極道恋事情
◆41
状使い役の番頭が無事に戻っては来たものの、倫周は外に残ることとなった。応援部隊を潜り込ませるのに変装用のメイクなどを手伝う為である。一度外に出られたので、自前のメイク道具なども抜かりなく持ち込むことができる。残された紫月らにとっては準備が整うまではここにいる皆で何とかしのぐしかないわけだが、そうしている間にもいつ何時無法者たちが殴り込みにやって来るかも分からないという戦々恐々の事態が続いた。
「とにかく店を閉めるわけにもいかねえ。こっちが防御体制を取れば、敵の思うツボだろう。これまで通り何ら変わりなく客を迎えて、上納金の為に必死だってなふりを通す方が良さそうだ」
「皆さん、申し訳ない……」
主人はハラハラとした面持ちで恐縮していたが、ここは皆で一丸となって踏ん張るしかない。そんなわけで、次の日からも普段通りの営業を続けることに決めたのだった。
事が起こったのはその日の夜のことだった。
予約もなしにいきなり茶屋にやって来て花魁を買いたいという客が訪れたのだ。何を隠そう敵方の参謀の男である。早速探りを入れにやって来たのだ。
主人の伊三郎も彼の顔には覚えがなかった為、客として迎え入れることをおいそれとは断れない。だが、見るからに一物含んでいそうな危うい雰囲気に、座敷に通すべきかどうか迷っていた時だ。常連の丹羽が知り合いだという一人の男を連れてやって来た。
「いやぁ、三浦屋のご主人! 先日のお約束通り知人を連れて参りましたぞ。予約の方は番頭殿にお伝えしておりましたが、遅れて申し訳ない!」
丹羽の連れだという男は粋な着物姿で、体格も立派な艶やかなオーラを持った男のようだ。だが、番傘をさしていて顔はよく見えない。それでも信頼のおける丹羽が連れて来たわけだから、危ない者ではないのだろう。
「こ、これはこれは丹羽殿!」
主人の方もそんな予約があった覚えはないのだが、この胡散臭そうな一見の客を断るのにはこの上ない蜘蛛の糸といえる。すがるような思いで上手く話を合わせんと、喜んで丹羽を迎え入れた。
「お客様、誠に申し訳ございませんが今宵はご覧の通りご先約で埋まっておりますゆえ……」
丁寧に断りを入れたが参謀の男は引き下がってはくれなかった。
「冗談じゃねえ! 今の今まで先客があるなんざひと言だって言わなかったじゃねえか! ここの茶屋は客を選ぶってのか!?」
ドスの効いた声で威嚇してみせる。
「そ、そんなつもりはございません! 今宵は本当にご予約がございましたものですから……」
主人は慌ててオタオタとしてしまっている。それを見た丹羽の連れの男が、それまでさしていた番傘を傾けて、じろりとその客に視線をくれた。今までは傘に隠れて見えなかったが、鋭い眼力が印象的なとびきりの男前である。彼のような人物が艶やかな花魁を侍らせる図を想像しただけで、思わず胸が高鳴りそうなくらい絵になるだろうと思わされた。
「おい、あんた! 先に花魁を買ったのは俺だ。しのごの言わずに引き取ってもらおうか」
◆42
一瞬、場の温度に凍った冷気が差し込むほどのバリトンボイスに、さすがの参謀もピタリと動きをとめる。何よりその男の額から頬にかけて刃物で食らったと思われる大きな古傷があり、鋭い視線と相まってより一層凄みを感じさせるのだ。このままやり合ったところで勝ち目はないと本能がそう告げる。
だが、本当に引き下がっては面目丸潰れだ。アジトに帰って頭に何と言い訳したらよいかと思うと、おめおめと譲るわけにはいかないというのもまた確かなのだ。
「ふ、ふざけるな! 茶屋に来たのは俺の方が先だ! てめえこそとっとと失せやがれ!」
啖呵を切ったものの、丹羽も連れの男もまるで動じない。あわや一触即発というその時、またしても後ろから別の客がやって来て茶屋前はあわや三すくみ状態の戦々恐々と相成った。
「何だ、揉め事か?」
参戦者はこれまたえらく男前で長身の大男だが、髪には白髪が混じった中年である。咥え煙草が似合っていて、少し着崩した着物姿もサマになっている。
「クソッ! また厄介者が増えやがったか……。てめえも花魁目当てだってか? だが今は取り込み中だ! 見て分からねえか!」
参謀の男が威勢よく怒鳴り上げたが、実のところ新たな客の登場で内心ホッとしたのも事実のようだ。このまま頬に傷のある男と一対一でやり合うのは確実に武が悪いと思っていただけに、参戦者が増えればそれを回避できるからだ。参謀にとってはまさに天の助けといったところのようだった。
すると白髪混じりの男は落ち着き払いながら冷笑してみせた。
「俺の目当ては花魁じゃねえ。ここにはえらく腕のいい壺振りがいるっていうじゃねえか。そいつと一勝負交えたいと思ってやって来たんだが」
どうやら目当ては賭場の方らしい。すると頬に傷のある男が企みめいた笑みと共に意外なことを口にした。
「ほう? 貴様は壺振りが目当てかい。だったらこういうのはどうだ。俺とそこの男は花魁を所望だが、ここはひとつ三人で勝負といかねえか? 花魁を賭けてここの賭場でカタをつけようじゃねえか」
それなら誰も文句はあるまいと得意顔だ。
「ふむ、面白え。一人で博打ってのも味気ねえし、俺は構わんが? まあ、俺は賭場を楽しめりゃいいんで、勝負に勝ったところで花魁遊びは御免被るがな」
傷持ちの男と白髪の男ですっかり意気投合してしまっている。参謀の男も首を縦に振るしかなかった。
そんなことでとりあえず場が収まってくれたので、主人はホッと胸を撫で下ろす。奇妙な成り行きだが、丹羽を含めた四人の客たちを案内して花魁が待つ座敷へと向かったのだった。
◆43
四人が姿を現すと、賭場で待っていた冰と中盆役の源次郎が驚いたような顔つきで迎え入れた。一度に四人もの客が来るというのもむろんだが、驚いた理由はそれだけではない。
すると、その後方の座敷で優雅に座っていた花魁の紫月までもが嬉しそうに雅な声を上げてみせた。
「おや! 今宵は随分と男前さん揃いでいらっしゃいますなぁ。ようこそおいでなんし」
紫月は相も変わらずヒラヒラと扇を仰ぎながら賭場までやって来ると、頬に傷のある男の目の前まで来てそっとその傷に白魚のような手を添えてみせた。
「主さん、これはまた! いっそう男前を上げる勲章でありんすねぇ。きっといろいろな意味でお強いのでしょう」
まるで『あちら――色――の方も期待できそうですね』と、さすがにそうは口にしないながらも、どうぞ賭場を破って今宵は私を手に入れてねとでも言いたげである。
そうされて頬傷の男も機嫌の良さそうに口角を上げてみせた。
「今日は俺の”誕生日”なんでな。てめえで日頃の労をねぎらうってのは粋に欠けるが、たまにはそれもいいだろうと思ってな。自身への褒美にと噂の花魁殿に会いにやって来たってわけだ。運良くお前さんを手に入れた暁には期待以上に悦ばせてやれる自信はあるぜ」
男は花魁の手を取ると紳士の素振りで軽く口づけながら、チラリと壺振り師へと視線をやった。
「おや、主さんの誕生日でありんすか? それはそれは! 縁起の良いことでありんすなぁ」
そっと握られた手を撫でながら、こちらも壺振りに向かってニコッと微笑む。
その様子を見ていた白髪混じりの男はクスッと微笑するに留めたが、参謀の男は「チッ!」と苦々しい舌打ちと共に嫌味を吐き捨てた。
