極道恋事情
◆21
「そうですか……。ではその男の方とのことは真剣ということですな?」
「その通りです」
社長は『はぁ』と重めの溜め息をつきながら、ガックリと肩を落とした。
「キミほどの男がどうして……と思わなくもないが、まあそれは個人の自由だからな。私が口を出すことではないし、本来は娘が諦めてくれれば一番いいのだと思うんだが……。ただね、あの子も真剣にキミを想っているのは嘘じゃないらしいんだ。こんなことを言って気を悪くしないでいただきたいんだが……万が一キミが娘の気持ちを受け入れてくれたとしてだね。例えば結婚してからもキミがその男の人を忘れられないというなら、彼を愛人として付き合ってくれるのは構わないと……娘はそう言っているんだ」
あまりの言い分に、今度は明らかに眉根を寄せた。なるべくならば穏便に話を済ませたいと思っていたが、こうまで言われれば黙っている筋合いではない。少々荒っぽくはあっても、はっきりと断るが正解と鐘崎は思った。
「三崎さん、申し訳ないが俺はあいつ以外に伴侶を持つつもりは毛頭ありません。あいつを日陰の身にすることは天地がひっくり返ってもありませんし、お嬢さんを娶る気も一切ございません。お嬢さんでなくとも同様です。俺は女房を裏切ることはしませんし、あいつが男だからと恥じる気も隠す気もありません」
これまでとは違って強い口調でそう告げると、
「他にご用件がなければこれで失礼させていただきます」
鐘崎は険しい表情のまま立ち上がると、自らの分の飲み代をテーブルの上に差し出してその場を後にした。
残された社長は、ますますもって重い溜め息と共に、もう止めようと思っていたシガーに火を点けずにはいられなかった。
「……はぁ、上手くいかんものだな」
頭の中には、帰ってから娘の繭に何と言って言い聞かせようかと、それだけでいっぱいになっていた。
そして帰宅後、待っていた繭に今宵のことを正直に話して聞かせた。
「鐘崎君のことはもう諦めなさい。彼の気持ちはどうあっても変わらないようだ。お前もいつまで他人様の御亭主にこだわっていないで、自分に合った殿方を見つけなさい。何ならパパが誰かいい人を探してやってもいいぞ?」
だが、繭はまるで聞く耳を持たない。それどころか当たり散らすように食って掛かった。
「嫌よ! そんなの絶対に嫌! アタシは鐘崎さんがいいのよ! あの人じゃなきゃ絶対に嫌よ!」
「繭! 確かに彼はいい男だし、お前が惹かれるのも分かる。だが、世の中の男は彼だけじゃないんだ。それに……正直なところを言ってしまうと、彼の家はいわば極道だ。私も仕事を依頼した身だし、極道が悪いとは言わないが、親としてできればお前には普通の家庭に嫁いでもらいたいと思うのも事実だ。彼のことは諦めて、他にいくらでもいい人がい……」
◆22
「何よ! 極道だからダメだっていうの!? パパがそんな見方をしてたなんて見損なったわ! それに……パパみたいな頭の固い人がいるからあの人が男になんか走るのよ! 鐘崎さんだって本当はちゃんとした奥様をもらって、後継ぎだって欲しいと思っているはずだわ! それなのに……変な男になんか引っ掛っかって、心の中では後悔しているかも知れないわ!」
引っ掛かってとは、さすがにあまりな言い方である。
「繭! 口を慎みなさい! 確かに世間的には珍しいことかも知れんが、それは周囲がどうこう言うことじゃない。ご本人たちだっていろいろと厳しい思いもしているだろうし、覚悟を持ってお互いを選ばれているんだ。そんなところに割り込もうだなんて考えは捨てて、もう諦めなさい!」
「……そんなことない……。誰にだって気の迷いはあるわ! 一時の感情で男の人に傾いたとしても、長い目で見れば……あの人だって堂々と世間に奥さんですって言える女性が側にいた方がいいに決まってるわ! ……アタシは鐘崎さんを諦めるつもりなんかない! 絶対に諦めないから!」
まるで鐘崎の軌道を正して救ってやれるのは自分しかいないと思い込んでいるような言い分だ。
「いい加減にしなさい! あの人は既婚者だ! いつまで我が侭を言っているんじゃない!」
「既婚者って……相手は男でしょう? そんなの既婚って言わないわ! 何よ……今夜鐘崎さんに会う前はパパが何とかしてやるって……言ったのに……帰ってくるなり今度は諦めろって……そんなの酷いわよ!」
「彼のどこがそんなにいいんだ。私が仕事を依頼して初めて知り合った――それだけの関係だろうが! ただ見た目が格好いいというだけで、それを好きという感情にすり替えてしまっているだけじゃないのか?」
「違う違う!」
ブンブンと千切れんばかりに首を横に振っては、悔しそうに涙を流して唇を噛み締める。
「なぁ、繭。確かに……彼はずば抜けて美男子だとは思うが、ああいった男は例え一緒になったとしても誰かに盗られやしないかと気苦労も絶えんと思うぞ? それよりは身の丈に合った穏やかでやさしい男性はいくらでもいる。今のお前はな、いわば芸能人や映画スターに憧れるような感覚でいるだけなんだ。もっと現実を見て……」
「そんなわけないでしょ! もういい! パパの役立たず! 顔もみたくないわ!」
「繭! 待ちなさい、繭!」
繭は癇癪を起こしたようにして、泣きわめきながら自室へと駆け込んでしまった。
「……まったく! 困ったものだ」
それ以来、父親が在宅中は自室に引きこもるようになり、リビングにさえ出てこなくなってしまった。秘書の仕事も放り投げて、会社でも顔を合わせたくないという態度である。父親の方も仕事が多忙なこともあって、娘のことには当たらず触らずという日々が続いた。
◆23
そんな繭が久方ぶりに華道教室へ顔を出した時のことだった。例の華道展以来、何となく友人たちとも顔を合わせづらく、ここひと月ばかりの間は体調が優れないという理由で休みをもらっていたのだ。
だが、父親との悶着以来、使用人の家政婦を除いては家の中でも殆ど誰とも口をきかない日々である。母親は腫れ物に触るようにわざと見当違いの明るい話題を振ってくるだけだし、モヤモヤとしてしまい、人恋しくなって華道教室に顔を出してみる気になったわけだった。
「あら、繭さん! お久しぶりねえ」
「お加減は如何? もう体調はよろしいの?」
女友達は以前と何ら変わることなく親しげに話し掛けてくれる。それだけが今の繭にとっては心のよりどころと思えた。
ところが――だ。
彼女たちが盛り上がっている話題を耳にした瞬間に、繭の顔色が蒼白へと変わってしまった。
友人たちは一冊の雑誌を皆で取り囲んで、楽しげなおしゃべりに花を咲かせている。問題はその話題であった。
「ねえ、繭さんも見て見て! 今秋から始まる話題のドラマよ! イケメン俳優が勢揃い!」
「これは期待大だわぁ!」
「繭さんの好きな俳優さんも出てるんじゃなくて?」
ほら、見てと雑誌の向きをクルリと変えて誌面を差し出してくれる。
久しぶりの楽しげな話題に興味が湧く。やはり女友達といる時は嫌なことも忘れられて気分が晴れると思った矢先だった。彼女らが広げていた雑誌のワンショットが目に飛び込んできたと同時に、思わず息が詰まりそうになった。それは男性同士が抱き合っているラブシーンだったからだ。
「ねえ、繭さんはご興味ない? ボーイズラブ!」
「素敵よねぇ! 実はわたくし、中等部の頃から大好きでしたの、ボーイズラブ!」
「アタクシもよ! 今まで密かにコミックを集めたりしてたのですけれど、皆さんもお好きだと知ってとっても嬉しいわ! これからは堂々と同じ話題で盛り上がれるんですもの」
皆がはしゃぐ中、気付けば繭は大声で叫んでしまっていた。
「……嫌いよ!」
え――?
