極道恋事情
◆1
その朝、普段のような食欲はなかった。
いつもと同じように組の若い衆らと食卓を囲んでいても、いつになく箸が進まない。そんな様子を心配そうに見つめながら、隣にいた伴侶の紫月が眉をひそめていた。鐘崎組の若頭、鐘崎遼二にとってこの世で最も愛するかけがえのない夫――もとい妻である。
「どした、遼? どっか具合でも悪いんか?」
普段は食欲旺盛な亭主が今朝は口数も少なく食も進んでいないのが気になって顔を覗き込んだのだ。
「ん……? ああ、いや……体調が悪いわけじゃねえ。むしろ至って健康といえるんだが……」
実に食欲よりも別の欲の方が顔を出しそうになっていて、目の前の膳が目に入らなかっただけだ――などとは、さすがに組の若い衆らがいる前で暴露できるわけもなし。鐘崎は苦笑ながらも無理矢理膳を掻き込むと、
「実はな、少々変わった夢を見ちまって……」
なんとも歯切れの悪い笑みを浮かべながらもタジタジと頭を掻いてみせた。
◇ ◇ ◇
「――で? お前の見たヘンな夢ってどんなんだったんだよ」
食事が済み、事務所の机でパソコンを立ち上げながら紫月が訊く。鐘崎は目を通していた新聞を置くと、コーヒーを口に運びながら昨夜見た夢について語り出した。
「それがな――俺らが高校生になってた話でな」
「ほえー、わりとリアルつか普通な世界の話じゃん! 俺りゃー、またもっと突飛もねえやつかと思った。そんで、どんなんだったんだ?」
「俺と氷川は不良、お前と冰は生徒会の役員で風紀も担当してたっていう夢だったんだ」
「へえ? なんか面白そうじゃね? それでそれで?」
紫月が興味津々といったふうに身を乗り出してくる。
「そういや粟津のヤツも出てきたな。ヤツは生徒会長だった」
「ほええ? んじゃ、俺は俺は? 副会長とかか?」
「いや、お前は風紀担当だったな。朝の校門にお前らが腕章して立っててよ。登校してくる俺らを呼び止めるんだ」
「ええー、マジでか? 俺、かっけー役周りじゃん! そんで、お前ら不良を規則違反だーっつって捕まえるとか?」
ワクワクと瞳を輝かせながら甘いクッキー缶を開けている。
「ん、旨え! これ、昨日冰君がくれたんだけどマジいける! あ、お前のコーヒー一口ちょーだい」
「ん? ああ、ほら」
鐘崎はカップを差し出しながら夢の続きを話して聞かせた。
◆2
それは校門を潜ろうとした時だった。いつものようにチャイムギリギリで、隣には氷川こと周焔も一緒だ。
「はーい、そこの二人。遅刻だ。生徒手帳出して」
呼び止めたのは鬼の風紀委員と名高い生徒会役員の一之宮紫月だった。手にしたボードに視線を落としながら、こちらを見るでもなく飄々とした仕草で遅刻者の欄に名前を書き込んでいる。
「ちょい待ちッ、まだチャイム鳴り終わってねえだろが!」
舌打ちと共にその場を押し切ろうとすると、華奢な見た目からは想像もできないくらいの握力で学ランの腕を掴まれて、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「言い訳はしなーい。チャイムが鳴り出す前までに校門くぐるのが決まりだ。それに……学ランの丈も短すぎる。中のシャツは白と決まっているのに、アンタらのそれは何だ」
「何って……別にいーだろ! 学ランなんざ背が伸びた反動で縮んだだけだし、一限目が体育なんだ。どうせすぐに着替えるんだし、その手間を端折っただけだ」
「見苦しい言い訳はいらねえ! それに我が校の体操着は白に青のラインと決まっている。アンタのは黒、そっちの野郎のは赤じゃねえか。明らかに校則違反だね」
