極道恋事情

11 厄介な依頼人3



◆41
 よくよく見れば、鐘崎とは雰囲気が違えども、紫月もまた万人が見惚れるほどの男前である。先程の男たちも言っていたが、確かに超がつくほどのイケメンといえる。背も高く、大きな二重の瞳は吸い込まれそうに魅力的でもあるし、体つきこそ鐘崎のようにがっしり筋肉質というわけではないが、スレンダーで均整のとれたモデルのような印象だ。
 正直なところ、鐘崎の相手が男性だと知った時には想像すらしていなかった風貌と、そしてそれに見合う大きくて温かな心の持ち主でもあることに驚愕の思いが隠せない。繭の中ではもっとチャランポランな軽薄そうな男と勝手に思い込んでしまっていたのだ。
 あまりのギャップに、どうしていいか分からないくらいに心が揺れる。さすがにあの鐘崎が心惹かれるのが納得できてしまうのと同時に、これほどまでに心の広く温かい人間に出会ったことがなかったことにも気付かされる。
「……どう……して? どうして……怒らないの……?」
 ポロポロとこぼれる涙を拭いもせずに、繭は真っ直ぐに紫月を見上げた。
「どうしてって、今ちゃんと説教はしたろ? アンタも俺の言ったことを分かってくれたからじいちゃんにも謝った。そうだろ?」
「……そ……だけど」
「だったらもう怒る必要なんかねえじゃん?」
 だろ? というふうに、ニカッと白い歯を見せて笑った紫月を見て、繭はより一層涙してしまった。まるで子供のように号泣状態だ。
「……じゃあ、じゃあ遼二さんのことは? 本当なら……あなたの彼だったあの人を後から好きになったのはアタシの方だもの。分かってたけど散々迷惑なことをしてしまったわ……。あなただって……実際は嫌な思いをしてたはずだわ。それなのにどうして……アタシを責めようともしないで……それどころかアタシなんかのことを心配して……叱ってくれたり……。どうしてこんなふうにしてくれるの? アタシのこと、嫌なヤツだって思わないの? どうして……」
 これまでは決して認めようとはしなかった自分自身の非を自覚している言葉が自然と口をついて出る。しゃくり上げて泣く様子に、紫月はまたひとたび彼女の頭をグリグリっと撫でると、
「ほら、もう泣くな! ンなツラしてっと美人が台無しになんぞ!」
 ハハっと笑ってポケットからハンカチを差し出した。
「ほれ、使いな。それ、アンタにやるから鼻もちゃんとチーンしろ」
 繭は素直にハンカチを受け取ると、嗚咽する声で絞り出すように謝罪の言葉を口にした。



◆42
「ごめん……なさい! あなたが羨ましかったの……! 遼二さんに一目惚れして……でも全然相手にしてもらえなくて……苦しかったの! ホントは分かってたの。あんな素敵な人がアタシなんかに振り向いてくれるわけないって。でも諦められなくて……どうにかしてあの人と接点を持っていたくて……わざと困らせるようなことして、自分でも悪いことだって分かってたけどとめられなかったの……!」
 まるで子供のように泣きじゃくる繭を見つめながら、紫月は瞳を細めうなずいていた。
「好きになったのは遼二が初めてだったのか?」
「……ん、初めてってわけじゃない。でも……こんなに大好きって思ったのは……うん、初めてだったわ……。でも誰も分かってくれない……。パパだって諦めろって言うだけで、終いには全部アタシが悪いって怒り出すし、友達には彼氏って誤解されたまま……違うって言う勇気が持てなくて、何とかして本当に彼氏になってもらわなきゃみっともないって思って焦っちゃって……。家でも外でも居場所がなくなっていくのが怖かった。こうなったらどんな手を使っても遼二さんを振り向かせるしかないって……そうすれば皆が認めてくれると思ったの……」
「そっか。辛かったな?」
「どんなふうに思われても良かったの……遼二さんと少しでも繋がっていられるなら、例え嫌がらせでも悪いことして困らせても、怒られても良かったの。でも……あの人は怒ってもくれなくて……。無視されるのが怖かった。自分の我が侭でかじり付いていたのはアタシなのに、あの人がアタシを無視したり嫌ったりするのは……全部奥さんのせいだって逆恨みしちゃって……まだ見たことのないあなたを憎むことでしか自分を保てなかったの……」
「そっか。でも今はちゃんと気付けたんだよな?」

 皆に迷惑をかけたことも、たくさんの心配をかけたことも。そして、恋のときめきも苦さもきちんと受け止めて、現実から目を逸らさないことも。ちゃんと分かって受け止められる勇気が持てたんだよな?

 やさしく細められた紫月の瞳がそんなふうに言っているようで、繭はコクコクとうなずいた。
「ん、うん。本当にごめんなさい。バカだわ、アタシ……どうしようもない大バカだわ」
 涙を拭いながら繭は言った。
「あなたを好きになればよかった……。最初に出会ったのが遼二さんじゃなくて、あなただったら……よかったのに」
 際どい台詞だが、これまでのように鐘崎に固執していたような負の感情とはまるで違う。少し照れ臭そうにはにかみながらそう言った彼女の笑顔には、つい先程までの澱みも曇りもない年相応のチャーミングな女性の一面が垣間見えた。



◆43
「アンタが今みてえに素直で可愛い気持ちでいれば、俺なんかよりももっとイイ男に巡り会えるさ。アンタのことをこの世の誰よりも愛しく思ってくれる――そんでもってアンタ自身も心からそいつのことを大事に思える、そんな相手にきっと巡り会う」
「……こんな……アタシでも……?」
「ああ。だから今の素直な気持ちを忘れるんじゃねえ」
「本当に巡り会えるかしら……。悪いことばっかりして……誰から見ても呆れるくらいの迷惑女よ。誰かに愛してもらえるような資格がないことくらい自分でも分かるわ……」
「そんなことはねえ。アンタは確かに迷惑も掛けた、しちゃいけねえこともした。けど、それに気がついて、ちゃんと反省できたんだ。辛くて苦しい思いもしただろうが、それはアンタが大人のイイ女になるひとつのステップだ。悔しいことも、みっともねえって思うことも、辛い気持ちも、いろんなこと乗り越えて、これまでよりももっともっと可愛くてやさしいイイ女になって、そしていつかアンタが心から愛せるこの世で唯一無二っていえるアンタだけの旦那と巡り合ったら――」

 その時は――

「俺や遼二にも紹介してくれよな?」
 真っ直ぐに瞳を見つめながらそんなふうに言ってくれる紫月の視線が温かかった。
「……っう……、ご……めんなさい……! あなたにも遼二さんにもいっぱい迷惑掛けて……本当にごめんなさい……」
「よしよし! 今のアンタは最高に可愛くてイイ女だぜ?」
「……う、っう……」
 まるで子供のように『えーん、えーん』という声すら上げる勢いで号泣する繭の頭をやさしく撫でながらも、紫月は安堵したように微笑み返したのだった。
「よっしゃ! そんじゃ帰るか」
 紫月は両腕を上げて伸びをすると、悪戯そうに笑いながら言った。
「ウチ寄ってくか? 遼は仕事で出掛けてっけど、夕方には帰ると思うし」
 クイと長身の腰を屈めて繭の顔を覗き込む。
「ううん、いい。今日は帰ります」
「そっか! ンじゃ、送ってくか?」
「大丈夫。すぐ裏の駐車場に運転手さんが待っててくれてるから」
「そう。だったら安心だな。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はい。あの……」
「ん?」
「お名前……あなたの。紫月……さんでいいのかしら?」
「ああ、紫月だ。呼び捨てでいいぜ?」
「そんな……」
 遠慮がちに首を横に振った繭に、
「俺ら、いいダチになれるな?」
 ニカッと、またひとたび白い歯を見せながら紫月は笑った。
「紫月さん……ありがとう……。ありがとう……本当に……!」

 こんなアタシに……そんなふうに言ってくれて……!