「繭……さん? もしかしたら苦手だったかしら?」
「でもほら、綺麗じゃない? 萌えるショットだと思うん……だけ……ど」
繭の脳裏には雑誌の中で抱き合う男たちが鐘崎とその恋人の姿にダブって映ってしまったのだ。
「お……男のくせに男に恋をするなんて……信じられない! 穢らわしいったらないわ!」
怒号にも似たその叫びで、賑やかだった教室内が一気に硬直した雰囲気に包まれた。その様子に繭はハッと我に返ると、
「ご、ごめんなさい……。やっぱりちょっと……まだ体調が優れないの。今日は失礼するわ……」
逃げるようにその場を去るしかできなかった。
「繭さん……!」
繭が出て行った教室では、女たちが呆然とした様子で互いを見つめ合っていた。
◆24
「どうされたのかしら、繭さん」
「ボーイズラブがお嫌いだったのかしらね?」
「……っていうよりも、まだこの間の殿方のことで気が晴れないんじゃなくて?」
「ああ、鐘崎さんでしたっけ? あの方に奥様がいらしたことがきっとショックだったんですわ」
「そういえば、あの華道展以来ずっとお教室もお休みしてらしたものね。お気の毒だわねえ……」
「早く立ち直って、元気になってくださるといいのだけれど」
女友達がそんな心配をしてくれているとは露知らずの繭は、突然怒鳴ってしまったことでより一層の自己嫌悪に陥ってしまっていた。家に帰れば父とも気まずい空気が続いているし、外に出ればこの有様だ。もう何もかもが嫌になってしまい、物事がすべて悪い方へ悪い方へと転がってしまう気がしていた。
「……それもこれも……みんなあの男のせいよ……」
”あの男”というのは、鐘崎の伴侶である紫月のことだ。
「いったい……どんなヤツなのかしら! 鐘崎さんをたぶらかして、男同士で結婚だなんて! 図々しいったらないわ! 何もかもあいつのせいよ……!」
繭のどす黒い感情は、まだ見ぬ紫月に向かって一直線に渦を増していくようだった。
「どんな手を使って鐘崎さんに近付いたのか調べて上げてやるわ! 絶対に渡さない……。鐘崎さんをあの男から救ってあげられるのはアタシしかいないんだから……!」
怒り任せで顔を真っ赤にしながら都会の路地を早足で駆け抜ける――繭の瞳は負の感情で闇色に揺れていた。
◇ ◇ ◇
事件が起こったのはそれから一週間ほど後の週末だった。
この日はちょうど鐘崎の邸に周焔と冰が遊びに来ていた。中秋の名月を控えて、皆で月見の会を催そうという話になり、その相談も兼ねて集まっていたのだ。
「俺と冰もお陰様で入籍できたことだし、今回は香港からお袋たちや兄貴の嫁さんを招待したいと思っているんだ。親父と兄貴は仕事の都合でまだどうなるか分からんが、女性連中は日本の情緒を味わえるって楽しみにしてるようなんでな」
周の話を受けて、紫月が嬉しそうに思い付いた提案を口にする。
「そいつはいいな! ならさ、ウチの庭に赤い毛氈とかでっけえ傘とか出してさ、日本情緒たっぷりにすりゃ最高じゃね? ほら、よく京都のお寺とかで団子とか食えるような茶店風のやつ」
「ああ、茶会とかで見掛けるあれか」
「そうそう、それ! あのセットを調達しようぜ! なぁ、遼?」
「そうだな。この際、薄茶でもたてて本格的な茶会ふうにするのもいいな」
周と冰が入籍して初めて姑たちを招く絶好の機会である。鐘崎も紫月も思い付く限りのもてなしをしたいと思って意欲的なのだ。
特に紫月の方は同じ嫁という立場に立って、冰が姑たちに喜んでもらえるように手助けしたいと張り切っていた。
「な、な、お袋さんたちと義姉さんに着物を着てもらうのはどうだ? ススキとか秋の花を飾ってさ。団子も三宝に飾って、ちゃんと十五個乗せてさ! 固い作り物ののじゃなくて、ちゃんと食えるやつ」
◆25
「うわぁ、それ最高ですね! お母様たちとお義姉様だもん、着物姿だなんてきっとめちゃめちゃ綺麗だと思うし、何より喜んでくださると思います!」
紫月の提案に冰も嬉しそうに瞳を輝かせた。
「なら俺たちも着物を着るか。どうだ、カネ」
「おう、いいな! こうなったらとことん日本情緒満載でいくのもオツだな」
「うわぁ! 白龍と鐘崎さんの和服姿かぁ。カッコいいだろうなぁ!」
「何言ってんだ。お前らも着るんだぞ」
「え? 俺たちも?」
「当たりめえだろ! とびきり渋いのを新調してやる。それともいつぞやみてえに女装ってのもいいんじゃねえか? お前と一之宮なら艶やかだろうぜ?」
「うはは! やだなぁ、白龍ったら!」
冰が恥ずかしがる横で、紫月と鐘崎は意外にも真剣に盛り上がっている様子でいる。
「んでも、それもアリかもな! 俺と冰君で花魁道中でもやってみっか!」
「花魁か! そいつはいいな」
二人の意見を聞いて大賛成とばかりに周も身を乗り出す。
「だったら床の用意も欲しくなるじゃねえか! 赤い組布団とか揃えて、その夜はカネん家の純和風の部屋に泊まらしてもらうってのもいいな」
「うはは! 出たよ、氷川エロ魔神が! 結局それ目当てかよ!」
そんな話で最高潮に盛り上がっていた時だった。組の若い衆が慌てたような顔付きで幹部の清水を呼びにやって来たことから事態は一転した。
「若、清水幹部! お寛ぎのところすみません! 実は例の三崎財閥の社長が緊急の用事だとかで血相変えて訪ねていらしてるんですが……」
その言葉で和気藹々としていた空気が一気にトーンダウンした。
「緊急の用事だと? 社長が一人で来ているのか?」
清水が尋ねると、若い衆からはもっと驚くような報告が飛び出した。
「いらしているのは社長と専務、それに運転手の方の三人です。何でも娘さんが誘拐されたとかで……」
「誘拐――ッ!?」
その場にいた全員が声を揃えてしまった。
「と、とにかく私が話を聞いて参りましょう。若たちはこちらでお待ちください」
清水がすかさず立ち上がったが、
「いや、直接聞いた方が早いだろう」
鐘崎がそう言うので、結局は皆で一緒に応接室まで行くこととなった。
鐘崎の姿を一目見るなり社長が飛びつくようにしてソファから立ち上がった。
「鐘崎君! た、助けてくれ……! あの子が……繭が……」
「社長さん、落ち着いてください。お嬢さんが誘拐に遭ったとのことですが、警察へは届けられたんですか?」
「いや……それはまだ……。警察に言えば繭の命はないと……言われて」
「犯人にお心当たりは?」
「いいや……。こんなこと初めてで……私にはもう何が何だか……」
「連絡がきたのは電話でですね? 相手の声に聞き覚えは?」
「分からない……声を変える機械を通したようなやつだった」
◆26
「つまり、男か女かも分からねえってことか。それで要求は何と? 身代金などの具体的なことは言われましたか?」
鐘崎がひとつひとつ丁寧に状況を尋ねていく。突然の事態に遭った相手を落ち着かせながら、ギリギリまで詳しく的確な情報を聞き出す為だ。ところが、その要求の内容に驚かされる羽目となった。
「そ、それが……み、身代金は一千万。現金で揃えてホテル・グラン・エーのスイートルームに届けろと」
「グラン・エーだと? 粟津の家が経営してるホテルじゃねえか……」
しかもスイートルームとは、これまた珍しい趣向だ。普通、身代金の受け渡しにそんな場所を選ぶだろうか。それ以前に、財閥令嬢を誘拐しておきながら一千万という金額も少ないように思える。鐘崎と周は眉根を寄せながら互いを見合ってしまった。
「何だか胡散臭え話だな。それで、金はおたくが持って行くってわけか?」
