極道恋事情
◆61
その夜、冰はようやくと落ち着きを取り戻した現実の中、愛する周と水入らずの時を過ごしていた。
周らが解放されてから少しばかりは休息を取ったものの、今回の騒動解決に惜しみない助力をしてくれた張敏やその友人であるスラム街を仕切るボスの男らに礼の挨拶回りなどで目まぐるしくしていた為だ。
裏の世界では掛けてもらった温情に対して可能な限り早急に礼を尽くすのが暗黙の掟である。いかに拉致監禁の直後とはいえ、特に怪我などで動けないというわけではなかった為、身体を休めるよりもまず先に礼を尽くさねばならない。そんなこんなで一日中駆けずり回っていて、ようやくホッと一息つけたのが今というわけだった。
「白龍、本当にお疲れ様。今夜はゆっくり休んで!」
拉致されてからこの方、丸一日以上食事も水も与えられずに簀巻きにされていたわけである。当然体力も消耗しているだろうし、精神的にも疲れているはずである。今はとにかく何を置いても充分な休息を取って欲しいと、冰はただただそれだけを願っていたのだ。
だが、周の方は存外元気な様子で普段と何ら変わりはなさそうである。食事もたっぷりと摂ったし、ゆっくりと風呂も満喫したので、すっかり元通りの様子だった。
「挨拶回りは済んだし、明日は一日中ゴロゴロしてられるんだ。ゆっくりするのは明日でいい」
最上級のスイートルームの大きなソファに深く背を預けながら、まるで姫抱きするようにすっぽりと腕の中へと抱え込まれて、冰はみるみると頬を朱に染め上げた。
「白……白龍……! あの……疲れてないの?」
「ああ」
「だ、あの……だってさ、ずっと拘束されてたんだし、事件が解決してからも挨拶回りで走り回ってたし。それに昨夜はよく休めなかったんじゃないかと思って」
「いや、逆に睡眠薬のお陰で普段より熟睡できたくれえだ」
「ええー……! またそんなこと言って」
心配を掛けまいと、わざと元気な素振りを見せてくれているのかも知れないと思うと、冰はそれの方が心配なのだ。そんな思いが顔に表れていたのか、周は抱きかかえた彼の額に軽く口づけながら笑った。
「心配には及ばねえさ。実際、俺も兄貴も、それにカネのヤツもだが、ああいった状況には慣れてるからな」
「慣れてるって……監禁されたりしたこととか……前にもあったってこと?」
「そうじゃねえが、そういった状況になった時の為の訓練はガキの頃から受けさせられてたからな」
「訓練?」
冰はすっかり驚いてしまい、元々大きな瞳を更に大きく見開いてしまった。
「毎年夏休みと冬休みの二回だ、俺たちは実戦を兼ねた修行に行かされてな。傭兵上がりの厳しい師匠の元で地獄の訓練ってヤツをやらされて育ったんだ」
「じ、実戦?」
「ああ。物心ついた時にはもう夏休みと冬休みが嫌で嫌で仕方なかったくれえだからな。この世から長期休暇なんてモンは無くなっちまえばいいとどれほど思ったことか」
周は懐かしそうに笑うが、冰にしてみれば驚きという他ない。辛かったという周には悪いが、まさに異次元の世界に興味津々といった表情で身を乗り出してしまった。
◆62
「ね、ね、修行ってどんなことをやらされるの? お兄様や鐘崎さんも一緒にやってたってこと? 実戦って……まさか軍隊の訓練みたいな感じなの?」
まるで立板に水の如く質問攻めに遭って、周は思わず苦笑させられてしまった。
今はもう遠き少年の日のことが走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。懐かしさに瞳を細めながら周は記憶を辿った。
「まず夏休みには極寒の森の中に連れて行かれて放り出されるんだ。ガキ同士でチームを組まされて、一等近くの集落まで辿り着けば合格点がもらえる。途中で根を上げれば、また次の夏休みには一からやり直しで、前の年の分とその年の分の二倍の訓練が待ってるって寸法だ。逆に冬休みにゃ季節と反対の熱帯雨林に連れて行かれて、同じようなミッションが待ってる。寒い地域では雪と凍傷との闘いだし、暑い所じゃ虫と爬虫類地獄を生き抜かなきゃならねえ。まさにサバイバルさ」
「うわ……過酷そう」
「まあ、ガキ同士といっても俺たちの見えないところでちゃんと大人たちが監視してはいるんだがな。生死にかかわるくらいヤバくなったら救助は来るから本当にくたばる心配はねえわけだが」
「でもサバイバルってことは……食べる物とかはどうしてたの? それに寝るところなんかも」
「冬場は干し肉や缶詰なんかを最初から携帯していくんだが、さすがに水はすぐに尽きる。喉が乾いて雪を食ったこともあったな」
「ええ……!? お腹壊しそう……。寒いと熱出たりとかもあるだろうし」
「最初の内はな。だが、それでしのがなきゃ生きてられねえわけだから。訓練を重ねる内に身体の方がついてくるようになるもんだ。寒いのも辛えが、湿地帯の蒸し暑さも厳しかったな。腹が減って仕方ねえから木に成ってる果物らしきモンをとって食うんだが、慣れねえとそれこそすぐに腹を壊す。その内に魚を獲ることを覚えるわけだ。寝るにしたって地面は虫だらけだから、バナナの皮とかをな、何枚も手折って敷くんだが、小さなガキにゃ寝床をこしらえるだけで一日仕事だ。火のおこし方も一応は教わって行くが、骨が折れるなんてモンじゃねえ。食い物を獲ってくる係と寝床や炊事用の支度を整える係と手分けするんだが、如何せんガキのやることだからな、帰る頃には皆げっそりやつれて骨と皮ってな感じになったもんだ」
