極道恋事情

14 周焔の東京好日



◆1
 周焔が香港を去ってから八年が過ぎたその日、東京の汐留に巨大なツインタワーを建てるほどに成長させた高層ビルの一室で、周は穏やかな面持ちで室内を見渡していた。
 白を基調にした広々とした洋室は、未だ誰にも使われてはいない。ただ、掃除だけは常に行き届いており、全面パノラマのガラス窓からは秋の傾きかけた午後の陽射しがやわらかに降り注ぎ、遥か階下の街路樹をキラキラと照らしているのが見えた。
 周の自室はこの部屋からダイニングを挟んだ隣にあるが、時々こうして一人で立ち寄り、景色を眺めるのが習慣となっていた。
「老板、やはりこちらでしたか」
 控えめなノックと共に側近の李が顔を覗かせる。午後の休憩の後にふと姿を消してしまった周を捜して追い掛けて来たのだ。
「ああ、李か。どうした」
 今日はもう来客や打ち合わせの予定も入っていない。そんな午後には必ずといっていいほど、周は一人でこの部屋を訪れるのだ。特には何をするわけでもなく、ただただ大きな窓辺に佇んで景色を眺めているだけのことが多い。
「いえ、特に急ぎの用というわけではございませんが、明日は老板のお誕生日であらせられます。一日早いですが、今日はこの後の予定もございませんし、よろしければ劉と私とでささやかながらお祝いを申し上げたいと思いまして」
 周の気に入りのレストランでディナーをどうかと誘いにやって来たらしい。
「お誕生日当日は真田さんがお祝いの膳をご用意しておられると存じますので」
 だから今日にでもと思ったようだ。
「誕生日か。相変わらず律儀に覚えていてくれるな」
 そんな年齢でもないのだが、こうして毎年忘れずに祝ってくれようという心遣いが有り難い。
「いつもすまねえな」
「いえ、私と劉の楽しみでもありますので」
 気を遣わせまいとそんなふうに言ってくれるのも、周にとってはあたたかく嬉しい気持ちにさせてくれるものだった。
「老板はここからご覧になる景色が本当にお好きなのですね」
「ああ。なんとなく香港が見えるような気がしてな」
 ちょうどこの窓から望む方角に香港があるというのもある。
「なあ、李――」
「はい」
「黄のじいさんはどうしているだろうな。あの坊主も既に修業して、今はじいさんの後を継いで、カジノのディーラーをしているんだったな」
「はい、そのようです。季節毎に香港の兄上が黄大人と少年のご様子を見に密かに訪ねてくださっておりますが、この夏にアパートを訪れた際にはお二人共変わらぬご様子だったと聞き及んでおります」
 年に二、三度、周は兄の風に頼んで若い衆に二人の様子を見に行ってもらっているのだ。もちろん、年始などで自身が香港に帰郷した際には自ら赴くわけだが、そんなおりでも周が二人と直接顔を合わせることはなかった。ただ、遠くから彼らの無事を確かめられればそれで安心できたのだ。
「あの坊主も職に就く年齢になったか。黄のじいさんは誠大切にあの坊主を育ててくれたんだな」
「老板……」
 李は誰も使っていないこの部屋が何の為に用意されているのかを知っている。万が一にも黄老人が他界した時の為に、あの少年を引き取ろうと周が心に決めていることもむろん承知だ。そうなった時には彼をここへ呼んで住まわせる心づもりでいるということも重々理解していた。



◆2
 幸い黄老人は今なお健在の様子で、万が一という事態になっていないのは喜ばしいことであり、ただ李には自らの主人の心の内を思えば、少しばかり切なく感じてしまうのもまた確かなのであった。
「次の春節には――訪ねてみようかと思っている」
「……! ではお会いになられるのですね?」
「ああ。親父やお前たちの助力のお陰で仕事の方も軌道に乗せることができた。黄のじいさんもいい加減高齢だろうからな。たまには直に顔を見てくるのもいいだろう」
「そうでございますか! きっとあの少年……いえ、今はもう青年ですね。彼も喜ばれることでしょう」
「さあ、どうだかな。坊主がまだ俺を覚えていてくれればだがな」
 周は微苦笑するが、その表情は穏やかで、早く春節にならないかと待ち遠しい思いが滲んでいるように感じられる。
 いつの日か、彼がこの部屋に住まう時が訪れるだろうか。雪吹冰という名にちなんで白で揃えられたカーテンや調度品の数々が、午後の陽射しに照らし出されてやわらかな佇まいを見せている。まるで淡雪のようなやさしい青年に早く使って欲しいと待ち焦がれているかのようだ。
「よし、それじゃ今宵はお前たちの厚意に甘えるとするか。で、どこで飯を食うつもりだ?」
 ずっと窓の向こうに香港を思っていたのだろう周がくるりとこちらを向いて笑顔を浮かべる。
「はい、老板のお好きな香港料理の店を予約してございます」
「そうか。いつもすまない」
「いえ、私共こそお付き合いいただけて光栄です」
 そっと白い部屋の扉を閉めれば、いつもと変わらぬ日常が戻ってくる。
 この数日後、香港の風が運んでくる嬉しい再会の瞬間がもうすぐそこまで迫っていることを、この時の周はまだ知らずにいたのだった。

 そして運命のその日――。
 午後の社長室でパソコンに向かっていた周は、卓上の携帯電話が震える様子に視線をやった。相手は側近の李からである。
『老板、今よろしいでしょうか』
「ああ、李か。今夜の会食の件で急ぎのメールが一件あるが、構わん。何かあったのか?」
 李とはつい先程まで一緒にいて、昼食を共にしたばかりである。同じ社内の――しかも扉一枚を隔てて隣の部屋にいるはずの彼からわざわざ携帯に連絡が入ることも珍しいので、そう訊いたのだ。
『私は今ロビーにいるのですが、実は香港から黄氏のご子息の雪吹冰様が訪ねていらしております。黄氏がお亡くなりになられたそうで、雪吹様がこれまでの老板のご助力に御礼を申し上げたいと』
 それを聞いた瞬間に、周の漆黒の瞳がみるみると大きく見開かれた。
「――! 分かった。すぐに通してくれ」
『かしこまりました!』
 次第に早く脈打ち出した心拍数を鎮めるように急ぎのメールの返信を打ち込む。
 ほどなくして開かれた扉の向こうに立派に成長した青年の姿を目にすると同時に、書き終えたメールの送信ボタンを押す。
「周焔だ。よく訪ねてくれた」
 デスクから立ち上がる周の背中を秋の傾き出した陽射しがやわらかに照らし出す。

 遠きかの日に見た橙色の夕陽が鮮やかに脳裏に蘇る。

 白く輝く雲を染め上げて、二つが一つに溶け合っていったあの日に感じた哀愁が懐かしく胸を締め付ける。

 初めて出会ったその日から十二年の時を経て――今まさに、運命の歯車が噛み合わさろうとしていた。

周焔の東京好日 - FIN -



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