極道恋事情

12 極道の姐2



◆21
「まさか、そんな……! っていうことは……今回の拉致にはサリーも絡んでるってわけですか!?」
「おそらくは。サリーの足取りの裏を取る為に、彼女が務めている銀座のクラブ・ジュエラ――つまりは君江の店だが――、ここ数日サリーが店に出ているかどうかを確認したところ、案の定欠勤しているとのことだった。まあ、サリーは近い内にジュエラを辞めて自分の店を持つつもりだったわけだから、君江にしてみれば最後の有給休暇という認識でいたようだ。同僚ホステスの話によると、海外旅行に出掛けると聞いていたそうだ。以上のことから、ほぼ間違いなくサリーと唐静雨は今現在一緒にいると推測できる」
「ってことは……目的は遼と……」
「白龍の両方っていうことなんですね?」
 紫月と冰の声が重なる。
「おそらく間違いないだろう。焔と遼二が一緒に採掘場に出掛けるこの機会に拉致していることからも、そう考えるのが妥当だ。採掘場が比較的マカオに近かったというのもあるし、拉致の実行犯に現地の民族を引きずり込めば、当局に通報される危険性も薄い。わずかばかりの金を握らせて丸め込むのは容易かったんだろう。ヤツらにとっては都合のいいことが重なったというわけだ」
 まさに負の歯車が上手いこと噛み合わさってしまったという他ない。
「けど、あの二人を拉致して女たちの目的は何なんでしょう? サリーは遼を脅迫して後見に『うん』と言わせるつもりなのかも知れませんが、唐静雨って女の方は氷川に復讐でもするつもりなのか? それともまだ恋人になる望みを捨ててないとか……」
「そこまではさすがに計りかねるが、それを知る為にもとにかくは現状を把握する必要がある。俺が潜入して盗聴器とサーモグラフィーを仕掛けてくるから、中の様子を見て救出の手立てを練ることにしよう。上手いこと監禁されている位置に近付けるようなら監視カメラも仕掛けられる。源さん、念の為その三つを用意してくれ」
「かしこまりました!」
 僚一が早速に源次郎から機器を預かると、すかさず紫月と冰も一緒に行くと申し出た。
「お前さんらの気持ちは分かるが、ここは俺が単独で行った方が気付かれにくいだろう。もしも猶予のならない事態に陥っているようであれば連絡を入れるから、その時は応援に来てくれ」
 仮に暴行などを受けていて怪我を負わされているなどの状況が確認された場合は、即刻踏み込もうというわけだ。
「親父っさん……」
「大丈夫だ。俺も機器を仕掛けたらすぐに戻る。ロンという男は助っ人として他にも数人の男たちを従えているようだからな。それが何人なのかも分からんし、誰一人逃さず一網打尽にするには焦りは禁物だ。お前たちは心配せずに、どんな状況になっても即座に動けるように待機しているんだ」
 僚一が紫月と冰の肩を抱いてそう言う。
「分かりました。ではよろしく頼みます」
「ああ、任せろ」
 そうして僚一が向かいのホテルへと潜入するのを逸る気持ちで見送ったのだった。



◆22
 ほどなくして機器を仕掛け終えた彼が戻って来ると、内部の様子も徐々に明らかとなってきた。時を同じくして張敏の知り合いだというここいら一帯を仕切るボスの男が、ロンという男と会った際の防犯カメラ映像を持ってやって来た。
「これがロンか……」
「一緒にいる女性は……やはり唐静雨さんのようですね」
 紫月と冰が映像に被り付きで目を凝らす。
「映っているのは二人だけだな。サリーの姿は見当たらねえ」
 ということは、ボスの男のところに挨拶に来たのはロンと唐静雨の二人だけだったのだろう。
「ついでにホテルの見取り図が載っているパンフレットが見つかったんで持って来たぜ。創業当時のかなり古いもんだが、何かの役に立つかと思ってよ」
 ボスの男が気をきかせて探し出してくれたのだ。皆にとっては有り難いことこの上なかった。
 彼に礼を述べてパンフレットの見取り図と周らのGPSが示す位置を重ね合わせていく。それによると、周と鐘崎は廊下を挟んだ対面の客室に離れ離れで捕らわれているらしいことが分かってきた。
「別々の部屋か……。兄貴の風さんは氷川と一緒のようだな」
 しばらくすると、階下から誰かが登ってくると思われる足音がして、ドアが開かれた気配が盗聴器から聞こえてきたのに、一気に緊張が走った。
「感度は問題ありません! 息遣いから衣擦れの音まではっきり拾えています」
 源次郎のその言葉で皆一斉に耳をこらす。すると、まずは男の声で『チッ、いつまで寝てやがる! いい加減起きねえか!』という言葉が聞こえてきた。言語は英語だ。
「こいつがロンか……?」
「起きろと言っていますね。ということは、白龍たちはまだ催眠剤が切れていないということでしょうか……」
 そうであれば、今のところ暴行などといった目には遭っていない可能性が高い。紫月と冰の表情にもわずか安堵の色が浮かぶ。
 僚一が仕掛けてきた機器類は盗聴器とサーモグラフィー、そして監視カメラも一応は取り付けてきたものの、さすがに三人が監禁されている部屋までは辿り着けなかったようである。それでもホテルロビーが見渡せる吹き抜けの天井部分に監視カメラを設置できたので、犯人の人数などはおおよその見当がつきそうだ。とにかくは盗聴器の音から三人の様子を探るのが先決といえた。
 皆で耳をこらしていると、突如ドカッという鈍い音と共に何かがミシミシと軋むような感覚が窺えた。部屋の梁か何かを蹴り上げたような音だ。続いてロンと思われる男の怒号が室内にこだましたと思ったら、聴き慣れた声音が割合冷静な感じで続いたのに一同はハッと目を見合わせた。
『起きやがれ! このクズ共がッ!』
『そう騒ぐな。耳に響く』
 まぎれもない、周の声だ。それを聞くと同時に、冰が誰よりも身を乗り出して集音器の前で息をひそめた。



◆23
『何だ、気付いてやがったってか? 狸寝入りなんぞ、しゃらくせえことしやがって!』
 どうやら部屋に入って来たのは男が一人のようである。女の声は聞こえないことから、まずは様子見に男が一人でやって来たと思われる。
『てめえはいったい誰だ。何の目的で俺たちをこんなところに連れて来た』
 周が訊いている。声の調子からして、落ち着いているし、息も上がっていない。やはりまだ怪我などは負わされていないようだ。
『目的なんぞすぐに分かるさ。しっかし……お前らも案外チョロいのな? 香港を仕切ってるマフィアのファミリーだなんていうから、ちっとは骨のあるヤツらかと思ってたら! 警戒して損しちまったぜ!』
 男が鼻で笑っている。だが、次に返された周の言葉でその顔色は一転したようだった。
『は、情けねえ。こんなふうに簀巻きにして人を縛り上げなきゃ、堂々と話もできねえようなヤツに言われたかねえな』
 それこそ鼻で嘲笑し返す。言葉通りなら、縄か何かで身体をグルグル巻きに縛られているといったところか。
『ンだとッ! ナメてんじゃねえぞ、グォラ!』
 男が殺気だった声で怒鳴ると同時に、ドカッという嫌な音が続く。立て続けに頬を平手打ちか、拳で殴り付けるような鈍音が数発飛び込んできた。
「白龍……ッ」
 集音器の前で冰が思わず狂気のような声をあげる。周が殴られただろうことは明らかだからだ。
 少しすると、切れた唇の端から血を吐き出すような『プッ』という音がし、若干苦しげな周の声が聞こえてきた。
『だから情けねえってんだ。人形相手のサンドバックくれえしかできねえヘボ野郎が!』
 つまり、縄などで拘束でもしないと、殴り合いのひとつもできないクズだと言っているのである。
「白龍……お願い……煽らないで……!」
 殴られたくらいではへこたれない気の強さは周ならではだろうが、暴力に慣れていない冰からすれば気が気でないのだろう。ガクガクと身体を震わせながら、まるで自身が張り手を食らってでもいるかのように瞳をギュッと瞑って今にも泣き出さん勢いだ。そんな冰の肩をガッシリと抱き寄せながら、紫月は彼をなだめた。
「大丈夫だ。氷川はこんなことくれえで根を上げるようなヤワじゃねえ」
 集音器の向こうでは周とロンらしき男のやり取りが続いている。
『はん! どうとでもほざいてろ! 今に吠え面かくのはてめえらの方なんだからな!』
 男が威嚇を口にするも、周の方はまるで堪えていないようだ。それどころか、ひどく落ち着き払った様子で薄ら笑いでも浮かべているような気配が漂ってくるのが分かる。
『質問に答えろ。俺らをここへ連れて来たワケってのを聞かせてもらおうじゃねえか。こちとら理由も分からず、見ず知らずのてめえに拉致られたままじゃ寝覚めが悪くて仕方ねえ。それを訊く権利くれえはあると思うがな』
 周がそう言うと、ロンらしき男は勝ち誇ったようにニヤけた声音で冷笑してみせた。



