極道恋事情
◆21
そうして週末になると鐘崎と紫月が遊びにやって来て、四人で例のケーキが美味しいホテルのラウンジに出掛けたりと、少しずつ外出もするようになっていった。時には鐘崎らの邸に遊びに行って犬たちと戯れたり、周囲の皆とも以前と何ら変わらないくらいに馴染み、周と冰にとってもそれは確かに穏やかといえる日々であった。ただひとつ贅沢を望むとすれば、周にとって夫婦の触れ合いを我慢せざるを得ないということだった。
冰は以前と同様に素直でやさしい性質だ。周を慕い、頼り、それでも自分のできることは進んで一生懸命にする。子供を思わせる所作は新鮮であり可愛らしい。そんな彼と寝食を共にする周にとっては幾度抱き締めたい衝動に駆られたか知れない。
むろんのこと身体的には大人同士であるわけだから、気持ちさえ互いを求めれば情を重ね合うこと自体は可能といえる。だが、はたして今の冰がそれを望むだろうか。怖がらせて信頼を失えば、周にとっては取り返しのつかない後悔をすることになろう。例えどんなに愛しくても彼をその手に抱くことだけはしてはいけないと堪える周には、それもまた確かに苦悩といえた。
事故の日からかれこれひと月が経とうとしている。
側で見守る鐘崎と紫月にとってもそんな友の姿は心痛むものであった。
「冰は相変わらずか……。何かヤツの心の扉を開くきっかけがあるといいんだがな」
いつものように週末に様子見に訪れた鐘崎が深く溜め息を抑えられないでいる。少し離れた部屋の中央では紫月が冰の相手をしていて、二人共に笑顔を見せて楽しげだ。すっかり紫月に心を許した冰は誰と遊ぶよりも嬉しそうで、それ自体は喜ばしいことといえる。二人の様子を横目に、鐘崎は周と男同士の会話をしていた。
「お前が辛えんじゃねえかと思ってな。正直なところ俺も当初はここまで長引くとは思っていなかった。案外すぐに記憶が戻るだろうと楽観してもいたんだが」
「それは俺も同じだった。身体的に怪我を負ったわけじゃねえしと、ある意味気楽に構えていたのは事実だ。だがまあ、お前らが香港に飛んでいろいろと調べてくれたお陰で冰がああなった原因は分かったからな。冰にとって黄のじいさんは親も同然だ。いや、それ以上かも知れん。そのじいさんが天職としていたディーラーを断念せざるを得なくなった事故と同じような状況が重なったんだ。当時ガキだった冰には俺たちが考える以上に衝撃だったに違いねえ」
「だろうな……。黄老人はそれ以後も冰を育てる為にカジノの掃除夫として働いてきたというし、現役のディーラーたちを目の当たりにしてさぞ辛かったことだろう。例え冰の前では平静を繕ってはいても、幼心にじいさんの葛藤や寂しさみてえなものを感じ取っていたのかも知れん」
二人共に溜め息が抑えられない。
「なあカネ。仮にこのまま冰の記憶が戻らねえとしても、俺はあいつと一緒にいられるだけで充分満足だ。あいつは俺を覚えていてくれたし、今じゃすっかり頼ってくれてもいる。性質もそのままで何ひとつ変わっちゃいねえ。真田や李、それにお前らにも心を開いて徐々に以前の日々が戻ってきているのは確かだ。それで充分だ」
◆22
周とて鐘崎の言いたいことはよく分かっているつもりだ。心は満たされても夫婦という意味で情を重ねられないのは辛かろうと、言葉にこそしないが鐘崎がその苦悩を案じてくれているのが痛いほど分かるからだ。
「ありがとうな、カネ。だが俺はこう見えて気は長え方だ。あと十年もすれば冰の気持ちも大人へと成長するだろう。それまではガキのあいつと過ごせる時間を楽しむとするさ。それに、あっちの方ならてめえでいくらでも処理できる。無理強いして冰に恐怖心を植え付けるくれえなら、そのくらいどうってことねえ」
つまり欲のことなら自慰で事足りるというのだろう。しかも冰の気持ちがこのまま大人へと成長するまで待とうというのだ。
言葉の上では簡単に思えても、実際は気の遠くなるような年月を独りで乗り越えようとしている――。
「……氷川、お前」
鐘崎は分かってはいても切なくなる気持ちが苦しかった。
「俺なら大丈夫だ。そんなことまで考えてくれるお前の気持ちが俺には有り難くて仕方ねえ。いい友を持ったと心の底からそう思うぜ」
ニッと口角を上げて不敵に微笑んでみせる姿に胸の奥が熱くなる。鐘崎もまた心からそんな友を誇りに思うのだった。
◇ ◇ ◇
それから数日後――。
周が接待でクラブ・フォレストの里恵子の店を訪れた夜のことだった。クライアントを送り出した帰り際、周はママである里恵子に呼び止められてVIP専用の個室へと案内された。
「冰ちゃんの様子はどう? まだ何も思い出せないのかしら……」
里恵子としても心から心配していたのだ。
「まあな。だが元気にしている。俺にも家の連中にも懐いてくれているしな」
「そう……。だったらいいんだけれど。瑛二もとても心配しているのよ」
「すまねえな。お前らにまで気を遣わせちまって」
「いいえ、そんなことは全然! 冰ちゃんは私たちにとっても大切な友人ですもの」
里恵子は言いづらそうにしながらも、思い切ったように口を開いた。
「ねえ周さん……。怒らないで聞いてくださる? 瑛二とも相談して……お節介なことだとは重々承知だけれど……もしもあなたが必要ならば女の子をご紹介……というか手配することは可能よ。口も固くてお仕事としてひと時のお相手をできる子をご紹介できるわ」
驚きつつも里恵子の気持ちはよくよく理解できた。男性としての自分を心配してくれているのだ。
言いにくいことながら敢えてそんな提案をくれる彼女に感謝こそすれ怒る気持ちなどには到底なれなかった。
「お前さんにまでそんな気を回させちまってすまねえ。だが俺のことなら心配無用だ」
「……そうよね。あなたならその気になれば引き手数多なのは分かっているわ。でもあなたにとって冰ちゃんは何より大事な人だし、彼を裏切るようなことは絶対にできないと思うの。だからせめてお商売として一時でも気が休まればと思ってしまったの。それなら誰も傷つけずに済むんじゃないかと思って……」
◆23
ただの情事では冰を裏切ることになろう。だが金でカタがつけられるひと時であれば、気持ちの上では裏切りとまではならないのではという里恵子の思いであった。
「ありがとうよ里恵子。言い辛えことだろうに、女のお前さんにまでそんな心配をさせちまってすまねえと思っている。だが本当に大丈夫だ。正直なところガキになっちまったあいつと過ごすのは新鮮といえるし、別の意味で満たされているからな。お前さんと森崎の気持ちは本当に有り難えと思っている」