「はん! 花魁様はこの傷野郎がお好みと見える。……ったく、客を品定めするなんざ失礼な茶屋もあったもんだな! だが今夜の相手を選ぼうったってそうはいかねえぜ? 賭場で勝ちゃ、俺がお前さんをいただくからな。覚悟しやがれ!」
しょっぱなから何とも品のない言い草である。だが紫月は「もちろん!」と言って優雅に微笑んだ。
「どちらの主さんも男前でワクワクしておりんすよ。どなたが勝っても今宵はこの”紅椿”が最高のおもてなしで主さんたちを悦ばせて差し上げましょう。どちら様もどうぞがんばっておくれなんし」
そう言うと、一歩下がって勝負を観戦すべく火鉢の側に腰を下ろして煙管に火を点した。
花魁が人前で煙管を燻らすということは、それを受け取った者が彼を手中にしてもいいという暗黙の合図のようなものだ。つまり、この四人の中に煙管を差し出したい相手がいるということになる。
「さ、”紅龍”や。早いところ始めておくれ」
壺振り役の冰に向かって優雅に微笑みながら、ふうと色気たっぷりに煙を吐き出しては妖艶に笑う。これを見ただけで既に欲情させられてしまうほどに道にいった仕草といえた。
さて、花魁からの催促を受けていよいよ壺振り紅龍の白魚のような手が空を舞う。
「どちら様もようござんすか? さあ、張った張った!」
中盆源次郎の掛け声を合図に四人の男たちがそれぞれ思ったところに賭けていくこととなった。一等最初に動いたのは参謀の男である。
◆44
「どうだい、茶屋に来た順に賭けるってのは道理だろうが。先ずは俺からだ! 異存はねえな!」
男が立て膝を立ててがなり散らすので、他の三人もそれでいいと苦笑で返す。
「好きにしろ」
「よし! それじゃヨイチの半だ!」
ヨイチ――つまり賽の目は『四』と『一』を指す。二つの目を足すと奇数の『五』になるので”半”である。
続いては頬に傷のある男の番だ。
「そうかい。だったら俺はニロクの丁だ」
こちらは二と六で、二つを足せば八となり、偶数なので”丁”。男はニヤッと不敵に笑みながら懐から帯封のついたままの札束を三つほど差し出してみせた。
「……ッ!?」
その金額を目にした参謀の男からは憎々しげな舌打ちが飛び出した。
「何が誕生日だ! 今日は如月の十七日だぜ? ニロクとは何の関係もねえじゃねえか! てめえ、その歳で早くもボケてやがるんじゃねえのか? こんな……ハッタリかましたような額を突き出しやがって!」
「花魁を賭けようってんだ。このくれえ驚くような額じゃあるめえよ?」
頬傷の男は余裕の態度で笑う。
「嫌ならここで降りてもらって構わねえぜ?」
「……ッそ! 舐めやがって! 誰が降りるか!」
参謀の男も致し方なくといったふうに同じ額を壺振りの目の前へと放り投げた。実に頭から預かってきた全額であるが、この際致し方ない。こうなった以上、持ち金がこれで全部だなどとは間違っても悟られてはならないからだ。参謀の男は額をヒクつかせながらも、せいぜい余裕のあるふりを装うのに必死になっていた。
残るは白髪混じりの男と丹羽である。
「は、誕生日ね。面白え願掛けじゃねえか。だったら俺も乗っかってみるかな。ピンゾロの丁でどうだ」
ピンゾロとはピン――つまり『一』のゾロ目のことだ。誕生日にあやかるというなら、この白髪の男は一月一日生まれということなのだろうか。あるいは十一月十一日という可能性もある。
「ピンゾロとはまたデカく出たもんだな」
頬傷の男がニヤッと隣で不敵に笑う。
「縁起がいい数字だろ? 俺の気に入りなんだ」
白髪の男もフフンと得意気に返してみせた。
「なら俺はゴロクの半とでもいってみるか」
正直なところ丹羽にとってはどう転んでもいい勝負である。頬傷の男と白髪の男が丁と言うので、自分は参謀の男に倣って半に賭けただけである。丁半互角に出揃ったところでいよいよ運命の女神が舞い降りる瞬間だ。
「勝負!」
ゆっくりと壺から覗いた賽子の目は、
「――ニロクの丁!」
結果は頬傷の男の勝利であった。
中盆によって素早く札束が回収され、頬傷の男の前へと差し出される。
「……クッ! 貴様……」
参謀の男はワナワナと肩を震わせながら唇を噛み締めていた。一瞬イカサマかと疑ってみたものの、頬傷の男が賭けたのはニロクの丁である。誕生日というワードが引っ掛からないこともないが、十七日という日付けからは想像できる目でもない。
(クソ……本当に偶然なのか?)
ここで悶着をつけても、この頬傷の男が相手では勝ち目はないだろうか。先程、店先で感じた空恐ろしい雰囲気がこの男にはあるのだ。ここは一先ずアジトに戻って対策を練り直すのが得策か――参謀の男は舌打ちながらもこの場は黙って引き下がることに決めたようだった。
火鉢の側では花魁紅椿がふかしていた煙管を頬傷の男へと差し出しながら手招きしてみせる。
「主さん、ここへ」
こちらへ来てこの煙管を含みなんしと言わんばかりに艶っぽい視線を送っている。花魁が差し出す煙管を受け取った時点で今宵の契りが約束されたことになるというわけだ。それを見ていた白髪の男が祝いの言葉を口にした。
◆45
「よう、色男! めでてえこったな」
男は袖から粋な仕草で数枚の札を引っ張り出すと、頬傷の男に向かって顎をしゃくってみせた。
「こいつぁ、ここで袖触れ合った縁として心ばかりの祝儀だ。お目当ての花魁殿と祝杯の一献ぐれえは上げられるだろう。構わねえから取っといてくれ」
「ふ――粋な心遣い、遠慮なく受け取らせてもらう」
札を拾い上げると、花魁の肩を抱きながら宴の席が用意されている座敷の奥へと向かって行った。その後ろ姿を見送りながら、
「さて、壺振りさんよ。良ければもう一勝負付き合っちゃくれねえか? 何せ俺の目当ては花魁じゃあねえ。あんたと賭場を楽しみにやって来たわけだしな」
白髪の男がそう言うと、丹羽も一緒に付き合うと言って腰を落ち着けた。
参謀の男は既に大枚をはたき切った後である。もう賭ける金も残っていないので、仕方なく座敷を後にするしかなかった。
「……チッ! てめえら、どんだけ泡銭を持っていやがる……。調子コイてられんのもせいぜい今の内だけだろうがな」
捨て台詞と共に苦い顔付きで去って行った。
そうして彼一人が姿を消したところで、座敷内は一気に歓声で溢れ返った。
「遼!」
「白龍……!」
紫月と冰が飛び跳ねる勢いで男たちの腕へとしがみつく。そう、頬傷の男は鐘崎であり、白髪の男は周であったのだ。倫周によってメイクが施されていたものの、愛しい伴侶を見分けられないはずもない。
「遅くなってすまねえ」
「無事で良かった!」
本当だったらすぐにも口付けを交わして、そのまま激しく情を交わしたいところだが、さすがに皆の前ではそうもいかない。ありったけの想いを込めて、二人の亭主たちはそれぞれの嫁をきつくきつく抱き締めたのだった。
「しかし、よく化けたもんだな! この傷なんかメイクとは思えねえ。倫周さんってマジすげえ腕なんだなぁ」
紫月が鐘崎の頬の傷を触りながらしきじきと感心している。
「ああ。何でもこのまま半月は持つそうだぜ? 風呂に入っても大丈夫だそうだ」
「ほええ……すげえのな!」
「それよりお前の花魁姿だ。似合ってるぜ!」
「そうかぁ? 七五三みてえじゃねえ?」
「いや、着物姿も雅だが、仕草が堪らん! お前が煙管に火を点した時にゃ、この際もう後のことはどうでもいい――こいつは俺の嫁だと暴露して、すぐにもこの腕で抱いちまいたかったくれえだ!」