◆24
『はん! 話に聞いた通りクソ生意気な野郎だぜ。てめえは弟の方だったな? 名前は焔だっけ? まあ、てめえに用があるのは俺じゃなく、俺の連れの方だ。今は交代で休んでいるが、あの女が起きてきたらたっぷりと相手させてやっから楽しみに待っとけ!』
 その言葉に、周が眉根を寄せたらしいことが気配で分かった。
『女だと? 俺らを拉致したのは女だってのか?』
 まるで地鳴りがするような不機嫌な声で訊く。その圧に押されたのか、男の方もわずかたじろいだようにうわずった声でこう答えた。
『……ったくよー、女ってのはどうしてこう見てくれだけで野郎に惚れる生き物なのかね? てめえらみてえな色男は、同じ男の俺からしたら反吐が出る以外の何者でもねえがな。だがまあ、寄って来る女をすべて相手にできねえほどモテるってのも、ある意味気の毒と言えなくもねえってところか。振った女に恨まれてこんな目に遭わなきゃなんねえんだから、その点は同情するぜ』
『振った女だ?』
 周の地を這うような声が更に低く尖った。
 男の言うことが事実ならば、今回の拉致を企てた犯人は女ということになる。しかも、振った女というヒントから、周の脳裏には瞬時にその存在が過ぎったようであった。
『まさか唐静雨か』
『ご名答! やっぱホントに振ったってわけか! しっかしてめえももったいねえことしでかしたもんだな? 静雨は結構イイ女だと思うがね。いったいどこが気に入らなかったんだ?』
『あの女とはどういう知り合いだ』
『静雨とはブルックリンのデリで知り合ったんだが、俺がニューヨークマフィアの一員だと知ったら、途端にイチコロになりやがってな。あの女の方から擦り寄って来やがったのさ。それまではいくら色目を使ってやっても鼻も引っ掛けなかったくせによ? 女ってのは権力にも弱い生き物なんだな』
『マフィアだと? てめえがか?』
『おうよ! てめえらも香港じゃそこそこ知れたマフィアだそうだが、格としては俺の方が上だろうが! 何てったって天下のニューヨークでマフィア張ってんだからなぁ』
『ほう? てめえがニューヨークマフィアね』
『どうだ、恐れ入ったか!』
『まあな。で、そのニューヨークマフィア様が何だってあの女に肩入れしてるってわけだ。てめえも裏の世界に片足突っ込んでいるなら、何の考えもなしで異国の同業者にちょっかい掛けるなんざバカなことはしねえだろうが。もしかあの女に入れ上げてでもいるってわけか?』
 周にしては珍しくも相手を持ち上げるような口ぶりで、えらく懐の深い態度といえるが、裏を返せばこれも男から事情を聞き出す為の手段であろう。持ち上げていい気分にさせながら、洗いざらい情報を引き出そうというのが、集音器を囲んでいる紫月らにはよくよく理解できるようだった。



◆25
 案の定、上手いこと口車に乗せられたらしい男が、訊きもしないことまでベラベラと自慢げに暴露し出したようだ。
『熱を上げてきたのは俺じゃなく静雨の方さ。前に自分を振って地獄に陥れた男が許せねえって抜かすからよ、だったら俺が一肌脱いでやろうと思ったわけだ』
『ほう? お前さんも随分とまた人の好いこったな。女の報復の片棒担いでこんな山奥の採掘場にまで出向いて拉致とはな? 節介なことを言うようだが、経費も労力も相当かかったんじゃねえのか?』
『まあ、人が好いのは生まれつきさ。だが、静雨に加担してやったのはそれだけが原因ってわけじゃねえんだ。いくら何でも俺だって女の為だけにこんだけのデケえ仕事はやらかさねえよ』
『つまり、今回の拉致は他にも何かお前さんにメリットがあったってわけか?』
『その通りよ!』
『ほう? それこそどんな理由か聞かせてもらいてえもんだな』
『ま、そこまで言うなら教えてやらねえでもねえけどな。聞いて驚くなよ! 静雨の目的は弟のてめえだが、俺の獲物は――』
 男はそこで一旦言葉をとめると、今度は兄の風の方をチラッと見やりながら憎々しげに口角を上げてみせた。
『俺の目的は……てめえだ、周風! さっきっからずっと弟の方にしゃべらせて黙ったままだが、よもや俺の顔を忘れたわけじゃあるめえな!』
 中指を立てながらニヤけ面で威嚇する。
 男の言葉に驚いたのは、周風本人はもとより、集音器の前で固唾を呑んでいた紫月に冰、隼や僚一、源次郎と李ら全員であった。
『よもや俺の顔を忘れたわけじゃあるめえな』という男の言葉に、名指しされた風本人は首を傾げてでもいるのだろうか、すぐには返答しないところをみると、心当たりがないのだろうと思えた。
 風が黙ったままでいると、男の方は更に気を逆撫でられたといったわけか、今度は風に向かって怒号を浴びせ始めた。
『その様子じゃまったく覚えがねえってツラだな! 相変わらず腹の立つ野郎だ!』
 ミシッという嫌な音は、男が風の胸ぐらか、あるいは髪でも掴んだといったところだろうか。集音器の向こうからは荒い息遣いと共に双方が睨み合うような気配が漂ってきた。
『あの時もそうだったな! そうやってスカしたツラして俺から女を取り上げやがった!』
 男の言葉にようやくと風が相槌を口にする。
『――あの時だ? いったい何のことだ』
 風の声音も周と同じくえらく落ち着いていて、動揺の気配は感じられない。会話は続いた。
『てめえは覚えちゃいねえようだが、俺は以前ニューヨークでてめえに会ってる。レキシントン通り、九十丁目のレストランだ! これだけ言っても思い出さねえか!』
『……アッパーイーストのレストランだ?』



