極道恋事情

18 漆黒の記憶1



◆1
「焔老板、お仕事中に失礼致します。少々お時間よろしいでしょうか」
 日暮れ前、そろそろ一日の仕事を切り上げるかというその時間に周の社長室を訪ねて来たのは鄧という男だった。
 彼は周の主治医として邸に常駐している医師である。周が幼い頃から香港のファミリー付きの医師として勤めていてくれたのだが、日本で起業することになった際には共に付いて来てくれて、以来ずっと周や李、それに真田ら家令の者たちも含めて体調を管理してくれている腕のいい男だった。
「どうした。もしかして冰の意識が戻ったのか?」
「はい。先程申し上げた通り、お怪我自体は軽く、かすり傷程度で心配することはございませんでした。ですが……それより少し重要なことが起こりまして」
 鄧の言葉に、周はクイと眉間の皺を深くした。

 事の起こりは今日の昼間のことだ。
 打ち合わせで日本橋にあるクライアントを訪れた後、周と冰はいつものようにランチを共にした。午後からは周の抱えている事務処理が少しあるだけで冰の時間が空いたので、彼の希望でそのまま銀座界隈で買い物をしたいということになった。
 周は社に戻らなければならなかったので、代わりに真田を呼んで二人で買い物に行かせることにしたのだ。どうやらバレンタインのギフトの下見をしたかったらしく、冰にとっても周と一緒ではない方が都合が良かったらしい。
 李や劉は社の仕事があるので、それならばと真田が車で迎えがてら運転手を伴って銀座まで出向き、冰と合流したという経緯である。
 事件は一通り店を見て回った後、ギフトの目星もついたようで、そろそろ帰ろうかという時に起こった。
 車が待っている裏通りまで真田と冰が肩を並べて歩いている時だった。この日は朝から結構な風が吹いていて、まだ春一番の時期には早いですよねなどとうららかな話をしていたちょうどその時だった。強風に煽られて、どこからか金属製の傘立てのような物が頭上から落ちてきたのである。ビルの外階段の踊り場あたりに置かれていたもののようだが、かなり古く、ビスなどがゆるんでいて飛ばされたと思われる。真田を直撃しそうになり、それに気付いた冰が咄嗟に庇って怪我を負ったというものだった。
 幸い運転手からも目視できる距離だったので、すぐさま車に担ぎ込んで汐留へ戻り、主治医の鄧が手当てに当たった。怪我自体はかすり傷程度で、骨折もなく、頭を打ったなどの重傷には至らなかったものの、冰は現場で気を失ったまま目を覚さなかった為、医務室のベッドで鄧がつききりで様子を見ていたわけだ。
「――冰の容態が良くねえのか?」
 周はすぐに仕事の手をとめると、焦り顔でそう訊いた。初見では怪我自体は軽いものだと聞いていたので、実のところそんなに心配はしていなかったというのもある。
「お身体的にはご容態は極めて良好といえるのですが……」
 難しい鄧の表情に眉間の皺が更に深くなる。



◆2
「実は――お心の方が少々ダメージを受けておられるようでして」
「心のダメージだと? どんな?」
「驚かずにお聞きください。冰さんの中ではご自分は現在九歳の少年であるという意識のご様子なのです」
「九歳の少年だ? つまり……記憶喪失ということか?」
「大まかに言えばそういった括りになるかも知れませんが、少し違います。通常、解離性の健忘というのは、ある一定――もしくはこれまでのすべての期間の記憶が抜け落ちてしまうことを指すのですが、冰さんの場合は精神状態が子供の時分に戻ってしまっているご様子で、生まれてから九歳までのことははっきりと覚えておられます。ただ、ご自身が大人であるという感覚はなく、話しぶりなどもまるで子供そのものなのです。しかもお話になられている言語は広東語でした」
 あまりの驚きに周は思わず音を立てて椅子から立ち上がってしまった。
「つまりはガキに戻っちまった……ということか?」
「……はい。お名前や年齢、これまでに起こった出来事などもはっきりと覚えておいでです。ご両親が他界されていることも認識しておられます。ただ、自分は今香港に住んでいて、小学校に通っている――と。それから、しきりに『じいちゃんに会わせて欲しい』と仰っておられます」
「じいちゃんというと――黄のじいさんのことか。冰の中では未だじいさんは健在だというわけか……」
 ということは、周自身のことも見覚えがない恐れがある。
「……分かった。とにかく会おう。今は話せる状態か?」
「はい。少し前に目を覚されて、身体的にはどこも痛いところもないとのことで、お元気といえます。多少の内出血が見られますが、脳波などにも異常は認められずレントゲンからも内傷は見当たりませんでした。意識もはっきりしていて私の質問にも極めて冷静にお答えになられました」
 周は側で心配そうに聞いていた李と劉も連れて、とにかくは冰のいる病室へと急いだ。

 普段周らの暮らしている最上階の一つ下の階が鄧のいる医療所になっていて、万が一の大怪我など――つまりは銃撃などを受けるようなこと――があっても、手術などもすべてここで行えるように設備が整えられている。周はマフィアのファミリーであることから、平穏なことの多い日本でもそういった非常事態を想定して大病院並みの設備だけは揃えているといったところなのである。
 病室の扉の前では真田が祈るような仕草でずっと立ったままオロオロとしていた。
「坊っちゃま! この度は誠に申し訳ございません……! 私などの為に冰さんをとんでもない目に遭わせてしまって……」
 庇ってもらった真田からすれば気が気でないのだろう。気の毒なほどに恐縮している様子が一目で見てとれる。
「今回のことは不可抗力だ。お前のせいじゃねえ」
「は……ッ、ですが坊っちゃま」
 そのせいで冰の記憶に障害が出たのは明らかであろうから、真田にしてみれば気に病むなと言っても無理であろう。
「申し訳ございません……」
 ただただ身を震わせてうつむくしかできずにいるようであった。



◆3
「とにかくそう恐縮するな。怪我はねえというし、身体は悪くねえんだ」
「は……」
 真田を宥めて周が病室へ入ると、冰はベッドの上で起き上がって窓の外を眺めていた。
「――冰」
 張りのあるバリトンボイスでそう呼び掛けると、くるりとこちらを振り返った。その仕草は鄧の言うようにどことなく子供のようにも映る。
 果たして彼は覚えているだろうか。それともまるで見知らぬ他人という意識なのか。

 緊張が走る――。

 ところが、冰は驚いたように瞳を見開くと、
「あ……! 漆黒のお兄さん……!」
 大きな瞳をクリクリとさせながら、嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。しかもこれまた鄧の言った通り、しゃべっている言語は広東語である。
「お前……俺が分かるのか?」
 周は安堵とも驚きともつかない仕草で、恐る恐る震える手を差し伸べてみせた。
「あ、はい。あの……前に僕を助けてくれたお兄さん……ですよね?」
「そうだ。覚えていてくれたんだな?」
「はい、もちろんです! えっと、あの時はありがとうございました」
「いや、構わん。それよりお前、身体の方はどうだ? 痛いところとかはねえのか?」
「あ、はい大丈夫です。あの……僕はどうして……」
「お前は強風で飛んできた物にぶつかって怪我をしたんだ。手当ての為にここに連れて来た」
「そうだったんですか……。じゃあまたお兄さんが助けてくれたの……?」
「まあそんなところだ」
「ありがとうございます。あの、それで……じいちゃんは……?」
「黄のじいさんのことか?」
「うん、そうです。じいちゃん、僕がここにいること知ってるのかな……。きっと心配してると思うんです」
 まるですぐに会わせてと言わんばかりに真っ直ぐな瞳で見上げてくる。言葉使いは敬語ながらも、節々に感じる言い回しや仕草は子供そのものだ。

