極道恋事情

12 極道の姐1



◆1
 それはある晩のことだった。鐘崎組で幹部を張っている清水が少々重苦しい顔つきで後部座席にもたれ掛かる気配を感じながら、助手席にいた橘が後ろを振り返った。
「剛ちゃん、どうかした? えらく辛気臭い顔してっけど……」
 橘は清水よりも年齢的には一つ下ではあるが、幹部補佐という位も与えられていることだし、なにかと行動を共にすることが多い。何より生まれ育った街が一緒の幼馴染みでもある。そんな経緯もあってか、立場を超えてまったく遠慮のない間柄なのである。二人の間では名字ではなく下の名前で呼び合うほどで、互いに『剛ちゃん』、『京』と気軽な関係だ。
「……ああ、まあな。少々困ったことになった」
「というと? 今の接待の場で何か話がこじれたとか……そういうことか?」
 そう、清水はつい先程まで依頼人からの接待で食事に呼ばれていたのである。宴が終わる頃にちょうど別の打ち合わせを切り上げた橘が、帰りしなの車で拾いに寄ったわけだ。
「いや。仕事の件は何ら滞りなく終了したし、先様からの支払いも無事に受け取れた。今夜は依頼を済ませたことへの礼かたがたとおっしゃるので、特には気遣うこともなかったんだが……」
 いわば報酬の受け渡しを兼ねた打ち上げ的な会食の場だったわけである。
 本来、こういった仕事の一区切りの時には組の若頭である鐘崎が立ち会うことが多いのだが、あいにく今夜は別件で急な依頼が入ってしまった為、急遽幹部である清水が代行することとなったのだった。
 まあ、今回はクライアントも裏社会の関係者ではなかったし、内容的にも企業同士の商談の護衛という一般的なものだったから、特に鐘崎本人が立ち会わずとも事は足りる。先方も支払いさえ済ませられれば、わざわざ若頭にご足労いただかなくてもいいとのことだったので、清水が出向いたわけである。問題は、その宴席で紹介された女であった。
「実はな、さっきの席に先様が馴染みにしているクラブのホステスというのを連れていらしたんだ」
「ふぅん? で、そのホステスがどうかしたのか?」
「お前も顔くらいは知っているかもしれんが、銀座のジュエラというでクラブで、割合引き手数多と言われている女だ。名前はサリー」
 清水がそう説明すると、橘も「ああ!」と言ってうなずいた。
「ジュエラといえば、君江ママの店だろ? あそこは確か、ウチの親父さんもたまに接待なんかで使っていらっしゃる顔馴染みじゃねえか」
「ああ。君江ママっていうお人は親父さんの幼馴染みで、お人柄も良くできていらっしゃる、いわばプロ中のプロなんだが……」



◆2
 親父さんというのは、言わずもがな鐘崎の父親である僚一のことだ。その彼の同級生だった田端君江という女性が銀座のクラブでオーナーママとして切り盛りしているというので、鐘崎組としてもそういった場所での接待が必要な時には彼女の店を贔屓にしているわけだった。クライアントによっては単に料亭などでの打ち合わせの後に、そうした店でのひと時を好むタイプもいるからである。
 基本的には必要以外過分な接待などの付き合いはしない方向の鐘崎組ではあるが、中にはどうしても外せない客人の場合もあるわけだ。そんな時は馴染みである君江ママの店を使わせてもらうのが定番となっていた。
「で、その君江ママの店がどうかしたってか?」
「いや。問題はママじゃなく、サリーというホステスの方だ」
 そう言うと共に重めの溜め息をついた清水に、橘は不思議そうに首を傾げてしまった。
「実はそのホステスが近々ジュエラを辞めて独立するんだそうだ」
「独立っていうと、ついには店を構えるってか?」
「そうらしい。しかも雇われママじゃなく、オーナーママとしてだそうだ。それで……開店に伴い我々鐘崎組に後見になってくれないかと打診を受けてな」
「後見……だぁ? それって君江ママからもそうして欲しいっていうことなのか?」
「分からん。ただ、今回のクライアントもずっとサリーという女を係にしていたらしく、彼女が店を開くなら何らかの形で助力したいと、そんなところなんだろう」
 銀座のクラブでは、客をもてなすホステスはいつも同じ女性というのが慣わしで、係と呼ばれている。つまり、一人の客に対して毎回違うホステスが付くのではなく、一度この女性と決めたら、よほどの理由がない限りそのホステスと長い付き合いを続けていくということになるのである。当然売り上げにも貢献し、誕生月などのイベントや普段店内で着る装いなどにも助力するのが付き合いの一環でもある。
 今夜清水が会った依頼人も、そのサリーというホステスとそうした付き合いを続けてきたわけなのだろう。話によると、鐘崎組に後見を頼みたいと言ったのはサリーの希望らしく、たまたま依頼を通して組とツテができたクライアントが、それならばと間を取り持つ役を引き受けたとのことだった。
「けど、何だってそのサリーって女はウチの組を後見にしたいなんて言い出したんだ? 親父さんや若頭の特別な知り合いってわけでもねえんだろ?」
 橘の問いに清水はクイと眉をしかめてみせた。



◆3
「そのはずだ。俺の知る限りでも取り立てて特別な関係は一切ないと記憶している。我々があの店を使う時は君江ママが直々についてくれるのが決まりとなっているし、ただ……サリーって女がヘルプで同席することは何度かあったのは事実だ。あの女はナンバーワンとも言われているような人気のホステスだ。本来、ヘルプとして他のテーブルにつくようなことはないんだが……何故か我々が行くと、決まって自分から割り込んでくるのさ」
「ナンバーワンが自分からかよ……」
「ママもその度に『ここはいいから自分のお客様を大事にしなさい』と釘を刺すんだがな。どういうわけか、我々が行く日に限って身体が空いているようでな、正直言ってあまり聞かれたくない商談の時なんかは鬱陶しくも思っていたものだ」
「そいつはまた随分と狡猾なことだな。まさかとは思うが、若あたりがお目当てだったりして……」
 橘が苦笑しつつも半分は冗談でそんなことを口走ったが、清水にとってはさほど冗談で済む話ではなさそうである。苦い顔つきで漏らす溜め息がそう物語っていた。
「……そうでないことを祈るばかりだが、俺の勘では”無いとも言い切れない”というのが実際のところだ」
「はぁッ!? マジかよ……?」
 橘がすっとんきょうな声を上げる。
「ついこの前も財閥令嬢に惚れられてたいへんな思いしたばっかじゃねえか。まあ、あン時は相手が素人だったし、姐さんの人望のお陰で上手いこと収束してくれたわけだが……さすがに玄人相手じゃ、別の意味で手を焼かされるんじゃねえか?」
「確かにな……。若はあの通り男前でいらっしゃるし、誰かに惚れられることがあってもそれ自体は格別驚くことじゃない。大概の女は相手にされないと分かればすぐに引くし、ましてやああいった客商売のプロが集まる銀座界隈では、若に姐さんがいらっしゃることも周知している。普通ならば客は客として、それ以上の関係を望んじゃならねえとわきまえてもいる。だが、あのサリーに限っては少々要注意人物と気になってはいたところだ」
「あー、思い出した! サリーって女、そういや俺も確か一、二度ツラを合わせたことがあったっけな! 乳のデカい、割とイイ女じゃねえか?」
 率直過ぎる橘の言い草には苦笑を誘われてしまうところだが、まあ当たっているといえるだろう。
「確かに容姿の点ではそうかも知れんが――問題は中身だ。今まで世話になっていた君江ママから是非にと頼まれるならまだしも、本人から直々となるとな。しかも――ママの目を盗むような形で自分の係の客に仲介させるってのも好ましいとは思えない」