「はは! けどアレだな。こういう駆け引きみてえなのってなかなか味わえねえシチュじゃね? 何つーか、すぐ手が届くところにあるのにすぐには触れねえっていうのが貴重な感じでさ。普段は一緒にいるのが当たり前ってことで、特には考えてもみなかったけど……改めて幸せに思えるっていうか――遼が俺の亭主だってのがすげえ有り難え貴重なことなんだってのを、しみじみ感じた機会っていうか……さ」
「嬉しいことを言ってくれる――。まあ確かにな、俺だってお前らが拐われてからの数日が千秋にも感じられていたからな。手掛かりが掴めなかった内は自分でも信じらんねえくらいに焦っちまってな。危うく自分を失いそうになったが、氷川や親父の励ましで何とか持ち堪えることができた。その後、調べを進める内にここで男娼にさせられてるかも知れねえっていう可能性が出てきた時は――この世の終わりと思ったくれえだ」
「バッカ、遼……大袈裟なんだからよぉ」
「大袈裟でも何でもねえ。俺りゃー、おめえがいなけりゃ何もできねえ抜け殻だ。それが身に沁みたぜ……。紫月――本当に無事で良かった……!」
鐘崎は紫月の髪や頬、首筋などありとあらゆるところを力強い指先で何度も何度も愛しげに撫でながら、もう二度とどこへもやらないとばかりに抱き締めた。
「それから――男花魁を守る為に賭場での勝負を考え出してくれた冰や、源さん、春日野、それにレイさんと倫周さんにも心から礼を言いたい。丹羽からすべて聞いてな。皆が一丸となって花魁にさせられた紫月を守ってくれたと――。本当にありがとう。感謝している」
丁重に頭を下げた鐘崎に続いて、今度は周が同じように礼を述べた。
◆46
「俺からも礼を言いたい。敵の奴らがここへ押し掛けて来た際に皆が身を盾にして冰を庇ってくれたと倫周に聞いた。それに一之宮の神業といえる剣術で守ってくれたんだってな。離れていて何もできねえ俺たち亭主に代わって、皆で互いを守り合い、こうして無事でいてくれた。本当に有り難いと思っている」
周もまた真摯に礼を延べ、そんな二人の亭主たちに源次郎はじめ皆も嬉しそうに互いを見つめ合う。ようやく再会できた安堵感も相まってか、久しぶりの穏やかな空気に包まれて、誰もが共に居られることの幸せを噛み締めた瞬間であった。
「でもホント! 紫月さんの言う通り、俺も白龍の顔を見た瞬間に気持ちがワワワーってあふれたっていうか……何だか躍り出したくなっちゃったというか……。嬉しいのはもちろんだけど、顔を見ただけでものすごく安心できて、もう何も怖いものはないって思ったし、普段はなかなか気付けない思いを改めて自覚できたというか……。それに何と言っても……鐘崎さんの傷も素敵ですけど白龍の白髪もよく似合っててドキドキしちゃった! やっぱり……ちょっと年をとった白龍もカッコイイなぁ」
冰は冰で、渋さを増した亭主をベタ褒めだ。
「おめえだってなかなかに似合ってるぜ、冰! ルーレットやカードを弄っている時もそうだが、壺を振る時の仕草なんぞ粋を通り越してまさに芸術品だ」
いつもは下ろしている前髪をヘアワックスで後方に撫でつけたワイルドなスタイルも周の目には新鮮に映ったようだ。まさに壺振りのイメージにふさわしい。周もまた、鐘崎が紫月の髪や頬を撫でていたのと同じように、ヘアワックスで濡れた伴侶の髪をクルリと指に巻き付けながら、愛しげに瞳を細めては感慨深げにしていた。
「白龍ったらさ……」
「とにかく皆無事で良かった」
「うん! うん、来てくれてありがとうね白龍! 鐘崎さんも――!」
「ああ、遅くなってすまなかったが――」
今一度ハグをし合う四人を囲みながら、地上にいた頃と何ら変わりのない穏やかな時間を分かち合う一同であった。
「はは、お熱いことで結構なこった! とにかくこれで遼二と焔とも合流できたことだし、一安心だな」
レイが冷やかしながらも安堵の言葉を口にし、和やかな空気に座敷内は喜びの笑顔であふれていった。
◇ ◇ ◇
その後は客の為に用意されていた膳を囲みながら、皆で状況の整理をすることとなった。
「しかし冰、よく俺のニロクを読み解いてくれたな。さすが――を通り越して神業としか言いようがねえ」
鐘崎が感心しきりでいる。
「ええ、だって鐘崎さんが”誕生日”っていうヒントをくれましたから」
参謀の男も言っていたが、今日は二月の十七日である。鐘崎の誕生日は六月六日だから、すぐにそれは嘘だと分かる。とすれば、これは鐘崎からのメッセージであると思ったわけだ。
「最初は六のゾロ目――ロクゾロの丁だと思ったんです。でもその後すぐに紫月さんが俺の方に目配せしてくださったでしょ? だからきっとお二人の誕生日を合わせたニロクの方だと思って」
紫月の誕生日は二月の二日である。つまり二日と六日の”ニロク”を指していたというわけだ。
◆47
「それを読み解いたのもすげえが、実際にニロクに目を揃えちまうんだからな。冰の腕前はルーレットやカードで既に知ってはいたが、まさか壺まで振れるとは……」
クイと盃の酒を口に含みながら、鐘崎が恐れ入ったぜと心酔している。他の皆も同様であった。
「ところで――さっきの男だが。あいつはただの客じゃねえかも知れねえな」
「ああ、さっきの客か……」
「念の為、橘に後を付けてもらっている。まあ、ヤサを突き止めるだけで深追いはするなと言ってあるからすぐに戻って来るだろう」
「橘の京ちゃんか? ヤツも来てくれてんのか?」
橘は鐘崎組の幹部の男である。若頭の護衛役として付いて来たのだろうが、それにしてもよく大門での審査をくぐり抜けられたなと紫月が感心顔でいる。
「橘には俺たちとは別ルートで、隣の茶屋の働き手として潜入してもらったんだ。明日には氷川ンところの李さんとも合流できるはずだ。おめえの親父さんの飛燕さんも待機してくれている」
「親父も来るつもりなのか!」
一度に何人もでは疑われそうなので、日をずらして数人を送り込んでもらう計画だそうだ。
「来る前にこの丹羽からも話を聞いたが、どうもここを乗っ取った連中を片付けるには多少骨が折れそうなんでな。こちらとしても応援は多いに越したことはねえ。態勢は万全を期したい」
その丹羽の方でも警察からの応援をどのタイミングで迎え入れるかなど、しばらくはここにいる面々だけで少しずつ準備を整えながら様子見したいとのことだった。
そうこうしている内に偵察にやっていた橘が戻って来た。
「よう、お疲れ! まあ一杯やってくれ」
若頭自ら徳利の酒を注いでやる。橘の方も恐縮しながらも嬉しそうに盃を受け取った。
「来て早々ご苦労様だったな。で、どんな様子だ?」
部下を労いながら鐘崎が訊くと、橘はやはりあの男は乗っ取り犯の一味で間違いないだろうとの見解を示した。
「ヤツは大門とは反対方向の街の外れに向かいました。この施設の一番端じゃねえかと思われる所に神社のような祠が祀ってあって、その裏の建物で姿を消したんで、おそらくそこがヤサと見ていいかと。しばらく様子を窺っていたところ、ガラの悪そうな連中が出たり入ったりしてましたね。どうも厠が外にある造りのようです」
橘の報告を受けて、丹羽もそこが彼らのアジトで間違いないだろうとうなずいた。
「しかし……ここの施設……っつーか、ほぼ街ですが。奥へ行くほどヤバい雰囲気になっていますね。奴さんが消えたちょっと手前辺りじゃ酔っ払った夜鷹が男を引き込んでましたぜ。ここは厳しい審査がある会員制ってわりには、客の方もえらく質が悪そうでしたが……」
それについてはおそらく客ではないのだろうと丹羽が言った。