「うはぁ……」
まさに絶句である。
「まあそれだけでも地獄だが、ある程度の年齢になると、今度は敵が追って来るってミッションが加わるんだ。もちろんその頃になると俺たちにも武器は支給されるんだが、実弾がすぐ側の木に当たったりしてな。生き抜くと同時に実戦でも勝ち抜かなきゃならねえから死に物狂いだ。もちろん風呂なんか何日も入れねえし、川でワニだの巨大な怪魚だのに怯えながら水浴びしたりな。終いにゃてめえが人間なのか獣なのか分からなくなるくれえで、とにかく過酷だったわ」
周は懐かしそうに笑っているが、冰にしてみれば思わず顔が歪んでしまうくらい辛辣な話である。極道の世界というのは、それほどまでに厳しいものなのかと背筋が凍ってしまいそうだった。
◆63
「そ、そんなに厳しい訓練を子供の頃からしてたの……? お兄様や鐘崎さんも一緒に?」
「ああ。カネももちろんだが、李も一緒だったぜ」
「李さんも!」
「何とか耐えてこられたのは兄貴や仲間がいたからだな。俺は今でこそ割合デカく育ったが、ガキの頃はチビだったんだ」
「ええ!? そうなの?」
想像できないよとばかりに冰が目を剥いている。
「だから兄貴がそれこそ父親代わりみてえにしてよく面倒を見てくれたもんだ。カネもガキの頃から体格は良かったから、子供心にこいつとはぜってえ喧嘩しちゃならねえって思ってたわな」
「ふええ……そうなんだ……。でも白龍は今は背もめちゃめちゃ高いし、喧嘩も強そうだよね」
周が誰かと殴り合ったりしているところを見たことはないが、昼間ロンを軽く揉んでいたというのは知っている。冰は別の部屋で待たされていたから直接現場を目の当たりにしたわけではないのだが、そこはマフィアの男というだけある。やはりやる時にはやるのだと驚かされた冰だった。
「そういえば前に紫月さんが言ってたっけ。鐘崎さんは喧嘩とかもすごく強くて、紫月さんとは技の使い方からしてまったく違うんだーって。傭兵上がりの先生に体術を教わったって聞いたけど、白龍たちもやっぱり武道とかも習ったりしてたの?」
「ああ、師匠は皆一緒だったな。まあ、カネのヤツだけは日本で俺らは香港だったから、訓練の時以外は別々の師匠だったがな。体術はもちろんだが射撃や馬術、それに外国語に物理化学の知識と、とにかく覚えなきゃなんねえことは山ほどあって、ホントに過酷だったぜ。情けねえ話だが、俺は将来マフィアにはならねえから、こんな訓練とか勉強はしたくねえってな、泣いて親父に食って掛かったこともある」
「ええ……!? そうだったの? それでお父様は何て……?」
「思いっきり張り倒された」
「え……!? ホントに……?」
「後にも先にもあれが親父にぶん殴られた最初で最後ってやつだったな。俺はチビだったし、部屋の隅っこの方まで転がるくれえに吹っ飛ばされて、でも誰も助けてくれなくてな。普段はやさしい継母もその時だけは何故か一切口を挟まねえし、大丈夫かって手を差し伸べてくれることもなく、側近たちも仁王立ちして見てるだけだった。親父は鬼のような形相でぜってえ目を逸らしてくれねえしで、まさに四面楚歌だ。もうマジで恐ろしくてな。これならまだ訓練で辛え方がマシだと思ったのをよく覚えてるぜ」
「ふわぁ……あのやさしいお父様が……」
信じられないとばかりに冰は硬直状態だ。
「まあ、親父があんだけ怒ったのには訳があったからな」
「……ワケって?」
「ん、俺が心ないことを口走ったもんでな」
「心ないこと……? 白龍がお父様にってこと?」
「ああ……。親父に殴られた後、地下の物置きに閉じ込められて反省できるまで出て来るなって仕置きを食らったんだが、こっそり兄貴が助けに来てくれてな。晩飯の飲茶を密かにくすねて持ってきてくれて、何で親父があれほど怒ったのかってのを聞かされた。俺はつい……どうせ妾の子なんだし、ファミリーであって本当のファミリーじゃねえわけだから後を継ぐ気はねえってな感じのことを言っちまったらしいんだわ。ガキだったし、訓練や勉強が辛くてテンパってたから自分じゃよく覚えてねえが、とにかく興奮のままにそんなことをほざいたらしい」
瞳を細めて苦笑する周の視線はどこか遠く、そして切なげに遥か昔を懐かしむかのように揺れていた。
◆64
「兄貴にそれを聞かされて、親父も継母も俺のことを曲がった目で見たことなんか一度もねえって言われて――俺を殴った後で親父が泣いたってことも聞かされてな」
「お父様……が……」
「もちろん、悲しくて泣いたわけじゃねえ。普段はどんなことがあっても涙なんかぜってえ見せねえ親父が身体震わせてたって言うんだ。そんだけ……心底情けなかったんだろうって兄貴がな、そう言ったんだ。兄貴も俺をまがいモンの弟だなんて思ったことは一度もねえって、すげえ真剣な顔で言ってくれてな。俺はその時初めててめえの未熟さに腹が立った。厳しい訓練に出すのも、膨大な知識を身につけさせられるのも、全部親父の愛情だったんだってことが身に染みた。それからだ、訓練にも勉学にも真剣に向き合うようになったのは」
兄に付き添われ地下の倉庫を出て、父の元に謝りに行った時には思い切り抱き締められたそうだ。お前は俺の子だと、正真正銘本物のファミリーだと言って声をくぐもらせた父の懐の匂いは何があっても忘れられないと周は言った。