◆44
「アタシ……あなたのようにやさしくて素敵な人に少しでも近付けるように努力するわ……。今日、あなたが言ってくれたこと、ひとつひとつ……絶対に忘れない。あなたが掛けてくれたやさしくてあったかい気持ちを絶対に忘れないわ……!」
「ん、俺も散々偉そうなこと言っちまったけどな、ホントはまだまだできてねえとこだらけだ。これからアンタも俺も――一緒に精進していこうじゃねえか。な?」
「そんなことない……! あなたに会えて大事なことたくさん気付かせてもらえて……アタシ、本当にうれしかった。今日のこと、忘れないわ。本当にありがとうございます……! おじいさんも……本当にごめんなさい」
 繭は川久保老人と春日野に向かってきちんと頭を下げると、涙を拭いながら言った。
「鐘崎さんには……合わせる顔がないから……後で謝罪のお手紙を書こうと思います。本当にごめんなさい。そして……ありがとう」
 少し切なげに微笑んだ表情には、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかさが浮かんでいた。これまでは我が物の如くだった『遼二さん』という呼び方も、自然と『鐘崎さん』に戻っている。紫月と腹を割って話せたことで、彼女の中で踏ん切りがついたのかも知れない。そんな様子を川久保老人も春日野もホッとしたように見つめながらうなずき合うのだった。

 そういえば、いつだったか紫月らの親友である周焔の父親、香港の周隼が言っていた。憎しみや恨みは負の結果しか生み出さない。同じ労力を使うなら報復よりも手を取り合える道を探す方が幸せになれるのだと――。
 紫月の繭に対しての向き合い方は、正にそれを体現したものだった。

 そうして彼女を見送った後、表へ出ると、そこには鐘崎組の若い衆ら数人を従えた幹部の橘が待っていた。この廃墟へ入る前に春日野が電話で呼んだ応援隊である。彼らの後ろには、川久保老人を心配して集まって来た自治会の面々も顔を揃えていた。
「姐さん、お疲れ様です!」
 ビシッと腰を九十度に折り、橘が出迎える。もう一人の幹部である清水は、今日は鐘崎について仕事の打ち合わせで留守にしていた為、橘が若い衆を引き連れて駆け付けたのだ。実に彼らはだいぶ前からこの廃墟に到着していたのだが、紫月が繭を諭す様子を目の当たりにして、出て行く機会を窺っていたのだそうだ。
「もしも若い連中が暴れ出したりしたら、速攻で応援に入ろうと思っていたんですが――」
 橘の言うには、取り敢えずのところゴロつきたちが手を上げる様子もないし、ここで大勢で加勢に出て行って彼らの警戒心を煽るよりも紫月に任せた方がいいと判断したとのことだった。



◆45
「けど、さすが姐さんっス! あの血気盛んな年頃のチンピラ連中も大人しくさせちまうんですもん! しかも、殴るでもなきゃ暴力沙汰には一切せずに収めちまった! それに、あんだけしつこかった例の娘まで諭しちまうしで……俺ら、正直感動しちまいました!」
「そうっスよ! 若や清水幹部があれだけ手を焼いてたってのに、姐さんが出て行った途端にあの娘っ子ってば!」
「そうそう、すっかり人が変わったようにいい子になっちまいやがった! 驚いたなんてもんじゃありませんよ」
「いやぁ、さすが姐さんです!」
 皆一様に感激の眼差しで興奮状態でいる。自治会の老人方も同様に紫月を褒め称えながらうなずいていた。
「別に俺は大したことをしたわけじゃねえよ。ただ、あの娘も自分で自分が制御できなくなって意固地になってただけなんだろうと思ってな。正面から真っ直ぐに向き合ってやれば、自分を取り戻すきっかけが掴めるんじゃねえかって思っただけさ」
 これまでは、皆が腫れ物に触るようにして斜めからしか彼女を受け止めてやれなかったのだろう。彼女の父親も、そして実に鐘崎自身も例外ではない。まあ、鐘崎の場合は伴侶である紫月に対する遠慮があったのだろうし、誤解を生むようなことはしたくないという気持ちが強かった為に少々冷たい向き合い方しかできなかったのだと思われる。そんな亭主の深い愛情に感謝すると共に、この問題を正面から受け止めてやるべきは自分の役目だと紫月は思っていたようだ。
「でもホント、改めて姐さんの大きさを目の当たりにしました。姐さんは俺ら全員の誇りです!」
「バカタレ、そうおだてるなって! 照れるじゃねっか」
 言葉とは裏腹に、実に爽やかな笑顔を見せる自分たちの姐さんを囲みながら、組員たちも朗らかな笑顔に包まれるのだった。
「そういえば、もうすぐ若も帰って来られると思いますよ!」
 ここに着いたと同時に入れた橘からの報告を受けて、すぐに仕事を切り上げて駆け付けるから、それまで紫月を頼むと鐘崎は言ったそうだ。
「あー、マジ? ンじゃ、旨いメシでもこさえて待っててやっか! 今日の晩飯は久々に俺が作っちゃる! お前ら何食いたい?」
 紫月の明るい声に若い衆らが一斉に盛り上がる。
「やった! 姐さんのメシかぁ!」
「めちゃめちゃ旨いっスからね、姐さんの作るメシは!」
「俺、ハンバーグがいいっス!」
「俺も俺も! 姐さんのチーズ入りバーグは最高っスもん!」
「よっしゃ! ンじゃ、帰りに食材買ってくか! 腕によりを掛けちゃるわ!」
「俺、荷物持ちますから!」
「姐さんと一緒に買い物行ったなんて知れたら、若にド突かれそうだなぁ!」
「あー、言えてる! 若はああ見えて案外ヤキモチ焼きっスからね!」
「そりゃお前、姐さんに対してだけだろうが!」
 ワイのワイのと楽しげな笑い声に包まれながら、まるで学生時代の部活動の帰り道のように夕陽の射す帰路を共に歩く。自分たちの足元から伸びる長い影が重なり合うことに幸せを感じる組員たちだった。



◇    ◇    ◇






◆46
 その夜、鐘崎と紫月は久しぶりに戻ってきた平穏な日常の夜を過ごしていた。いつものように鐘崎は風呂上がりの浴衣姿で気に入りの焼酎を嗜んでいる。甘党の紫月はコーヒーカルーアをベースにしたカクテル風味のグラスを傾けていた。
「すまなかったな紫月――。組員たちも心酔していたが、本当に……お前には頭が上がらねえ」
 橘たちから昼間の出来事を聞いた鐘崎は、驚きつつも改めて自らの伴侶の器の大きさに、しみじみと感じ入っていたのだった。そんな紫月は照れ臭そうにしながらも、穏やかにつぶやいた。
「本当はさ、あの娘がいろいろと事件を起こす前に俺が直接会って話を聞いてやれりゃ良かったのかもとも思ったけど。まあ、でもこのタイミングで正解だったのかも知れねえ。あの娘も自分がおかしなことをしてるって分かっていながら、引っ込みがつかなくなっちまってただけなんだよなぁ。お前への恋が叶わなかったのは気の毒だと思うけど、今後の人生のことを考えたら彼女にとって必要な道筋だったかもだしな。深層の箱入り娘として育ったが故に、上手く感情のコントロールができなかっただけさ」
 紫月はそう言って笑うが、鐘崎にとってはそんなふうに包み込んでやることができる大らかさがますます愛しくて堪らなく思えるのだった。
「――お前、妬いたりはしなかったのか?」
 思わずそう訊いてしまった。
「正直なことを言っちまうと、俺がもしも逆の立場だったら……きっとひどく妬いちまったと思う。ヘタすりゃ、相手を脅すか、例えばそれが野郎なら間違いなく手を上げてただろう」
「おいおい、遼……」
「これは冗談でも何でもねえ。お前に粉掛けられたりしたら……俺はいつでも修羅になれる自信があるってくらいだ」
「修羅ってお前……」
 紫月は可笑しそうに腹を抱えているが、鐘崎にとっては満更嘘でもないのだ。
「だが、今回のお前を見ていたら……自分がどれほどガキなんだろうって思えてな。少し情けなくもなっちまった」
 苦笑する鐘崎を横目にしながら、言葉通りに肩を落としている様子に紫月は穏やかに微笑んだ。
「ま、けどお前はそれでいんじゃね? ンだってさ、例えばライオンの雄ってのは、てめえの群れや縄張りを守る為には躊躇なく牙を剥いて闘うだろ? 雌はそのお陰で安心して獲物を探しに出掛けたり子育てしたりできるわけだ。適材適所っての? お前がいつでも牙を剥いて守ってくれるって思うから俺は安心していられるんだからさ」
「――紫月」
 鐘崎は、もう堪らずに愛しい伴侶の肩を鷲掴んでは懐の中に抱き締めた。そのまま額と額をコツリと合わせ、互いの視界に入りきらなくなった視線がみるみると熱を帯びていく――。
「――キス、したい。紫月――、いいか?」
「……ッ、ンだよ……いつもは……ンなこと聞きもしねえくせに……」
「ああ、そうだな――。だが、今夜は聞きたかった。お前があまりにも――尊くて、気高くて」