「周さん……そうね。何て言ったって冰ちゃんが側にいてあなたを慕っているんですもの。お節介なことを考えちゃったけど許してね。もしも冰ちゃんさえ良ければ、気晴らしにいつでも遊びに来てくれると嬉しいわ。お店でなくても私たちの家の方でも大歓迎よ!」
「そうだな。じゃあその内言葉に甘えさせてもらう」
周は礼の気持ちを穏やかな笑みに代えると店を後にし、愛しい伴侶が待つ部屋へと帰って行ったのだった。
冰にとっての衝撃といえる事件が起こったのはそれから数日後のことだった。
いつものように午後から周の社長室へ手伝いに顔を出した時だ。どうやら来客中だったようで、次の間となっている応接スペースの方から話し声が聞こえてきたので、冰は邪魔にならないように出直そうと踵を返した。
ところが、部屋を出て行こうとしたまさにその時、どうにも気に掛かるひと言が聞こえてきてしまって、思わず歩が止まってしまったのだ。話しているのは周と、相手は女性のようだった。
「あなたに大切な奥様がいらっしゃるのは承知していますわ。でもご事情があってしばらくお会いになれないとか……。アタクシならば秘密は固く守らせていただきますし、お商売の上と割り切った関係で構いませんの。どうか考えてくださらない?」
若い女性の声がはっきりとした口調でそう告げる。子供の目線であっても彼女の話ぶりから相当に自信があるのだろう雰囲気が窺えた。
「どこでそんな話を聞いてきたか知らんが、あんたの言うような事実はねえな。要件がそれだけならお引き取り願おうか」
心なしか周の声音も剣を帯びていて、いつものやさしい感じとは違う。冰は次第に高鳴り出す心臓を抑えながら、その場に固まってしまった。
問答は続く。
「あら、ごまかそうとしたって無駄ですわ。だってアタクシ聞いてしまったんですもの」
「――何を?」
「あなたがこの間の晩、里恵子ママとVIPルームでお話しなさっていたことをですわ。偶然通り掛かった際に少しですけど聞こえてしまったの」
ということは、この女は里恵子の店のホステスということか。周にとっては店にどんな女性が勤めているかなど気にも留めていなかった為、見覚えはないといったところであった。
◆24
「――盗み聞きとはいただけねえな」
「盗み聞きだなんて、そんなつもりはないわ。本当に偶然聞こえてしまっただけよ? 通り掛かりだったから全部ではないけれど、女性が御入用だとかそんなお話をなさっていたでしょ?」
女はしれっと笑ったが、実際はどうだか知れたものではない。以前から周に目をつけていて、帰り際にそれとなく後を追ったのかも知れない。
周や鐘崎がクラブ・フォレストを訪れる際は、決まった係の女性はおらず、必ず里恵子ママ自らが席につくことになっている。見るからに上客であろうし、容姿も群を抜いて男前といえる彼らを密かに自分の客にしたいと狙っている女がいてもおかしくはない。
「とにかくこちらとしてはおたくとそういった付き合いをする気はないし、不要だ。お引き取り願おう」
はっきりと断ったが、女は引き下がらなかった。
「でもしばらくご無沙汰でいらっしゃるんでしょう?」
しなだれかかるように腰をくねらせては、上目遣いで色気を強調する。まるで私の魅力に抗えるかしらとでも言いたげである。
「そんなに奥様が大事ですの? でも奥様も奥様よね。どんな理由があるか知らないけれど、あなたのようなご亭主を放っておくなんて酷くありません? アタクシなら絶対そんな思いはさせないわ」
女は詳しい事情までは知らないのだろう。単にしばらくの間、嫁と別居生活でも送っていると思い込んでいるようだ。
「お店で係に指名してくれとまでは言わないわ。ママにも絶対に内緒にするし、あなたに不利益になるようなことはしないと約束するわ。外で会ってくださるだけでいいの。アタクシ、これでも身持ちは堅い方ですのよ。誰とでも安易にお付き合いするようなこともしていないの。あなたとならと思ってこうして出向いて来たんですもの」
要するに”あなた”は特別で、普段は相手を選べる立場の高級な女だと言いたいのだろう。
「あなたにとっても悪い話じゃないはずよ? だからお願い。考えてくださらない?」
「不要と言っている。それ以前に里恵子はこのことを知っているのか」
「あら、無粋ですこと。ママにも内緒と言ったはずよ? 今日ここへ来たことはあなたとアタクシ以外誰も知らないわ」
「自己判断か。里恵子の耳に入ったら、あいつにも迷惑が掛かるとは思わねえのか」
「憎いことをおっしゃるのね。もしかしてアタクシよりもママから直々のお誘いをお望みなのかしら? でも残念! ママにはもうちゃんといい男性がいらっしゃるのよ。いくらあなたでもママを落とすことはできないと思うわ」
さすがの周も不機嫌をあらわにせずにはいられなかった。
◆25
「いい加減にしねえか。俺は里恵子を色目で見たことはねえし、女も必要ねえ。お前さんは自分の店のママを侮辱する気か」
「侮辱だなんてとんでもない。でもそんなに熱くなるっていうことは、やっぱりママにご執心でいらっしゃるのかしら? あなたも……それによく一緒に来られる鐘崎さんも! 二人共、係も決めずに必ずママを席に付けられるんですもの。店の女の子たちの間でも密かに噂になっているのよ? あなたたちのどちらかがママを狙ってるんじゃないかって」
ばかばかしいにもほどがあるというものだ。周は反論する気にもなれずに呆れた溜め息を抑えられなかった。
「でもママもママよね。いくらお商売とはいえ、決まった男性がいるっていうのにあなたたちのようないい男を独り占めしちゃって、そんなんじゃアタクシたちホステスはやる気を削がれるっていうものだわ。ねえ、殿方から見てもそう思われるでしょ?」
「あんたの戯言に付き合ってる暇はねえな。てめえの店のママの悪口を吹聴して歩くような女は論外だ。俺はあんたと外で会う気はねえし、個人的な付き合いをするつもりもねえ」
周は卓上にあったベルを叩くと、すぐに隣の部屋から飛んできた李に向かって、
「客人がお帰りだ」
と、短く言い放った。
李もその態度とオーラで察したのだろう。即座に『お気をつけてどうぞ』と言って扉を開き、有無を言わさぬ雰囲気ながら表向きだけは慇懃無礼と取れるほど丁寧に頭を下げてみせた。
「……待って! 氷川さん……だったわね。ママを悪く言ったことは謝るわ! ほんの愚痴なの! 本気で言ったわけじゃないのよ。分かって!」