◆4
 とにかくは帰ってから若頭である鐘崎に相談するしかないだろう。例によって、長の僚一が現在はまた海外だからだ。邸が近付くにつれてますます重い溜め息が増えるばかりの清水であった。
 ところが、鐘崎の帰りを待ってそれを告げたところ、格別には驚きもされずに拍子抜けすることと相成った。戸惑うでもなくうっとうしがるでもなく、鐘崎があっさりと話を蹴ると言ったからだ。
「ですが……よろしいのですか? 君江ママの手前もお有りかと思うのですが」
「構わねえ。本当にそういった用件なら、ママの方から直接親父に話がいくはずだ。だが何も聞いていないし、おそらくはそのサリーって女の独断なんだろうからな」
 鐘崎の言うには、実にかなり以前からサリーにしつこく後見の話を持ち掛けられていたのだそうだ。もしも彼女が独立して店を持つ時がきたら力になって欲しいと、ジュエラに行く度にねだられていたらしい。
 清水は驚いた。
「まさかそんなことがあったとは……。我々の知らないところで若にだけそんな話をしていたということですか」
「ああ。正直言ってしつこいなんてもんじゃねえ。時にはVIPが使う個室に引っ張り込まれたこともあるし、俺が用足しに行った化粧室にまで追っ掛けて来ることもしょっちゅうだ」
「男性用の廁にですか?」
「最初の時はたまたま出すモン出した後だったから良かったが、ヘタすりゃ小便の最中ってことも有り得たからな。途中で引っ込めるわけにもいかねえし、以後は警戒してわざわざ個室で用足すようになっちまった」
「それはまた……災難でしたね」
「まったくよくやるなと呆れさせられる。しかも一度や二度じゃねえってのがな」
「そんなに執拗に……ですか」
「ああ。何でたかだか小便行くのにビビらなきゃなんねんだって……な?」
 その度にしなだれ掛かっては、あわよくばそのままアフターに持ち込まんと必死だったそうだ。
「あの女はてめえの容姿に相当自信を持っているようだからな。色を使や、男は何でも言うことを聞くと思っているんだろう」
 だが鐘崎は何度でもはっきりと断り続け、色仕掛けにも一切乗らなかったということだから、ついには戦法を変えてきたというところなのか。いずれにせよ、誰が仲介に入ろうがどんな戦法で来ようが、鐘崎自身の考えは変わらないとのことだった。例えその仲介者がどんな大物であろうと――だ。
 長の僚一もその件に関しては既に了解していて、サリーという女と後見などの縁を持つつもりはないということは、組の方針として決まっていたのだそうだ。



◆5
「本人にも再三断ってあるし、以後は相手にするな」
「そうでしたか。若も親父さんもご存知だったとは……それをうかがって安心致しました」
「お前にも余計な気を揉ませちまってすまない。とにかくあの女のことは放置でいい。今後もまだしつこく何か言ってくるようなら、君江ママからも釘を刺してもらうさ」
 鐘崎の言葉にホッと安堵したものの、清水としては今しばらくは警戒しておく必要があると思っていた。

 実にそう時を待たずして清水の警戒心を遥かに上回る事態が訪れることになろうとは、この時はまだ誰も想像すらつかなかったのである。

 例のクライアントから清水宛てに電話が入ったのは、その数日後のことだった。当然、用向きはサリーというホステスの後見についての催促だ。
「誠に恐縮ながら、そのお話はお受け致しかねます。組としてはサリーさんご本人にはっきりとお断り申し上げたとのことですので」
 清水がそう伝えると、電話の向こうからは残念そうな溜め息が聞こえてきた。
 このクライアントは国内でも有数の建築会社を経営していて、誰でもコマーシャルなどで名を聞いたことのある大企業のトップでもある。そんなに後見を望むなら、組を頼らずともクライアント本人が面倒を見てやればいいだけの話であろう。それとなく清水がその旨を伝えたが、相手は苦笑まじりで更に溜め息を漏らした。
「そうしたいのは山々なのですが、何如せん私は妻子のある身でしてな。妻は身持の固い女ですし、社として一ホステスを贔屓にするならまだしも、個人的に肩入れするとなると一存ではなかなか思うようにならないところなのですよ」
 分からなくもないが、それを言うならば鐘崎組とて同じことである。
「我々の若頭にも姐さんがおります。それ以前に組としてはそういったお付き合いは致すつもりもございませんし、それは組長も若頭も同意見です。サリーさんにはそうお伝えいただければと思います」
「はぁ、そうでございますか。残念だが致し方ありませんな」
 クライアント自身はそう言って引き下がってくれたが、問題はサリーである。通話を終えた後で独りごちる。
「しかし、若にそんなアプローチをし続けていたとはな。俺の目が節穴なのか、サリーのやり口がよほど狡猾なのか……。これは今まで以上に目を光らせんとな」
 鐘崎の仕事にはこれまでもほぼ同行してきたし、ジュエラにも何度もお供したわけだが、まさか廁――つまりは化粧室だが――、そんなところにまで追い掛けて行っていたとは予想外だった。
 この後、厄介なことにならなければいいのだがと、清水は溜め息が隠せなかった。



