極道恋事情

19 三千世界に極道の華4



◆61
「問題はそこだ。剣でやり合うのは紫月と飛燕任せになる。遼二もガキの頃から飛燕の道場で剣術を学んではいたが、今のままの状態じゃどの道使い物にはならんだろうな。何にせよ薬に打ち勝って記憶を取り戻さなきゃ始まらん。あとは飛燕の道場を手伝っている綾乃木も剣術には長けているから助力を願っておいた」
「そいつは心強えな」
「詳しいことは修司坊に伝えてある。今夜には紫月の親父の飛燕と綾乃木も施設に入り込めるように手配してある。お前らは三浦屋に帰って修司坊と連携してくれ。表向きは何も知らないまま営業を続けるふりをして、秘密裏に武器庫にあるブツを運び出すのが第一目的だ」
「分かった。だが、カネのことは……」
「遼二のことは俺が責任を持って敵方に堕ちるのを防ぐ。正直なところヤツが記憶を取り戻せるかどうかはヤツ自身の精神力にかかっていると言って過言じゃねえが……。いずれにせよ例の女を相手にするには俺が遼二に成り代わる必要がある。倫周に言って至急傷のメイクだけはしてもらわねばならん。源さんを護衛につけてできるだけ早く倫周をよこしてくれと伝えてくれ」
「分かった。そっちは任せてくれ。三浦屋に帰り次第ここへ向かってもらうが……心配なのはやはりカネのことだ。ヤツの記憶はどうすれば取り戻せる」
「DAに関しちゃ解毒薬というのはねえからな。何か遼二の記憶を揺さぶる衝撃というか、きっかけのようなもんがあれば或いは――とも思うが、今の段階じゃおそらく俺のツラを見ても見知らぬ他人としか映らんだろうな」
「だったら一之宮はどうだ。ヤツに会わせれば何か思い出すかも知れねえ」
「その可能性もあるが、花魁である紫月をむやみに外へ連れ出して敵に見つかりでもしたら厄介だ。今は極力動かねえに越したことはない。とにかく遼二のことは物理的には守るから安心しろ。紫月にもそう伝えて、くれぐれも無茶な行動は慎むように言ってくれ」
「……分かった」
 周と橘はこの場を僚一に任せて、一旦三浦屋へと戻っていったのだった。



◇    ◇    ◇



 一方、その三浦屋の方では鐘崎らに薬物が盛られた経緯について源次郎と春日野が調べを進めていた。可能性としては料理か酒に混入されたと考えられるが、他の皆は何ともないことから花魁の座敷に出される膳の中に何らかの細工が成されたと仮定して、まずは厨房近辺から探りを入れていった。
 しばらくすると、春日野が少々気になることを聞きつけたと言い、源次郎の元へと飛んで来た。厨房で食材を出し入れしている下男たちが休憩中に話していた愚痴の中に引っ掛かる話題があったというのだ。



◆62
「田辺の野郎、まーたサボってやがる!」
「ああ、例の女だろう? このところ毎日のように訪ねて来ちゃ、裏木戸の陰でイチャイチャしやがって! 真っ昼間だってのに逢引きしてやがるんだ。仕事も放っぽっていい気なもんだぜ」
「まあここは常夜だからな。いくら昼も夜もねえと言ったって、夕方になりゃ外界からの客も来て立て込むってのによー。四郎兵衛の親父さんも何であんな使えねえヤツを雇ったんだか!」
 ここの者たちは主人の伊三郎のことを四郎兵衛と呼んでいる。江戸吉原の時代に会所を束ねていた時のままに彼を尊敬し、慕っているという証であろう。
「何でも知り合いに頼まれたとかで、半ば強引に押し付けられたらしいぜ。そうでもなきゃうちの親父さんがあんなヤツを雇うかっての!」
 男たちはこの地下施設ができるずっと以前から三浦屋に勤めていた者たちらしい。主人の伊三郎と一緒に花街での仕事に誇りと生き甲斐を持ってやってきたそうだ。その彼らによると、最近になって新しく入ったという男がしょっちゅう女と逢引きをしていて、仕事もサボってばかりだというのだ。名を田辺というらしい。
 春日野や源次郎らのことは花魁付きの下男であるし、主人からも一目置かれているという認識でいるらしく、少し尋ねたところいろいろと事情を話してくれたというのだ。
「田辺か……。その男は普段はどんな役目に就いているんだ?」
 源次郎が訊く。
「ええ、何でも食材や着物などの他、細々とした必需品を業者から受け取ったりする雑務を担当しているそうです。当初は掃除などを主にやらせていたそうですが、いい加減でとても任せられないということで、荷の受け取りくらいならと配置換えさせられたそうですが……。そんな男にもちゃんと女がいるっていうのが不思議だと、皆さんも呆れていらっしゃいました」
「女か……。ひょっとすると、その女ってのは敵からの指示を田辺というヤツに伝える伝達役の可能性もあるな。今日も女が来ていたのか?」
「ええ。まさに今、店の裏手の塀のところで逢引き中です。よろしければ自分が女の後を付けてみようと思うのですが」
 女が敵方へ帰れば黒で決まりというわけだ。
「そうだな――。任せてもいいか?」
「はい、もちろん!」
「橘の話じゃ、敵のいる界隈はあまり治安が良くないということだ。くれぐれも気を付けて、深追いせずに戻ってくれ」
「承知しました」
「私の方は田辺というヤツの周辺を洗ってみる。他にもまだ敵からのスパイが入り込んでいるかも知れんからな」
「兄さんもお気を付けて」
 こうして春日野は田辺を訪ねて来た女の後を付けることとなったのだった。