周が横からついそう口を挟んでしまったのだが、その後に続いた社長の返答で更に驚かされることとなった。
「いや、それが……身代金は鐘崎君、キミに届けて欲しいということなんだ」
「俺に――ですか?」
ますますおかしな話向きに、怪訝にならざるを得ない。
だが、社長の様子から見て怯えてパニックになっているのは演技とも思えないし、嘘をついているようにも取れなかった。
「か、金は用意できています……! 鐘崎君にはご迷惑を掛けてすまないと思うが……どうか助けてくれないだろうか……! この通りです! 頼みます!」
ソファから降りて床に頭を擦り付けながら懇願する様からも、本当に衝撃を受けているのが分かる。胡散臭いところは多々あるが、どんな事態なのかを把握する為にも、とにかくは引き受けるしかないだろう。もしかしたら、何かの勘違いから鐘崎と繭が親しい関係にあると思い込んだ誰かが、鐘崎目当てで引き起こした犯行でないとも言い切れないからだ。常にあらゆる事態を想定するのはこの職の基本である。
「分かりました。俺が届けましょう」
鐘崎が承諾すると、
「鐘崎君……! ありがとうございます! ありがとう……! あの子を頼みます」
社長は涙を流して手を擦り合わせた。
「遼、俺も一緒に行くぜ」
紫月がそう言ったが、
「いや、俺が行こう。一之宮と冰はここで待っていろ」
すかさず周が申し出た。鐘崎もその方がいいとうなずく。
「ここは氷川の厚意に甘えるとしよう。清水、お前も同行してくれ。それから源さんにも伝えて、この邸にも万が一に備えての警備体制を敷いてもらう」
つまり、鐘崎を外に誘い出した隙に紫月や冰が狙われるという危険性に備える為だ。実に鐘崎にとっては、こちらの方が大事であった。
「かしこまりました。すぐに手配を」
清水が部屋を出ていったのを見送りながら、鐘崎は粟津帝斗にも連絡を入れた。
「粟津がいれば部屋はマスターキーで開けられる。必要に応じて隣室からのアプローチも可能だ」
◆27
それと同時に、指定のあったスイートルームに、いつどんな客が入室したかなどの詳しいことも調べやすい。みるみる内に繭救出の体制が整えられていった。
また、万が一に備えての防弾ベストや武器などの装備を整える為に、紫月が甲斐甲斐しく鐘崎の支度を整えていく。周や清水らの為のベストなども、手際良くすべて紫月が用意して、装着の補助までをテキパキとこなしていった。
その傍らでは冰も皆の上着を手渡したり、できることを手伝いながら少しでも役に立とうと一生懸命だ。ともすれば危険を伴う心配な状況ではあるが、おろおろとしたりせずに、気丈な様子でしっかりと留守を守る心構えでいる。さすがは裏社会に生きる者の伴侶たちである。
「それじゃ、遼。気をつけてな。氷川もすまない、遼のことをよろしく頼む」
「ああ、任せろ」
「邸には源さんと組員たちを残していく。お前らも気を抜かねえで、ここから出るんじゃねえぞ。何かあれば俺たちの状況は気にせずにすぐに連絡を入れろ」
「分かった。こっちの方は大丈夫だから、とにかくはご令嬢を無事に救出できるよう専念してくれ」
「白龍、鐘崎さん、皆さん、お気をつけて」
しっかり者の嫁たちに見送られながら、鐘崎と周は清水と若い衆数名を伴って邸を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
ホテルに着くと、既に粟津帝斗が待っていて鐘崎らを出迎えてくれた。
「繭嬢がいると思われる部屋は突き止めている。ロビーを見渡せる防犯カメラの映像でも調べたんだが、チェックインをしたのはどうやら繭嬢本人のようだ。カードによる事前決済が行われていて、名義も繭嬢のものだった」
「ということは……犯人に脅されてあの娘が自ら部屋を取ったということか……」
普通に考えればそうなるだろうか。
「ですが、何故ご令嬢はチェックインの際に助けを求めなかったのでしょう? これだけ大勢のスタッフと、ロビーには他のお客さんもいらしたでしょうに」
清水が首を傾げる中、とにかくはその部屋まで行ってみることにした。
「粟津、マスターキーを借りられるか?」
「もちろんだよ。念の為、両隣のスイートも確保してある。他に必要なことがあれば何でも言っておくれ」
「すまない。まずは防犯カメラの映像を見せて欲しい。あの娘と一緒に部屋に入るところが映っていると助かるんだが」
犯人が何名なのか、どういった雰囲気の者なのかが分かれば動きやすいからだ。
「だが、仮にも誘拐だぞ? カメラに映るような低脳とも思えんがな」
周がそう言う傍らで、清水もその通りだとうなずき合っている。
ところがだ。
繭と思わしき女と共に、二人連れの男たちが堂々とスイートルームへと入っていく様子が確認できて、皆は唖然とさせられてしまった。
「何だ、見たところこの娘も怯えてる様子でもねえじゃねえか」
映像を見つめながら首を傾げた周は、この場にそぐわない突飛なことをつぶやいた。
「狂言誘拐じゃねえのか?」
皆が驚きに目を見張る中、鐘崎だけが周同様落ち着いた様子で眉根を寄せていた。
「――かも知れねえな」
「ちょ……ッ、待っておくれ! 狂言誘拐って、つまり繭嬢本人が企てたってことかい?」
帝斗が一等驚いて目を剥いている。鐘崎は防犯カメラの映像を閉じると、自身の推測を話して聞かせた。
◆28
「第一にこの場所だ。あの娘が粟津の経営するホテルだと知っていたかどうかは別として、普通に考えれば身代金の受け渡しに有名ホテルのスイートルームを使うとは思えない。犯人たちにとっては自ら逃げ場を失くしているも同然だし、防犯カメラを全く意識していないことから考えても犯行のすべてがずさん過ぎる。だが、娘本人が考えた狂言ならば合点がいくということだ」
「つまりは何だ。身代金が到着するまでの間でさえ、居心地が良くて安全な場所を選んだってわけか」
周が呆れたように片眉をつり上げる。
「おそらくは――無意識にというところだろうがな」
何の苦労もなく育ってきたお嬢様の考えそうなことだと思う一方で、娘の無事を確認するまでは油断は禁物だ。
「問題はその目的だ。本当に狂言誘拐であるなら、そんなくだらねえことをしでかしてまで娘が何をしたいかということだ」
説明をしながらも、鐘崎には彼女の目的が自分の気を引く為ではないかと思ってもいた。だが、まだ絶対にそうだとも言い切れない。父親である三崎社長の話では、このところ娘との間でギクシャクした雰囲気が続いていたということだし、反抗心から夜の街でも彷徨い歩いた挙句、よからぬ者たちに目をつけられた可能性も考えられる。もしかしたら本当に脅されて犯人の言いなりにならざるを得ない緊迫した状況にあることも視野に入れなくてはならないわけだ。
「とにかく急ごう。指定通り俺が一人で部屋を訪ねてみる」
「じゃあ俺は廊下で待機する。通信機を開けておけ。音を拾って事態が把握できた時点ですぐに踏み込むとしよう」
鐘崎と周が手順を確認し合う傍ら、清水は若い衆らと共に隣の部屋で待機することとした。
グラン・エーは超高級ホテルとして国内はもちろんのこと国外でも名だたる有名処だ。週末ということもあって混み合ってはいたが、さすがにスイートルームがある階では、さほどすれ違う客も多くない。
指定された部屋に着き、鐘崎がベルを鳴らすと、殆ど警戒の色もなく扉が開けられた。
犯人らしき男が一人、たいそう暢気な調子で招き入れる。
「よう! 早かったな」