「あの辺りは元々茶屋だった建物を乗っ取り犯たちが住処にしちまったようだからな。遊女として使い物にならなくなった女を集めちゃ薬漬けにして、てめえらの慰みとして住まわせていやがるんだ」
酷い話もあったものだと誰もが苦々しい顔で舌打ちをする。
◆48
「しかしこれだけの施設を海の底に造るとはな。建設に膨大な時間と費用が掛かったろうが。そんな予算をどっから捻り出したかってのも気になるが、丹羽の方ではどの辺りまで情報を掴んでいるわけだ?」
鐘崎が訊く。
「ここは元々戦時中に使われた軍の施設だったんだ。秘密裏の会議はもちろんのこと、兵器の開発なども行われていたらしい」
「――ってことは、この地下空間自体は元からあったってわけか」
「そういうことだ。いくら先祖代々の夢とはいえ、さすがに吉原の子孫たちだけでは海底にこんな大穴を開けるなんざできっこねえからな。補強に多少の費用は掛かったろうが、一から建設する手間は省けたわけだ」
なるほど、それであれば納得である。
「国としてもこれだけの空間をただ眠らせておくのもどうかと持て余していたわけでな。そこへ吉原の子孫たちが新たな花街として譲って欲しいと持ち掛けてきたわけだ」
このままでは老朽化が進み廃墟同然となってしまう。埋め立てるにしても莫大な費用が掛かるだろう。秘密裏に近い高級花街としてなら国としても施設を譲り渡すのはやぶさかではないとのことで、双方の思惑が一致したらしい。
「それぞれの茶屋は皆で分担して建てたらしいが、補修工事も合わせるとそれだけでも十年以上は費やしたようだ。オープンして一年かそこらはマトモに商売できていたようだが、程なく乗っ取り犯たちがやって来て街は様変わりしちまった。橘が見たという祠も当初は大事に祀られていて、年始や花見の季節には芸妓たちであふれる賑やかな場所だったとか」
丹羽はここへ客として通いながら、遊女たちからそういった情報を様々仕入れていたわけだ。
「ここが由緒ある花街から単なる遊郭に変わっちまったのもヤツらが来てからだ。芸妓たちは皆遊女にさせられて上納金との闘いが始まった。それこそ江戸吉原そっくりそのままの再来になっちまったというわけだ」
皮肉な話だと丹羽は苦笑した。
「それで、お前ら警察は乗っ取り犯を潰す為にどう動くつもりなんだ」
ある程度は手順が決まっているのかと鐘崎が訊く。
「ああ。まず敵の人数だが、確実に把握できているだけでも四、五十人は出入りしている様子だ。常にこの地下に住んじまってるのは幹部連中の十人程だが、他の奴らは外とここを行ったり来たりしながら食い物や日用品なんぞを運び入れているようだ」
入れ替わり立ち替わりなので詳しい人数までは分からないが、実際にはもっと多くの輩が出入りしていると見ていいだろうと丹羽は言った。
「ヤサがある例の祠の近くに武器庫があることも突き止めている。奴らは一応ここのルールに則って和服を着ているようだから、常に真剣を携えていやがる。むろんその他にも銃器類が持ち込まれているようだ。まずはその武器庫を押さえて戦力を削ることが第一目標だが、奴らが傭兵上がりのテロリスト集団を抱え込んでいるのは確かだ。こちらもそれに引けを取らねえ人材が必要だ」
◆49
「なるほど。一戦構えるに当たっては、周りの関係ねえ者たちの安全を確保する必要があるな」
茶屋や遊女、それに外界から来る客たちを巻き込むわけにはいかないからだ。
「武器庫を押さえると共に兵糧を断つのも手だな。奴ら、メシはどうしてるんだ? 外から持ち込むと言っても弁当ばかりってわけじゃなかろう?」
さすがは鐘崎である。なかなかにいい目の付け所だが、この地下街は元々ここから出ずとも生活ができるようにと計算されて造られた街である。生鮮食料品などを売る店も存在しているし、それを生業にしている者たちも数多くいる。つまり、この街の住人すべてが遊郭関係者とは限らないわけで、外の世界と何ら変わることなく生活そのものができてしまうということだ。昔の戦のように移動する軍の兵糧を尽くのとは少々意味合いが違うのだ。丹羽もそこで苦労しているのだと言った。
「そうか……。兵糧の線が無理となるとやはり武器庫を襲撃するしかねえだろうな。思っていた以上にデカい戦になるかも知れねえな」
苦い顔の鐘崎に、皆も同様に難しい表情で黙り込む。
「とにかくこちらの戦力を万全にするしかねえ。時間は掛かるが、焦らず敵に気付かれねえよう注意を払いながら日々見方をこの地下世界に引っ張って体制を整える。ある程度制圧できそうだと踏んだところで一気に警察からの応援がなだれ込むようにして一網打尽にしたいと思っている」
それまでは今しばらくこれまで通りの営業を続けていくしかないと丹羽は言った。
「鐘崎は奥方のことが心配だろうから、毎日この茶屋に通い詰めるという形で常連になってくれ。その為に必要な資金は俺の方で都合する」
花魁を買うには膨大な資金が必要である。客が何日も居座り続けることは江戸吉原の頃からもご法度とされていたので、通い続けるには一度引き払ってからまた次の晩に新たな客として訪れるしかないわけである。当然資金も嵩むが、花魁をモノにするには賭場を通らなければならないとなると尚更だ。もちろん茶屋の主人に事情を打ち明けて協力してもらうという手もあるが、それだと敵への上納金が滞ってしまう。鐘崎としては紫月の為ならばそのくらいどうということもないわけだが、助力を頼む丹羽の側からすれば、それも経費といった認識でいるのだろう。
「周の方はこのまま茶屋の働き手という形でここに残ってくれ。入る時は客という名目で来たから大門でもそう厳しくはチェックされずに済む。一人二人帳尻が合わねえくらいなら、なんとかごまかしは効くはずだ。ここの主人には俺から伝えておく」
これでひとまず周は下男として茶屋に常駐できることになる。
「とにかく今夜はゆっくり休んでくれ。武器庫への襲撃の手筈が整ったらまた連絡する」
丹羽の仲間である警察関係者も各茶屋に散らばりながら機会を窺うというので、何かあればすぐにこの地下施設内でも団結は可能だ。そうして鐘崎らは丹羽を見送ると、ひとまずは久々の夫婦再会の時を過ごしたのだった。
◆50
それから三日ほどは危惧していた敵からの襲撃などもなく、平穏な日が過ぎていった。鐘崎が予定通り花魁を指名し続けたので、紫月も安泰である。壺振りである冰には周が用心棒として付くことになったし、ここ三浦屋の中だけで言えば警備は万全といえた。問題はそれを快く思わない敵方の存在である。
元々花魁は高嶺の花故に、特定の客――この場合は鐘崎であるが――が独占し続けたとしても一般の客から不満が上がることはなかったわけだが、敵の目にはそうは映らない。特に鐘崎と正面切って対戦した敵参謀の男からすれば、毎夜大金を叩いて花魁の元に通い続けるなど正気の沙汰とは思えないのも当然か。必ず裏があるはずだと疑いは深まるばかりである。何より賭場での勝負に負けたことで、頭から預かっていった見せ金をすっかり叩いてしまったことで面目が丸潰れとなり、どうにかしてそれを取り返さねばということで躍起になっていた。まあ頭自身は思っていたほど怒るわけではなかったのが幸いだったが、心の内では使えない野郎だと思われているに違いない。気位の高い参謀としては、それが何よりも我慢ならないのだ。
