極道恋事情

11 厄介な依頼人1



◆1
 多かれ少なかれ、人は誰しも”厄介”と思える出来事や人物に遭遇することがあるものだ。それが仕事相手ともなれば簡単には関係を断ち切れるものでもない。鐘崎遼二にとって、今回の依頼人はまさに”厄介”というに値する相手であった。

 それはつい一週間ほど前のことである。鐘崎組に、とある財閥系企業の社長から海外のクライアントとの間で行われる規模の大きな商業取引きにあたって警護をお願いしたいとの依頼がきたことからその厄介事が始まったのだ。

 鐘崎の父親は裏社会では一目置かれる存在で、”始末屋”という呼称で名をはせている人物である。鐘崎組という看板を掲げ、世間からはいわゆる極道と呼ばれていた。
 とはいえ、広域指定暴力団に属しているというわけではなく、一般的にはあまり知られていない陰の裏社会を取り仕切るような立場であった。
 例えば、司法などの関係で表立っては動けない立場の人間に代わって、秘密裏に事案を解決するというような仕事を担っている。依頼人は政財界から個人の企業経営者など多岐に渡っていて、国際的な商業取引の護衛や通訳などの大規模なものが主ではあるが、中には個人的な依頼まで様々であった。例えば不良グループに入ってしまって抜けられずいる企業の社長の息子や娘を救い出して欲しいというような案件なども珍しくはないといったところなのだ。
 活動範囲も国内のみならず、アジア各国でも緻密に展開していて、体術や射撃、諜報活動やコンピューター関連――と、様々な分野で抜きん出ている精鋭たちで組織されている。息子である鐘崎も父に勝るとも劣らない切れ者ぶりで、若頭として組を支えている一人であった。
 そんな彼には唯一無二の伴侶といえる相手がいる。幼馴染みとして育った一之宮紫月だ。二人は男性同士だが、様々紆余曲折を経て互いを生涯の伴侶として誓い合った仲だった。
 そんなふうにして現在は順風満帆な鐘崎であったが、ここ最近で請け負った仕事に少々頭を悩まされるといった事態に直面していた。
 依頼の内容としてはごく普通の、財閥系企業の社長から海外のクライアントと規模の大きい取引きがあるので、護衛方々警備をお願いしたいというものだった。
 取引自体は無事に済み、取り立てて問題はなかったのだが、鐘崎にとって”厄介”と思えることは、社長の娘であり、現在は父親の秘書をしているという女の存在であった。
 彼女は二十代の半ばだそうで、大学院を卒業すると同時に父親の秘書として入社したらしい。名を三崎繭といって、外見だけでいえばなかなかに見目美しいおとなしそうな感じの女性であった。だが、そんな見た目とは相反して初対面からやたらと熱い視線を送ってくるようなところがあり、必要以上に連絡を取ってきたり、父親には内緒で食事に誘ってきたりするのが煩わしく思えていたのだ。どうやら、仕事を介して接する内に、個人的に鐘崎のことを気に入ってしまったようである。その執拗ぶりは今や組の若い衆たちにまで知れ渡っていて、案の定か幹部の清水が少々苦い顔つきで若頭・鐘崎の元へとやって来た。



◆2
「あの、若……ちょっとよろしいでしょうか?」
「清水か。どうした?」
「実は先程、例の財閥系企業の三崎社長様宅に報酬の受け取りに伺って来たのですが……」
 言いづらそうに口籠る清水の手には、何やら招待状とおぼしき封書が握られている。彼の困ったような表情を見て、話を聞く前から鐘崎も軽い溜め息がこぼれてしまった。
「それは? また例の娘が何か言ってきたってわけか?」
 清水は申し訳なさそうにしながらも、手にしていた封書を差し出した。
「華道展の招待状だそうです。お嬢さんが習っている教室で年に一度のグループ展が催されるとかで、是非とも若に来て欲しいと……社長からも頼まれまして」
「あの社長も娘には弱いということか……。で、いつだ」
「今週末の土日だそうです。場所は東京駅の隣にあるイベントホールです」
 差し出された招待状を受け取り、中を一瞥する。
「――土日か。仕方がねえ、一応の祝儀を包んで顔を出すしかねえだろうな」
「は……。申し訳ございません」
「お前が謝る必要はねえさ。あの社長とは親父も多少の顔見知りだからな。無視もできねえだろう」
 その父親の方は現在海外からの依頼で動いていて留守である。組の代表としてという意味でなら、鐘崎本人が出向くしかないわけなのだ。
「あの……、姐さんにもご同行していただいては如何でしょう」
「紫月を――か? いや、あいつは今、実家の道場で開かれている夏合宿を手伝いに行っている最中だ。手を煩わせることもねえだろう」
「ですが……」
 清水としては、この際姐さんを直接会わせて、例の娘に諦めてもらった方が良いのではと思ったようだ。
 だが、鐘崎はその案を否定した。
「あの娘に紫月を紹介したところで、逆上されても厄介だ。この前の周焔の件もある。紫月が要らぬ逆恨みに巻き込まれねえとも限らん」
 友の周焔の伴侶である雪吹冰が、周の元恋人だと名乗る唐静雨という女に絡まれたことは記憶に新しい。もしも今回似たようなことが起これば、紫月の身にも危険が及ばないとも限らない。なるべくならばそのような事態は避けたいといったところなのだ。
「だが、俺に嫁――伴侶――がいるということははっきりと伝えるつもりだ。どうせ社長も顔を出すんだろうから、親父と娘の両方にそう明かせばさすがに諦めてくれるだろう」
「だといいのですが……」
「心配するな。こちらとしても仕事以外でズルズルと関係を続けるつもりもねえしな。きちんと断るさ。それより誰か二、三人、同行する者を見繕っておいてくれ」
「では私と橘、春日野あたりで如何でしょう」
「それでいい。よろしく頼む」
「かしこまりました」
 清水は丁寧に頭を下げてこの場は引き下がったものの、願わくはこれ以上厄介な事態にならぬようにと祈るばかりであった。




◆3
 そして週末、鐘崎は清水らを伴って招待された華道展へと向かった。
 時刻は午後の二時を過ぎたあたりである。この時間帯なら昼食は済んでいるだろうし、はたまたディナーまでには程よく間がある。食事に誘われるのを避けるにはちょうどいい時間と踏んでのことだった。
 一方、娘の方では鐘崎が来るのを今か今かと待ち構えている様子で、始終ソワソワとしながら自らの展示ブースと会場入り口を行ったり来たりと落ち着かない。出展仲間たちとのおしゃべりで気を紛らわせつつも、心ここにあらずといったふうであった。
「繭さん、今回は赤をテーマにされたのね! 薔薇だけで生けるって発想もすごいって皆で噂していたのよ。斬新でとてもいいわ!」
「ほんとね。あなたには珍しい色使いだけど、新しい世界観で素敵だわ」
 教室内でも仲の良く、また、同じように財閥系企業の社長令嬢でもある女友達数人にそう褒められて、繭は嬉しそうに微笑んでみせた。
「ありがとう。実は今回、ちょっと知り合いの方をイメージして生けてみたの。他の素材を入れないで薔薇一色にしたのも、その方のイメージからなのよ」
「まあ、そうなの? もしかして殿方だったりして!」
「あらぁ! 繭さんの彼氏かしら? どんな方か見てみたいわ! ねえ、皆さん?」
「ほんとね! きっと素敵な方なんでしょう?」
「この展覧会にもいらっしゃるんじゃないの? 是非ご紹介していただきたいわ」
 展示ブースはあっという間に黄色い歓声に包まれる。皆に囃し立てられて、繭も悪い気はしないのか、得意げに頬を染めた。
「でも、赤を使われたってことは、もしかしてご婚約も間近なのかしら?」
 女友達の一人がそう呟いたのをきっかけに、ご令嬢たちのおしゃべりは色占いについての話題について花が咲き始めた。
「あら、本当ね。例の色占いでも、確かそう出てたわよね! 赤といって思い浮かぶのは結婚したい相手だって」
「そうだったわね。白が憧れの人でしょ? 他には……何だったかしら?」
「青は恋人にしたい人。黒は良くも悪くも絶対的に服従したい、されたいっていう願望の表れ。紫は性的欲求を感じる人。黄色は苦手な人――だったかしら」
「そうそう! この色占い結構当たってるって、ついこの前もお教室で話題になったものね」
「じゃあ、やっぱり繭さんのお作品は彼氏をイメージして生けられたってわけね!」
「”彼氏”じゃなくて未来の旦那様でしょ?」
「きゃあ! 羨ましいわ」
「ねえ、今回はその方も観にいらっしゃるんでしょ? 絶対ご紹介していただきたいわ!」
「楽しみねぇ。繭さんの旦那様なら素敵な殿方よ、きっと!」
 皆からそんなふうに持ち上げられて、繭はすっかり有頂天になっていた。
 そんな折だ。タイミング良くというべきか、あるいは悪くというべきか――。鐘崎が清水らを伴って会場へとやって来た。