「そっか……そんなことがあったんだね」
冰もまた熱くなってしまった目頭を押さえながら、愛しい胸の中に顔を埋めて、無意識にしがみついては涙をこぼした。
「お前もそうやって泣いてくれるんだな」
「白龍……うん? だって俺……嬉しくて……。白龍がお父様やお母様、お兄様に愛されてるってことがすごく嬉しくて」
「前にも同じことを言ってくれたよな、冰」
「……え? そうだっけ?」
グズグズと鼻をすすりながら冰が訊く。
「ああ。初めてお前を抱いた時だ。背中の彫り物の話をしたら、お前、今みてえに泣いてくれた。俺が家族に愛されてることが嬉しいと言ってな」
冰は『あ……!』と思い出したように瞳を見開いては涙を拭った。
「そうだったね。あれからもう一年近く経つんだね。何だか夢みたいだよ」
「ん、何がだ?」
「白龍とこうしていられることがさ」
温もりを確かめるように冰は広い胸元に頬を埋める。
「よし、じゃあ夢じゃねえってことを確かめるとするか」
企むように笑った視線が色香を帯びている。もう抱きたいという意味だ。
「ん、うん! 確かめたい。いっぱい……確かめさせて……!」
「ああ、望むまま――」
周は軽々と冰を抱き上げると、そのままベッドへと向かった。
「冰、ありがとうな。こうして俺なんぞの為に涙を流してくれるお前が愛しくて可愛いくて仕方ねえ。それに今日俺たちを助けに来てくれた時の普段とは違う迫力のあるお前も本当にカッコ良かったぜ?」
「い、嫌だな白龍ったら……。あんな図々しい態度しちゃって……白龍にはもちろんだけどお兄様にも生意気言っちゃって……。俺、今考えるとすごく申し訳なくて……」
「そんなことはねえ。押しも押されもしねえ立派な極道の姐だった。お前は俺の誇りだ、冰」
「白龍……。俺、俺も……。白龍が誇り。この世の誰よりも何よりも……大好き……!」
「ああ。ああ、俺もだ」
もうこれ以上言葉はいらない。ずっとずっと永遠に、何があっても俺たちは互いを慈しみ合い信じ合える夫婦だ――!
二人は空が白むまで激しく求め合い、そして互いの肌の温もりに包まれて眠りに落ちたのだった。
◆65
一方、向かいの部屋では鐘崎と紫月もまた熱い睦の時を過ごしていた。
鐘崎が盛られた薬は何とか抜け切ったものの、二人共に放心寸前というくらい疲弊しまくって、特に紫月の方は指一本動かすのも儘ならないといったほどのノックダウン状態だ。
「んあー、もうーダメ……俺、一生分の性欲使い果たした感じ」
大の字にひっくり返ってキングサイズを上回るベッドを占領する。鐘崎の方は今にも床へと落ちそうなくらい端っこに追いやられながら、薬が抜けたこともあってか、すっきりとした顔つきでいた。
「情けねえことを抜かすな。……とは言え、さすがに俺も今は空っぽって感じだがな。まあ二日もあれば満タンに回復するだろう」
期待していいぞというように悪戯な笑みを浮かべてみせる。そんな様子に、紫月は呆れ返ったように白目を剥いてしまった。
「……ッ、って、おいおい……てめえは化けモンかよ。こんだけヤリまくってまだ回復とか……信じらんね。俺りゃー、正直一ヶ月くれえはヤんなくてもいーかなって感じ」
「おいおい、それこそ冗談じゃねえぜ。てめえこそどんだけ体力ねえんだ。一ヶ月もお預けなんて、お前は俺を修行僧にでもする気か!」
「あ……はは! いいじゃん、まさに極道!」
「バカこいてんじゃねえ……! 極道は極道でもそっちじゃねえだろが」
半ば本気で焦り口調の亭主を横目に、紫月は苦虫を噛み潰したように片眉をしかめさせられてしまった。
「遼、お前ってやっぱライオンだよ。つか、水飲みてえー! 喉カラカラ……」
だが、とうに冷蔵庫まで取りに行く体力はない。そんな様子にクスッと笑むと、鐘崎は身軽な動作で愛しき伴侶の所望するドリンクを取りに向かった。
「どうぞ、我が姫。冷たいミネラルウォーターでございます」
「んー、ご苦労。ついでに飲ましてくんねえ?」
「かしこまりました、姫!」
言うと同時に自らの口に含んで唇を重ね合わせる。
「ッは……! 遼、てめ……ッ、誰が口移ししろっつったよー!」
あわよくばそのまま深い口づけのオマケ付きという感じで水を飲まされて、紫月はまたもや白目を剥いてしまった。
「遼ー、今はなぁ、チュウよか水! 水くれ! 水ぅー!」
「だからこうして飲ましてやってんじゃねえか。遠慮せずに、ほら気の済むまで飲め」
「や、気の済むまでチュウしてんのはお前だろって。のわー、マジで絶倫猛獣……」
憎まれ口を叩きながらもその表情には笑みが浮かんでいる。何だかんだと言えども、結局はこうして受け入れてくれる紫月の大らかさが、鐘崎は心底愛しいと思うのだった。そんな気持ちのまま、まるで甘えるかのように大の字になっている胸元に顔を埋める。
「仕方ねえだろ……好きで好きで堪んねんだから」
鐘崎のこんな姿は、例え父親の僚一ですら目にしたことはないだろう。この世で唯一、紫月だけに見せる男の甘えなのだ。紫月もそれを分かっているから、どんなことでも受け止められるのだ。
気だるい腕を持ち上げてガタイの大きな男の髪を漉き、胸の中で少年のように甘える亭主を抱き締める。
「……ったくよぉ、でっけえライオンのくせして、ンな可愛いことしてくれちゃって。マジしょーもねー旦那なんだから」