「あの傷野郎……! あれ以来ずっと三浦屋に入り浸りらしいが、どう考えてもおかしい! いくらあの男花魁が気に入ったとはいえ、いったいどこからあんな大金を捻り出していやがる」
頭を前に参謀の男が焦れに焦れていた。
「まあそういきり立つな。しかし連日花魁を独り占めか……まさか身請けでもしようって魂胆か……。その頬に傷のある野郎ってのはどんなヤツだったんだ。客を装った剣客って可能性はねえのか?」
頭の男が訊く。
「その可能性もゼロとは言えやせんが、本当に剣客だとしたら是が非でもぶっ潰してやりてえところですよ!」
どうもこの参謀は頬傷の男、鐘崎に対して訳もなく腹が立って仕方がないらしい。気持ちを抑え切れないわけか、次から次へと罵る言葉が止まらないようだ。
「しゃらくせえ! ありゃあ単なる好き者ってな気がしますがね。ムダにツラが良かったですし、あの傷さえ無けりゃ、こぞって女が群がりそうな腹の立つ野郎でしたぜ! 花魁の方も一目でヤツを気に入ったようで、ヤツにだけは最初っから色目を使ってやがった。互いに一目惚れでもしたってところじゃないですかい?」
参謀の漢が「チッ!」と舌打ちをする傍らで、別の子分が意外なことを口にした。
「あっしらもちょいと偵察に聞き込みを掛けてみたんですが、どうもその傷野郎ってのは途方もねえ大金持ちみてえですぜ。なんでも武器商人だとか」
「武器商人だと?」
実にそういった噂を流したのは鐘崎らの策略のひとつなのだが、事情を知らない敵方では聞いたままに信じ込んでいるようだ。
「三浦屋の周辺じゃたいそう噂になってましたぜ。嘘かホントか知らねえが、あっちの方も最高らしく、ツラに色に金と三拍子揃った男前だとかで、花魁の方がすっかり野郎に熱を上げているとか。あんなバケモノみてえな客が現れたんじゃ、当分花魁には手が届かねえだろうって、男色の客たちが嘆いてるそうですぜ」
「ふむ……」
頭の男が渋い表情で腕組みをする。
◆51
「仮にそいつが剣客ではなく単なる好き者だとすれば、このまま放置しても問題はねえんだが……。花魁を買い続けるにしろ身請けするにしろ、我々にとってはいい金蔓に変わりはねえ」
「ですが頭! あの野郎はおそらく腕の方も達つんじゃねえかと……。俺は実際にヤツを間近で見たわけですが、いけすかねえのは別として……実際あの眼力はただの好き者ってだけじゃねえ気がしました。何ていうか……危ねえ雰囲気なのは確かで、例えるなら鋭い刃物みてえな男でしたぜ」
参謀の男が力説する。
「鋭い刃物……ね。お前がそこまで言うのも珍しいな。それ以前にさっきっから言ってることがおそろしくチグハグじゃねえか。単なる好き者だと言ったかと思や、舌の根も乾かねえ内に今度はただの好き者じゃねえときたもんだ。いったいどっちなんだと訊きたくもならぁな」
この参謀は普段は割合落ち着き払った上から目線で物事を見る男である。何かにつけて自信があるのか、自分以外の周りは皆んな馬鹿の集まりだといった調子で、ともすれば頭にさえ腹の中では小馬鹿にしたようなところもあり、常に余裕のある態度を崩したことがない。そんな彼がこれほどまでに焦れているところをみると、その頬傷の男はやはり逸物含んでいそうな相手なのだろうと思わされる。
「とにかくヤツは只者じゃねえ。相当にヤバイ野郎なのは確かですぜ! もう少し探って損はねえ」
参謀がしつこくそう訴えるので、頭の男も放置していい案件ではなさそうだと思ったらしい。
「うむ……。だったらいっそのこと、その傷野郎をこっちの仲間に引き入れるってのはどうだ。武器商人ってのが本当ならいろいろと使い道もあるかも知れねえ」
「ヤツを仲間にですかい? けど、どうやって……。花魁にイカれちまってるなら素直に言うことを聞くとは思えませんぜ?」
「そこは上手くやらぁな。三浦屋に潜り込ませてあるアイツは何といったか……」
「ああ、田辺ですかい?」
「そう、その田辺だ。ヤツに睡眠薬でも盛らせて、その傷野郎を掻っ攫ってくりゃあいい。女でも与えて骨抜きにしちまえば、その内言うことを聞くだろうよ」
「ですが頭! ヤツは男色ですぜ? 何てったって男花魁を買い続けてるってんですから! よしんばヤツが両刀だとしても、肝心の女をどっから引っ張って来るってんです? 花魁クラスの遊女を掻っ攫や、それこそ三浦屋の親父が黙ってねえでしょうし、何より上納金も滞るってもんです」
◆52
自分たちがアジトにしているここいら界隈にも女がいないわけではないが、殆どがあまり金にならなかったりで茶屋でも持て余されていたような者ばかりだ。莫大な資金を投じて男花魁を買い続けているような男が満足するとは思えない。
「ふむ、それならちょうどいい女がいる。ここから数件ばかり行ったところに美濃屋ってのがあるだろう。あそこで御職を張ってる酔芙蓉って女郎がいてな。あの女なら打ってつけかも知れん」
御職遊女とは店の女たちの中でもトップに立つ稼ぎ手のことで、今でいうところのナンバーワンホステスのようなものである。その女のことなら参謀の男も知っていたようだ。
「酔芙蓉ですかい……。そういや、ここへ来たばかりの頃に一、二度相手にしたことがありましたぜ。確かにツラは別嬪だが、性質がからっきしですわ。あんまりにも可愛げがねえんでそれっきりでぇ」
酔芙蓉は容姿だけで言えばすぐにも花魁になれそうな美人なのだが、中身がまるで伴っていない女である。琴や三味線が弾けないくらいはともかくとしても、踊りひとつまともに舞えず、だが男の酒の相手をするのだけは非常に巧い。金や地位に対してもかなりの強欲で、少しばかり太そうな客と見れば自分から色を押し売りするような性根たくましい女なのだ。
彼女がいる美濃屋からはまだ花魁格の遊女は出ておらず、店の規模もそうたいして大きくはないのだが、出世欲の強い酔芙蓉はせめて店の御職くらいは張り続けなければと躍起になっているようだ。ともすれば美濃屋を出て、いずれは三浦屋のような大手の茶屋に鞍替えしたいと狙っているのは聞かずとも想像がつく。
「なに、いずれ花魁にしてやるとでも言や、あの強欲女のことだ。飛び付いてくるに違いねえ。床も巧い酔芙蓉にかかりゃ、その傷野郎だってすぐに堕ちるだろうぜ。ヤツが女に夢中になった頃合を見て、女を盾にこっちの仲間に引き入れりゃいい」
「はぁ……、まあ策としては悪くはねえと思いますが、そう上手くいきますかね? 傷野郎が根っからの男色だとすりゃ、女を充てがったところで逆効果ってなことも考えられますぜ?」
参謀の男が苦笑する。
「そこは上手くやるさ。こいつを使うんだ」
頭の男は煙草盆の引き出しから小瓶を取り出すと、ニヤッと企みめいた笑いをしてみせた。
「そいつぁ何です?」
「神経系等を狂わせる薬だ。意識を混濁させることができる。こいつを数日盛り続けるってーとな、下手すりゃ記憶も曖昧になるっておっかねえ代物さ。まだ人間で試したことはねえが、実験するにはちょうどいい機会だ。ついでに催淫剤でも混ぜて傷野郎に飲ませれば一撃だろうが!」
◆53
「なるほど! そいつぁ最高ですね!」
「よし、それじゃ早速三浦屋に潜り込ませてある田辺に言って、その傷野郎を拐ってくるように言え。怪しまれねえようにメシにでも混ぜて眠らせちまえとな。こっちからも数人を応援に出して、真夜中ヤツらが寝入ったところに忍び込んで連れ出すんだ。花魁の部屋までは田辺に導きをさせて、くれぐれも三浦屋の連中に気付かれねえようにとな。抜かるんじゃねえぞ!」