◆63
 その春日野が出掛けてから間もなくして、入れ替わりで周と橘が戻って来た。リビングにはレイが一人で留守番をしていて他の者の姿は見当たらなかったが、とりあえず鐘崎の現状と彼の父親の僚一が既にこの地下施設に入り込んでいることなどが詳しく報告される。時刻は夕暮れ時、ほどなく今宵も街が賑わう時間帯を迎えようとしていた。
「カネが不在になっちまった以上、新たに花魁目当ての客を迎えねばならんだろうが、どんなヤツがやって来るか分からん。冰の賭場で是が非でも阻止して一之宮を守らねばならん。その一之宮の容態だが……ヤツはもう目を覚ましたのか?」
「ああ。ついさっき気がついて、体調的には万全のようだ。よく眠れたらしく清々しい顔をしていやがったが……」
 レイが苦笑ながらそう答える。ということは、やはり紫月には強めの睡眠薬が盛れらただけと考えていいようだ。
「カネのことは告げたのか?」
「いや、まだだ。紫月にとっては一大事だろうからな。遼二のことを打ち明けるのはお前さんらが戻ってからと思って、今は倫周が紫月と冰の着付けをしているところだ」
「源次郎さんたちはどうしている?」
 ここにはレイが留守番をしているだけで源次郎と春日野の姿が見えないので周がそう尋ねた。
「遼二と紫月が薬物を盛られたのは昨夜花魁の座敷に出された膳の中じゃねえかってことで、今調べを進めているところだ。この三浦屋に敵のスパイが入り込んでいたらしく、源次郎さんはそいつの周辺を洗っている。春日野はそいつを頻繁に訪ねて来ていたという女を尾行すると言って、つい今しがた出て行ったところだ」
「敵のスパイか……。やはりここに入り込んでいやがったわけだな」
 そんな話をしていると源次郎が戻って来た。周は鐘崎の現状と僚一と会ったことなどを話すと、僚一への傷のメイクを施す為、すぐに倫周を彼の元へ派遣して欲しい旨も伝えた。
「分かりました。ではすぐに倫周さんと一緒に私が向かいます。それから今宵の花魁のお相手ですが、丹羽君からの連絡で紫月さんのお父上と綾乃木君が来てくれるとのことですので、お二人に客としてお座敷へ上がってもらうよう主人の伊三郎氏にお願い致しました」
 それであれば安心である。あとは紫月に鐘崎が拐われたことをどう伝えるかだ。
「それについてはありのままにお話すると致しましょう。紫月さんを気遣って隠し事をするより本当のことを打ち明けて対策を練るべきです」
 源次郎が言ったと同時だった。支度の整った紫月が座敷へと姿を現したのに、周と橘、源次郎の三人が揃って彼の名を呼んだ。



