極道恋事情

12 極道の姐3



◆41
「俺はお前を抱くつもりはねえ……ッ!」
「そんなこと言ってられるのも今の内よ。それにね、遼二。今は子供なんかいらないと思っていても、あと数年もすればあなたも気が変わるはずよ。例えあなたがアタシを嫌っていようと子供は紛れもなくあなたの子なんですもの。あなただってずっと若いままではいられないわ。歳をとれば自分の一粒種を愛しく思う日が必ずやってくるわ」
「……ふざけたことを抜かしてんじゃねえ! 第一、てめえは愛されてもいねえ男の子供を産んで何がしたいってんだ! ガキだって不幸になるだけだぞ」
「心配には及ばないわ。アタシは何もあなたに愛してもらおうなんてこれっぽっちも思っちゃいないもの。あなたと紫月の仲を邪魔するつもりもないから安心していいわよ?」
「……だったら何が目的だ。ガキが欲しいだけなら好いた男と作りゃいいだろうが」
「アタシの目的はあなたじゃなくあなたの組の力よ。裏の世界で右に出る者はいないというほどの鐘崎組と血縁関係を作りたいだけ。それには子供ほど強力な鎹はないっていうことよ」
「要は権力が欲しいってか?」
「まあ、それだけっていうわけでもないけれどね。あなたは確かに群を抜いてイイ男だし、子供だってきっと美形に育つはずだもの。その点でもあなたは合格っていうわけ」
「……は! 呆れてモノが言えんな」
「そんなことよりそろそろ我慢も限界なんじゃなくて? さっきっから話を引き延ばして一生懸命気を逸らしているようだけど、随分と苦しそうよ? それを証拠にほら、ここ!」
 女の白い手が鐘崎のボトムに触れる。
「……ッ! 触んじゃねえ!」
 鐘崎の怒鳴り上げる切羽詰まった声が天井にいる紫月にも届いた。
「あら、早く触ってくれの間違いじゃないかしら? 何だったら口でしてあげてもいいのよ?」
 女が身体を擦り寄せる雰囲気が衣擦れの音で伝わってくる。紫月の心臓がビクりと跳ねた。
 下では二人の会話が続いている。
「……どこまでも下衆な女だな……てめえにゃプライドのかけらもねえのか! 愛してもいねえ男のモンをてめえから咥え込もうなんざ売女そのものだ」
 苦しげな鐘崎の声音が、意思とは裏腹に色を欲している様子が伝わってくる。正直なところ身体は限界なのだろう。相手が誰であろうと、すぐにも口淫、あるいは触って欲しくて堪らないと悶え苦しんでいるのが紫月には痛いほど伝わってきていた。
「ほら、強がっていないで素直になりなさいよ。アタシは上手いわよ?」
 女がジッパーを下ろさんとボトムに指を掛けたその時だ。
「……キャ……ッ!? 痛……ッ!」
 どうやら鐘崎が女の髪を噛んで引き回したらしい。
「何すんのよッ!」
「俺はこの通り手脚を拘束されているわけだからな。使えるモンといや、この口しかねえ。腹が立ったならさっさとそこを退け!」
 女にとっては自慢のロングヘアをむんずと掴み上げられたようなものだ。平手打ちされるよりもプライドを傷付けられたわけだろう、ワナワナと震え出す様子が窺えた。


◆42
「この……下衆男ッ! 最ッ低!」
「その最低男のガキを産みたがったのはてめえだぜ? ごちゃごちゃ抜かしてねえで、いいからそこを退け!」
「……ッく! こんな野獣に抱かれてる紫月ちゃんも気の毒ね! あんたなんか紫月に捨てられればいいのよ!」
「は――、お生憎様だな。てめえなんぞに心配してもらわんでも、あいつは俺の側から離れたりしねえよ」
「まあ! 随分と自信がお有りだこと! アタシだってね……好きであんたなんかの子供が欲しいわけじゃないんだから……! あんなことでもなきゃ……誰があんたなんか相手にするもんですか!」
「あんなことだと? てめえも何かワケ有りってわけか」
「……ッ、そうよ! 本当ならアタシは……好きな男と一緒になれるはずだったのよ! それなのに……」
「好きな男だ? そいつにフられでもしたってか?」
「し、失礼なこと言わないでよねッ! 誰がフられてなんかいるもんですか! 彼とはこの五年間ずっと相思相愛だったのよ! なのに……組の体裁を保つ為にあのヒトは他所の組長の娘と縁組みさせられることになって……アタシは身を引くしかなかったわ……! あんたなんかにアタシの気持ちが分かるもんですか!」
 どうやらサリーは好いていた男に捨てられたらしい。話の内容からして、付き合っていた相手の男は組関係の人間なのだろう。
「それで腹いせに同じ裏の世界の俺に目をつけたってわけか。つまり、俺は体のいい当て馬ってわけだな? 相手の男はヤクザ者か」
 勘の鋭い鐘崎には今の短いやり取りですっかり企みがバレてしまったと思ったらしい女は、言い訳も儘ならないと踏んだのか、今度は逆に開き直り始めたようだ。
「その通りよ……! あなたも名前くらいは聞いたことがあるかも知れないわ! 彼、有名な組の跡取り息子だもの」
「ほう? 正直なところ興味はねえが、乗り掛かった船だ。そいつの為にこんな目に遭わされていることだしな、名前くらい聞いてやってもいいぜ」
 鐘崎が言うと、女は素直に男の名を口にした。
「森崎組の一人息子の瑛二よ……」
 その名には聞き覚えがあったのだろう、鐘崎が『ああ』と薄く笑った様子が声音で分かった。
「森崎瑛二か。確かヤツも今は組の若頭だったな」
「そうよ……! やっぱり知ってたのね、あの人のこと」
「互いに顔を見れば会釈くれえは交わすだけの間柄だがな。ただ、名前の語呂が俺と似てるんで、方々でヤツの名を聞かされる機会が多いというだけだ」
 確かに鐘崎遼二と森崎瑛二では語呂的に近いといえる。裏社会の集まりに顔を出したりすると、決まって一度は名前が似ていると言われて、その男の話が出るので聞き覚えていたわけだ。


◆43
「瑛二はアタシが夜の銀座に入った頃からずっと応援してくれていたわ。その内にお客とホステスという間柄を越えて愛し合うようになったのよ。本当だったらホステスを引退してあの人と一緒になるはずだったのに……あの人の親に反対された……。どこの馬の骨とも知れない商売女なんかより由緒ある組のお嬢さんを娶る方がいいって言われて……アタシたちは無理矢理別れさせられたわ。どんなに悔しかったか分かる? 今時、生まれだとか家柄だとか、そんなくだらない理由で身を引かされたのよ! あの解らずやの父親さえいなければ……!」
 話す内にすっかり感情が昂ぶってしまったのか、涙まじりでサリーは唇を噛み締めているようだった。
 鐘崎の声が静かに続く。
「だが、親がどう言おうが、結局は瑛二ってヤツが判断したことなんだろうが」
 それで親を恨むのは筋違いじゃないのかと言いたげな鐘崎に、サリーは更なる悔し涙を拭った。
「そうよ……! その通りよ! 結局、瑛二はアタシよりも組長の娘を選んだのよ! だから……あの親子が逆立ちしたって敵わない鐘崎組と縁が欲しいのよ! あいつらに復讐するには鐘崎組の跡取りであるあんたの子供を産んで、見せびらかしてやるのが何よりの打撃になるはずだもの! アタシが遼二とデキてるって知ったら、あの親子はきっと悔しがるはずよ! だからお願い……一度でいいの! 子供さえ授かればあなたにも紫月にも決して迷惑は掛けないと約束するわ……。だからお願い……お願い遼二!」
 今度はすがるように鐘崎の胸へとしがみついて、涙まじりに懇願する。
「ね? あなただってもう限界でしょ? たった一度よ? ちょっとした事故だったって思えばいいわ。何なら紫月ちゃんには黙っていれば分からない。アタシも絶対に言わないわ。お願い、遼二……アタシを抱いて……!」
 あふれる涙を鐘崎の胸元に擦り付けながら、白魚のような手でシャツのボタンを外していく。自らもワンピースの胸元を開けて豊満な白い胸の谷間をさらけ出した。
「見て、遼二……。ここ、ねえ、ほら……。あなただって男なら欲しいはずよ?」
 前開きのワンピースの中に下着は着けておらず、女は鐘崎の口元へと自ら乳房を押し付けて無理矢理含ませた。それと同時に、既に存分に薬に侵された鐘崎の雄に擦り付けんと下着越しに腹上にまたがって腰を揺らす。
「……ッそ、退け……サリー! 退けと言ってる……!」
 だが、鐘崎の意思を裏切り身体は目の前の女を欲する。自然と腰が浮き、女の身体に擦り付けそうになる衝動と必死に闘っていた。
「そう、それでいいのよ。もっともっとアタシを欲しがって」
「……ッ、バカ言え……いいからそこを……退けッ!」
「ね、一度だけ。これきり二度とあなたに迷惑は掛けないから……」
 女が自ら下着に手を掛けたその時だった。突如フワりと身体が宙に浮いた感覚に、女はギョっとしたように瞳を見開いた。
「悪いがそこまでだ。サリーちゃん、アンタの好きにはさせてやれねえな」
 何とそこには鐘崎の腹の上からサリーを引き剥がして抱き上げた紫月が不敵な苦笑を携えていたのだった。


