極道恋事情
◆1
時をさかのぼって八年前、それは晩秋を告げる枯葉舞う季節のことだった。
大学での学業を終えた周焔は、側近の李と共に繁華街の、とあるアパートメントを訪ねていた。幼き日の雪吹冰が育ての親である黄老人と共に住んでいた家である。
この日、冰はまだ学校から帰っておらず、周を出迎えたのは黄老人一人であった。
「周大人、このような所にお運びくださり恐縮に存じます。また……幾年もの間、欠かさずにご支援を賜り続けておりますご厚情に……何と御礼を申し上げてよいやら、ただただ恐縮の極みでございます」
老人が質素ながらも心を込めて淹れたと思われる茶を差し出しながら平身低頭で深々と頭を垂れている。冰の両親が亡くなって以来、一時たりと欠かさずに生活費を援助してもらってきたことへの感謝の意である。
周は勧められた茶に口をつけながら静かな口調で話し始めた。
「黄大人、礼には及ばない。俺はあの坊主が幸せに暮らしていてくれさえすれば他に望むことはない。大人のお陰で元気に成長してくれているようで、礼を言うのはこちらの方だ」
「は、もったいないお言葉でございます。お陰様であの子も大病をすることなく、友達も多ございまして、毎日元気に学校に通っております」
「そうか。安心した」
周はまたひとたび茶をすすると、わずか切なげに瞳を細めながら話を続けた。
「実は此度香港を出ることになったんで挨拶に寄らせてもらった。本当ならばもっと前に修業するつもりでいたんだが、親父の厚情で大学まで通わせてもらうことができた。お陰で卒業式も済んだことだし、俺はこれから日本へ移住して起業しようと思っている」
黄老人はよほど驚いたのか、ようやくと頭を上げて目の前の周を見つめた。
「香港を去られるのでございますか……?」
「ああ。あんたも裏の世界の事情には詳しいようだから既にご存知かと思うが、俺の母親は日本人女性だ。ファミリーの父も継母も、そして腹違いの兄も本当に良くしてくれていて、俺には感謝という他ないんだが、だからこそそんなファミリーの恩義に報いる為にも起業して、微力ながら支えになれるよう努力したいと思っている」
「……左様でございますか……。それで日本へ……」
老人にしてみれば、何もわざわざ海外へ出なくとも起業するだけならここ香港の地でもいいのではと言いたげである。むろんのこと間違ってもそんなことは口にしないまでも、視線がそう訴えているのが丸分かりといった様子に、周は薄く苦笑を浮かべるのだった。
◆2
「じいさん、あんたに嘘は通用しそうもねえから本当のことを言うが、俺が妾腹だというのは変わらねえ事実だ。ファミリーは分け隔てなく俺を家族として扱ってくれるが、正直なところ親父の後継は二人もいらない。それが現実だ。兄貴は兄弟で力を合わせて一緒にやっていこうと言ってくれるが、それを快く思わない連中がいるのも本当のところでな。これまで恩義を掛けてくれた家族の為にも、俺は香港から離れて、外から力になれる人生をいこうと思っている」
「左様でございますか……」
少し力なく思える声音が、『お寂しくなりますな』と言っているようで、周は瞳を細めた。
「心配には及ばん。日本に行っても変わらずに援助は続けさせてもらうと約束する」
「そんな……滅相もございません! これからは大人の門出でございます。異国の地で一からのご出発、何かとご苦労も多ございましょう。私共はもう十分過ぎるほどのご厚情をいただいております! どうかこれからは私共のことはお気になさらず……ただ……お身体だけはお大切になされてくださいまし」
それが老人の本心なのだろう。これでもかというくらいに身を縮める様子が心の内を物語っていた。
「じいさん、――ひとつ頼みがあるんだが」
「は、何でございましょう」
「縁起でもねえことを言うわけじゃねえが、もしもあの坊主が一人になるようなことがあったら――だ。今はまだあんたもこうして健在で何よりだが、何らかの事情でそれがままならなくなる時がくるかも知れねえ」
「――はい」
老人はこの時既にかなりの高齢であったから、周の言わんとしていることをすぐに察したようだ。
「ご覧の通り、私もいつお迎えが来てもおかしくない年齢です。私亡き後もあの子が路頭に迷わず暮らしていけるように貯蓄だけは残しております。それこそ周大人からご支援いただいた莫大なな財産もそっくりあの子に渡せるようにと日頃から準備は整えてございます。まだ子供ですので、あの子に代わって贈与の手続きなどが滞りなく行われるように、信頼のおける弁護士にも頼んであります」
「そうか。あんたは本当にあの坊主を大切にしてくれているんだな」
「いえ、それもこれもすべて周大人がご厚情を掛けてくださっているお陰です!」
「なあ、じいさん。あんたに万が一のことがあったら……その時は俺があの坊主を引き取りたいと思う」
「え……?」
さすがに驚いたのか、老人が瞳の皺を掻き分けるくらいに大きく見開いた目で周を見上げた。
「日本で一から起業するといっても、俺には親父が手助けしてくれた元手もある。小さな貸しビルからのスタートだが、既に親父から大口の取引先なども口利きしてもらっていて、在学中からぼちぼちと仕事の方にも手をつけているんだ。本格的に起業し、必ず繁栄させてみせる。だからもし、万が一の時は坊主に俺を頼ってくれるよう伝えておいてくれないか」
「周大人……」
◆3
有り難いことこの上ない申し出ながら、何故そうまでしてたった一人の子供のことを気に掛けてくれるのか、老人には不思議に思えてならないようだった。ただただ驚き顔でいる様子に、周にもその心の内が伝わったのだろう。