◆26
『そうだ! 十五年前、てめえは確か留学生だとかって噂だったが、当時俺はウェイターとしてあの店で働いてたんだ! てめえは授業の帰りによくダチと連れ立って顔を出してた! あの頃から色男ぶりを発揮してやがってイケすかねえ野郎だと思っちゃいたがな!』
 そこまで言われて、風は初めてそのレストランのことだけは思い出したようである。
『ああ、あの飯屋か。確かイタリアンが美味くて雰囲気がいい店だったな』
『そうだ! あの頃……俺は親戚の家を追い出されて金が必要だった。なるべく給金が高い所と思って……あの店に勤めるのだって……品格がどうとか身なりがどうとか厳しいこと言われて、それでも精一杯自分をねじ曲げてやっと雇ってもらえたんだ! そこで俺は何度もてめえに料理や酒を運んでやった! てめえらボンボン育ちのお坊ちゃんにゃ、一ウェイターのことなんざ頭の隅にも残っちゃいねえんだろうがな!』
 男が掴んでいた風の胸ぐらを離したのか、ギシりと椅子の軋むような音がした。
『イケすかなかろうが客は客だ。てめえがただ飲んだり食ったりしてるだけなら何とも思わなかったさ。だが、あの日は違った。前々から俺が気に入ってた女を口説いてた時だ……てめえが割り込んで来て、いいカッコしやがったんだ!』
 要は女を横取りされたと言いたいらしい。風は少し考え込んでいたようだが、ようやくと思い当たったのか、『ああ』と言って薄く笑った。
『そういやそんなことがあったな。あの時のウェイターか』
『やっと思い出しやがったか!』
『ああ、思い出した。だが、俺は別に割り込んだわけじゃねえ。たまたまトイレか何かに立った時に側を通り掛かったら、女が助けを求めて俺の背に隠れた。確かそんな経緯じゃなかったか?』
 おそらくはこの男にしつこくされて困っていたのだろう。風としては逃げてきた女にただまとわりつかれたというだけだったのだが、それを逆恨みしているといったところか。
 男は『チッ!』と舌打ちをすると、更に罵倒を続けた。
『それだけじゃねえ! てめえがあの店に来るせいで、俺がカモにできると思った女は皆てめえに靡いていった! 付き合うならあんな人がいい、俺みてえなのはお呼びじゃねえと散々笑い者にされた!』
『カモにできるだと? てめえはそんな理由で女を口説いてたってのか?』
『悪ィかよ! こちとら生活掛かって必死だったんだ! 一石二鳥を狙ってどこが悪い!』
『つまり、金目当てに引っ掛けた女で色の方も楽しもうって心づもりだったということか?』
『ああ、そうだ! それなのに……女たちからはコクる前にもっと自分を磨けだのと嘲笑いされた! それもこれも全部てめえのせいだ! ちょっと金持ちでツラがいいからって、世の中の女は全部てめえのモンかよ! てめえのせいで俺は振られ続けて、挙句はあの店でストーカー野郎よばわりだ! 店もクビにさせられて露頭に迷った……。恨んでも恨み切れねえ悔しい思いをしてきたってのに、てめえは俺の顔さえ覚えちゃいねえ。いつかぶちのめしてやりてえと思っていたが、その内てめえは留学を終えて、何事もなかったように消えやがった。散々煮湯を飲まされた俺の気持ちなんか分からねえだろう!』
 つまり、完全に自分勝手な逆恨みである。風はもとより、話を聞いていた弟の周も思わず呆れさせられてしまい、すぐにはどう返答してよいやら言葉も出ずといったところだった。



◆27
『だが、俺は一度たりとお前の女にちょっかい掛けたりした覚えはねえぜ? 仮に横恋慕したというなら謝りもするが、そんなことはしちゃいねえ。それで恨まれんのは筋違いってもんじゃねえか?』
 風が正論でそう返したが、男の方は当時のことを思い出して火が点いてしまったわけか、腹立ちは募るばかりのようだった。
『……ッ、まあいい。あれからもう十年以上も経ってんだ。俺もすっかりその頃のことを忘れちゃいたが、静雨に会って思い出したってわけだ。あの女が恨んでる男がてめえの弟だと知った時の俺の気持ちといったら……てめえにゃ分からねえだろうぜ! まさに運命としか思えなかった。だから今回の企てに乗ったんだ。静雨と共にてめえら兄弟に恨みを晴らしてやろうじゃねえかってな!』
 とにかく目的は分かった。このロンという男と唐静雨の逆恨みによる復讐というわけだ。
『で、お前らは俺と弟をどうしようってんだ』
 風が訊くと、周が続けてこう訊いた。
『それもだが、俺らと一緒にいたもう一人はどうした。お前らの目的が俺たち兄弟であるなら、あいつは関係ねえはずだろうが。姿が見当たらねえが、ヤツは今どうしてる』
 周が聞きたいのは鐘崎のことである。この部屋にいないということは、彼だけ別の場所に拘束されているだろうからだ。すると、ロンからは更に驚くべきことが告げられた。
『ああ、あの野郎な。あいつは今、この対面の部屋に放り込んである。静雨と一緒に休んでる女が目覚めたら、あいつの相手はその女が好きにするだろうさ』
『女だと? 唐静雨の他にもまだ別の女が絡んでるってわけか?』
 周が訊くと、ロンは得意げにこう言った。
『お前らの周辺を調べてる最中に偶然知り合った女でな、銀座のクラブに勤めてるサリーとかいったな。こんな言い方をしたら悪いが、静雨とは比べ物にならねえくらいのめちゃくちゃイイ女だぜ? サリーの方はあの野郎に用があるらしく、今回の計画に加わりてえって言うから仲間に入れてやったんだ』
 周は思わず眉をしかめた。
 鐘崎も相当な男前であるのは確かだし、彼に言い寄ってくる女がいたとて驚きはしないが、わざわざこんな拉致計画にまで便乗したいというからには、単に好いた惚れたというだけではなさそうである。鐘崎本人からも特には女関係で憂いごとを抱えているとは聞いていなかった周は、むろんのことサリーというホステスが鐘崎にしつこく後見を迫っていることも知らなかった。
『カネのヤツも鬱陶しい厄介事を抱えてたってわけか』
 とにかくはこの拉致に関してだんだんに詳細が明らかになってきた。
『それで? もう一度訊くが、お前らは俺たちをどうしたいってわけだ』
 周が訊くと、ロンは勝ち誇ったような下卑た笑いと共に懐から物騒な物をちらつかせてみせた。



◆28
『これ、何だか分かるか? てめえらもマフィアだってんなら訊くまでもねえかも知れねえが』
 彼が懐から取り出したのは拳銃だった。
『トカレフか。そんな物騒なモンまで持ち出して、戦争でもおっ始めようってか?』
 仮にしここで周兄弟を撃ち殺したりしたものなら、香港のファミリーが黙っているわけもない。いかにロンがチンピラの下っ端といえど、一応はニューヨークマフィアを名乗る以上、海を越えた同業者同士の抗争に発展するのは目に見えている。それこそ戦争というわけだ。
 だが、ロンは余裕たっぷりに鼻で笑ってみせた。
『俺だってそうバカじゃねえ。直接手をくだすなんてことはしねえさ』
『女に殺らせようってか?』
『いいや! いかに俺でも静雨に手を汚させるつもりはねえ。これでも女に対しちゃ紳士だって自負しているからな。てめえら兄弟には相討ちでくたばってもらおうって寸法よ!』
『相討ちだ?』
 ロンの言い分に周兄弟は眉根を寄せた。
『聞くところによると、てめえら兄弟は母親が違うそうじゃねえか。兄貴は正妻の子で、弟は妾腹なんだろ?』
『それがどうした。俺たちにとっちゃ正妻も妾もねえ。二人のお袋はどちらも大事なファミリーだ』
 兄の風がきっぱりと言い切ると、ロンはまたもや鼻先で笑った。
『……はん! 金持ちってのは体裁にもカッコ付けてえ生き物なんだな? そうやって表向きは仲良さそうに振舞っちゃいるが、裏では何かと鬱憤もあるんじゃねえのか? 兄貴のてめえはいつ弟に後継を乗っ取られるかも知れねえし、弟の方は従順なフリして虎視眈々と後目を狙ってるかも知れねえぞ? てめえらがどんなに否定しようが世間一般的にはそう見られても何らおかしくはねえってことだ。そこで、てめえらにはコイツで互いを撃ち合ってもらおうと思ってな』
 今度は腰元のポケットからもう一丁別の拳銃を取り出して、二丁を兄弟の目の前へとチラつかせた。
『てめえらが撃ち合わなきゃ、対面の部屋にいる男、鐘崎とかいったか? ヤツの命はねえ。親友なんだろ? てめえら兄弟の身勝手で、何の関係もねえダチが命を落とすなんざ不本意だろうが?』
 つまり、鐘崎を人質に取って脅そうというわけだ。汚い手を考える。
『俺は本気だぜ? どうしても言うことを聞かねえってんなら、俺が直接手を下して、てめえらが撃ち合ったように見せ掛けることもできるんだ。どっちにしてもあと少しの命ってことだ。静雨が起きてくるまでは待ってやるが、それまでじっくり兄弟でこの世の名残りを惜しむんだな!』
 ロンはそう言い残すと、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべながら部屋を後にしていった。