◆44
「あなた……紫月……ッ!? いったいどうやってここに……」
「ンなこたぁ、どうでもいい。俺りゃー、ただてめえの亭主の危機に駆け付けたまでだ」
 紫月は抱き上げていたサリーを下ろすと、開けたワンピースの胸元を掴んで正し、自らの上着を押し付けた。
「とにかくそれを着ろ! うら若え女が、ンな破廉恥なカッコさらしてんじゃねえ」
 サリーも正気を取り戻したわけか、慌てて受け取った上着で自らの胸元を隠した。
「話は全部聞かせてもらったぜ。あんたの気持ちも分からねえじゃねえが、バカなことはやめるんだ」
「な、何よ……。邪魔しないで!」
「そりゃ俺ン台詞だろ? 例えばあんたが遼二のことを好きで好きで仕方なくて、この世の誰よりも大事だってんならまだしもだ。ところが、他所の男への当て馬にする為だけにこんな目に遭わされたんじゃ到底黙っちゃいられねえさ。遼二は俺ン大事な、この世で唯一無二の亭主だからよ」
「そ……んなこと分かってるわよ! 銀座でもあなたたち二人のことは有名だし、アタシだって止むに止まれない事情で頼んでるんだから! 今後一切あなたたちに迷惑は掛けないわ! たった一回遼二を貸してくれるだけでいいって言ってるの! あなただって男なんだから、そのくらいどうってことないでしょ? 女みたいに嫉妬したりするわけもなし!」
 またえらく勝手な言い分である。紫月は片眉をしかめながら呆れた溜め息をもらしてしまった。
「あンなぁ、野郎だからってヤキモチ焼かねえなんて思うなよ? じゃあ反対にあんたの男を一晩でいーから俺に貸してくれっつったら、あんたは『はい、どうぞ』って貸すンかよって話!」
「バ……! バカ言わないでよ! そんなの冗談じゃないわ!」
「だろ? 俺だって同じさ。てめえの亭主をモノみてえに扱われりゃ黙ってられねえだろうが。それにな、サリー。もしもアンタがホントにこいつのガキを産んだなんてことになったとしたら――そン時は俺が引き取って育てるぜ?」
「な、何ふざけたこと言ってんのよ……」
「俺は存外大真面目さ。遼二の子供なら俺の子供も同然だ。この世で一等大事な、てめえの命と引き換えてもいいと思えるたった一人の愛する男の子供なら心血注いで育てるさ」
「な、何よ……今度は惚気?」
「ああ、思いっきり惚気だ。だが、事実でもある。俺はこいつと一心同体と思って生きてる。こいつの痛みはダイレクトに俺の痛みだ。こいつの悩みは俺の悩みであり、こいつの幸せが俺の幸せだ。逆も然りだ。俺たちはそうやって一緒に生きてる。それが俺たちの誇りだ」
 真っ直ぐに視線と視線を合わせて言い切る紫月の言葉に迷いは感じられない。惚気でも何でもない。本物の覚悟なのだ。
 サリーにもそれが伝わったのだろう。特には大声で助けを呼ぶわけでもなく、棒立ち状態のままで紫月から視線を外すこともできずにいた。


◆45
「なぁ、サリーちゃんよ。節介なことを言うようだが、こんだけの大それたことをやらかす気概があるなら、それをてめえが本当に惚れた男にぶつけるのが筋じゃねえのか? アンタの好きな森崎瑛二ってヤツに思ってることを全部さらけ出して体当たりしてみろよ! こんなところで自暴自棄ンなって他所の男と寝て、ガキをこさえたところでアンタの気持ちは晴れるのか? 晴れねえだろ?」
「……ッ」
「アンタは逃げてるだけだ。自分ごまかして、神経すり減らしてズタボロになるんなら、その労力を全部使って――そう、全身全霊込めて心底惚れてる野郎にぶつけろよ!」
「……何……よ、偉そうに……あなたにアタシの気持ちなんて分かんないわよッ……!」
 言葉では反抗しつつも、紫月が真剣に言っていることだけは本能で分かるのだ。
 本来ならば、『俺の男に何しやがる!』と、この場でねじ伏せられたとしても当然だろう。紫月はスレンダーだが体術に長けていることも知っている。鐘崎の伴侶であり姐さんと呼ばれていることからやわらかな印象を受けがちだが、道場育ちであるし、何より男性だから当然女のサリーよりも力は圧倒的に強いはずである。彼がほんの少し本気を出せば、簡単に殴られ蹴られして、今頃はすっかり気を失っていても不思議はないのだ。
 だが、紫月は怒るより先に大きな心でこちらの気持ちを汲み取ろうとしてくれている。愛する男にちょっかいを出されて、横恋慕されそうになっているというのに、詰らずに心を通わせようとしてくれている。
 様々な感情が一気にあふれ出したわけか、ワナワナと肩を震わせながらも、サリーの瞳は今にもあふれそうな大粒の涙でいっぱいになっていた。
「例え……瑛二にアタシの気持ちをぶつけたって……どうにもなりゃしないわ……! あの人はアタシよりも他の女を選んだの! だからこうするしかないのよ! 瑛二より権力も美貌も何もかもが優ってる遼二と縁を持つことでしかアタシは救われないのよ!」
 堪え切れずにボロボロとこぼれ出した涙を拭いもせずに、サリーは拳を握り締めた。
「退いて……邪魔しないで……! どうしても聞き入れてくれないっていうなら……」
 サリーはスカートを捲し上げると、ガーターに括り付けていたナイフを取り出し、震える手で切っ先を紫月へと向けた。
「退いてくれないならあなたを刺すわ……。本気よ……脅しなんかじゃないんだからッ!」
 紫月は鐘崎が捕らわれているベッドの前へと立つと、彼の身を庇うように両手を広げてみせた。
「……退いて! 退きなさいってば! 本当に刺すわよ……あなたも、それに遼二も……! 庇うフリをすればアタシが怯むと思ったら大間違いよ! 女の力だってナメないでよね……。全身で体当たりすれば……あなたに大怪我させることだってできるんだからッ……。悪くすれば死んじゃうかも知れない! それでもいいのッ!?」
 ガタガタと震えながらも精一杯吠えてみせる。だが、紫月は鐘崎の前から一歩も退こうとせずに、じっと真っ直ぐに彼女を見つめた。


◆46
「本気で刺してえと思うなら刺せばいい。俺はこの世で唯一、こいつの為なら命なんざ惜しくねえ。これは強がりでもハッタリでもねえぜ? だが、その前にもう一度よく考えろ。アンタの本当にやりてえことは俺を刺すことなのか? それとも遼二のガキを産むことか? アンタが全身全霊かけて心底望むってんなら俺も納得して刺されてやるさ」
「……う……るさい……黙って……! そんな脅しに……騙されないわよ!」
「アンタが本当にしてえことは瑛二ってヤツに気持ちをぶつけることじゃねえのか? それとも新しく持とうとしてるアンタの店を銀座一のクラブにすることか? ホントに体当たりするってんならそのどっちかだと俺は思うね」