◆66
「ああ、しょーもねえことだらけだ。俺はお前がいなきゃ何もできねえ……。今回のサリーのことにしたって、もっと前からお前がしたように向き合ってやれれば、あいつにも手を汚させずに済んだろうによ」
情けない顔つきでそんなことを口走った亭主に、紫月は思い切り瞳を細めては慰めるように髪を撫でた。
「お前はしょーもなくなんかねえよ。サリーちゃんのことは……さっきは切羽詰まってたし、口先だけでご尤ものようなこと言っちまったが……実際彼女の立場になったら俺だって焦れて悩むと思う。今でこそお前とこうしていられるが、それまでは気持ちを打ち明けることすら散々ためらってた意気地なしだ。カッコいいこと言えた義理じゃねえなって思ってよ」
確かにそうだ。互いの想いを胸の内に秘めて、どちらから言い出すこともできずに長い年月を過ごしてきたのだ。
「あのさ、遼……」
「ん?」
「俺……サリーが店を出すに当たって、開店祝いの花くれえは出してやりてえと思うんだけど、どうだ? もち、後見ってなると他にも利害やら他所との体面やら絡んでくるだろうから無理があるとは思うが、花くらいは……と思ってさ」
花が出れば、当然客たちの目にも鐘崎組の名が触れる。正面きっての後見ではないにしろ、バックには鐘崎組が好意的な立場で付いていると認識されるだろう。それだけでやたらなちょっかいも減るだろうし、開店に華を添えてやれると思うのだ。
「まあ、これは組の体面もあるから、まずは親父に訊いてからとは思うけどさ」
そんな紫月の気持ちが鐘崎には有り難く思えてならなかった。
「そうだな。サリーの門出だ、俺たちのできる範囲で祝ってやれればと思う」
本来ならば、自分の亭主を横恋慕され掛かったようなものだ。サリーに対して嫉妬や負の感情を抱いていてもおかしくないともいえるのに、紫月は彼女の立場に立ってそんなことを考えてくれる。鐘崎が愛しく思わないはずはなかった。
「お前には……何から何まで理解してもらい、手助けしてもらって……正直なところ礼の言葉もねえ。俺もお前に恥ずかしくねえ亭主でいねえとな」
「バッカ……何、急に……」
「本心だ。俺はつくづく幸せ者だと思う。お前のようなでっけえ心を持った姐さんを娶ることができて、こんな贅沢はねえよ。情けねえところも多い亭主だが、これからも末永くよろしく頼むぜ、姐さん」
「……ッ、いきなしンなマジんなって……照れるじゃねっかよー」
「ん、照れたお前も可愛い。可愛くて愛しくて仕方ねえ。だが、それ以上に尊敬の念でいっぱいだ。お前をいつまでも可愛いと言ってこの腕に抱いていられるよう、俺も精進したい」
「バッカ……遼」
未だ甘えるように胸元で髪を梳かれながら、鐘崎は愛しい想いを噛み締めるのだった。
◆67
二日後、十分に休養を取った一同は、採掘場の視察の任務へと戻る為にマカオを後にした。張らもわざわざ見送りに来てくれて、特に冰はまた会える機会を心待ちにしていますと言って張らの厚意に礼を述べたのだった。
そんな彼を驚かせたのは鉱山で待っていた人物だ。
「兄貴! じゃなかった……姐さん! 姐さーん!」
作業着姿の男が満面の笑みを讃えながら駆け寄って来る。
「……! あなた……ロンさん!? ロンさんじゃないですか!」
なんと、男は静雨と一緒にいたロンだったのだ。
「ど、どうしてロンさんがここに?」
ワケが分からずといった調子で冰が目を丸くしている。そんな様子に苦笑しながら、周が横から説明を口にした。
「こいつはこの鉱山で働くことになったんだ」
「ここで? 何でまた……」
どうやらこの采配は周の父親である隼からのお達しらしい。冰の人間性に感銘を受けてしまったロンがどうしても舎弟にして欲しいとごねたのは記憶に新しいが、実はあれは冰の芝居であったことと、彼が周焔の伴侶であると告げてもまったく諦める様子がなかったという。それどころか、身体を張って愛する亭主を助けにやって来た冰の行動に、ますます尊敬の念を抱いたようだ。
とはいえ、さすがに周兄弟を拉致して殺すとまでうそぶいた男だ。本気ではなかったにしろ、拉致自体は実際に行った主犯格であるし、周一族がそんな男をホイホイと大事な冰の舎弟にするわけもない。それでも諦めが悪いこの男に、隼が下した制裁が今後三年の間、この鉱山で採掘員として勤めるということだった。
採掘の仕事は体力もいるし、正直なところ過酷である。三年の間真面目に勤めることができたあかつきには、今回のことを水に流してもいいと隼が言ったのだ。
ロンと共に拉致に加わった男たちにも同様の罰が課され、だが彼らは見張りだけで直接犯行に手を下したわけではないので、期間はロンよりも短い一年間ということで制裁としたのだそうだ。
ロンにとっては厳しい罰ともいえるが、本来ならば即刻闇に葬られてもおかしくはないことをしたわけだ。マフィアのファミリーに喧嘩を売ったわけだから、こうして生きていられるだけでも御の字どころか、非常に甘い沙汰といえる。彼自身もそれは重々分かっているのか、有り難くその制裁を受け入れたのである。
「頭領・周には感謝しています。こうして生かしておいてもらえただけでも奇跡なのに、給金までいただけるってんですから!」
「そ、そうだったんですか」