◆29
 残された兄弟は互いを見合いながら呆れまじりの溜め息をこぼし合っていた。
『……ったく、おかしなことになっちまったな。兄貴、身体の方は何ともねえか?』
『ああ、少しばかりこの縄がキツいが、どうってことはねえ。それより焔、もしもあの男が言ったように俺たちが撃ち合いをしなきゃならねえ事態に追い込まれた時のことをどうするかだ。目の前で遼二を人質に取られれば、最悪は本当にヤツが遼二を殺らねえとも限らん』
『……そうだな……。上手いこと相討ちしたように見せ掛けるくらいはしなきゃならねえかもだ』
『急所を外して撃ち合ったとして、ヤツらは俺たちが本当にくたばったかどうかの確認くらいはするだろうからな。痛みを堪えて死んだフリをするのは正直骨が折れるぞ』
『確かに。なあ、兄貴。撃ち合いをさせるつもりなら、その前にこの縄は解かれるはずだよな?』
『おそらくは』
『反撃に出るならその時が勝負じゃねえか? 縄を解かれたと同時にねじ伏せる。むろん、カネが人質に取られているわけだから、相手はロンの他にも何人か仲間が付いてくるだろうが、タイミングさえ測れれば、俺と兄貴でヤツらを狩ることは可能だと思うんだが』
『撃ち合いを避けるならそれしか方法がねえだろうな。お前の言うようにロンには他に数人の仲間がいるようだしな。さっきっから階下で歩き回るような足音も聞こえている』
『まあ、今頃は李や源次郎さんたちも俺らが消えたことに気付いているだろうが、今の状況をどこまで掴んでくれているか分からんしな』
『GPSを追い掛けてくれていれば有り難いんだが……』
 李も源次郎もこの道のプロであるし、非常事態を察してからの行動には信頼がおけると思うものの、こちらからの通信手段が絶たれている現状では、彼らが気が付いて行方を追ってくれていることを祈るしかない。
『とにかくあまり悠長にしてはいられねえということだけは確かだ。食事も丸一日摂っていねえわけだし、ヤツらをねじ伏せるにしても体力勝負になる。瞬発力と判断力が鈍らねえ内にカタをつけなきゃならん』
 兄の風の言葉に周も覚悟のある表情でうなずいた。



◇    ◇    ◇



 一方、集音器の前で一連の会話を聞き入っていた紫月らの方でも、具体的な救出方法を思い巡らせていた。
「二人が言ってるようにあまり悠長にはしていられねえな。女たちが起きてくるまでに何とか乗り込むしかねえ。親父っさん、俺らが向かいの建物へ潜入することはできそうですか?」
 紫月は鐘崎の父親の僚一に、敵地の様子を詳しく尋ねた。
「先程、機器を仕掛けに行った時の様子だと、敷地内に入り込むのは割合容易いと見えた。建物内にはロンの他に男が五、六人は確認できたが、ヤツらは皆、ホテルロビーに固まっている様子だった。飲み食いをしていたところをみると、女が起きてくるまでは手持ち無沙汰といったところだろう。ただ、部屋数は多いから、他にも仮眠などを取っている仲間がもう数人いるかも知れん」



◆30
「ってことは、ロビーを避けて裏口からなら中へ忍び込めそうですか? 遼たちが捕われてるのはニ階の客室ですから、何とかそこまで見つからずに辿り着けるといいんですが」
「こんな場所だ。誰かに見つかる心配はないと踏んでいるのか、特に見張りのような者はいない様子だった。あの建物は三階建てだから、潜入するなら屋上からが良さそうだ」
「分かりました。じゃあ裏口へ回って敷地内へ入り、この裏階段から屋上へ上がれそうですね?」
 紫月が見取り図を広げながら僚一に向かって潜入ルートを確認する。
「そうだな。まずは三人が縛られている縄を解くことと、女たちが休んでいるところを拘束して時間を稼ぎたい。サーモグラフィーからすると、女たちがいるのは三階の端にあるスイートルームだと思われる。男連中は皆ロビーに固まっているようだから、屋上からなら物音に気付かれにくいだろう。潜入メンバーはあまり多くても感付かれる。とりあえず俺と紫月と源さんでいこう。俺が先導する。李と冰はここで引き続き中の音を拾ってくれ」
 僚一の手順に皆がうなずく。
「では俺たちは何かあった場合にすぐに援護できるよう敷地の周囲で待機するとしよう。突入第ニ陣の手配は任せてくれ」
 隼の方でそちらを万端にしてくれることとなり、一同は救出に向けて装備品などの準備に取り掛かった。
「紫月、銃を撃ったことはあるな?」
「え……あ、はい! 前に遼とハワイに行った時に射撃場で。実戦経験はないっスけど……」
「構わん。お前の援護は極力俺がするが、万が一の時に扱い方が分かっていれば安心だというだけだ」
「はい、すいません。なるべく親父っさんの足手まといにならないようにがんばります!」
「よし、頼んだぞ。防弾ベストもしっかり装着して行け」
「はい!」
 と、その時だ。三人が潜入準備を進める中、李が慌てた声を上げた。
「お待ちください! どうやら女たちが起き出したようです。サーモグラフィーに動きが見て取れます」
「くそ……ッ、もう起き出したか。いよいよ猶予はねえぞ」
 焦燥感が走る中、冰が皆を引き止めた。
「あの……俺に考えがあります! 聞いていただけませんか?」
 冰は皆に向かって自らの作戦を打ち明けた。
「ちょっと思い切ったやり方かも知れませんが、正面玄関から直接行くのは如何でしょう。もちろん俺が行きます」
「正面からだと?」
 僚一はもとより隼も皆もさすがに眉根を寄せさせられてしまう。
「唐静雨さんは俺の顔を知っています。俺が白龍の恋人だっていうことも。ですからこういうのは如何でしょう。マカオでの一件の後、俺も唐静雨さん同様、白龍に振られたということにして仲間に加えて欲しいと申し出るんです」
 突拍子もない冰の意見に皆は驚きに瞳を見開いてしまった。