「……ッ!」

 サリーの脳裏にたった今紫月が言ったことを実行する自分の姿が浮かぶ。プライドも何もかもかなぐり捨てて、愛する瑛二にどうして自分じゃなく他の女を選んだのかと訊く姿。はたまた瑛二のことはすっぱりと諦めて、銀座でトップを取り、たくさんの客たちに囲まれて華やかに微笑む自分の姿――。
 それらの想像が浮かべば、サリーの瞳にまたしても大粒の涙が浮かんでは滝のように流れて頬を伝った。
「無理よ……そんなの無理! アタシにはもう引き返すことなんかできないわ……。こんなことして、あなたも遼二も巻き込んで……こんな女が銀座でトップを取って輝き続けるなんてできっこない! 瑛二だってこんなアタシを知ったら、きっと軽蔑するわ! アタシができるのは……もうとことん悪になり下がるしかないのよ……ッ!」
 ナイフを握り締めたままガタガタと震えながら嗚咽する。紫月はゆっくりと彼女の気を逆撫でないように歩み寄ると、真正面まで近付いて瞳を細めてみせた。
「そんなこと言うんじゃねえ。銀座でナンバーワンを張ってるお前らしくもねえ」
「そんなの……もう昔の話よ。今のアタシは……ナンバーワンなんかじゃないし、男にも捨てられたみっともないだけの女だわ……。こんな大それたことまでして、もうあの頃に戻ることなんてできない……!」
「そんなことはねえ。アンタはまだ何もしちゃいねえ。俺を刺してもいなきゃ、遼二と寝たわけでもねえ。何ひとつ変わっちゃいねえんだ」
 ナイフを握ったサリーの手をすっぽりと両手で包み込みながら紫月は彼女を見つめた。真正面からしっかりと視線を合わせて、澄んだ瞳で語り掛ける。
「勇気を出せ、サリー。気をしっかり持って本当のアンタに戻るんだ。いつものように華やかに笑って身も心も綺麗な女に戻るんだよ。堂々と胸を張って最高の笑顔で俺たちを迎えてくれたお前はめちゃくちゃイイ女だったぜ?」
「……そ……んなの……」
「どうせならアンタが本っ当にしてえと望むことに命をかけろ。目をそらしてごまかすんじゃねえ。凛と胸を張って堂々と挑めよ! そういうアンタなら俺も遼二も精一杯応援するさ。仮に望みが叶わなかったとしても後ろめたい気持ちは残らねえ。辛くて苦しいかも知れねえが、乗り越えられた時には王道を進めるじゃねえか。そうだろ、小悪魔サリーちゃん?」
 ニカッと白い歯を見せて笑った紫月の顔を見た瞬間に、サリーの瞳からまたしても滝のような涙がこぼれ落ち、そのまま崩れるように床へとへたり込んでしまった。


◆47
「……ッう、……うっ、紫月……ッ、紫月ちゃん! アタシ……ごめんなさい! こんなことして……アタシ、本当にごめん……なさ……!」
「ん、それでいい。それでこそ俺たちの知ってるサリーだぜ!」
 共にしゃがみ込んでゆっくりと髪を撫で、紫月は懐の中に彼女を抱き寄せた。
「え……ッえん……紫月、ごめん……こんなアタシ……」
 嗚咽で言葉にならないものの、『こんなことをして本当にごめんなさい』と言っているのがよく分かった。そんな二人の様子に瞳を細めながら、いつの間にか姿を現した僚一が息子の鐘崎の縄を解いていた。
「よし、紫月。サリーのことは俺に任せろ。お前は遼二の介抱を頼む」
 穏やかにそう声を掛けられて、紫月は父を振り返った。
「親父! ああ、うん! そんじゃ後を頼む」
 自然と口をついて出た言葉にこれまでのような敬語は見当たらない。『親父さん』ではなく『親父』と呼ばれたことが、僚一にとってはとてつもなく嬉しかったに違いない。緊急事態を共に乗り越えたことで、無自覚の内にも強い絆が二人を結びつけたのだろうか。とびきりの笑顔でうなずいた父を見つめながら、紫月にとってもまた、本物の親子になれた瞬間だったのかも知れない。
 そんな父に抱き起こされながらひどく苦しそうにしている愛しい亭主の姿にホッと胸を撫でおろす。一刻も早く薬の力から解放してやらねばと立ち上がった時だった。
「紫月……! そうだわ、あなたたちの友達……! 周焔だったわね? 彼も今頃は大変な目に遭っているはずだわ……!」
 サリーが思い出したように慌てた様子でそう訴え掛けた。
「彼の方は……もしかしたら本当に殺されてしまうかも知れないッ! アタシを仲間にしてくれた唐静雨っていう女性と、彼女の連れの男がそう言っていたわ!」
 早く助けに行かないと……といったように焦燥感いっぱいに見つめてくる。自分たちがしようとしていたことの重大さに気がついた今となっては、サリーも気が気でないのだろう。それに対して、今度は僚一が答えた。
「よし、それじゃサリー、お前も一緒に来い。周焔はこの真向かいの部屋に捕らえられている。今頃はヤツの方にもヤツの伴侶が助けに向かっているはずだ」
 僚一の言葉に、驚いたようにしながらもサリーが首を傾げた。
「伴侶って……? 周焔っていう人の奥さんが助けに来ているの?」
「そうだ。焔の伴侶も紫月と同様に男だがな。きっと彼も自分の命をかけて焔を守る為に必死に戦っているはずだ。たった今、紫月がお前さんに心から向き合ったように……な?」
 僚一は薄く笑むと、紫月の手からサリーを受け取ってこう言った。
「お前さんもよく見ておくといい。紫月や冰がこの世で何よりも大切に想う伴侶の窮地にどう立ち向かうのかってことを。例えそれがどんなに危なかろうが、もしくは勝利の見込みがなかろうが、決して諦めずに立ち向かう。一途に揺るがない命をかけた極道の姐の覚悟ってやつだ。今のお前さんになら理解できるはずだ」
 『ついて来い』と言って僚一はサリーの腕を取ると、息子のことを紫月に任せて侵入してきた風呂場へと戻って行った。


◆48
「ここ……お風呂? ここから助けにいらしたの?」
 天井に開けられた穴を見上げながらサリーが目を丸くしている。
「そうだ。入り口はお前さんが家具で塞いじまったろうが! だからここから入るしかなかったってわけだ」
 サリーは『あッ……』と声を上げて申し訳なさそうにうつむいてしまった。
「よし、押し上げてやるからお前から先に登れ。天井裏から向かいの部屋へ行く」
「え……? 天井から?」
「その方が敵に気付かれにくい」
「で、でも……助けに行くなら正面切って行った方が……。何ならアタシが静雨さんに上手く声を掛けるわ」
「相手は銃を持っているんだ。それに……冰の手腕を一部始終目に焼き付けるには、天井からが打って付けだ」
「冰って……周焔の奥さん?」
「そうだ。紫月と冰の姐としての覚悟を見ておくことは、今後のお前の人生にきっと役に立つ。男を取り戻すにしろ銀座で返り咲くにしろ、お前なら彼らの行動から必ず大事な何かを掴めるはずだ。なに、心配するな。本当にヤバくなりゃ、すぐに援護にかかるさ」
 僚一に押し上げられれるまま、サリーは天井裏へと這い上がった。
 ここから薄暗い屋根裏を向かいの部屋まで進む。
「サリー、俺が先に行く。くれぐれも音に気をつけろよ。ここは埃だらけだが、声を出さねえように注意してついて来い」
 女には気の毒な環境だし、建築の際の木屑や、虫の死骸はおろか、蜘蛛の巣などにも遭遇しそうである。驚いた彼女に悲鳴でも上げられれば一貫の終わりだ。
「え……ええ、気をつけるわ」
 物音を立てれば鐘崎の友人である周の命に危険が及ぶ。サリーもさすがに分かっているのか、無我夢中といった調子で僚一の後に続いた。
 二人が何とか周らのいる部屋の真上へと辿り着くと、ちょうど冰たちの声が廊下側から聞こえてきたところだった。
「ほら、ここが周たちの部屋ですぜ。どうぞ入ってくだせえ」
 ロンが冰を立てるようにそんな言い方をしているところをみると、彼の方も上手く丸め込めたようだ。
「さすが冰だな。ここまでは順調といったところか」
 僚一は天井の端にわずかばかり剥がれ掛けた箇所を見つけると、音を立てないように細心の注意を払いながら天井板を少しずらして室内を覗ける穴を作り出した。
「よし、ここからならちょうどテレビボックスの陰になって下からは気付かれまい」
 サリーにも見えるようにと少しばかり脇によけてやる。下ではちょうど冰らが入室してきたところだった。
「あれが周焔の奥さん?」
「そうだ。さあ、ヤツはどうやって焔を救い出すつもりなのか」
「そんな悠長なことを言ってる場合っ!? アタシが聞いた話だと、唐静雨さんとロンって男は周焔とその兄さんを殺すつもりのようだったわ……! こんなところで見ていないで助けに入った方がいいんじゃないの? 僚一さんならそれくらい簡単でしょう?」
 サリーが焦り顔でいる。