「俺、姐さんみてえに粋で、頭領・周のようなでっけえ懐を持った男になれるように頑張ります! だから姐さん、ここでの修行を無事に終えることができたら、その時は舎弟にしていただくことを考えといていただけませんか! 俺、精一杯頑張りますんで!」
どうやら舎弟の件はまだ諦めていないらしい。これには周も苦虫を噛み潰したような気にさせられてしまった。
「それについてはここでのてめえの働き如何によってだ。ただ闇雲に三年の時間だけをダラダラと過ごすんじゃ、舎弟なんぞは到底夢のまた夢だな」
周にガッチリと押さえ込まれて、ロンはタジタジと頭を掻きながら苦笑した。
◆68
圧を伴った周のオーラにロンは縮こまってしまうしで、そんな雰囲気に視線を泳がせながらも冰は激励の言葉を口にした。
「と、とにかく……採掘のおしごと、ご足労をおかけしますがよろしくお願いします。あの……ロンさん、お身体にだけはどうぞお気をつけてお過ごしくださいね」
冰にあたたかい言葉をかけられて、ロンは驚きつつも目一杯頭を下げて元気のいい返事をした。
「姐さん……あんたって人は……ホントに……。俺、頑張ります! 姐さんのお気持ちを無駄にしねえように精一杯やりますんで! 姐さんもお身体大切にして、ご主人と末永くお幸せでいてください!」
感激で胸が熱くなってしまったのだろうか、照れ笑いでごまかしながらも目頭を押さえて作業に戻っていく後ろ姿を周と共に見送った冰であった。
◇ ◇ ◇
それからひと月余りが過ぎた頃、街はクリスマスのイルミネーションが華やかに彩りを見せる季節である。
夜の銀座にも木々の装飾が煌めき、恋人たちが楽しげに行き交う並木通りの外れに、ひとつの店が華やかにオープンしようとしていた。サリーこと佐々木里恵子がオーナーママとして開いたクラブである。
あの後、すっかりと心を入れ替え、古巣であるクラブ・ジュエラの君江ママにもこれまで世話になった礼と共に正式な挨拶の儀式を執り行ったサリーは、皆に祝福される形で開店へと漕ぎ着けたのであった。
オープン初日の今宵は、店の前の通りにまであふれんばかりの祝い花が並び、幸先の良さを感じさせる華やかなスタートとなった。そんな中、一等目立つところに鐘崎僚一と鐘崎遼二の名で大きな祝花のスタンドが添えられ、その隣にはジュエラの君江ママからも豪華な花が寄せられた。皆の厚情にサリーは大感激し、厚く礼を述べたのだった。
「サリーちゃん! 開店おめでとう!」
花とは別に分厚い祝儀を携えて、ビシッと決めた正装姿で祝いに駆け付けた鐘崎親子と紫月の姿に、サリーは両手放しで喜んだ。
「紫月ちゃん! 僚一さんと遼二もありがとうございます! こんなに立派なお花まで出していただいて……アタシ、本当に何て言っていいか……何よりのお祝いを本当にありがとうございます!」
真っ新な着物に身を包んだサリーがハンカチで眼頭を押さえながら感激の面持ちで迎え入れる。ホステス時代も華があったが、こうしてシックな着物姿もまた一段と艶やかだ。僚一がエスコートしてきた君江ママからも厚い祝儀と心からの言葉をかけられて、せっかくの華やかな化粧が台無しというくらいサリーは嬉し涙がとめられずにいた。
「サリー……じゃなかった! これからは里恵子ママって呼ばなきゃだな!」
紫月に言われて、ようやくと笑顔が戻ってくる。
「いいのよー紫月ちゃん、サリーのままで!」
「んー、でも里恵子ママっていうのも粋じゃん! 今の着物姿にゃ、やっぱこっちの方がしっくりくるしさ! でもって店の名前がクラブ・フォレストなんだな!」
◆69
「ええ、そう。森の隠れ家っていう感じで、一息つきにお立ち寄りいただきたいなと思ってこの名前にしたの」
「そっかぁ! うん、仕事帰りにホッとできる空間だな」
深い緑を基調にしたカーテンや調度品などで飾られた店内を見渡しながら紫月がうなずく。言葉には出さなかったが、おそらくは森崎瑛二の名から一字、森という字を取ってイメージしたのだろうか。共に生きられずとも彼女の想いの深さが表れているようで、切なくも胸に響く思いがしていた。
「これからは俺たちも接待なんかで時々寄せてもらうぜ」
よろしく頼むなと鐘崎が言う。
「おお、いいじゃねえか。ま、俺の方はこれまで通り君江のところで厄介になるとするさ。若いモンは若い者同士ってな?」
父の僚一がおどけたふうにそう言って笑うと、君江も里恵子も朗らかに微笑んだ。
「いやぁねえ、僚ちゃんってば! 何だか急に歳を取っちゃった気分になるじゃないのー!」
君江ママに肘で突かれて僚一がぺろりと舌を出す。一同はドッと和やかな笑いに包まれたのだった。
そんなおりだ。黒服がやって来てそっと里恵子に耳打ちをする。ふと視線をやれば、店の入り口に遠慮がちに佇んでいる男の姿に驚かされる羽目となった。
「……瑛二……!」
なんとそこには里恵子の元恋人だったという森崎組の若頭である瑛二が控えめな花束を手にして立っていたのだ。
「瑛二……あなた、どうして……。こんなところに来て大丈夫なの?」
ひどく驚き顔で里恵子が視線を泳がせる。だが、当の森崎から飛び出した言葉に、一同は更に驚かされることとなった。
「里恵子……すまなかった。俺は親父の組を抜けて独り立ちすることにした」
「独り立ちって……奥様になる方はご承知なの?」
「いや、彼女との縁談も破談になった」
「破談って……どうしてまた……」