敵方でそんな企みがなされていることを知る由もない鐘崎らにとっては、嵐の前の静かなひと時が流れていたのだった。
そして翌々日の朝のことだ。
もう昼になろうというのに鐘崎と紫月が起きてこないことを不思議に思った源次郎が、二人の様子を見に行ったところで異変に気付くこととなった。
表向きは花魁を買っている客という名目もあって、二人は毎晩プライベートスペースの方ではなく花魁の座敷の方で寝泊まりをしていたわけだが、布団の中には紫月が熟睡しているだけで鐘崎の姿が見当たらない。厠をはじめ思い当たるところを見て回ったがどこにもおらず、さすがにおかしいと思い紫月を揺り起こしたがなかなか起きない。そこで初めて薬を盛られたことに気付き、皆は騒然となったのだった。
「カネが消えちまっただとッ!?」
話を聞いて驚いた周が紫月を起こすべく、源次郎の元へと駆け付けて来た。いかに親友といえど睦み合っただろう寝所に押し入るのは通常時なら遠慮するところだが、こうなったらそうも言っていられない。
「一之宮! おい、一之宮! 起きろ!」
耳元で叫びながら肩を掴んで強引に揺り起こす。
「紫月さん! 紫月さん、大変なんです! 鐘崎さんがいなくなっちゃったんですよ!」
冰も一緒になって叫び続けた。
「……ん、あ……? 氷川……」
とりあえず目は開けたものの、半分は夢の中といったふうにぼうっとしていて起き上がれずにいる。
「一之宮! カネの姿が見当たらねえんだ! お前ら、一緒じゃなかったのか?」
「……? 遼が……ど……したって?」
「おい、しっかりしろ! 一之宮、聞こえてっか?」
相槌は打つものの、すぐにまた眠りに落ちてしまうといった具合である。
「こいつぁ……しばらく起きられそうもねえ様子だ」
「――ええ、視点が定まっていらっしゃらない。やはり強めの睡眠薬のようなものを盛られたようですな……。とすると、――若は昨夜の内に敵方に連れ去られた可能性が高い」
源次郎はすぐさま隣の茶屋から組員の橘を呼び寄せると、彼と共に敵のアジトへと偵察に向かうことにした。だが、その間ここの三浦屋がガラ空きになるのはまずい。それではと源次郎の代わりに周が橘と共に行ってくれると言うので、源次郎と春日野は残って留守を守ることに決めた。
◆54
橘は先日の夜に敵方参謀の男の後をつけたので地の利にはある程度明るい。時間的には昼間であるが、地下空間の為にここでは常に昼も夜もない。まだ茶屋が開く時間帯ではないので、店先の灯りも乏しい。闇に紛れて動くには幸いといえた。
「話には聞いていたが酷え場所だな……。三浦屋がある辺りとはまるで雰囲気が違う」
一目で治安の悪さを感じさせる街並みに周が眉根を寄せる。
「こないだの晩にヤツが消えたのはあの祠の裏ですが……」
やたらに近付くのはさすがに警戒せざるを得ない。橘が辺りに注意を払っているその時だった。
「おい、橘! あれを見ろ!」
突如、周に腕を掴まれて振り返ると、彼が驚いた表情で目を見張っていた先にとんでもない光景が広がっていて、橘も一瞬開いた口が塞がらないといった状態でその場に硬直させられてしまった。
「……わ、若……ッ!? 何だってこんな所に……」
なんとそこには路地裏の垣根の隙間から覗ける庭先の縁側に腰掛けている鐘崎の姿があったからだ。
「やはり拐われてきたのは本当のようだな」
「けど若ほどのお人が素直にああしてあそこに居続けるってのはおかしくありませんか? 姐さんはまだ起きられない状態だって聞きましたが、見たところ若はもう意識が戻っていらっしゃるようなのに」
だが、よくよく見ればぼんやりとしていて、いつもの鐘崎のような覇気がない。縁側に腰掛けたきり、ぼうっと一点を見つめたような眼差しで、あれでは腑抜け同然だ。
「カネのヤツもまだ薬が切れてねえのかも知れん。とにかく庭に入り込んでもう少し様子を窺うぞ。敵の姿が見当たらねえようなら即刻連れ帰る!」
「承知しました!」
そうしてなんとか庭へと潜り込んだものの、声を掛けようと思った矢先だ。部屋の襖が開き、奥から数人が会話する声が聞こえてきて二人はひとまず植木の陰へと身を潜めた。現れたのはどうやら敵方の連中のようである。
「何をもさもさやっていやがる! 早えとここいつを飲ませてあの傷野郎をモノにしねえか!」
ガラの悪い男が数人で一人の女の腕を引っ張りながら小言を言っている。
「うるさいねぇ! ちょいと離しておくれよ!」
女は着ている着物からして遊女のようだ。気の強そうな美人で、怯まず男たちに言い返している。
「仕方ないだろう。あの男はあんたらが盛ったおかしな薬のせいで腑抜け同然さ! アタイがいくら話し掛けたってウンともスンとも言わないんだからさぁ。いったいあの薬は何なんだい?」
「は! おめえにゃ関係ねえこったが、教えてやらねえこともねえ。聞いて驚くな! ありゃあなぁ、頭を狂わせちまうって危ねえ代物さ」
男が得意顔で笑う。
◆55
「頭を狂わせちまうだって? 冗談じゃないよ! このアタイにそんな男の相手をしろってのかい?」
「まあそうわめくな。狂わせるったって何もパーになるってわけじゃねえ。頭から聞いた話じゃ、単に記憶を曖昧にさせるって代物らしいぜ?」
「記憶を曖昧にだって? どういうことさ」
「野郎はこのところずっと男花魁の元に通い詰めてたようだが、今じゃすっかりそういうことも忘れちまってるってことだ。身体的には何ら影響がねえそうだから安心しなって! おめえの色仕掛けがすんなりいくように手助けしてやったまでよ」
「はぁん、そんじゃあの男は自分が誰だかも分かってないってことかい?」
「ま、そういうこった。分かったらグズグズ言ってねえで早えとこ野郎をモノにしろ。てめえの身体でヤツを骨抜きにして惚れさせりゃーいいんだ」
「ふ……ん! 男花魁を買ってたようなヤツを相手にしろってかい? 今の今まで男に突っ込んでたようなヤツに抱かせてやるなんざ、本当だったらごめんだけどね」
「だが見てくれはめちゃくちゃいい男だろうが? てめえだってちっとは野郎に傾いてるんじゃねえかい?」
男に肩を突かれて、女は頬を染めた。それを悟られんとプイとそっぽを向いて頬を膨らませる。男はニタニタと笑みを浮かべながら先を続けた。
「やっぱり満更でもねえってか。まあツラだけは腹立つくれえに整ってやがるのは確かだからな。せいぜいサービスして野郎を惚れさせるこった。ヤツがお前さんに夢中になりゃ、あとは煮るなり食うなり好きにできるんだからな。せいぜい励むこったな」
「わ、分かったよ……やりゃあいいんだろ。その代わり、アタイを花魁にしてくれるって約束をお忘れでないよ!」
「ああ、分かってるって! ほら、催淫剤だ。こいつを酒に混ぜて上手いこと飲ませな! 後はお前さんお得意の床技でしっぽり楽しみゃいいってことよ。散々男を手玉に取ってきたお前さんだ。そんくれえチョロいもんだろうが!」
男は女の手を掴んで小さな紙包みを握らせると、『抜かるなよ!』と念押ししてから部屋を出て行った。
「ふん……! 好き放題言いやがって。アタイを何だと思ってるのさ」
女はブツブツと文句を垂れていたが、言われた通りに渡された紙包みを開けて中身の粉を徳利へと流し込んだ。
「催淫剤だなんて……こんなもん……! アタイにかかればこんな粉なんざ使わなくたってどんな男もイチコロだってのにさぁ。まあいいわ。昨夜まで男に突っ込んでたってのが癪に触るけど、確かにイイ男だし――これからはアタイが本物の快楽を教えてやろうじゃないかい」