◆49
「まあそう焦るな。とにかく様子を見よう」
 何故か僚一は落ち着いていて、この場にそぐわず楽しげだ。サリーがドキマギとしていると、下からは冰の声が聞こえてきた。
「よう、周焔。久しぶりだな? よもや俺の顔を忘れたとは言わせねえぜ」
 薄ら笑いと共にふてぶてしい台詞を浴びせ掛けた冰に、サリーはもちろんのこと当の周も驚きに目を見張る様子が見て取れた。
 だが、それも束の間、周の方からもそれに応えるような不敵な暴言が飛び出したのに、天井裏のサリーにとってはもっと驚かされることと相成った。
「……ちッ、冰か。まさか……てめえまで出てきやがるとはな。――とんだ災難続きだぜ」
 すると、冰も更に輪を掛けたように下卑た台詞で受けて立つ。
「相変わらず腹の立つ言い方しかしねえ野郎だな! 散々っぱらコソコソ逃げ回ってくれやがったが、それも今日で終わりだ。よくも俺を騙して金を持ち逃げしてくれたな。今日という今日はぜってえ逃さねえから覚悟しやがれ!」
「……は、何のことだか分からんな」
 周の方は空っとぼけた返事ながらも、その表情には笑みを浮かべている。天井にいるサリーは、まるでワケが分からないと困惑状態で僚一の腕を掴んでいた。
「ちょっと……いったいどうなってんの? あの人、周焔を助けに来たんじゃないの? あれじゃまるで敵同士じゃないの!」
 だが、僚一も周同様えらく落ち着きながら薄ら笑いすら浮かべている。
「まあ見ていろ」
「見てろって……あなたねえ!」
 サリーはハラハラとしながらも階下の様子に釘付けになっていた。すると、今度は唐静雨が横から口を挟むのが分かった。
「焔、あなたってホントに酷い男ね! この人のことまで裏切ってたなんて! この人がアタシの為に稼ぎ出してくれた例のお金まで盗んだっていうじゃない!」
「……は、てめえら、いつからお仲間になったってんだ? お前がこいつを庇うなんざまるで天変地異だな」
「……まあ! 何て言い草かしら! 本っ当に最低ッ! 見損なったわ!」
 静雨がムキになってそう口走ったお陰で、周の方でも大まかな経緯が見えてきたようだ。まあ、最初に冰が姿を現した時のふてぶてしい台詞と堂々たる素振りで、既にこれが救出の作戦であるということを瞬時に読み取っていたのは確かである。彼がここに乗り込んできたということは、李や源次郎らもがっちりと脇を固めているはずである。そう気がついた時点で、冰に合わせるべく周も次の展開への想像を巡らせていく。なるべく冰に先にしゃべらせて、どういった作戦なのかを探りながらも、周はその過程を楽しんでいるようだった。
 冰もまた、周が乗ってくれたことに安堵しながら、次の策へと移っていく。持参してきたマグナムを懐から出すと、これみよがしにそれをチラつかせながらゆっくりと互いの距離を詰めていった。


◆50
「何故俺を捨てた。散々っぱら愛してるだなんだとほざきながら、結局アンタの目当ては金だったってことか? 方々のカジノで俺が稼ぎ出してやった金を丸ごと持ち逃げしやがって!」
「……何のことか分からんな」
「薄らっとぼけるな! アンタみてえな最低野郎にウツツを抜かしてたと思うと、俺は自分自身の不甲斐なさに腹が立って仕方がねえ! アンタのことは地獄に送っても腹の虫が収まらねえが……まずは金だ。俺を騙くらかして持ち逃げした全額、きっちり耳を揃えて返してもらうぜ!」
 冰はそう言うと、スマートフォンを取り出して周の目の前へと差し出した。
「アンタの銀行口座がここにあるってことくらい調べはついてるんだ! 今すぐに金をスイス銀行にある俺の口座に移してもらおうか!」
 周のものと思われる銀行のログインページを開いて唐静雨にも確認させた後、彼の目の前へと押し付ける。
「ログインコードを言え! その簀巻き状態じゃ手は使えねえだろうからな。俺が代わりにアクセスしてやる」
 ところが、画面を見るなり周はクスッと鼻で笑ってみせた。
「どこで調べやがったか知らんが、俺の隠し口座を突き止めたことだけは褒めてやる」
 つまり、銀行自体は合っているということを強調しているのだ。
「そういう俺様な態度! 相変わらずだな、周焔! 俺の情報網をナメるんじゃねえ。そっちが香港マフィアならこっちはここマカオ一の組織に与してんだ。このくらい調べるのなんざワケもねえさ」
 その台詞で、周には冰がマカオのマフィアだと名乗っていることが伝わったのだろう。少しづつ会話を合わせるべく慎重に相槌を返していく。
「ふん、てめえの組織も満更バカじゃねえってことか。だが、生憎だな。あの金ならもう俺の手元にはねえよ!」
「何だと!? ふざけたこと抜かすんじゃねえ! 脳天ブチ抜くぞ!」
 手にしていたマグナムを構えて凄みをきかせる。
「まあ、そういきり立つな。俺たちファミリーの間じゃシノギで得たモンは即刻上へ献上するのが掟だ。冰、てめえも裏の世界に生きる者ならそんくらいのことは承知だろうが」
 しれっとしながら、さも当然とばかりにそう言い放つ。その言葉に冰はビキりと額に十文字を浮かべてみせた。
「シノギだと? てめえ……やっぱり俺のことは遊びだったってのか……!」
 よほど腹が立ったわけか、これまではロンや静雨にも分かるように英語で話していたのを突如日本語に切り替えると、ワナワナと全身を震わせながら癇癪のままに怒鳴り上げてみせた。
「よ、よくもそんな口が叩けたもんだな……! もういっぺん言ってみやがれ! こん畜生ッ……!」
 まるで制御がきかないとばかりに顔を真っ赤にして地団駄を踏む。
 突如として聞き慣れない外国語で怒り出した彼に、ロンはワケが分からないとばかりに静雨を見やった。
「おい、いったい何だってんだ。この兄さん、何て言ってんだ?」
 通訳をしろとばかりに静雨を急っつく。
「まさかとは思うが……俺に分からねえ言葉でしゃべくって、ヤベえ相談でもしてるんじゃあるめえな?」
 ロンにしてみれば、万が一にも冰と周が本当は味方同士で、ここから上手いこと逃げ出す算段でもしているのではと疑ったようである。
 だが、日本語が流暢な静雨は『そうではない』と言い、状況を通訳してみせた。


