ。
黒山の人だかりと化した観客たちも固唾を呑んで行方を見守る。
周と鐘崎、紫月はおかしな動きをする人物がいないかと目をこらす。
冰の真っ赤に艶めくルージュの唇が告げたのは――
「ノアールの十三番」
それを聞いた途端に、ディーラーの顔色が蒼白へと変わった。
(冗談だろ……!? まさか、そんな……!)
世間知らずの小娘が絶対に選ばないだろうと踏んで狙った位置を、お嬢様の冰は言い当ててしまったのだ。若い娘ならば赤――いや、仮に黒を選んだとしても、あまり縁起のいいとはいえない十三番という数字は絶対に外してくると踏んでの選択だった。
(くそ……ッ! ここで負けたら俺のクビは飛んじまう……!)
ディーラーは顔を真っ青にしながらも、最終手段に打って出ようとテーブル下へと手を伸ばした。いよいよ自身の技術では追い付かなくなったと踏んで、明らかなイカサマに切り替えんとの動作である。
それを察知した冰は瞬時に張へと目配せをして、腕を取り上げるのは今だとの合図を送った。
◆45
「待て。それはいったい何です?」
「な……ッ!? 何だ、貴様は……ッ!?」
「理事会だ。テーブルの下に隠したものを見せてもらおう」
「な……何をする! 離せッ!」
「このスイッチは何に使うものだ? まさかこれでボールの位置を狂わせようとでもしたわけか。明らかなイカサマの証拠だな」
「……ッ! クソッ……どうして……ッ!?」
焦りが先立ってか本来のポーカーフェイスを装うことも飛んでしまった様子でいる。言い逃れも儘ならず、ディーラーが蒼を通り越して顔を真っ白にしている側で、ホイールの上を跳ねていたボールが運命の一カ所で動きをとめようとしていた。
フロア全体が水を打ったように静まり返って、すべての視線が一点に集中する。
カタりと音と共にボールが止まった位置は、
「ノアールの十三番――。お嬢様、貴女様の勝ちです」
張がニッコリと微笑みながら告げた瞬間に、フロアは割れんばかりの大歓声に包まれた。
◇ ◇ ◇
こうして張敏の初仕事であるイカサマカジノ討伐は大成功をおさめた。冰の手腕はさることながら、周や鐘崎らの鉄壁の警護態勢のお陰で、特には乱闘が起きることもなく、張の理事会からの信頼も上がり、言うことなしの大団円である。理事会の重鎮方にも大感謝される中、周にピッタリと付き添われながら冰はカジノを後にしたのだった。
本来であれば、このままホテルへと戻って皆と歓喜の乾杯をした後、甘い夜を過ごしたいところであるが、冰にとっては一刻も早く唐静雨のいた会社の社長との約束を果たしてしまいたい思いが先立っていた。また、この件にケリをつけたい周にとっても同様で、冰の着替えだけを済ますと、鐘崎と紫月と共に唐静雨らの滞在するホテルへと向かったのだった。
せっかくの美しい女装姿を解いてしまうことは少々残念とも思えたが、流石にこの格好のまま社長らに会うわけにもいかない。今はとにかく騒動の発端である唐静雨との対峙にカタをつけることが最優先であった。
「老板、お待ちしておりました」
ロビーに着くと既に李が待っていて、出迎えてくれた。彼は昼間、冰と紫月の監視役として後をつけていた男たちを取り押さえてから、一足先に唐静雨と社長の元を訪れて、見張り方々待機していたのだ。李によって冰が周一族の縁者だと聞かされた社長は、ひどく驚き、蒼白となったそうだ。
冰はカジノで勝利した金額の中から女が横領したという五千万円を社長へと差し出した。
「約束のお金です。これであの女の人を闇市に売るなんてことは考え直していただけますね?」
テーブルの上に置かれたアタッシュケースの中にはギッシリと札束が詰め込まれている。それを目にするなり、社長はますます驚いて顔面を蒼白に染めた。
「まさか本当にご都合をつけてくださるとは……」
大金を目の前にしたというのもあるが、冰の素性を聞かされた今では恐ろしくて喜ぶどころではない。この、人の好さそうな青年のバックに、あの周一族がついていると思うと、それだけで脚がガクガクと震え出す。社長はどうしてよいやらオロオロとするばかりだった。
そんな中、社員たちに連れられて唐静雨という女が顔を見せた。
「焔……!」
女は周の姿を見るなり逸るようにその名を呼んだが、周の方は再会を懐かしむどころか笑うでもなければ言葉を掛けるでもなく無表情のままだ。大事そうに冰の肩に手を携えながらも、全身からは見る者をジリジリと焼きつくすような圧を伴ったオーラが滲み出ている。連れ立ってきた鐘崎と紫月、そして側近の李も似たような様子で、特には誰も口を開こうとはしない。ただそこに立っているというだけで部屋中が緊迫した空気に包まれているといった感じだった。
◆46
そんな様子に戸惑いながらも、テーブルの上に置かれた大金の束に気がついた女が驚いたように瞳を見開いた。
「これ……もしかして焔が……?」
女は、自分の為に周が都合してくれたものと勘違いしたようだった。
金がそこにあるということは、横領が知られてしまっただろうことを意味している。不本意ではあるが、それを知っても尚、周が助けてくれたのだと思ったらしい女は、感激に等しいような顔つきでいる。高揚に頬を染めながらも、すがるような視線で周を見つめた。
「焔……あの、あなたがアタシの為にこれを……?」
だが、周は顔色ひとつ変えずに無表情のまま言い放った。