(ガキに戻っちまったってのは本当のようだな――)

 周はなるべく驚かさないように静かに向き合って彼の手をそっと握ると、穏やかな口調で話し掛けた。
「少し訊ねてもいいか? お前、今は幾つだ」
「えっと……僕の歳?」
「そうだ。何歳になる」
「九歳です」
「どこに住んでいる?」
「じいちゃんのアパート」
「黄のじいさんと二人でか?」
「うん。お父さんとお母さんは死んじゃったから、それからじいちゃんが僕と一緒に暮らしてくれるようになって」
「そうか。じゃあ俺の名は分かるか?」
「うん、いえ……はい! えっと……焔のお兄さん」
「そうだ。よく覚えていてくれたな」
「だってお兄さんがそう教えてくれたから。漢字は難しいけど、”炎”って意味だよって」
「ああ、そうだったな」
「でもね、あの後じいちゃんにお兄さんのお名前の漢字を聞いたから、今はちゃんと書けるようになったよ。”焔”って」
 冰は掛け布団の上で焔という文字をなぞってみせた。



◆4
「そうか。難しいのによく覚えたな。だが、何で俺は”漆黒のお兄ちゃん”なんだ? さっき俺を見た瞬間にそう言っただろう?」
「あ、うん! だってお兄さん、僕を助けてくれた時、真っ黒な服を着てたから。黒いお洋服のお兄さんって呼んでたら、じいちゃんが”漆黒”が似合うお人だって言ったんだ。だからお兄さんのことはずっと漆黒の人って呼んでたの」
「そうかそうか」
 一年前、冰と再会した時に聞いた話そのままだ。彼の中では記憶が止まっているのだろうが、それまでのことはほぼ正確に覚えているのが窺えた。周は穏やかに笑みながら、大きな掌でやさしく冰の頭を撫でた。
「漆黒の人か。粋な呼び名だな。俺を覚えていてくれて嬉しいぜ、冰」
「僕もお兄さんにまた会えて嬉しい……です!」
 さすがはこの世で唯一無二の夫婦である。どんな奇異な事態に陥っても、取り乱すよりも先に現状を即座に理解して、尚且つ互いを受け止められるのは愛の力といえようか。少し後方に下がって二人の様子を見守っていた李や劉などは暗闇に微かな光を見たような気持ちで熱くなってしまった胸を押さえるのだった。
「冰、腹は減ってねえか? もうすぐ夕飯の時間だ。身体が辛くなければ俺と一緒にどうだ?」
「お兄さんと? うん……身体は大丈夫です。どこも痛くないし。でもじいちゃんが心配すると思うし、家に帰らなきゃ……」
「じいさんにはもう話してある。お前は怪我こそ大したことはなかったが、もうしばらくは俺の病院で養生が必要だってな。だから心配するな」
「じゃあ、じいちゃんは僕がここにいることを知ってるの?」
「ああ、ちゃんと俺が説明しておいたからな。心配はいらねえ」
「そっか、良かったぁ」
「それじゃ起きて一緒に来い。メシを食おう」
「うん! ありがとう。あの……」
「なんだ」
「お兄さんはお医者さんなの?」
 小首を傾げながらくりくりとした大きな瞳で見上げてくる仕草が何とも言えずに可愛らしい。
「何故そう思う」
「だって……今、俺の病院って言ったから。それにさっき僕を診てくれた先生は違う先生だったけど、お兄さんの病院ならお兄さんもお医者さんなのかなって思ったから」
 あまりの可愛らしさに周は切なくも思わず破顔してしまいそうになった。
「俺は医者じゃねえが、ここは俺の病院――というのは本当だ」
「お医者さんじゃないのに病院の院長さんなの?」
「まあな。後でゆっくり俺のことも話してやる。お前さん、俺のことは名前くらいしか知らんのだろう?」
「あ、うん! じいちゃんはお兄さんのことよく知ってるみたいだったけど、お仕事とか何してるのって訊いても教えてくれないんだもん。だからすっごく楽しみ!」
「ほう? 俺のことがもっと知りてえのか?」
「……うん。だってお兄さん、すごくかっこいいんだもん。僕も大きくなったらお兄さんみたいになりたいなぁって。あ、でも僕じゃ無理かな」
 モジモジとうつむきながら頬を赤らめている。そんな仕草は周はむろんのこと、李たちにとっても光明をもたらすものであった。
 例え恋愛感情でないとしても、冰が周を慕う気持ちがあるのであれば、それらの感情をきっかけに元の記憶を取り戻す希望が湧いてくるように思えるからだ。



◆5
 周は冰を車椅子に乗せると、自らそれを押しながら住まいであるダイニングへと戻った。怪我自体は軽く、立たせて歩かせることも十分可能であったが、今の彼は自分が九歳の子供であるという認識でいる。並んで歩けばその身長差から子供目線とは違う違和感を感じさせてしまうのを懸念しての配慮からだ。
 まあ遅かれ早かれ事実を告げねばならないが、順序も大事である。なるべく冰を驚かせないように少しずつ現実と向き合えるようにしてやりたいという周の気遣いであった。
「うわぁ……綺麗なお部屋! ここもお兄さんの病院なの?」
 冰がダイニングを見渡しながら感嘆の声を上げている。
「ここは俺の家だ。病院はこの一階下にある」
「そうなんだ。お医者さんのお家ってホントにすごく大きいんだね」
 車椅子のままいつもの席に着けたが、冰は毎日ここで食事をとっていたことをまるで覚えていない様子である。普段の光景を見せれば何か思い出すかと淡い期待をしたが、さすがにそう簡単ではないかも知れない。
 医師の鄧の話では一過性のものか、あるいは長丁場となるのか、現段階ではどちらともいえないとのことだった。ただ、何故今回このような症状に至ったのかという詳しい理由が分かれば、何かのきっかけでふいに思い出すことがあるかも知れないという。どちらにせよ今は焦らずに側で見守るしかない。
 唯一の救いは冰が周に助けられた時のことを覚えているということだ。一切合切を忘れてしまったわけではないので、共に過ごす内に光が射すかも知れないという望みに賭けるしかなかった。

 その後、夕飯を運んで来た真田を目にしても冰は彼のことをまったく覚えていない様子で、『初めまして、お世話になります』と律儀に頭を下げるに留まった。
 一生懸命に敬語を使い丁寧に振る舞ってはいるが、仕草は子供そのものである。真田にとってもそれこそ胸が潰れるような思いだったろうが、冰自身はつい先刻にこの真田を庇ったことすら記憶にないのだからこればかりはどうしようもない。せめて心を込めて世話をすることで何か思い出してくれればと祈るばかりの真田であった。
 食事は数々の飲茶を中心とした香港料理で、その豪華さにも冰は驚きに目を見開いていた。
「うわぁ……すごい! お誕生日みたいにお料理がたくさん!」
「お前は何が好きなんだ」
「んとね、何でも好きだけど一番好きなのはシューマイ! じいちゃんがよく作ってくれるんだけど、お兄さんのお家のシューマイは誕生日にじいちゃんが連れてってくれたレストランのシューマイよりも美味しい! すっごい大きくてふわふわでお肉もギッシリ詰まってて本当に美味しいです!」
 言葉通り大きなシューマイを箸で一口大にしているのだが、少しぎこちないその仕草を見ても本当に子供そのものだ。一心不乱に皿の中の飲茶を見つめて、こぼさないように大きく口を開いては嬉しそうに笑顔を見せている。黄老人がマナーなどをきちんと教え込んで育てたのだろう様子が目に浮かぶようだった。