◆4
 決して派手ではないが、洒落ていて質のいいダークなスーツに身を包み、長身で男前の容姿は黙っていても周囲の視線を釘付けにしている。しかも、従えている清水に橘、春日野の三人もなかなかにいい男の上、誰もがビシッとスーツ姿で決めている様は、否が応でも目を引くというわけだ。チケットを切る受付嬢らもドキドキとしたように頬を染め、来場者たちでさえ遠巻きに囁き合うほどだった。
「遼二さん……! 来てくださったのね!」
 繭はそれこそ有頂天といった様子で甲高い声を上げた。
「――この度はおめでとうございます」
 鐘崎が一応は丁寧に頭を下げながらそう言うと、繭を取り囲んでいたご令嬢たちも一気に頬を染め上げた。あわや大歓声が湧くかと思いきや、意外にも皆が絶句したようにその場に立ち尽くしては、恥ずかしそうに後退りする。想像していたよりも遥かに見目の良い男前ぶりに、騒ぐより以前に心臓を射抜かれたというような挙動不審の様子で、誰もがモジモジと頬を染めるのが精一杯といった調子なのだ。
 そんな友たちに囲まれて、繭はより一層高揚をあらわにしたようだった。
「あの……今日はようこそ」
「いえ。こちらこそご招待いただきありがとうございます。こちらがお嬢様のお作品ですか?」
 鐘崎が訊くと、繭は顔を真っ赤にしながらもコクコクとうなずいた。
「お、お嬢様だなんて……そんな他人行儀な呼び方なさらないで……。でも来てくださって嬉しいわ。今回は……その、遼二さんをイメージして生けたんですのよ」
「――私をですか? それは恐縮です」
 鐘崎はしばし作品を眺めると、
「私は華道のことはよく分かりませんが、とても綺麗な生け花ですね」
 当たり障りのない褒め言葉を口にし、側にいた清水らも同様だというふうにうなずいた。
「ね、繭さん。そろそろご紹介してくださらない?」
「そうよ、そうよ、独り占めはいけなくってよ」
 しばらくはおとなしく様子を窺っていたご令嬢たちが痺れを切らしたように繭を急っつき始める。
「あ、ええ……そ、そうね。ごめんなさい。ご紹介するわ。こちら鐘崎遼二さん」
 繭も皆に囲まれて得意げに頬を染めた、その時だった。
「遼二? 遼二じゃないかい?」
 品のいいテノールの声に皆が一斉に後ろを振り返れば、そこには白馬の王子様といった雰囲気の男がにこやかに微笑みながらこちらへと近付いて来た。
「やっぱり遼二だ! まさかこんなところで会うとは奇遇だね」
「お前、粟津? ――粟津帝斗か?」
「そうだよ。かれこれ二年ぶり……いや、もっとになるかな。最後に会ったのはお前さんの披露目の席だったからね」
「もうそんなになるか。その節はいろいろと気遣いしてもらってすまない」
「いやいや、こちらこそだよ。それにしても珍しいこと! お前さんが花に興味があるとはね」



◆5
 帝斗と呼ばれた男は朗らかな調子で受け応えながらも、周囲にいた繭らご令嬢連中にも和やかな笑顔で会釈をしてみせた。年頃の女の輪の中に物怖じせずにスッと溶け込んでくるスマートさが場慣れした様子を窺わせる。
 すると、ご令嬢たちの内の一人がおずおずと話に割って入った。
「あのー……こちらは粟津さんのお知り合いでもいらっしゃるの?」
 どうやらご令嬢連中も帝斗とは顔見知りであるらしい。それもそのはずだ。粟津家といえば、国内どころか海外でもその名を轟かせている大財閥だからだ。帝斗はそこの御曹司である為、同じく財閥系のご令嬢たちも彼のことを知らない者はいないというわけだった。
「まあ! 粟津の兄様ともお知り合いでしたのね!」
「でしたら兄様からもご紹介してくださらない?」
 帝斗という顔見知りの登場で、それまでの緊張が解けたわけか、ご令嬢たちが一気に華やぎ始める。皆一様に鐘崎と早く話をしたくて仕方がないといった調子で、今度は帝斗を急っつき始めた。
「何だい、お前さんたち。そんなに慌てなさんな。皆、遼二とは今日が初めてかい?」
「ええ、とっても素敵な殿方ですのね。ちょうど今、こちらの繭さんからご紹介いただいたところでしたのよ」
「何だ、繭嬢のお知り合いかい?」
 帝斗が鐘崎に向かって訊くと、
「ああ。つい先日、こちらのお嬢さんのお父上から仕事のご依頼をいただいたご縁でな」
 簡単に経緯を説明してみせた。
「そうだったのか。だったらついでに僕の生け花も見ていっておくれよ」
 帝斗は意気揚々と鐘崎に向かって微笑んだ。
「僕の生け花って……お前も出展してるのか?」
「まあね。この展覧会の協賛がてら出品させてもらっているのさ」
 つまりは展覧会にかかる費用などを粟津財閥が出資しているわけだろう。確かにこれだけの大きな会場を借り切るだけでも結構な金額が飛びそうだ。
 それにしても、さすがは大財閥の粟津家だ。しかも、まさか帝斗本人までもが華道を嗜んでいるとは意外であった。
「――お前が生け花をな」
「そう捨てたもんでもないのさ。僕が華道を始めたのはここ一年くらいで日は浅いんだけれど、なかなかに楽しいものだよ。自分で言うのもなんだけど、筋は悪くないと思うんだがね」
「おいおい、何事も自信たっぷりなのは相変わらずだな」
「まあ、そこが僕の取り柄というものさ」
「確かに」
 すっかり男同士で盛り上がっている様子に、繭はむろんのこと、ご令嬢たちも不満げだ。
「ねえ、粟津の兄様ったら! いつまでも独り占めは無粋ですわ。私たちにもお話させてくださらない?」
「そうよ、そうよ。それに、こちらの鐘崎さんは繭さんの……」
 ワイのワイのと騒がれて、帝斗は苦笑させられてしまった。
「ああ、すまないね。この遼二とは小さい頃からの知り合いでね。僕の父と遼二のお父上が懇意にしていた関係で、僕らもたまに会って遊ぶ仲だったのさ」
「まあ、そうでしたの!」
「それじゃあ、幼馴染みっていうことかしら?」
「そんなところかな。遼二、このお嬢さん方は生け花教室で一緒に学ばせてもらってるお仲間さ。皆さんのお父上とは仕事の上でもお付き合いさせていただいてるんだ」
 帝斗がそう紹介すると、ご令嬢たちは間髪入れずに我も我もと次々に自己紹介を始めた。