◆47
 いつものように有無を言わさず我が物顔で奪ってしまいたい欲望と、いくら欲すれども決して自分には踏みにじることの許されない、手を触れることさえためらってしまうような尊さが怖くもあって――

「堪らない気分なんだ……。愛しいだけじゃねえ――今のこの気持ちを……どう言やいいのか……分からねえ」

 それほどまでに、どこまでもどこまでも果てしなく――

「お前を愛している――。お前を尊敬している。お前が誇りだ。お前が唯一無二だ。お前だけが俺の――」

 命そのものなんだ――!

 愛しい者を見つめる鐘崎の瞳は、確かに愛しい者を捉えながらも、もっともっとその先にある尊いものに甘えるかのように儚げに揺れていた。
「バッカ……遼。てめ、いきなりンな歯の浮くようなこと言いやがって! 照れるじゃねっかよー……」
「だが本心だ。俺はお前に甘えてばかりだ。好きだの愛してるだの言いながら、欲望のままにお前を貪ることで安心してるガキそのものだ」
「何、急に……。お前らしくもねえ」
「好意を寄せてくれた娘一人も上手くあしらえねえで、結局はお前に頼りきりの始末だ。あの娘に対しても少なからず傷つけたことに変わりはねえし、お前のようにデカい心で接してやることもできなかった」
 胸元に頬を寄せながら自らの非力さに落ち込む様子はまるで甘えん坊の少年のようだ。紫月はそんな亭主の逞しい肩を両の腕で抱き包み、そっと髪を撫でた。
「いんだよ、お前はそれで。好いてくれた相手の気持ちに全部応えられるわけじゃねんだ。そーゆーのは俺の役割だ」
「……情けねえ亭主にそんなふうに言ってくれんのはお前だけだ」
「ンな卑下すんなって。お前は情けなくなんかねえ。俺にとっちゃ最高の亭主なんだからよ。まあ、無えとは思うけど、逆に俺が誰かに好かれて断れないでいる時は、お前が手を差し伸べてくれりゃいんだからさ」
「紫月……本当にお前ってヤツは……」
「ま、俺たちゃ夫婦ってヤツだからさ。お互い様さ」
「紫月、甘えさせてくれ……。ずっとずっと、お前のこの胸で俺を。いつまでも……」

 そう、いつまでもいつまでも永久に。

「ああ、いいぜ。とことん気の済むまで甘えろよ……。俺も……そうさしてもらうから」
「紫月……!」

 こんなにも愛しい気持ちがあるだろうか。

 こんなにも甘やかでやさしくて大きくて。切ないほどに、目頭が熱くなるほどに今この瞬間が幸せで堪らない。溢れる想いのままに、鐘崎は紫月を抱き締めた。戸惑うように唇を重ね、髪の一本から爪のひとかけらまであますところなくすべてを委ね合う。
「……結局……貪ることしかできねえ。どんなに肌を重ねようがまったく足りねえ……。紫月、お前の中に溶け込んで混ざって、二度と離したくねえくらいだ」
「バッカ、遼……」
「事実だ」
 どんな言葉で紡ごうが、どんな愛撫で塗れようが表しきれない想いもあるのだと知る。それほどまでに欲してやまないこの恋心が怖いくらいだ――!
「好きだ――紫月」
「ああ……俺も」
 天心に輝く月が、やがて胡粉の色になって西の空に溶け込むように、二人は止めどなく互いを慈しみ合い、甘え合ったのだった。



◇    ◇    ◇






◆48
 その数日後、紫月は鐘崎に誘われてベイサイドにある老舗ホテルに来ていた。夕陽が落ちる寸前から街の灯りが煌めき出す絶景の時間帯にホテル上層階にあるフレンチレストランでゴージャスなディナーデートである。
「いきなしこんなトコでメシ食おうだなんてさ、どうかしたのか?」
 紫月が驚いたように瞳をグリグリとさせている。
「今回、お前には苦労を掛けたからな。日頃の感謝も込めて、たまには水入らずのデートもいいかと思ってな」
「はは! ンな感謝だなんてよぉ。大袈裟なんだから」
「それに、ちょっと話したいこともあってな」
「話? 俺に?」
 それなら家ででもいいのにと、紫月は不思議顔だ。
「大事な話なんだ」
 鐘崎が真顔でじっと見つめながらそう言うのに、ますます首を傾げてしまった。
「何だよ、改まって……」
「なぁ、紫月。俺らが伴侶として生きると決めて、披露目の宴も行ってから二年半になるな」
「ああ、もうそんなになるか」
「俺はお前と共に生きられればそれだけでいいと思ってきたんだが……」
「うん……」
「実は前々から頭の隅にはあったことなんだが、俺とお前の籍のことだ」
「籍?」
 紫月はまたひとたび不思議そうに瞳を見開きながら真向かいの鐘崎を見つめてしまった。
「俺らは伴侶としての契りは交わしたが、籍は未だにそのままだろう? お前の親父さんの気持ちを考えると、一人息子のお前を貰った上に籍まで変えちまうのはどうかと思って今日までそのままにしてきたんだが……。今回いろいろと考えさせられることもあってな。これは俺の我が侭だが、お前に鐘崎の籍に入って欲しいという気持ちがある。それを相談したくてな」
「遼……」
「もちろん、今すぐでなくともいい。ただ、俺にそういう希望があるということを伝えておきたかった。お前の気持ちもだが、親父さんの気持ちも大切にしたいと思っている」
 紫月は驚いたように鐘崎を見つめた。
「遼、それって……」
「正直、お前といられるだけで俺は満足だし、これ以上望むものなどないというのも本当のところなんだが。氷川が冰を周家の籍に入れたがった時も、俺にとっては特に自分たちに置き換えて考えることもなかったんだ。もちろん、氷川の気持ちはよく分かるし、そういった選択肢もあるな――くらいに思っていた。俺とお前の気持ちさえきちんと繋がっていられればそれで充分だし、形にこだわる必要はねえとも思っていた。だが、今回三崎社長のところの娘の件で考えさせられることも多くてな。気持ちだけじゃなく形にするというのも大事なのかも知れねえと思うようになったんだ」