男は若く、繭と同年代といったところで、少々粋がった感はあるものの、至って気は良く警戒心など全くないといった堂々ぶりに拍子抜けさせられる。鐘崎を見るなり、
「へえ! こりゃたまげた! マジでめっちゃいい男じゃん……!」
驚いたように瞳を丸くしながらも、「まあ、入ってよ」などと言って明るく笑っている。
これが演技なのか素なのか、珍しくも鐘崎の方が警戒させられてしまうくらいにあっけらかんとしたものだった。
「――ご令嬢は?」
鐘崎が余分なことを一切端折って訊くと、
「ンな、おっかねえ顔しないでよ! つか、ご令嬢って……! 大金持ちの娘が付き合う野郎ってどんなヤツなのかーって思ったけどさぁ。マジお上品なのな? アンタ、普段から自分の女のことそんなふうに呼んでるってわけ?」
ケラケラと笑って、缶ビール片手に余裕綽々でいる。
◆29
男の態度にも驚かされるところだが、それより何より彼が言った『自分の女』という台詞の意味の方に首を傾げさせられる。つまり、この男にとっては鐘崎が繭の恋人という認識でいるらしい。
「おい――、お前とお嬢さんとは一体どういった関係なんだ? 何故こんなことをした?」
「え? 何?」
男はひょうひょうとしたまま我が物顔でソファへと腰掛けて、伸びまで繰り出すリラックスぶりでいる。
「なぁ、あんたはやっぱ、こーゆートコ来慣れてんの? 金持ちってのは羨ましいねぇ。俺らにしてみりゃさぁ、こーんな超高級ホテルなんて滅多に来られねえわけよ。飲み物からしてプレミアもん揃いで感激ー! つか、ツマミも旨えし、マジ最高! ってかー?」
テーブルの上には缶ビールやらワインのクォーターボトルやらの空き瓶が数本とグラスが散らばっている。男の言うようにツマミの袋や缶も開けられていて、見たところ部屋に設られているミニバーのものを数人で空けたと思われる。
「お嬢さんは何処だ」
娘の姿が見当たらないのでそう尋ねると、男は相変わらずの無警戒ぶりで、『あっち』と、寝室らしき扉を指さした。
「それよか、マジで持って来てくれたんだ? それ、金だろ?」
アタッシュケースを見て、興奮気味に目を輝かせている。
「な、な! とりま、中開けて見せてよ!」
あまりの堂々ぶりに、裏の世界に身を置く鐘崎からしてみれば、この軽率そうな男の態度は逆に巧妙な手口に映ってしまうといったところだ。素人を装ってこちらの意表をつくつもりであるなら、相当なキレ者だろうかと身構えさせられるほどだった。
プロ中のプロか、はたまたズブの素人か。判断する為にも、鐘崎は言われた通りにアタッシュケースをテーブルの上に置いて蓋を開け、中の札束を男に見せた。と同時にいつでも体術で応戦できる体勢も忘れない。金を手にしたと同時にどんな攻撃が飛んでくるか分からないからだ。
鐘崎のいる世界とはそういうものである。ところが、男はどうやら本当に素人同然だったようだ。
「うわっ、すっげえー! マジ本物かよ!」
既に鐘崎の存在などそっちのけで、男が思わず歓喜の大声を上げた時だった。奥のベッドルームから『キャア!』という女の悲鳴が聞こえてきて、鐘崎は即座に身構えた。その叫び声は通信無線を通して廊下にいた周にも伝わったのだろう。すぐに彼も部屋へと飛び込んで来てくれて、最初に応対に出た暢気な男を瞬時に捻じ伏せて捕らえてくれた。清水と若い衆らも後に続き、テーブルの上にあったアタッシュケースごと金を回収する。この間わずか数秒、背後の憂いがなくなったところで、鐘崎はすかさずベッドルームへと向かった。
ドアを蹴破る覚悟でいたが、何と鍵はかかっておらず、すんなりと開いたことにも驚かされる。だが、ベッドの上では繭が男に組み敷かれていることに、更に驚かされるハメとなった。
◆30
「遼二さん! 遼二! 助けて!」
服は着たままだが、胸元だけはハダけていて娘の白い肌があらわにされている。馬乗りになられて大声で抵抗してはいるものの、鐘崎の目にはその様子がひどくチグハグで陳腐な印象に映ってしまったのだった。
それが証拠か、男の方は鐘崎の侵入を察知すると同時に、「おっと!」と言って、すぐに繭を突き放しベッドから飛び退いた。まるで悪気のなく、口元にはニヤニヤと冷やかすような薄ら笑いを浮かべている。
「残念ー! もう彼氏のお出ましかよ」
相反して繭の方は慌てたようにベッドから起き上がると、弾丸のような勢いで鐘崎の胸へとしがみ付いてきた。
「遼二……! 遼二ー! 怖かったわ!」
ギュウギュウとしがみ付き、その勢いは体格のいい鐘崎であっても後退りさせられるほどだ。服も肩先までが剥き出しにされていて、胸の谷間もあらわにブラウスの中の下着がのぞいている。ともすれば乳輪が見え隠れするような卑猥な格好を隠そうともせずに、娘は必死に抱き付いたまま離れようとはしなかった。
ごく当たり前に考えるならば、手籠に遭う一歩手前といった状況といえる。間一髪のところで助けが間に合ったというふうに見えるものの、鐘崎からすれば相当にあざとさが窺える胡散臭いものだった。
それを証拠に、周や清水らが捕らえた男たちが大慌てといったふうに喚き散らし始めていた。
「何? 話が違うじゃね? ちょ……、離せって!」
「信じらんね! 刑事が来るなんて聞いてねえっての!」
どうやら彼らは周と清水たちを警察の人間と勘違いしている様子である。あまりにも手際良く拘束されてしまったのと、周らの持つオーラが尋常ならぬ玄人に思えたのだろう、男たちは尋ねもしない内からいろいろと興味深いことを暴露し始めてくれた。
「ンだよ! 女のカレシが一人で来るんじゃなかったのかよ? 何でケーサツが出てくるわけ?」
「冗談だろ? 俺ら、何もしてねえかんな! ワッパかけるとかマジ勘弁してよ!」
喚き散らす彼らの様子を見ただけで、鐘崎にも周にもおおよその事態が読めてしまった。つまり、狂言誘拐で当たりというわけだ。
呆れる以前に腹立たしいほど溜め息が尽きないところだが、それはまた別の意味で娘の繭にとっても同様だったようだ。鐘崎以外にも数人の屈強な男たちが連れ立って来たことを知って、驚きを隠せない様子でいる。加えて、いとも簡単に捕えられてしまった男二人があれやこれやと事情をしゃべりまくっていることに、蒼白となっていった。
「お嬢さん、これはいったいどういうことです? とんだ悪ふざけだな」
「……あ……違……っ! アタシは……」
娘は硬直したまま、言い訳さえもままならないといった調子で愕然と立ち尽くしている。
「清水、とにかく親父さんを呼んでくれ」
鐘崎のそのひと言で娘は我に返ったわけか、驚愕の表情をしながら視線を泳がせた。
◆31
「パ、パパが来てるの……?」
「ロビーで待機していただいております。とてもご心配なさっていらっしゃいますよ。とにかく、そんな格好ではお父上が驚かれるでしょうから」
気を利かせた清水がすぐさま鐘崎の腕から娘をもらい受けながらそう言って、バスルームに掛かっていたローブを羽織らせる。そのままベッドへと腰掛けさせると、
「すぐにお父上が見えますので」
娘を一人残し、鐘崎も清水も扉を閉めて出ていった。
「……! 待って……遼二……さ……ッ」
追い掛けようと咄嗟に手を伸ばせども、それが鐘崎に届くことはもうなかった。
一方、リビングの方では既に捕らえた男たちから周が事情を聞き出していた。
「……俺らはあの女に頼まれて、カレシとの仲直りに手を貸しただけだって!」