フフフと笑いながら女はつらつらと独りごちると、縁側に座り込んだままでいる鐘崎の側へ行き、まったりとした口調でしなだれかかった。
◆56
「主さん、いつまでそうしてんのさ。そんなトコでじっとしてたら風邪を引くよ。ほら、お酒の用意ができたよ。こっちへ来て一緒に飲もうじゃないかい」
広い背中を抱き包むように細い腕を目一杯回してしがみつく。元々はだけ気味の着物の合わせを更に押し開いては、わざと胸の谷間を擦り付けるようにしながら甘えてみせた。
そうされて鐘崎もチラリと自分にまとわりついている女に目をやったが、相変わらずにぼうっとした調子のまま虚な視線も定まらないままだ。
「誰だ……」
ようやくとひと言そう返したが、まるで自分自身がどこの誰なのかも分かっていない様子でいる。やはり先程の男が言っていた『記憶が曖昧になる』というのは嘘ではなさそうだ。
「あん、もう! 焦ったいねぇ。アタイを忘れちまったのかい? 散々アタイのこと可愛がってくれたじゃないのさぁ」
女は記憶が曖昧なのをいいことに、有ること無いことを吹き込んで、更に混沌とさせようとしているようだ。
「俺が……おめえを……?」
「そうよぉ! 昨夜だってあんなに熱くアタイを求めてくれたじゃないの!」
「……さあ? すまねえが……よく思い出せねえ」
「んもう! 冷たいことお言いでないよ! とにかくこっちへ来て一献やろうじゃないさ。そうすりゃきっと思い出すってものさ」
女は強引に鐘崎の腕を取って座敷の中へと引っ張っていくと、催淫剤入りの徳利から酒を注いでみせた。
「さあ、とにかくお呑みよ。一献開けたらアタイがうんと気持ちいいことしてあげる」
上目遣いでしなだれかかる。鐘崎は渡された盃をぼうっと握り締めたまま、未だ臓腑の抜けた人形のような虚な視線でそれを見つめていた。
その様子を窺っていた周と橘にも戦慄が走る。あんな状態で催淫剤など食らってしまったらと思うと気が気でない。
「クソッ……! 何とか止めなきゃなんねえ……」
周は地面に落ちていた小石を拾い上げると、鐘崎の手元にある盃目掛けてそれを放ろうとした。その時だ。
わずか一瞬早く鐘崎の手から盃が転げ落ちて、酒が畳へとこぼれた。それと同時に盆の上にあった徳利も倒れて中身が流れ、あっという間に盆の上へと広がっていく。
「ああ……! 何をやっておいでだい!」
せっかくの催淫剤入りの酒が、これでは台無しだ。女は焦って徳利を拾い上げたが、時既に遅かった。
「ああん、もう! なんてことだい! 薬はこれで全部だってのに! またアイツらから貰ってこなきゃならないじゃないか!」
どうやら男から渡された包みはそれ一つだったようだ。
「……は、驚かしやがる! だがまあこれで一安心だが……」
周と橘の方では偶然の幸いにホッと胸を撫で下ろす。だがこれはいいチャンスでもある。女が替えの薬を取りに部屋を出て行けば、その隙に鐘崎を連れて逃げられるかも知れないからだ。
◆57
辺りを見渡したが幸い見張りなどはいないようだ。
「よし、今だ! カネを担いで逃げるぞ!」
周と橘が急いで鐘崎の元へと駆け寄った時だった。突如縁側の襖が開いて一人の男が姿を現したのに驚かされる羽目となった。
「……ッ!? 僚一……!」
「親父っさん!」
なんと男は鐘崎の父親の僚一だったのだ。
彼は「しッ……!」と指先で唇を覆い、声を立てるなという合図を送ってよこした。そして今一度周囲を見渡した後で誰もいないことを確かめると、二人を連れて庭先の植樹の陰へと身を隠した。
「僚一! 来てたのか!」
周は普段は僚一のことを『親父さん』と呼ぶが、仕事絡みか或いはこういった緊急時には即座に同胞としての『僚一』という呼び方に変わる。いわばオンの精神状態の場合は自然とそうなるのだが、今もまさにそれであった。僚一の方もよく分かっていて、息子同然の年齢であろうが対一人のパートナーとしての意識で受け入れている。同じ裏の世界に生きる者同士の阿吽の呼吸というわけだ。
「まさかもうこの地下施設に潜り込んでいたとはな。海外だと言っていたから、もう少し遅れるものとばかり思っていた」
周が言えば、僚一も「ああ」と苦笑した。
「ここに着いたのはつい昨夜のことだ。お前さんたちの茶屋に顔を出す前に少し下調べをしておこうと思ってな。丹羽のところの修司坊からおおよその見取り図をもらっていたんで、まずは敵がヤサにしているというこの辺りを調べて回っていたんだが――」
ちょうどその時に息子である鐘崎が敵に担ぎ込まれて来るのを見掛けて、急遽この邸の天井裏へと潜んで様子を探っていたのだという。
「どうやらヤツらは遼二を仲間に引き入れるつもりでいるらしい。敵に回すと厄介になると見込んで、それならといっそ囲い込んじまった方がいいと考えたようだ」
「若を仲間にですかい?」
「お前ら、遼二が武器商人だという噂を流したろうが。ヤツらはそれを聞きつけて、何かの役に立つと踏んだようだぞ」
「……! た、確かにそういう噂をでっち上げたのは本当ですが……。まさかこんなことになるとは……」
「まあ、理由はそれだけってわけでもないようだがな。どうも腕の方も達つと見込まれちまったらしい」
「そりゃまあ……若は見た目からしてめちゃくちゃ強そうっつか、オーラというか威厳がありますから。敵が仲間にしたがるのもある意味納得ですが……。けど、だからって本気で拉致ってくるだなんて……ンなの、後々上手くいくわけねえでしょうに!」
橘が呆れつつも憤りを露わにする。
「その為にさっきの女を充てがって骨抜きにするつもりのようだ」
「……! それで催淫剤ですかい。汚ねえ手を考えやがる!」
「本人の意思がどうあれ、あれを食らって誘惑されたんじゃ敵の思うツボだからな」
「それで天井裏から徳利ごとひっくり返したってわけか。どういう手を使ったんだか」
今度は周が感心しつつも苦笑している。
「なに、ちょいとコレでな。引っ掛けたまでだ」
僚一は小さな重りのついたテグスをポケットから取り出しては笑った。
「例え消音だろうと実弾や矢が出るのはまずいからな」
◆58
「確かに……転がった弾を女に気付かれて、拾われでもしたら厄介だな」
自分が小石を投げんと拾い上げたタイミングで、偶然にも鐘崎は盃を落として徳利までが倒れたわけだ。他に方法がなかったとはいえ、危うく女に存在を気付かれるところだったと思うと冷や汗が滲みそうだ。既に天井裏に潜んでいたというなら当然僚一の仕業だと思ったわけだが、確実に狙った所を外さない腕前はやはりさすがである。
「しかし――催淫剤とはな。是が非でもカネを抱え込みてえわけか。既成事実を作っちまえば美人局でもでっち上げて脅す気だったってことか。昨夜カネを拐って来る時には睡眠薬を盛ったばかりだろうに、その効果も切れてねえ状態で催淫剤なんざ、身体がイカれちまうと思わなかったのか」
それでは仲間にする以前に体調を崩して使い物にならなくなることだってあろうというのに、馬鹿な連中だと周が憤りをあらわにする。
「ヤツらもそこはよく分かっていて、素面の状態じゃ思い通りにできねえと踏んだんだろう。それよりも……推測するに遼二が盛られた薬ってのは睡眠薬なんて甘っちょろいモンじゃなさそうだ。実際、かなり厄介なものと見ていい」