「お前が忘れられなかった。一時は組のことを考えて親父の言う通りに従おうと決めたが、どうしてもお前のことが忘れられずに苦しんだ。悩んだが、親父の傘を着て生きていくよりも自分に正直に生きたいと決めて、組を出ることに決めたんだ」
「……瑛二……」
森崎は、一からのスタートでまだ金も力もまったくない状態だが、精一杯精進して自分たちだけの新しい組で頑張るつもりだと決意を語った。
「こんな俺にもついて来てくれると言ってくれた若い衆数人とのスタートだが、精一杯やってみようと思う。いつか……お前を迎えに来れるよう努力するつもりだ。だから里恵子……それまで待っていてくれないか」
男の言葉に里恵子はみるみると潤み出した目頭を押さえた。
「瑛二……ええ、ええ……アタシはもちろん……! でもあなたは本当にそれでいいの?」
一時の感情で大それた決断をしてしまって後悔しやしないかと心配そうに言う。
◆70
「もう決めたんだ。俺にとって組や親父も大事だが、それよりももっと大事なものがあると気付いたからだ。里恵子、それはお前だ。それなのにフラフラと迷って、愛してもいない女と縁組しようとした自分を恥じている。体裁の為だけに利用しようとしてしまった彼女にも申し訳ないと思っている」
「瑛二……」
我慢できずにしゃくり上げて涙する里恵子の肩にそっと手を差し伸べながら男は言った。
「すまなかった。お前にも辛い思いをさせてしまったことを許して欲しい。そして……これからの俺を見ていて欲しい」
「え……じ、瑛二……。ええ、ええもちろん……」
涙にくれながら手を取り合った二人を静かに見守りながら、そっと席を立ち上がって鐘崎は自分と似た名の男を見つめた。
「森崎――だったな。節介なことを言うようだがひとつだけ約束して欲しい」
至極真剣な表情で――まっすぐに視線を合わせてそう言った鐘崎に、森崎という男もまた真摯な態度で話の続きを待った。
「間違ってもこのサリーを食いもんにするようなマネはしてくれるなよ。部外者の俺がえらそうなことを言えた義理じゃねえが、この店の名をクラブ・フォレストに決めてたった一人で背負っていこうとしてた彼女を泣かせるようなことだけはしねえと約束してくれ」
鐘崎の言葉に男はハッと瞳を見開いた。確かに地位も何も投げ捨てて、一文無し同然の状態で家を飛び出した男にとって、しばらくは甘くない現実が待っていよう。例え苦しくとも、サリーの稼ぎを目当てに甘い言葉で騙くらかすようなマネだけはしてくれるなという鐘崎の願いだった。
男にもそれが充分理解できたのだろう、背筋をピンと伸ばしてうなずくと、意思のあるしっかりとした声でその思いに応えたのだった。
「はい、肝に銘じてそんなマネはしないと誓います――!」
「そうか」
鐘崎は静かな眼差しで安堵の気持ちを表してみせた。そんな二人の様子に、里恵子がより一層熱くなってしまった目頭を押さえる。愛する瑛二の覚悟もむろんだが、散々迷惑を掛けてしまったにもかかわらず鐘崎がこんなふうに思いやってくれることが嬉しくてならなかったのだ。
「さあ、せっかくの開店の日に涙は禁物だ。今日は皆で目一杯里恵子の門出を祝おうじゃねえか!」
僚一はそう言うと、
「森崎、お前さんも一緒に席につけ。今宵は俺の奢りだ! 一緒に里恵子を祝ってやろう」
森崎にも自分たちのテーブルへ来いと誘いの言葉を口にする。驚いたのは森崎だ。
「そんな……滅相もございません。手前なぞまだまだ駆け出しとも言えない青二才です。皆様のお邪魔をするつもりは毛頭ございません」
森崎は祝いの花束だけを渡してすぐに帰るつもりでいたようだ。
「まあそう言うな。これからはお前たち若いモンがこの世界を背負っていくんだ。いい機会だから遠慮せずに付き合え」
「は……、こんな手前にそのような有り難いお言葉……。感謝の言葉もございません」
◆71
森崎は鐘崎や紫月らと同年代だが、ほんの少し歳下でもある。それ以前に、裏の世界でいう立場的には圧倒的に下であるのは確かだ。森崎からしてみれば、鐘崎組といえば実力も何もかもが優っている雲の上のような存在である。そこの長である僚一から夢のような誘いを受けたこと自体が恐縮などという問題ではないわけだ。
いつまでも首を垂れたまま微動だにできずにいる彼に、鐘崎からも微笑ましい言葉が飛び出した。
「親父の言う通りだ。これからは互いに凌ぎ合い、助け合っていきてえ。よろしく頼む」
やわらかな笑みと共に有り難い言葉を掛けられて、森崎の胸に思わず熱いものがこみ上げる。
「ありがとうございます……! 手前などにそのようなご厚情……。不束なならず者でございますが、どうぞ今後ともよろしくご指導ください!」
森崎瑛二は心からの感激を胸に、厚く礼を述べると共に真摯に頭を下げたのだった。
――と、そこへまた黒服が客人を連れてやって来た。
「氷川! 冰君も!」
紫月が嬉しい叫び声を上げて立ち上がる。なんとそこには祝い用の洒落た花籠を手にした冰と、彼をエスコートするように肩先に手を添えた周が正装姿で立っていたのだ。
「冰がな、こういった店は初めてだというんで祝いがてら邪魔させてもらった」
「そうだったのか! 冰君ー、ご一緒できて嬉しいぜ!」
紫月がすかさず席を詰めて二人の為に場所を譲る。あっという間に楕円形の長いソファが満員になって、正装姿の男たちで華やかに埋め尽くされたのだった。