「ケンカして一ヶ月以上こじれたまんまでさ、困ってるっつーから! カレシが迎えに来たら、ちょっくら犯すフリをしてくれって! 言われた通りにしただけだっつの! 実際には何もやっちゃいねえって!」
「そうそう! 要はバイトだよ。こんだけで一人百万ずつくれるってんだぜ? こんなオイシイ話、乗らねえ方がアホだろ?」
「なのに刑事が来るって……話めちゃくちゃじゃね? ワケ分かんねえし!」
よほど焦っているのか、問いただす手間さえ要らずといった調子である。あまりのことに周も若い衆らもほとほと呆れ返ってしまった。
男たちの話では、アルバイト先のカフェに常連客として訪れていた繭と顔見知りになり、幾度か挨拶を交わす内に親しくなっていったらしい。そんな中で、高額な報酬と引き換えに今回の計画を手伝う算段になったとのことだった。
父親の三崎社長への身代金要求の電話も繭自身がしたらしい。目的は、喧嘩した恋人――つまりは鐘崎のこと――らしいが、その彼と仲直りのきっかけが掴めないので、緊急のシチュエーションになればスムーズに和解できるだろうからという言い分だったそうだ。
男たちが頼まれたのは、鐘崎が一人で迎えに来るから、その後は身代金から一人百万ずつ取って部屋から立ち去ってくれればいいとのことで、こんなに楽でおいしいバイトならと飛びついたということだった。有名ホテルのスイートルームにしたのも、男たちが帰った後で、そのまま恋人と泊まるつもりだからと繭は言っていたようだ。
どこまで本当の話か知れないが、危険な目に遭った直後なら鐘崎が心配して側に居てくれると思ったのだろうか。あわよくば、手籠に遭いそうになった姿を見て、その場で鐘崎が欲情でもしてくれれば、してやったりというところだったのかも知れない。
こんな大それたことをしてまで想う恋情は憐れというしかないが、それにしても常軌を逸している行動である。鐘崎も周も、そしてその場にいた若い衆らも、皆一様に怒る気にもなれず、ただただ呆れるばかりであった。
そうしている内にロビーで待機してもらっていた繭の父親がやって来た。エレベーターの中で清水から事の次第を聞かされた彼は、信じ難いといった顔付きで、鐘崎を前にしても謝罪の言葉すら出てこない状態だった。
◆32
「三崎さん、お嬢さんはご無事です。あちらの寝室にいらっしゃいます。我々はこれで失礼しますが、今後はこのようなご依頼はお受け致し兼ねますので、お嬢さんにもくれぐれもそうお伝えください。それから、この男たちの処遇もお任せ致します」
取り押さえた犯人たちを差し出すと同時に鐘崎から感情の見えない声音でそう告げられて、ようやくと我に返ったように社長が瞳を見開いた。
「鐘崎君……何とお詫びをしたらよいか……申し訳ない……! 言葉もありません」
震える声でそれだけ言うのが精一杯だったようだ。
「構いません。とにかく無事で何よりです。それでは失礼致します」
「……は、本当に申し訳ございません……このお詫びは後日改めてお伺いさせて……」
「いえ――そういったお気遣いはご不要です。二度とこのようなことがないようにしていただければ我々のことはお構いなく」
というよりも、今後は関わってくれるなと鐘崎の視線がそう告げている。
「はあ……申し訳ありません」
立っていることさえおぼつかない驚愕ぶりで謝る社長の姿は気の毒というしかない。あとは父娘の問題である。これ以上は口を出すつもりもないし、言い訳を聞く必要もない。鐘崎は周らと共に早々にスイートルームを後にしたのだった。
帰りの車中では、周が呆れを通り越して心配顔でいた。
「ありゃ、いったい何だ。娘の恋煩いというよりは、タチの悪いストーカーじゃねえか。意地の悪いことを言うわけじゃねえが、これで治まると思わねえ方がいいかもな」
周が渋い顔付きで言う。鐘崎もまさかここまで煩わされるとは思ってもみなかったというところだろう。
「そう思うか?」
「ああ――。一般人なら警察が介入して当然くれえの事案だろう。しばらくの間は、お前と一之宮の周囲には特に気を配っておいて損はねえと思うぞ」
周の言葉に清水も同意だとうなずいている。
「今回、ご令嬢が雇った犯人の二人ですが、三崎社長がどのように処遇されたかということも含めて、動向には目を光らせておきたいと思います。念の為、若い衆を密かに張り付かせておこうかと。あの社長は経営面でも真面目一筋でこられて人徳もあられる御方ですので、心配はいらないと思いますが、ご令嬢の方の動きには注意が必要です」
「――お前らにも苦労を掛けてすまない」
鐘崎が申し訳ないと頭を下げる。
「それから――しばらくの間、姐さんのお側には護衛役として春日野を付けようかと思うのですが如何でしょう。ヤツは頭もキレますし、ゆくゆくは彼の実家である任侠一家を継ぐ器でもあります。常識もありますし人柄も穏やかで、そのうえ体術にも長けています。姐さんに対して失礼になるようなことはないと思います」
「ああ、春日野にも苦労を掛けるが、そうしてもらえると有り難い。俺が仕事で留守にしている間、紫月を邸に縛り付けておくのも不憫だからな。あいつにも実家の道場の手伝いなんかで外出するくらいは自由にさせてやりてえしな」
◆33
「お邸の警備の方は源次郎さんにお任せすれば、一先ず安心かと存じます。組に出入りする人物はもちろんですが、周辺を嗅ぎ回るような怪しい動きにも即座に対応できるよう体制を整えて参ります。若にはこれまで通り若い衆らと共に私か橘が同行させていただきます。事が完全に解決するまでしばらくご辛抱をお掛けしますが、できる限り予防できるように整えて参りますので」
まるで裏社会の敵対組織に備えるような警戒ぶりではあるが、たかが娘一人の素人と侮って、予想もし得ない大事になるよりはマシである。
「何と言っても狂言誘拐なんぞをさして迷いもなくやってのける女だからな。警戒するに越したことはねえだろう。助力や人員が必要な時は俺の方からも人手を出せる。遠慮なく言ってくれ」
そう言ってくれた周にも、そして清水や組員たちにも迷惑を掛けることを心苦しく思うものの、皆一様に助力を惜しまないと言ってくれることには心からの感謝でいっぱいの鐘崎であった。
そんな中、新たな事件が勃発したのは半月余りの後――、その日は紫月が町内会の会合の為に地元の公民館に出掛けた午後のことだった。
鐘崎組は、極道とはいえ堅気である地域住民との関係も大切にしていて、自治会などにもきちんと顔を出していた。班長などの役割が回ってくることもあるわけだが、そういったことは組員たちに任せきりにせずに、今では紫月が進んで請け負ってくれている。鐘崎と紫月が一緒になる以前は源次郎が担当していたのだが、鐘崎の姐として近所との交友を大事にしたいという紫月の意思だった。
今日も会合があって、今年は防犯担当になった紫月が月一度の寄り合いに顔を出していたわけである。場所はごくごく近所であるものの、当然のごとく春日野がお付きとして一緒に出向いてもいた。
事の発端は会合が終わって帰ろうかという時に起こった。
その集まりに参加していた自治会の役員の一人が、帰り際に素行の悪そうな若い男たちに呼び止められて、金を巻き上げられそうになっているとの報告が入ってきたのだ。地元でも鐘崎組は有名であったから、助けて欲しいと自治会長が紫月の元へ飛んできたのだ。
「鐘崎さん! 大変です! 川久保さんのところのご主人が危ない感じの連中に絡まれてしまって……」
「川久保のじいちゃんが? そいつぁ大変だ!」