「厄介だと? そういやさっきの連中が言っていたな……。記憶を曖昧にしちまうとか何とか」
周が顎に手をやって考え込んでいる。
「ああ。神経系統に作用する麻薬で、自分がどこの誰だったのかも思い出せなくなるという代物だ。昨夜ヤツらが話していた内容から察するにデスアライブ、通称DAの可能性が高い」
「DAだと……! そいつは確か……あまりにも危ねえってんで使用が禁止されている薬物だったはずじゃねえか」
「そうだ。デスアライブ、つまり肉体には特に影響を与えないが、精神はこれまでとはまったくの別物に変えられちまう。飲めば飲むほど徐々に記憶と自我を失くし、新たに植え付けられた情報だけを信じ込むようにできているという危ねえ代物だ。戦闘用の人体ロボットを作る目的で開発された薬だが、あまりにも非人道的だという観点から使用を禁じられ、表向きは生産もされなくなったとされている」
要は身体的にはこれまでと何ら変わりなく生きていられるが、精神や人格は失ってしまうわけで、それ故に付けられた通り名がデスアライブというらしい。
「噂じゃ生死が紙一重と言われてたな。確かに見た目は生きちゃいるが、性質も何もかも変わっちまうとなれば死んだも同然といえる。まさか……カネはそいつを食らったってのか? じゃあ一之宮も……? そういやさっきもなかなか起き上がれずにいたが……」
「いや、紫月の方は少し強めの睡眠薬を盛られただけだろう。ヤツらが欲しいのは遼二だけのようだからな」
確かに稼ぎ頭である花魁を拐えば上納金も滞るというものだ。そこは敵もよく分かっているというところだろう。
◆59
「……ッ、じゃあカネの記憶を取り戻すのは困難ってわけか?」
「容易とは言えねえだろう」
「そんな……ッ!」
今度は橘がいきり立つ。
「落ち着け橘! 容易とは言えんが可能性はゼロじゃねえ。遼二が盛られたのは今のところ昨夜の一度きりだ。常用しなけりゃまだ快復の可能性は充分に残っている」
「常用って……。じゃあヤツらは若にそのDAって薬を盛り続けるつもりでいるってことですかい?」
「その役目としてさっきの女を使うってところだろう。同時に女と深い関係を持たせて、遼二が女に溺れでもすれば、それを盾に取って言うことを聞かせる算段だろうな」
「……ッ、ふざけたことを! 若には姐さんっていう立派なご伴侶がいらっしゃるんだ! 誰があんなアバズレ女なんかに溺れるもんかってんだ!」
そうはいえども記憶が曖昧な中で充てがわれた女に溺れてしまう可能性がないとは言い切れない。すっかり頭に血が昇ってしまったらしい橘を横目に、周はこれからのことを冷静に思い巡らせていた。
「それで――どう動くつもりでいるんだ。お前がすぐにカネを連れ帰らねえで、こんな所で悠長に話をしているってことは、何か算段があるってんだろう?」
確かに敵の目が無い今ならば事情を説明するよりも先に三人で鐘崎を抱えて連れ帰ることは十分可能だろう。それをしないでこの場に留まっているということは、僚一には他に手段があるのだろうと思うわけだ。
「察しがいいな。遼二には酷だが、しばらくこのまま敵の思惑通りここに居てもらうつもりだ。むろん、俺が陰から張り付いてこれ以上例の薬を盛られるのは防ぐが、表向きは順調に事が運んでいると敵に思わせておきたい。その間にこちらで進めたいこともあるんでな」
「カネを目くらましとして使うってわけか……」
「あいつも極道の世界に生きる男だ。危険とは背中合わせってことは覚悟できている」
それが自分たちが身を置く世界である。周自身、言われずともそれはよく分かっているつもりだ。
「だが女の方はどうするつもりだ。あの女はカネを骨抜きにしろと言われているようだし、まさか策の為にヤツに女を抱かせようってか?」
それでは鐘崎と紫月にとってあまりにも酷な話だろうと懸念する。
「心配するな。女のことは遼二に代わってこの俺が引き受ける。なに、心配には及ばねえ。俺と遼二は体格も顔の造りもよく似ているからな。暗闇の床の中じゃ見分けはつくまい」
僚一は笑ったが、周と橘にしてみれば驚愕である。まさか息子の貞操を守る為に自ら素性も知らぬ女を抱こうというわけかと絶句させられてしまった。
「勘違いするなよ? 何も本当に寝ようってわけじゃねえ。ある程度付き合ったら、それこそちょいと睡眠薬でも盛って女を眠らせちまえばいいだけだ」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろす。
◆60
「そういうことか……。さすがに焦らされたぜ」
周が苦笑で返す。まあ僚一とて若気の盛りは過ぎたものの独り身であるし、任務の為に女と寝たからといってどうというわけでもないのだが、周自身、今は冰という大事な伴侶ができたこともあってか、どうも気持ちが伴わない肉体関係というのを受け入れ難い感が無きにしも非ずなのだ。いかに独り者の僚一でも誰かと情を交わすというなら、気持ちが伴った上で幸せな関係を築ける相手とそうなって欲しいと願う気持ちがあるのだった。
「お前さんの気遣いには感謝だ、焔。まあ心配するな。こっちは上手くやるさ。それよりもここの武器庫だが、さすがに江戸吉原の街という名目だけあってか刀の数は尋常じゃねえ。どこから集めてきたか知らんが、真剣が相当数保管してあったのには驚かされたぜ。その他にもやはりと言うべきか銃器類が多少備えられていた。拳銃はもちろんだが、連射が効くマシンガンや爆発物まで持ち込まれていやがる」
「もうそんなところまで調べたのか。さすがに早えな」
「ある程度は丹羽の修司坊から聞いていたからな。昨夜ここに着くと同時にまずは武器庫に潜り込んで調べたが、莫大とは言えないながらも素人を相手に脅すには十分な備えがされているようだ」
「武器庫か。当然見張りもいただろうに」
「ああ、いるにはいたが下っ端の若い男が二人ほどだった。察するに素人も同然だ。忍び込むのはさして問題じゃねえ。ただ、ここは海の底だ。万が一にも銃撃戦になった場合、内壁に損傷を与えることだけは避けねばならん。わずかでも海水が入り込んだら施設ごと全員が飲み込まれる」
僚一曰く、いよいよ敵との戦に突入したとしても銃器類や爆発物が使われることだけは絶対に避けなければならないということだった。
「まあ敵もそこまで馬鹿じゃねえとは思うが、劣勢になればどう出るかは分からんからな。ヤツらは護衛役として屈強な傭兵上がりの連中や爆発物などの扱いに長けているテロリストを抱え込んでいるようだ。まずは銃器類や刀を速やかに外へ持ち出して、武器庫を空にすることが先決だ。その後は体術だけで制圧する方向で考えている」
「それでカネをここへ留めて少しでも敵の目を引きつけておこうって算段か」
「そういうことだ」
まあ今現在、既に殆どの者が腰に差している刀の回収は難しいとしても、武器庫が空になれば勝算はある。最終的に刀でやり合うくらいは致し方なかろうと僚一は苦笑した。
「俺もお前らも体術では敵に引けを取るとは思えねえが、剣の腕となると正直なところ完全とは言えん。今の時代だ、相手も真剣を振り回せるヤツがどれくらいいるかは怪しいもんだが、仮に凄腕がいたとして互角にやり合えるのは紫月と、ヤツの親父の飛燕くれえだろう」
「確かにそうだな。俺も拳銃ならそこそこ自信はあるが、刀を振り回すなんてのはからっきしだ」
周の主たるは拳法である。刀の代わりにヌンチャクでもあれば、その方が幾分マシというところだ。