◆6
 そうして食事が済むと、周は食後のジャスミン茶を勧めながら少しずつ肝心な話題を持ち出した。
「ところで冰、お前――日本語は話せるのか?」
 冰はデザートの杏仁豆腐をスプーンですくいながら、キョトンとした目で周を見やった。
「日本語?」
「ああ、そうだ。お前と初めて会った時に日本語を話していたのを思い出してな」
「あ、そっか……。あの時は僕、怖いことがあったからドキドキしててよく覚えてないんだけど……。はい、日本語は話せます。じいちゃんがお前はお父さんもお母さんも日本人で、僕も日本人なんだから自分の国の言葉を忘れちゃいけないって。学校でも日本人のお友達とはたまに日本語で話してます」
 これも周が聞いたことのある事実と合致している。冰がここを訪ねてきた際に、黄老人が日本人の多い学校に通わせてくれていたと聞き及んでいる。周はこうして少しずつ冰の気持ちを乱さないように気遣いながら、彼の記憶と現実を照らし合わせようと試みていた。
「そうか。だったら今からは日本語で話してみるか」
 周が今度は日本語でそう問い掛けると冰もすぐにそれにならった。
「お兄さんも日本語が分かるの?」
 スッといとも簡単に日本語に切り替えたところをみると、確かに流暢といえる。
「ああ。俺は親父が香港の人間だが、お袋は日本人だからな。それに仕事の時は日本語で話す方が多いしな」
「そうなんだ。お兄さんのお仕事って……お医者さん……じゃないんだよね?」
「俺は会社を経営している。貿易といってな、世界のいろいろなものを輸入したり輸出したりする仕事だ。輸入ってのは分かるか?」
「うん……いえ、はい! 分かります。香港にはない食べ物とかお洋服とかを外国から運んでくることでしょう? 学校で習ったよ」
「そうか。お前は賢いんだな。勉強は大変か?」
「うん……まあ。でもディーラーの練習よりは大変じゃないから勉強の方が好きかな」
 小首を傾げながら照れ臭そうに笑ってみせる。黄老人はこの頃から既にディーラーの技を教え込んでいたのが分かる。
「お前はディーラーの技が使えるのか?」
「うん。じいちゃんのお仕事がカジノのディーラーなんです。それで僕が大きくなったらちゃんとお仕事してお金が稼げるようにって、ディーラーの練習をしてるの。じいちゃんはいつもはやさしけど、練習の時は怖いんだぁ。でも僕の為になるから頑張りなさいって言われてるの」
「そうか。小さいのにえらいんだな。感心だ」
 周に褒められて照れ臭そうにしながらも、冰は嬉しそうに頬を染めた。



◆7
「よし、冰。腹もいっぱいになったし風呂に入るか。あったまった方がよく眠れるぞ」
「お風呂? お兄さんの病院の?」
 しばらくここで養生すると聞かされた為か、冰の中では入院という意識でいるのかも知れない。ここで寝泊まりすることへの違和感はなさそうであった。
「怪我の方は大したことはなかったからな。さっきお前を診た医者の鄧先生からも普通に風呂に入ったりするのはいいと言われている。だから病院へは戻らずに今夜からは俺の家で過ごしていいとな」
「お兄さんのお家で?」
「そうだ。俺と一緒に風呂に入るか?」
「いいの?」
「ああ、もちろんだ。お前が寝るベッドもあるが、一人で寝るのが怖かったら俺と一緒に寝てもいいんだぜ?」
「だ、大丈夫。もう僕も小学生だし一人で寝れるもん」
 冰はモジモジと頬を染めながらも、『あ、でも……』と言って少し遠慮がちに周を見上げた。
「一人で寝れるけど……お兄さんのお隣のベッドがいいな……。ここのお家広いから別々のお部屋だと……ちょっと怖い……かも。いつもはじいちゃんと同じ部屋で寝てるから……」
 あまりに可愛いことを言われて周はまたもや破顔させられてしまった。
「分かった。じゃあお前のベッドを俺の部屋に運ばせよう。隣で寝れば怖くねえぞ。それにな、俺のベッドはデカいから、隣に並べずとも一緒に寝ることもできる」
「お兄さんのお布団で?」
「そうだ。嫌か?」
「ううん。お兄さんがいいなら僕は嬉しい……。でもホントにいいのかな……」
「いいに決まってる。それに俺も一人で寝るよりお前と一緒の方が怖くねえしな?」
 子供の会話に合わせながらもニッとニヒルに口角を上げて悪戯そうに笑う。そんな周の仕草に冰は頬を染めながら嬉しそうに身を乗り出すのだった。
「お兄さん、大人なのに一人で寝るのが怖いの?」
 クスクスと楽しそうに笑っている。
「ああ、大人だって怖い時もあるぞ。だからお前が一緒に寝てくれれば助かる。だが、これは二人だけの秘密だぞ? さっき食事の世話をしてくれた真田にも医者の鄧先生にも誰にも言うなよ? 一人で寝るのが怖いなんて知れたら俺のメンツに関わるからな」
 周は面白そうに『しーッ』というゼスチャーを交えながら言う。その仕草が可笑しかったのだろう。冰は元気よく『うん、分かった! お兄さんと僕だけのヒミツね!』と言って満面の笑みを浮かべた。
 周にとってはこんなやり取りもある意味新鮮に思えていた。普通に考えれば由々しき事態に変わりはないが、現状を受け止めることも必要だ。仮に冰が元の記憶を取り戻せずとも今ここからまた新たに二人の絆を築いていけばいい。周はそんな心持ちでいたのだった。
 だがその前に避けては通れない肝心なことをひとつだけ冰に伝える必要がある。それは彼が本当は大人になっているという事実だ。他はともかく鏡にその姿を映せばごまかしはきかないからだ。