◆49
 世間から見れば確固たる形がないということは、イコール気持ちもないという見解で受け取る者もいるのだということを実感したわけだ。三崎社長との話の中でそういった見方もあるのだと気付いた感が大きい。
「今のこの国の法律では俺たちのような同性同士の婚姻は認められていない。籍を入れるといっても、お前には親父か、もしくは俺と養子縁組をしてもらうという形しかねえわけだが……。それでも籍が一緒になれば、世間的にもより一層本物の伴侶と胸を張れる。例えば遺産なんかについても今より自由がきくだろう」
「遺産ってお前……今から縁起でもねえこと抜かすなよ、おい……」
 紫月は苦笑したが、鐘崎の言いたいことはよくよく理解できるのだろう。穏やかに微笑むと、鐘崎にとっては驚くようなことをつぶやいた。
「まあ、でもお前がそうした方がいいって思うなら……俺は構わねえよ。それに、俺ン親父もそのことについてはだいぶ前から気になってたようだしな」
「親父さんが……か?」
「ああ。俺らが伴侶として生きるって決めた時に籍はどうするんだって言われたんだ。親父としてはどっちでも構わねえと思ってたようでな。ただ、遼が親父の気持ちを考えて、籍は一之宮のままにしてくれていることもちゃんと分かってる。気遣ってくれていることに感謝してるって。時期がきて、遼と俺が必要だと思った時には好きにしていいってそう言ってた」
 鐘崎は驚いた。まさか紫月の父親がそんなふうに寛大な心で見てくれているとは夢夢思わなかったからだ。
「そうだったか。親父さんがそんなことを……」
「ま、そんなワケだからウチのことは気にすんな。お前がいいと思うタイミングで入籍するなら俺に異存はねえし、親父にも俺から伝えとくからさ」
「いや、それは俺からお願いに上がろう。俺の親父も来週には海外での仕事を終えて帰国する。親子揃ってお前のご実家にきちんとご挨拶に伺わせてもらいたい」
 鐘崎は、感激と共に覚悟のある表情で紫月を見つめた。
「紫月、ありがとう。改めてだが、これからの生涯を俺と共に生きてくれ」
 深々と頭を下げてそんなことを言う鐘崎に、紫月も感慨深い眼差しでうなずいたのだった。



◇    ◇    ◇



 次の週、鐘崎は父親の僚一が海外出張から帰国するのを待って一之宮家へと出向いた。正式に紫月を鐘崎の籍に貰い受けたいと願い出る為だ。
 鐘崎自身も父の僚一も、黒の紋付袴の正装姿で現れたのに驚かされた一之宮家の面々だったが、かくいう紫月の父親もシックな和服姿で出迎えたことから、双方の真摯な気持ちが窺える一幕となった。
 紫月自身は洋装ながら、それでもきちんとしたスーツを着込んで緊張顔だ。住み込みで道場を手伝ってくれている綾乃木も控えめな準礼装といった出立ちで、茶菓子などを振る舞う係を買って出てくれた。



◆50
 畳敷きの広い応接室で両家が向き合い、厳かな空気に包まれる。
 鐘崎は紫月の父親に向かって深々と頭を下げながら、入籍させて欲しい旨を述べた。
「親父さん、本日はお時間を作っていただき誠にありがとうございます。私と紫月さんとは、これまで皆さんの深いご理解とご厚情に支えられて生涯を共にすべく歩んで参りました。正直なところ、これ以上の贅沢を望むことは甚だ図々しいと承知しておるのですが、より一層の絆をいただきたく、紫月さんを鐘崎の籍にお迎えしたい思いがございます。我が侭を承知で申し上げます。どうかご一考賜りますれば幸甚に存じます」
 畳に手をつき、ひと言ひと言に強い信念と覚悟が滲んだ重みのある挨拶である。紫月の父親の飛燕は、そんな鐘崎の姿に感慨深げに瞳を細めながらうなずいた。
「遼二坊、ご丁寧なお申し出に感謝するよ。私の方こそ、それほどまでに紫月を想っていただけて有り難い限りだ。二人が選んだ人生ならば、精一杯応援させてもらいたいと思う。紫月を鐘崎家の籍にもらってくださるというのなら、私に異存はない。どうかこれからも紫月をよろしく頼みます」
 飛燕も深くお辞儀をしながらそう述べた。
「親父さん、ご快諾賜り感謝致します。私の命ある限り、紫月さんを大切に致します。彼を愛しみ、尊敬し、良い時も悪い時も彼を守り、支え合い、二人で努力し合っていきたいと思います。私は紫月さんだけを伴侶として生涯愛し抜き、添い遂げることを誓います」
 今一度、畳に両手をついてそう述べた鐘崎に、飛燕も、そして綾乃木も感慨深げに瞳を細めてうなずいた。紫月に至っては、思いもかけずに滲み出してしまった涙に自分自身で驚いて、慌ててグイとそれを拭う始末だ。
「は……ッ、あんまカッコいい姿見せつけんなって! つか、俺だけカッコ悪ィし……」
 一旦溢れ出したが最後、なかなか思うように締まってくれない涙腺を照れ臭そうに隠しながら紫月は鼻をすすった。
 そんな二人の様子に、鐘崎の父親の僚一も誇らしそうに微笑みながら瞳を細めたのだった。
「これからは本当の意味で我々は家族だ。姓が鐘崎だろうが一之宮だろうが同じことだ。どっちもお前ら二人の父親だし、お前らは正真正銘俺と飛燕の息子ってことだ。遼二、紫月、これからも鐘崎組と一之宮道場を支えて繁栄させていってくれ」
「親父っさん、ありがとうございます。不束者ですが、今後ともどうぞよろしくお願い致します」
 そう言って頭を下げた紫月に続いて、鐘崎も同様に深く首を垂れた。
「親父さん、親父、どうぞ今後ともよろしくご指導ください」
「ああ。こちらこそよろしく頼むぞ、息子たちよ」
 厳かな儀式が和気藹々とした空気に包まれた頃だ。
「そろそろいいか?」
 鐘崎と紫月にとってはうれしいサプライズといえる面々が部屋の障子の向こうから覗いていることに気がついて、驚かされる羽目となった。
「氷川!」
「冰君! 来てくれたのか!」
 なんと、やはり礼装のようなスーツに身を包んだ周焔と冰が姿を現したのだ。



◆51
「俺と冰の入籍の際にもお前ら二人には付き添ってもらったからな。今度は俺らが祝福する番だ」
「鐘崎さん、紫月さん、それからご親族の皆様、おめでとうございます!」
 周と冰が揃って祝いの言葉を口にする。どちらも我が事を喜ぶように頬を紅潮させながら、本当に嬉しそうであった。
「遼二坊、ご友人方もこうしてお運びくださったことだし、今からでも早速届け出の手続きに取り掛かったらどうだ? 幸い、書類に必要な面々は揃っているんだ。僚一は多忙な身だし、今度今度と先延ばしにしていちゃ、次はいつになるか分からんぞ」
 紫月の父親の飛燕が悪戯そうな笑みを浮かべてそう言う。
「親父っさん、ご厚情に感謝致します――!」
 鐘崎は感激ひとしおの思いで、今一度畳に両手をついて感謝の意を述べた。
「では――お言葉に甘えまして、これから手続きに取り掛からせていただきたいと存じます」
 役所に提出する為の書類は既に用意してあったので、組で待機している専属の弁護士に伝えて一之宮道場まで届けてもらうことにする。そして、署名捺印が済むと、皆で揃って近くの役所へと向かった。
「……ん、なんか緊張するな」
 紫月が生真面目な顔付きでドキドキと視線を泳がせている。相反して鐘崎の方はゆったりと落ち着いた雰囲気で、そっと紫月をリードするように彼の側に寄り添っていた。気持ちの上でも形の上でも、いよいよ本物の旦那としての貫禄が垣間見えた瞬間であった。
 紋付き姿の鐘崎親子は役所内でも人目を引いていたが、弁護士の手際良い誘導によって早々に手続きも済み、無事に役所を後にする。
「遼二、紫月、おめでとう! 鐘崎紫月――か。いい名じゃねえか!」
 鐘崎の父が誇らしげに微笑んでみせる。紫月の父親の飛燕も同様だと言ってうなずいた。その脇では周が、
「そうか――鐘崎紫月になったわけだな。ってことは、俺も今度からは”紫月”と呼ばにゃいかんな」
 『うんうん』と首を縦に振りながら独りごちている。高校時代からずっと『一之宮』と呼び続けてきたので、つい口癖のようにそう呼んでしまいそうなのだ。そんな彼に対して鐘崎が面白そうに口角を上げてみせた。
「別に一之宮のままでもいいじゃねえか。俺も紫月も鐘崎と一之宮の二人の親父の息子に変わりはねえんだ。それに――お前らのように香港式でいうなら、”字”みてえなもんだと思えばいい」
「字――か。そうか! そういう解釈もあるな! 俺は周焔白龍だから――」
 周が言い掛けたのに続いて、
「鐘崎紫月一之宮――ってなるんだね!」
 冰がその後を口にする。
「おう! いいな。ますます繁栄しそうなめでてえ名だ」
 鐘崎の父親が手を叩きながらうなずいたのを見て、紫月の父の飛燕も本当に嬉しそうであった。
「僚一、それに遼二坊――お前さん方の厚情には感謝が尽きない。これからは本物の家族親戚として末永くよろしく頼むよ」
 飛燕のそんな言葉に、紫月もしみじみと幸せを実感するのだった。