紫月も幼い頃からよく遊んでもらったり、面倒を見てもらったりしたタバコ屋のご主人である。すぐに春日野と共に老人がカツアゲに遭ったという現場へと急行した。
「じいちゃんは?」
「ああ、紫月ちゃん! 良かった、来てくれたんかい! 川久保のじいさんはヘンなヤツらに連れてかれちまってよ……。何とか助けようと後を追ったんじゃが、今は廃墟になっとる町工場跡に引き摺り込まれちまったんで、それ以上は追えんでな」
「ちょうど警察を呼ぼうかと言っとったところさ。もう、わしゃ怖くて怖くて腰が抜けそうだ」
最初にカツアゲに遭ったという現場には自治会仲間の老人たちが数人いて、皆一様に震え上がっていた。
◆34
とにかくは川久保老人が連れて行かれたという工場跡へ行ってみることにする。街中で悪さをするにはさすがに目立つし、犯人としては人目のないところで巻き上げるつもりなのだろう。
「とりあえず組にも応援をよこしてくれるように一報入れます!」
春日野がすぐに清水宛てに電話を入れる傍ら、紫月は彼と共に一足先に現場へと踏み込むことにした。応援が来るのを待っている間、万が一にも老人が暴力などを受けて痛い目に遭わされたらいけないし、こういう場合は時間が勝負だからだ。
ところが、中へ入ってみると想像していたよりも遥かに多いゴロつきふうの男たちで溢れ返っていることに驚かされる羽目となった。ザっと見たところ十人くらいは優にいそうだ。
川久保老人は両脇を男たちに捕えられていたが、幸い駆け付けたのが早かったので、まだ怪我もしていない様子に安堵する。
「じいちゃん! 無事か?」
「おい、お前ら、何やってんだ!」
二人は怒鳴ったが、薄暗がりの中、男たちに混じって一人の女がいることに気がついて、更に驚かされてしまった。
「あの女……まさか?」
なんと、ゴロつきたちと共に三崎財閥の娘である繭がいたからである。
紫月は彼女の顔に見覚えはなかったものの、春日野は依頼時や華道展で顔を合わせているから、見間違えるはずもなかった。
「あんた、三崎財閥の娘さんだな……。これはいったいどういうことだ」
すかさず春日野が紫月を庇うように前に出て、そう問いただす。すると、川久保老人を捕まえていた男たちが、信じられないようなことを言ってのけた。
「じいさん、良かったなー。お迎えが来たぜ! あんたの役目はこれで終わりだ。解放してやっから、とっとと消えな!」
老人を突き飛ばすようにして紫月らの目の前へと差し出した。
「じいちゃん! 怪我はねえか?」
躓きそうになった老人を紫月が間一髪で抱き留めてそう声を掛ける。
「紫月ちゃん! すまねえ、迷惑掛けちまって……」
「いや、構わねえって! 無事で良かった」
問題はその目的である。すぐに老人を解放したところをみると、本命はカツアゲでも何でもなく、紫月の方であるのだろう。特に春日野は繭の存在を目にした瞬間からそう睨んでいた。
「姐さん、ご主人と一緒に後ろに下がっていてください」
身を盾にするべく両腕を広げてそう囁く。だがその様子を見ていたゴロつき共が嘲るように笑い出したのに、現場には一気に緊張が走った。
「情けねえなぁ! 野郎のくせに野郎に庇ってもらうなんてさぁ。アンタ、男にホられて喜んでるって話だけど、それマジなのか?」
「つか、姐さんって何? あんたらヤクザごっこでもしてんのー?」
ギャハハと一斉に品のない笑い声が響く。この男たちは紫月らの素性――つまりは本物の極道だということ――を知らないのだろう。
◆35
「見たトコ、あんたもゲス野郎ってわけじゃねえじゃん。どっちか言ったら超がつくほどイイ男の部類だし、実際腹立つくらい男の敵って感じ! その気になれば男も女もよりどりみどりなんだろうからさぁ、わざわざ他人のカレシに手出すとかよせば?」
「そうそう! この彼女がアンタのせいでカレシが離れていったって嘆いてんのよ。女泣かすとかさー、最低じゃね?」
言いたい放題である。つまり、このゴロつきたちは繭からそう聞かされたということになるのだろう。先日の狂言誘拐の時と同様、また彼女が金で雇ったのかも知れない。それを証拠に、狂言誘拐の時にも手伝ったと思われる男二人も顔を見せていた。残りの連中は彼らの顔見知りだろうか。
雇われる方も雇われる方だが、毎度嘘八百を並べ立てて騒ぎを起こす、この繭という女には閉口させられる。こんな女に姐さんが煩わされるかと思うと、春日野は憤りが隠せなかった。
だが、ここで我慢しなければ紫月にも川久保老人にも何をされるか分からない。腕に自信はあるし、紫月とて体術に長けているのは承知だが、如何せんこの人数だ。完全に防ぎ切れるかといえば不安が残る。二人で応戦している間に、川久保老人に危険が及ばないとも限らない。罵倒には腹が立つが、ここは踏ん張って相手の言い分をすべて聞き出し、話し合いで時間を稼ぐ方向に持っていくべきと判断した。そうする内に組からの応援が到着するだろうからだ。
「それで、アンタらの目的は何なんだ。その女性の彼氏を取っただのとワケの分からんことを言っているが、こちらとしてはその女性の彼氏という人には会ったこともない。何かの勘違いじゃねえのか?」
春日野とて任侠一家に育ち、今は鐘崎組の中でも一目置かれている精鋭だ。言葉じりこそ荒くはないが、対面した者を捉えて離さない眼力の鋭さなどは素人を震え上がらせるには十分といえるオーラを放っている。
男たちは若干引き腰気味ながらも、さすがにこの人数差では負ける気はしないと思っているのだろう。数に身を任せて春日野を嘲笑った。
「どうも話が見えねえなぁ。そこにいる超絶イケメンがさぁ、この彼女の男を横取りしたんだろ?」
「素直に男を返してやりなって! 俺らの用はそれだけなんだけど!」
「ま、話して分かんねえようなら……ちっとは痛い目見てもらうことになるけど。どうする?」
ゴロつきたちの間では、すっかり紫月が繭の恋人に横恋慕したような見解でいるらしい。春日野は呆れ返ってしまい、咄嗟には返す言葉も見つからないといったところだったが、それに対して反論を繰り出したのは何と川久保老人であった。
「お若いの、お前さん方は何か勘違いをしていやしないかね? ここにいる紫月ちゃんにはとうに生涯を誓った大事な御方がおるんじゃ。間違っても他所様の恋人を奪うようなマネをするお人じゃのうて!」
◆36
地域住民たちは鐘崎と紫月が伴侶として生きていることを知っている。二人が子供の時分から仲睦まじくしていた経緯も見てきているし、彼らの気のいい性質もよくよく分かっているので、男同士で夫婦になると知った時も自治会を上げて応援祝福してくれたほどである。そんな鐘崎と紫月のことだ、どちらかが浮気をするなどとは思ってもいないわけだ。特に紫月の方は人懐こく、老人たちにとっては本当の孫のような存在でもある。それ故、繭という女の恋人を横恋慕したなどという話を信じられるはずもないというところなのだ。
男たちはますます怪訝そうに首を傾げると、今度は繭に向かって文句を言い始めた。
「ねえ彼女ー、いったいどうなってんだよ? アンタの男をこのイケメンが寝取ったんじゃねえの?」
「このじいさんたちの言ってることとえらく食い違うじゃん!」
「なあ、どうなんだって!」
男たちに問い詰められて恐怖を感じたのか、繭の方は言い訳さえもままならない様子でいる。一触即発の空気を見兼ねてか、紫月が宥めるように話に割って入った。