「俺じゃねえ。それはここにいる冰が身体を張って用意してくれたものだ」
女は更に驚いて、硬直しながらも周にすがるように視線を泳がせた。
「唐静雨、久しぶりだな。こんな形で再会するなんざ思ってもみなかったが、今回お前のやったことは俺にとって極めて不愉快で許せるもんじゃねえ」
「……焔」
「お前は俺の大事な奴らに不快な思いをさせただけじゃなく、危険な目にまで遭わせた。だが、そんなお前の為にこいつらはこうして身を粉にして金を都合してくれたんだ」
「……ど……ういうこと……?」
女はまだ事の経緯が掴めずにいるようである。
「お前が闇市で色を売らされると聞いて気の毒に思ったんだろう。本来、冰にとって何の関係もねえことだ。それ以前にこんな迷惑なことに巻き込まれて、普通なら憤慨して当然のところをこの冰はお前の為に尽力してくれたんだ。それについてどう思うのか、まずはお前の意見を聞いてみてえもんだな」
「どうって……アタシは……」
動揺の為か、まったく言葉にならないといった調子でいる。
「俺としては横領を肩代わりしてやる義理はまったくねえと思っているが、冰のやさしい厚意だ。二度と俺と俺の周囲の者たちの前にツラを見せねえってんなら、この金はくれてやる」
女にとっては或る意味痛烈といえる最後通告である。ここで金を受け取って、横領がチャラになることは有り難いに違いはないが、そうすると周とは二度と顔を合わせられなくなる。むろんのこと女が望むような親しい関係などは到底論外で、単なる知り合いですらいられなくなるということだ。
どちらにせよ、痛いに違いはない。できることなら、金も貰えて周との仲も壊したくはないのは本音だが、そんなに美味い話などあろうはずがない。
返済の為に闇に堕ちて働くか、周と絶縁されるか、女は気が狂いそうなくらいの窮地に唇を噛み締めた。
「ア、アタシは……あなたに会いたかっただけよ……! お金のことだって……あなたの為に……日本語を覚えたり就活したり……それに……」
「専務という男の愛人を続けてきたのも全部俺の為だってか?」
女は取り留めのない言い訳を繰り返していたが、愛人の件までズバリと言い当てられて、ますます唇を噛み締めた。
「……ッ、その子から聞いたのね?」
キッと冰に恨めしげな視線を送りながら、まるで彼が告げ口したかのような口ぶりである。周はむろんのこと、これには鐘崎も紫月も呆れ返ってしまった。
◆47
「とんだ濡れ衣だな。冰はそんなことをチクるような奴じゃねえ。お前、こんなにまでしてもらっても、まるで人の厚意が分からんヤツだな。お前が横領したことは誰に聞かずとも既に調べはついている。俺の情報網を舐めるんじゃねえ」
今の周は普段の冰や身近な者たちに見せる穏やかな男ではない。マフィアのファミリーの顔そのものの厳しいオーラが全身から滲み出ている。おそらくは唐静雨自身も学生の時分には見たことのないものだったろう。次第にドキドキと心拍数を上げながら挙動不審に陥っていく様子が見て取れた。
「……別に……そういう意味で言ったんじゃないわ……」
「だったらどういう意味だ。それ以前に、お前はこいつに対して俺の元恋人だなどとのたまわったらしいが、それについても俺は腹を立てているんだ。そんな嘘を冰に吹き込んで、どういうつもりなんだ」
「……嘘……だなんて、そんな言い方ひどいわ……」
「酷えのはどっちだ。そんなことをされても、こいつはお前の為に精一杯試行錯誤してくれた。謝罪と礼のひと言くらいあってもいいと思うがな」
「そんな……! アタシは別に……そんなことしてくれなんて……」
「頼んでねえってか? これだけの大金を揃えてくれたこいつに対して、それがお前の態度というなら金は持って帰らせてもらう」
「……待って! 違う……。頼んでないなんて、そんなことを言いたかったわけじゃないわ。でも……どうしてその子が……アタシの為にお金を都合してくれるのか……分からなくて。それに……そんな大金だもの。こんな短時間にその子が揃えたなんて信じられないって思っただけで……。本当はあなたが揃えてくれたんじゃないの?」
「愚問だな。冰はたった今、カジノでこの金を稼ぎ出してくれたんだ」
「カジノですって……?」
「そうだ。お前の横領分を何とかして都合してやろうと、カジノで大勝負に出たんだ」
「そんな……」
それこそ信じられないといった顔つきで、女はますます唇を噛み締めた。
「アタシは……ただあなたに会いたかっただけよ……! あなたに会いに行くにはお金が必要だったわ……! 横領横領っていうけど、アタシは横領なんてしたつもりはないわ! 専務の丁さんと付き合ってきたのだって……全部あなたの為に……あなたが好きだから……! なのにあなたは……男となんか付き合って……。ショックだったわ……。あなたが普通に女性と付き合ってるなら諦めもついたかも知れない。でも男と結婚まがいの入籍までするって知って……我慢できなかったのよ!」
冰への礼どころか謝罪すらそっちのけで、今度は周に当てての恨み言が飛び出す始末だ。それこそ頼んでもいないことを『すべてはあなたの為にやったことだ』と言われても呆れるしかない。
「唐、何を勘違いしているか知らんが、これだけははっきり言っておく。俺は今も昔も変わらねえ。お前に恋情を持ったことなどただの一度たりとねえし、お前が俺をどう思っていようが、その気持ちに応えることはない。お前じゃなくても同様だ。男だろうが女だろうがそんなことは問題じゃねえ。俺が唯一無二の伴侶として心から愛しているのはここにいる冰だけだ」