さすがにママの耳に入ってはまずいと思ったわけか、女が焦り顔で弁明を口にする。加えて”氷川さん”という呼び方をするということは、周というファミリーの素性までは知らないとみえる。やはり里恵子はその辺りの詳しいことは例え店の女性たちに対してもむやみに触れ回るようなことはしていないというのが分かる。
「心配せずとも里恵子に告げ口なんざしねえさ。だが、あんたのような女は願い下げだ。しのごの言わずに引き取ってもらおう」
それを最後に周は踵を返して次の間の扉をピシャリと閉めてしまった。
「どうぞお引き取りを」
残った李にまでそう促されて、女はプライドを傷付けられたようだった。
「……ッ、こうまで頭が固いとは思わなかったわ。後になってやっぱり気が変わったなんて言ったって相手になんかしてあげない!」
これまでとは百八十度態度を翻したように捨て台詞を吐き捨てると、ムッと頬っぺたを膨らませながら帰って行った。その後ろ姿を見やりながら李がつぶやく。
「劉、そこにいるな? 念の為あの女の経歴と交友関係を当たっておいてくれ。後々面倒に発展しそうな目は摘んでおかねばならない」
「分かりました。ではすぐに」
密かに控えていた劉がスッと衝立の向こうから顔を出して即座にうなずく。彼もまた周からの呼び出しベルの音を聞いて飛んで来たのだ。言われた通り、すぐに女について調査を開始したのだった。
◆26
「老板、申し訳ございません。クラブ・フォレストからの使いとのことでしたのでお通ししてしまいました。以後は気をつけます」
李は深々と頭を下げて恐縮した。
「構わん。里恵子の店ではうちの社の卸先から食品などを仕入れてもらっているし、経営上の付き合いがある。お前に落ち度はねえさ」
「は、恐縮です。先程の女ですが……たいそう失礼なことを申し上げた様子ですが……」
あの女は何と言ってきたのです? と李が眉間に皺を寄せている。
「この間の夜、俺と里恵子が話しているのを聞きつけて来たらしい。里恵子がやたらなことを触れ回るとは思えんし、女の言う通りあの場で小耳に挟んだだけで詳しいことまでは知らんのだろう」
「前々から老板と近付きになりたかったのでしょうか。里恵子ママにも内緒で勝手に訪ねて来たのでしょうね」
「そのようだ。里恵子が知ったらそれこそ恐縮して余計な気遣いをさせちまうだろう」
「どこにも困った輩はいるものですが、まかり間違ってあの女が逆恨みなどの行動を起こさぬようしっかりと目を光らせると致します」
「お前や劉にも要らぬ世話を掛けちまうが、すまない」
「とんでもございません! それよりも……午後からは冰さんがこちらにお見えになるご予定だったのでは? 本日は遅うございますね」
いつもならばコピーなどの簡単な仕事を手伝いに顔を出すはずである。
「お身体の具合が優れないか……もしくは何かあったのでしょうか」
「二時か……。そういや遅えな」
周も手元の時計を見ながら眉根を寄せる。
「何かあれば真田からすぐに連絡がくるはずだが」
「ご様子を窺って参りましょうか」
「いや、俺が行ってみよう」
次の間の扉口で呆然としてしまっていた冰は、二人の会話を聞いて慌てて部屋を飛び出した。
邸に向かう連絡通路を小走りにしながら心臓が飛び出しそうになる。脳裏からは周にしなだれかかっていた女性の姿が消えてくれず、わけもなく胸が苦しくなる。何よりも彼女が言っていた『奥様』という言葉が気になって気になって仕方がなかった。
(白龍のお兄さんにはお嫁さんがいるっていうことなのかな……)
だが見掛けたことはない。紹介されたこともむろんない。周自身も父や兄などの家族は香港にいると言っていたし、真田たちからも嫁がいるなどとは聞いたことがない。
(でもさっきのお姉さんは奥様がどうのって言ってたし……本当はどっちなんだろう)
それより何より周にお嫁さんがいると想像しただけで苦しくて苦しくて仕方がない。心臓はドキドキと音が聞こえるほどに脈打っているし、わけも分からず泣きたくなるほどに苦しいのだ。
(お兄さん……僕、このまま甘えていていいんだろうか……)
自室に駆け込むと、冰はベッドに突っ伏してしまった。
◆27
しばらく呆然としていると、遠くから周が呼ぶ声が聞こえてきてようやくと我に返った。
「冰、いねえのか? 冰?」
扉を開けたり閉めたりする音がして近付いてくる。冰は咄嗟に布団へと潜り込んで眠ったふりをした。
「冰……ッと! なんだ、寝ちまってたのか」
ホッと安堵したような声が聞こえる。その声音と雰囲気からはひどく安心した様子が伝わってきて、冰は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。いつもならば社に手伝いに行くはずなのに、今日は姿が見えないと飛んで捜しに来たのだろう。きっと心配をかけたに違いない。
いくらショックなことを聞いてしまったとはいえ、勝手なことをしてしまった自分が情けなかった。
「お……兄さん……」
「ああ、起こしちまったな。すまない」
周は安心したように微笑むと、ベッドサイドへやって来てやさしく頭を撫でてくれた。
あたたかく大きな掌だ。初めて会った日そのままに、すべてを包み込んでくれるようなやさしい手の感触に心がキュッと痛む。
「ごめんなさいお兄さん……僕……お手伝いに行かなきゃならなかったのに」
「そんなことは気にするな。それよりどこか具合でも悪いのか?」
「ううん、ただ……ウトウトしてる内に寝ちゃって」
「そうかそうか。だったらよかった」
瞳を細めて微笑みかけてくれる視線がそこはかとなくやわらかでやさしい。先程の女の前で見せていた尖った雰囲気は微塵も感じられず、いつもの彼だ。髪を撫でていた掌が額の熱を測るように移動し、
「熱はねえみてえだな。念の為、鄧先生を寄こすから診てもらえ。たまには経過をみるのも必要だ」
「だ、大丈夫……! ホントに僕……」
「ここしばらく社の手伝いやらメシの支度までしてくれて疲れが溜まってくる時期だろうからな。今日はこのままゆっくり過ごせ。俺もそう遅くならずに上がってこられる。そうしたら二人で一緒に晩飯にしよう」
周はそう言うと、鄧へと一報を入れて社に戻っていった。
「お兄さん……ごめんなさい」
咄嗟のこととはいえ嘘をつき、自分の勝手で余計な心配をさせてしまったことに心が痛む。ほどなくして医師の鄧がやって来た時には自己嫌悪と先程の衝撃とで冰はすっかり意気消沈してしまっていた。
「冰君、その後如何かな? どんな小さなことでもいい。思ったことや感じたことをボクに教えてくれたら嬉しいぞ」
鄧も元気のない様子を感じ取ってか、穏やかに笑みながら診察を始めた。