◇    ◇    ◇






◆6
 一方、鐘崎の友人である周焔の方にも、似たような不穏に悩まされる事態が勃発していたようである。
 現段階では特に災難が降り掛かってきているというわけではないのだが、風の噂で耳にした情報によると、以前に手を焼かされた唐静雨という女性のことで少々気になる話が聞こえてきているのだという。周の元恋人だなどと嘘八百を並べ立てて、冰と紫月が拉致まがいの目に遭わされるきっかけとなった張本人である。
 噂によれば、あの騒動の後、日本で購入したマンションも取り上げられたという彼女だったが、現在は米国に渡り新たな生活を始めているらしい。それ自体はどうでもいいことで、周にとっては既に関心すら皆無の女である。気に掛かるのは、彼女が渡航先の米国で裏社会の人物と通じるようになったらしいという話を側近の李が聞きつけてきたことであった。
 午後の汐留では周が苦々しい顔で片眉を寄せていた。
「唐静雨に関わっている裏社会の人間ってのが割り出せたそうだな? いったいどこの組織のヤツなんだ」
「はい。彼女は現在ニュージャージーで小さな貿易会社に勤めているようですが、場所的には川一本挟んで隣はマンハッタン島です。接待で行った先でニューヨークマフィアの一員だというアジア系の男といい仲になったようで、今では同棲も同然の暮らしをしているとか。ただ、その男が組織の中でどの程度の位にあるのかは調査中です」
「住処はニュージャージーなのか?」
「女のアパートはそのようです。最近ではブルックリンにある男のヤサに転がり込んでいるようですが、話によるとそこも貸し家のようで、男自体は独り身とのことです。想像するに、組織内でも上層部の人間ではないと思われます」
「つまり、単なるチンピラってところか」
「おそらくは――。一度現地に行って詳しく調べてみましょうか?」
「難しいところだな。あの女が過去を振り返らずに新しい道を歩み始めているだけなら関わらないに越したことはない。念の為調査するだけなら、こちらの動きは勘付かれんようにしねえとな」
「おっしゃる通りですね。老板が関心を示しているなどと勘違いされても厄介です。焼け木杭に火を点けるようなことになってはいけませんし」
「まあ、現段階では特にこちらを意識した動きがないなら放っておくのが賢明だろう。だが、一応動きは気に掛けておいてくれ」
「承知致しました」
 李との意見をまとめたところで、早くも傾き出した秋の陽射しに手元の腕時計を見やる。
「そろそろ冰と劉が隣のビルから戻る頃だな。今夜は何も予定が入っていねえから、早めに切り上げるとするか」



◆7
 そうなのだ。隣のビルには周の経営するアイス・カンパニーの子会社が軒を連ねているわけだが、それらの偵察方々必要書類などを届けに回るのが冰の仕事でもある。これまでは彼一人で回ってもらっていたのだが、その帰り道でマカオの張らに拉致されたこともあって、以後は劉と共に二人一組で回らせるようにしたのだった。
「お夕飯は外へ出られますか?」
 そうであれば手配をという李の有り難い言葉に、周も瞳を細めた。
「そうだな。この時間ならまだ真田も支度はしていなかろう。今宵は皆で中華でも囲むか。お前らも一緒にどうだ」
 中華を食べに行くなら二人きりよりも人数がいた方が楽しめる。何より、そう言えば冰の方から『それだったら李さんや劉さん、それにもしご都合がつけば真田さんたちも』と言い出すに決まっている。自分だけがいい思いをするという観念がない冰は、そうして常に周りの人々を思いやってくれる性質だからだ。
「では有り難くご相伴に与ります。いつもながらのお心遣い、痛み入ります」
 李は言うと、早速に店の手配に取り掛かったのだった。

 その夜、夕飯から帰ってのことだ。周は念の為、昼間聞いた唐静雨の件について冰の耳にも入れておこうと、リビングで就寝前の酒を片手に彼と向き合っていた。
「今はまだ何か起こるといったわけじゃねえが、ここしばらくはお前も身の回りに気を配るようにしておいてくれ。もっと詳しいことが分かってくるまで辛抱をかけるがすまねえな」
 そんなふうに謝ってくる周を目の前に、冰はブンブンと首を横に振りながらうなずいた。
「白龍のせいじゃないんだからさ。そんな謝らないでよ。でも俺も気をつけるようにするね」
 いつもこうして気遣いを忘れない。そんな伴侶を愛しく思わずにはいられない周だった。
「よし! じゃあ休むとするか」
 酒のグラスを片付けてベッドへと誘う。もうすっかり共に寝るのが通常となっているので、冰も当然のように同じベッドへと向かう。
「明日も朝一からの予定は入ってねえし、割合ゆっくりめだ。この後はまたお前のベッドに移動してもいいし、このままここで寝ちまっても俺は一向に構わねえぞ」
 ベッドを移動という言葉に冰は瞬時に頬を赤らめた。つまり抱きたいという意味だからだ。
 初めての睦の時、汗や体液でシーツがぐちゃぐちゃになってしまったので、これでは寝づらかろうと冰の部屋のベッドへと二人で移動して就寝についたことがある。それ以来、愛を紡ぐ夜は周のベッドで、その後は冰の部屋へと移動して寝ることがすっかり習慣になってしまっているのだ。まあ、激しい夜には疲れてそのまま寝入ってしまうこともあるのだが、気持ちよく熟睡させてやりたいと、周はいつもそうして気遣ってくれるわけだ。そんな亭主を、冰もまた心から頼もしく愛しく思うのだった。



◆8
「白龍ったらさ……。ん、でもありがとね。そ、そのまま寝ちゃうかもだけど……うん、それは……」
「疲れ具合によって……だな?」
 ニッとニヒルに口角を上げて笑う。企んでいそうな目つきが妙に色っぽくて、男前を上げているのが憎らしくもある。と同時に、これからどんなふうに愛されるのかを想像するだけでドキドキと心臓が高鳴り出してくる。こればかりはどんなに時が経ってもなかなか慣れないわけだ。
「だってさぁ、仕方ないよなぁ。白龍がカッコ良過ぎるんだよ……」
 頬を染めながら独りごちた冰を不思議そうに振り返りながら周は彼を軽々と抱き上げた。
「……わっ……! 白ッ……」
 間髪入れずに覆い被さられて、シーツの海へと縫い付けられる。ふと触れ合った周の雄が既に固くなり始めている感覚が太腿を撫でると共に、ますます頬を染め上げた冰だった。



◇    ◇    ◇



 その頃、鐘崎の方もサリーというホステスから後見の要請があったことを紫月に告げていた。まかり間違って紫月がとばっちりを受ける可能性が無きにしも非ずだからだ。サリーのような自己中心的な考えの女は、いつ何時逆ギレや逆恨みを行動に表すか知れたものではない。堅気である三崎繭でさえ当初は思いもよらない身勝手さで周囲を振り回したわけだが、今度はそれに輪を掛けた狡猾な女が相手である。用心に越したことはないというものだ。
「しかし案外諦めの悪い姉ちゃんだな。これまでにも再三断ってきたわけだろ? なのにまだそんなことを言ってくるってことは、俺よりもお前の方が狙われねえように気をつけんと!」
 呆れながらも紫月が心配そうな口ぶりでいる。
「確かにな。まあ、俺に何か仕掛けてくるとしても女一人じゃそう大したことはできんだろう。プロのエージェント並みに武術に長けているなら話は別だが、あの女の武器といえば色を使うくれえしかねえだろうからな」
 つまり、鐘崎のような男を相手に丸腰の彼女が暴力を仕掛けてくる可能性は低いだろうということだ。
「けど、色仕掛けならお手のモンなんだから。舐めてかからねえ方がいい」
「俺に色仕掛けは通用しねえさ。それよりお前が煩わされねえように、くれぐれも用心してくれよ」
「お互いにな! ところで遼、氷川たちと一緒に行くことになってる例の鉱山。あれ、確か再来週だったっけ?」
 紫月が問う。
 実は、鐘崎組では氷川こと周焔の社と共同で、数年前から鉱山の採掘事業に携わってきたのだが、ここ最近そこで新たな発掘場が見つかったとの報告が上がってきたのだ。新たなといっても鉱物自体は既に世界中で流通している珍しいものではないが、宝飾品の元となる鉱石の山が発見されたらしい。