◆6
「私は香川理恵ですわ。繭さんと同じく、父の秘書をしておりますの」
「アタクシは中井恭子と申します。繭さんとは女学院時代からのお友達ですのよ」
「私は松坂利江。粟津の兄様とは幼馴染みで、学園も一緒だったんですのよ」
「私は――」
 まるで立板に水のごとく次々と自己紹介の嵐で、誰もが鐘崎を取り巻いては、ヘタをすると今にも腕に抱きつかん勢いでいる。
 さすがに邪険にするわけにもいかず、少々苦笑気味の鐘崎に助け船を出さんと、帝斗は朗らかに微笑んだ。
「おいおい、お前さん方、そのくらいにしておおきよ。そんな揉みくちゃにしたら遼二が気の毒じゃないか」
「あらぁ、いいじゃない。減るもんじゃなし!」
「そうよ。粟津の兄様にそんなこと言われる筋合いはなくってよ!」
 そうよねー――と、皆一斉に繭の方を見やる。”婚約者の繭さんが許してくれているのに”と言いたげな一同を横目に、そんなことは露知らずの帝斗は半ば呆れ気味で苦笑させられてしまった。鐘崎には既に紫月という伴侶がおり、二人の披露目の席にも出席していた帝斗にしてみれば、彼女たちの間で鐘崎と繭が婚約間近だなどと盛り上がっているとは微塵も思わないわけである。
「まあ、とにかく僕の展示ブースにも寄って行っておくれ」
 帝斗が鐘崎を案内して歩き出すと、ご令嬢方も当然のように後を付いて来たのだった。
「ねえ、繭さん! せっかくだから例の色占いを鐘崎さんにもうかがってみたらどうかしら?」
「そうよ、そうよ! 鐘崎さんが繭さんのことを何色のイメージで見ていらっしゃるか訊いてみたいわ!」
「繭さんも知らない一面が覗けるかも知れなくてよ?」
 女たちがキャアキャアと楽しげに騒いでいるので、帝斗も興味ありげに耳を傾けた。
「色占いってのは何だい?」
「あらぁ、粟津の兄様もやってみる? 結構当たるって評判なのよ」
「ほう? 面白そうじゃない」
 帝斗が軽いノリで興味を示すので、女たちも嬉しがって早速に盛り上がり始めた。
「鐘崎さんにも是非うかがってみたいわ!」
「それじゃあ始めるわよ。赤、青、白、黒、紫、黄色。ご自分の身近にいらっしゃる人で、それぞれの色に当てはまる人を思い浮かべてみてください! 自分では気がつかなくても、潜在意識の中でその人をどう思っているかっていうのが分かる占いですのよ」
「へえ、女性が好みそうな話題だね。それじゃあ僕からやってみようか。黒は父で白は母かな。青は遼二っぽいね。紫は……そうだなぁ、よく行くクラブの幸恵ママかな。赤と黄色は残念ながらすぐには思い当たらないね」
 帝斗が答え終わると、女たちからは『キャア、いやだー』などと歓声が上がり、ちょっとした興奮状態で大盛り上がりとなった。その理由は、帝斗が『青は遼二、紫はクラブのママのイメージだ』と答えたからである。青いイメージというのは恋人にしたい相手だし、紫は性的欲求をぶつけたい相手という意味だからだ。



◆7
「粟津の兄様ったらエッチなんだからぁ!」
「ほんとね! 際どいお答えだわ」
 女たちはヤンヤヤンヤと興奮気味で笑い合うと、待ち切れないといったふうに今度は鐘崎に視線を向けた。
「ねえねえ、鐘崎さんはどうかしら?」
「あまり考え込まないで、第一印象でパッと思いついた人でよろしいのよ!」
「はぁ……」
 正直なところ面倒と言えなくもないが、これも付き合いの一環である。致し方なく、鐘崎は言われた通りに思い浮かんだ名前を挙げた。
「そうですね、赤は氷川、白は冰。青は源さんかな。黒は親父で、紫は――」
 鐘崎はそこで一旦言葉をとめると、フッとやわらかに瞳を細めた。”紫”で思い付くのは言わずもがな――伴侶の紫月以外にないからだ。
 だが、ここで愛しい者の名前をひけらかす必要はないと思ってか、無意識に言葉に出さずに呑み込んだのだ。ただ、脳裏に思い浮かべただけで表情には愛しい想いが表れてしまったのか、案外鋭い女たちの関心をそそってしまったようだ。
「やだぁ、鐘崎さん! 紫はどなたなんですかー?」
「そうよ、もったいぶらずに教えてくださいな!」
 急かされたが、ここで素直に教える義理もない。鐘崎はスマートにごまかしたのだった。
「紫は――まあ、該当なしということにしておきましょう。黄色も思い当たらないかな」
「ああーん、もう焦らすなんて憎らしいんだからぁ!」
 女たちにとっては初めて聞く名前ばかりであるが、それがどんな人物なのかは結果を暴露しながら訊けばいいと思っているようだ。とにかくは鐘崎とこうして一緒の話題で盛り上がれることが楽しくて仕方ないのだろう。
「それで、結果はどうなんだい?」
 帝斗が笑いながら突っ込むと、女たちは得意げに答えを披露してみせた。
「赤は結婚したい人、白は憧れの人。黒は絶対的存在の人で、青は恋人にしたい人。紫は……性的欲求を満たしたい相手!」
 キャアー! と湧きながら盛り上がる。
「粟津の兄様は当分ご結婚は先のようね! だって赤のイメージの人はいらっしゃらないってことですもの!」
「おいおい、そいつは酷い言い草じゃないか。本当に当たるのかい? この占い」
「もちろんよ! 残念でしたわね、兄様!」
 皆で帝斗をからかって遊ぶ中、女たちの興味の本命は鐘崎である。
「じゃあ、鐘崎さんの”赤”のお相手は? どんな方ですの?」
 もしも鐘崎が”赤のイメージは繭だ”と答えれば、相思相愛と囃し立てて盛り上がるつもりだったのだが、彼が挙げたのは氷川という知らない名前だった。その氷川とはいったいどんな人物なのだろうと興味津々なのである。もしもそれが女性だったらと思うと、繭の手前であるし、部が悪いと思う反面、心の隅では期待感が無いとはいえないのは悲しきかな、本能だろうか。



◆8
「氷川さんっていうのはどういった方なんですの?」
「男性? それとも……女性かしら?」
「野郎です。ガキの頃からのダチでして」
 なぁんだ、と少々ガッカリ気味である。
「ハズレることもあるのねぇ、この占い」
「じゃあ、白と青はどういった方ですの?」
 鐘崎はどちらも同じく男性の友人だと答えた。まあ、厳密にいうと源次郎は友人という括りではないのだが、そこまで細かく説明する必要もないだろう。
「ああーん、また殿方ですの? つまらないわ」
「ね、ね、それなら紫は?」
 実に一番興味があるのはそこである。男前な鐘崎が性的な興味を抱くのはどんな相手なのかと期待大なのだ。
「さっきは上手くはぐらかされちゃったけど、この際、お名前はあえて訊かないわ。ただ、どういった関係の方なのか……くらいは知りたいわよね?」
「粟津の兄様と一緒で、やっぱりお知り合いのママさんとかホステスさんだったりして?」
「それとも……もしかして」
 繭さんじゃないかしら? ――と、彼女を取り囲んで大興奮である。
 鐘崎のような男がどのように愛を紡ぐのか、愛する者を前にしてどのように雄の本能を剥くのか――その瞬間を想像しただけで堪らないといった調子でいる。
(あーん、いいわねえ……。きっと情熱的よね)
(羨ましいわぁ!)
(あたくしもそんな殿方と恋をしてみたいわぁ……!)
 ヒソヒソ話で頬を染めながらキャッキャと騒ぐ女たちを驚かせるような答えが返ってきたのはその直後だった。
「お前さん方、それを訊くのは野暮というものだよ。遼二にとって”紫”といえば奥方しかいないだろうに」
 横から帝斗が冷やかすように割って入ったのに、皆は絶句といったように驚き固まってしまった。
「え……ッ!?」
「奥方って……」
「鐘崎さん、まさかご結婚なさっていらっしゃるの……?」
 女たちが驚く傍らで、何も知らない帝斗はおどけ半分に笑ってみせた。
「まあ、僕より先に結婚されちゃったのは悔しくもあるがね。見ての通り遼二はたいそう男前だから仕方ない」
「まあ! 粟津の兄様ったら!」
「兄様は鐘崎さんの奥様ともお知り合いでいらっしゃるの?」
「ね、ね、どんな方ですの?」
「もちろん奥方もそれはお美しいお人さ。美形を絵に描いたようなカップルだよ。披露宴にも出席させてもらったんだけれど、かれこれもう二年ほどになるよね? 僕も早く二人をご招待できるように頑張らないとねぇ」
 のほほんとウィンクまで繰り出すおまけ付きの様子に、女たちはあんぐり顔だ。鐘崎が既婚者であるならば、繭との婚約という話は単なる勘違いだったということになるからだ。
 だが、繭本人はいかにも気がある素振りだったし、もしかしたら彼女自身も鐘崎が結婚していることを知らなかったのかもしれないと思った。