「あれから何か変わったことはないかい? 急に頭が痛くなってすぐに治ったとか、他に何か心配なことがあるとか」
「……えっと、頭が痛くなったとかはありません……」
「そうか。少し元気がないようだが、他に痛かったりダルかったりするところはないかい?」
「……大丈夫です」
「うむ」
だが、やはり元気がない様子は明らかだ。鄧は質問を変えてみることにした。
「ここでの生活はどうだい? 周のお兄さんはやさしくしてくれる?」
「はい、それはもちろん! 他の皆さんも……真田さんとか調理場のお兄さんたちとか、それに鄧先生もすごくやさしくてうれしいです」
「ボクのことまでそんなふうに言ってもらえて嬉しいよ。冰君こそとてもやさしいいい子だな」
「ありがとう鄧先生。あの……先生は……」
何か言い掛けてためらっているような様子に、鄧はにっこりと微笑むと穏やかに訊いた。
「何だい? 何でも言ってくれ?」
◆28
「……先生は……お嫁さん……いるですか?」
何ともぎこちない話し方で、語尾は日本語と広東語が混ざってしまっている。質問の内容も突飛といえる。鄧は驚きつつも何か記憶を揺さぶるような兆候かと思い、そのまま話を続けた。
「残念ながら先生にお嫁さんはまだいないな」
「……そ……ですか」
「まあボクもいい歳だからねぇ。そういったご縁があればとは思うんだけど、なかなかね。冰君は好きな子がいるのかい?」
「好きな子……」
少し考え込みながら、すぐにブンブンと首を横に振ってみせた。
「あの……それじゃ白龍のお兄さん……は?」
「――周のお兄さんにお嫁さんがいるかってことかい?」
コクリと遠慮がちにうなずいてみせる。
事実を答えるならばイエスだが、そのお嫁さんは冰である。ここはいないと言うのが正解と鄧は思った。
だがそんなことを訊くということは良い兆候といえる。聞きづらそうにしながらそれでも知りたいという意志が窺える。少なからず周に対する強い興味があるからこその質問なのだろう。
「周のお兄さんもボクと同じでまだ独身だ。お嫁さんはいないよ」
すると冰は驚いたように瞳を見開いて、すがるような視線で見つめてきた。まるで一瞬の内に闇から抜け出せたというくらいに瞳を潤ませ、心を震わせている様が見て取れる。
「本当、先生?」
「ああ、本当さ」
「でもさっき……」
言い掛けて冰はハッと口をつぐんでしまった。
「さっき……? どうかしたのかい?」
「ううん、何でもない……です」
とはいえ何か考え込むような素振りでいるのは確かだ。鄧はそれ以上突っ込まずに、診察だけを終えると、「じゃあもう少しゆっくり横になっていなさい」と言ってやさしく微笑むに留めた。
その後、診察の結果を報告がてら周の社長室へと向かった。
「鄧、すまなかったな。あれの具合はどんな様子だ」
「はい。お身体的には極めてご健康なご様子でした。特に心配する点は見当たりません。ただお気持ちの方が少々不安定でいらっしゃるかと思われます」
「何か心配事でもあるのか……。まあ、あいつもここでの生活に馴染んできたとはいえ、何かと気疲れしてるのかも知れんな。あいつの意識の中じゃ周りは皆大人だらけだからな。目上ばかりで本人も気づかねえ内に気を遣っているのかも知れん」
「というよりも、私の所見ですが……老板をお慕いするお気持ちが日に日に強くなられていて、そのお気持ちに戸惑っているようにお見受けできるのです。それに少々気になることをお尋ねになられまして」
「気になることだ?」
「ええ。老板にお嫁さんはいるのかとお訊きになられました」
周は驚いた。
◆29
「俺に嫁がいるかと……冰がそう言ったのか?」
「はい、とても気掛かりなご様子でした。最初は私にお嫁さんがいるかとお訊きになり、いないと答えると次にはたいそう言いづらそうにしながら、それじゃあ白龍のお兄さんはどうなんだと」
「……それで、何と答えたんだ」
「いないとお伝え致しました。すると、たいへん安心なされたご様子でしたが、同時に考え込む素振りもみせられました。もしかするとどこかで老板には御令室がいらっしゃるというようなことをお耳にされたのではないでしょうか」
鄧いわく、邸の者たちの雑談の中で『奥様が早くご快復なされるといいですね』などといった会話がなされていて、それを偶然にも冰が聞きつけてしまったのではないかとのことだった。
「邸の者たちは冰さんのことを案じて言ったのでしょうが、何も知らない冰さんがそんな会話を耳にすれば当然別の誰かが老板の奥様だと勘違いしてもおかしくはございません。もしもそれがきっかけでお元気がなくなったのだとすれば、老板をお慕いするお気持ちが強いからこそのお悩みなのではと」
「雑談か……。まさかあいつ……」
周はハッと瞳を見開くと、思わずデスクに手をついて立ち上がってしまった。
「もしかしたらさっきの話を聞いていたのか……」
よくよく考えれば生真面目で責任感も強い彼が社に出向く時間を忘れて寝入ってしまう方がおかしいとも思える。とすると、いつも通り手伝いにやって来たが、客――つまりは先程の女性――がいて、出直そうとしたところ話の内容が聞こえてしまったという方が可能性は高い。女は確かに『奥様』という言葉を連発していた。しかもその奥様を差し置いて自分との蜜月を迫ってきてもいた。幼い心の冰にはその意味こそ分からずとも、雰囲気で妖しげなものを感じ取ったのかも知れない。
「そうか……それであいつ……」
周が様子を見に行くと言ったので、急いでその場を立ち去り、咄嗟に眠ってしまったと嘘をつかせてしまったのだろう。
「気の毒なことをしちまった……」
周は鄧に『よく教えてくれた』と短く言い残すと、すぐさま冰の元へと急いだ。
部屋に着くと冰はまだベッドに潜り込んではいたが、眠ってはいないようだった。
「冰」
声を掛けるとハッとしたように慌てて半身を起こした。
「お兄さん……!」
「冰、少し話してもいいか?」
「……? うん。お兄さんお仕事はいいの?」
「仕事よりお前だ。もしかしてさっき社に来たんじゃねえか?」
「え……あの……ううん」
ひどく驚いて恐縮したように肩をすぼめる。その様子から、やはりかと確信が持てた。
◆30
「冰、すまない。俺の配慮が足りなかった。ちょっと考えればお前が約束を忘れて寝入っちまうなんておかしいと気がついたはずだ」
「お兄さん……僕……ホントに寝込んじゃって……」
「冰、俺はお前には思ったことを隠さずに何でも言う。だからお前もそうしてくれると嬉しいぞ。まず俺には嫁といえる女はいねえ。そんな女がいれば包み隠さずお前に言うさ」