「里恵子ママさん、開店おめでとうございます。これ、心ばかりですが……」
冰が手にしていた祝い花のバスケットを里恵子へと差し出す。周からは分厚い祝儀袋が手渡されて、里恵子はまたしても涙を誘われてしまった。
「冰ちゃん、それに周焔さんもありがとうございます!」
「いい店だな。シックで落ち着いた雰囲気でホッとできる」
周が褒め言葉を口にすると、里恵子も嬉しそうに涙を拭った。
「カネも親父さんもいることだし、俺がでしゃばらずともよさそうだが、ささやかな祝いの気持ちだ。乾杯のシャンパンくらい持たせてくれ」
周がそう言うので、一同は厚意に甘えることにした。
豪華なフルーツ盛りと共に艶やかなラベルの高級シャンパンが運ばれてくる。
「うわぁ、綺麗……! 果物のタワーだぁ!」
冰が物珍しそうに感嘆の声を上げている。
「里恵子ママがな、フルーツの仕入れ先を俺の社が卸している店と契約してくれたんだ」
「氷川の社が卸してるっていうと、例の老舗果物店か! すっげ、豪華じゃん!」
◆72
周の社は商社だから、世界各国からいろいろなものを輸入している。フルーツもその内のひとつで、銀座界隈のみならず全国的に有名どころの老舗果物店とも取り引きがあるわけだった。今回の開店にあたって、里恵子がフルーツの仕入れ先に選んだのがその果物店だったというわけだ。
「冰君、ここの果物はマジ美味いぞ! 例の俺の大好物のラウンジのケーキにもその店の果物が使われてんだ」
「そうなんですか! イチゴショートに乗ってるフルーツとか、すっごく新鮮で美味しいですもんね!」
「そそ! でっけえし、じゅわーっと甘くてさぁ! もういっくらでも入っちゃうって感じだよな!」
紫月と冰が早速にフルーツ談義で盛り上がっている。そこへ里恵子がおしぼりを手渡しながら割って入った。
「そうだわ、冰ちゃん! 蘭州のご実家に帰った静雨さんだけれどね、彼女も元気にしている様子よ。冰ちゃんに会うことがあったらよろしく伝えてくれって頼まれていたの!」
「静雨さんが! そうですか!」
「なんでもね、彼女が実家に帰った時には、ご両親だけじゃお店を切り盛りするのが大変になってきたからっていうことで、若い職人さんをお雇いになっていらしたらしいの。彼女のおうち、蘭州麺のお店を営んでいらっしゃるのよ。それで……その職人の方がとっても素敵な方らしくて、毎日が楽しいって静雨さん、そう言っていたわ」
「職人さんって男の人なんですか?」
「ええ、そうみたい! これはアタシの想像だけど、とってもいい雰囲気よ!」
里恵子がチャーミングな仕草でウィンクをしてみせる。
「そうでしたか! 静雨さん、お元気で楽しくお過ごしなんですね。良かった……!」
冰も心からホッとしたようで、とても嬉しそうだ。そんな様子を見ていた周も紫月も鐘崎も、穏やかな笑顔に包まれたのだった。
「よし、それじゃ乾杯といくか! 発声は君江がやってくれ」
僚一に指名されて、君江ママがグラスを手に厳かな面持ちで立ち上がった。
「それでは僭越ながら。クラブ・フォレストと里恵子ママのご健勝ご発展を祈念して乾杯!」
「乾杯ー!」
賑やかな掛け声と共にグラスが重なり合い、シャンデリアの光に照らされてキラキラと輝く。拍手喝采の中、極上のシャンパンに舌鼓を打った一同だった。
思えば、この里恵子の店の開店にあたっての後見云々から始まった騒動であったが、紆余曲折を経て無事にオープンに漕ぎ着けたわけである。極道の男たちには災難も降りかかったひと騒動であったわけだが、それも大いなる気概を持った姐たちの活躍で乗り切ることができ、結果は大団円といえよう。
「来週には本物のもみの木が届くことになっているのよ。クリスマス・フォレストと題してイベントも予定しているから、皆さん是非遊びにいらしてね!」
「うっは! そいつは楽しみだ! だったらさ、前に張さんから貰った例の着ぐるみでも着て参戦すっか! 森の中を散歩できるなんて最高じゃね? なぁ、冰君」
「わぁ! いいですね! まさにフォレストですね!」
紫月と冰が瞳を輝かせる傍らで、周と鐘崎の旦那組はさすがにタジタジである。
「おいおい、着ぐるみもいいが、今度はお前らだけで着てくれよ?」
案外大真面目に蒼くなっている周にドッと笑いが湧き起こる。
「今度はって……まさか周焔さんと遼二も着たことがあるの?」
「まあ! 着ぐるみを? あなたたちが?」
クエスチョンマークが顔周りでクルクル回っているかのような表情で君江ママと里恵子が興味津々、身を乗り出している。周はまさかの自爆に片眉を吊り上げての硬直状態だ。つい口車に乗せられてしまい、冷や汗を拭っている彼を目の当たりにできるなどおおよそ滅多にあるものではない。
「ま、まあな。マカオの張が等身大の着ぐるみを贈ってきたんで成り行きで一度は着たんだが、ありゃ一生の不覚だった」
「ええー! 見たかったわー! すっごいレアじゃない、それって!」
「おいおい、勘弁してくれよ」
周がソファに深くのけぞりながら『参った!』と額を覆う。そんな仕草もそれこそ劇的にレアで、追い詰められた野生の王者が手負に焦るそんな様子もある意味色気が匂い立つようだとママたちは大はしゃぎだ。
◆73
「でも一度でもちゃんと袖を通すっていうところがさすがだわね! 周さんも遼ちゃんもホントに懐が深いのね!」