◆52
「よし! 今夜は宴会だ! 急なことでざっくばらんな持てなししかできねえが、皆で祝杯といこうじゃねえか!」
 鐘崎親子にしてみれば、一応は飛燕からの承諾を得るまではと思い、入籍祝いの宴の準備まではしていなかったのだが、無事に届け出も済んだとなれば、やはり祝杯くらいはあげたい気分になるというものだ。今ここに顔を揃えている者たちと組の若い衆らだけだが、皆で集まって一杯やろうと思うのだった。
 すると、周が僭越ながら――と、前置きと共に割って入った。
「実はウチの料理人たちが心ばかりですがケータリングの準備をしております。よろしければささやかながらの俺と冰の祝いの気持ちとして受け取っていただければ幸いです」
 なんと、周の汐留の邸で調理を担当しているシェフたちによって、宴の用意が整っているというのだ。しかも、ケータリング――つまりは他所へ料理や飲み物を運んでパーティーを催す形式――ということである。一報が届けば、すぐさま鐘崎家へ向けて出発する用意が万端だとのことだった。
 周としては、飛燕が承諾することを見込んで、その日は内々で軽く祝杯をあげたいだろうと踏んで用意をしていたのだ。
 そんな友の厚情に、鐘崎も紫月も、そして双方の親たちも心から有り難く思うのだった。信頼し合える家族と仲間たちに囲まれて、誰もがしみじみと幸せを噛み締める、そんな瞬間であった。
「ところでカネ、お前らハネムーンはどうするんだ」
 周に訊かれて鐘崎は瞳を瞬かせた。
「おう、そうだな。披露目の時には特にそういったことはしないまま今日まできちまったからな。紫月、何処か行きたい所はあるか?」
「ハネムーン? そういやそんなことまったく頭になかったわなぁ」
 紫月も言われて初めて気がついた口ぶりである。そんな二人を横目に周がワクワクとした顔で提案した。
「実は俺と冰もハネムーンらしきものはやらずじまいでな、香港の実家に挨拶しただけで済ませちまったんだ。改めてお前らと一緒に行くってのもいいかと思っているんだが」
「そいつはいいな。紫月、冰、お前たちの行きたい所があれば何処でもいいぞ!」
「マジ?」
「うわぁ! 紫月さんたちと一緒ならめちゃくちゃ楽しそうだね!」
 旦那衆の言葉に紫月と冰は両手放しで歓喜の声を上げた。
「ニューヨークでミュージカルや美術館巡り、あるいはミラノかパリで城巡りもいいぞ」
「それか、バリやセイシェルあたりでマリンスポーツを楽しむって手もあるぜ」
「敦煌の砂漠でラクダに乗るのもオツだ」
「これからの時期なら北欧のロッジで雪遊びってのもいい」
 周と鐘崎が交互にさまざま魅惑的な提案を口にするので、紫月と冰は大きな瞳をグリグリとさせながら興奮状態で手を取り合う。
「何処も良さげで迷っちまうな! 冰君はどれがいい?」
「そうですねぇ、俺は香港とマカオ、日本以外は行ったことがないので何処でも嬉しいです!」
 はしゃぐ嫁たちを見つめながら、旦那衆二人からは頼もしげな言葉が飛び出した。
「二人でよく相談して行きたい所を決めりゃいい」
「だな! 俺らは奥方の財布役に徹するさ」
「おっほほー! やったな冰君!」
「はい! 最高ですね!」
 気前のいい亭主たちの愛情に包まれて、喜び勇んだ紫月と冰であった。



◇    ◇    ◇






◆53
 そうして皆に祝福されての入籍も済んだある日のことだった。少々珍しい訪問者が鐘崎家の扉を叩いたのは、秋本番を告げる中秋の名月を二日後に控えた頃だった。
 朝も早うから組の玄関前に若い衆たちが集まり、何やらザワザワと興奮状態である。呼ばれてやって来た幹部の清水が姿を見せると、訪問者はなんとその場に土下座をして、地面に頭を擦り付けながらこう言った。
「お……お控えなすって! 突然の押し掛け失礼致します! て、手前は……と、徳永竜胆と申します。こちら様で働かせていただきたくお願いに上がりました。ど、どうか……えっと、ご、ご一考賜りたく……この通りです!」
 ところどころつっかえながらもガバリと頭を下げて必死な様子に、清水はもちろんのこと若い衆らも唖然としたようにあんぐり顔にさせられてしまった。
「……あの、これは自分の履歴書です」
 働きたいという以上必要と思ったのか、震える手で封書を差し出してみせる。清水としても、こういった事例は初めてのこと故、どうしたものかと一瞬困惑顔が隠せない。とにかくは受け取ったものの、未だ土下座したまま動かない若い男を見つめながら片眉をしかめたままだ。するとそこへタイミング良くか紫月がやって来た。
「清水ー、いるか? 俺ら今から空港まで出掛けて来っけど、車を一台……」
 そうなのだ。今日は香港から周の母親たちがやって来る日なのである。中秋の名月を楽しむ夕べは、ここ鐘崎邸の庭で行うことになっている為、鐘崎と紫月も出迎えに顔を出そうというわけだった。
「何だ、えれえ騒がしいな?」
 玄関前に人だかりができている様子に紫月が首を傾げたその時だった。訪問者の男は彼に気付くなり、
「あ、姐さん!」
 すがるように大声でその名を呼んだ。
「姐さんのお知り合いですか……?」
 若い衆らが一瞬たじろいだように道を開ける。もしも本当に自分たちの姐さんの縁者なら、そう蔑ろにはできないからだ。
 紫月は土下座状態の男を見るなり、驚いたように瞳を見開いた。
「お前さん、確か……この前、繭っちと一緒にいたヤツだよな?」
 繭っちとは例の三崎財閥の令嬢の繭のことであるが、あれ以来すっかり親しくなってしまった紫月は、彼女のことをそんなあだ名で呼んでいるのだ。
「お、覚えていてくだすって光栄です!」
 徳永と名乗った男は、紫月の言葉に興奮状態で表情を輝かせた。まるで少女漫画よろしく瞳の中に星がキラキラと瞬かん勢いだ。
 そうなのだ。男は先日、三崎繭に雇われて川久保老人を拉致したメンバーの中に顔を揃えていた内の一人であった。