◆8
「さあ、それじゃ俺たちだけの秘密の約束もできたことだし、冰――。ひとつだけお前に聞かせておくことがある。もしかしたらお前にとっては驚くようなことかも知れんが、びっくりしないで聞いてくれるか?」
「うん! いいよ。お兄さんの言うことなら僕驚いたりしない」
「いい子だ。これはとても大事なことなんだ。お前には信じられない話かも知れねえが、これだけは覚えていて欲しい。何があっても俺はお前の味方だ。いつでも必ずお前の側にいて、絶対に一人にしたり放り出したりしねえと約束する。だからお前も俺を信じて、思ったことや不安なことがあれば遠慮せずに何でも俺に言ってくれ。いいな?」
「うん……」
 真剣な周の言葉に少しの不安を感じるのだろうか。それでも懸命にうなずく様子に、周もまた腹を据えて静かに打ち明けた。
「よし、冰。車椅子を置いてここへ来てみろ。立てるか?」
「うん、どこも痛くないもん」
「よし。じゃあこっちだ」
 全身を映す鏡の前まで行き、周はそっと手招きをしてみせた。そして冰の両肩をしっかりと支えるように後ろへと立ちながら、鏡の中を覗かせる。
「映っているのは誰だか分かるか?」
「うん……。お兄さんと……知らないお兄さんがもう一人……」
 如何な子供でも鏡が映し出すものが分からない年頃ではない。冰はしばらく不安そうにしながらも、鏡の中の自分を確かめるように恐る恐る手を動かしたりしていた。
「これ……鏡……。なのに何で……僕が映ってない」
 だが冰が動く度に鏡の中の青年も同じように付いてくる。
「誰……? どうして……」
 周はしっかりと華奢な肩を支えながら静かに言った。
「これはお前だ」
「僕……? ウソ……。だって鏡に映ってるのは大人の知らないお兄さんだもの……。僕はまだ九歳だも……」
「お前は今日の昼間、怪我をしたと言ったろう? その時に記憶がなくなってしまったようなんだ」
「き……おく?」
「鏡に映っているのは俺と、間違いなくお前自身だ。本当のお前は大人になっていて、ずっと俺と一緒にこの家で暮らしていたんだ。その記憶が昼間の怪我をきっかけに失くなってしまった。信じられないだろうが、これは本当のことなんだ」
「僕が……大人……? お兄さんと一緒に住んでた……の?」
「そうだ」
「じゃあ……でもじいちゃんは? じいちゃんは……」
「黄のじいさんは香港にいる。ここは日本の東京だ。お前が日本に来て俺と一緒に暮らしていることを黄のじいさんも知っている」
「日本? 香港じゃない……の?」
「ああ。神かけて嘘はつかねえと誓う。すぐには信じられねえことだらけというのもよく分かっているつもりだ。お前にとっては驚くだろうことも。俺はお前を苦しめるつもりはねえし、できることは何でもしてやる。だから無理をせず、思ったことを何でも俺にぶつけるんだ。怖い、信じられない、どんなことでもいい。泣きたければ思い切り泣いていい。包み隠さず、自分一人で抱え込まず、どんな小さなことでも全部俺に言え。俺は何があってもお前と一緒にいる。どんなことでも受け止めてやる。安心して全部俺にぶつけるんだ」



◆9
 今は黄老人が他界していることまでは言う必要はないだろう。鏡の中の自分の姿を理解するだけでも精一杯であろうからだ。
「えっと……僕? 本当にこれが僕なの?」
「ああ」
「僕はどうして日本へ来たの? じいちゃんを一人置いて……どうして」
「じいさんはな、香港で幸せに暮らしている。お前が俺と住むことも喜んでくれたんだぜ」
「じいちゃんが……。じゃあもしかして僕がお兄さんと一緒にいたいからって我が侭を言ったのかな……。僕ね、お兄さんに助けてもらった時から何度ももう一度会いたいってじいちゃんに頼んでたから」
「そんなに俺に会いたかったのか?」
「うん……。お兄さんの住んでるお家に連れてってって毎日そう言ってた」
「じいさんは何と答えた?」
「お兄さんは大人でお仕事もあって忙しい人だから邪魔しちゃいけないんだって。じゃあいつ会えるのって聞いたら、僕がいい子にしてればいつかきっと会えるよって言った。いつか僕が大きくなって、立派な大人になったらお兄さんが会いに来てくれるかも知れないって。だから今は学校の勉強とディーラーの練習をしっかりやって、お兄さんに恥ずかしくない人間になりなさいって言われてたんだ」
 だからきっと大人になった自分が漆黒のお兄さんに会いに行って一緒に暮らしたいと言い張ったのかも知れないと冰はそう思ったようだった。つまり大人であるという今の姿を認める意識が持てているということになる。
「じゃあ僕は大人になるまでのことをすっかり忘れちゃったっていうこと……なんだね。いい子にしていればいつか思い出せる時がくるのかな……」
「冰……。ああ。ああ、必ず思い出せる。だが無理はしなくていい。俺の側で何も心配せずに、今のお前のままでゆっくりと過ごしていればいつか思い出せる日がくる」
「お兄さん……やさしいんだね。でも僕……お兄さんと一緒に暮らしてたことも忘れちゃってる。迷惑じゃないのかな……こんな僕」
「迷惑なもんか! 俺はな、お前とこれまで通り一緒にいられればそれだけで充分だ。ここ最近のことなんぞ忘れていようがまったく構わねえ。今のお前のままでいいんだ。だから一人で悩むことだけはするな。どんな小さなことでもいい、思ったことや感じたことを全部俺に教えてくれ。一緒にがんばっていこうな」
「お兄さん……ありがと。ごめんね、僕……きっと思い出せるようにがんばるから」
「ああ。ああ、そうしたら、全部思い出せたら二人で一緒に黄のじいさんに会いに行こう。それまで日本で、俺の側でがんばれるな?」
「うん、うん……!」
「よーし、いい子だ。さすが黄のじいさんが育てただけある」
 周は持てるすべての愛情を注ぐように思いきりやさしく冰の頭を撫でながら微笑んだ。



◆10
「よし、じゃあ風呂に入って休むとするか」
 周は自分の部屋のバスルームへと冰を連れて行った。
「うわぁ、大きなお風呂!」
 冰の感嘆の声がバスルームの壁に反射してこだまする。
「気に入ったか?」
「うん、何だか映画に出てくるみたいなすごいお風呂だね! 僕はここにも入ったことある……?」
「ああ。毎日入ってたぞ。ここと、お前専用の部屋の方で入ることもあったな」
「僕のお部屋まであるの?」
「ああ。後で案内してやる」
 周は冰を座らせて背中を流してやりながら、傷の具合などもチェックしていた。
「内出血があるな。痛むか?」
「うん、少し。でもすごく痛いとかはないよ」
「そうか。幸い外傷はないみてえだが、少しでも痛えところとかがあれば遠慮せずに言うんだぞ?」
「うん」
「よし、身体は洗ったから先に湯船に浸かってろ。俺もすぐに入る」
 泡を流してやり湯船へと連れていこうとすると、冰は自分にも背中を流させて欲しいと言った。
「今度は僕がお兄さんの背中を洗ってあげる番。いつもじいちゃんと交代で流しっこしてたんだよ」
「そうか。じゃあ頼むかな」
 周が背中を差し出すように座ると、驚いたような声が再びバスルーム内にこだました。
「わ……っ! すごい綺麗な絵……! お兄さんの背中に龍の絵が描いてあるよ」
 彫り物を見て驚いたのだろうが、冰は怖がるよりも先にそれを綺麗だと思ったようだ。
「これ、泡で消えちゃわないの? 落としちゃったらもったいない感じ……」
 泡立てたタオルを握ったまま背中の彫り物をじっと見つめている。大きな瞳をクリクリと見開いて小首を傾げている仕草が本当に可愛く思えて、周は思わず笑みを誘われてしまった。
「大丈夫だ。これは刺青といってな。洗っても落ちねえものなんだ」
「刺青? じゃあお兄さんはヤクザさんなの?」
「ほう? お前、難しいことを知ってるんだな。ヤクザが分かるのか?」
「うん、日本の映画で観たことがあるもん」
「黄のじいさんと一緒に観たのか?」
「ううん、お父さんが生きてる頃にたまに観てたの。お母さんは『またそんなの観てー』ってブツブツ言ってたけどさ。長ーい刀っていうのをブーンって振り回して、着物のおじさんが悪い人をやっつけるやつ! カッコよかったなぁ」
 着物に刀といえば時代劇の任侠ものあたりだろうか。生前の父親が観ていたものを目にしたのだろう。
「ホントに綺麗……! 映画で観たのよりお兄さんの刺青の方が全然カッコいいね! 僕も大きくなったらやってみたいなぁ」
 さすがにそれは推奨するところではないが、怖いとか嫌悪の感情ではなく綺麗だと言ってくれる冰の気持ちが周にとっては嬉しいものだった。