「お兄さん……僕、あの……鄧先生にその……お兄さんにお嫁さんがいるかどうかなんて訊いちゃって……失礼じゃなかったかなって……」
普通ならばここで『鄧先生から聞いたの?』と、ほぼ多くの人間がそう返すところだろうが、冰は違った。鄧が告げ口をしたかのような考え方は思いもつかないのだろう。自分が失礼なことを訊ねてしまったのではないかと恐縮している。周にとってはそんな健気なところも愛しくてならなかった。
「もう一度言うが俺に嫁や恋人といった女はいねえ。俺にはお前がいればそれだけで充分なんだ」
「お兄さん……すごくカッコいいし、きっとお嫁さんになりたい人はいっぱいいるだろうなって思って……。いつかお兄さんが結婚しちゃったらと思ったら……僕……苦しくなっちゃって……ごめんなさい。こんなによくしてもらってるのに我が侭言って……」
「そんな我が侭ならいくらでも大歓迎だ! 例え誰が何を言ってこようが俺はブレねえから心配するな。お前や真田たちと一緒にいられることが俺にとって何よりの幸福なんだ。それだけは忘れてくれるなよ?」
周はベッドサイドに腰掛けながら華奢な身体を包み込むようにそっと抱き締め、やさしく髪を撫でた。コツリと額と額を合わせ、グリグリっと擦り付けてはとびきりやさしげに微笑む。
「今日は早めに上がってくる。そうしたら一緒にメシにしよう。お前は何が食いたい? 真田にリクエストしておいてやるぞ?」
「お兄さん……ありがと……。ごめんなさい、僕……」
「謝るのは俺の方だ。お前を不安にさせちまった。だから遠慮せず何でも好きなものを言え。ハンバーグか? それともパスタがいいか」
子供が好みそうなものを提案してみる。すると冰は思いもよらないメニューを口にした。
「んとね、それじゃ水餃子のスープがいいな」
迷いなく周の好物を口にするところが本当に愛おしい。
「よし、じゃあ水餃子のスープとお前の好きなシューマイにするか。早速真田に頼んでこよう。今日はメシを作る手伝いはいいから、それまでもう少し横になってろ」
「お兄さん、ありがとう。ありがとう……本当に。晩御飯楽しみに待ってるね」
「ああ。俺も楽しみだ!」
周はニッと悪戯そうに微笑むと、冰を横たわらせ、掛け布団を掛けてやりながらその額にチュッと口付けた。
「お兄さん、大好き……」
聞こえるか聞こえないかのような小声でそうつぶやいた冰の頬は真っ赤に熟れて紅潮している。そんな嬉しい言葉を周が聞き逃すはずもなかった。
「ああ、俺もだ。何よりも誰よりもお前が大好きだぜ」
微笑みながらベッドから立ち上がる仕草を冰は夢うつつのような心持ちで見送ったのだった。
◆31
その夜のことだ。
周に嫁といえる女性がいないことを知って安心したらしい冰にはすっかりいつもの元気が戻ってきて、顔色もすこぶる良く、二人で和気藹々としたディナータイムを過ごした。
仕事を早めに切り上げてきた周は少々事務処理が残っていたので、風呂は別々に入って冰が先にベッドで待っていることとなった。周が上がってくると寝室のテレビがつけっぱなしになっていたが、冰の方はすっぽりと布団に包まってウトウトとし掛かっていたようだ。
「……ん、お兄さん……? もうお風呂上がったの?」
「ああ。そのまま寝ていろ」
隣に潜り込んでそっと髪を撫でてやると、冰は無意識にだろうか――両手を広げて周へと抱きついてきた。
「お兄さん、今日もお疲れ様。大好き……。おやすみなさい……」
うつらうつらとしながらも幸せそうな笑みを浮かべている。周はそっと額に口付けると、
「ああ、おやすみ」
そう言ってベッドサイドの灯りを落とした。
すぐ側ではスヤスヤと安らかな寝息を立てている。瞼を閉じてはいるが、笑みの形が残った表情は眺めているだけで愛おしい。
彼が記憶を失くしてからひと月余りになるが、すっかり周囲にも馴染み、二人の間の絆も取り戻しつつある。冰の口から『大好き』とまで言ってくれるようになり、可愛いヤキモチも見せてくれたことが嬉しくて、心が躍るようだった。
ゆるゆると髪を梳きながら寝顔を眺めていると、愛しさと共に別の欲が顔を出しそうになる。
少しだけなら――そんな思いで周はよく寝入っている唇に自らのそれを重ねた。
ほんのわずか、触れるだけのキスだ。
すると冰は瞼を閉じたまま嬉しそうに微笑みの表情を見せた。きっと楽しい夢でも見ているのだろうか――。相変わらずにスヤスヤと寝息を立てているところをみると、今のキスには気付かれていないだろう。
「――ふう……。さすがに堪らんな」
このままでは眠れそうにない。強めの酒でも引っ掛けるかと思い、そっとベッドを抜け出した。
リビングでバーボンのストレートを注ぎ、眠っている彼を起こさないようにと寝室から扉一枚で続く書斎に持ち込んでデスクの回転椅子に腰掛ける。窓の外には煌びやかな大都会の灯りがうごめいて、高楼から見下ろす景色は宝石箱を眺めているかのようだ。周はロックグラスを置くと、それらを見るともなしに見つめながらカーテンを引いた。
先程ほんの一瞬重ね合わせた唇の感触が蘇り、脳裏を離れてはくれない。あのままもっと深く口付けて、あのやわらかな髪を乱し、まさぐり、熱を重ね合わせてしまえればどんなにいいか――。
そっと――羽織っていたローブを解き、硬く熱を帯びた自らの雄に触れる。
「……ッ……う!」
そのままゆっくりと指を上下させれば、瞬時に快楽の海原へと引き込まれていった。
◆32
ちょうどその頃、ウトウトとしながら眠りに落ちていた冰は、寝返りを打った瞬間に隣の温もりが空っぽになっていることに気が付いて身を起こした。
「……お……兄さん? どこ……?」
つい先程、確かに布団に潜り込んできて『おやすみ』と言ってくれたはずである。あれからどのくらい寝入ってしまったのだろうか――そんなに時間は経っていないはずである。
外はまだ暗い――。
急に不安になって、冰は音を立てないよう静かにベッドを抜け出した。
「お兄……さん?」
リビングや化粧室、バスルームにまで見に行ったが周の姿はない。代わりにまだ壁がほんのりと温かかったので、彼が風呂を上がってからたいして時間は経っていないことが窺えた。
ダイニングを覗いたが、灯りは常夜灯のみで人の気配はない。真田ら家令の者たちも既に自室へと引き上げているのだろう。
寝室へ戻ると、リビングや風呂場とは反対側の書斎の方から物音が聞こえた気がして、冰はそちらへと歩を向けた。
(お兄さん、もしかしてまだお仕事が残ってるのかな……)
だが灯りは点いていない。扉はほんのわずかに開いていて、隙間からそっと中を覗く――。
「お……兄さ」
…………ッ!?