◆64
「一之宮!」
「姐さん!」
「紫月さん!」
 三人共に驚いたように目を見開いている。ありのままを話すと決めたものの、鐘崎の状況を知った紫月が心を痛めるだろうことは確実だからだ。
 だが、紫月はそんな心配をよそにしっかりとした様子で皆を見渡した。
「源さんの言う通りだ。嘘も方便、ところによっては宝と成すこともあろうが、今この時には不要な心遣いだ。例えどんなに苛烈だろうが真実が道を開くこともある。現状を教えてくれ」
 艶やかな花魁の出立ちという見た目もあってか、神々しいほどに頼もしいオーラが眩しく思えた。彼の肩先にはあるはずのない光背がすべてを包み込む暖かな陽の如く目に浮かぶような錯覚さえ感じさせる。皆は意を決して紫月に事実を打ち明けたのだった。
「そうか……遼が……な。まあ親父が側についていてくれるならひとまず安心だ。俺たちは俺たちに出来ることから始めていこう」
 どうやら紫月は目覚めた時点で何か重大なことが起こっていることを察していたようだ。
「昨夜は床に入ると同時にすっかり意識を失っちまったようでな。このところ遼たちと無事に会えた安心感で少し気が緩んでいたようだ。本来、メシや酒になにかを盛られるかも知れないという基本的なことさえ頭から飛んじまってた。以後は気を引き締めていくぞ」
 確かにその通りである。主人の伊三郎は信頼できるとしても、ここ三浦屋にスパイが潜り込んでいるかも知れないことは想像できていたにもかかわらず、何の疑いもなく出された膳を楽しんでいたのは少なからず反省すべき点といえる。それについては既に周が手を回してくれていたようだ。
「幸い今夜からは李も合流できることになっている。ヤツに言って当座俺たちのメシは外から運び入れてもらうように手配した」
 今頃は汐留の邸で家令の真田が一生懸命に皆の弁当を用意してくれていることだろう。
「すまねえな、氷川。世話をかける」
 紫月が真摯に頭を下げる。
「そんなことは気にするな。真田も張り切っていることだろう。それよりカネのことだ。いくら親父さんがついていると言っても、記憶を取り戻さなきゃ始まらねえ」
「遼については考える。それより今は丹羽さんと連携して武器庫を空にすることが先決だ。遼を取り返すのは敵の戦力を削いでからだ。現段階でドンパチを始めりゃ、関係ねえ大勢の人間が犠牲になっちまうだろうからな。それまでには親父の方からも新たな情報が上がってくるかも知れねえしな」
 鐘崎のことを一番に気にかけているのは他ならぬ紫月だろうに、彼はそんな心の動揺を皆には見せず、冷静にこの先のことを見据えている。鐘崎の嫁であると同時に極道鐘崎組の姐としての誇りが感じられた。



◆65
 そうこうしている内に田辺を訪ねて来た女を尾行していた春日野が戻って来た。
「姐さん! ご容態は……」
 いつも通りの花魁姿でいる紫月を目にして、すぐさま気に掛けた。
「お陰様でこの通り無事だ。俺は少し強めの睡眠薬を食らっただけのようだからな。それより守備はどうだ」
 春日野はホッと胸を撫で下ろしつつも、すぐに見聞きしてきたことを報告してよこした。
「あの女は敵からの伝達役で間違いありません。若を拐ったことで今夜からの三浦屋の様子をより詳しく探るようにと伝えに来たようです。敵の話では我々が三浦屋の雇った剣客だと疑っているようで、花魁がどのように接客をしているのかを覗き見てくるようにと田辺へ指令を出したようです。おそらく今夜は田辺がこの座敷へ忍び込んでくると思われます」
 要は花魁が本当に客と寝ているのかどうかなどをその目で探って来いと言われたようだ。
「ってことは、今夜寝静まった頃に田辺ってヤツがここを覗きに来るってわけだな? 実際に床の相手をしている現場をカモフラージュせにゃならんということか」
 紫月が苦笑している。
「今宵の客は親父と綾さんが来てくれるらしいから助かったと言えるが……親父と組んず解れつをやれってか? どうせなら綾さんが相手になってくれた方がやり易いんだがな」
 それこそ鐘崎が知ったら眉をしかめるに違いない。その姿を想像しながら、紫月はクスクスと可笑そうに笑うのだった。
「ん、だが案外いい手ではあるな……。こいつぁ……遼の記憶を取り戻させるのに使えるかも知れねえ」
 閃いたとばかりに紫月はパシッと扇で膝を叩いてみせた。
「遼のことだ。俺が他所の男とよろしくやってるところを見れば、案外ショック療法で記憶が戻るかも知れねえな」
 確かに鐘崎の紫月に対する独占欲は人一倍強い。そこをくすぐれば、記憶以前に本能を揺さぶれるかも知れないと思うのだ。
「よし、とりあえず今夜は親父とエロ芝居を打って田辺ってヤツを納得させよう。俺たちが剣客ではなく単なる男娼として三浦屋に入ったことを確認させてから、丹羽さんと武器庫に保管されているブツを秘密裏に運び出す算段に移ろう。武器庫が空になった時点で一等派手な花魁道中をぶち上げるぜ!」
 紫月曰く、街の端から端までを練り歩く大掛かりな花魁道中を催して、その姿を鐘崎に見せつけようというのだ。鐘崎の本能に火を点けることができれば、或いは自我を取り戻せるかも知れない。
「問題は俺を手に入れる相手役が必要だが……遼がいっちゃんヤキモチを焼きそうな相手がいいな。さすがに俺ン親父じゃ役者不足かも知れねえ」