◆9
 この事業には周の実家である香港の親たちも出資していて、無事に掘り出せればたいへんな収益が見込めることとなる。元々は交通手段に苦を強いられていた山奥に住む地元少数民族の力になろうと道路を通す計画で始めた慈善事情だったのだが、掘り起こす過程で鉱石が見つかったことから、急遽採掘の方にも力を入れることになってしまったのだ。
 住民の足となる道路開発の方は当初よりも別のルートが検討されて、そちらの方も順調に進んでおり、完成も近いという。今まで政府も手をつけられずにいた開通事業を支援したお陰か、周ファミリーの周辺では神様の思し召しなどとも言われているほどだった。それでこの度、周らと共に現地の視察に行くことになったのである。
「あそこで掘り出した鉱石の大部分は国と地域住民たちに還元されるそうだが、開発事業に携わったとして一部は周ファミリーの伝手で加工全般が行われた後、氷川の社を通して各国へ流通されることになっている。うちは単に開発資金を援助しただけだが、製品となった宝飾品を捌く手伝いくらいはできるからな。それ相当なバックまで入れてくれるとのことだし、少しは売り上げに貢献しねえとと思っている」
「はぁ、儲け話かよ。お前と氷川も相変わらずやり手だよな」
「それも事業の一環だ。組を運営していくには資金源は必要不可欠だからな」
「まあな。俺なんかシノギのことに関しちゃお前に任せっきりだからさ。ちっとは役に立たなきゃって思ってはいるんだけどな」
 姐という立場で組のことは亭主と共に背負っているつもりでも、実際に金を生み出すことにはあまり力になれていないと、少々情けなさそうに肩を落とす紫月の傍らで、鐘崎は愛しそうに瞳を細めた。
「お前はいいんだよ。傍に居てくれるだけで俺の精神面を支えてくれているんだ。組の若い衆らだって同様だ。お前は俺たち皆の活動源なんだからな」
 至極真面目な顔つきでそんなふうに言われて、紫月は苦笑しつつもペロリと舌を出して頭を掻いた。
「は、ホント俺って幸せ者だよな」
「それを言うなら俺の方だ。お前がいてくれるから俺は安心して儲け話にも専念できるんだからな」
「バッカ、遼……」
「それより今度の旅は少し長くなるぞ。半月は向こうに行っている予定だ。俺と氷川は採掘場の視察や開通した道路関係者への挨拶回りなんかで連日出て歩くことになると思う。あっちは山岳地帯だ。朝晩で気候の変動も大きいらしいし、着るモンなんかの準備をしといてくれ」
「ああ、うん。そりゃもちろん!」



◆10
「通信機器なんかも殆ど揃っていねえから、最小限のものだが自前で用意していくことになる。そっちの方は源さんがやってくれている。普通の旅行と違って荷物も多くなると思うが、管理を頼んだぜ?」
 それこそ姐にしかできない立派なサポートである。
「うん、源さんを手伝って抜かりのねえようにやっとく! 任せてくれ。そういえば今回は親父さんも来てくれるんだろ?」
「ああ。親父は台湾での仕事が済み次第、直接現地へ合流してくれることになってる」
「ンじゃ、親父さんの着替えなんかも用意しておくわ! 台湾と違って山岳地帯じゃ厚手のものなんかも必要になってくるだろうしな」
 紫月は張り切ってうなずいたのだった。
 今頃は汐留の周邸でも同じような会話がなされている頃だろうか。今回は冰も同行するし、もちろん側近の李と劉、それに慣れない土地での身の回りの世話なども想像以上に大変だろうからと、家令の真田も同行するようである。かくいう鐘崎組からも源次郎が一緒に行ってくれることになっているので、何かにつけて心強いといったところだ。出発まで十日あまり、紫月も荷造りやら留守中の細々とした手配などに精を出すのだった。



◇    ◇    ◇



 そうして無事に現地入りを果たした一行だったが、幸いというべきか、これまでの間に例のサリーという女からはあれ以来何の連絡もなかった為、煩わされることのなかったのは有り難かった。一方の周の方でも、気に掛かっていた唐静雨の目立った動きも見られないことから、こちらが危惧していたような未練などはないのだろうと安心してもいた。これで気兼ねなく仕事に専念できるというものだ。男たちは愛する伴侶と信頼できる側近たちと共に普段は味わえない山岳地帯での生活を楽しもうと意気込んでもいたのだった。

 ところが――である。

 周と鐘崎、それに周の兄の風まで巻き込んで、とんでもない事態に一転することとなったのは、視察に出て一週間が経った或る日のことだった。
 その日は朝早くから鉱石の採掘場への視察の為、周と鐘崎、それに周の兄の風が三人で出向いて行った。運転手兼案内役として地元住民の一人が連れ立って出掛けたわけだが、夕方になっても彼らが帰って来ないことで少々騒ぎが起こり始めたのである。
 視察の為の拠点として、寝泊まりなどは麓の村の集会所を使わせてもらっていて、一行は周家と鐘崎家の面々が揃って共同生活を行なっていたのだ。