◆54
 紫月にしてみれば、特にこの徳永という男が印象に残っていたわけではないのだが、裏社会に生きる鐘崎の伴侶という立場上、一度会った相手の顔立ちや特徴を自然と記憶してしまうのが習慣となっている。まあ、鐘崎ほど切れ者ではないにしろ、いつ何時どんな事態に転がるやも知れないこの世界では、会った人物や行った場所の情報をどれだけ脳裏に蓄積しておけるかが生死を握る鍵となることも有り得るわけである。
 そんな理由であの時あの場にいたこの男のことも記憶していただけなのだが、当の男にとっては紫月に覚えていてもらえたということが何より嬉しかったのだろう。感激の面持ちで、今にも泣きそうな勢いで興奮しているのがよくよく見てとれる感じだった。
「で、お前さん、いったいここで何してるんだ?」
 紫月が尋ねると、男はこれまた皆が目を剥くようなことを口にした。
「俺、姐さんに惚れました! この前の廃墟でのあなた様の采配に感激しまして、これからの人生、このお人の側で働きたいと思い参上した次第です! 便所掃除でも草むしりでも何でもします! どうか俺をここに置いてください!」
 男の言うには、あの時はいい金になるバイトがあるからと学生時代からの友人に誘われて、よく事の詳細を知らないままに頭数の一人に加わっただけなのだそうだ。当然、三崎繭とは何の面識もなかったらしい。暇つぶしに出向いただけだったのだが、そこで紫月に出会い、感銘を受けて、彼がここ鐘崎組の姐だと知り出向いて来たらしい。
「はぁ……。まあ、話向きは分かったが。お前さん、ここがどういうところか知ってて来てるのか?」
 紫月が訊くと、男は『もちろん存じてます!』と胸を張った。
「俺、こちら様の組のことについてはめちゃくちゃ調べました! ヤ、ヤクザさんってことも承知してます!」
「ヤクザさん……って、お前ねぇ」
 まあ、正確にいうと少々意味合いは違うのだが、世間一般的にはそういう解釈となるのだろう。
「自分の親もこちら様のお名前は知っていましたし、自分がここで働きたいっていうこともちゃんと伝えて理解してもらって来ました! 俺はその……取り立てて何ができるってわけでもないですが、体力だけは自信があります。本当に姐さんに惚れたんです! お願いします、この通りです!」
 あまりに必死な様子に紫月はもちろんのこと、清水や若い衆らも唖然である。さて、どうしたものかと顔を見合わせていると、後方から重々しい声がこう言った。
「聞き捨てならねえことをほざいてるのは何処のどいつだ」
 ともすれば地鳴りのするような圧を伴ったバリトンボイスに皆が振り返れば、そこには眉間に皺を寄せた鐘崎が般若のような形相で仁王立ちしていた。
「わ、若……ッ!」
 皆がいっせいに背筋を伸ばして表情を強張らせる。どうやら紫月よりも少し遅れてやって来た鐘崎の耳に、男が言った『姐さんに惚れました』という部分だけが聞こえてしまったようである。



◆55
 一瞬にして場が凍りついた雰囲気を感じ取ったのか、男の方も呆然としながら鐘崎を見上げた。
「あ、あの……こちらは……?」
 長身でガタイのいい鐘崎に険しい表情で見下ろされて、さすがに背筋が凍る思いだったのだろう。徳永という男は、助けを求めるように若い衆らを見つめて視線を泳がせた。見兼ねた清水がすかさず、
「当鐘崎組の若頭、鐘崎遼二さんだ。姐さんの御亭主であられる」
 そう紹介した。男はそれを聞くと、慌てたように瞳をパチパチとさせながら固まってしまった。
(こいつは何だ――)
 鐘崎が視線だけで清水に問う。
「は――、何でもウチの組で働きたいとのことで、直談判に来たようです」
「――働きたいだと?」
 ますます低くなった声音の鐘崎に、紫月が横から助け船よろしく割って入った。
「まあまあ、そうおっかねえツラすんなって。可哀想にこの兄ちゃん、ビビって縮こまっちゃってるじゃねえの」
 紫月は、繭の一件で彼と知り合ったことを説明すると共に、それこそライオンが牙を剥きそうな勢いの亭主を宥めた。
 気を利かせた清水が、男から受け取った履歴書を見せて更なる説明を付け加える。
「どうやらあの時の姐さんのご采配に感銘を受けたらしく、お側で力になりたいということらしいです。親御さんにも了承を得ているとのことで、便所掃除でも草むしりでも何でもすると申しておりますが……」
 鐘崎は徳永という男を見下ろしながら、「ふん」と片眉をしかめてみせた。
「徳永竜胆、二十三歳――か」
「は、はい……!」
 履歴書には今年の春に大学を卒業して以来、実家の稼業を手伝っていたとある。しかも、割合珍しい職種で、親は有名な茶道一派の重鎮らしい。
「親御さんは茶道家なのか?」
 特にはその道に詳しくない鐘崎でも名前だけは聞いたことのある有名どころだ。
「はい、親父が茶の点前を教えていまして、お袋は秘書のようなことをやっております。自分もお弟子さんたちに書類を郵送したり、帳簿をつけたりなどの事務や雑用を手伝っておりました」
「そんな大層な家柄の息子が何だってウチなんぞに勤めたがる。親御さんの承諾を得たというが、本当なのか?」
「はい! 本当です! 自分には茶の湯の才能は皆無ですし、後継ぎの兄貴もいます。自分がこれと思える道があるなら必死でやってみろと親は理解してくれました!」
 どうやらかなり本気のようである。鐘崎は小さく溜め息を呑み込むと、
「意図は分かった。一ヶ月だ」
 短くそれだけを口にした。
「……は?」
「一ヶ月勤めてみろと言ったんだ。見込みがあればその後のことは追々検討する。根を上げればそれまでだ」
 つまり、一ヶ月の試用期間をやると言っているわけだ。男は感激の面持ちで、再びガバりと地面に手をついて首を垂れた。



◆56
「ありがとうございます! よ、よろしくお願いします!」
 さすがに若頭の迫力の前では身の縮む思いでいるのだろう、人形のようにギクシャクとした動きながらも必死さだけは伝わってくる。鐘崎は彼にもう一瞥をくれると、一等肝心の要件を付け加えた。
「ひとつだけ言っておく。この紫月は俺の唯一無二の伴侶だ。世間でいうところの妻ということになる。意味は分かるか?」
「は、はい! もちろんです! それで”姐さん”なんですよね?」
「そうだ。お前さんはこいつに惚れたそうだが、それは人間性に惚れたという見解で間違いないな?」
「も、もちろんです! 姐さんのお人柄に感動しました!」
「そうか。では邪な気持ちは一切ないということだな?」
「よ、ヨコシマ……?」
 徳永は一瞬言われている意味が分からないといったようにポカンと口を半開きにしながらも首を傾げている。その態度から本当に人柄に感銘を受けただけだということを見て取ったのか、鐘崎は険しかった表情をわずかにゆるめると、フっと悪戯そうに口角を上げながら言った。
「こいつに惚れるのは人柄だけにしておけよ。夢夢おかしな気を起こすんじゃねえ。万が一にも手を出したりしたら、その時はてめえのタマはねえと思えよ」
「タ……タマ……ですか?」
 言われている意味がいまいち理解できないでいる様子の彼に、清水がスマートに通訳を口にする。
「我々の世界では”命”という意味です」
「……へ?」
 徳永は未だポカンとしたまま大きな瞳をバチバチとさせている。よくよく見れば、今より少し若い頃の紫月を思わせるような見目良い顔立ちをしている。土下座状態なのではっきりとは分からないが、上背もそこそこありそうで、だが筋肉隆々といったふうではなく、どちらかといえば華奢でスレンダーなイメージだ。それこそ紫月によく似た――というのだろうか、姐さんという意味も理解しているようであるし、外見の印象からして間違っても組み敷いてどうこうしようという気配はとりあえずのところなさそうと見える。まあ、仮にしそうなったところで、体術に長けている紫月にねじ伏せられるのは必須――か。
 鐘崎は薄く苦笑をみせると、清水に向かって念を押した。
「人選は任せる。しっかり教育してやってくれ」
「かしこまりました。では、春日野にでも言って面倒を見させましょう。彼なら一番年齢も近いですし、上手くやってくれるでしょう」
「それでいい。よろしく頼む」
 鐘崎はうなずくと、
「念の為、こいつの親御さんにも裏を取っておけ。もしも本格的に組に入るようなことになった場合は挨拶に出向かにゃならんしな」
 そう付け加えて、紫月と共に周の母親たちを迎えるべく空港へと向かったのだった。