◆66
 ヘンな話だが、鐘崎の嫉妬心を呼び起こすには周あたりが打ってつけなのだが、記憶が戻った後のことを考えると、周としては遠慮したいところのようだ。
「まあカネの記憶を取り戻す為なら一肌脱ぐのもアリだがな。後々本気でヤツに恨まれそうだ」
 周が口をへの字に曲げて「うーむ」とうなる姿に皆笑いを誘われる。
「だったら俺はどう? 倫周さんにメイクしてもらって、ちょっと男臭く仕上げてもらえば案外イケるかもだし、鐘崎さんもそんなに怒らないんじゃないかなぁ」
 冰が期待顔で身を乗り出してくる。
「お前がか? いくらメイクしたとしてもカネが反応するかは怪しいところだと思うがな。というよりも怒らねえってことは、イコール妬かねえってことだろうが」
 周が冷やかすような口ぶりで苦笑する。
 男の本能というのは案外正直なものである。人畜無害で、しかも普段は抱かれる側の冰を鐘崎が自分のライバルと見なすかどうかといえば、可能性としては低いだろうか。
「やっぱ俺じゃダメかぁ」
 残念そうに肩を落とす冰の傍らで、今度は倫周が口を挟んだ。
「それなら春日野君は? 男前だし、遼二君もピピッとくるかもよ!」
 いい案だとばかりに矛先を振られたが、当の春日野はそれこそとんでもないと言って真っ青になりながらブンブンと首を横に振ってみせた。
「か、勘弁してください! それこそ記憶が戻られたら若から天誅を食らいそうですよ!」
 大真面目な顔をして蒼白となっている様子に、皆からドッと笑いが起こる。
 こんな非常事態にあってもこうして朗らかな雰囲気でいられるということは、裏を返せば必ず記憶を取り戻して鐘崎が帰って来ると信じているからである。
「だったら紫月の相手は俺が演ろう。遼二にとっちゃ俺は普段から頻繁に顔を合わせてる相手じゃねえし、見慣れてねえ分、本当に見ず知らずの客に映るだろうぜ?」
 レイが自信満々で名乗りを挙げる。この俺様の演技力をもってすれば、男の嫉妬心を掻き立てるのなんざ朝飯前だと誇らしげである。
「そいつぁいいな! レイさんなら包容力のあるオトナの男の色気爆盛りだし、何よりイケメンだから遼の嫉妬心をくすぐるにはもってこいだ!」
「だろぉー?」
 当の紫月にも絶賛されてレイはご満悦だ。
 今は二月の下旬である。ちょうど桃の節句が間近なので、大きな花魁道中を催すにはまたとない機会ともいえる。
「ではご主人の伊三郎氏にも協力を仰ぎましょう。向かいの遊女たちの遊郭からも花魁を出していただいて、街を上げての道中となれば、見物客も大勢訪れるはずです。若が囚われている邸を出てそれを見物したとしても、そうは怪しまれずに済むでしょう」
 源次郎は早速主人の伊三郎に言って、桃の節句の催しのお膳立てを依頼することに決めた。



◆67
「それまでに守備良く武器庫の荷を外界へ運び出せれば言うことなしだ。源さん、手順はどうする」
 今までの朗らかな雰囲気から一転、至極真面目な顔つきで紫月が訊く。まさに男の仕事の顔つきといえた。
「はい。丹羽君の話では食材などを運び入れる業者の荷車の中に少しずつブツを紛れ込ませて、数日に渡って徐々に武器庫を空にしていく方法を考えているとか。それと同時に桃の節句の飾り付けと称して大工を装った組の若い衆たちを街の各所に配置するのも手ですな。街が賑わえば敵の目をそらすのに役立ちましょう」
 荷車に積んだ武器を人の手から手へと順繰りに渡して運び出すにもちょうどいい。
「人海戦術か。それでいこう! その前に武器庫に忍び込む算段だ。当然敵の見張りが張り付いているだろうが、そっちはどうだ」
 それについては周が僚一から聞いてきた状況を報告した。
「見張りを片付けるのは案外容易いとのことだった。現に僚一は昨晩武器庫に忍び込んでいる。見張りは若い男が二人ほどいたらしいが、まさか襲って来る奴もいねえと高を括っているようで、ただ上から言われた通り、持ち場についているだけのようだ」
 それを受けて源次郎がいい案があると口にした。
「でしたらうちの組の若い者を倫周さんにメイクしていただいて、その二人を捕らえて入れ替わるというのは如何でしょう」
 そうすれば表向きは何事もなく映るし、見張りが立っていればまさか武器庫が襲われているとは敵も思うまい。
「そいつは名案だ! 俺たちはいつも通りに営業を続けながら、田辺ってヤツをはじめ敵の目を引きつけておくとしよう」
 大まかな手順が決まったところで、そろそろこの街が客で賑わう頃合いとなった。源次郎の護衛付きで倫周は僚一に傷のメイクを施すべく敵陣へ向かうことにする。その直前に丹羽が紫月の父親の飛燕と綾乃木を連れてやって来たので、準備は万端だ。同時に李が業者を装って皆の弁当を持って訪ねて来た。
「よっしゃ! 冰君、今宵もいっちょ雅に賭場と座敷に取り掛かるとするか!」
「はい! 頑張りましょう!」
 紫月に言われて、冰も元気良くうなずいてみせた。
 いよいよ見方も出揃って、ここからが腕の見せ所である。紫月は粋な仕草で着物の裾を叩いて立ち上がると、皆を見渡しながら言った。
「この街が本来の由緒ある花街を取り戻せるよう踏ん張り処になるが、ここは全員一丸となってやり切るぞ。伊三郎の親父にも約束したことだし、是が非でも街を取り戻す! 夢と誇りを持った義理人情の厚い善人に喧嘩を売った落とし前、きっちりつけさしてもらう。この三千世界に極道の華――派手に咲かせてやろうじゃねえか」
 バッと勢いよく扇を開いて笑む花魁紅椿の掛け声が雅な座敷に幸先よく轟いた。悠然たるその姿は、まさに皆の希望を背負って雄々しく咲き誇る大輪の花の如くであった。