◆31
「振られたことにして……って、冰君、もしかしてまた芝居を打つつもりなのか?」
 紫月が訊くと、冰はそうだと言ってうなずいた。
「あれからもうだいぶ時が経っています。その間に俺も白龍に愛想を尽かされて振られてしまったと言うんです。彼を恨んでいるので是非とも仲間に入れて欲しいと訴えて、白龍たちのいる部屋まで辿り着ければと思います」
「なるほど――。唐静雨の同情心をくすぐろうというわけか――。だが、今回の計画を冰がどうやって知ったのかというところは突っ込まれるだろう。その言い訳は何とするつもりだ?」
 隼が訊く。
「はい、それについては――実は俺も裏組織の人間で、香港とは別の国のマフィアだと打ち明けるのはどうでしょう。例えばここマカオのマフィアでもいいですし、ロシアとかシシリーなど何処でもいいんですが、そういった組織の上層部の人間だということにするんです。白龍とは裏社会の繋がりで知り合って恋人になったけれど、少し交際したら彼に飽きられて一方的に振られてしまった。俺はそれを恨んでいて、唐静雨さんと同じく報復の機会を狙っていたら、ひょんなことから今回の彼女たちの企てを知った――とするんです」
 同じマフィア同士ならば、様々な情報が入手できたとしても怪しまれづらい。そうして唐静雨の心を揺さぶり、同志として受け入れてもらえればというのだ。上手くすれば彼女と二人で一緒に復讐しようという流れに持っていけるかも知れない。そうすれば周らが捕らわれている部屋に潜入することも可能だろうと冰は言った。
「……なるほど。作戦としては一理あるが、果たして唐静雨が信じるかが問題だな」
「それに――冰が一人で乗り込むのは危険が過ぎる」
 僚一と隼がためらう横で、李が口を挟んだ。
「でしたら――冰さんのお付きとして私と、他にも数人が同行するというのは如何でしょう。冰さんはマフィア上層部の方ということなら、側近が付いていてもおかしくはないといえます」
 確かにそうだ。冰一人では危険だが、武術に長けた者数人が側に付いていれば安心といえるだろうか――。
「――うむ。これは俺たちが危惧するまでもないと思うが、冰。それを実行するとなると、これまで以上に演技力との勝負になるぞ? お前はマフィアの上層部だ、威風堂々とした図々しい雰囲気を醸し出さなければならん」
 隼はこれまでも冰の咄嗟の演技力の巧技を目の当たりにしている。その実力は充分に認めているものの、この人の好い青年が普段とは百八十度逆のふてぶてしい悪人を演じきれるかどうかが心配な様子だった。
「お父様、頼りないとは重々自覚しておりますが、何としても彼を助けたいんです! 演り切ってみせます!」
 覚悟のある瞳がキラキラと意思の強さを讃えている。
「――分かった。では僚一たちの潜入と合わせて冰の作戦でいってみよう」
 隼が了承すると、僚一が実践に向けて早速に手順を練り始めた。
「では、俺と紫月は予定通り裏手から潜入するとしよう。冰が表で連中を引き付けてくれている間なら潜入もしやすくなる。念の為、源さんは冰の側近として表から同行してくれ」
「かしこまりました!」



◆32
「では、冰に付いて行くのは私の側近たちの中から特に体術に優れた者を出そう。李は私と共にここに残って引き続き通信機器からの傍受と、それを冰らに伝えることに専念してくれ」
 隼がそう言うので、李は引き続きこの場での作業に徹することとなった。敵味方全員の位置や刻々と変わる状況をいち早く察知して、それぞれの現場へ的確な指示を出す重要な役目でもある。李は確実に任務を遂行すべく、より一層気を引き締めるのだった。
 一方、冰は異国マフィアに扮する為、フォーマルなスーツへの着替えに取り掛かる。今回の旅ではカジュアルな服装を多く持参して来たのだが、道路開発の完成祝いの宴用にと改まった礼装も用意してきて正解だった。
「それからお父様、もしも可能でしたら、さっき白龍が言っていたトカレフという拳銃を改造したものなどは用意できますでしょうか?」
 着替えながら冰が訊く。
「――トカレフ自体は用意できるが、改造というと?」
「実弾の代わりに血糊が飛び出すようなオモチャの銃……なんてありませんよね……」
 冰は自分で言っておいて、そんな都合のいいものがあるわけもないと申し訳なさそうな顔をする。ところが、意外なことにその答えは張敏からもたらされた。
「着弾と同時に血糊が噴き出すモデルガンだったら俺が用意できるぞ。発射音もよほどのプロでなければ見分けがつかない代物だ」
「張さん! 本当ですかッ!?」
「ああ。実は脅し……というと言葉が悪いが、ハッタリをかます目的でそういった類のモデルガンなどを少しばかり所持していてね。ただし、型はトカレフではないんだが……それでもいいかい?」
「構いません! そこは何とか上手くごまかせるよう考えます」
「そうか。お役に立てれば何よりだよ」
 張はタジタジと頭を掻きながら苦笑したが、冰らに出会う以前は確かに後ろ暗いことにも手を染めていた張ならではの用意だったのだろう。特に隼の前では昔の悪どい手腕を知られるのが気まずいといった調子であったが、今更隠したところで仕方がない。とにかく今は役に立つなら包み隠さず提供したいという張の思いに、隼も素直に礼を述べたのだった。
「ではすぐに部下に言って届けさせよう。だが、そんな物をどうするつもりなんだい?」
 張が目を丸くしながら冰に訊いている。
「ええ、もしも俺が白龍を撃てと言われた場合に最終手段として使えると思うのと、さっきロンという人が言っていたように白龍とお兄様がどうあっても撃ち合いをさせられる状況になったら、二人にその銃を持たせて撃ち合ってもらおうかと思っています。ロンが用意した本物の拳銃とモデルガンをすり替えるのは俺が上手くやりますので」



◆33
 確かにディーラーの技でカードゲームなどを自在に操れる冰ならば、敵の目を欺いて銃をすり替えることは可能かも知れない。だが、実弾入りの銃が目の前にある状況下では危険なことに変わりはない。冰の覚悟や腕前には信頼がおけるものの、隼としては実の息子同然の彼をそのような危険な目に追い込むことを心苦しく思うと同時に、心底心配しているようだった。

「冰――」

 隼は両手を広げて冰を懐の中に抱き締めると、自らの指輪を外して差し出した。大きな琥珀の石がはまった立派な指輪だ。
「これをはめて行け。焔がお前さんの演技を見抜けないということはないとは思うが、万が一の為だ。今回、お前さんは焔に愛想を尽かされて恨みに思っているという演技をしなければならん。焔が言葉通りに受け取るとは思えんが、この指輪を見れば、何も言わずとも焔にも風にも真意が伝わる」
 周兄弟が幼い頃からずっと目にしてきた父の象徴ともいえる大切な指輪を冰に託そうというのだ。
「お父様、ありがとうございます……! このような大事なものを……」
「お前は風と焔同様、かけがえのない俺の大切な息子だ。この指輪はきっとお前を守ってくれるだろう」
「はい……はい! 必ず白龍とお兄様、そして鐘崎さんと一緒にお父様の元へ戻ります!」
「うむ、頼んだぞ」
「はい!」
 張の部下からもモデルガンが届き、冰、そして僚一と紫月らの準備が整うと、いよいよ敵陣に向けて出発することとなった。冰の案内役として、張と張の知人であるスラム街を仕切るボスの男も付き添ってくれるという。
「ロンは俺のガキの頃からの馴染みだ。俺がいればヤツもそう警戒せずにすんなりと中に入れてくれるはずだ」
「ありがとうございます! 皆さんのご助力に感謝致します」
 深々と頭を下げた冰に、張とボスの男も力になれて嬉しいという表情でうなずいた。
「あんたはここマカオのマフィアということにしといてくれ。ロンのヤツは長年米国に行ったきりだったんで、マカオの裏社会のことには疎い。あんたの顔を知らなくても怪しまれんだろうからな」
 ボスの男の提案で、冰はマカオのマフィアの一員ということで通すことに決まった。冰と彼が顔見知りでも、地元マカオの繋がりならば怪しまれにくいからだ。
「時間はないが、冰。弾込めと撃ち方を教えておく」
 隼がモデルガンを手に取って一通りの扱い方を手解きする。
「お父様、ありがとうございます!」
 ただ、実のところ冰は銃を目にするのが初めてというわけではなかった。育ての親だった黄老人はディーラーをしながら裏社会にも顔が利く人物だった為、銃の扱い方なども一通り教えてくれていたからだ。試し撃ちなどの経験もあったから、扱い方自体は分かるものの、むろん実戦で撃ち合ったことなどはないので、隼からの教示に真剣に耳を傾けておさらいをする冰であった。