◆11
 その後風呂を上がると、周は冰に寝巻きを着せてやり、自分の寝室へと連れて行った。
「どうだ、広いベッドだろう? ここならわざわざお前のベッドを持って来ずとも十分寝られそうだろうが」
 周としては当然のこと、これまで通り二人で一緒に眠るつもりである。確かに目を見張るほど大きなベッドを前にして、冰も納得した様子だった。
「ホントに大きなお布団! こんなに大きくて綺麗なベッド……見たことがないよ」
 ここで寝てもいいの? ――というふうにおずおずと見上げてくる仕草がなんともいえずに可愛らしい。
「ここはお前のベッドでもあるからな。遠慮はいらねえ。大の字で動き回ったってそう簡単には落ちねえから安心して寝られるぞ?」
 周はヒョイと後ろから抱きかかえると、ベッドの中央に冰を横たわらせた。
「うわぁ……フッカフカだぁ! 綿菓子みたいにやわらかいお布団だね! 王様のベッドみたい!」
「王様とはいい例えだな。じゃあ俺は王様に仕える召使いだ。何でも言うことを聞いてやるぞ!」
「ええー、僕が王様なの?」
「そうだ」
「王様はお兄さんだよ! 召使いは僕ね」
 楽しそうにしながらフカフカのベッドを堪能している様子が可愛らしい。二人並んで羽布団に包まると、冰は少し真剣な真顔になって周を見つめた。
「お兄さん……あのさ」
「ん? なんだ。遠慮せずに何でも言え」
「うん、あの……僕が今は大人になってて記憶が失くなっちゃってるっていうのは……分かったんだけど……。でも僕、まだ自分が大人だっていうのが信じられないっていうか……お兄さんとどんなふうにお話してたのかも思い出せなくて。敬語っていうの? 大人の人同士の話し方っていうのがあると思うんだけど、どんなふうにしゃべっていいか分からないんだ。大人のくせにこんなしゃべり方でヘンなんだろうなって……」
 つまりは鏡の中の姿は確かに立派な青年だが、意識は子供であるが故に傍から自分がどのように見られるかというギャップが心配なのだろう。周はすぐに心配するなと言って微笑んでみせた。
「話し方なんぞ気にする必要はねえ。無理に”大人”を意識する必要はねえし、今のままで十分だ。それにな、俺と話す時も普段から今と大して変わらねえしゃべり方だったぞ?」
「……いいの?」
「もちろんだ。お前が俺を覚えていてくれただけで百点満点だ」
「ありがとうお兄さん……。ねえ、僕はお兄さんのこと何て呼んでたの?」
「うむ。俺のことは白龍と呼んでた」
「白龍? もしかしてお兄さんの背中の絵を見てそう呼んでたのかな」
「それもあるが、俺の字が白龍だからな」
「……! そうなんだ。お兄さん、白龍っていう字なんだ?」
 香港育ちの冰には字の意味もわけなく理解できたようだ。



◆12
「俺には兄貴がいるんだが、兄貴の字は黒龍という。背中には俺と同じように龍の刺青があってな。字と同じ黒い龍だ。親父は黄龍といって、やはり背中には黄色い龍の刺青が入ってるんだぜ?」
「へえ……すごい! カッコいいんだね! お父さんとお兄さんもこのお家にいるの?」
 だったらご挨拶しなくちゃと小さな声で呟くところがまたまた可愛いらしい。
「親父と兄貴は香港にいる。この家には俺と――さっき会った真田や鄧先生たちが住んでいるが、普段頻繁に顔を合わせるのは数人だろう。皆、お前とも親しい仲だし、怪我で記憶が失くなってしまっていることも知っているからな。話し方だって今のままでいいし、遠慮も心配もまったくいらねえぞ」
「真田さんはさっきご飯の時にいろいろ親切にしてくださった人だよね。鄧先生もやさしかったよ。それに……さっきお兄さんと一緒に僕のところに来てくれた人たちも僕のことを知ってたの?」
「ああ、李と劉か」
「李さんと劉さんっていうんだ?」
「そうだ。二人ともお前とは毎日顔を合わせてたぞ。メシもしょっちゅう一緒に食ってた」
「そうなんだ……。僕、何も思い出せなくて」
「慌てる必要はねえ。俺の側で何も心配せずにのんびり構えてりゃ、その内自然に思い出せる時がくるさ。もしも思い出せなくても、俺も皆んなもお前と今まで通り一緒に暮らせるだけで満足なんだからな」
 やさしく髪を撫でながら微笑んでみせる。冰は有り難いと思う反面、これほどまでに思いやってくれるこの”漆黒の人”と自分とはどういった間柄だったのかを不思議に思ったようだった。
「ねえ、お兄さん……。僕は毎日お兄さんと暮らしながらどんなことしてたの? 大人になってるんだから学校……には行ってないよね? お仕事とかしてたのかな」
「お前は俺の秘書をしてくれてたぞ」
「ひしょ?」
「ああ。セキュレタリーだ。俺の会社はこのビルの隣にあるんだが、連絡通路という廊下でつながっていてな。歩いてすぐだ。お前は毎日俺と一緒に出社して、コピーを取ってくれたり書類を届けてくれたりな。他所の会社に打ち合わせに行くこともあるんだが、その時も李や劉と一緒にお前も付いてきてくれて、帰りに皆んなで昼飯を食ったりするんだ」
「へえ……そうだったんだ。僕、ちゃんとお仕事できてた?」
「ああ。しっかりやってくれたぞ。お前は几帳面だし、書類の整理なんぞも上手かった」
「少しは役に立ってた?」
「もちろんだ! お前がいなきゃ社が回らねえってくらいに貴重な存在だ」
「そっかぁ、良かった。僕もちゃんとお仕事できる大人になれてることが分かってちょっとホッとしちゃった。だってさ、じいちゃんがいつもきちんとお仕事できる立派な大人にならなきゃいけないって言うからさ」



◆13
 掛け布団をキュッと両の手で掴みながら頬を紅潮させ、嬉しそうに天井を仰いでいる。大きな枕の上ではやわらかな髪が無造作に揺れていて、周は思わず抱き締めたくなる衝動を抑えながら、「よしよし」というふうにその髪を撫でるだけに留めたのだった。
「――よし、じゃあそろそろ休むか」
 ベッドサイドの灯りが落とされると、冰は周へと向き合う体勢で仔猫のように身体を丸めた。
「おやすみなさい、お兄さん。僕、まだ何ができるか分からないけど……明日からお兄さんと一緒に会社に行ってもいい? お仕事教えてもらえば少しは何かお手伝いできるかも」
 まったくもって可愛いことを言う。例え記憶を失っても、性質の素直さは変わらない。いつものやさしく思いやりのある彼でいてくれることが周には何より安心できるものであった。
「その気持ちだけで充分だ。まだしばらくは鄧先生のところで検査などもあるからな。怪我が完全に良くなるまではここにいて好きなことをして過ごせばいい。鄧先生の許可がおりたら徐々に会社の仕事も手伝ってくれればいいから、それまではゆっくりしていろ」
「うん、分かった」
「会社が見たければたまに遊びに寄るといい。朝晩はもちろんだが、お前が来てくれれば昼飯なんかも一緒に食えるしな?」
「ありがとうお兄さん。じゃあ邪魔にならないようにお兄さんのお仕事してるとこ見に行ってもいい?」
「もちろん大歓迎だ。十時と三時にはおやつも出してやる!」
「ホント? わぁ、楽しみだなぁ」
「見学の他にはテレビや本を見て過ごしてもいい。やることがなくて暇なら……そうだ、確かうちの倉庫にルーレットの台が取ってあったから、朝になったらそれを出してやろう。退屈しのぎになるだろう」
「ルーレット! うわぁ、嬉しいな! 退院するまでに少しでも上手になってじいちゃんを驚かせられるかも」
 そう言いながらもウトウトとしかけた瞼をそっと指でなぞってやりながら、周も眠りについたのだった。