◇    ◇    ◇






◆68
 一方、僚一の元へと向かった源次郎と倫周は無事に彼と落ち合えて、傷のメイクも滞りなく済ませることができていた。
「若のご様子は如何です?」
 源次郎が心配そうに鐘崎を気遣う。本人は部屋の畳に腰を落ち着けたまま、相変わらずにぼうっとしていて視線も定まらない状態でいる。
「遼二があの調子なんでな。幸か不幸か女も根を上げて、深夜になるまでは戻らねえと愚痴を言って出て行ったっきりだ。あの女も遊女としての仕事の合間にここでの任務を請け負っているようだからな。男連中も薬を盛ったことで安心しきっているのか遼二のことは女に任せきりのようだ」
 お陰で今はこの邸内に敵の目はない。
「女が戻って来たら予定通り俺が適当にあしらうさ。その間、遼二には気の毒だが峰打ちで眠らせて押し入れにでも突っ込んでおくつもりだ」
「そうですか……。僚一さんも若もしんどいでしょうが、こちらでは姐さんがご亭主不在の大黒柱となって踏ん張ってくれています。お陰で士気も高まって精神面でどれほど勇気付けられていることか……! こんな時だというのに……いえ、こんな時だからこそどっしりと構えてくださるお姿に感銘を受けずにはいられません! 本当にご立派な素晴らしい姐さんです。我々も命を賭してついていく覚悟でおります。どうかもうしばらくご辛抱ください」
 源次郎の言葉に僚一はフイとやわらかに瞳を細めてみせた。彼は普段、紫月のことを名前にさん付けで呼んでいる。赤子の時分からの縁なので、親しみもあってかそのように呼んできたわけだが、その源次郎が『姐さん』という言い方をしたことに驚くと共に、じんわりとあたたかい気持ちが胸を熱くしたからである。
「本当に俺はいい組を持てたと思う。源さんはじめ若い衆らはもちろんのこと、俺と同じ人生を選んでくれたこれ以上ねえ息子とその嫁まで持つことができた。安心して世代交代ができようってもんだ」
 感極まったふうに微笑む僚一に、源次郎もまた同じ思いに胸を熱くするのだった。
「左様でございますな。若が窮地の時は姐さんがしっかり留守を守って皆を勇気付けてくださる。逆も然りで、姐さんに何かあれば若が降り掛かった暗雲を取り除いて差し上げる。本当にご立派なご夫婦の下で我々組員も感無量です」
 彼らと共にこの窮地に立ち向かえることが幸せの極みと思えるほどだと言って、源次郎は目頭を押さえたのだった。
「まずはその肝心の大黒柱を復活させにゃならんからな。俺たちも肝を据えて若いヤツらを見守ろう。源さん、そっちのことは頼んだぜ!」
「命に代えても!」
 源次郎は生きた視線で承知の意を約束すると共に、李が届けてくれた弁当を手渡すと、三浦屋へと戻って行ったのだった。