 盛り上がっていたムードが一気に気まづい雰囲気へと染まっていく――。

「あ、あら、もうこんな時間! そろそろ自分のブースに戻りませんと……」
「そ、そうね。アタクシのところもお客様がお見えになるんだったわ。それじゃ粟津の兄様、鐘崎さん、どうぞごゆっくり」
「し、失礼致しますわ……」
 誰しも繭に気遣ってか、ソワソワとし出すと、蜘蛛の子を散らしたように各々の展示ブースへと戻っていった。



◆9
「――おやおや、ご婦人方というのはゲンキンなものだねぇ。遼二が独り身じゃないと知った途端にこれかい?」
 帝斗はあっけらかんと笑っていたが、その傍らでは繭だけが顔色を蒼くしながら唇を噛み締めていた。――と、そこへタイミング良くか、繭の父親が姿を現した。
「やあ、鐘崎君。来てくださったのか! お忙しいところすみませんな」
 父親は帝斗にも気が付くと、「おや、粟津さんのご子息もご一緒だったか」と言って和やかな挨拶を交わす。鐘崎は持ってきた祝儀を取り出すと、父親と繭の前に差し出した。
「心ばかりですが――この度はお嬢様の展覧会、おめでとうございます」
「これはこれは……! お運びくださっただけでも勿体ないというのに、わざわざお気遣いまで……。恐縮です」
 父親の方は丁重に頭を下げたが、娘の繭はそれどころではない。蒼白なまま、うつむき加減で硬直してしまっている。
「こら、繭! 何をボサっとしている。お前の展覧会の為にこうしてお祝儀までいただいたのだぞ。よくお礼を申し上げなさい」
 父に促されて、
「あ、ええ……。あ、ありがとう……ございます」
 繭はようやくとひと言を口にした。
「まったく、気の利かない娘で困ったものです。いつまでたっても子供でして、こんなんじゃ嫁のもらい手がなくなってしまうというものですな! まあ、取り柄といえばおっとりしているといったところくらいですかな」
 謙遜しながらも豪快に笑い、だがやはり娘は可愛いわけだろう。それとなく彼女の良さをアピールせんとしている様子が窺える。おそらくはこの父親も、鐘崎が既婚者だということを知らないとみえた。娘が好意を寄せているのなら、一緒にさせてもと思っているのだろう。
 それを証拠に、案の定この後ディナーを一緒にどうだと誘いがかかった。
「こんな娘ですが、これでも鐘崎さんに自分の生けた作品をご覧いただくんだって精一杯やっとりましたからな。今日はいらしていただけて本当に嬉しかったことでしょう。お礼方々、是非とも晩飯にお付き合いいただければと思います。よろしければ粟津さんもご一緒に如何ですかな?」
 すっかりマイペースで食事に行く算段になっている。気持ちは有り難いが、鐘崎としては、ここではっきりと断るのが後々の為と思っていた。
「社長様――せっかくのお誘いですが、家で女房がメシを作って待っておりますので。この後もまだ仕事が残っていますし、我々はこれで失礼させていただきたく存じます」
 仮にも仕事相手である。本来はこういった断り方をする鐘崎ではないのだが、今回に限っては言わざるを得ない。娘に対しても、好意に応えてやれないのが分かっていて期待を持たせ続けるようなことはすべきではないと思っていた。
 だが、父娘にとってはやはり衝撃だったのだろう。鐘崎の言葉に繭はもちろんのこと、父親の方も驚いたように瞳を見開いた。



◆10
「おお……そうでしたか! それは失礼。鐘崎君は御内儀がいらっしゃったのですな?」
「ええ。お陰様で結婚して丸二年になります」
「は、はは! そうでしたか。いや、知らなかったとはいえ、これは失礼致しました。ご愛妻の手料理とあっては無理強いはできませんな」
 ハハハと笑い、すぐに諦めてくれたところは有り難い。さすがに一企業を背負って立つ社長というところだろう、押すところと引くところはわきまえているとみえる。
 だが、そんな父親とは裏腹に、娘の繭だけが密かに拳を握り締めていた。



◇    ◇    ◇



「若、お疲れ様でした。これで諦めていただけると良いのですが……」
 帰りの車中で清水がふぅと溜め息まじりだ。
「しっかし、あのご令嬢! やっぱり若にご執心って感じでしたね。あの様子じゃ、ダチ連中にはてめえの彼氏が来るくらいのことは吹いてたんじゃないっすか?」
 清水よりは短絡的な橘の物言いは遠慮がないが、実際のところ当たっているといえるだろう。まあ、はっきりと既婚だということは伝えられたし、依頼も済んでいるので、今後は会う機会もないだろう。
「確かに若は男前ですからね。俺が女ならやっぱり惚れちまうかもと思いますし、こればかりは仕方ないと思いますが、姐さんがいらっしゃることをお伝えできましたし、先様にもご理解いただけたことと思います」
 新入りの春日野がそんなふうに労う。
「おいおい、春日野ー。お前も若にご執心ってか?」
 橘がからかいながらコツンと肘で突く。
「いやですよ、橘の兄さん。もしも俺が女ならって……ひとつのモノの例えですって!」
「ほうほう、例えね?」
「そうです、例えです」
 じゃれながらも労ってくれているのだと分かる二人の掛け合いに、鐘崎は申し訳なさそうに瞳を細めた。
「ないとは思うが――万が一、親父さんを介さずご令嬢が食事などに誘ってくるようなことがあれば断ってくれていい。それから、今後は依頼を受ける時点でプライベートな付き合いは一切しないということを付け加えるようにする」
 本来、鐘崎組のような裏の世界の人間に仕事を任せる場合、依頼人の方からプライベートには触れないで欲しいというのがごく当たり前の風潮なのだが、今回のようにごく一般的な表の世界での取引きの護衛という仕事では、相手の厚意でお礼方々接待を受けるような場合も想定する必要がありそうだ。
「我々が請負う仕事への感謝や礼は報酬をもって完結とする。例え先方の厚意であっても、報酬以外の接待や礼の品などは必要ないということを契約の時点で盛り込むとしよう。以後はこれを徹底する。まあ、今回は俺にも落ち度がなかったとはいえねえからな」
 華道展に顔を出すくらいならそれも付き合いの一環と思ってのことだったが、結果的には一人の娘の好意を友人たちの目の前で断った形になってしまったわけだし、彼女にも少なからず恥をかかせてしまったと思う。
「仕事さえきっちりこなせればいいというものでもねえってことだな。俺もまだまだ甘ちゃんだ。反省するところはしっかりとして、次からはこのようなことがないようにしたい」