◆48
「……そんな! 何でよ……何であなたほどの人がそんな子となんか! 信じられない!」
「――口のきき方すら忘れたか? だが、これだけは忘れるな。お前が”そんな子”と言ったこの冰は、お前を闇市に堕とさねえ為に奔走してくれたんだ。元恋人だなどと嘘八百を並べ立てられて、少なからず動揺もしただろうに、それでも尚やさしい気持ちをかけてくれた。それが分からねえならこれ以上話すことはねえ。てめえの不始末はてめえでカタをつけるといい」
「焔……! 待って! アタシは……」
「二度と俺の前にツラを見せるなよ」
周はグイと冰の肩を抱くと、即座に踵を返した。と同時に、卓上に置かれたアタッシュケースも李がスマートに片付けんと手を掛ける。
「待って、焔! ごめんなさい、その子に元恋人だって言ったことは謝るわ……! でも本当に……アタシはあなたのことを……あなたが誰かのものになるなんて耐えられなかったのよ! それだけなのよ……!」
半狂乱になって泣きわめく女を見ながら、冰は心が痛むといった顔つきでいる。このまま帰ってしまうのが躊躇われてか、無意識にもギュッと周の腕を掴んだ彼に、その様子を見かねた社長がおずおずと口を挟んだ。
「あの……周大人。差し出がましいことを申し上げるご無礼をお許しください。ですが、その……冰さんとおっしゃいましたか、その御方のせっかくのご厚意をこんな形で無にするのも心が痛みます。如何でしょう、ここは冰さんのご厚意を受け取らせていただいて……一旦このお金は私どもに返済してくださったということにしてはいただけませんか」
社長は床に頭を擦り付けるようにしながらそう言って、そして間髪入れずにこう付け加えた。
「私共は……知らなかったとはいえ、冰さんとそのご友人にたいへんな無礼を働いてしまいました。その謝罪として、この五千万円をお受け取りいただくという形にしてはいただけませんか……。もちろん、とんでもないことを申しているのは重々承知しております! ですが……」
せっかくの冰のあたたかい気持ちを無碍にしたくはない。金銭的な面でいえば、金が動くわけではないが、そういった形にしてもらうことで冰の厚意を踏みにじることは避けたいという社長の考えだった。
その申し出に周は歩をとめると、眉根を寄せながらも彼の気持ちは理解できるとして一瞥をくれた。
「だが、それじゃあんたの社にとってはまったく得にならん話だろう」
「とんでもございません! 冰さんとご友人を拉致のような形で強引に連れて来てしまったことは事実です。本来であれば、どうお詫びをしても許されることではないと思っております……!」
周にもその気持ちは充分に伝わったのだろう。
とにかくは周一族の縁者に手を出してしまったことへの謝罪をしなければ生きた心地がしない。社長の表情からはそんな彼の必死な気持ちが見てとれた。
「いいだろう。あんたの気持ちは分かった。冰らを拉致したことは水に流してやる」
「は……っ、有り難きご理解とご厚情、心より感謝致します……!」
周はその気持ちを汲み取ると、冰を連れて今度こそ部屋を後にした。
◆49
「待って……! 待ってよ、焔!」
女が叫んだが、もう周が振り返ることはなかった。鐘崎と紫月も後に続き、李もアタッシュケースごと金を引き上げて退出した。
残された女は呆然と床にへたり込んでしまった。
彼女が東京にマンションを買っていることは、社長らの方でも既に調べがついているだろう。それを売り払えば、少しはまとまった金額ができるというものだ。横領分が全部戻ってくるわけではないが、少しでも足しにはなるはずである。あとは彼らがどう動こうが、女がどうなろうが、周にとっては感知するところではない。社長という男もそれなりに常識があるようだし、冰が周一族の者と知った以上、もう二度と厄介事に巻き込むようなバカはしないだろう。女に厚情をかけてくれた冰には申し訳ない結果となったかも知れないが、一先ずは闇市に売り飛ばされるという話は立ち消えになったわけだし、それだけでも女にとっては御の字であろう。周にしてみても、ほぼほぼ納得の形で今回の騒動に終止符を打つこととなったのだった。
◇ ◇ ◇
そうして周らがホテルへと戻ったのは、午後の十一時を回った頃だった。夜半ではあるが、皆まだ起きて待っていてくれて、冰と紫月は今回の拉致からの奪還に尽力してくれた礼を述べたのだった。
兄の風と彼に付いてきた側近たちにも周が部屋を用意したので、今夜は皆で同じホテルに一泊することとなった。どうせ明日からは周と冰も香港の実家に行くことになっていたので、帰りは風の手配したフェリーで共に帰省することになった。
一方、張の方もイカサマカジノで冰が稼ぎ出した残りの換金分を持参してホテルへと駆け付けてくれていた。冰が唐静雨の為に持ち帰ったのは約束の五千万円分だけだったからである。
「雪吹君、周焔さん、今回は本当にお世話になりました。お陰様で理事会から任された初仕事も大成功を収めることができました。何と御礼を申し上げても足りません」
張が丁重に礼を述べる傍らで、理事会の重鎮といわれている者たちも全員が同行していて、揃って頭を下げる。ここマカオでは相当の立場がある重鎮たちでも、周一族の前とあっては非常に丁重になるわけだ。