◆57
「――では徳永。お前の教育係を紹介するからついて来い」
「は、はい!」
 返事だけは威勢がいいが、立ち上がろうとするもののどうやら腰が抜けてしまったのか、へたり込んだままその場を動けずにいるらしい。そこへタイミングよく春日野がやって来た。玄関先が騒がしい様子が気になって駆け付けたようである。
「ああ、春日野か。ちょうど良かった。今日からウチの組に見習いとして入ることになった徳永竜胆だ。今しがた若と姐さんにはご承諾をいただいた。教育係としてお前が面倒を見てやって欲しい」
 清水に言われて春日野はハタと瞳を見開いた。
「……この男、確かこの前の」
「お前も覚えていたか。どうやらあの時の姐さんのご采配に心酔したらしい。こうして直談判に来るくらいだ、それなりの覚悟と根性はあるのだろう。掃除でも雑用でも何でもいい。普通免許は取得済みとあるから、お前さんの運転手として使ってもいい。とにかく任せる。よく教育してやってくれ」
「は――、かしこまりました」
 春日野は未だ地面に座り込んだままの男を見やると、腰が抜けて立てないでいるらしいことをいち早く見てとったようである。
「ほら、立て」
 男をかかえるようにして両脇に腕を入れると、軽々と抱き起こした。
「す、すいません! ご面倒お掛けします……!」
 徳永という男はヨロヨロとおぼつかないながらもきちんと礼の言葉を口にする。どうやらそれなりに礼儀はあるようだ。
「本当にすいません! わ、若頭さんがあまりに貫禄あって……俺、ビビっちまいまして……」
 春日野に抱きかかえられている様子を横目に、清水はクスっと笑みを誘われてしまった。
「それで腰が抜けちまったってわけか。まあいい、人間的には確かに悪くないようだ。春日野、あとは頼んだぞ」
 そう言い残すと自らの仕事に戻って行った。若い衆らもそれぞれの持ち場へと散り散りになっていく。そんな彼らの後ろ姿を眺めながら、ようやくと落ち着きを取り戻したわけか、徳永という男がポツリとつぶやいた。
「はぁ、緊張したぁ……。っていうか、す、すいません!」
 いつまでも寄り掛かっていたことに気がついて、慌てたように抱きかかえられていた身体を離す。ガッシリとした筋肉質の体格の上に至近距離で見ると思わず息を呑みそうになる男前ぶりの春日野からは、いかつい雰囲気に相反してふんわりといい香りが漂ってきて、一瞬ドキッとさせられてしまったからだ。
「あ、あの……か、春日野さん……でしたっけ? 何とお呼びすればよろしいですか? 兄貴……でいいでしょうか? それとも兄さんの方がいいのかな……」
 緊張の為か、キョロキョロと視線を泳がせる。至極真面目な調子でそう問われて、春日野は思わずプッと噴き出しそうにさせられてしまった。



◆58
「別に名前で構わねえ。春日野菫だ、よろしく頼む」
「菫……さんですか?」
「そうだ。音だけで聞くとよく女と間違えられるが、漢字でも”花”の菫と書く。そういやお前さんはリンドウとかいったな? やはり花の竜胆か?」
「は、はい! 徳永竜胆と申します! 自分の漢字も花の竜胆です!」
「春と秋の花か。案外いいコンビになりそうだな」
「きょ、恐縮です! 俺、菫兄さんの言うことなら何でも聞きます! 精一杯勤めますので、どうかよろしくご指導ください!」
 先程の若い衆らの態度から学んだのか、早速に腰を九十度に追って首を垂れる。しかも名前呼びでいいと言ったせいか、菫兄さんなどと呼ぶところが可愛らしくもある。そんな新入りの姿に、思わず瞳を細めさせられてしまう春日野であった。
「それにしても菫兄さん、こちらの組はイケメンじゃないと入れないんですか?」
「ああ?」
 歩き出すと途端にそんなことを訊かれて、春日野はポカンと瞳を丸くしてしまった。
「だって、若頭さんといい姐さんといい、さっきの清水さんでしたっけ? あの方も……それに菫兄さんだってめちゃめちゃ男前で……自分、ちょっとカルチャーショック状態っス! なんか……モデル事務所にでも来ちまったのかーってくらいだし、自信なくなってきました」
「モデル事務所だ? 面白えことを言うヤツだ」
「だって心配っスよ。自分、ホントに雇っていただけるのかって。若頭さんはとりあえず一ヶ月勤めてみろっておっしゃってくれたスけど……まさか”顔”で落とされるとかあるんかなって……」
 ひどく深刻そうにそんなことを言っている様子に、またひとたび笑いを誘われる。
「心配には及ばんよ。容姿で人を見てどうこうなんざ、ウチの親父さんも若もそんなお人じゃないさ。それに――仮に容姿で選ぶとしてもお前さんなら間違いなく合格だろうが」
「へ? そうスか? 兄さん、やさしいっスね! 正直言って最初はご先輩の兄さん方に洗礼みたいな厳しい儀式を受けるもんとばかり思ってました。もうめちゃめちゃ腹括ってきたんです」
「洗礼だ?」
「ええ、一等最初は集団リンチみたいな儀式があるのかなって……ビビってたんです」
「おいおい、ガキの遊びじゃねえんだ。そんなことするかよ」
「そ、そうっスよね……。組には入りたいけど、相当覚悟いるだろうなっていろいろ想像しちゃって……。情けない話ですけど、昨夜は一睡もできませんでした」
 頭を掻きながら照れ笑いする表情がなんともあどけなくて愛嬌が感じられる。春日野は、ついつられるように笑みが漏れ出してしまうのを抑えられずにいた。
「自分、昔っからツラは女みてえとか言われてきましたし、体つきも華奢に見えちまうんで、舐められることも多いんです。腕っ節にはそこそこ自信あるんだけどなぁ……」
 ブツブツと独りごちている表情が何とも親近感を誘ってくるようだ。どことなく自分たちの姐さんに似ているような面立ちでもあるし、性質も実直そうで、なかなかに面白い男のようだ。そんな彼の教育係に任命されて、これからの毎日がなんとも楽しみになったといおうか、心躍るような不思議な感覚を心地好く感じる春日野であった。



◇    ◇    ◇






◆59
 同じ頃、空港に向かう車中では紫月がやれやれと苦笑いに肩をすくめていた。
「ったくよぉ、お前ときたら早速に雄ライオン丸出しなんだから。初対面でタマ取るとか、マジであの若いのがビビってたじゃねっか」
「事実を言ったまでだ。間違ってもお前に粉掛けたりしねえように最初に釘を刺すのは亭主の役目だからな」
 鐘崎はまるで悪びれたところもない堂々ぶりで深くシートに身を委ねている。そんな様子に呆れつつも、子供のように嫉妬心を剥き出しにする愛情がくすぐったくもあって、ついフっと笑みがこぼれてしまう紫月であった。
「俺、愛されてるなぁ」
 クスクスと笑いながら逞しい肩先に寄り掛かる。そうされて気を良くしたのか、深くもたれていた身を起こすと、鐘崎は紫月の肩を抱き寄せて、そのまま額に軽い口付けを落とした。
「当然だ。この世の誰よりも何よりも愛していると云ったろうが」
「あー、うん……そうだったな」
「お前は?」
「え?」
「お前はどうなんだ。この世の誰よりも何よりも――」
「あー、はいはい。もちろんお前だけをあ……あー、その……あ……いして……」

 ――ッ!?