◆11
「今回のようなことは正直なところ想定外です。決して若に落ち度があったというわけではありませんが、こちらでは予想し得ないようなことが起こらないとも限りません」
 それが仕事の上でのトラブルや失態ならば、反省や改善のしようもあるが、今回のように好いた惚れたの感情の話となると防ぎようがない。
「こんな言い方をしては失礼ですが……若は総じて愛想がいいタイプではないと思っております。仕事相手に対しても必要以上に世辞をおっしゃるような方ではありませんし、だからといって無愛想で失礼という意味では決してないのですが……。つまり、今回の仕事でも三崎様のご令嬢に対して誤解を与えるような言動は断じてなかったと存じております。ご令嬢が若に好意を持たれたとしても、それは不可抗力といえます。今後は我々もより一層神経の行き届いたサポートができるよう心掛けて参りますゆえ」
 清水が丁重に決意の言葉を紡ぐ。
「すまんな。お前らにも苦労をかける。これが親父ならもっと上手くあしらっただろうが、俺も精進が必要だってことだ」
「若……」
「よし、それじゃ気持ちを入れ替えて次の仕事に精一杯取り組むとしよう」
 鐘崎はこれでひと段落と思っているようだったが、清水としては今しばらくは警戒しておく必要があるかと踏んでいた。
 そんな清水の予感が的中することになったのは、それから間もなくのこと、華道展から大して日を置かずの内に起こったのだった。

 それはある休日の午後、鐘崎と紫月が揃って組を留守にしている時のことだった。
 若い衆が少々困惑顔で清水の元へと飛んできた。
「清水幹部! あの……ただいま例の娘が若にお会いしたいと言って訪ねて来ているんですが……」
 その報告に清水は書類の整理中だった手をとめると、怪訝そうに眉根を寄せた。
「例のというと、三崎財閥のご令嬢か……? 親父さんもご一緒なのか?」
「いえ、娘が一人です。どうやら送り迎えの車も付けずに電車で出向いて来たらしく……」
「それで用件は? 何だって言ってきているんだ」
「はぁ、何でも華道展に来てもらった礼だとかで、でっけえ手土産を持参してまして……」
「……ご尤もな理由を探すもんだな」
 清水は机から立ち上がると同時に深く溜め息がこぼれるのを抑えられなかった。
「如何致しましょう、邸に入れてもよろしいんでしょうか?」
「仕方がない。追い返すわけにもいかないだろう。あそこの社長には仕事の依頼を受けたことだし、あまり邪険にしては後々のこともある。私が応対に出るから、外玄関に一番近い応接室にお通ししろ」
 スーツの上着を手に取って今一度の溜め息を呑み込む。
 鐘崎組の門構えは、何段階かに分かれていて、内にいくほど親密な関係者が通される仕様となっている。
 外玄関から一番近いところに先ずは応接室、その次は組事務所、その先には第二の応接室と続くのだが、大概の客人は例え信頼の厚い依頼人であってもここまで通されれば重鎮の部類である。それより更に奥には、中庭を経て組の幹部らが庶務をこなす仕事部屋があり、そこには最新のコンピューターやメカニックを配した設備も整っていて、そのまた奥に鐘崎親子の事務室兼書斎――つまりは組長室という並びである。
 鐘崎や紫月らの住居は棟を分けて更にその奥の建物という造りになっていた。中庭には数匹のシェパードが常に放し飼いにされていて、内部へ行くほど通される者もごくごく限られた数人ということになるわけだ。



◆12
 組員たちの住居は、この広大な邸を取り囲むように点在している。つまり、いつ何時、何が起こっても即対応できるようになっているのである。
 プライバシーという面では組員たちにとって有るような無いような状態だが、鐘崎組の一員となる時点でそういったことはすべて了承済みで、誰一人不満を言う者などはいない。組員としての自覚と誇りを持っている者たち故であった。
 清水が繭を通せと言った応接室は、いわば表向きの客専用で、例え組事務所であっても容易には建物内部の構造すら見せない鋼の警備体制といえた。裏を返せば、扱う案件がそれだけ機密事項であるということだ。
「偶然とはいえ、若と姐さんが居ない時でよかったな。この時間ならまだ当分はお帰りにならないだろう」
 手元の時計を確認しながらそう独りごちる。広い邸を足早に駆け抜け、清水は組の第一砦とも称すべき応接室へと向かったのだった。

 その頃、鐘崎と紫月は汐留にある周焔と冰の社を訪れていた。いつものように四人で落ち合い、ウィンドーショッピングなどを楽しんでから、今日は鐘崎の家で晩飯を共にする計画を立てていたのだ。季節は真夏、組の若い衆らの労いも兼ねて毎年行なっている納涼イベントに、今年は周らも呼んで中庭でバーベキューと洒落込もうというわけである。
「さて……と! 買い物も一通り見終わったなぁ。夕方までどっかで茶でもする? それともちょっと早えけどウチに行くか? 納涼会の支度ができるまで冰君たちの披露目ン時の写真とか見て過ごしてもいいしさ!」
 紫月が気持ち良さそうに伸びをしながらそう言うと、冰も期待顔でうなずいた。
「そうですね! バーベキューセットの組み立てとか、俺たちでお手伝いできることもあると思いますし」
「冰君、いつもお気遣いサンキュなぁ! まあ、支度は若いヤツらがやってくれてっと思うけど、庭に出ればシェパードたちと遊ぶこともできるぞー!」
「わぁ! いいですね! ワンちゃんたちとも久々ですし!」
 毎度ながら嫁同士仲のいいことである。
「まあ、週末の夕方だ。道も混み始めるだろうし、早めに帰るか」
「それがいい。冰の言うように俺らもご馳走になるんだし、何も手伝わんじゃ申し訳ねえしな」
 鐘崎と周の旦那衆もそう言うので、四人はこのまま帰ることとなった。
 組では例のご令嬢と鉢合わせることがないようにと、幹部の清水がハラハラと時計を気にしていたのだが、当人たちにしてみればそんなことは知る由もない。予定していたよりも早く鐘崎邸へ戻ることに決めてしまったのだった。



◇    ◇    ◇






◆13
 一方、組では清水が三崎財閥のご令嬢・繭と対峙していた。
「お嬢様、わざわざのお運び、恐縮に存じます」
 清水が丁重に頭を下げると、繭の方は少々ソワソワとしながら手にしていた菓子折を差し出した。
「先日はありがとうございました。これ、皆さんでどうぞ」
 清水とは依頼や華道展でも幾度か顔を合わせているので、繭の方もさほど緊張してはいないようだ。大概の客人は組の門構えを見ただけで引き腰になるのだが、さすがは財閥のお嬢様といったところか。
「ご丁寧に恐縮です。お心遣いは誠に有り難いのですが、既にお父上から報酬は頂戴致しておりますので、それ以外のご厚意はご辞退させていただく決まりになっております」
 清水が丁重に断ったが、繭にしてみればせっかく持参した土産の品だ。
「あの……ですが、先日は華道展にいらしていただいてご祝儀まで頂戴していますし、内祝いも兼ねていますので……」
 確かに祝儀を持って行ったのはこちらである。清水は迷ったが、内祝いということなら受け取らないのも失礼かと判断した。
「そうですか。では、お言葉に甘えまして有り難く頂戴致します」
 清水が受け取ると、繭はホッとしたように溜め息をついた。その後、茶が出されたものの、正直なところ何を話していいやら話題に詰まってしまう。
「あの……それで、今日は遼二さんは……いらっしゃらないんですの?」
 菓子折とは別にまだもう一つ、綺麗にラッピングされた大きな箱を抱えながら、鐘崎の姿を探すような素振りでそう問う。やはり目的は若頭かと、溜め息を呑み込みながら清水は冷静に答えてみせた。
「若頭は本日は所用で留守にしておりまして。せっかくお運びいただいたのに申し訳ございません」
「そ、そうなんですか……。あの……お帰りは何時頃になられるか分かりますか?」
「日が落ちるまでには戻るかと存じますが、詳しい時間までは分かりかねます。申し訳ございません」
 言葉じりも仕草も至って丁寧ではあるものの、必要以上に余分な会話を振ってこない清水が相手では、実際には取り付く島もないに等しい。繭も決して居心地がいいとはいえない雰囲気に、所在なさげな表情でいた。
 それも当然といえばそうか。華道展の礼という大義名分が通用するのも今回限りと分かっているからだ。今日を逃せば、次に鐘崎と会える機会はそうそう巡ってはこないだろう。食事に誘うにしても、その理由を探さねばならない。繭としても簡単に諦め切れないといったところなのだろう。だからといって用が済んだのにずっと居座り続けるわけにもいかない。日が落ちるまでには帰るとのことだが、今は夏場だし、それまでにはまだ数時間もある。
「で、では残念ですが本日はこれで失礼しますが、これを遼二さんに渡していただければと……」
 手にしていた大きな箱を清水へと差し出し、仕方なく諦めて席を立とうとしたちょうどその時だった。門が開いて二台の高級車が玄関に着けられる様子が窓越しに見えたと同時に、繭の瞳が期待に見開かれた。