◇    ◇    ◇






◆69
 その三浦屋の方ではちょうど冰の賭場で盛り上がっている最中であった。客は紫月の父親と綾乃木だが、スパイの田辺を出し抜く為に一通りの手順を踏んでいるわけだ。
 中盆役は源次郎に代わって春日野が務めていたのだが、彼も任侠一家に育っただけあって、丁半の定まりは熟知しているようだ。なかなかに板についた仕事ぶりに、僚一ではないが世代交代した先の未来を想像しては頼もしい思いが込み上げて、喜びを噛み締める源次郎であった。
 その後、田辺が従来の仕事に就いていることを確認した上で、飛燕と綾乃木にも今後の動きを伝えながらの夕食タイムと相成った。紫月と床を共にする作戦を打ち明けたところ、飛燕は面白がって鷹揚に笑った。
「紫月がガキの頃はずっと一緒に寝てたわけだからな。久々に懐かしさに浸るのも悪くねえ」
 暢気な父親に呆れながらも、紫月はクイと肩をすくめたゼスチャーでおどけてみせる。
「っつっても一応はエロい関係をでっち上げなきゃなんねえわけだから。さすがに親父相手によがるのも骨が折れる話だぜ」
「なに、お前は覚えてねえかも知れんが、赤ん坊の時分は俺のオッパイに吸い付いて離れなかったんだ。今更照れる必要はねえ」
「はぁッ!? そりゃ本能で母ちゃんの乳と間違えてたってだけの話だろ? ンな大昔のことを言われてもなぁ」
 紫月は紫月で三白眼を剥きながら照れ隠しの為か口を尖らせている。
「だったらアレだな。僚一とポジションを変わりゃ良かったか? おめえさんも僚一が相手なら俺よりはドキドキできるかも知れねえぞ?」
 ニヤニヤとしながら飛燕は意地悪く笑う。
「はッ!? 洒落ンなんねえ冗談言ってる場合かよ……! 親父……てめ、面白がってンな?」
「なに、満更でもねえだろうが。僚一と遼二坊はツラもよく似てるからなぁ。年かさがいっている分、テクも遼二坊よりは上手えかも知れんぞ?」
 冗談だとは分かっていても、この父親の暢気さ加減には呆れるばかりである。だが、これも鐘崎のことで心を痛めているだろう息子に対して、少しでも気を紛らわせて元気付けてくれようとしている飛燕の心遣いである。紫月もそれをよく分かっているから、内心では有り難く思っているわけだ。
「……ったく! 舅との不義を勧めるってよぉ……これが実の父親の言うことかね?」
 そんな親子の掛け合いに、皆からもドッと笑いが巻き起こる。紫月も飛燕もつられるようにして座敷内には明るい笑い声であふれていったのだった。

 深夜になって皆がプライベートルームへと引き上げると、いよいよ敵の田辺が様子を探りにやって来る頃合である。紫月と飛燕は花魁の座敷で雅な布団に包まりながら、じっと偵察の時を待っていた。
 階下から忍び足で近付いてくる気配を感じ、二人共に互いを見合わせる。
「来やがったな。よし、そろそろ始めるか」
「お、おぅ……」
 言うが早いか、いきなり父親に組み敷かれて紫月はギョッと眉をしかめてしまった。



◆70
「……ッ! てめ、いきなし来んなバカッ!」
「バカとはご挨拶だな。失礼な花魁もあったもんだ! いいから観念して素直になりな。おめえさんが味わったことのねえくらいイイ気分にさせてやっから!」
「……って、おい! こ……ンのエロジジィ!」
 本能でか、ついドカッと膝蹴りを繰り出す。
「おお、おお、威勢のいいこった。それがてめえの手管だってか? なかなかに萌える趣向じゃねえか」
「……っそ、萌えるとか……いい歳こいてっくせに、マジで気色ィし!」
「さすがに噂通りの跳ねっ返りだ。俺りゃーなぁ、そういう気の強えのを見てると最高に滾るタイプなんだわ!」
「……滾るとか……マジでキショッ! 他にもうちょい言い方ねえのかよ! つか、本気でムリ!」
 ひそめ気味とはいえ外で聴いている者からすれば、くぐもった声のやり取りはちょうどいい具合に嬌声と受け取れなくもない。布団の中でジタバタとし、ハタから見れば確かに組んず解れつ状態である。
 田辺は襖の間からそれを窺いながら、どうやら納得している様子でいる。その気配を感じたわけか、飛燕が小声で紫月の耳元に囁いた。
「ほれ、あと一押しだ! ダダこねてねえで、一際でっけえエロ声上げてみやがれ!」
「……ンなこと言ったって……ンあー……ッ!」
 いつまでも恥ずかしがってなかなか演技に集中できないでいる我が子に、極めつけか飛燕は息子の雄をキュッと擦り上げてみせた。
「うあ……ッ! ちょ……待て待て待て……ッあっく」
 案の定驚いた紫月が掠れ声のおまけ付きで大きな嬌声を連発する。しばらくすると田辺と思しき気配が足早に階下へと降りていったようだった。
 それを確認したと同時にバッと掛け布団を押し退けて紫月が床の上で跳ね起きる。
「……ンの、クソ親父ー! よくもやりたい放題してくれやがったな!」
「やりたい放題とはご挨拶だな。お陰で敵も信じ込んでくれたろうが」
 飛燕の方は余裕綽々である。
「つかよ……いつまで俺ン大事なイチモツ握ってんだ! いい加減離しやがれ……このエロヘンタイー!」
 未だ息子の息子を掴んだままでいることに気付いて、飛燕が「ああ」と空っとぼけてみせた。
「おお、悪ィ悪ィ。しかしおめえも立派になりやがったなぁ。赤ん坊の頃はこーんなに小ちゃくて可愛らしかったもんだが」
 飛燕がイチモツを指差しながら感心顔でいる。
「アホか! 赤ん坊んチンコと比べるって……頭おかしいんじゃねえか、おい!」
「だが本当に可愛いモンだったぞ? おめえは覚えておらんだろうが、今は亡き母さんなんかソイツをチュウチュウ舐めてたこともあったなぁ」
「……ッ!? ンギャアーッ! それ以上言うな! な、な、な……何アホなこと言って……」
「照れるこたぁねえ。我が子に対する最高の愛情表現ってやつだろ。大概はどこの親も一度くれえは――」
「ぐわー! それ以上言うなってのー! つか、てめ……! ちったー道徳心っつか……羞恥心ってモンがねえのか、ったくよぉ……」
 何ともくだらない言い合いをしていると、襖の陰から鈴なりになってこちらを覗いている視線に気が付いて、紫月は大口を開けたまま蒼白顔で目を白黒とさせてしまった。なんと源次郎以下全員が座敷の様子を気に掛けて見物にやって来ていたのだ。
「ゲ……ッ!? 皆んな……まさかずっと見てたってか?」
 あわあわと蒼白の紫月に対して飛燕は可笑そうに笑っている。
「皆んなも気に掛けて見守ってくれてたんだろう。有り難えことだ」
「くぁー……こっ恥ずかしいったらねえぜ……一生の不覚だ、こりゃあ!」
 参ったとばかりに額に手をやって落ち込む紫月のゼスチャーに、またしても皆からドッと笑いが起こって、座敷内は朗らかな笑みであふれていったのだった。