 『愛してるって――』その言葉は言わせてもらえなかった。鐘崎のしっとりとした形のいい唇に押し包まれてしまったからだ。
「……んー、んー……んがー! 遼ッ……!」
 まだ午前中だというのに、まるでベッドの中に引きずり込まれるような濃厚なキスを食らって、紫月は目を白黒とさせてしまった。
「バッキャロ! ハナさんもいるってのに……てめ、こら……調子ブッこいてんじゃねっつのー」
 ハナさんというのは鐘崎組で専属の運転手をしているベテランで、花村という初老の男のことだ。主に鐘崎か父親の僚一が乗る車を担当するベテラン中のベテランである。鐘崎が幼い頃からずっと仕えてくれているので、邸の要である源次郎同様、家族のような存在でもある男だった。
「いいじゃねえか、俺たちは夫婦なんだから。なぁ、ハナさん」
「おっしゃる通りですな! ご夫婦円満は組にとってもたいへん重要なことです」
 花村まで味方につけんと、まさに悪びれもせずの堂々ぶりに閉口させられる。その花村の方がよく分かっているのか、頼もしそうに瞳に弧を描いて微笑む視線がバックミラー越しに確認できて、紫月はガラにもなく頬を真っ赤に染め上げてしまった。
「……ったく! この獰猛ライオンが!」
 プリプリと頬を膨らませるも熟れた頬は隠せない。
「獰猛になるのは今夜までお預けだ。楽しみにしてろよ?」
「……はぁッ? ったく、性懲りもねえ……」
 相変わらずの俺様ぶりで口角を上げた鐘崎の鳩尾にガツンと一発拳をくれながら、またひとたびプゥと頬を膨らませた紫月であった。



◇    ◇    ◇






◆60
 その二日後――、鐘崎邸では周ファミリーを迎えての月見の宴が賑やかに催されていた。
 かねてから予定していた周の母親たちの和服も、冰と紫月が反物選びから見立てたものができあがってきていて、その着付けやらの準備で朝から一騒動である。予定では冰と紫月が花魁に扮してみようなどと盛り上がっていたわけだが、それを聞いた母親たちが花魁の装いにとてつもなく興味を示した為、花魁道中の興は女性陣に譲ることになったのである。
 そうなると、メイクからして特殊なので、普通の着付け師では間に合わない。急遽メイクアップアーティストである柊倫周と、その父親のモデル、レイ・ヒイラギも招待することになって鐘崎邸ではまさにてんやわんやの賑やかさとなっていた。加えて、仕事の都合がついたという周の父親と兄も女性陣から二日遅れで来日するとあって、周家の方も空港への迎えなどで慌ただしい。当の周と冰は母親たちの支度に付き合うので、出迎えの方は側近の李や家令の真田が担ってくれることとなり、当初よりも大規模な宴の準備に鐘崎邸の調理師たちも張り切っていた。
「まあ! なんて綺麗なお着物なんでしょう!」
「本当に! まさに映画で観たままだわ」
「こちらはウィッグ? いえ、カツラ……というのよね? まあ……! 本当に女優さんになった気分だわ!」
 周の実母のあゆみと継母の香蘭、兄嫁の美紅は花魁用の着物や諸道具に興味津々である。部屋いっぱいに並べられた色艶やかな装いに包まれて、女性たちは溜め息の連続であった。
「しかし――すげえな。まるで江戸時代にタイムスリップしちまったみてえだ」
「吉原だったっけ? 俺も見るのは初めてだけど、本当に艶やかだなぁ」
 周と冰もさすがに溜め息を隠せない。隣の部屋では鐘崎と紫月が源次郎に手伝ってもらいながら、自分たち男性陣が着る着物の準備で大忙しであった。
「さて、そろそろメイクの方を始めさせてもらいましょうか」
 粉おしろいや紅などの支度が整った倫周がにこやかに声を掛ける。
「倫ちゃん、今日は忙しい中を本当にありがとう! まずはお化粧が先なのね?」
「ええ、そうです。おしろいをしてから着付けになりますから」
 三人分のメイクを手掛けるわけだから、倫周も大忙しだ。
「どなたから始めましょうか」
「そうね、じゃあアタクシからお願いしようかしら」
 周の継母である香蘭のメイクが始まると、他の二人の女性たちは興味津々でその筆運びに釘付けとなっていった。
 一方、つい先日から見習いとして邸に通うことを許された徳永竜胆も兄貴分となる春日野について裏方の雑用に精を出していた。
「すごいですね。今日は朝から別嬪さんがゾロゾロ……。あの人たちは若と姐さんのお知り合いの方なんですか?」
「ああ、そうだ。今宵はお月見の宴があるからな。お客人は若と姐さんの大切なご友人で、香港マフィアの頭領御一家だ。くれぐれも失礼のないようにな」
「マ、マフィアですかッ! すげえ……やっぱ鐘崎組って超大物なんですね!」
 まあ、徳永のような新入りにとっては、周ファミリーの面々と直接会って話すこともないわけだが、それでも同じ敷地内にそんな大物がいるというだけで心躍るようであった。



◆61
「けど、天気が良くて良かったっスね! これなら綺麗な十五夜が見られそうだ」
 まるで自分が参加するかのように喜ぶ口調が素直さを物語っていて実に可愛らしい。
「若たちやお客人とはまた別の庭だが、今宵は俺たちもご相伴に与れるそうだ。ここの飯は本当に旨いから楽しみにしておけよ」
「マ、マジすか? うはぁ……入って早々の自分が参加してもよろしんですか?」
「もちろんだ。若と姐さんからもそう言われているから、安心してたくさん食えばいい」
「あ、ありがとうございます! 感激です!」
 言葉通り実に嬉しそうに頬を染める。春日野はいい舎弟が入ってきてくれたことを嬉しく思うのだった。

 その夜、見事に晴れ渡った空に中秋の名月が顔を見せると同時に、女性陣たちの艶やかな着物姿で鐘崎邸の中庭には感嘆の溜め息が渦巻くこととなった。
 ギリギリで到着した周の父と兄も揃い、また周家からは側近の李や家令の真田らも呼ばれて、広い庭も今日だけは所狭しといった賑わいを見せている。メイクを担当した倫周とレイも思い掛けず日本情緒に触れられたことを大層喜んでくれていた。
 そして、今回三崎財閥の件では何かと世話になった友人の粟津帝斗も顔を揃えていた。いろいろと尽力してくれた彼への礼方々、鐘崎と紫月が招待したのである。
「遼二と紫月も入籍したそうだね! いや、本当におめでとう!」
 わざわざ祝いの品まで持参してくれた帝斗に、二人は心からの礼を述べた。
「そういえば繭嬢だけれどね。彼女、元気に華道教室にも戻って来てくれてね。遼二のことを彼氏だなんて嘘をつくようなことをしてしまって申し訳ないと皆に丁重に謝っていたよ。一時はどうなることかと心配したけれど、彼女も乗り越えられたようだね。今じゃ教室の皆と一緒にボーイズラブにハマっているらしくてね、僕までコミックやらボイスドラマやらに付き合わされる今日この頃さ」
 爽やかに笑いながら帝斗が言う。それを聞いて、紫月も鐘崎も安心したように笑顔になるのだった。
「繭っちも辛い思いもしただろうが、元気になってくれて良かったぜ!」
「紫月とは随分と仲良くなったようだね?」
「ああ、お陰様でなぁ! たまに電話もくるし、こないだは俺ン好きなケーキバイキングにも誘ってくれてさ。氷川ンところの冰君と一緒に楽しんできたばかりだ。今じゃ妹が一人できたような感じだぜ!」
「へえ、そうなんだ! さすがは紫月だねぇ。多感な年頃の娘さんをこんなに大きな心で包み込んでしまうんだから、ホント大したものだよ。それでこそ鐘崎組の姐さんだな!」
 帝斗に感服されて、側で聞いていた鐘崎も誇らしげにうなずいてみせた。
「本当にな、俺なんぞにはもったいねえくらいの最高の伴侶だ」
 心からの笑顔で愛しげにパートナーを見つめる鐘崎の瞳に中秋の名月がやわらかに映り込む。
 ふと視線を上げれば、艶やかな着物姿を堪能する友とその家族、そしていつも側で見守ってくれる源次郎や清水らのとびきりの笑顔と笑い声があふれていることにこの上ないあたたかさを感じる、そんな幸せな夜が賑やかに更けていったのだった。

厄介な依頼人 - FIN -



Guys 9love

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