「まあ、待て待て。お嬢さんの目的は俺だろ? 俺ら、会うのは今日が初めてだけど遼からいろいろと話は聞いてるよ。じいちゃんやこの若い兄ちゃんたちを巻き込んだのはいただけねえけどさ。この際だからアンタの思ってることを全部俺に聞かせてくれよ」
繭にとっても本来一番望んでいたことだ。紫月と直接会うのは確かに今日が初めてではあるが、ずっと気に掛かってきた相手である。このまま黙っていても『話が違う』と、ゴロつきたちにも迫られる一方だし、気が短そうな彼らが苛立って暴力に出ないとも限らない。ここはもう思い切ってすべてをぶち撒けるしかない。繭はそう思ったようだった。
「アタシは……アタシは遼二さんのことが本当に好きなの! 彼にちゃんとした奥様がいるなら諦められたわ。でも、相手が男のあなただなんて……納得できないのよ……!」
「うん」
紫月はとにかく彼女の思うがままに全部吐き出させてしまおうと、何を言われても怒ったりせずに、穏やかにうなずきながら話の続きを待った。
「今は良くても将来的に見れば遼二さんだってちゃんとした奥様が必要だと思うわ。後継ぎだって欲しいだろうし、でもあなたじゃ無理でしょ? だから彼と別れて欲しい。あなたから別れるって言って欲しい。彼だってあなたがいなくなれば、落ち着いて現実を見られるはずよ。アタシがこんなに彼のことを想っているんだもの、遼二さんだって……きっと振り向いてくれると思うわ」
まさに言いたい放題である。春日野などは頭に血が昇ってしまいそうだったが、当の紫月には意外にも腹を立てたり傷付いたりといった様子は見受けられず、ここで自分が姐さんを差し置いて逆上してはいけないと必死に堪えるのだった。
◆37
「そっか。つまりお嬢さんはそれだけあいつのことが好きだってことなんだな?」
「そうよ! アタシは本気! あの人と一緒になれるなら……何にもいらない!」
「けど、お嬢さんは遼と出会ってまだ間もないだろ? あいつのどこにそんなに惚れたんだ?」
「どこって……」
「例えば顔が好みだったとか、態度がやさしかったとか、何でもいいさ。思ったままを聞かせてくれないか?」
紫月があまりにも穏やかに訊いてくるので、つい対抗心を忘れて思っているままの気持ちが口をついて出てしまいそうだ。まるでカウンセラーに話すかのように、繭は素直な気持ちをありのまま吐き出した。
「そんなの全部よ……。もちろん顔も格好いいし、背も高くて……一緒に歩いて腕を組んだりしたらどんなに素敵だろうとも思うし……それに……喧嘩も強そうだしアタシを守ってくれそうだし、友達にだって自慢できるわ」
「うん、確かに。それから?」
「それから……って……」
繭は言葉を詰まらせながらも、紫月には負けたくないのか、懸命に先を続けた。
「デ、デートだって素敵なところに連れて行ってくれそうだし……結婚記念日や誕生日も……彼となら夢のような時間を過ごせるわ」
「他には?」
「他にはって……とにかく全部よ! あの人となら全部が薔薇色に輝くような人生を送れると思うからよ!」
「薔薇色――か」
「そうよ! 結婚して可愛い子供を産んで親子三人、いえ四人かも五人かも知れない! あの人と一緒に幸せな家庭を築きたいわ!」
話を聞いているとすべてが自分よがりで、鐘崎に対しても自分が彼から与えてもらうことしか考えていない。鐘崎を好きだというよりも、単にいい男にいい思いをさせてもらうことしか望んでいない口ぶりだ。
だがまあ、夢見心地な女のこれが一等素直な気持ちなのだろうと、紫月はある意味バカ正直というか、よく言えば純粋なんだなとヘンな感心が湧いてしまい、やれやれと思うのだった。
「アンタの気持ちは分かった。で、その相手が遼二なら、今言った夢が叶うだろうって思うわけね?」
「そうよ……! いけない?」
「いけないなんて言わねえさ。好きな男と幸せになりてえって思うのは当たり前のことだし、素晴らしいことだぜ。けど、それってお嬢さんと遼二が相思相愛だった場合に初めて実現することだろ? もしもあいつにその気がなければ、俺がいようがいまいが叶わない夢じゃねえか?」
紫月の言葉に、繭はキッと剣を浮かべた。
「何よ……アタシじゃ遼二さんに愛されないと思ってるわけ? 彼が好きなのは自分しかいないとでも言いたいの?」
「そうじゃねえ。ただ、遼二を好きならこんなふうに他人様を巻き込んだりしねえで、あいつ自身にアンタの気持ちを打ち明けるべきじゃねえか? アンタ、この間も誘拐事件を起こしたり、今日みたいに何の関係もねえ川久保のじいちゃんやここにいる若い兄ちゃんたちを巻き込んで、そんなやり方は良くねえって思うんだ。親父さんにだって心配かけるだろうに」
◆38
「何よ……余裕ぶっちゃって……。今度はお説教!?」
「まあ、説教っちゃ説教かな。お嬢さんの用があるのは俺なんだろ? だったらじいちゃんを餌に俺をおびき出すような回りくどいマネしねえで、直接俺ンところを訪ねて来るべきだって言ってるんだ。遼二のことだってそうだ。本当にあいつが好きなら直接打ち明けりゃいい。ヤツだってアンタが真剣に気持ちを伝えれば、それを笑ったり蔑ろにするようなヤツじゃねえよ。そりゃ、打ち明けたからってあいつが気持ちを受け入れるか断るかってのは分からねえよ? けど、真剣な気持ちで当たれば、あいつもきちんと向き合って真摯に答えをくれるはずだ」
紫月の言葉はまさに真剣に繭に向き合っての真摯な意見といえる。普通ならば『俺の男にちょっかい掛けたのはそっちだろう』と詰って当然のところを、穏やか且つ冷静に繭の気持ちに耳を傾けてくれているのだ。
そして、何より繭にとって都合のいいことも悪いことも有耶無耶にせずにハッキリと告げてくれる。こちらの言い分は丁寧に聞くが、おだてて話を合わせるわけではないし、耳の痛いことも正直に指摘してくれる。そうされて不思議と腹が立たないのは、紫月が真正面から自分を見ようとしてくれているのを本能で感じるからであった。
――繭の中で何かが変化しようとしていた。
「な、何よ……全部アタシが悪いみたいな言い方して……」
「全部悪いなんて言ってねえさ。ただ、本当に好きなら真正面から当たるべきだって言ってるんだ。この兄ちゃんたちもどんな条件で集まってもらったのか知らねえが、じいちゃんを脅してこんな所に連れ込むとか、ヘタしたら警察沙汰になるようなリスクを負わせてるんだぜ? もしも今ここで皆が捕まったりしてみろ。こいつらの将来にも少なからず傷をつけることになる」
繭にとっては考えもしなかったことだ。言われて、初めてそんなリスクも有り得たのだと気付かされる。そして、それは集まった若い男たちにとっても同様だった。まさか、自分たちが脅して連れ込んだ相手から自分たちのことを思いやってくれる言葉が出るなどとは微塵も思わなかったからである。
ザワザワと、さざ波のように動揺が廃墟内に広がっていく。
本来ならば、話がこじれた時点でこの紫月という男を袋叩きにでもすればいいと、面白おかしく考えて乗った話である。ちょっとした遊び感覚で、体良く鬱憤も晴らせる程度に思っていたのだが、それが如何に浅はかで間違った考えであったかということに気付かされる。男たちの間に無意識の動揺が広がっていった。
「とにかく、先ずはじいちゃんに謝って、この兄ちゃんたちも帰してやるんだ。その後で本気で遼二が好きなら本人にそう言えばいい。俺にも言いたいことがあるならちゃんと聞くさ」
紫月はそう言うと、集まっていた男たちに対してこう付け加えた。
「どういう経緯であんたらがこのお嬢さんとこんなことをしでかしたのかは知らねえが――」