◆14
「あら、もしかして遼二さんかしら?」
「は、まだお帰りになられるには早いかと存じますが……」
 相反して清水の方は額に蒼が浮かび上がる。車を見ただけでそれが鐘崎と周焔を乗せたものだと分かったからだった。

(く……、何と間の悪い。まさかこんなにお早くお戻りになられるとは――)

 致し方なく、清水は繭を応接室に待たせたままで、主たちを迎えに出て行った。
「よう、ただーいま! ちっと早えけど」
 帰って来ちゃったぜ――と、朗らかな紫月の語尾を取り上げるように清水は早口で出迎えの言葉を口にした。
「皆様、ようこそいらっしゃいませ。いつもお世話に与りましてありがとう存じます! ささ、どうぞ奥へ……」
 いつもなら『おかえりなさいませ!』と明るく出迎えてくれるのが、今日は固めの表情で言葉じりも他人行儀だ。加えて、あまりにも慌しい様子で急かすように奥へと促されて、紫月と冰は驚いたように瞳を丸くしてしまった。だが、その直後に清水が鐘崎を掴まえてそっと耳打ちするように何かを告げたのを、周が見逃すはずもなかった。
『若、実は例の三崎財閥のご令嬢がいらしております。先日の華道展の礼だそうです。内祝いとおっしゃるので菓子折は頂戴致しましたが、他にも若に渡されたい贈り物があられるようで……』
 話の内容が聞き取れたわけではなかったが、清水からの報告を受けてわずか眉根を寄せた鐘崎の表情で、周には思うところがあったのだろう、
「冰、お前は一之宮と先にお邪魔してろ」
 二人にそう告げると、応接室へと立ち寄る鐘崎の後ろ姿を見つめながら清水を引き止めた。
「俺で力になれることか?」
 関係のない事案なら、むろん口出しするつもりはないが――周の視線がそう言っているのが清水にも伝わった。
 周と鐘崎の仲は清水もよくよく知っている。彼が自分たちの若頭に対して不利益をもたらすような男でないことや、組として関わって欲しくないことに興味本位で首を突っ込む節介者でないことも重々承知している。
「実は……」
 清水は先日請け負った仕事相手の娘が鐘崎に熱を上げているようだということをかいつまんで聞かせた。
「若には姐さんがいることもお伝えしたのですが……」
 重い溜め息と共に肩を落とす清水の様子に、周もやれやれと眉をしかめてしまった。
「一之宮はそのことを知っているのか?」
「ええ、若はそういったことを隠す御方ではないので、華道展に招待されたことなどは話されていると思います。ただ、万が一、姐さんが逆恨みに遭うようなことがあってはいけないとおっしゃって、姐さんを紹介することは避けておきたいと」
「ふん、なまじイイ男ってのも苦労が絶えんな」
 周とて、つい先日似たような件で伴侶の冰と紫月まで巻き込んで拉致されたという目に遭ったばかりである。他人事と冷やかして笑う気にはなれないといったところなのだ。



◆15
 チラリと応接室の方を窺うと、扉は開け放たれており、そのことからも鐘崎が彼女と密室で二人きりになるという状況を避けている様子が見て取れた。
 静かに近くまで行き、そっと会話に耳をこらす。すると、どうやら二人共立ったままで話していたようで、
「あの……これは先日のお祝儀の御礼です。鐘崎さんに似合うと思って選んだんですが……使っていただけたら嬉しいわ」
 娘が洒落た包装紙に包まれた箱を差し出している様子が垣間見えた。
 それにしてもえらく大きな箱である。いったい何が入っているのだろうかと、正直なところ興味がなくても中身が気になってしまうほどの代物だ。しかも、一目で高級と分かるブランドものの包み紙は、内祝の品というよりも恋情が見え見えのプライベートなプレゼントといったところである。そんな大層な物を貰ってしまったとしたら、色々な意味で重荷になりそうなのは聞かずとも想像がつくというものだ。
 案の定、鐘崎もすぐには受け取らずに、祝儀はほんの心ばかりであるし、既に清水が菓子折を貰い受けているとも聞いているので、このような気遣いは過分だとも言っている。
「お嬢さん、誠に恐縮ですが、我々は仕事の報酬以外に接待や金品のご厚意をご遠慮させていただくのが決まりです。ここはお気持ちだけ頂戴させていただきたく存じます」
 立ったままで話していることからしても、彼女に椅子を勧めずに挨拶のみで終わらせたいらしいことが窺えた。
 周は一旦応接室から離れると、わざと大きな所作で足音を立てながら再び応接室へと向かいながら、
「おい、鐘崎。何やってんだ? いったいいつまで待たせる気……」
 そこで初めて先客に気付いたような素振りで、驚き顔をしてみせた。
「何だ、客人だったか。これは失礼」
 娘を一瞥し、わざとらしく瞳を見開いてみせる。いつものように『カネ』ではなく、他人行儀な呼び方をしたことで、鐘崎本人には周の助け舟の意図が読み取れたようであった。
 そんな周は、長身の鐘崎よりも数センチ上回る堂々とした体格で、顔立ちも万人が見惚れるほどの男前ぶりだ。それよりも何よりも、若くして大きな企業を背負って立つ経営者である上に、マフィアのファミリーでもある。例えその素性を知らずとも全身から滲み出る雰囲気は見るものを圧倒するオーラが半端でない。娘にもそう映ったのだろう、驚いたように硬直すると、
「あ、あの……も、もう失礼するところでしたから……!」
 焦ったように後退りし、周に席を譲らんとソファの上に置いていたバッグを手に取った。
 その様子に鐘崎はホッとしたように小さく肩を落とすと、視線だけで『助かった』と周に礼を告げた。
「あ、あの……ではこれで……。突然にお邪魔してしまってすみません」
 渡そうとしていた大きな箱も周の登場ですっかり気が動転したわけか、無意識のまま持って帰るべく手にしている。
「いえ、こちらこそわざわざご丁寧に恐縮です」
 鐘崎は娘を玄関まで見送りながら、外に車が待っていないことに気付いて、怪訝そうに首を傾げた。
「お嬢さん、車は外ですか?」
「あ、いえ……今日は歩きで来ましたの」
「お一人でですか? お父上はご存知で?」
「え……いえ、父には……近々お礼に伺うつもりだとだけは……」
 言いづらそうに口ごもる様子からして、今日出向いて来たことは告げていないのだろうと思えた。