「俺にもはっきりとした理由があるわけじゃねえ。ただ……どうしてもあの坊主には寂しい思いをして欲しくない。辛く苦しい思いはさせたくねえ、ただそれだけだ」
「……大人」
「日本に行けば、そうそう頻繁にはここへも寄れなくなるからな。むろん、春節の時期には毎年帰ってくるつもりではいるが、ここを発つ前にどうしてもそれだけ告げておきたかった」
周の言葉に老人は更に深く頭を垂れながら、静かにうなずいてみせた。
「そうでしたか……。承知致しました。大人の厚いお心遣い、しかとこの胸に刻みます。万が一の時は……どうかあの子をよろしくお願い致します」
「ああ、任せてくれ。あんたが大事に育てたように、俺も決してあの坊主を不幸にするようなことはしねえと誓う」
「は、ご厚情痛み入ります」
「そろそろ暇させてもらう。これからも坊主を頼んだぜ」
周は薄く笑むと、ふるまわれた茶を飲み干して部屋を後にした。
「あの……大人!」
玄関の扉を開けたと同時に慌てて呼び止めた老人の声に後ろを振り返る。
「何だ」
「もう少しであの子も学校から帰って参ります……。よろしければ一目だけでもお顔を見せてやってはいただけませぬか……? あなたに助けていただいた幼き日から……あの子もあなた様のことはずっと忘れずにおります。時折、あのお兄ちゃんはどうしているかなと、あなたを思い出す言葉を口にします。ですから、もしよろしければ……」
一目だけでも会ってやってくださいと潤む瞳で訴えてくる。
「いや……、それだけ聞ければ充分だ。坊主にはよろしく伝えてくれ」
周はわずか切なげに笑うと、少年の帰宅を待たずにアパートを後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
「よろしかったのですか? 一目だけでもお会いになっていかれれば……」
通りに停めた車に戻ると、李が遠慮がちにそう訊いてよこした。
「いいんだ。坊主が元気でやっていさえすればそれでいい。嬉しい話も聞けたことだしな」
周にしてみれば、まさかあの少年が自分のことを覚えていてくれたとは夢夢思わなかったので、新鮮な驚きだったのだ。上手く言い表すことは難しいが、心の中があたたかい何かで満たされるような不思議な心地好さを感じるのだった。
「そろそろ行こう。出してくれ」
今一度アパートの窓を見上げて深く息をつく。と、その時だった。
「老板……ご覧ください! 例の少年ではありませんか?」
◆4
李の叫び声に通りの向こうに目をやれば、楽しげに友達と連れ立って帰って来た少年の姿が飛び込んできた。
「じゃあな、冰! また明日なー!」
「うん、バイバーイ!」
冰と呼ばれていることから間違いなくあの少年だと思えた。友達に手を振ってアパートへと入って行く。少しすると、彼らが住む三階の窓からひょっこりと少年が顔を出したのに気がついた。
幼かったあの日から比べると、どこかしこに成長した様子が見て取れる。だが素直で真っ直ぐな性質がうかがえる大きな瞳はあの頃のままだ。ふわふわと顔まわりを覆う長めの髪がよく似合っていて、何ともいえずに可愛らしい。
何やら探しものをするかのように慌てた素振りでキョロキョロと階下を見渡している仕草を目にすれば、何故だか心の奥底をギュッと鷲掴みにされるような気分に陥った。
その直後、窓から姿が消えたと思ったら、転げるような勢いでアパートの階段を駆け降りてくる姿を見つけて、周は思わず視線を釘付けにさせられてしまった。
少年の後を追い掛けるようにして黄老人もおぼつかない足取りで懸命に階段を降りてくる。通りに出れば、二人共に必死に辺りを見渡しているのが分かった。
「老板をお捜しなのではありませんか? 老人があの少年に老板が来たことを告げたのかも知れません」
今ならばまだ間に合う。通りを一本挟んだだけのこの距離だ。すぐに車を降りて呼び掛ければ、彼はきっと気付いてくれるだろう。
駆け寄って言葉を交わし、微笑み掛けてやりたい。髪を撫で、『元気か』と聞き、あの小さな身体を両の腕で抱き締め、すっぽりと包んだのならどんな気持ちになるのだろう。
だが、周はそうしなかった。ドアを開いてしまいそうになる指をもう片方の手で押さえ、今にも駆け降りんと動き出しそうな脚の震えを必死に堪える。
「出してくれ」
「ですが老板……」
「いいんだ。今、あいつに会えば……覚悟が鈍る」
真っ直ぐに俺を見つめたあの小さな坊主と向き合い、目を合わせてしまったならば、後ろ髪を引かれる思いを振り切れなくなる。
「何も日本へまで行かずともいい。ここに残って起業すりゃいいじゃねえかと、俺はきっと自分を甘やかしちまうだろう」
「老板……」
「心残りはあの坊主のことだけだ。あいつが元気でいれば……それだけで俺は満足だ」
出してくれと小さく告げられた言葉に、李もまた切なげに瞳を細めたのだった。
「いつか……縁があればまた会うこともあるだろう」
滑り出した車中から振り返った視線の先に、小さな少年の姿が遠ざかっていく。
「元気でいろよ――」
ふと、窓越しに見上げた空が秋の夕暮れに染まって美しかった。
濃い橙色はまさに焔の如く、それを取り巻く白い雲はあの少年の名を思わせるやわらかな雪吹色だ。
秋のつるべ落としの陽が、やがて白い雲を真っ赤に染め上げて――二つが一つに溶け合う景色を胸に刻み、周焔は生まれ育った香港の地を後にした。八年の後、その腕に抱くことになるかけがえなき温もりを未だ知らぬ――枯葉舞う冬の初めのことだった。
周焔の香港哀愁 - FIN -