◆71
 同じ頃、僚一の方では美濃屋での客あしらいを終えて抜け出して来た酔芙蓉と対峙していた。傷のメイクも施したことだし、とりあえずは万全の体制といえるものの、入れ替わったことに気付かれないよう念には念を入れて部屋の灯りはすべて落とした真っ暗がりの中で彼女がやって来るのを待っていた。
「主さん? おや、灯りも点けないで! 気分はどうだい?」
 真っ赤な紅を差した唇が暗闇の中でも艶やかに目を引いている。
「晩ご飯を持って来たよ。すぐにお酒の支度をするからね」
 女は甲斐甲斐しく膳を整えると、それらを持って布団の上でぼうっと座ったままの僚一の元へと運んできた。
「ほら、お食べよ。あんた、昨夜っから何も口にしてないんだろ? 少しでも食べないと身体がイカれちまうよ」
 おひつから白飯をよそい、真っ白な粉化粧の手で差し出してくる。それを受け取らんと無意識に手を差し出した時だった。突如、女が椀を引っ込めて、立て膝をつき二、三歩後ろへと飛び退いた。
「お前さん……いったい誰だい!?」
 物凄い形相で睨みながら警戒しているようだ。まさかこんな暗闇の中で入れ替わったのがバレるわけもなしと僚一の方が驚かされてしまったほどであった。
「昼間の男じゃないだろう……。いったいどういうつもりだい!?」
 女が凄みのある声で食って掛かってくる。さすがの僚一も参ったというところか、フッと笑むと、
「何故そう思う」
 面白そうに女に向かって問い掛けてみせた。
「何故だって!? そいつはこっちが訊きたいね! アタイは男に関してはプロだよ! 昼間のヤツとお前が別人だってことくらい見抜けないとでもお思いかい! 舐めんじゃないよ!」
 女は言うと、すぐに仲間を呼ぶべく立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「待て!」
 すかさずその白魚のように化粧の乗った手を掴んで引き留めた。
「何するんだい! 大声出すよ! お放し!」
「まあ待て。いや、大したもんだ。おめえさんを見くびったことは謝るぜ」
 僚一が素直に頭を下げると、女も一瞬戸惑ったようにして大きな瞳を見開いてみせた。
「まあ座ってくれ。お前さんにちょいと頼みがあるんで」
「……頼みだって? ふざけたこと抜かしてんじゃないよ……アタイが素直に敵の言いなりになると思っておいでかい!」
「敵――ね。だったらお前さんにここの任務を言いつけた男たちがお前さんの仲間ってわけか? 俺にはそうは思えんがな。千束にある高級料亭”芙蓉”の女将になるはずだった――蓉子さんよ?」
 僚一の言葉に女はギョッとしたように瞳を見開いた。
「何で……そんなことを知ってる……? あんた、いったい……何者だい……」
「おめえさんがこの道のプロなら、俺もまた別の意味でのプロだと自負している。あんたのことは既に調査済みさ」
 あまりにも驚いてか、呆然としたように突っ立ったまま動けずにいる女の手をやさしく握りながら、僚一はクイと彼女を懐へと抱き込んだ。