◆16
「そうでしたか。もう夕刻ですし、女性一人で何かあったら社長様もご心配なさるといけません。うちの車でお送りしましょう」
 鐘崎が言うと、繭は途端に頬を染めて瞳を輝かせた。
「そんな……申し訳ないですわ」
 言葉とは裏腹に嬉しいと顔に書いてある。彼女は鐘崎自身が車で送ってくれると勘違いしたようだ。ところが、その直後に飛び出したひと言で高揚していた気分は一転させられる羽目となった。
「清水、車を一台回してくれ。ご令嬢をご自宅までお送りするから、運転も所作も信頼できるベテランがいい」
 周と共に後ろに控えていた清水にそう声を掛けると、繭に向かって、
「うちの中でも一番安全運転の者に送らせますんでご安心ください」
 そう言って丁寧に頭を下げた。
 正直なところ、娘一人で帰して万が一にも何かあったら困るのは事実である。それに、いかに厄介とはいえ、彼女が厚意で持ってきた大きな贈り物の箱を電車で持ち帰らせるのも気の毒と思える。ここはせめても車で送り届けるのが礼儀と思っていた。
 数分と待たずして黒塗りの高級車が玄関脇に着けられる。
「今日はわざわざありがとうございました。社長様にもよろしくお伝えください」
 有無を言う暇もなく、繭は邸の門を離れていく景色を見つめるしかなかった。



◇    ◇    ◇



「お前さんもご苦労なこったな」
「いや、正直なところ助かった。すまなかったな」
 嫁たちの待つ奥へと向かいながら周と鐘崎が肩を並べていた。鐘崎には周が状況を察してわざと割って入ってくれたことが分かっていたのだ。
「お前の様子が変だったんで、清水に少し事情を聞いたんだが――一之宮は何と言っているんだ」
「特には何も――。あの父娘とも仕事以外で付き合うつもりはねえとはっきり言ってあるし、だが……まあ、ンなこたぁ俺がいちいち言わずともアイツの方がよく分かってる。俺は昔っからあいつしか目に入ってねえし、あいつにとっちゃ、うぜえくらい一途だってのもな」
「おいおい、惚気かよ」
 周がクスッと頼もしそうに笑う。
「紫月は案外鷹揚に構えてるようだからな。あの娘に対してもあからさまに邪険にしたりして傷付けるようなことがねえようにって、そっちの方を心配してるくれえだ」
「できた嫁だな。お前さんを信じてるってわけだな」
「やさしいというべきか、暢気というのか――。もしも俺が逆の立場で、紫月のヤツにしつこくアプローチしてくるようなやつがいたとしたら……気になって仕方ねえだろうし、ガキみてえに妬いちまうと思うんだがな」
「何だ、一之宮にもっと焼き餅をやいて欲しいってか?」
「そうじゃねえが――まあ、ちょっとくれえは……と思わなくもねえ」
 残念そうに頬をふくらませた鐘崎を横目に、悪いとは思いつつも周はプッと吹き出してしまった。
「は……はは! お前さんの言葉を借りるわけじゃねえが、まさにガキが拗ねてるみてえだ」
「……ッ、笑うんじゃねえよ。他人事だと思ってるな?」
「いや、悪ィ。他人事だなんて思っちゃいねえさ。そんだけ一之宮の器がでけえってことだ。それに俺んところも同じだなと思ってよ。冰も一之宮と似たようなタイプだからな。この前の唐静雨の件でも、あいつは寛大な心で受け止めてくれた。だが、俺がもし逆の立場だったら――やっぱりお前と同様、えらく妬いちまうだろうと思ってよ」
「つまりは何だ――俺らの方があいつらよりも愛情が深えってことか……」
 二人同時に少々ガッカリとした顔付きで肩を落とす。そんな互いの様子が可笑しくて、極道の男たちは同時に苦笑し合うのだった。



◆17
「ま、いいじゃねえか! 亭主の愛情の方が深えってのは誇れることだ」
「そう思っておくとするか」
 肘で突き合いながら笑ったところで、中庭ではしゃぐ”嫁”たちの姿が視界に飛び込んできて歩をとめた。若い衆を手伝いながら、バーベキューのセットを組み立てたり縁側から取り皿や料理を運び出したりしている。時折、シェパードたちともじゃれ合いながら朗らかな笑顔を見せている。
「――ったく、可愛い――という他に上手い言い方が見つからねえ。たまにてめえの語彙力のなさが情けなくなるぜ」
「いいじゃねえか。可愛いモンは可愛いんだ」
 それぞれの伴侶を見つめながら愛しげに瞳を細めて頬をゆるめる。傍に寄って一緒にワイワイとやりたい反面、ずっとこうして見つめているのもまた醍醐味といえる。周と鐘崎はしばしそうして遠巻きに愛しい者たちの一挙手一投足を堪能していた。
「俺もお前もあの笑顔を曇らせることだけは――したくねえな」
「同感だ。お前の言うように器がデカくて、できた嫁だが、紫月も冰も人の悪意には鈍感なところがあるからな。思いやりが深いが故に傷付くようなことがあっちゃならねえ。俺らが目を光らせて、いつでも、いつまでもあの笑顔を絶やさねえでやりてえ。その為にはどんなことだってするさ――」
 時に他所様に対しては、冷たかろうが薄情だろうが、譲れないものがある。ましてや、愛しい者に危険が及ぼうものなら鬼にも修羅にもなるだろう。
 互いの会話というよりは自分自身に言い聞かせるように二人はそうつぶやくと、愛しい伴侶の元へと向かったのだった。



◇    ◇    ◇



 それからしばらくは何事もなくひと月余りが過ぎた。例の娘からも特には連絡もなく、鐘崎も――そして幹部の清水もすっかりとそのことを忘れかけていた頃だ。
 大財閥の御曹司であり、鐘崎それに周焔とも幼い頃からの顔見知りである粟津帝斗から気になる連絡が入ったのは、晩夏を告げる虫の鳴き声が聞こえ始めた頃だった。
 それは珍しくも帝斗からかかってきた一本の電話によってもたらされた。
「粟津か。お前が電話してくるなんて、どういう風の吹き回しだ? そういや華道展以来だな」
 親しげな微笑と共にそう言った鐘崎を驚かせたのはその直後だ。
「本当は電話なんかじゃなく直接お前さんを訪ねようかとも思ったんだがね。ちょっと急ぎ耳に入れておいた方がいいと電話にさせてもらったんだ」
「急用ってことか?」
「ああ、まあな。三崎財閥の繭嬢を知っているだろう? お前さん、彼女と何かあったのかい?」
 鐘崎にとっては確かに気になる話題である。意外にもしつこかったご令嬢の名前だ、できればあまり聞きたくはない話ともいえた。
「何かってのは何だ。あの父娘とはここしばらく会ってもいねえが……。例の華道展に顔を出した礼だとかで、娘が組を訪ねて来たのが最後だ」
「そうなんだ? 実はあまり好ましくない噂を耳にしてね。というよりも、このところ方々で頻繁に聞こえてくるといった方が正しいんだが。どうも繭嬢がお前さんの奥方について大層興味を抱いているようなんだ」
 帝斗の言葉に鐘崎は即座に険しく眉根を寄せた。