◇    ◇    ◇



 その翌日、事情を知った鐘崎と紫月が大慌てといった調子で汐留の周の社を訪ねて来た。
「冰君の容態は!?」
 紫月が蒼い顔をして、まるで我がことのように焦りながら周へと詰め寄る。
「一之宮――、カネも忙しいのにすまねえな」
「ンなことは全然! それよりマジで思い出せない様子なのか?」
「ああ。冰の記憶は九歳の頃に戻っちまってる。だが、俺と会ったことを覚えていてくれたからな。それだけは不幸中の幸いってところだ」
「そっか……」
 紫月はひとまず安堵しているが、鐘崎の方はまた別の角度で事態を見ているようだ。
「――とすると、冰がガキの頃、氷川と出会った後に今回の怪我と連動するような何かが起こって、それがヤツの記憶をガキの頃まで逆戻りさせちまった――ってことになるのか……」
 鐘崎は今回のような事態に陥った経緯を想像しているようであった。周としてはさすがに冰の記憶が飛んでしまった原因までは考える余裕がなかった為、今の鐘崎のひと言は衝撃的だったようだ。



◆14
「――そうか。そういう考え方もあるな……。情けねえ話だが俺は目の前のことを受け止めるだけで目一杯だったからな。そこまでは頭が回らんかった」
「それで当然だろう。俺だってもしも紫月に同じことが起こったらパニくっちまって頭が真っ白だろう。お前は冷静に受け止めている方だ」
 そんなふうになだめてくれる親友がたいへん心強く感じられていた。
「今回、冰が記憶を失くしたきっかけは――強風に煽られて飛んできた物に当たって怪我を負ったってところから始まっている。運転手の話では一緒にいた真田を庇ったということだったが、真田本人も一瞬の出来事だったんでその時の状況はよく覚えてねえかも知れんが、もう少し詳しく訊いてみるか。外傷という点では大したことはなく、検査でも異常は認められなかったということだ」
「とすると、怪我からきているものではなさそうだな。やはり真田氏に当時の状況を可能な限り辿ってもらうのが良さそうだ」
「ああ。早速訊いてみよう。とにかく邸の方へ来てくれ。冰にも会って欲しいしな」
 周は二人を連れて邸の方へと戻った。すると、真田の方でも話したいことがあったようで、主の姿を見るなり飛んで駆け寄って来た。
「坊っちゃま! ああ、鐘崎さんと紫月さんも……! いらっしゃいませ」
 どうやら周の仕事が終わって邸に帰って来るのを待ちわびていた様子である。
「ただいまお茶を……。その前に坊っちゃま、昨日は気が動転しておりましたのですっかり忘れておったのですが、冰さんが私を助けてくださった時におっしゃったお言葉を思い出しまして……」
 それは周にとっても大層興味をそそられることである。もとい、それが訊きたくて真田に尋ねようと思っていたわけだから有り難いタイミングであった。
「実は……あの時、傘立てが風に煽られて落ちてきた時でございますが、冰さんは私を庇ってくださりながらこうおっしゃったのでございます。『じいちゃん、危ない!』と」
 普段、冰は真田に対してそういった呼び方をすることはない。
「お前のことをじいちゃんと言ったのか?」
「おそらく咄嗟のことでそうお呼びくださったのかと。私もこの通りの歳でございます故」
 真田としては高齢イコールじいちゃんと呼ばれたのだという認識でいるようだったが、周は別の見解を思い浮かべていた。
「じいちゃんか……。それはおそらく真田のことじゃなく黄のじいさんのことかも知れん。とするとやはりカネの言う通り、あいつがガキの頃に今回と似たような経験をした可能性が考えられる。じいさんが危険な目に遭いそうになって冰がそれを庇った……とかだ」
「その時の記憶が咄嗟に蘇ったのがきっかけでガキに戻っちまったとすれば、冰の中では相当大きな衝撃だったのかも知れん」
 鐘崎もその仮説にうなずいてみせる。



◆15
「どんな事故だったのか、黄のじいさんに訊ければ言うことなしなんだが、生憎もう他界しちまってるからな……」
 つまり事実がどうだったのか、はたしてそんな事故があったのかどうかさえ今となっては知る術もない。
「冰がその時のことを覚えていればいいんだがな」
「まあ、記憶が飛んじまうくらいだからそれも期待できねえか……」
 周と鐘崎が難しい顔をしていると、ダイニングの扉が開いて当の冰が姿を現した。
「白龍のお兄さん! お帰りなさ……。あ……! お客様……?」
 話し声を聞いて周が帰って来たと思ったのだろう。待ちわびたような笑顔で扉を開けたと同時に鐘崎と紫月に気がつくと、遠慮がちにペコリと頭を下げてみせた。
「冰! ちょうどよかった。こっちへ来い」
 周に手招きされて、おずおずとしながらも客人に対して挨拶の言葉を口にする。
「こ、こんにちは。あの……はじめまして」
 やはりか――鐘崎らのことも見覚えはない様子である。分かってはいても紫月などはショックが大きかったようで、つい切なげに瞳を細めてしまいそうになり慌てて笑顔を取り繕った。
「こんにちは冰君! お邪魔してるぜ?」
 にこやかに握手を差し出した紫月に、冰も恥ずかしそうにしながらも手を取って頭を下げた。
「こんにちは……」
「俺は紫月っていうんだ。氷川……いや、周のお兄ちゃんのダチだ。よろしくな?」
「ダチ……さん?」
「ああ、そっか。キミ、香港育ちだったな? ダチってのは友達っていう意味な!」
「お友達……。白龍のお兄さんのお友達の人?」
「そうだよ。でもってコイツは遼二! やっぱり白龍の兄ちゃんの友達だ」
 紫月が側にいた鐘崎のことも紹介すると、冰は自らも『雪吹冰です』と名乗った。
 本当は既に周冰なのだが、今はまだ周の籍に入って夫婦となっていることまでは伝えていないので致し方ない。だが冰は今の紫月とのやり取りで何か感じるところがあったのか、ほんの一瞬苦しそうに瞳を細めては両の手で額を押さえた。
「どうした冰? どこか痛むのか?」
 すぐに周が心配そうに訊いたが、冰はブンブンと首を横に振っては、『そうじゃない』という仕草をしてみせた。
「んとね、なんだか前にもこんなことがあったような気がして……懐かしいっていうか、よく分からないけど不思議な感じがしたんだ」
 確かに紫月と初めて電話で話した際に、今と似たようなやり取りをしたことは事実である。あの時も紫月は『俺、一之宮紫月ってんだ。氷川のダチだ。よろしくな!』と言い、ダチの意味が分からなかった冰が『ダチですか?』と聞き返したことがあった。それが既視感覚となって冰の心を揺さぶったのかも知れない。