皆からの礼と絶賛の嵐に、冰はモジモジとしつつも戸惑っていたが、それよりも何よりもカジノで勝ちを決めた換金額の方にたじろいでしまっていた。
元手は周が持ったものの、ルーレットの一目賭けで二回も大勝ちしたわけだから、その金額は目を剥くようなものである。冰にとってはそれこそ映画かドラマの世界である。実感が湧かないどころか、そんな大金を『はい、どうぞ』と並べられても、それこそどうしていいやら困惑するばかりであった。
「白龍、ちょっといい?」
「ん? 何だ」
「えっとさ、俺困るよ……。こんな大金どうしていいか……見てるだけでも怖いし」
張と理事会の重鎮たちは真っ当な勝ちで得た勝利の証だから遠慮なく受け取ってくれと言うが、冰にしてみればとてもじゃないがそんな気にはなれないといったところなのだ。元々、唐静雨の横領分を補填できれば御の字と思っていただけなので、それ以外の額面を受け取ることなど微塵も脳裏になかったわけである。その横領分も、結局は社長が今回の騒動に巻き込んでしまった詫びとして返してくれたことだし、周に出してもらった元手もそれで十分まかなえる。それ以外の金は皆で分けてもらえればいいと冰は思っていた。
◆50
「あのさ、今回俺が拉致されたことでご心配やご足労をお掛けしてしまったお兄様やファミリーの皆さん、鐘崎さんや紫月さん、レイ・ヒイラギさんに倫周さん、真田さんに李さんたち。それにお世話になった張さんたち。日本で捜索に尽力してくださった鐘崎組の皆さんや劉さんも……。とにかく携わってくださった皆さんで分けていただくのはどうかな……?」
冰は小さな声で周の耳元にそう囁いた。自分は周の側に居させてもらえればそれが何よりの贅沢だと思っているので、これ以上は望むものなどない、ましてやお金などはいらないのだと冰は言うのだ。カジノでの勝負に勝てたのも皆が周囲を固めてくれたお陰に他ならないし、自分一人の力などでは決してないと、心からそう訴えてくる。
何とも寡欲なことである。こんな大金を目の前にしても怖いだけだと言い、世話になった人々への感謝の気持ちを忘れない。そして、これからもただ側にいられさえすればいいのだと言ってくれる、周はそんな恋人を心底愛しく思わずにはいられなかった。
「冰がこう言っているので、如何でしょう。皆さんで役立てていただくというのでは」
その意を聞いて誰もがとんでもないと首を横に振ったが、周と冰の強い希望もあって、結局勝利の大金は皆で分けることとなった。
それにしても一人一人に行き渡るのはものすごい金額である。張たちの理事会へも寄付をすることにし、それでも余りある報酬をそれぞれが手にして騒動は幕を下ろしたのだった。
「よし、それじゃ明日は皆で香港だ。夕飯までに向こうへ着けばいいから、今夜はゆっくり休んでくれ」
突発的な出来事で疲れもあるだろう冰らのことを考えての兄の風からの言葉である。ここ二日ばかりはろくに寝てもいられなかっただろうし、何より無事に再会を果たせた恋人たちの気持ちを考えれば、明日は昼過ぎまで水入らずで過ごさせてやりたいと気遣ってくれる兄に感謝をしながら、周と冰、そして鐘崎と紫月はそれぞれの部屋へと引き上げていったのだった。
時刻は既に日付を超えている。深夜のマカオの街並みを見下ろしながら、冰は愛しい恋人の大きな腕に包まれていた。
「すまなかったな、冰。唐静雨という女の件でお前には嫌な思いをさせちまった」
「ううん、俺の方こそ心配掛けちゃってごめんね」
「無事でよかった――」
短い言葉ではあるが、ギュッと抱き包んでくる腕がもう二度と離さないと云いたげなのが悲痛なくらいに伝わってくる。こうして抱き締め合える、ごく当たり前のことが何よりの幸せなのだという周の思いがあふれているのがよく分かった。
クイと顎先を掴まれたと同時に唇全体で包み込むような口づけをされて、冰は瞬時に頬を染め上げた。
◆51
「お前、不安には思わなかったのか? いきなり現れた見ず知らずの女に元恋人だなんて吹かれたんだ。驚いたろうに」
口づけから解放すると同時に長い指先で髪を漉きながら周が問う。すると、冰は意外にも穏やかにはにかみながらこう答えた。
「うん、最初聞いた時はビックリしたけど、でも白龍みたいにカッコいい人だもん。付き合ってた女性がいたっておかしくないし、当然かなって。ただ、今もまだ諦められないでいるみたいだったからさ。それについてはどうしようってちょっと思ったけど……。でも案外平気でいられたのは紫月さんのお陰なんだ」
冰にとって紫月は、周と自分の仲を一等よく知る人物であり、それと同時に周が二股を掛けるような男でないことを信じ切ってくれている周の長年の親友だ。そんな彼が傍に居てくれることは何より心強く、励みに思えていたのだ。
「何て言ったらいいんだろう。あの時は紫月さんが白龍のように思えてさ。不思議な安心感をもらえたっていうか……紫月さんを通して白龍と鐘崎さんもすぐ側で見守ってくれているような感じがしたっていうか……。とにかく自分でもビックリするくらい冷静でいられたんだよね。それに、あの女の人が何を言っても、その都度紫月さんが受け止めてくれてさ。まるで盾になるみたいに守ってくれたっていうのかな。俺はすっかりお任せしきりだったけど、すごく助かったんだよ。一人だったら心臓バクバクしちゃってパニくってたかも」