◆51
「焔があまりに酷いことを言ったからだわ……。シノギだなんて言われればこの人が怒るのも当然だもの。だって結局はこの人のことを金蔓としてしか見ていなかったってことじゃない。腹が立ち過ぎて、つい日本語が出ちゃったのよ、きっと」
 つまり、それほど怒り狂っているということだ。静雨にしてみても、もしも自分が冰の立場なら到底正気ではいられないと思えるのだろう。自業自得とはいえ、同じように金で苦労した彼女ならではの理解といえるかも知れない。
「けどよ、この兄さんはここマカオのマフィアなんだろ? いくら腹が立ったからって、とっさに日本語が出るっておかしくねえか?」
「いいえ、おかしくはない……というよりそれで当然じゃないかしら。焔は香港と日本の混血だし、今は会社も日本の東京にあるわ。それに……この人だってしばらく焔と一緒に日本で暮らしていたわけだし、雪吹冰っていう名前からして彼もおそらく日本人なんじゃないかしら。もしかしたら焔のようにここと日本のハーフなのかも……」
「はぁん、なるほどね。俺以外は皆バイリンガルの天才ってわけかよ。ま、そういうお前も広東語に英語、それに日本語の三ヶ国語が話せるんだから大したモンだわな!」
 ロンが納得したのか感心顔でいるが、実はこれも冰の作戦の内の一齣だったのだ。この後の策にはどうしても周兄弟に日本語で伝えなければ意味が通らないことがあり、その為に適当なタイミングで日本語へと切り替える必要があったのだった。
 きっかけは何でもよかったのだが、偶然にも周が上手いこと怒りに火を点けるようなことを口走ってくれたので、言語を切り替えるなら今と踏んだわけだ。
 静雨が日本語を話せるのは承知だし、ロンには彼女が通訳をするだろうから、若干のタイムラグはあっても心底疑われることはないはずだ。冰はわざと三ヶ国後をごちゃ混ぜにしながら、敵を翻弄しつつ策を進める戦法に出たのだった。
 その読み通りに静雨が通訳をし出したのを見やりながら、冰は日本語での会話を続けた。
「……ッ、つまりアンタは俺をいいカモとしか思ってなかったってわけだな! 畜生ッ……! こんなヤツにまんまと嵌められただなんて……悔やんでも悔やみ切れねえ! こうなったら金だけは何が何でも返してもらうぞ! ログインコードを言え! 俺の金を返せ! 返せよ!」
 怒鳴り上げる側から静雨がロンへと通訳をしていく。それを横目にしながら、周の方も冰に合わせるように日本語での相槌を続けていった。
「そうがなり立てるな。ますます興醒めするじゃねえか」
「何だとッ! こんの……てめ、マジで脳天ブチ抜くぞ!」
「ああ、分かった、分かった。てめえをカモにしたことは認めるから、そうガミガミ怒鳴るな。それこそ脳天に響いて仕方がねえ。お前からチョロまかした金は既に俺の手元を離れて、今はそこにいる兄貴の管理下だ。金を返して欲しけりゃ兄貴に言うんだな」
 顎でしゃくって隣の風の方を指す。つまり口座にログインさせたいなら兄の風に訊けと言ってみせる。それもそのはずである。冰が周へと見せた画面は、銀行口座のログインページなどではなく、ただのメモ書きだったからだ。そこには簡潔にこう記されていた。

 着弾と同時に血糊が出る。
 万が一の時は死んだフリして。 
 後のことは上手くやるよ。

 今、冰が構えているマグナムが偽物だということと、話の流れで発砲せざるを得なくなった時は死んだフリをしてくれという指示である。それを兄の風にも知らせるには、この画面を彼にも見せる必要があると踏んだわけだ。


◆52
 金を動かす役を兄に押し付ければ、ロンたちに怪しまれることなく救出作戦を伝えられるからである。
 だが、冰は何故かスマートフォンの画面を兄には見せずに、再び銀行口座の画面に戻して、今度は静雨とロンにも見えるようにしながら舌打ちをすると、高飛車な態度でこう言い放った。むろんのこと日本語で――である。実にここからの言動がまさに冰が日本語へと切り替えた理由だったのだ。
 今までの怒り任せの地団駄から打って変わって落ち着き払った口調で冰はこう言い放った。
「あんまりふざけてやがると本当に命を取るぜ! アンタだけじゃねえ。こっちの兄貴のタマも一緒にもらう。これは脅しなんかじゃねえ。てめえら兄弟まとめて地獄へ送ってやる!」
 二人へと交互に銃口を向けながらドスのきいた脅しをかます。その指には鈍色のマグナムには不似合いなほどに神々しく透けて輝く琥珀の大きな指輪がキラキラと輝いていた。父の隼から託されたファミリーの象徴だ。むろん兄弟はすぐにそれに気がついたのだろう。
 すると、兄の風が冰に向かって白旗をあげるべく、素直な言葉を口にした。
「分かった。言う通りにしよう。弟がアンタから巻き上げた金は返す。ログインコードを教えるからそれで勘弁してはもらえまいか」
 いよいよ金が返ってくると知って、ロンも静雨も期待に胸を逸らせる。いつの間にか目的は報復から金を取り返すことへと比重が動いているようだ。冰はうなずくと同時にこう付け加えた。
「ふん、何だかんだと言っても二人共命は惜しいってわけだな? 言っておくが下手な考えを起こすんじゃねえぜ。こちとら、ここマカオではあんたらよりも地の利に長けてんだ。しかもここはマカオの中でも一等複雑なスラム地帯だ。金を返したと同時に逃げようったってそうはいかねえからな! 外へ出た途端にてめえらは袋小路さ」
 小馬鹿にするようにしゃべくりながらも、今いるこの場所がマカオだということを知らせる。睡眠薬で眠らされたまま連れて来られた兄弟に現在地を教える為だ。それと同時に、”命”というところと”地の利”という箇所で指にはめた琥珀を強調するように兄の風に見せつける。その仕草から”命”はイコール弾丸、”地の利”は血糊と訴えようというわけだ。
 周にしたように兄にもスマートフォンに書かれたメモを見せれば話は早いのだが、万が一にもロンらに怪しまれては破滅である。冰は念には念を入れてこういった方法を取ったわけである。
 これまでにも冰が幾度となく演技や暗号で窮地を乗り越えてきたことを知っている風にもその意は伝わったのだろう。彼がわざわざ日本語に切り替えた意味がなるほどと理解できた兄は、唇に薄い笑みを讃えて了解の意図を示すと、さも本物らしき適当なログインコードを口にした。
 冰は言われた通り画面を操作するフリをしながら、満足そうに微笑んでみせた。
「うわ! マジかよ……! 本当に開きやがった! やっぱり命には代えられねえってか!」
 風が言ったログインコードは本物で、無事に口座にアクセスできたことを強調する。


◆53
「へえ……こいつはすげえ! さすがに香港一ってだけはあるな。とんでもねえ金額貯め込んでやがる……! 周焔が掻っ払ってくれた俺の金にたっぷりと利子を付けて返してもらえそうだ!」
 ニヤニヤとしながら操作を続けるフリをする。
 すると、画面には僚一からのメッセージが飛び込んできて、冰はハッと瞳を見開いた。

 冰、よく聞け。
 俺は今、お前のいる部屋の天井裏にいる。
 金を移す操作を終えたら、適当に恨み言を並べて風、焔の順に銃をぶっ放せ。
 着弾と同時にヤツらの縄が切れるように俺が上から狙撃する。
 撃つタイミングはお前に任せる。

 冰はチラりと天井を見やると、そのまま周兄弟にも『上だ』というように視線を動かした。
 そして、しばらくの後、無事に金を移し終えたことを知らしめる為に、ロンと静雨に向かって歓喜の言葉を投げ掛けた。
「は! やったな、大成功だ! アンタらのお陰で金はこの通り無事に戻ったぜ!」
 それを聞いて、ロンも静雨も瞳を輝かせる。
「やりましたね、兄貴!」
「おめでとう! すごいわ!」
「これもすべてアンタらのお陰だ! 約束通り礼は弾ませてもらうぜ!」
 二人を喜ばせた後で、冰は兄弟に向かって再び銃口を向けた。
「さて……と! 金も無事に戻ったことだし、アンタらには消えてもらうとするか。なぁに、そう簡単には殺りゃしねえよ。まずは片腕からもらおうか? 次に脚、その次にはドテっ腹に一発。せいぜい苦しんで逝くがいいさ!」
 上からは僚一が縄を吹っ飛ばすべく狙ってくれている。冰は兄弟を一撃で殺すことはしないとロンらに念押しすべく、わざと腕、脚の順に撃つことを強調した。
 着弾と共に血糊が噴き出し、縄が解ければこっちのものだ。部屋にはロンと静雨しか敵はいない。張とボスの男らはさすがに扉の外で待機させられていたものの、兄弟に自由が戻ればロンらを取り押さえるのは可能だろう。ましてや天井裏には僚一が控えているのである。即刻飛び降りてきて拘束してくれるだろう。
 冰は兄弟に目配せをすると、マグナムを構えてまずは風へと向けた。
「年功序列だ。お兄様、アンタにゃ恨みはねえが覚悟してもらおう」
 言うと同時に狙いを定めて、天井の僚一にタイミングを知らせると、冰は思い切って引き金を引いた。
 凄まじい発砲音と共に風を簀巻きにしていた縄が外れ、腕の周囲に血飛沫が飛び散る。冰の発射と同時に僚一が天井裏からの狙撃で縄を吹っ飛ばしたのだ。
 風は床へと転げ落ち、ひとまずは激痛に悶え転がるフリをしてみせる。それを見届けると、間髪入れずに今度は周に向かって発砲した。
「キャアーーーッ……! やめて……ッ! やめてーーー! 焔を撃たないでッ!」
 脅しではなく本当に風を撃ったことでさすがに驚いたのだろう。静雨が狂気のような悲鳴を上げて床へとしゃがみ込んでしまった。とっさに『焔を撃たないで』と叫んだところをみると、本心ではまだ周に対する想いが残っていたのかも知れない。