驚くような光景が視界に飛び込んできたのはその直後だった。冰は思わず「ヒッ……」と声を上げそうになり、慌てて両手で押さえた。
カーテンの隙間から漏れる都会の空の灯りが――うねるような見事な龍を浮かび上がらせている。見慣れている周の背中の彫り物に他ならない。
その龍が熱にうなされたようにうごめき、うっすらと肌を覆うテカリは細かい汗の粒だろうか――。何かの摩擦のような音の合間に時折微かに聞こえる声は苦しげであり、と同時にひどく色っぽい。如何な子供の心であっても、正体不明の何かに焚き付けられるような衝撃が嵐に巻き上げられた大波のようになって、呑み込まれてしまいそうな思いに陥った。
冰はその場を動けず、そして視線は釘付けのまま目をそらすことさえできずに、しばらくはその一部始終を硬直したまま見つめていた。
「……ッ、は……っ」
荒い吐息と共にうねる龍の動きがどんどん激しくなっていく。冰の側からは背中しか見えないので、その表情までは分からない。だが、なぜか想像はつくような気がしていた。
「お……兄……さん」
揺らぐシルエットからは髪が乱れているのが窺える。瞳を閉じ、恍惚とした表情で何かを追い、今この時いつものやさしい”お兄さん”は何を脳裏に描いているのだろう。何を思い、こんなにも狂おしいような呻き声を上げているのだろう。
乱れた吐息を押し殺すような淫猥な波が、やさしい”お兄さん”を呑み込み奪い去ってしまうようだ。
◆33
「……ッあ……クッ……!」
一等激しくも押し殺したような呻きと共にうねる龍から汗の粒をほとばしらせたと同時に、ぐったりと椅子に背を預け――嵐の余韻のごとく荒かった吐息が次第にゆっくりと落ち着いていくのをじっと聴いていた。
「ふぅ……」
窓の方を向いていた回転椅子がくるりと向きを変えたと同時に、そっと椅子から立ち上がった一糸まとわぬ見事な裸身がシルエットとなって視界を脅かす。決して知ってはいけない秘密を覗き見てしまったような衝動に駆られ、冰の頭の中は閃光が走ったかのように真っ白になってしまっていた。
あまりの衝撃でフラフラと足元をとられ、よろけた瞬間にガタッと大きな音を立ててしまい――その瞬間に目と目が合った。
「――ッ!? 冰……?」
「あ……の、僕……その……」
ごめんなさい――! それだけ口走ると、冰は一目散にその場から走り去っていった。
「……ッそ! なんてこった……今のを見てたってのか――」
周は急ぎローブを羽織り直すと、すぐさま彼の後を追い掛けた。
当然か、先程まで共に寝ていたベッドはもぬけの空だ。
「自分の部屋の方か――」
おそらくは無意識に彼専用の自室へと駆け込んだのだろう。一応リビングやダイニングも見渡しながら冰の部屋へと向かうと、思った通りか彼はベッドの上で身体を丸めるようにして震えていた。
「……冰」
恐る恐る声を掛けたが彼は未だベッドの上で身を丸めたまま動かない。
「冰、すまない。驚かせちまったか……。だがな、さっきのあれは……」
さすがの周も上手く言葉にはならない。幼い心でいる今の彼に大人の自慰行為をどう説明すればいいというのか、おそらくは親友の鐘崎であっても側近の李や医師の鄧たちであっても咄嗟には思い付かないだろう。
こんな時、酸いも甘いも経験を積んだ真田なら何と言って弁明するだろうか。呆然とそんなことを思い描いていた周の視界に涙をいっぱいに溜めた笑顔が飛び込んできた。
「白龍……」
今にも溢れそうな大粒の潤みをクシャクシャな笑顔の中に讃えて、突如腕の中に華奢な身体が抱き付いてくる。
「……冰、お前……?」
「白龍……!」
いつものように『白龍のお兄さん』ではなく『白龍』とはっきりとした口調が耳元でこだまする。
「お前……まさか……」
「うん、うん……! 思い出した。全部……全部思い出したよ白龍!」
「記憶が戻ったの……か?」
「ん! うん……! これまでのことも、ここ最近のことも全部……。心配かけてごめんなさい……!」
「……!」
すぐには信じられない思いで恐る恐るその肩に触れ、次の瞬間には息もままならないほどに強く抱き締めていた。
「冰……本当にお前か……?」
「ん、うん……!」
「夢……じゃねえ……のか」
「うん……!」
◆34
周はマジマジと腕の中の愛しい者を見つめながら、次の瞬間には奪い取るように唇を重ね合わせていた。やわらかなそれを押し開くように舌先を滑り込ませると、冰もまたごく当たり前のように自然な仕草で受け入れてくれる。記憶を失う前と何ら変わらぬ夫婦の口付けだ。
このひと月ほど、どれだけこの時を待ち焦がれていただろう。二人は無我夢中というように息もできないほどの激しい口付けに溺れた。
「……ッ、は……冰」
「白龍……」
ようやくと我に返ったように二人は重ねていた激情を解き、互いを見つめ合った。
「お……前、そうだ……! どこも痛くはねえか? 記憶が戻ったってんなら頭が痛えとか……どっかダルいとか……」
周は慌てて腕の中の容態を気に掛けた。
「ん、大丈夫……っぽい。どこも痛くないし」
「いや、だが安心はできん! 素人判断は良くねえ。そうだ……鄧! 鄧に診せよう。それから真田だ……! 奴らに報告しなきゃならねえ!」
周はまるで蜂の巣をつついたように右往左往して一騒ぎだ。記憶が戻ったことへの安堵感と喜びで我を失うくらいにソワソワと落ち着かず、これではまるで今度は周の方が少年に返ってしまったというくらいのはしゃぎようであった。
「真田! おーい、真田ー!」
冰の腕を引っ張って真田の自室へと向かった。
「坊っちゃま! 如何なされましたか!」
既に寝巻き姿の真田がガウンを片手に部屋を飛び出して来る。
「おお、真田! 喜べ! 冰の記憶が戻ったんだ……!」
「え! 本当でございますか坊っちゃま!?」
「ああ。ああ……! 本当だ!」
「真田さん、ご心配をお掛けして申し訳ありません。お陰様で全部思い出しました」
「冰さん……本当に……! 冰さん!」
真田も周同様興奮状態で、その目にはみるみると喜びの涙をいっぱいに浮かべている。
「坊っちゃまも……おめでとうございます! ああ、本当に良かったです!」
騒ぎを聞きつけた李や劉らも続々と集まって来て邸内は大わらわとなった。
◇ ◇ ◇
その後、医師の鄧に診察を受ける為、階下の医院の方へと向かったが、記憶を取り戻せたきっかけについては上手い説明が思い付かない。冰は恥ずかしそうに頬を赤らめたままうつむいては口篭っているし、周もまたどう言ったものかと視線を泳がせている。鄧はひとまず冰の事務的な診察を部下の者へ任せることにし、彼を隣の診察室へと送り届けてから周と二人きりで話をすることにした。