えへへと苦笑ながらもそんなことを言った冰を、背中から包み込むように抱き締めた。
「例え誰が好意を持ってこようが、俺にはお前だけだ。未来永劫、俺が愛するのはお前ただ一人だと誓う。それだけは忘れてくれるなよ?」
「白龍、うん……俺もね、なんていうか無意識にだけどそう思ってたんだなって、今になって気付いたんだ。静雨さんが今でも白龍を好きだとしても、会えば白龍が何とかしてくれるだろうって。不思議なんだけどさ、白龍のことを好きだと言われても不安には思わなかったっていうか、自分でもびっくりするくらい落ち着いていられたんだよ」
「つまり――信じてくれてたってことだな?」
「あー、そっか! そうなんだね、きっと」
「俺がお前を裏切るようなことはしねえと信じられたから落ち着いていられた――そうだな?」
「うん」
「それでいい。俺たちは――例えどんな横槍が入ろうと、互いを信じ合える本物の伴侶という証だ。俺は恋人として、そして生涯の伴侶としてお前だけを愛すると誓う。何があってもこれだけは揺るがねえからな」
「ん……うん! 俺も白龍だけを……んと、その……あ、愛……」
頬どころか耳まで朱に染めながら『愛している』という言葉を恥ずかしそうに口ごもって言えずにいる様子がたまらなく愛おしかった。周はそのまま華奢な身体を軽々と姫抱きすると、待ちきれないというように真っ直ぐベッドへと向かった。
やさしく丁寧に服をくつろげながら、
「周冰――」
色香のある声でポツリとそうつぶやかれたのに、冰は不思議そうに瞳を見開いた。
「……え?」
「お前の名だ。明日、香港へ帰ったらすぐにでも籍を入れたい」
「白龍……?」
「本当は披露目の宴と共にそうする予定だったが、とてもじゃねえが待っていられない気分だ。俺とお前が伴侶だという明らかな形の為にも一刻も早く同じ性を名乗りたい」
「白龍……」
「これは俺の我が侭だが――お前が嫌でなければ是非ともそうして欲しい」
「嫌だなんて! そんなことあるわけない……!」
◆52
周としては、籍が変わる冰の気持ちを考えて、披露目の日までは雪吹の性を名乗らせておいてやるつもりだったのだが、今回のようなことがあるとどうにも気が逸ってならないのだ。互いの想いは揺るぎないと分かってはいても、形にしてしまいたいと思うのは男の欲張りというものだろうか。周はすまなそうに瞳を細めながらも、自らの素直な思いを包み隠さず口にしたのだった。
「予定よりも少し早いがお前に指輪を贈ろう。俺たちが唯一無二の伴侶だという証の指輪だ。明日、早速選びに行きたいと思っている」
「白龍……いいの?」
「もちろんだ。それと同時に入籍の手続きもしたいと思うが、いいか?」
髪を漉きながら、額と額をコツリと合わせてそう問う。冰はもう頬と耳どころか鎖骨から胸元までを真っ赤に紅潮させながらも、潤み出した涙を愛しい男の胸に擦り付けるようにしてコクコクとうなずいたのだった。
「――あのドレス、似合ってたぜ」
「え……?」
「お前の女装姿だ。あの格好のままで抱くってのもたまにはいいかと思ったが、着替えちまったからな。もう少し見ていたかった気もするが」
そうなのだ。カジノから唐静雨らの待つホテルへ向かう前にドレスは脱いでしまったし、化粧も落としてしまったので、今はいつもの冰なのだ。
「だって、いくら何でも社長さんたちと会うのに女装のままじゃまずいかなと思ってさ」
「まあな。あんな綺麗な姿を見知らぬ他人に見せてやる義理もねえしな」
そうは言うものの、やはり名残惜しい気がするのも事実なのだ。
「あ、あのさ……だったらもう一回着てみようか?」
冰がモジモジとしながら訊くと、
「ああ、いずれまた――な?」
周はニッと口角を上げて笑い、そのまま細い肢体を包み込むように抱き締めては、何度もついばみながら唇を重ね合わせた。
「今はもう待てねえからな」
言葉通り逸った雄が腰元を撫でた感覚に、冰もまた熟れるほどに頬を染め上げたのだった。
「白龍……大好き……」
「ああ。俺もだ」
「あの、俺……ずっと、ずっと傍にいて……いんだよね?」
「当然だろうが。ずっと一緒にいてくれなきゃ困る。誓うぜ。二度と離さねえ!」
「うん、うん……!」
「なぁ、冰――」
「――? ん?」
「さっきの真田の白髭の変装を見てて思ったんだ。――何十年か後には俺の髭も髪も白くなって、いずれ追い掛けるようにお前も白髪になって……俺たちは二人でじいさんになって召されるまでぜってえ一緒にいるんだってな」
「白龍ってば……。でも白髪の白龍もカッコいいんだろうな。それに……髭が白くなるのも渋いよね。何だかドキドキしちゃうなぁ。おじいさんになった白龍かぁ……。っていうか、ロマンスグレー?」
遠い未来の自分たちを想像しながら頬を染めた冰を、周は逞しい腕で抱き締めた。
「白髪のお前も可愛いだろうぜ?」
今はまだ筋肉が固く張っているこの腕も、いつかは細くなり筋力も衰える時がくるのだろう。それまでずっとずっと一緒に生きていこう。
ずっと、ずっと未来永劫――。
◆53
「そっか、それで共白髪っていうんだね」
可愛らしくはにかんだ冰の唇を奪いながら、周は雄の色香を漂わせて不敵に微笑んだ。
「知ってるか? じいさんになるとな、ここにも白いのが混じるそうだぞ?」
「え……?」
グイと手を掴まれて持っていかれた先に硬く怒張した周の雄を取り巻く体毛を弄らされて、冰はみるみると顔を真っ赤に染め上げた。