◆34
「弾は実弾と違って血糊が噴き出すように細工されている。なるべくならば敵の目の前で弾丸を見せないようにした方が賢明だ」
「承知しました」
 隼が一通り仕様を確認した後、銃が冰へと手渡される。
「では早速出向くとしよう。もしも中の様子に動きがあったらすぐに通信機で知らせてくれ」
 僚一を先頭にして一同はロンらのいるホテル跡地へと向かったのだった。



◇    ◇    ◇



 まずは正面玄関からボスの男がロンを呼び出す。その間に僚一と紫月は密かに裏手へと回り、予定通り屋上から潜入することとなった。
「皆さん、演技とはいえ、これから先は皆さんに対しても高飛車な態度をとってしまいますが、どうかお許しくださいね」
 律儀にも冰がそんなことを言うので、張もボスの男も微笑ましげにして彼を見つめる。
「兄さん、お若いのに感心なことだな。あんたはマフィアのお偉いさんなんだからな。遠慮なく堂々としててくれ。俺たちを顎で使うくらいの気持ちで構わんぞ」
 ボスの男はそう言って笑ったが、内心ではこんなに人の好さそうな青年にロンらを騙す演技ができるのかと心配させられてしまうほどだった。もしも見破られそうになったら手助けをしてやらなければと思っていたのだが、ホテルの玄関が近付くにつれて冰の顔付きも発するオーラもみるみると変わっていく様子に驚かされることとなる。門を叩く頃には、すっかりふてぶてしく変わった冰の雰囲気に唖然とさせられたほどだった。
 そうしてボスの男がロンに渡りをつけると、ほどなくして唐静雨も姿を現した。いよいよここからが冰の勝負どころである。片手をポケットへと突っ込んだ不敵な態度で冰は唐静雨の前に立った。
「唐静雨さん、久しぶりだな。俺を覚えているか?」
 ふてぶてしい薄ら笑いと共にそう言うと、彼女の方は驚いたように冰を見つめた。むろんのこと、唐静雨にとっては忘れるわけもない憎きライバルの顔だ。何故こんなところに彼がいるのかと、相当に驚いた様子だった。
「あなた……焔の……! まさか……」
 もう企てがバレて、冰が側近たちを伴って助けにやって来たのかと思ったようだった。
 そこですかさずボスの男がロンと静雨に冰を紹介する。
「この御方はマカオを仕切るマフィアの幹部であられる。お若いが、組織の中でも重鎮だ。此度この御方がお前さんらに加勢したいとおっしゃるんでお連れした」
「マカオのマフィアですって? 何の冗談かしら? あなた、焔とは祝言を挙げたんじゃなくて?」
 静雨が警戒心をあらわにしながら棘のある言葉を浴びせ掛ける。冰は薄く苦笑しながら、普段からは想像もつかないような下卑た台詞で受けて立った。



◆35
「祝言……ね。俺もそのつもりだったよ。周焔は香港マフィア頭領の息子だ。うちの組織とも縁が結べれば、何かと好都合と思って付き合ってきたんだが……。ところが、あの男は俺を裏切りやがったのさ。こっちはとんだ煮湯を飲まされて散々だ!」
 静雨は更に驚きに目を剥いた。
「裏切られたですって? あなたが? 冗談でしょ?」
 周が唯一無二と言い切ったほどの相手だ。この世の誰よりも愛していると自身の耳ではっきりと聞かされたことは忘れられるはずもない。当然、冰の言うことを鵜呑みになどできるはずもなかった。
 だが、冰は更に追い討ちを掛けるかのように下卑た台詞を並べ立てていく。
「あんたも覚えてるだろ? 俺があんたの為に稼ぎ出してやった横領金の五千万。あの時カジノで勝ち取った金ってのは、実はあれだけじゃなかったんだ」
「……どういうこと?」
「あの五千万はほんの一部で、実際にはあの何百倍って大金が手に入ってた。それを目の当たりにしてあの男は金に目が眩んだんだろ? あの後すぐに全額持ち逃げしやがったのよ。俺のこともあっさり捨てて、何度連絡をしようが繋がりゃしねえ! 聞くところによると、今は新しい女を作って悠々自適の左団扇だそうだ。……ったく、ふざけやがって!」
 憎々しげに冰が言い捨てると、静雨はようやく耳を傾ける気になったのか、未だ少し怪訝そうにしながらも戸惑う様子が見て取れた。
「……じゃあ、あなたが焔に捨てられたっていうのは本当なの?」
「……ッ、そういうことになるんだろ! あの野郎、俺を愛してるとか抜かしながら、まんまと金を横取りしやがったんだ! マカオだけじゃなく、方々の国で稼いでやったってのによ! 上手くすりゃ小さな国が買えるほどの大金だったんだぞ! それを全部掻っ攫いやがった……! 恨んだって恨み切れやしねえ!」
 まるで地団駄を踏むように、ともすれば歯軋りせん勢いで苛立ちをあらわにする様子を見て、静雨は次第に信じ始めたようだった。
「……そう……あなた、捨てられたの。こんな言い方したら悪いけれど、アタシもあの焔が男を恋人にするなんて信じられなかったのよね。新しい女に乗り換えたってことは……やっぱりあなた、彼に遊ばれただけだったのね」
 ある意味えげつない言い方ではあるが、まるで気の毒にといったふうに眉をひそめている。
「ふん! ただ遊ばれただけならまだしもだがな。俺が許せねえのは……あの男の目的が最初から俺の賭け事の腕前だけだったってことよ! 俺に稼がせるだけ稼がして、結局は女を作ってトンズラだと? 俺はな……あの野郎の口車に乗せられて、都合のいいカモにさせられてた自分自身にも腹が立って仕方ねんだ……。ったく! 考えただけでも腑煮えくり返る……ッ!」
 ガッと側にあったソファを蹴り飛ばして、額には目に見えるほどの青筋を立てて怒りをあわわにする。その迫力には静雨はもとより周囲にいたロンや他の男たちも一瞬尻込みするほどで、彼が本気で腹を立てている様子に恐怖さえ感じるわけか、誰もが苦虫を噛み潰したような表情でいた。
「……そうだったの……。まさかあなたがそんな目に遭っていたなんてね」
 静雨の中では、冰の境遇と自身の惨めさが重なり合ったというわけか、すっかり同情の境地に入り掛かっているようだった。
 そんな二人のやり取りを窺っていたロンが、薄ら笑いと共に口を挟む。
「はは……、まあお怒りはご尤もだよな。よ、よかったじゃねえか、静雨。この御方はマカオのマフィアだっていうし、香港マフィアの周兄弟と対決させるには打ってつけじゃねえか! 二人で一緒に周焔を気の済むまで甚ぶってやりゃいいぜ。俺は兄貴の周風の方で存分に遊ばせてもらうからよ!」
 マカオの裏社会の重鎮だと紹介された冰のことを敬う気持ちがあるのか、はたまた今の怒りようを目の当たりにして自分よりも”おっかない”人物と感じたのかは定かでないが、すっかり信用して仲間に入れてくれるつもりでいるらしい。ロンもこう言っていることだしと、静雨の方も素直に了承を口にした。