「実はな、はしたねえ話だが……あれが記憶を取り戻したきっかけってのは――」
鄧にはごまかさずに経緯を伝えなければならないだろうと思い、自身の自慰行為を覗かれたことを打ち明ける。すると鄧は呆れることもなく、なるほどとうなずいてみせた。
◆35
「左様でございましたか。やはり焔老板の愛情がきっかけとなって冰さんのお心を呼び戻されたというわけですね」
鄧としては、昼間の冰の様子からして記憶が戻るのも近いのではと思っていたようだ。
「冰さんが老板に対してのお気持ちにお気付きになられたご様子でしたので、このままもう少し強い自我が目覚めればあるいはと思っておったのですが。――そうでしたか、老板のご行為を目の当たりにして、一気にお心に掛かっていた鍵が開いたのでございますね」
「まあな……。きっかけとしては何とも恥ずかしいものだが、あれの記憶が戻ったことは本当に良かった」
周にとってはさすがに苦笑せざるを得ない痴態といえるが、鄧は決して恥ずかしいことではないと大真面目だった。
「誇れこそすれ恥ずかしいなどととんでもない! これもお二人の愛情のなせる技でございますよ。私も良い勉強になりました」
「そんなふうに言ってくれるのは有り難えが……。お前たちにも散々心配をかけてすまなかった。尽力に心から礼を言う」
周もまた苦笑ながら、良い仲間たちに囲まれている自身の幸福を噛み締めるのだった。
◇ ◇ ◇
次の日、知らせを聞いた鐘崎と紫月が朝一番で祝いに駆け付けて来た。その手には大きな花束と例の店のケーキを今日はホールで携えてやって来たのだ。周と冰の名にちなんだ真っ白のホールケーキに真っ赤な苺が豪華に飾られた代物だ。祝いにはもってこいの紅白の立派なケーキだった。
「氷川、冰君、おめでとう! 本当に良かったぜ!」
紫月が嬉し泣きといった調子で両手を広げながら冰を抱き締める。思わず溢れ出てしまった涙を拭い、鼻水をすすりながら喜ぶ彼に、冰もまた熱くなった目頭を押さえたのだった。
「紫月さん、ご心配お掛けしてすみませんでした! 鐘崎さんも……お二人にはとてもお世話になって……香港にまで行ってくださったと昨夜白龍から聞きました。本当にありがとうございました……!」
「いいんだよ、いいんだ! そんなこと何でもねえ。冰君がこうして戻ってきてくれて本当に良かった。お帰りー!」
まだハンカチで涙を拭いながら顔をクシャクシャにして喜ぶ紫月に、冰も同様、嬉し涙と共に微笑み返した。
「ただいま紫月さん! 皆さんのお陰で帰って来られました! 本当にありがとうございます!」
はしゃぎ合う嫁たちを見やりながら、鐘崎もまた友の幸福を喜んでいた。
「氷川、おめでとう。本当に良かった。これで一安心だな」
「ああ。お前らには本当に世話になった。心から礼を言う」
紫月と冰のように大はしゃぎではないが、穏やかに細め合う男たちの瞳には心からの安堵が滲み出ていた。
「しかしアレだな……冰が記憶を取り戻したきっかけってのが俺のマスターベーションとはさすがに参ったぜ。こんなこと、医者の他にはお前らにくらいしか言えん」
ポリポリと頭を掻きながら照れ臭そうに笑う周にドッと笑いが巻き起こる。
「恥じることはねえ。最高の愛情じゃねえか」
「だな! 男としてはこれ以上嬉しいことはねえぜ。どんなきっかけより愛にあふれてるわ!」
笑顔の中、誇らしげにそう言ってくれる鐘崎と紫月に、友のあたたかさをしみじみと感じる周と冰であった。
◆36
その数日後、祝いがてらクラブ・フォレストの里恵子とその恋人の森崎が周家へとやって来た。喜びはもちろんだが、里恵子にとってはそれと共にまずは謝罪をしなければと思ってのことのようだっだ。自分の店のホステスが無断で周に取り入ろうとしたことを知ったのだ。
「ごめんなさい周さん! 私も昨夜初めてそのことを知ったの……。まさか愛莉がそんな失礼をしていただなんて」
「あの女、愛莉というのか」
「ええ、そう。あの後……多分あなたを訪ねた直後だと思うわ。愛莉が急に店を辞めると言い出してね。あまりに突然だったんで理由は分からずじまいのまま辞めていったのだけれど……昨日になって女の子たちからそのワケを聞いたわ。あなたに直談判しに行ったけど思うようにならなかったとか。本当に失礼なことをしてしまって……しかもアタシ自身昨日までそのことを知らなかったなんて……不行き届きもいいところだわ。反省してます」
恐縮も恐縮といったように肩を震わせて頭を下げる。そんな彼女に周はとんでもないと言って手を差し伸べた。
「お前さんのせいじゃねえさ。あの女も商売だろうから気にするな」
「周さん……本当にごめんなさい。あの子、確かに向上心は人一倍強い子でね。強引なところもあるんだけれどお店にとっては悪いことばかりじゃないし、それに……アタシも以前は彼女のことをどうこう言えないようなこともしてきたから……。あなたや鐘崎組の僚一さんや遼二、それに紫月ちゃんにも散々迷惑を掛けちゃったし……」
だから多少のことは目を瞑って、彼女のいいところだけを見てやりたいと思っていたようだ。
「で、あの女はお前さんの店を辞めてどうしようってんだ。向上心が強えってんなら自分の店でも持つつもりなのか?」
「ええ、女の子たちの話ではどうも東京を離れて九州に行くと言っていたらしいわ。彼女、元々そちらの出身でね。自分のお店を持つかどうかまでは分からないけれど、ホステスを辞める気はないと言っていたらしいわ。地元へ帰って真面目にやってくれるといいのだけれど……。ただ万が一にもあなたに逆恨みなんていうことを考えていないとも限らないわ。もしも彼女が何か言ってきたら、その時はアタシに教えてください。彼女のことはアタシの責任でもあるから」
里恵子は心配そうにしていたが、周はそれこそ気にするなと言って笑った。
「大丈夫だ。お前さんの店を辞めた女が何をしようとそれはもうお前さんの責任じゃねえ。それに俺の方でもある程度目は光らせておくから案ずるな」
「周さん……。本当にごめんなさい。冰ちゃんの記憶が戻ったおめでたい時だっていうのに、余計なことで煩わせてしまって」
「お前さんの気持ちはよく分かってるつもりだ。さあ、もう顔を上げてくれ。真田が茶の用意をしているだろうし、冰もお待ちかねだ。いつもの明るい笑顔を見せてやってくれ」
そんなふうに言ってくれる周に、里恵子も、そして恋人の森崎も心から恐縮し、有り難く思うのだった。
◇ ◇ ◇
◆37