◆54
 一方、ロンもまさか本当にマグナムをぶっ放すとは思っていなかったのだろう。真っ青になりながら、それでも情けない姿は見せたくないのか、懸命にひきつった笑顔を見せながら震えている。
 そんな二人を捕らえるのは容易いことだ。すかさず周兄弟が起き上がって二人を拘束し、床へとねじ伏せた。と同時に天井から飛び降りてきた僚一がロンと静雨の意識を刈り取って気絶させる。
 周兄弟は長時間ずっと食事も与えられずに簀巻きにされていたわけである。なんとか拘束には成功したものの、さすがに意識を刈り取るまでは骨が折れると踏んでの僚一の配慮だった。
「よし! 冰、よくやった」
 僚一が笑顔をみせると、冰の方は緊張の糸が切れたのか、ヘナヘナと側にあったソファに崩れ込んでしまった。そんな彼の元へと駆け寄り、周が思い切り抱き締める。
「冰! 冰、よくやってくれた! 心配掛けてすまなかったな」
「白……白龍……! 白龍……!」
 冰の瞳は無意識にあふれ出た涙でいっぱいになっていた。ギュッと愛しい胸板にしがみつき、声を上げて号泣する。
「白龍……! 白龍! よかった! 本当に無事で良かった……!」
「ああ、ああ。お前のお陰だ。ありがとうな、冰……!」
 冰はもう感極まって言葉にならないのだろう。救出の為の演技とはいえ、この世で一等愛する周に銃口を向けてしまったことも、彼にとってはこの上なく心痛むことだったに違いない。
「ごめ……ッ、ごめんね白龍……! 俺、俺……」
 言葉にせずともその思いは充分過ぎるほど周には伝わっていた。
「冰、冰! お前には感謝しかねえ! 本当によく頑張ってくれた。こんな状況だがお前との掛け合いが本当に楽しかったぜ」
 周は持てる愛情をすべてというくらいに強く強く冰を抱き締めながらそう言った。
「お、お兄様にも……失礼なことを……俺、本当にすみませんッ!」
 抱き締められて少し我を取り戻したのか、兄の風にも必死に謝罪を口にする。
「とんでもねえ! お前が助けに来てくれなかったら、今頃はどうなっていたか! 冰、俺も心から礼を言うぞ! お前の芝居も見事だった。俺も焔同様、お前との掛け合いを存分に楽しませてもらったぞ!」
「お兄様……!」
 風と周の二人に抱き締められて、冰はますます涙がとめられずにいた。
 と、その時だ。階下のロビーから何やらザワザワとした騒音が聞こえてきたのに耳を済ませば、どうやら風にとっては聞き慣れた声の人物のようである。『えいやー!』という凛々しい声と共に、男たちが『ぐわッ!』と床に突っ伏すような鈍音が立て続けに響く。体術で倒したと思われる。
「まさか……あいつ……」
 風が廊下へ駆け出ると、ロビーから吹き抜けの階段を駆け上がってくる妻の姿が瞳に飛び込んできて驚かされる羽目となった。
「黒龍! 黒龍ー! 何処ッ!?」
 見れば、拳法の技で見張りの男たち数人をなぎ倒した妻の高美紅がスカートを捲し上げて駆け上がってくるのが分かった。


◆55
「美紅!」
「黒龍……ッ! ああ、良かった! 無事だったのね!」
 美紅が跳ねるようにして風へと抱きついてくる。その華奢な身体を受け止めると、風もまた愛しい妻を懐の中へと抱き締めた。
「血……ッ!? 怪我をしてるの黒龍!」
 派手に飛び散った血糊に驚く妻を抱き締めたままで風が笑う。
「心配するな。これはガセの血糊だ」
「血糊? まあ、そうなの!」
 美紅がホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「それよりお前、一人でここに乗り込んで来たのか?」
 風が怪訝そうな顔で訊くと、今度は美紅が笑いながら言った。
「いいえ、お父様も一緒よ! いま、階下のロビーにいらっしゃるわ」
「親父が……! そうか!」
「ええ、そう。あなたたちが戻って来ないと連絡を受けて、すぐにお父様がマカオへ乗り込んで陣頭指揮を取ってくださったのよ! アタシは家で待っているように言われてたんだけれど、とてもじゃないけどじっとしてなんかいられなくて……! お母様と一緒にお父様たちの後を追い掛けて来たの」
「そうだったのか。親父が……」
 だが、父の隼が来ていることは周兄弟にも分かってはいた。冰の指に輝く琥珀の指輪を目にした時点で、それが父から託されたものと理解していたからだ。
「お前にも皆にも心配をかけてすまない」
 風は再び妻を懐の中へ抱き締めると、誰に憚らずといった調子で彼女に口づけた。深い深い安堵と愛情を込めたキスだった。
 そんな二人の様子を微笑ましげに見つめながら周と冰が部屋の中から姿を現すと、美紅は彼らの無事を喜んで冰へと抱きついた。
「白龍、冰! あなたたちも無事で良かった! 冰のお陰で黒龍も無事だったわ!」
「お姉様……!」
「本当によく頑張ってくれたわね! アタシがお父様の元へ到着した時には、既にあなたがこのホテルに潜入した後だったんだけれど、集音器であなたの活躍をずっと聞いてたのよ! 本当にありがとう! 怖かったでしょうに……!」
 敵を欺き、身を呈して乗り込んでいった冰に心からの感謝を伝えながら、美紅は大切な義弟を抱き締めた。
 すると、真向かいの部屋の扉が開かれ、中からは紫月に肩を借りた鐘崎が姿を現した。催淫剤に侵された欲をとりあえず解放したものの、未だおぼつかない足取りで紫月に支えられながら出てきたのである。
「カネ! 一之宮! お前らも無事で良かった!」
 周が冰の腕を掴んだまま真っ先に駆け寄って労いの言葉を口にする。鐘崎も友の無事な姿を確認できて、ホッとしたように安堵の表情を浮かべていた。そして、互いの行動を把握すべく身につけていた通信機で冰の活躍を聞いていた紫月からも労いと絶賛の言葉が投げ掛けられる。
「冰君! 今回もまたすげえ巧みな演技だったな! 俺なんか遼の介抱しなきゃなんねえのに、そっちの部屋の様子が気になって仕方なくってさ! てめえの亭主そっちのけで動向に聞き入っちゃってたぜ!」
 紫月がバツの悪そうに苦笑しながら頭を掻いてみせると、周囲からはドッと朗らかな笑いが湧き起こった。


◆56
「いや、しかし紫月も冰も本当によく頑張ってくれた! 風の嫁さんの美紅もロビーにいたロンの仲間たちをバッタバタと倒しちまうなんざ見上げたモンだ。お前らは誰より誇れる立派な極道の姐だ」
 僚一が言うと、それに続いて隼も同様だと言って手を叩いた。張もボスの男も、そして周りの側近たちも隼の拍手につられるようにして大喝采となり、誰もがとびきりの笑顔で包まれる。かくして周兄弟と鐘崎を襲った拉致劇は無事に幕を下ろしたのだった。