「白……白龍ったら……」
「嘘じゃねえぜ。俺がまだ中坊の頃だったか、真田と一緒に温泉に出掛けたことがあってな」
「温泉?」
「その時に真田が自慢げに言ってたからな。白髪が混じるってのは、酸いも甘いも知った大人の男の勲章だそうだぜ?」
「うっそ! 真田さんがそんなこと言うわけ……」
「あれでいて案外ユーモラスな男だからな、真田は」
「ええー、ほんとかなぁ?」
クスクスと笑う仕草がたまらなく可愛くて、周は大きな掌で包み込むように冰の頬や髪、耳や首筋などを愛しげに撫でた。
「冰、身体中、上も下も共白髪になるまで一緒に生きてくれるな?」
ド・ストレートともいえるエロティックな、それでいてとびきり真剣で甘さもたっぷり含んだ台詞が心拍数を跳ね上げる。
「白龍……ったらさ。髪はともかく……し、下もって……何だかすっごくエッチだよ、それ……。うん、でもそれまで……ずっと、ずっと一緒にいたいよ」
「当然だ。生涯共にいて、お前だけを大切にすると誓うぜ。神かけて。どんなにじいさんになろうとずっとエッチな旦那でいてやるさ」
「エ、エ……エッチ……って」
「嬉しいだろ?」
「……うん、ん……嬉しい!」
二人は互いに睦み合い、繋ぎ合い、空が白々とするまで愛を育み合ったのだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、真向いの部屋でも周らと同様ほとばしる熱情を紡ぎ合う恋人たちが二人――言わずもがな鐘崎と紫月だ。
今回は周の元恋人絡みの事態だったゆえ、気持ち的には第三者であったわけだが、予期せぬ拉致に遭ったのは紫月とて同じである。愛しい伴侶が無事に腕の中に戻ってきたことに安堵する鐘崎の瞳は、自分のものが確かに手中にあるということを確かめたいと訴える欲情の焔が灯っているかのようだった。
どちらかといえば、周よりは雄の本能剥き出しといったタイプの男は、早速に愛しい者のすべてを我がものにするべく組み敷いて直情的に交わりを求める。
心も肉体も隅から隅まで食らい尽くす勢いで激しく求める男を目の前に、紫月も頬を真っ赤に染め上げながら受け止めた。
「……ったく、相変わらずに獰猛なんだからよ……ッあ……!」
服は毟り取るように剥がされて、あっという間に全裸にさせられてしまう。自らの服も逸るように脱ぎ捨て、逞しい肢体を惜しげもなく晒す鐘崎の瞳は、広大な大自然を支配し、野生に君臨する王者のようだった。
固く筋肉の張った肩先には雄々しい紅椿の彫り物が雄の色香をより一層倍増させている。
灯りのひとつも点けない部屋で、ユラリとうごめく肉体美を月明かりだけが照らし出す。
そんな様を見上げながら、紫月もこれから激しく愛されるのだろうという期待に身体のあちこちが疼き出してしまいそうだった。
◆54
「やっべ……、俺、まさに今から食われちまう小動物みてえな気分……」
服を剥ぎ取るまでは強引で獰猛だが、一糸纏わぬ姿になれば、相反してゆっくりとした動きに変わる。既に捕らえて組み敷いた獲物を見下ろしながら、味わうまでのひと時を楽しんでいるかのようなのだ。紫月はそんな亭主を見上げながら、サバンナの中で堂々とうごめく百獣の王を連想してしまうのだった。
「い、いつまで眺めてんだって……! ヤるんならサッサとおっ始めれば……いいじゃん」
「お前がいつも獰猛だ獰猛だと騒ぐからな。今夜はやさしく丁寧に抱いてやる」
「……ッ、何が丁寧だよ。お前からやさしくなんて台詞が出てくる自体が信じらんねえっつか。……ったく! マジ野生のライオンって感じ」
「そう褒めるな」
「や、褒めてねえ……っす」
「知ってるか? ライオンってのは獰猛なだけじゃねえんだぜ? 愛する者にはとびきり丁寧に、そして何より一途に愛情を注ぐ生き物だ」
嘘か誠か、しれっと呟きつつもその言葉通りに額から頬、眉から睫毛の一本一本まで毛繕いでもするように念入りな愛撫が施されていく。首筋、鎖骨、耳の穴まで濡れた舌先で舐められ尽くして、紫月はゾワゾワととめどない欲情にブルリと身を震わせた。
「ラ……ライオンって一途か? どっちかっつったら……縄張り中の雌をハベらしてるハーレム王者って気がすっけど」
「俺がライオンだとしたらお前にだけ特別丁寧で一途だってことだ」
「や……あの、丁寧っつか、これ……どっちかっつったらしつけえの間違いじゃ……ね? ……って、ぅあッ……」
「しつけえとはご挨拶だな。相変わらずに口が悪い」
ニヤっと瞳を瞬かせたと思ったら、腹の上に硬い感覚をなすり付けられて、紫月はゾクりと肩を震わせた。
「やっぱ獰猛じゃねっか……! ンなガッチガチにしやがって……ッあ……!」
「当然だ。二日ぶりなんだ、ガチガチにもなろうってもんだ」
「や、たった二日ですけど……」
「お前が拉致されてからというもの、一日千秋の思いでいたんだ。俺にとっちゃ数年ぶりくれえの感覚だ」
「バッ……、てめ、またンな都合のいいヘリクツ……」
「屁理屈なんかじゃねえ。本心だ。無事に戻ってきて良かった。愛してるぜ、紫月」
「……ッ、遼……そゆの、反則……」
「ほう? 反則か――それじゃ詫びも含めてご褒美だ」
長く形のいい指先が頬を撫で、息もできないほどの濃厚な口づけに口中を掻き回されながら、下肢には逸りに逸った雄をゆっくりと侵入させられて、紫月は突き上げられる欲情のままにのけぞった。