おそらくは金で雇われたのだろうことは容易に想像がつくものの、そこは敢えて触れないでおく。
「ひとまず今日のところは解散してくれねえか? あんたらがじいちゃんを脅した現場を見てた人はたくさんいるんだ。警察沙汰になる前に帰った方がいい。後のことは俺が引き受ける」
そう言われて、男たちは戸惑うように互いを見やった。
◆39
「ンなこと言われたってよ……」
「……つか、まだ金も貰ってねえし」
ブツブツと口ごもるも、確かに紫月の言うことも一理あると思うのだろう。もしも今、警察が踏み込んでくれば、上手い言い訳が見つからない。事情聴取くらいは免れないだろう。
「分かった……。そんじゃ、今日のところは引き上げてやるけどよ」
「後でちゃんと約束のモンはいただくかんな!」
繭に向かって捨て台詞を吐く。つまり、報酬を忘れるなという意味だろう。紫月も春日野もやはり金で雇ったわけかと思いながらも、一先ずは男たちが素直に引き上げてくれたことに胸を撫で下ろした。
「さて……と。まずはお嬢さん、アンタだ。今回はたまたま大事に至らなくて済んだが、どこの誰とも知れないような若い男たちをあんなにたくさん集めて、下手したらアンタ自身が危ない目に遭うかも知れなかったんだ。それは分かるな?」
「……危ない目って……」
「もしもじいちゃんの拉致に失敗して、俺もじいちゃんもここに来なかったと考えてみろ。血気盛んな年頃の野郎が十人にアンタみてえな若い女が一人――良からぬことを思い付かねえとは言い切れねえぞ? アンタが到底想像し得ないような嫌な目に遭うことだってあったかも知れないんだ」
「……まさか……」
「あいつらは金で雇ったのか?」
「……そう……だけど」
「上手く俺をおびき出せれば一人十万とか、そんなところか?」
ズバリと言い当てられて、繭は困惑顔でうつむいてしまった。
「……あの人たちは……よく行くカフェの店員さんだもの……。いつもやさしいし、お金だってちゃんと払うって約束してるんだし、そんな……ヘンなことするとは思えないわ」
「だが、全員が親しい店員ってわけじゃねえだろう?」
「知ってるのは二人……。他の人たちは彼らの友達だって……言ってたもの」
「つまり、今日初めて会う連中もいたわけだろ?」
「そう……だけど。でもお金は全員に払うつもりだったし、ホントにやさしい人たちだもの。それに、初対面の人たちだって……アタシに何かすればそれが貰えなくなるのよ? そんな滅多なこと……」
するわけがないと言い掛けた時だった。
「バカ野郎! 甘いこと言ってんじゃねえ!」
突如、怒鳴り上げられて、繭はビクリと肩を震わせた。
「いいか、男が十人、女はアンタ一人。こんな人目につかねえ廃工場なんかにシケ込んで、まかり間違って野郎が欲情しねえ保証なんかねえんだ! あいつらが全員で襲い掛かってきてみろ! アンタ一人でどう太刀打ちできるってんだ!」
「……で、でもお金を……お金をちゃんと払うんだもの……! アタシにヘンなことすればそれがパーになるのよ! そんなことするはず……」
「金なんか頼りになるか! たかだか一人十万そこら貰うより、目の前の獲物を喰らうことが先ずは先だ! その後で金も巻き上げればいい、そう思っても不思議はねえ状況だったってことだ!」
「……そんな」
「いいか、お嬢さん。世の中はアンタが考えてるほどいい人間ばかりじゃねえ。アンタには想像もできねえようなことを平気でやってのけるヤツだっているんだ。今回アンタが雇ったあの男たちが必ずしもそうだとは言わねえが、そういう悲惨な状況になることも十分有り得たってことだ。しかも、その状況を作ったのはアンタ自身だ。万が一とんでもねえ目に遭ってたとしたらどうする? 悔いたって悔いきれねえぞ? もっと慎重になって、何よりてめえを大事にしなきゃダメだ!」
◆40
「…………」
「逆に――例えばあの男たちが割といいヤツらだったとして、今俺が言ったような悪どいことは微塵も考えていなかったとしたら、今度はあいつらの将来を傷付けることになるんだぜ? 警察が来て、しょっ引かれて、例え小さくても犯罪歴なんかついてみろ。人生これからっていう若い男の一生を狂わせちまうことだって有り得るんだ。こんなことは誰にとっても得になんかならねえ不幸せなことなんだぜ?」
ここまで言われて、繭にもやっと事の重大さが想像できるようになったのだろうか、人生につまずいた男たちから恨みを買うかも知れないし、こんなことに巻き込みやがってと報復を受けるかも知れない。それ以前に、紫月が言ったようにもしも自分が彼らに暴力を振るわれたりしていたらと、その現場を思い描くだけでガクガクと全身に震えが走るようだった。
「金で何でも思い通りになると思うな。よく知りもしねえ他人を簡単に信じるんじゃねえ。そんでもって、もっとてめえを大事にしろ!」
「……ッう……」
堪らずに、繭は泣き出してしまった。だが、それは単に叱られたからというわけではない。紫月が自分の為を思って真剣に言ってくれているというのが本能で分かったからだ。
言葉じりも決して丁寧とは言えないし、初対面にしては荒い方だろう。だが、不思議と恐怖は感じられない。それどころか、ひどく温かく心のど真ん中に響いてくるようなのだ。繭は涙しながらも、一筋の光を求めるような面持ちで真っ直ぐに紫月を見上げた。まるで、長い間彷徨っていた暗闇からやっと出口を見つけたような視線が『本当は早くここから抜け出したいんだ』と訴えているかのようだ。
紫月にもそんな彼女の心の内が伝わったのだろう。ふうと小さな溜め息をつくと、
「よっしゃ! 以上、説教は終了だ。これからはこんな危ねえマネは二度とするなよ? アンタ、まだまだ若くて将来があるお嬢さんなんだ。もっともっと自分を大事にするって約束してくれ」
クイと長身の腰を屈めて、彼女の顔を覗き込みながら穏やかにそう言った。
「……ッ、ひ……っク」
『ごめんなさい』とも『ありがとう』ともまったく言葉にならないながらも、紫月が本気で叱るほど心配してくれていることだけは繭にも充分過ぎるほど伝わったのだろう、うつむきながらもコクコクと頭を縦に振る様子を安堵の面持ちで見つめる紫月だった。
「それからじいちゃん、巻き込んじまって悪かったな。この通りだ! 勘弁してやってくれ」
今度は川久保老人に向かって深々と頭を下げると、
「ほら、お嬢さん。あんたもじいちゃんに謝るんだ」
繭の頭に手を掛けて、グイとお辞儀をさせるように促しながらそう言った。
「……!? あ……え、えっと……あ、あの……すみませんでした……」
戸惑いながらも素直に頭を下げた様子に、「よし!」と微笑みながら繭の頭に添えていた大きな掌でクシャクシャっと髪を撫でた。
驚いたのは繭だ。
こんなことをしたのに、怒りもせずに笑い掛けてくれる。それより何より、撫でられた掌の感触が驚くほど温かくて、心の奥の奥からじんわりと言いようのない気持ちが湧き出るようなのだ。
本当なら拒絶され、罵倒されて当然のことをしている。鐘崎への想いに対しても、責めるどころか本来は決して受け入れられるはずもない我が侭な言い分に怒りもせずに穏やかに聞く耳を傾けてくれた。真っ直ぐに目と目を合わせて理解しようとしてくれた。真剣に心配して、真剣に叱ってもくれた。今まで誰一人としてこんなふうに真っ向から向き合ってくれた人はいなかった。
無意識の内に、またしても繭の頬に大粒の涙が伝わっていた。