◆36
「いいわ。じゃあ一緒に焔に報復してやりましょう! 今のあなたの話を聞いて、まさか焔がそこまで最低だったなんて驚いたけど……。正直なところ、アタシは例の横領金程度で済んで幸いだったのかも知れないって思ったわ。あんな男はこの世から葬ってやるのが後々の為よね! 生かしておいたらこの先もアタシやあなたのように泣きを見る人間が何人出るか分からないもの。そんな悲惨な女性たちを出さない為にも二人であの男を地獄に送ってやりましょう!」
 静雨は意気込んでそう言うと共に、気の触れたような高笑いをしてみせた。そして、満足するまで周兄弟を甚った後に彼らに銃で相討ちさせる計画を誇らしげに話して聞かせた。
「拳銃はこのロンが用意してくれているわ。これであの兄弟に撃ち合いをさせるのよ」
 やはり先程集音器で聞いた通りの手順を実行するつもりらしい。既に彼女らの計画は承知だったが、冰は薄らっとぼけて聞き返した。
「撃ち合いだ?」
「そうよ。あんな男の為にアタシたちが手を汚す必要はないもの! そうは思わない?」
「ふぅん? まあ一理あるけどな。で、拳銃ってのは? 疑うわけじゃねえが、マトモに使い物になる代物なんだろうな?」
 今度はその拳銃を見せろと顎をしゃくってみせる。撃ち合いをさせると聞かされても顔色ひとつ変えない冰の様子に、本当に周を恨んでいることが窺えるわけか、はたまたそれと同時に相当場慣れしていると感じた様子のロンが自慢げに二丁の銃を差し出してみせた。
「ほら、見てくれ! あんたもマフィアだって話だが、俺だってニューヨークじゃ名のある組織の一員だったんだ。足の付かねえ銃を手に入れるくらい朝飯前さ!」
 密かに自分の立場も大したものなのだと自慢したいのだろう。だが、冰は差し出された銃を目にするなり鼻で笑ってみせた。
「は――、トカレフかよ。悪いがそんなモンじゃ俺の気は到底収まらないね!」
 言うと同時に懐から鈍色に光るずっしりとした代物をチラつかせては舌舐めずりをしてみせた。
「ゲッ……! ま、まさかそれ……! マ、マグナム……っスか?」
 あまりの驚きにロンがひっくり返ったような声を上げた。言葉じりも敬語になっているところが笑えるが、当の本人はまったく気がついていないようだ。つまり、それほど驚いたということなのだろう。
「そ! コルトパイソン・マグナム、俺の爺さんのそのまた爺さんだっけかな。とにかく代々我が家に受け継がれている愛用の銃さ。撃ち合いなんてチンケなことはさせやしねえ。こちとら捨てられただけじゃねんだ! 莫大な金まで持ち逃げされたんだぞ! 周焔から全額取り返して、俺がこの手で仕留めなきゃ腹の虫が収まらねえ!」
 ガゴッという独特な音と共に撃鉄をチラつかせ、ギラギラと剣を伴った瞳を瞬かせる。そんな様子に更に尻込んだのか、ロンも静雨も冰のただ者ではない雰囲気に冷や汗を伴ったような苦笑を浮かべている。そして、それは張やボスの男らにとっても同様だったようだ。



◆37
(おい、張……。奴さん、いったい何者なんだ? さっきまでの従順そうな若者とはまるで別人じゃねえか。ホントはめちゃくちゃヤバい野郎なんじゃねえのか?)
 ボスの男がヒソヒソと張に耳打ちする。
(はは……確かに。ある意味、雪吹君はヤバいヤツだと言えるだろうな)
 張自身、冰の演技にはまんまと騙された経験者である。彼の風貌からは想像もできない大胆な演技を苦もなくサラリと演りきってしまうあたりは、確かに”ヤバい”と例えざるを得ない。
 張としてもずっと以前から冰を知っているというわけではないが、これまで付き合ってきた限りでは、大層頭がキレて、尚且つ性質は穏やかでやさしい青年だという印象しかないわけだ。だが、今の彼の様子を見ていると、どこまでが本当の彼でどこからが演技なのかが分からなくなりそうな気にさせられてしまう。ただひとつ言えることは、張も絶大な信頼をおく香港マフィア頭領の周隼が実の息子同様と言い切ったほどである。おそらく本当の冰は張が思っているままの穏やかで人のいい青年なのだろう。それを証拠に言葉使いひとつをとっても張の知っている彼とは別人であることから、明らかに今の状態は演技なのだろう。愛する周焔を助ける為とはいえ、本来の自分とは真逆の悪人面になりきっているのである。まさに命がけの大勝負といえる。
(さっき雪吹君自身も言っていただろう? 俺たちに対しても高飛車な態度を取ってしまうがすまないと)
(ああ、確かにな。こんなことを言っちゃ悪いが、俺としてはあんな気の弱そうな若い男にロンたちを騙すことができるのかって心配だったんだが、余計な節介だったようだな。いや、驚いた……! 実に大したもんだ)
 ボスの男がしきじきと関心しまくっている。
(驚くのはまだ早い。雪吹君のことだ。これからもっと俺たちを仰天させるような手腕を披露してくれるかも知れんぞ)
 男の身でマフィアのファミリーに嫁ぎ、亭主を支える姐の覚悟がひしひしと伝わってくるようだ。華奢な肢体を存分に大きく見せるように振る舞って、精一杯自分を奮い立たせているのだろう。張は大勝負に挑む冰の姿を目の当たりにしながら、あっぱれとも哀れともつかない言いようのない気持ちがこみ上げてならなかった。
(まあ、滅多にない機会だ。おおよそお目に掛かれない周一族の姐さんの手腕をお前さんもよく目に焼き付けておくといい)
 そう言って苦笑しながらも、内心で冰の底知れぬオーラにゾクゾクと背筋を伝う例えようのない感嘆の思いが湧き上がるのを感じたのだった。
 側ではいよいよ冰が周との対面を果たすべく追い討ちに掛かっていく。
「じゃ、そろそろ周焔のツラを拝ませてもらおうか。言っておくが、ただ殺っちまうなんて甘っちょろいことはしねえからな! まずはあの野郎が巻き上げてくれた俺の金を返してもらうのが何より先だ。それまであんたらはぜってえ手出すなよ?」
 大金を盾にしながら、周本人の身の安全を確実に約束させるあたりは実に巧妙といえる。案の定、ロンも素直に聞き入れるそぶりを見せている。



◆38
「へえ、へえ、そりゃもう! 兄さんが気の済むようになさってくれて構いませんぜ! まあ、俺も周風のヤツを一、二発撫でてやるくらいはさしてもらえればと思いますけど……」
 ロンがすっかり下手にまわっている。この短い間に冰のオーラに飲み込まれてしまったということなのか。冰自身はそんな扱いも当然といったふうに満足そうな笑みを浮かべている。
「なに――、上手く金が戻ってくれば、心ばかりだがアンタらにも礼金を弾んでやるさ。何てったって周焔を狩れるこんないい機会に便乗させてもらえるんだからな?」
 期待していいぞとばかりに冰は笑った。
「お、おお! ホントですかッ!? 兄さん、さすが違いますね! 話が分かっていらっしゃる!」
 金をもらえると聞いて、ロンは最高潮に上機嫌だ。静雨にしても横領金の一件以来、金に苦労していたのは事実なのだろう。少しでも潤うと思うと彼女の表情にも安堵の色が浮かぶ。二人共に完璧に冰に丸め込まれたといった様子だった。
「あの兄弟の部屋は二階ですぜ! 案内しますんで、どうぞこちらへ」
「ああ。楽しみだ――」
 堂々とした態度を醸し出しながらうなずくかたわら、いよいよ周との対面の時に一層気を引き締める冰であった。