「なんだったら君江ママと里恵子ママに進呈すっから、二人で着りゃ可愛いくていいんじゃねえか?」
鐘崎が横から助け舟を出すと、
「おお、そいつぁいい!」
周も大賛成といったように即座に身を乗り出した。彼女らに譲れば、もう”アレ”を着せさせられる恐怖から解放されると思うと一安心なのである。まさに一石二鳥と喜び勇む。
「ええ、ホント? 着てみたいわー! ねえ、君江ママ」
「いいわね! 極道の男たちのお下がりなんてそれこそプレミアの劇レアものだわぁ! 周焔さんと遼ちゃんの残り香付きなんて最高じゃないのー! 里恵子はどっちを着たい?」
「なんだったら俺と冰君の残り香付きの方でもいいんだぜ?」
ママたちの間からニュっと顔を出しながら紫月が悪戯そうにウィンクを飛ばしてみせる。
「いやーん、それもいいわね! 周焔さんと遼ちゃんの男臭さも魅力だけど、紫月ちゃんと冰ちゃんならいい匂いがしそうだし迷っちゃうわぁ!」
わいのわいのと着ぐるみ談義で大盛り上がりである。
「おいおい、まったくオナゴにゃ敵わんな……」
「うふふ、そうよ! 女は強しってね。恐れ入ったか!」
チャーミングなガッツポーズと共に肘でツンツンと肩を突いた君江ママに、
「はいはい、参りましたでございますよ! ママには敵わんなぁ」
周が両肩をすくめ、白旗を揚げてみせる。
「……ったく、面子丸潰れだぜ。こうなりゃヤケ酒だ!」
そんなふうに言いながらも黒服に向かって一等高級なコニャックを追加注文する。女たちに華を持たせつつ、さらりと売り上げに貢献するそんなところがまた堪らなく粋なのである。
「白龍ったら、ホントにカッコいいんだから!」
「お、そうか? 惚れ直したか?」
「うんうん! そりゃあもう!」
冰にこっそりと耳打ちされて周の機嫌も上々だ。
ネタにされ追い込まれたふりをしながらも、さりげなくママたちを立てて場をも盛り上げてしまう。そんな亭主の男気を讃えて寄り添う姐たちもまた頼もしさにあふれている。そこへ黒服が注文された酒を持ってやって来て、華麗な仕草で封を切ってみせた。
「うわぁ……何これ、すっごいカッコいい! お酒っていうよりも芸術品みたい……!」
黒光りするゴージャスなボトルに冰が目を剥いている。まるで宝石のように輝いて、ものすごく粋なのだ。
「今回、俺たちを助ける為にお前が使ってくれたヤツにちなんでな。マグナムって名前のボトルだ」
「うっは! ルイのブラックマグナム……!? すっげ! めちゃくちゃレアじゃん!」
「氷川の愛を感じるな! ってよりも、これをストックしてた里恵子もすげえわ」
周が冰の肩を抱き寄せて説明する傍らで、紫月と鐘崎も興味津々で瞳を輝かせている。
◆74
「うふふ、いつか自分のお城を持てた時の為にと思ってね、確保しておいたのよ。まだストックはあるから、冰ちゃん、よかったらビンは持ち帰ってくれていいわよ」
里恵子がウィンクと共に言う。
「え……! よろしいんですか?」
「もちろんよ! 何て言ったって周さんの愛情ですものね!」
「よし、それじゃ改めて乾杯といくか!」
「うわぁ、何だかドキドキしちゃうなぁ。大人の気分だぁ! 乾杯ー!」
「おい冰、飲み過ぎるなよ。こいつぁ、シャンパンと違ってアルコール度が高えからな」
周が老婆心丸出しで過保護にする傍らで、紫月が面白そうにツッコミを繰り出す。
「いいじゃん! 酔ったらそれこそ襲いたい放題! 猛獣氷川の独壇場だ! 今夜は寝かさねえぞー、なんつってー!」
「お! そういう手があったか」
存外大真面目にシミュレーションしてうなずく周に、またもやドッと笑いが湧き起こる。
「ん、ならお前も飲め。俺がガッツリギッチリ独壇場してやる!」
鐘崎も触発されてしまったのか、”酔い潰して猛獣になる作戦”にワクワク顔だ。紫月のグラスにトポトポと酒を注いでは、また新たなボトルを追加する。気前のいい男たちにママたちは大興奮で大はしゃぎである。
「よっしゃ! 今夜は飲むぞー!」
「そりゃいいが、品良くいけよ、品良くな!」
「いんや、今夜は祝いの無礼講だー!」
「そんでもってその後は野獣大会が待ってっぞー!」
「いやぁねえ、もう!」
「周さんも遼ちゃんも二人共エッチなんだからぁ!」
「そりゃ男の甲斐性ってモンだろが! 森崎、おめえも参戦しろ、参戦!」
「おお、その通りだ! 野郎三人でタッグを組もうぜー」
鐘崎と周が里恵子の恋人の森崎の肩を抱いて、旦那衆で盛り上がる。
「おいこら、てめえら! 若えモンばっかで徒党組んでんじゃねえ。俺も混ぜろ混ぜろ!」
僚一までもが身を乗り出して大わらわである。そんな中、冰が強い酒に頬を染めながらニコニコと感激ぶりを口にした。
「クラブって初めて来たけど……ホントに楽しいところなんですねぇ」
グラスを胸前でしっかり抱えて小首を傾げる仕草が素直で何とも例えようがなく可愛らしい。
「冰……あまり可愛いことをしてくれるな。帰るまで待てねえじゃねえか……」
周が真顔でそんなことを呟いている。
「うそ、マジ? もしかここで野獣になっちまうってかー?」
紫月に冷やかされて周が腕組みをしながら鼻を膨らませてみせる。
「うむ、それもいいかもな」
「いやだぁ、周さんったら!」
キャハハハと賑やかな笑いが巻き起こり――とびきりの笑顔と最高の仲間たちに囲まれながら、眠らない銀座の夜が更けていったのだった。
極道の姐 - FIN -