◆16
「あの……僕はお兄さんたちのことも知ってたの……かな」
 おそらくはこの紫月や鐘崎とも顔を合わせたことがあるのかと思ったようで、おずおずとしながらも冰は周を見上げた。
「ああ、もちろんだ。週末にはよくこいつらの家に遊びに行ったりしてたぞ?」
「……そうなんだ。僕、覚えてなくて……ごめんなさい」
 わずか切なげに瞳を細めながら申し訳なさそうな顔をする。そんな様子に紫月が冰の手を取りながら明るく笑ってみせた。
「謝る必要なんかねえ。俺たちは冰君のことが大好きだし冰君も俺たちのことを好きになってくれたら嬉しいぜ! 今からまたダチになりゃいいんだ。だからこれからもよろしくな、冰君!」
 ニカッと白い歯を見せながら親指を立ててガッツポーズをしてみせる。その笑顔があまりにも爽やかで、それは冰にとっても不安を拭い去り、頼もしい気持ちにさせてくれるものだった。
「ありがとう……あの、紫月のお兄さん」
 見た目は変わっていないが、今の冰は九歳の少年という意識でいるわけだから自然と出てくる『お兄さん』という呼び方に頬がゆるむ。
「紫月君でいいぜ! 俺も冰君って呼ばせてもらうからさ!」
「いいの……?」
「もちろんさ!」
 紫月はそう言うが、目上の人に対して”君付け”でいいものかといったようにチラリと周を見やる。その視線からは周に対する絶対的な信頼感を抱いていることがよくよく分かるようで、鐘崎も紫月もホッと安堵するのだった。
「だったら俺のことは遼二君でいいぞ? まあ――俺の方は”冰”と呼び捨てでいいな?」
 普段はあまり感情の起伏を見せない鐘崎までがニッコリと笑顔を見せながら言う。
「おいおい遼! ンな慣れねえツラで笑ったりしたら、逆に怖えって。冰君がビビっちまうじゃねえかー」
 紫月がツッコミを入れると、それが可笑しかったのか、冰の緊張も一気に解けたようだ。まるで『お兄さんたち面白い!』というようにコロコロと笑う。
「冰君、こいつって見た目はイカついけどホントはやさしいヤツだからさ。怖がらねえで仲良くしてやってな?」
 紫月がウィンクを飛ばしながら微笑むと、冰は元気よくうなずいてみせた。
「はい! 紫月君と遼二君、よろしくお願いします」
 ペコリと頭を下げる仕草が本当に小学生の子供のようで、鐘崎も紫月もその可愛らしさに自然と笑みを誘われてしまった。
「ところで冰、今日は何をして過ごしてたんだ?」
 周が訊くと、冰はうれしそうに元気な声を出した。
「うん! 朝ご飯食べた後に病院の鄧先生と少しお話をしてね。その後はディーラーの練習をしてたの。それがね、今までは何回やってもできなかった技ができるようになったんだ! 小さな玉を好きな数字の場所へはめられるようにするやつ!」
「ほう? もしかして今朝倉庫から引っ張り出してきた例のルーレットの台でやってみたのか?」
「うん、そう! お兄さんが僕の為にって倉庫を探してくれたから。だから練習してみたんだ」
「早速練習したってわけか。お前はホントに勤勉なんだな。えらいぞ!」
 周が掛ける言葉も小さな子供に対するやさしさが垣間見えるようで、鐘崎と紫月も自然と温かい気持ちにさせられるのだった。



◆17
「よし、それじゃ冰。俺たちにもルーレットっていうのをやってみせてくれるか? 俺はな、テレビでは見たことがあるが本物のルーレットの台を見るのは初めてなんだ」
 鐘崎がそう言うと、冰はまたもや周の方をチラリと見上げて、『やってもいい?』と尋ねるように小首を傾げた。
「いいぞ。俺も見せてもらいてえしな」
「うん! じゃあやってみるね! 上手くできるか分からないけどがんばる!」
 周の許可がおりたと同時に嬉しそうに微笑んだ。
 むろん鐘崎がルーレットを知らないというのは嘘だが、子供の意識でいる冰を思ってのことである。
「じゃあ始めるね。遼二君の好きな数字を教えてください」
 ボールを持つ仕草などもどこそこ子供っぽい。鐘崎はそんな冰の一挙手一投足をそれとなく観察しながら明るい声で好きな数字を告げた。
「それじゃ黒の六番にするかな」
「黒の六番ね。じゃあ入りますー!」
 話し方は幼さが垣間見えるが、いざボールを構えて盤に投げ入れる段階になると、その動きはまさにプロのそれへと変わる。流麗な手つきに真剣な目線、それらを何気なく目にとめながら鐘崎はボールの行方を待った。
「わ! すっげ! ホントにハマった!」
 紫月が感嘆の声を上げる。ボールは見事狙った位置におさまり、見ていた三人からは拍手が起こった。
「すげえぞ、冰! 練習の成果大ありだな」
「いや、大したもんだ」
 周と鐘崎からも絶賛されて、冰は照れ臭そうに頬を染めた。
 その後、周と紫月からもリクエストを受けて、しばしルーレットを楽しんで過ごした。冰はことごとく狙った位置にボールをピタリとはめる神技を披露し、その出来栄えには本人も驚いている様子だった。
「僕、いつからこんなに上手くなったんだろう。いつもはなかなか思ったところにボールがはまらなくて、じいちゃんにもまだまだ練習が足りないって言われてるのに……。もしかしたら白龍のお兄さんが出してくれたこの台のお陰かなぁ」
 自分の腕ではなく周が用意してくれた台のお陰だと言う。こういった謙虚な性質はこれまでとまったく変わらない。三人は安堵と共に変わらぬ彼を目の当たりにできてホッと胸を撫で下ろしたのだった。

 その帰り道のことだ。鐘崎がハンドルを握りながらふとつぶやいた。今日は運転手付きではなく、鐘崎自らが運転して来たのだ。
「紫月、急なことですまねえが明日朝一番で香港へ飛ぼうと思う」
 突飛な話にもかかわらず紫月はニッと口角を上げて嬉しそうに身を乗り出した。
「お! やっぱそうきたな!」
「何だ、分かっちまったか?」
「もちよ! 冰君が住んでたアパートの周辺で聞き込みするんだろ?」
 当たりである。さすがは唯一無二の伴侶である。亭主の考えていることはお見通しなのだ。



◆18
「氷川のヤツは手一杯だろうからな。幸い今はうちの親父も海外の仕事を終えて帰国している。組のことは親父と源さんに任せられるからな」
「オッケー! そんじゃ帰ったらすぐに支度する」
「さっきの冰の様子を見ていると記憶こそ飛んではいるが、ルーレットの腕前なんぞは衰えていない。おそらくは冰がガキの頃に黄のじいさんが何らかの形で危ねえ目に遭ったのは確かだろう。それと今回の真田氏の窮地が引き金となって記憶障害が起こったと見てほぼ間違いねえ。黄のじいさんを襲った事故がどんなものかが分かれば解決の糸口が掴めるんじゃねえかと思ってな」
「冰君たちが住んでたアパートはまだあるんだったよな?」
「そう聞いている。当時の様子を知っている人間がいれば何か手掛かりが見つかるかも知れねえ。親父とも相談するが、清水か橘――それに春日野あたりを貸してもらって出発することにしよう。飛行機は一般路線で十分だろう」
 プライベートジェットでもいいのだが、急を要する今回のような場合は一般路線の方が都合がいい。それに今は敵対組織に狙われているというようなこともないので極秘に積み込んでいく機器等も必要ないからだ。
「ガキんちょな冰君も可愛いが、やっぱり早く元に戻って欲しいもんな」
「ああ。特に氷川のことを思えば尚更だ。冰はあの通り氷川に絶対的な信頼を抱いているようだし、二人の仲が壊れるような心配はないにしろ、心がガキのままじゃ抱くこともできねえだろうしな」
「おいおい、そっちかよ」
「男にとっては死活問題だ。仮にお前がガキに戻っちまって何日も抱けねえなんてことを想像したら、俺だったら耐えられんからな。ガキの仕草は確かに可愛いが、その分愛しさも募るはずだ。氷川がその狭間で苦しまねえ内に記憶を取り戻してやりたい」
 鐘崎は前を見つめながらハンドルを握り、冷静な口調ではいるが、そこには友を思う熱い気持ちが垣間見える。紫月はそんな亭主を誇らしく思うのだった。