「全部呑み込んだな?」
「んあ……ッ、またそーゆーエロいこと平気で言う」
「当然だ。愛してるんだ、エロくもなろうってもんさ。愛がなけりゃ交尾なんざ意味がねえ」
「……ッ! こ、交尾とか……マジで獣……!」
「獣になるのはお前に対してだけだ。照れて憎まれ口を叩くのも可愛くて仕方ねえ」
「……ッ、遼……! お、お前って、そゆ恥ずいこと……余裕ブッこいて真顔で言うって、やっぱ反則……」
「こういう反則ならいいだろ?」
「ン……、ま、まあ……いっけど」
「俺だって……言うほどそう余裕はねえんだ。今夜は時間を掛けてたっぷり愛してやるぜ」
余裕の笑みの中に時折たまらないといった快楽の表情を覗かせる男の腕の中で、夜の帳が消えてなくなるまで愛され尽くした紫月だった。
◇ ◇ ◇
◆55
そして翌日――。
兄の風の心遣いで午前中いっぱいまでゆっくり水入らずで過ごした恋人たちは、午後一番で香港の周邸へと向かった。
鐘崎と紫月の二人は、本来は予定になかった香港行きを楽しんでいる様子だった。まあ、拉致を知った当初は確かに焦らされたハプニングだったといえばそうに違いないが、思い掛けず旅行気分を味わえたことはラッキーだと言って、特に紫月の方はご機嫌のようだ。
「まったく、暢気なことだ」
フェリーの甲板に出てはしゃいでいる”嫁”たちの姿を見守りながら、周と鐘崎の旦那組は苦笑状態である。
「だが、まあ――あんなことがあってもへこたれずに、ああして元気な笑い声を聞くことができるってのはいいもんだな」
「確かにな、ポジティブなのはいいことだ」
「で、お前らはどうするんだ。せっかくだから二、三日ゆっくりしていきゃいいと思うが――仕事の都合が許せばだが」
周が尋ねると、鐘崎もそうするつもりだと言ってうなずいた。
「紫月もお前らの披露目の件に関しては興味津々のようだしな。特に冰の衣装選びなんかは一緒に見に行きたいとか。今は急ぎの仕事も入ってねえし、親父も日本にいるから仕事の方は大丈夫だそうだ」
「そうか。だったら部屋は俺の方で用意させてもらうからゆっくりしていってくれるといい」
周としても、自分の過去の関係者が引き起こした事件に巻き込んでしまった詫びの気持ちもあるのだろう、鐘崎は遠慮なく言葉に甘えることにしたのだった。
そうして香港の実家に着いた一同を、逸る気持ちで待っていたのは母親の香蘭だった。門に車が見えるなり、玄関を飛び出して出迎えるほどの興奮ぶりである。今回もまた冰が拉致まがいの事件に遭ったというので、とにかく心配でならなかったらしい。
「冰! 冰ー! ああ、本当に無事で良かったわ!」
車から降りるのさえ待てずといった調子で、胸に飛び込んできた香蘭に驚きつつも、その様からは本当に心配を掛けていたことが分かって、冰は有り難さに心の奥がキュッと熱くなるのを感じていた。
「お母様……! ご心配お掛けしてすみません」
「ええ、ええ! もう居ても立ってもいられなかったのよ! 私も一緒にマカオに行くって言ったんだけど、旦那様と風がお前はここで待っていろなんて言うんだもの! 息子の一大事だっていうのに、家で待ってるしかできないなんて――気が気じゃなかったんだから! でも本当に無事で良かったわ!」
”息子の一大事”という言葉が深く心に沁み渡る。彼女にとっては既に家族という認識でいてくれるのだろう。冰はそんな義母の気持ちが心底有り難くて、思わず感激の涙を誘われてしまいそうだった。
そんな母親同様、父の隼も皆の無事を喜んでくれて、一同は夕飯までの時間をそれぞれの部屋で寛ぐこととなった。
◆56
周と鐘崎は今回の経緯を報告がてら、父と兄と共に広間で世情話を始めている。その間、冰と紫月は母親の香蘭に誘われて、季節の花が美しく咲き誇る中庭を堪能していた。
「今はね、ちょうど薔薇が見頃なのよ」
そういえば春季の薔薇が咲く時期である。
「こちらのお庭は本当にたくさんの花が植えられているんですね! 前に伺った時は椿が綺麗でしたし」
「だよな! 椿といえば遼の肩に入ってる彫り物と同じだなって思ったのを覚えてるわ!」
冰と紫月が花々を楽しんでくれている様子に、母の香蘭も嬉しそうに微笑んでいた。
「でも冰、今回は本当に大変だったわね。旦那様と風からチラッと経緯を聞いたんだけれど、焔の大学時代の後輩の女の子があなたを訪ねて行ったのがきっかけで事件に巻き込まれたとか」
息子の昔の女性関係でゴタゴタしたなどと聞いては、母としても心配するところなのだ。
「ええ、まあ……。ちょっとビックリしましたけど、でも紫月さんが一緒でしたし、とっても心強かったんですよ」
「そうね。紫月もいろいろと力になってくれて本当にありがとう」
「いやぁ、とんでもない! 俺がついていながら結局拉致られちゃって、役に立ってんだか立ってねえんだかってところですが。けど、偶然にも一緒にいた時で良かったと思ってますよ。冰君一人で連れてかれてたら、あいつマジで修羅になり兼ねねえですもん」
香蘭にまで礼を述べられて、紫月は照れ臭そうに頭を掻いてみせた。
「ほんとにそうね。焔の側には遼二がついていてくれたし、あなたたちの友情には感謝でいっぱいだわ」
庭先からは暮れ出した初夏の香港の街並みにポツポツと灯りが輝き出すのが見て取れる。もうそんな時刻だ。