「はぁッ? ンなことくれえでいちいち目くじら立てんなって」
「言い訳無用! 二度も言わせんな。とにかく遅刻と着衣指導あるから生徒会室寄って。逃げんじゃねえぜ?」
ニヤっと笑ったと思ったら、くるりと踵を返してスタスタと昇降口へ向かってしまった。
「早く来い。ここでトンズラこいたら校内中の便所掃除一週間の罰則つけるぞ!」
「じょ、冗談じゃねえぜ……。つか、なんなんだあのクソ風紀委員」
「仕方ねえべ? あれが鬼の一之宮って有名人さ。逆らっても便所掃除の期間が伸びるだけだ。行くぞ!」
氷川こと周に促されて、仕方なしに生徒会室へと向かった。
そこまでが今朝の出来事だ。
その日の昼休み、午後からの選択学習の準備があるとかで昼食を別々に取ることとなった周を見送った鐘崎は、購買の菓子パン片手に屋上へと向かった。天気がいい麗かな午後だ。たまには一人のんびり日向ぼっこも悪くはないとやって来た屋上だったが、どうやら先客がいたようだ。
給水タンクの陰に隠れて、誰かが煙草でもふかしているのだろうか。立ち昇る紫煙に、教師ならば即刻この場をおさらばしようと足を止めたその時だった。
タンクの端から垣間見えたのは明らかに生徒と思える学ランの袖。そしてふわふわと風が揺らす薄茶色の天然癖毛ふうの髪――。
それらを目にした途端、鐘崎は思い切り眉をしかめさせられてしまった。なんとそこにはあの鬼の風紀委員で有名な一之宮紫月が気怠げな仕草で咥えタバコをふかしていたからだ。
◆3
「……ッ、てめ……今朝の風紀委員ッ!?」
思わず叫んでしまった声に気付いた彼がゆっくりとこちらを振り返る。
紫月は焦るでも悪びるでもなく、咥えタバコのままニヤっと口角を上げてみせた。
その一瞬の仕草がひどく色っぽくて、嫌味よりも先に閉口させられてしまう。訳もなく身体の奥の奥の方から熱い何かが一気に湧き上がるような心持ちにさせられて鐘崎は焦った。
「ああ、今朝の校則違反野郎か」
余裕の仕草でそう言うと、美味そうに紫煙を吐き出してみせる。
「……ッ、てめ……他人のこと言えた義理かよ! てめえこそ校則違反どころじゃねえだろが……」
昼休みの屋上で堂々とタバコをふかし、まるで臆する様子もない。学ランのボタンは全部外されていて、中のシャツこそ校則通りの白だが、胸元半分までがはだけている。だらしないを通り越して卑猥な格好といえるのに、何故か妙に板についていて格好いいモデルのようなのだ。ともすれば、むず痒いヘンな気分に誘われそうで、鐘崎は苦虫を噛み潰したように片眉を吊り上げてしまった。
ジリジリと距離を詰め、側に寄っても彼はタバコを消すでも隠すでもなく平然と笑っている。薄く口角の上がった口元がどうにも淫猥な雰囲気を醸し出していて、不本意にもズクりと身体の中心が疼いてしまいそうだった。
そんな気持ちを振り払うように、鐘崎は半開きの口元からタバコをむしり取ると、疼く気分を抑えるかのように深く一服を吸い込んでは思い切り派手に煙を吐き出してみせた。
「はい、同罪ー。てめえこそヒトのことをどうこう言えた義理じゃねえなぁ」
「……ッ、何が同罪だ! 規則の鬼が聞いて呆れるわな! てめ、いつもそうやってフけてやがんのか? これ先公にチクったら風紀委員の面目丸潰れだろうぜ?」
つい嫌味を口走ってしまったが、彼はまったく動じるでもなく、相変わらずニタニタと笑んだままだ。まるで『チクるなんてダセえことほざきやがるチキン野郎』とでも言いたげなのだ。
「……ッ、腹立つ野郎だぜ」
脳天に血が昇ってしまい、不本意にも頬が真っ赤に染まる。