 そうして翌朝一番の飛行機で香港へと飛んだ鐘崎と紫月は、ひとまず黄老人と冰が住んでいたというアパートへと向かった。組からは清水と春日野も同行してくれたので、四人で大家を訪ねることにする。
 迎えてくれた大家はたいそう気のいい初老の婦人で、冰たちのことも覚えているとのことだった。
「ええ、ええ覚えておりますよ! 冰ちゃんね、あの子は本当にやさしい子だったわ。黄さんが亡くなる直前まで一生懸命お世話をしていてね。近所でも評判のいい子だったんですよ」
 ただ、婦人は冰が中学生くらいになった頃に親の代から大家を引き継いだとのことで、幼少の時分のことまでは詳しく知らないということだったので、四人は二手に分かれて近辺を聞き込んで歩くことにした。



◆19
 大家も協力してくれて、アパートに長く住んでいる住人たちから一件づつ当たっていく。清水と春日野は周辺の公園や冰が通っていた小学校などにも聞いて回ることにした。
 丸一日かけて聞き込みをした結果、黄老人と冰の暮らしぶりが見えてきたが、その誰もから本当に仲睦まじく本物の家族のような二人だったと懐かしむ言葉が聞かれた。冰の両親が亡くなった頃のことも知っている者がいたが、生憎たいそう高齢となっており記憶が曖昧で肝心のことは分からずじまいであった。
 その日は市内のホテルに泊まり、翌朝からも引き続き聞き込みに回ることにする。すると、その甲斐あってか夕刻になる頃に当時のことを知る老夫婦と巡り合うことが叶った。公園などを聞き込んで回っていた清水と春日野が耳よりな話題を聞きつけてきたのだ。
 報告を受けて鐘崎と紫月も急ぎその夫婦の元へと向かった。
「おお、おお、あの時のことはよう覚えておりますじゃ。わしは黄さんとは囲碁仲間じゃったから、それこそしょっちゅう行き来をしておりましての。ちょうど今くらいの時期じゃったかの。えらく風の強い夕方のことじゃった。この辺りは街並みも古うての、風に煽られて電波を受信するアンテナか何かが吹き飛ばされましてな。ちょうど道を歩いておった黄さんを直撃したんじゃ」
「その事故で辺り一体は停電になりましてね。回復したのは丸一日経った後でしたわ。黄のおじいさんは命に別状はなかったものの、手の筋を切ってしまわれましてね。それまでカジノのディーラーをなさっていたんですが、その事故がきっかけで引退せざるを得なくなったんですよ」
 夫婦が交互交互に当時の様子を振り返る。
「黄さんは幼い冰ちゃんを抱えておったからの。生活の為にそれ以後もカジノの掃除夫として仕事を続けておったんじゃが、あれだけの腕のいいディーラーでしたからの。もう二度と腕を振るえなくなったことは相当にお辛かったようじゃ。冰ちゃんの前ではそういった感情を見せんようにしとったが、わしらにはよくこぼしておった。情けないと言うて涙してたこともありましたじゃ」
 確かに黄老人にとっては悲劇だったに違いない。
「冰ちゃんも幼いながらにおじいさんの気持ちは分かっていたのかも知れませんわ。一生懸命にディーラーの練習をして、将来はじいちゃんのような立派なディーラーになって恩返しするんだって。学校から帰ると毎日練習していましたわ。お友達と遊ぶ時間も削って、それは一生懸命にね。本当だったら親御さんに甘えて遊びたい盛りだったでしょうに、本当に心根のやさしいいい子でした」
 冰は焦れたり当たったりすることなく、黄老人の怪我の介護をしながら、夕飯の買い物なども進んで行っていたという。夫婦の話からもその頃から健気だった冰の様子が目に浮かぶようだった。



◆20
 老夫婦の元を暇した帰り道、鐘崎は早速に汐留の周へと連絡を入れた。
 周は現地にまで飛んで経緯を突き止めてくれたことを非常に驚き、心からの感謝を述べた。
「そうか……。そんなことがあったのか」
 黄老人がカジノを引退したことは知っていたが、単に高齢によるものと認識していた周には衝撃的だったようだ。
「カネ、本当にすまない。まさか現地にまで行って突き止めてくれるとは……。一之宮はもちろん、組の大事な幹部や若い衆にまで労をかけてもらって礼の言葉もねえ」
「そんなことは気にするな。俺たちにとってお前と冰は家族も同然だ。動けるヤツが動くのは当たり前でお互い様のことだ」
 そう言ってくれる友に思わず涙腺がゆるむ。周は電話越しに人知れず熱くなった目頭を抑えたのだった。



◇    ◇    ◇



 その後、一週間ほどが過ぎ、冰も汐留での生活に馴染んできた様子だったが記憶の方は相変わらずである。周と共に朝食をとった後は昼まで邸でディーラーの技の練習などをしながら過ごしていた。午後から少し社長室へと顔を出し、コピーやお茶淹れといった簡単な仕事を手伝い、三時のティータイムが済むと邸に戻って真田と共に周の帰りを待つのが日課となっていった。
 黄老人を彷彿とさせるような雰囲気の真田にはよく懐いて、近頃では一緒に夕飯の支度などをするようになってもいた。調理場の者たちも子供に戻ってしまった冰を憐れに思いながらも、元来の素直でやさしい性質に更に輪をかけたような可愛らしさには心和む日々のようであった。
「ねえ真田さん、白龍のお兄さんは何が一番好きなのかなぁ。僕にもできる簡単なお料理があれば作ってあげたいんだ」
「おや、それは喜ばれるでしょうな! 焔の坊っちゃまはあまり好き嫌いはございませんが、水餃子をフカヒレのスープに浸した我が家独特のお料理が特にお気に入りのようですぞ。いつもスープまで残さずに全部飲んでくださいます」
「水餃子って難しいですか?」
「種をこねてしまえばさほどでもございません。包むのが少し難しいかも知れませんが、冰さんならば大丈夫でございますよ。坊っちゃまを想ってくださるそのお気持ちが何よりですのできっと上手にできるようになります。一緒にやってごらんになりますか?」
「はい! シェフさんたちに教えていただきながら上手にできるようにがんばります! 白龍のお兄さんにはいつも優しくしてもらってるから何か僕にできることをしたいんです」
「さようでございますか。坊っちゃまもお喜びでしょう。では本日のメニューは水餃子のスープをメインに致しましょうな」
「ありがとう真田さん! お兄さんに喜んでもらえるように、僕がんばります!」
 まるで祖父と孫のように仲睦まじく夕飯の支度に精を出す姿が本当に愛らしい。調理場の者たちも心癒される思いでそんな二人を見守るのだった。



Guys 9love

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