◆11
 持ち込んだ通信用の機材なども所狭しと並ぶ中、普段よりは窮屈を強いられる出張期間となったわけだが、こんなふうに皆でワイワイできる機会も貴重だと、誰もが和気藹々とした日々を送ってもいた。そんな中での出来事だ。夜が更けようとしているのに未だ戻らない周らを心配して、麓では地元住民も巻き込んでちょっとした騒ぎになっていたのである。
「かれこれここを出発してから十二時間が経ちます。予定ではとっくにお戻りになっていていいはずなのですが……」
 周の側近である李が深刻顔になる傍らで、
「途中で何かあったのかも知れません。採掘場では落盤なども考えられますし、捜索に出た方がいいかと」
 鐘崎組の源次郎も口を揃える。
 正直なところ、この辺りは道も細く整備も整っているとは言い難い。往復の途中で脱輪などということも考えられるし、源次郎の言うように落盤の可能性もないとはいえない。
「な、源さん。念の為GPSを追ってみてもらうことはできるか?」
 心配した紫月が逸り顔で言う。
「そうですね。遼二さんたちは複数のGPSをお持ちですから、何かあったとしてもどれかは反応するかと。早速に調べてみましょう」
 電波的には不安があるものの、スマートフォンの他にも腕時計などのアクセサリーや――それになんといっても彼ら二人には刺青の箇所に密かに取り付けてある特別な探知機もある。仮にし事故の衝撃でどれかが外れたとしても、ひとつくらいは生き残っているかも知れない。
「では我々の方でも追ってみます!」
 李と劉は周の方の探索に取り掛かった。――と、そこで驚くべき事実が発覚したのである。
「これは……! まさか何かの間違いじゃないか!?」
 あまりの驚きに源次郎が敬語もすっ飛ばした驚愕の声を上げる。無事にGPSが反応したことに安堵したのも束の間、示された位置は本来三人がいるはずのない場所だったのである。
「通信状態が不安定なのか……もしくは機器が狂っているのか……GPSはマカオを指している」
 やはり電波の関係でおかしな表示になっているのかと思いきや、李の方でも同じ場所を示しているとのことで、一同は首を捻らされることとなってしまった。
「何だってマカオに……!? まったくの方向違いじゃねえか」
 焦る紫月の傍らで、源次郎と李が推測を交互にし出した。
「考えられるのは御三方が何らかの事件に巻き込まれたということでしょうか。可能性が強いのは拉致に遭ったか……」
「もしくは、本当はこの近辺にいらっしゃるが、機器が狂っているのかのどちらかと思われます」



◆12
 その推測に紫月と冰は蒼白となった。
「……拉致と事故か。両方の可能性を考えて二手に分かれた方がいいか」
 紫月はしばし考え込んだ後、即具体案を口にした。
「よし、先ずはここの周辺住民の方々の中で採掘を手伝っていた人がいないか村長さんに訊いてみよう。彼らの内の誰かが視察に行った遼二たちを覚えているかも知れない。もしも無事に現場に到着していれば、そこへ行くまでの道中は無事だったことが確認できる。遼たちが採掘場を出たかどうかも分かれば尚有り難い」
 つまり、仮に事故に遭ったと仮定して、ある程度の足取りが掴めれば、鐘崎らが何処で難儀しているかが想像しやすくなるというものだ。落盤など採掘場での事故なのか、往復の途中での脱輪や車の故障等なのかが分かれば捜しやすくなる。
「俺と冰君で村の人たちに訊いて回るから、源さんたちは引き続きGPSを追ってくれ。仮に機器の不具合じゃなく本当にマカオにいるとするなら拉致の可能性が高い。GPSの位置が移動しているかも含めて、できるだけ詳しく追ってみてくれ」
「かしこまりました!」
 紫月の言葉を受けて源次郎や李らがうなずく。不安な緊急時の中でオロオロとしたりせずに、冷静且つ現実的な救出方法を模索する彼に、頼もしさと勇気を与えられる気がする源次郎たちだった。
「それから、源さん。遼二の親父さんがこっちに合流してくれるのは確か明日だったよな?」
「はい、そうです。明日の午後にご到着できるとのことで、先程ご連絡をいただいております!」
「そっか。親父っさんが来れば更に心強いが、それまでの間にできるだけ情報を集めておこう」
 紫月は言うと、冰と共に集落の村長の元へ向かったのだった。
 すると、住人たちの中にも紫月の想像した通り採掘に携わっている者たちが見つかった。だが、誰も視察に来た鐘崎らを見掛けた覚えがないという。現場でも監督ら上の者たちが案内の準備をして待っていたそうなのだが、一向に来る気配がないと気を揉んでいたらしいことが分かってきた。
「……ってことは、遼たちは採掘場へは行ってねえってことか」
 だとすれば往路で事故に遭ったか、もしくはその道中で拉致などの予期せぬ事態に巻き込まれた可能性が高い。
「採掘場まではここからだと車で一時間といったところか……。早速に捜しに出た方がいいな」
 既に夜の闇が降りてきていて辺りは真っ暗だが、これからは刻一刻と冷え込みも激しくなる時間帯だ。猶予はない。
「よし、戻って源さんたちと急いで捜索に出掛けよう」
「そうですね。もしも怪我などをしていたらそれこそ大変ですし……」
 紫月と冰がそんな話をしていたちょうどその時だった。村人たちが何やら慌てた様子で、一人の男を羽交い締めにしながら駆け付けて来たのに驚かされる羽目となった。



◆13
 見れば、皆に押さえ付けられているその男は、なんと朝方鐘崎らを乗せて麓を出発した運転手だった。
「申し訳ありません! こいつがこっそり家に戻っていたのを見つけて事情を問いただしたところ、とんでもないことをしでかしたことが判明しまして……」
 村人たちの言うには、運転手の男が金と引き換えに鐘崎らを見知らぬ外国人に引き渡してしまったというのだ。
「引き渡したって……どういうことだ!」
 村長が蒼白となって怒鳴り上げ、村人たちも皆で運転手の男を詰り始めて、あっという間に大騒ぎとなった。
「待ってください! 怒ったところで始まらねえ。とにかくその人に詳しい経緯を聞かせてもらいたい」
 紫月が仲裁に入って、ようやくと場が収まりをみせる。運転手もさすがに逃げられないと悟ったのか、うなだれながらも鐘崎らを引き渡した経緯を話し出した。
 彼によれば、朝ここを出てから採掘場へは向かわずに麓を更に降ったということだった。鐘崎らを乗せた車は、元々運転席と後部座席が仕切られていて互いの顔も見えない造りになっていた為、出発するとすぐに後部座席に催眠剤を流し込み、彼らを眠らせたらしい。
 そもそもこの話を持ち掛けられたのは数日前のことで、相手は初めて見る外国人の男だったそうだ。こちらの言語は話せないらしく、通訳として男の仲間らしきアジア人の女もいたという。見たこともないほどの金品をチラつかされて、つい誘いに乗ってしまったことを今では後悔していると言って詫びた。肝心の催眠剤もその時に手渡され、眠らせる手順なども教えられたままに行ったのだそうだ。
 催眠剤を流し込んで少し車を走らせた先で外国人の男が別の車で待っていて、鐘崎らを引き渡す手順になっていたそうだが、その時には相手は数人に増えており、誰もが危険な雰囲気をまとっていたという。怖くなった男は逃げるようにその場を立ち去ってきたのだそうだ。その後、密かに村へと戻って来てから、今まで家でじっと身を隠していたというわけらしい。
 とにかく経緯は分かった。つまり、事故ではなく拉致であることが明らかになったわけだ。紫月と冰は一目散に集会所へ戻ると、早速に救出の手筈を整えるべく動き出したのだった。
 一方の源次郎らの方でもGPSの動きから、どうやら拉致である可能性が高いと判断していたようだ。紫月らの話を受けて、早々に村を引き上げ、拉致された三人を追うこととなった。
 村長をはじめ、村では道路開発に尽力してくれた周や鐘崎に申し訳ないことをしたと平身低頭で驚愕していたが、今はとにかく救出が第一である。皆に見送られながら、一路マカオへと向かうべく村を後にしたのだった。