 その後、一同はマカオの中心地にあるホテルへと移動して、二日ほどを過ごすこととなった。拉致された三人の体力回復とロンと唐静雨らの処遇等の為である。
 秋の短い陽射しが傾き掛けた頃、周らとは別の一室で静雨がウトウトと目覚めたところだった。
「……アタシ……どうして……ここは?」
 うっすらと目を開けると、そこには心配そうに顔を覗き込んでいるサリーの姿があった。
「気がついた? 具合はどう?」
「……あなた、サリーさん……?」
 静雨はぼうっとしながらも、突如ハッとしたように瞳を見開くと、慌てたようにガバりとベッドから身を起こした。
「そうだわ……焔! 焔は……? まさか……」
 徐々に記憶がはっきりとし出したのだろう。蒼白な表情ですがるようにサリーを見つめた。
 静雨が覚えているのは冰が周兄弟を撃ったことまでだ。その後どうなったのか気が気でないといった様子だった。もしかしたら周は殺されてしまったのではないかと思えたからだ。
 サリーは切なげに瞳を細めながら言った。
「大丈夫。彼は無事よ」
「本当? じゃあ……今は病院に? 彼、撃たれて怪我を負ったはずだわ!」
「ううん、怪我もしていないから安心して。あれは周焔を助ける為の冰ちゃんの演技だったのよ」
「……どういうこと?」
 静雨にはさっぱり経緯が掴めないのだろう。焦燥感いっぱいの心配顔で訊く。
「冰ちゃんは周焔たちを助ける為にわざと彼に裏切られたっていうことにして、あなたたちの元へと乗り込んで来たの。あれは全部彼のお芝居だったっていうわけ」
「お芝居……? じゃあ……じゃあ、あの子が焔と別れたっていうのは……」
「嘘よ」
「嘘……? じゃあ、お金を騙し取られたっていうのも……」
「ん、全部嘘よ。あなたとロンを騙して周焔を助ける為のね」
「そんな……!」
 蒼白を通り越して呆然状態の静雨の手を取りながらサリーは言った。
「実はアタシも失敗しちゃったの。遼二の伴侶の紫月が助けにやって来てね。遼二の子を産みたいっていうアタシの計画は見事に頓挫してしまったわ」
「じゃあ……アタシたちの計画は……すっかりバレていて、焔たちの仲間が助けに来たっていうわけ……?」
「そうなるわね。アタシも紫月の姿を見た時は驚いたわ。でも……今は失敗に終わって良かったって思ってる。アタシ、瑛二に裏切られたことが許せなくて自分を見失っていたのよね。それに気付かせてくれたのは紫月だったわ」
「紫月って、あなたがターゲットにしていた鐘崎っていう人の……」
「そう、奥さん。姐さんと言った方が正しいかしら。彼も冰ちゃんと同じで男性だけれどね」
 切なげに微笑みながらも、サリーの表情は落ち着いていて、それはつい昨日までに見ていた彼女とは見違えるほどであった。


◆57
「紫月が来たのはちょうどアタシが遼二に抱かれようとしてる時だったわ。彼、怒るどころか……逃げるんじゃねえってアタシに言ったの」
「……どういうこと?」
「ん、本当だったら俺の亭主に何すんだって、ぶん殴られても当然だったんでしょうけど。紫月は遼二と寝ることが本当にアタシのしたいことなのかって訊いてきたわ。そうじゃねえだろって。どうせなら本当に自分が心底望むことに体当たりしろって、アタシを激励してくれたわ。アタシは……敵わないって思った。嫉妬するどころかアタシの気持ちまで汲んで、心からの言葉をくれた紫月から……彼の一番大事な遼二を取り上げるなんてできないって思った。完全に心を折られたっていうのかしら」
 サリーは切なげに笑いながらも先を続けた。
「でも不思議ね。紫月を見ていたらなんだか分からないけど感動しちゃってね。とっても清々しい気持ちになるのを感じたのよ。アタシもこんなふうに大きな心を持てる人間になりたいって……そう思ったの」
 サリーの言葉を聞きながら、静雨もまた心が揺れ動くのを感じたようであった。
「……そうね……なんとなくあなたの言いたいこと分かる気がする……。アタシも……あの焔があの子を裏切るなんてって心のどこかで疑っていたわ。あの子、冰っていう子ね。きっと本来はすごく人の好いやさしい子だと思うの。アタシを闇市に堕とさない為に大金を都合してくれようとした子だもの。見ず知らずのアタシに……よ? しかもアタシはあの子に焔の恋人だなんて嘘すらついたっていうのに。そんないい子を焔が手放すわけないって……。心の隅でそう思いながらも、あの子の普段とはまったく逆の人間性を目の当たりにして……もしかしたらアタシは騙されているんじゃないかって分かってたような気がする。でもあの子の一生懸命なお芝居に逆らってはいけない気がして……。もしかしたらアタシは分かってたんだわ。あの子が焔を……命をかけて焔を助ける姿を見たかったのかも知れない……」
 静雨もまた、完全にアタシの負けねと言って弱々しく笑った。
「最初から敵わなかったのね、アタシたち。本物の恋人たちの愛って……いうか、覚悟っていうか、そういうのを見た気がするわ。まさに命がけの愛ね」
 サリーもそう言って寂しげに笑う。と、そこへ扉をノックする音がして、遠慮がちに中を窺いながら冰が顔を出した。
「冰ちゃん!」
 サリーが出迎えると、冰が申し訳なさそうな顔で静かに部屋へと入って来た。
「静雨さん、お身体の具合は如何ですか?」
 先程までとはまるで違う、他人を気遣うことのできる人の好さが身体中から滲み出るようなやわらかな雰囲気に瞳を見開いてしまう。やはりこれが本来の彼なのだろうと静雨は思った。


◆58
「あなた……冰さんっていうのね」
「はい……。あの、あなた方を騙すような真似をして……ごめんなさい」
 心底すまなさそうに頭を下げた冰に、静雨の方が驚かされてしまう。
「いいえ……! いいえ、アタシこそあんな大それたことをして……あなたと焔には謝っても謝り切れないわね……」
 伏し目がちにうなだれた静雨の瞳には、今にも溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「焔は……どうしているかしら? 丸一日食事もさせてあげられなくて……ずっと縄で縛ったりして……具合を悪くしていなければいいけれど……」
「大丈夫です。少し休んだらすっかり快復したみたいで、今は元気ですよ」
 穏やかに冰が言う。
「そう。良かった……。お兄様もご無事かしら?」
「ええ、お兄様の方ももうすっかりいつも通りです」
「良かった。……あなたにも迷惑を掛けてしまったわ……。焔は……きっとアタシを許さないわね」
 諦めたように静雨が笑う。と、その時だった。冰を追い掛けて来たのか、周が姿を現したのだ。
「……焔……!」
 長いストライドの堂々たる足取りで周が部屋へと入ってくる姿に静雨はビクりと肩を震わせた。
 特には怒鳴るわけでもなければ険しい表情というわけでもない周を目の当たりにし、静雨は恐ろしくて顔さえ見られないといった具合でうつむいてしまった。
「冰、ここにいたのか。勝手にいなくなるから心配したぞ」
 ちょっと目を離した隙に冰の姿が見えなくなったことで、心配した周が追い掛けて来たらしい。だが、周には彼がこの部屋に向かったのだろうと確信があったようだ。
 心やさしい冰のことだ。自分たちをとんでもない目に遭わせたこんな女に対してでも、容体を気に掛けてしまうのは彼ならではなのだろう。静雨は居ても立っても居られずといった調子で謝罪の言葉を口にした。
「焔……ごめんなさい……アタシ、あなたにひどいことを……。あなただけじゃない。お兄様にもこの冰さんにも……迷惑を掛けて……。制裁は覚悟しているわ。ただ、その前に謝りたい……。本当にごめんなさい……」
 周の顔を見ることもできないままで、静雨は身を縮めて謝罪を繰り返した。
「とんでもないことをしたのは分かっているわ……。許してくれなんて言えないけれど……あなたの気の済むようにして……。殺されても文句は言わない……それで許されるならアタシ……」
 うつむいたままで肩を震わせ、周からの制裁を待つ。さすがに覚悟を決めているといった様子が見て取れた。
「俺一人ならお前をどうするもわけもねえがな。だが、この冰がそれを望まねえだろう」
 周は「ふぅ」と小さな溜め息を落とすと、冰に向かって『沙汰はお前が決めろ』と目配せをしてみせた。冰もそんな周の寛大な気持ちに申し訳なさそうにしながらもうなずくと、静雨に向かって穏やかに言ったのだった。
「静雨さん、俺はあなたに……本当のあなたに戻って、ずっと元気でいて欲しいです。俺がこんなことを言うのは図々しいと思いますけど……本当に……元気で幸せでいて欲しいんです」
 まさに冰の本心なのだろう。周への想いが叶わない時点で『幸せに』というのは酷なことだと分かっているし、だからといって自分自身も周の側を離れることはできない。そんな自分にあなたの幸せを願うなどと言うのはおこがましいと思っているのだろう様子が痛いほど分かる。そんな冰のやさしい心根が静雨にも充分に伝わったようだ。