◆18
「――紫月のことを嗅ぎ回ってるってことか?」
「嗅ぎ回るとはさすがに言葉が悪いが、まあニュアンス的には当たりといったところさ。遼二さんの奥様っていうのはどういった方なのかとか、何処で出会ってどんな経緯でお前さんに嫁いだのかとか。とにかくいろんな人に訊いて歩いているようなんだ」
「お前にも何か訊いてきたのか?」
「いや、幸い僕のところには何も言ってきていないが、繭嬢のお父上と同年代の社長連中にも物怖じせずに尋ねて回ったりしているようでね。嘘か本当か知らないが、興信所に調査を頼んだとか頼まないとかの噂まで飛び出す始末さ。お前さんに限って浮気なんてことはないとは思うが、これ以上やたらな噂が広まる前に耳に入れておいた方がいいと思ったわけだ」
 鐘崎はひどく驚かずにはいられなかった。
「バカこいてんじゃねえ、誰が浮気なんかするか!」
 そうは言ったものの、どうやら放っておいて済む話ではなさそうだ。鐘崎自身は自分がどう思われようが、どんな噂を立てられようが眼中にないが、紫月が巻き込まれるとあっては話は別だ。
「すまねえ、粟津。もう少し詳しく聞かせて欲しい。できれば会って話したいんだが、都合がつくか?」
「僕は構わないよ。元々お前さんを訪ねて話すつもりだったし。電話にしたのは、仮に浮気が事実だとしたら紫月の手前あまり良くないと思っただけだからね」
「ああ……そうだったか。気遣いさせてすまねえ。俺と紫月は至って平穏だが、確かに放置できる話でもなさそうだ。都合はお前に合わせる」
「そう。それじゃ、今夜か明日の晩でどうだい?」
「助かる。今夜、俺から出向く。場所は何処がいい?」
「父の経営するホテルのペントハウスに我が家のプライベートルームがある。グラン・エーというホテルだ。お前さんも知っているだろう?」
「ああ、都内に何店舗かあるな?」
「東京駅の丸の内側にあるウチの本社ビルの隣のやつだ。一応そこが本店なのでね。フロントを介さずに直接上がれるエレベーターがあるから、駐車場に着いたら電話をおくれ」
「分かった。世話を掛けてすまねえな。じゃあ今夜」
 鐘崎はひとまず帝斗に会って詳しい話を聞くことにしたのだった。



◇    ◇    ◇



 その夜、鐘崎は源次郎と清水を連れて帝斗の待つホテルへと向かった。今後、万が一にも紫月の拉致などという極端な事態が起こった場合に備えての体制を万全にする為だ。一人で話を聞くよりも、組の中枢である彼らにも知っておいてもらった方が都合がいいからである。



◆19
「それで――あの娘が紫月のことを嗅ぎ回る理由は何だか分かるか?」
 早速に鐘崎は帝斗に尋ねた。
「さあ、そこまではなんとも。ただ単に興味があるだけなのかも知れないが、それにしては随分と大っぴらに誰彼構わずといった調子で訊いて回っているらしい」
「ここにくる前に俺もザッと三崎財閥について調べ直してみたが、裏の世界との繋がりは出てこなかった。お前の話じゃ興信所にまで調査を依頼しているかも知れないとのことだったが。正直なところ狭い世界だ、そういった話があれば俺の耳に入ってきても良さそうなんだがな」
 つまり、裏社会で鐘崎組について調べ回っているような人物がいれば、そういった動きは情報屋を通して割合すぐに知れ渡るというものだからだ。
「まあ、興信所といっても様々ありますからな。普段、我々とはあまり縁のない人間が動いているのかも知れません。まずはその人物を洗い出すところから始めましょう」
 源次郎がそう言う傍らで、清水はまた別の見方をつぶやいた。
「あのご令嬢は若に熱を上げているようでしたから、もしかしたら諦め切れないでいるだけなのかも知れません……」
 驚いたのは帝斗だ。
「そうだったのかい!? そいつはびっくりだ。だって遼二に嫁さんがいることは彼女も知っているだろうよ」
 実にそれを教えたのは帝斗自身だ。華道展の際に皆の前で言ったのだから、あの時そばにいた繭も当然知っているはずである。
「好きだから余計に姐さんのことが気になるんじゃないですかね?」
「もしも繭嬢が遼二にご執心だとするなら、奥方がどんな人なのかって気になるのは分からないでもないさ。だけど、それを知ってどうしたいっていうんだい? まさか不倫でもいいから付き合いたいと思っているとでも?」
「分かりません。単に興味があるだけかも知れませんし。とにかく俺個人の見解ですが、若を好いていることだけは確かだと思われます」
 だとすれば、紫月を拉致してどうこうしようなどという非常事態が起こる可能性は低いといえるだろうか。だが、好いた惚れたで家庭や組内を掻き回されるのも御免被りたいところだ。
「――ったく! 厄介なことになったもんだ」
 深い溜め息と共に鐘崎が眉根を寄せる。あの父娘にははっきりと既婚者であることを告げた時点で既にカタはついたと思っていたのだが、想像以上に諦めが悪いようだ。
「そのご令嬢の目的が本当に色恋だけというのなら、対処のしようもあるかと存じます。ただ、単なる娘の色恋と舐めて掛かって予期せぬ事態が起こらないとも限りません。念の為、紫月さんの周辺には特に気を配ると共に、警備体制も整えておくことに致しましょう」
 酸いも甘いも知っている年長者の源次郎の言葉は非常に心強い。
「すまないな、源さん――。粟津も世話を掛けた」
「いや、構わないよ。僕の方でもまた何か新しい情報が入ればすぐに連絡をするとしよう」

 そんな中、久方ぶりで鐘崎が呼び出されたのは、とある高級ホテルのバーラウンジ――待っていたのは三崎繭の父親であった。



◆20
「鐘崎君、お呼び立てしてすまないね」
「いえ――、それでご用件とはどういったことでしょう?」
「ま、まあ……まずは一杯如何かね?」
 どうやらバーの中でもほぼ個室といった感じの部屋なので、VIP専用なのだろう。遠慮がちに黒服が様子を窺っているので、鐘崎はとりあえずのオーダーを告げた。
「バーボンをロックで」
「かしこまりました」
 その後、オーダーの品が運ばれてくるまでの間はさして意味もなく当たり障りのない世間話が続く。
「お待たせ致しました、バーボンのロックでございます」
 黒服が下がっていくのを見届けると、社長は少々言いづらそうにしながらもようやくと要件を切り出した。
「実は――娘の繭のことなんだが……」
 鐘崎はやはりそういった話向きか――と、心の中で溜め息を漏らす。だが、表情にはおくびにも出さずに平静を装って続きを待った。
「どうやら娘はキミに惹かれているようでね。案外……いや、かなり真剣に想っているようなんだ」
 そう言われても、鐘崎にはどうすることもできないし、またする気もないというのが実のところだ。
「社長さん、以前にもお話しましたが私には女房がおります。お嬢さんのお気持ちにお応えすることはできません」
 キッパリと断った鐘崎に、社長の方は苦笑しながらグラスを口へと運んだ。
「――そのことなんだが……。娘の繭があまりにも思い詰めているようなんで、不躾とは思ったが少々キミのことを調べさせてもらったんだ」
 さすがに眉根を寄せずにはいられない言い分だ。
「調べたとおっしゃいますと?」
「その……なんだ。キミに奥方がいらっしゃるというのは……本当のことなのか? キミはいい男だし、方々からお声が掛かることも多いんだろうと思う。そのたびに断るのが大変だから……というような理由で、奥方がいるということにしておられるんじゃないのかと思ってね」
 つまり、カモフラージュで対外的にそういう形にしているだけではないのか――と言うのだ。鐘崎は間髪入れずにそれを否定した。
「そういったことはありません。女房がいるのは事実ですし、世間に嘘を触れ回る必要もありません」
「はぁ……。だが、しかし……聞くところによると、キミが奥方だとおっしゃっているお相手は……男性だという噂も耳にするんだが……それは本当なのかね?」
 この手の質問には慣れっこだが、正直なところこの社長に訊かれるのは面倒と思う。だからといって嘘を言う筋合いもないし、鐘崎は堂々とうなずいた。
「本当です。確かに女房は男性ですが、私は彼を心から愛していますし、世間体という意味でカモフラージュをしているということも一切ありません。もちろん我々の仲を隠すつもりもありません」
 あまりにも堂々たる様子に、社長の方は驚きで目を剥いている。が、さすがにそれらを非難しようとか否定しようという素振りは見られなかった。



Guys 9love

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