◆14
 そうして一行がマカオに到着したのは、空が白み始めようという頃だった。
 道中で鐘崎の父親にもその旨を伝え、落ち合うのはマカオと決めた。と同時に、周家の頭領である隼にも瞬時に情報が伝えられる。隼にとっては実の息子が二人いっぺんに拐われたわけである。ファミリーとしてもただごとでは済まされない事態に、一行がマカオ入りした時には既に側近の精鋭たちを大勢引き連れた隼本人が現地で捜索に動き出していた。
「頭領・隼!」
「ああ、源さんか! 既に三人が捕われていると思われる現在地は突き止めている。ただ、少々厄介な場所で近付くのに時間を要している」
「――とおっしゃいますと、危険な地域なのでしょうか?」
「単純に言えばその通りだ。スラム化していて、一帯に入り込むには地理に明るくないと困難だそうだ。幸い張敏があの辺りを仕切っている連中に渡りをつけてくれるというので、待機しているところだ」
 張敏というのは、以前に冰のディーラーとしての腕前に目をつけて、わざわざ日本にまでやって来て彼を拉致した経緯がある男のことだ。今ではすっかりその時のことを後悔して、以来地道にカジノ経営に精を出している。冰の事件をきっかけに、隼がここマカオに所有していたシャングリラというカジノの運営を張に任せた恩もあってか、すっかり周ファミリーとも信頼の厚い関係になっていた。
「張敏はここいら一帯ではかなり顔が利くようでしたな」
「ああ。助力を申し出たところ、すぐに動いてくれたんで有り難いことだ」
 張は一代で彼のカジノを築いたやり手でもある。一匹狼タイプで腹黒く、強引なところもあったわけだが、故にマカオの裏社会にも明るく、様々な方面に広く顔が利くし、なにかと頼りになる男なのだ。隼が打診したのはまだ深夜だったが、非常事態を察した張は即座に駆け付けて調査に取り掛かってくれたそうだ。
 その張からの報告が上がってくるのを待ちながら、紫月と冰は村で聞いてきた経緯を隼らにも説明がてら拉致犯の割り出しに頭をひねっていた。
「村人の話では外国人の男にそそのかされたということでしたが、その男自身はこちらの言語に明るくない様子で、どうやら英語圏の人物のようです。通訳はアジア人の女が行っていたとのことです。女が仲間だとして、単にその男といい仲というだけで通訳を買って出たのか、それとも主犯は女の方で、男は実行犯として女に動かされているだけなのかによって状況は変わってくると思うのですが――」
 紫月の説明に隼らも推測を重ねていく。犯人の目的が誰であるかによっても対策の打ちようが変わってくるからだ。



◆15
「仮に頭領・隼やウチの親父さんを誘き出す餌として三人が拉致されたなら、既に何らかのコンタクトがあってもいいはずです。それが未だにないということは……犯人たちの目的は遼二か周焔、もしくは兄貴の風さん、あの三人の内の誰かが本来のターゲットなのかと考えられます」
 紫月の仮説に皆もうなずかされる。
「確かに……拉致されてからもう少しで丸一日が経とうとしています。身代金などが目当てなら、とっくに脅迫の連絡があってもいいはずですな」
 源次郎も口を揃える。
「ここまでのことをふまえて考えると、犯人の一人は英語圏の男で、連れの女はアジア系で広東語が分かる人物ってことになります。あの三人の内の誰かに個人的な恨みを持っているか、拉致してまで何かに協力させようとしているか。そういった人物に心当たりがあるかってのを考えてみているんですが、俺らが思い当たるとすれば、直近では組に後見を頼んできたホステスのサリーって女くらいか……。ですが、もしも彼女が事を構えるとすれば日本国内でっていう方が確率は高そうに思えます」
 まあそれもそうだろう。鐘崎に直談判するだけならこれまでも再三してきたわけだし、どうあっても聞き入れてもらえないことを逆恨みして何かをしでかすつもりならば、わざわざこんな山奥の採掘場にまで出向くよりは何かと行動しやすい普段のテリトリーの中で行う方が採算がとれるというものだ。
 サリーは無関係だと仮定して、他に恨みを買っているのかも知れないが、とりあえずのところ思い至らない。目的が鐘崎でないのなら、ターゲットは周兄弟のどちらかか――あるいは両方ということも有り得るかも知れない。ファミリー絡みの敵対組織という可能性もある。
 しばしそれぞれに思い当たることを巡らせる中で、周の側近である李が苦い表情で口を挟んだ。
「もしかすると……犯人の目的は焔老板かも知れません」
「焔が目的だと? 何か思い当たることがあるのか?」
 隼が訊く。
「実は――以前に焔老板と冰さんを煩わせた唐静雨という女ですが、最近になって米国に渡り、現地のマフィアと懇意にしているという情報を得ていました。現時点では特に何かを仕掛けてくるわけではなかったので、様子見をしていたところなのですが」
「なるほど……。英語圏の男にアジア系の女というところは条件にハマるか。焔への想いを諦め切れずに米国で知り合ったマフィアの男をそそのかして拉致させたとも考えられるな。残る可能性は風がターゲットの場合だが、英語圏の男ということで絞り込むなら、実は風のヤツも学生時代に米国留学をしていたことがあるんでな。その頃に誰かに恨みを買ったのかも知れない――」
 だが、その頃からはもう十年以上が経過している。可能性という面でいえば、一番はやはり唐静雨という女だろうか。皆の推測を耳にしながら、冰は募る不安に心を震わせていた。