 一方、裏口からの別ルートで潜入に挑んでいた紫月と僚一も、冰らが表から敵を釘付けにしてくれているお陰で、容易く建物内へと潜り込めていた。
「女たちは既に休んでいたスイートルームを出たようだな。唐静雨は一階のロビーで冰の相手をしているが、サリーの方は見当たらんな」
「じゃあ、彼女は先に遼の捕らえられている部屋へ向かったということでしょうか?」
「そのようだ。化粧道具が散らばっている。シャワーも使われているところをみると、ロンっていうヤツはここへ滞在することを見込んで事前に少しライフラインを復活させていたんだろう」
「案外綿密に今回の計画を練ってたってことですね」
「そのようだ。サリーと静雨は先に来てここで数日過ごしたのかも知れん」
 十年以上も廃墟になっていたにしては小綺麗な室内の様子を見渡しながら、僚一が彼女らの足取りを推測していく。
「ここはサリーの使っていた部屋に違いない。持ち物の中にあの女が好んで吸っていた銘柄の煙草がある。一応めかし込んで遼二の元へ向かったようだな。俺たちも後を追うぞ」
「はい!」
 二人はサリーがいたらしいスイートルームを一通り調べてから、二階へと急ぐことにした。

 階下のロビーからは人の話し声が聞こえている。ちょうど冰がロンたちと対峙中なのだろう。時折ロンらしき男の感嘆のような声音が混じっていることから、冰の方でも上手く事が運んでいることが窺える。
「冰に何かあれば李から連絡がくるはずだ。俺たちは遼二の部屋へ回ろう」
「了解しました!」
 と、ちょうどその時だ。集音器から皆の様子を窺っていた李からの通信が届いた。



◆39
「長・鐘崎、紫月さん、上手く潜入できたようですね」
「李か。こっちは順調だ。これから遼二の部屋へ向かう」
「その遼二さんですが、つい今しがたサリーという女が単身で彼の元へ向かったようです。特に用心棒などは連れていないようなのですが、少々驚く会話が聞こえてきました」
「詳しく教えてくれ」
「どうやらサリーは遼二さんにいかがわしい薬を盛るつもりのようです」
「いかがわしい薬だと?」
「サリーの目的ですが、遼二さんの子供が欲しいということのようです。当然、普通の状態では聞き入れてもらえないと分かっているらしく、催淫剤で欲情を促して事に及ぼうと企んでいるようです」
 李からの報告に二人はギョっとしたように顔を見合わせてしまった。彼女の目的は新しくオープンするクラブの後見と踏んでいただけに、驚きもひとしおである。
「催淫剤だと? じゃあ後見ってのは二の次で、本当の目的は遼二本人ということか」
 まあ、確かに彼はいい男だし、方々からモテるのは今に始まったことではないが、それにしても子供が欲しいとはさすがに驚かざるを得ない。
 李からの状況報告が続く。
「部屋は施錠されていて銃で壊すことは可能と思われますが、ドアを塞ぐように家具類が置かれているようです。事が事だけに邪魔が入るのを懸念して、サリーが動かしたのでしょう。重さのあるだろう物を引きずる音が何度か繰り返し拾えています。残る侵入口は窓からですが、こちらは元々あった面格子の上に更に板が釘で打ち付けられていて、壊すとなるとかなりの音が出てしまいそうです」
「……そうか。李、遼二がいる真上の部屋の間取りはどうなっているか分かるか?」
 僚一が訊くと、李はお待ちくださいと言って早速に見取り図を確かめてくれた。
「真上も同じタイプの客室ですね。間取りも全く一緒です」
「分かった。では我々は天井からの侵入を試みる。ところで冰の方はどんな様子だ?」
「はい、冰さんも無事にロビーに入れています。現在はロンと唐静雨を相手に交渉中ですが、なかなかに上手く運んでいるようです。この後、ご兄弟のいらっしゃる部屋へと向かうようですので、鉢合わせないようにお気をつけください。ご兄弟と遼二さんの部屋は廊下を挟んだ真向かいですので。何か動きがあればまた連絡を入れます」
「分かった。よろしく頼む」
 李との通信を切ると、僚一と紫月は天井から様子を窺うべく真上の部屋へと急いだ。
「紫月、足音に気をつけろ。まずは靴を脱ぐんだ」
「はい!」
 二人は鐘崎がいる真上の部屋へ侵入すると、忍び足で室内を見渡して歩いた。
「ベッドはここか。子作りが目的というなら遼二が捕らわれているのはおそらくベッドだろう。俺たちは風呂場へ向かうぞ。あそこなら換気口から階下へ降りられるかも知れん」
「はい!」
 僚一が睨んだ通り換気口の蓋は割合容易に開いて、くぐもった感はあるものの鐘崎とサリーらしき女の会話が聞こえてきた。



◆40
「よし、ここを少し広げれば行けそうだ。俺は作業に掛かる。紫月は二人の会話を拾ってくれ。密かに階下へ降りて女の背後に回り、有無を言わさず捕らえるのが第一目標だ。女に勘付かれて大声を出されれば、向かいの部屋の焔たちにも危険が及ぶ」
「はい」
「だが、もしも遼二の命にかかわるような切羽詰まった状況になった時はすぐに言え。その時は強行突破する」
「承知しました!」
 鐘崎とサリーの会話を追うのは紫月に任せて、僚一は換気口を広げる作業に取り掛かった。
 室内ではサリーの勝ち誇ったような声音が、まるで独り言のように繰り返されているようだ。時折短く相槌を打っているのは鐘崎の声に間違いない。その声のトーンや息づかいから、彼が今どういった体調にあるのか、またどんな感情で喋っているのか、事細かに聞き取ろうと紫月は耳を研ぎ澄ませた。
「ふふ、遼二。気分はどう? そろそろその気になってくれたかしら?」
 女の上機嫌な声がそう言う。鐘崎の方は一向に無視を決め込んでいるのか、ひと言も発しないところからすると相槌を返さずにそっぽを向いているといったところか。
「本当に強情ねぇ。でもいつまで持つかしら? あなた、ここ一週間は山奥の採掘場でお仲間たちと共同生活だったんでしょう? 皆の目がある中じゃ、あなたの自慢の紫月を抱くこともできなかったでしょうに。あなたのような男が一週間以上も禁欲状態だなんて気の毒な話よね? 強情張っても身体は正直だわ」
 ふふふと女が嬉しそうに笑う。会話の内容から察するに、催淫剤を盛られたというのは事実らしい。女は鐘崎が欲に負けて彼女を欲するのを待っているのだ。
 少しすると、若干息の上がったような鐘崎の声が聞こえてきた。
「……ッ、下衆なことを考えやがる。だが、お前の思い通りにはさせねえぜ……。俺はお前にガキを仕込むつもりなんぞ更々ねえ。諦めるんだな」
「ふふ、何とでも言えばいいわ。あなたがどんなに望まなくても薬の力には逆らえないわよ? これ、ものすごく強力なんですもの!」
「……は、どこまで浅はかなことを考えやがる! 仮にお前の望み通りになったとして、俺がガキを産ませると思うのか?」
「あら、まさか堕ろせとでも言うつもり? あなたにそんなことができるかしら?」
 女が笑う。言葉ではどう言おうが、根はやさしい鐘崎のことだ。如何に不本意といえど、授かった子供を葬ることなど到底できないと踏んでいるのだろう。
「目的は何だ……。ついこの前までは店の後見を迫ってたと思いきや、今度はガキか。話が飛び過ぎてついて行けんな!」
 いくら後見の承諾を取り付けたいからといえ、さすがに子供を作ってまで迫る必要があろうか。
 女には何か別に本当の目的があるのかも知れない――鐘崎はそう思っていた。
「あなたがどう思おうがどうでもいいのよ。とにかくアタシはあなたの子が欲しいの! あなただってアタシと寝られるんだから損にはならないはずよ? これでも銀座では引き手数多だったんですもの!」
 有り難く思ってちょうだいとでも言いたげである。



Guys 9love

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