その夜のことだ。周は記憶の戻った冰と共に穏やかな時を共にしていた。リビングのソファに肩を並べながら以前のように就寝前の紹興酒を楽しんでいる。
「ねえ白龍、ありがとうね。その……俺のこと見捨てないで一緒にいてくれて……」
「なんだ改まって。そんなの当然だろうが」
肩を抱き締めながら愛しい者を見つめる瞳はそこはかとなくやさしさに満ち溢れている。
「ん……。でも俺、急に記憶を失くしちゃって、いつ戻るかも分からないのに……白龍はずっと一緒にいてくれたでしょ? しかも子供に戻っちゃうなんて信じられないような状況だったっていうのに……さ」
冰には周があたたかい気持ちで見守ってくれたことはもちろんだが、ひと月を超える長い間、それもいつ終わるとも分からない暗闇の中にあって、夫婦の情を交わすことも我慢させたままでいたというのに、他所で一時の癒しの時すら持たずに自慰をしてまで自分を大事に想ってくれたことが申し訳なく、また有難くてならなかったのだ。
「あの時、白龍が一人で……してるのを見た時……ね。俺、すごくなんていうか……ドキドキして……上手く言えないんだけどどうしようもない気持ちになってさ。あのまま白龍の前に飛び出して行って二度と離れたくないっていうか……なんか胸がギューってなっちゃって。白龍と二人で別の世界に行っちゃいたいっていうのかな。すごく堪らなかったんだ。ずっとくっ付いて離れたくないって、ものすごく強くそう思ったっていうか」
あの時点ではまだ子供の心でいた冰には自慰行為が確かに衝撃であったに違いはないが、初めて目にするそれが怖いと同時に、言い表せないくらい強く魅かれるものであったらしい。
「すごく……なんだろう、素敵だって思ったんだ。やさしいお兄さんも大好きだけど、あんなふうに激しいお兄さんもすごく素敵で、あの感情を俺に向けてくれたらどんなにいいだろうって思って。白龍のお兄さんに求められたらどんなに嬉しいだろうって」
このまま誰も知らない世界に行って、二人だけで溺れてしまいたい。例えそれきり元の世界には戻れなくとも彼と二人ならば怖いものなど何もない。後悔もない。そんなふうに思ったと言うのだ。
上手く説明できないながらも一生懸命に伝えんとするその想いだけは周にもよくよく分かる気がしていた。
「そうか……。あの時はまだガキの心だったお前がそんなふうに感じてくれたとはな」
「うん、もうこのお兄さんといられるなら何もいらない、どうなっても怖くないって」
冰はさすがに子供の考えそうなことだよねと笑ったが、周にとっては大人であれ子供であれ、同じように自分を求めてくれる気持ちが彼の中に存在していたということが嬉しくてならなかった。
「今思えば……白龍が初めて俺を助けてくれたあの時から俺は白龍のことが大好きだったんだなって。あの頃はよく分からなかったけど、この一ヶ月の間子供に戻って気がついたんだ。俺は会った瞬間から白龍に惹かれて、ずっと一緒にいたい、大好き、誰にも渡したくない、この人が誰か他の人を好きになっちゃ嫌だって、そう思ってたんだって」
すごい我が侭だよねと冰は申し訳なさそうに笑ったが、周にとってはどんな言葉よりも至福といえるものだった。
「嬉しいことを言ってくれる。だが、そうだな。俺も同じだったのかも知れない。初めて会ったあの瞬間からお前に惚れていたんだろう。それが恋なのか愛なのかとか、そんなことはどうでもよく、ただこいつを離したくねえと。こいつは俺のものだと本能でそう感じていたのかも知れん」
「白龍……」
じっと見つめ合う視線が熱を帯びて、漆黒の瞳の中に焔が点っているようだ。
「もう一度――見せてやろうか?」
「えっと、……な……にを?」
「分かっているだろうが」
「白龍……ったらさ」
熟れて今にも崩れそうなほど真っ赤になった頬の色――それが答えだ。
◆38
「……ん、見たい……。でも見てるだけじゃ足りないかも……」
「だったらどうする?」
「したい……。白龍のを……その……俺も一緒に」
「自慰を手伝ってくれるのか?」
コツリと額を合わせ、視界に入りきらないほどに近い位置でとてつもなく淫らな視線が誘っている。
「や……、その言い方……頭も……身体も全部。俺、おかしくなっちゃいそう……」
「ああ――おかしくしてやる」
「白龍……!」
ゾクゾクと腹の底から湧き上がるような言い知れない波が指の先、髪の一本にまで疼き広がっていくようだ。
周は無意識にしがみついてくる華奢な手を取ると、既に硬くなった自らの雄に導いては握らせた。
「……ッあ! 白龍……」
「よく覚えておけ。例えどんなことがあっても、記憶が失くなったとしても。この手の感触だけは忘れるな。これはお前のもんだ。お前だけの」
「ん……、うん! 大好き……大好き白龍!」
「ああ。俺もだ。お前のすべてを――」
愛しているよ――!
睦み合い、もつれ合い、それこそ我を忘れるまで強く激しく求める気持ちのままに奪い合い……いつのまにか夜が白々と次の未来を連れてくるまで二人は共に溺れ合ったのだった。
そう、二人だけの世界で互いだけをその瞳に映して。獣の如く本能のまま、身も心もひとつに結ぶべく愛しみ合ったのだった。
冰の記憶喪失という危機から始まった衝撃の出来事であったが、無事に記憶が戻った今――これまでよりも深く強く二人を結びつける結果となった。
「もしかしたらこれは黄のじいさんがくれたプレゼントだったのかも知れん」
「じいちゃんからの?」
「あの頃、心のどこかで幼かったお前と暮らしてみたいと思っていた俺への――。そして、お前を残して香港を去ることを迷っていた俺への――な?」
「白龍……」
「じいさんに会いに行くか。改めて今こうしてお前と一緒にいられることへの感謝を伝えたい。幼い日のお前との時間を過ごさせてくれたことへの礼もだ。そしてこれからも見守ってくれと」
「白龍、ありがとう。ありがとうね、本当に……! 俺もじいちゃんに報告したい。俺は今、元気で漆黒のお兄さんと幸せに暮らしていますって」
激しく睦み合った後にはあたたかくやさしい気持ちに包まれる。そんな時を共に過ごせる幸せを噛み締めながら、二人は出会った香港の街へと夢を馳せるのだった。
黄老人が静かに眠る香港の街はきっといつでも変わらずにそこにいて、二人を見守ってくれるだろう。そしていつでもあたたかく迎えてくれるに違いない。
日を追う毎に早くなる日の出が新しい季節を運んでくるように、周と冰にとってもより一層絆が深まった時が訪れようとしている。
二人が共に暮らし始めてから二度目の――春浅き頃のことだった。
漆黒の記憶 - FIN -