◆16
「状況から考えて、やはり白龍を狙った唐静雨さんの犯行の線が強いように思えます……。もしもそうならお兄様と鐘崎さんを巻き込んでしまったことになりますが……」
 周と共にいたというだけで何の関係もない二人までとばっちりを受けているとしたら、申し訳ないと思うと同時に、周の身も大いに気に掛かるところだ。
「催眠剤で眠らされたとのことですが、時間的に考えればもう目が覚めている頃でしょう。暴力などを受けて怪我を負わされていなければいいのですが……」
 食事などもきちんと摂れているのか気に掛かるところだ。それ以前に酷い扱いを受けて瀕死の状態ということも考えられる。
「お父様、あまり猶予はないように思えます……。白龍たちの居場所は分かっていることですし、一刻も早くGPSを辿りたいと思うのですが……」
 冰としては気が気でないのだろう。逸る気持ちのままにそう口走る。今すぐにでも自ら周を助けに向かいたいと顔に書いてあった。そんな彼の気持ちはよくよく分かるが、何の準備もなしに無鉄砲に突っ込めばいいというものでもない。
「冰君の言う通りだな。だが、助けに向かって俺らが捕まったんじゃ元も子もない。先ずは三人が今どういった状況にあるのかを把握できればいいんだが――」
 紫月はそう言って冰を宥めると、
「源さん、外から犯人たちに気付かれずに建物の中の様子が分かる機器はねえか? なんなら音を拾えるだけでもいい」
 源次郎に向かってそう訊いた。
「集音器はありますが、それを仕掛けるにはある程度現場に近付く必要があります。あとはサーモグラフィーで人の体温を感知して、建物内にいる人数や配置を探ることも可能ですが、こちらもやはり近付かないことには仕掛けられません」
「だったらドローンに機器を積んで飛ばすってのはどうだ?」
「可能です。ただし、音に気付かれる可能性はあります」
 張敏が渡りをつけてくれるのを待ち、犯人たちに怪しまれずに接近するのがいいのか、それとも助けが来たことを解らせて揺さぶりをかける方がいいのか。
「どちらにせよ、危険性は五分五分だな。張敏の準備を待っている間に三人が暴行を受けていないとは言い切れねえし、逆に助けが来たことを知ったことによって、焦った犯人を煽っちまう可能性もある。最悪は始末されたりしかねない」
 だが、考えているだけでは拉致があかない。
「とりあえず機器の準備を整えよう。張さんが渡りをつけるのに手惑うようなら、ドローンでの偵察を開始しよう」
 紫月は隼にも『それで如何でしょう?』と目配せをすると、隼もうなずいた。
「では私の方ではドローンに気付かれた時の為に踏み込む体制を万端にしておく。皆、準備に取り掛かってくれ」
 こうして銃器類の携帯と防護用ベストなどの戦闘準備が即座に進められていった。



◆17
 一方、張敏の方でもスラム街を仕切っている人物とのコンタクトに漕ぎ着けていた。
 隼からの連絡がきたのは深夜から未明になるような時間帯だった為、少々渡りに時間を要していたのだ。非常識なことをして相手を怒らせては、聞けるものも聞き出せなくなるからだ。
「早くから煩わせてすまないな。ここいら一帯によそ者が入り込んでいるか――もしくはここ最近でどこかの空き家を貸したりといった動きがあるかどうかを知りたい。こちらも少々ワケ有りでね、不躾は承知だ。ご理解いただけると有り難い」
「張、お前さんも随分と品良くなっちまったもんだな。まあ、昔からそうやって礼儀を重んじるところだけは変わらねえが――」
 張とこのスラム地区一帯を仕切っている男とは昔からの顔馴染みだ。今でこそ王道を歩み始めた張であるが、経営を軌道に乗せるまでは一匹狼と言われながら様々後ろ暗いことにも手を染めてきたのは事実である。表は政治家から裏社会の実力者やスラム街の面々に至るまで、とにかく顔が広い。張自身、自分はマカオでは顔が利くのだといつか冰に自慢していたことがあったが、満更嘘でもなかったというわけだ。
 今回も張の鶴の一声でスラム街のドンと言われている男が快く対応してくれているわけだが、それ自体が通常では有り得ないことなのである。
 朝も早くから押し掛けたにもかかわらず、ドンの男は知り得る情報を惜しみなく話してくれたのは有り難かった。これも張の人徳とこれまでの対外的な交流手腕の賜といえる。
 ドンの話によると、かなり以前に廃業したまま空き家となっているホテルの跡地を、ここ十日ばかりの間に外国人の男たちに貸したという情報を得ているということだった。
「あのホテルを経営していたのは俺のガキの頃からの馴染みの男の両親だったんだがな。事業が傾いてホテルは廃業に追い込まれたが、その後も買い手がつかないままヤツの家には莫大な借金だけが残った。両親は次々と病に倒れ、まだ十代半ばだったヤツは忽然と姿を消しちまった。噂じゃ親戚を頼ってアメリカに渡ったとも言われていたが、実際のところは誰にも分からん」
 そんな彼がひょっこりこの街に戻って来たのはそれから二十年ほどが経ったつい最近のことだったそうだ。
「久しぶりに見たヤツは随分と変わり果てていて驚かされたもんだ。幼馴染みのよしみで俺の所にだけは挨拶に顔を出したが、最初は誰だか分からんほどだった。こっちの言葉もえらく留守になっちまったようで、連れの女に通訳させる始末だ」
「まさか広東語を忘れちまったというわけか?」
「おそらくは使わん内にそうなったんだろう。片言で単語くらいは拾えるようだったが、流暢に英語でしゃべくっていたからアメリカに渡ったというのは事実らしい。なんでも向こうでマフィアの一員になったとかで、えらく羽振りの良さそうに振る舞っちゃいたが、どこまで本当か知れたもんじゃねえな。ただ、仲間を引き連れて戻って来たらしく、そいつらと組んでこれから一儲けする当てができたとか息巻いていたのは確かだ」
 彼の言うには、ホテルを再建するのも夢じゃないとうそぶいていたらしい。



◆18
 一儲け――つまりは周兄弟を拉致して身代金でも引き出そうというわけだろうか。
「なるほど……。お陰で経緯はだいたい掴めた。迷惑ついでと言っちゃなんだが、俺と俺の仲間たちをそのホテルの近くまで案内してはもらえまいか? できればヤツらの動きを見張れるヤサがあれば尚有り難いんだが」
 張が頼むと、男の方もすぐに事情を察したのだろう。深くは理由を訊かずに快諾してくれた。
「ワケ有りと言っていたな。案内は俺が直接しよう。ホテルを見張れるヤサも用意する」
「すまない。恩に着るぜ」
「他に必要なものがあれば言ってくれ。力になれるかどうかは分からんが、俺にできることなら協力させてもらおう」
「助かる! では――お前さんの幼馴染みだというその男の名と、もしも可能であればそいつの顔写真なんかがあると有り難い」
「分かった。ヤツが俺を訪ねて来た際の防犯カメラの映像が残っているはずだから、すぐに用意させる」
 これも張の人徳故だろう、マカオの裏社会でも更に裏を仕切っているこのボスに二つ返事で動いてもらえるのだから、さすがといったところだ。
 張は今聞いた話を早速に伝えるべく隼らの元へと急いだのだった。

 その頃、隼の方でもちょうど突入の準備が整ったところだったようだ。
「頭領・周! 遅くなって申し訳ありません。おおよその経緯が分かりました」
 張は今しがたスラム街を仕切る男から聞いてきたことを簡潔に報告した。
「犯人が立てこもっているホテルの跡地までは私の知り合いが案内してくれるそうですので、すぐに出発しましょう」
 これで街区の住人たちとの間にいざこざを起こさずに、すんなりと現場入りできるというものだ。隼は張に向かって丁重に礼を述べると、紫月や冰ら皆と共に早速現場へと向かった。