「そろそろお夕飯の支度が整う頃だわね。二人共、今夜はたくさん食べて疲れを癒してちょうだいね!」
「ありがとうございます!」
「ここん家のメシは最高に美味いっすからね! 楽しみです!」
朗らかな笑い声に包まれる、そんな三人の姿を邸の窓辺から周と鐘崎が愛おしそうに見つめていた。父や兄との話を終えて、二人は一足先に今夜泊まる部屋で寛いでいたのだ。
「継母さんもホッとされたようだな」
鐘崎が庭を見下ろしながらそう呟く。
「ああ、まさかあんなに心配してくれていたとはな……。驚きと同時に有り難いことだ」
「なあ、氷川。もしかしたら冰から聞いているかも知れんが――」
「ん――?」
「前回ここに来た時に皆で晩飯をご馳走になった時のことだ。お前は親父さんたちとの話で一生懸命だったろうから聞こえてなかったかも知れんが、あの時お袋さんたち二人が冰に言ってたことがな――」
まず最初に話を切り出したのは周の実母の方だったそうだ。
「焔にお母さんが二人いるなんて戸惑ったでしょうってな。お前の実母さんにしてみれば、香蘭さんに対して申し訳ねえって気持ちがあったのかも知れねえ」
つまり、妾の自分がこのような席に呼んでもらえたことを恐縮すると共に、正妻の香蘭への感謝を伝えたかったのだろう。
「その時に香蘭さんがこう言ったんだ。旦那様――つまりはお前の親父さんのことだが――彼に自分の他に大事な女性がいると知った時は正直なところ驚いたし、戸惑いもしたってな。だが、あの頃、若かった自分がマフィア頭領の嫁としていろんなものを背負っていけるのかという不安の中で、同じような立場のあゆみさんがいたことで心強くいられたってな。独特のしきたりや側近たちとの向き合い方なんかで悩んだ時もお前のお袋さんが親身になって相談に乗ってくれたりして、随分と気が楽になったんだそうだ」
「継母がそんなことを……?」
◆57
「ああ。それにあゆみがいたから白龍っていう可愛い子が生まれたんだし、こうして冰と出会えたのもあゆみのお陰だってな」
あゆみというのは周の実母の名前だ。継母の香蘭はこれまでも寛大な心で接してくれていたが、そんなふうに思ってもらえることは周にとっても実母のあゆみにとっても言葉にできないくらい有り難いことだった。
「継母には本当に……どう感謝してもしきれねえ。実母のことにしてもそうだが、俺や冰に対しても本物の家族以上に心を掛けてくれる。実母ももちろん大事には違いねえが、あの人――香蘭さんは俺にとって世界一誇れる大切なお袋だと思っている」
周がそう言った傍らで、鐘崎は続けた。
「これは俺の想像に過ぎんが――もしかしたら冰も今回のことであの時の香蘭さんの話を思い出したのかも知れねえと思ってな。唐静雨が本当にお前の元恋人で、もしもお前にとって今でも大事な存在であったならと考えたのかも知れん。冰は元々やさしい性質だから、単に困っている女を見過ごせなかっただけなのかも知れねえが、仮にお前が彼女のことを大事に思っているのなら自分もその思いに寄り添おうとしたんじゃねえかって」
鐘崎の仮説に、周は驚いたように瞳を見開いた。
「……冰が……か?」
「まあ、これは完全に俺の私見だが。ただ、香蘭さんがあれほど冰を大事に思うのも、そんな冰の思いを無意識に感じ取っていたのかもとな。いずれにせよ、お前さんと冰は本当に素晴らしい伴侶だと心底そう思うぜ」
鐘崎の言葉が心に沁みる。周は思わず目頭が熱くなるくらいに感動で心が震えるようだった。
「そうか……。そうなのかも知れねえ。俺はお袋たちが冰とそんな話をしていたというのは今初めて知ったが、本当に……俺は幸せ者だと痛感させられる。継母の心遣いも冰のやさしさも……俺なんぞには勿体ねえくらいだ。俺は冰を、あいつを生涯大切にする。さっき親父にも話したが、明日入籍を済ませようと思っている。冰に伴侶の証となる周家の印入りの指輪を贈って、一生涯大事にすると誓うつもりだ」
「そうか。俺も紫月も心からお前たちの門出を祝いたい。紫月のことだ、どうせ入籍の手続きや指輪選びにも立ち会いたいと言うだろうからな。一緒について行っても構わねえか?」
「もちろんだ。冰も喜ぶだろう」
周はそう言ってうなずくと、
「カネ、お前はいつも大事なことを気付かせてくれる。俺には考えも及ばねえような大事なことをだ。冰同様、俺はお前や一之宮という友を持てたことを誇りに思ってるぜ」
「ああ、俺もだ。お前と冰は俺と紫月にとってかけがえのない一生の友人だ。これからもよろしく頼む」
二人は真剣にそう言い合ってから、照れたように互いの肩を突き合った。
「長い人生だ。俺にもお前にも――この先も今回のようなことや、もっと面倒な事態が立ちはだかることがあるかも知れねえ。そんな時は互いがいるってことを忘れずに共に乗り越えていければと思う」
「ああ、そうだな。頼りにしてるぜ」
ガッシリと大きな掌を握り合う。そんな二人の友情を讃え見守るかのように、眼下には香港の街の煌めきが宝石を敷き詰めた帯のように伸びては地平線の彼方まで瞬いていた。
こうして周の学生時代の後輩だった女の登場で始まった騒動は、恋人たちの、そして友や家族との絆を一層深めてひと段落がついた。当初予定していた披露目の宴も日程が繰り上げられ、ひと月後の真夏を迎える頃に行われることが決まった。
周囲の人々のあふれる愛情に包まれながら、周と冰の新たな門出が始まりを告げたのだった。
恋敵 - FIN -