何をどう思ったのか、鐘崎は突き動かされる衝動のままに、気付けば彼の腕を掴み上げて引き寄せ、つい今しがたまでタバコをふかしていた口元を自らの唇で塞いでいた。
「な……ッにしやがる、てめえッ!」
さすがに驚いたわけか、思い切り押しこくられたと思ったら、次の瞬間には太腿目掛けてキツイ蹴りの一発を見舞われた。どうやら敵もなかなかにやるようだ。
鐘崎は即座に体勢を立て直すと二、三歩後ろに引いて身構えた。相手の紫月もその動きに引けを取らずといったいった俊敏さで、二人は戦闘体勢で睨み合う。
◆4
「へえ、やるじゃねえか。その構え、合気道でもやってんのか?」
「そう言うてめえは空手家かなにかか……。ふざけたことしやがって……欲求不満かよ! そのイカれた根性叩きのめしてやる!」
「ほう? 威勢だけは一丁前だな」
ちょうど天心に達した真昼の太陽が、二人の間を突き抜くように強い陽射しを放っている。
「来い!」
「望むところだ。吠え面かくな!」
しばし技の競演が続いた後、相手を組み伏せたのは鐘崎の方だった。
屋上のコンクリートにねじ伏せて馬乗りになり、両腕をがっしりと押え込む。
「ふん、さすが鬼風紀ってだけあるか。なかなかやるじゃねえの。だが、技が互角なら体格のいい方に勝算があるのは知れたことだ。てめえのこの華奢な腕じゃ俺には通用しねえな」
「……チッ、野獣が!」
「いいな、その言い草。じゃ、遠慮なく野獣さしてもらうとするか」
言うが早いか再び唇を塞ぎ、今度は逃げられないように後頭部をしっかりと押え込んでとびきり濃厚なキスを見舞う。
組み敷いて重なり合った身体の中心、雄と雄とを欲するがままにグリグリと擦り合わせれば、次第に怒張し熱を持つ。
「……ぅぐ……放……ッ、この……変態エロ野郎が……ッ!」
「どうとでも」
腰に手を回しズボンの中に押し込んで、筋肉の張った尻を鷲掴む。
「フ、いいケツしてんぜ。いただき!」
朝とは真逆で余裕皆無の表情を見下ろしながら舌舐めずりをしたその瞬間に目が覚めた。
◇ ◇ ◇
鐘崎が粗方夢の内容を話し終えると、紫月は『へへへ』と笑いながらも呆れ半分の唖然状態だ。
「……へえーえ、そりゃまた結構な夢で……」
「多分、昨夜氷川たちと会った時に高校ン時の話が出たせいかも知れんが……。しかし何であそこで目が覚めるかな……。あの後、まだ夢が続いてたらどうなってたのかと思ったら、飯も喉を通らなかった」
ガッカリとしたふうに溜め息まじりの様子に、紫月の方は苦笑状態だ。
「まさかそれで食欲なかったってか?」
「ああ、どっちか言ったら食欲より性……」
性欲と言い掛けた矢先に口の中にスポっとクッキーが飛んできた。
「わ……ッ! 何だいきなり」
甘いものが苦手な鐘崎は苦虫を噛み潰したように『うへえ』となりながらも、口の中に入ってしまったからには嫌々でも食すしかない。よく噛みもせずに無理矢理喉に流し込んで、慌ててコーヒーで口直しをした。
「へへん、エロ妄想に耽ってた罰だ」
紫月が勝ち誇ったようにドヤ顔で笑っている。
「てめ、紫月!」
憎まれ口を叩かれても、苦手な甘いものを食べさせられても、ひとたびその表情を見れば愛しいと思ってしまうのだからどうにもならない。
「……チッ、惚れた方の負けっていうからな。だが、その分夜は覚えとけよ……」
軽く舌打ちながらも、夜のことを考えれば頬が染まる。今宵はどんなふうに組み敷いてやろうか。せっかくだから夢の続きにトライするのも悪くない。そんな妄想を巡らせながら、若頭としての顔に戻っていった鐘崎であった。
若頭の見た夢 - FIN -