 ホテルの跡地といっても、まだ建物自体は当時のまま取り壊されてはおらず、廃屋と化してはいるものの、かなり立派な外観といえた。部屋数もそれなりに多いことは一目瞭然である。建物内のどこにどんな状態で周らが捕らえられているのか、まずはそれを把握するのが何より先だ。
 幸い、張の知人が自由に使ってくれていいと言って、ホテル真向かいのショッピングセンターの一室を提供してくれたので、通信機材などはそこへと持ち込まれた。
「ここからなら集音器なども仕掛けやすい。とはいえ、確実に内部の状況を知るには、やはりホテルの敷地内に潜入して機器を仕掛ける必要があります。そのお役目は私が引き受けますから、紫月さんたちはここで機器からの傍受をお願いできますでしょうか?」
 源次郎が言うと同時に、後方から頼もしい声音が重なった。
「それは俺が行こう」
 皆が声の主を振り返ると、そこには鐘崎の父親の僚一が精悍な顔付きでこちらへと向かってくるのがうかがえた。



◆19
 台湾での仕事を切り上げて、早速に駆け付けて来たのである。
「親父っさん! お待ちしてました!」
 紫月が感嘆の面持ちで迎える。
 裏の世界で右に出る者はいないというほどの百戦錬磨の僚一がいれば鬼に金棒である。彼の姿を見ただけで、その場にいた者たちにとてつもない勇気の感情が湧き上がっていくようだった。
「僚一、煩わせてすまない」
 むろんのこと隼も例外ではなく、僚一がいてくれるだけで心強いといったように出迎える。
「ここへ来るまでの間に俺の方でも少し調べてみたんだが、やはり犯人は唐静雨という女が絡んでいることに間違いなさそうだ」
 僚一は、源次郎からの報告を受けて、拉致犯の割り出しに取り掛かっていたのだった。
「唐静雨が米国で懇意になったという男の素性だが、どうやらニューヨークマフィアというのは本当らしい。名前はロナルド・コックス、通称ロンだ。ヤツは元々ここマカオの出身だが、両親が他界したことでアメリカに渡ったらしい。ロナルドというイングリッシュネームも元々の”龍”という名から取ったと思われる。腕に小さな龍のタトゥを入れて、向こうではドラゴンなどとのたまっていたそうだ」
 その話を聞いて、隼からは思わず嘲笑が漏れる。
「ドラゴンとな――。笑わせやがる」
 それも然りか、周親子の字には皆”龍”の文字が入っているし、ドラゴンのタトゥという点でも被っている。ただ、周家の場合は三人それぞれ、背中全面にうねるような立派な昇龍の刺青があるわけで、ロンという男がお遊びで入れたのだろうシールまがいとは格が違うといえる。
 僚一の調べでは、ロンは当初親戚を頼って渡米したそうだが、折り合いが悪く、ほどなくして不良グループに入り、そこから地元マフィアの一員にまで成り上がったらしいとのことだった。
「ただ、マフィアといっても名ばかりで、立場的には下っ端も下っ端、上層部の連中からは存在すら知る由もないといった具合だったようだ。唐静雨という女の方も焔との一件で香港を追われてから、ニュージャージーにある小さな貿易会社で事務員として働いていたようだが、そこでロンに出会ったんだろう。ヤツがマフィアと知って焔への対抗心でも生まれたのかも知れん」
 さすがは僚一である。李らが時間を掛けて調べ上げた情報を、この数時間の内にすっかり把握してしまった手腕には驚きを通り越して驚愕とさえいえる。
「しかも、この真向かいにあるホテルはロンの両親が経営していて潰れた跡地だそうだな? 拉致した三人を捕らえておくには最適と踏んで舞い戻って来たんだろう」
 そこまでお見通しというわけか。李などは恐れ多いといった調子で、心底申し訳なさそうに首を垂れてしまった。



◆20
「長・鐘崎……ご尽力、恐縮の極みです。我々がついていながら唐静雨の動きを読み切れなかったことは手落ちとしか言いようがございません。焔老板はもとより、兄上の風老板、それにご子息の遼二殿まで煩わせてしまい、お詫びのしようもございません! かくなる上はどうあっても御三方を無事に救出できるよう命を賭して臨む所存です! どうか引き続きご助力賜りたく……この通りです……!」
 気の毒なくらいに腰を折って謝罪する様子を横目に、だが僚一はもっと驚くべきことを口にした。
「李、そう恐縮してくれるな。実はな、今回の拉致だが、どうも目的は焔だけではないようなんだ」
 その言葉に全員が一斉に僚一を見やる。
「……と申されますと?」
「唐静雨が焔への未練を捨て切れずに――あるいは逆恨みの感情でか分からんが、この拉致計画を企てたことは間違いないだろう。女一人では成し遂げられない故にロンというチンピラをそそのかしたのも事実だろうが、それだけではないようだ。唐静雨は今回の企てを実行する直前に日本を訪れていたようだぞ」
 つまり、つい最近彼女が来日していたらしいというのだ。
「あの女が……ですか? ですが、我々の耳には入ってきておりませんで……」
 まさか動きを見落としてしまったのだろうかと、李はそれこそ身の縮む思いに陥ってしまった。だが、そうではなかったらしい。
「女の動きに気付かなかったとしても、それは李の落ち度ではない。唐静雨が来日した経緯には裏があってな」
「裏……ですか? それはいったいどういう……」
「まず最初にロンというチンピラが先に日本へやって来て、密かに焔の周辺を嗅ぎ回っていたようだ。情報を得がてらヤツは銀座界隈のクラブにも顔を出していたようでな、えらく羽振り良く振る舞っていたらしい」
 つまり、遊興ついでに周焔についての情報も仕入れようとしていたということか。
「焔の社は汐留にある。若くしてあれだけでかい社のトップだから、当然銀座のクラブなどにも顔馴染みであると踏んだのだろう。一見としていくつかの店を回っていたようだが、そこで或るホステスと知り合い、意気投合したようでな。そのホステスというのが我が愚息の遼二にしつこく色目を使っていたサリーという女だったんだ」
 これには李よりも紫月の方が驚かされる羽目となった。
「サリーって……遼に再三後見を頼んできてたっていう……あのサリーですか?」
「そうだ。まったく厄介な縁というか、負の歯車が噛み合わさっちまったらしい。焔と遼二が親友であると知ったことから、ヤツらは互いの目的の為に手を組むことにしたと思われる。米国でロンからの情報を待っていた唐静雨に、サリーの名で偽旅券を作り、日本に呼び寄せて合流。今回の拉致計画を練ったってところだろう」



Guys 9love

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