◆59
「ありがとう。本当に……こんなアタシに……ありがとう、冰さん。これまであなたに……あなたと焔にした無礼を謝るわ……。本当に……ごめんなさい……!」
「静雨さん……!」
「……アタシ、到底あなたのようにはなれないけど……これからは少しでもあなたに近付けるように努力するわ。今までどれだけ自分よがりだったのか……よく分かったの。本当にごめんなさい……!」
 ポロポロと涙を流しながらそう言ってうつむいた静雨の肩をサリーが慰めるように撫でては、女たち二人は寄り添い合い、抱き合った。そんな彼女らの様子に、冰もまた安堵の思いで熱くなった目頭を押さえるのだった。
「……! そうだわ……ロン! あの人は……」
 ロンの方はどうなったのだろうかと静雨がハタと顔を上げた。すると、今度は周が少々呆れたような苦笑気味ながらそれに答えてみせた。
「ああ、あの男な。ヤツもこのホテルの別の部屋に捕らえてあるんだが――、とんでもねえことを言い出しやがった」
「……とんでもないこと……って?」
 静雨が不安そうに首を傾げている。まさか、ロンの方はまだ諦めておらず、新たな火種を撒こうとでもしているのかと思ったのだ。ところがそうではなかったらしい。
 何と彼は冰の人柄に心酔してしまったらしく、是非とも舎弟にしてくれと拝み倒したのだそうだ。
「あの野郎、土下座したっきり冰の側を離れやしねえ。部屋に閉じ込めても舎弟にしてくれるまで諦めねえと喚きやがるし、あのしつこさだけは閉口もんだな。黙らせる為にちょっと揉んでやったが、まるで堪えてねえようだ」
「揉んでやった……って、もしかして殴った……とか?」
 静雨が訊く。まあこれだけの大それたことをしたわけだから、それも当然だろう。だが、ロンが殴られたのなら、自分も同じ罰を受けるべきだと静雨は思ったようだ。
「あの……焔?」
「何だ」
「アタシ……その、アタシも殴ってくれていいわ……。それだけのことをしたんですもの。もちろんそれで許されるとは思っていないけれど」
 せめてそれくらいしてもらわないと申し訳ない、うつむく静雨の態度からはそんな思いが滲んでいるようだった。
 だが、周は薄く苦笑すると――さらりとひと言、
「俺は女に手をあげる趣味はねえな」
 至極当たり前のようにそう言った。
 その瞬間、静雨の瞳からは溢れんばかりの涙が潤み出し、ボタボタと音を立てる勢いで号泣してしまった。
「……っう……焔……、焔ごめんなさ……! アタシ、本当に……」
 そう、やはり自分は周が好きだ。彼のこんなところが堪らないのだと痛感させられる。
 だが、どんなに想えども叶うことはないのだ。
 彼には誰よりも相応しい冰という伴侶がいる。やさしくて思いやりがあって、周の為ならば例えどんなことも厭わない愛情にあふれている彼だ。しかも、困っている人間がいれば例えそれが見ず知らずの他人であっても手を差し伸べることのできる素晴らしい人間性をも持ち合わせている。そんな二人の仲に割って入ることなど到底できっこない。
 そんな思いを呑み込みながら、静雨はただただ涙し、謝罪の言葉を繰り返すしかできなかった。


◆60
 その後、周たちが帰って行った部屋で未だ泣き止まぬ静雨をサリーが慰めていた。
「本当はまだ好きだったのね、周焔のこと……。あなた、彼を殺したいほど憎んでいるなんて言ってたけれど……」
 それは恋心の裏返しだったのねと切なげに瞳を細める。静雨もコクコクとうなずいた。
「ええ、ええ……大好き……! 好きで好きで堪らないわ……! それなのにアタシ……あの人を葬ろうだなんてこんな大それたことして……今はあの人が生きていてくれて本当に良かったって……それしかない」
 言いながら更に号泣する静雨の肩をさすりながら、サリーも熱くなってしまった目頭を抑えていた。
「ねえ、静雨さん。あなた、よかったらアタシのお店へいらっしゃらない?」
「……え?」
 静雨は驚きにハタとサリーを見上げた。
「アタシね、自分のお店を持とうと思ってるの。今まで勤めていたお店を辞めて、新しく借りる店舗も決まっているわ。そんなに甘くないことは承知だけれど、精一杯頑張っていいお店にできるよう努力するつもりよ。だから、もしあなたがよければアタシのお店に来てくださらない? 一緒にやれたら嬉しいなって思うんだけれど」
「サリーさん……」
「もちろん無理にとは言わないわ。あなたがこのままニューヨークへ戻ってやりたいことがあるならそれでいいんだけれど……もしもこれからの目標が何も決まってないならと思っただけよ」
 サリーの厚意に静雨はより一層しゃくり上げながら泣いてしまった。
「あ、ありがとう……ありがとうサリーさん……! でもアタシ、アタシね、故郷に帰ろうと思うの」
「故郷ってあなたのご実家?」
「ええ。蘭州にあるの」
「蘭州って麺料理が有名な所よね? お客様で蘭州ラーメンがお好きな方がいらして、よく話題に出ていたわ」
「そうだったのね。実はアタシの実家、そのラーメン屋を営んでいるの」
「まあ、そうなの?」
「本当に零細の小さな店だけれどね。今は両親が二人でやっているんだけど、だんだん高齢になってきているし、アタシも好き勝手やってきたけどそろそろ潮時かなって思ったわ。こんなことまでしたのに焔と冰さんは許してくれて……もう二度と彼らに迷惑を掛けない為にも実家に帰るのが一番いいんじゃないかって思って……」
 哀しげに笑う静雨を見つめながら、サリーもまた切なそうにうなずいた。
「そう……。ええ、そうね。あなたが帰ればご両親も喜ばれるわね」
 確かにその通りかも知れない。サリーの店に勤めれば周のいる汐留は目と鼻の先だし、今後もどこかで顔くらいは合わせる機会があるだろう。だが、静雨にとってそれがいいことばかりとは限らない。周への叶わない想いを目の当たりに苦しみ続けるよりも、汐留からも香港からも遠く離れた蘭州の実家で両親と過ごす方が癒しになるのかも知れないとサリーは思った。
 かくいうサリー自身も瑛二の住む東京で店を切り盛りしていかなければならない現実は、想像するよりも辛いことの方が多かろう。だが、乗り越えていかなければならない。前を見て歩いていかなければならないのだ。
「静雨さん、アタシ……あの、離れてもずっと繋がっていたいわ。あなたが頑張ってると思えばアタシも頑張れる気がするの。だから……もしよかったらアタシと友達になって」
「サリーさん……ありがとう……ありがとう本当に……!」
「佐々木里恵子よ。佐々木と里恵子の頭の文字を取ってサリーっていう源氏名にしたの」
「……! 里恵子さん……。そうだったのね」
「ええ。これからは里恵子って呼んで」
「ええ、ええ……。里恵子さん、アタシも……ずっと友達でいたいわ……!」
 どちらからともなく差し出した手を取り合い、二人の女たちは共に涙を流し合ったのだった。それは切なく、だが少し暖かく――まるで厳しい冬の寒さの中に早春の息吹を感じるような、そんな温もりが二人を包み込むようでもあった。



Guys 9love

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