◆72
「な、何するんだい! お放し……!」
 女はジタバタともがいたが、男の腕の中に抱え込まれては思うようにはならない。頬と頬とがくっ付くほどの近距離で見上げた男の面立ちは、昼間見た若い男を渋くしたような男前である。整った眼差しを細めて穏やかに笑む彼の胸元からは、うっすらと立ち上る仄かないい匂いが感じられて、女はいみじくも染まった頬を隠さんとそっぽを向いてみせた。
「蓉子さんよ、女将になる目前だったってのに、どうしてあんたはこの地下世界で遊女をしている? 何があったか詳しく聞かせて欲しいんだがな」
 僚一は周らと別れた後で、すぐにこの酔芙蓉という女について調べを進めていたのだ。それによると、彼女は元々千束にある高級料亭で中居をしていたのだが、熱心な仕事ぶりと美しい器量を買われて女将に抜擢されたものの、どういうわけかその直後に姿を消してしまい、行方知れずとなっている蓉子という女だということが分かった。
 料亭芙蓉といえば、政界の大物や有名俳優などもお忍びで使うという老舗中の老舗だ。浅草が近いことから芸妓たちも頻繁に出入りしていて、宴の後の秘密裏の接客もなされているという暗黙の了解の店としても有名であった。いわばクラブのアフターと同じで、芸妓たちを斡旋したりもするというわけだ。そこの女将を務めるには、それ相応の度量がなければならないことは自ずと想像がつく。客の秘密を厳守するのは鉄壁の掟であり、酸いも甘いも熟知したプロでなければ到底務まるものではない。
「料亭芙蓉の女将にまで抜擢されたあんたがどんな理由でここに来たのか興味があるんでな。良ければ話しちゃくれねえか?」
 女も僚一が根っからの悪人ではないと踏んだのか、はたまた彼の渋い男前ぶりに魅せられたのかは定かでないが、これまでの警戒心を解いたかのように落ち着いた素振りでじっと見つめてよこした。
「わ、分かったよ……。あんたもなるほどプロってのは嘘じゃないようだね。確かにアタイは芙蓉の女将に抜擢された女さ……。でも……女将になった途端に運悪くアタイを後押ししてくれてた男が失脚しちまったのさ」
「失脚だと? するとお前さんに肩入れしてたってのは政治家かなにかか?」
「ふん……、あんたに嘘はつけないようだね。その通りさ。賄賂がバレるなんてヘマをするような人じゃなかったってのに」
 女は僚一に素性を言い当てられたことで一種認めるところがあったのか、素直にこれまでの経緯を話し出した。



◆73
「あの人が失脚した後、アタイ……いえ、アタシには彼が残した膨大なツケだけが残ったわ。あの人は確かに地位もお金もあったけど、店に来る時は大概がツケだった……。アタシもまさか踏み倒されるなんて思ってもいなかったから、気が付けばそれが当然のようになってたわ。今思えば甘かったとしか言いようがない。完全にアタシの落ち度だわね」
 これまでの話し方から徐々に普段の言葉使いへと変えながら女は苦笑まじりで経緯を話した。
「なるほどな。あの男は確かに力も資産もあるヤツだが、裏じゃ金に汚ねえという噂もあったからな。まさか飲み代までツケにしていたとは驚きだ」
 僚一が眉をひそめたのを見て、女はまたしても驚いたように首を傾げてみせた。
「あの男って……言ったね? あんた、アタシを騙した男のことまで調べたってわけ?」
 僚一の口ぶりから、いったいどこまで知っているのだと驚き顔でいる。
「いや、さすがにそこまでは知らなかったさ。だがあんたが姿を消した時期と賄賂で失脚した政治家と聞けば、誰のことかくらいは想像がつくというものだ」
「は……ホント大した人ね! そう、あの人が残したツケのせいでアタシは女将を解雇されたわ。膨大な借金を返すあてもなく途方に暮れていた時に、今の店、美濃屋のお父さんがアタシを救ってくれたってわけ。お父さんはお客としてよく料亭に来ていたから……アタシを不憫に思ってくれたんだと思うわ。借金を全額肩代わりしてくれて、アタシにこの地下の花街でやり直さないかって言ってくれた。それがここへ来たきっかけだったわ」
 だが、彼女が勤めて三月もした頃に例の輩たちがやって来て、街ごと乗っ取られてしまったということだった。
「奴らが来てからこの地下の街は様変わりしてしまった。芙蓉に勤めていた頃から顔馴染みだった芸妓ちゃんたちも次々とここへ連れられて来る子が増えて……中にはよく知っている子もいたわ。まだ若くて一生懸命いい芸妓になる為に見番で稽古事に励んでいた子たちもいて、そんな彼女たちが無理矢理遊女にさせられていくのを目の当たりにしたわ。中には修業したばかりの生娘だっているっていうのに……」
 そんな娘たちが色を売らされるのを見ていられずに、自分が美濃屋の御職となって稼ぎの為に貢献しようと思ったのだと女は言った。
「アタシは彼女たちと比べれば、既に汚れまくっている女だからね。こんなアタシでも若い芸妓ちゃんたちや美濃屋のお父さんの為に少しでも役に立てるならと思ってね」
 女は吐き捨てるように苦笑したが、その強がりとは裏腹に、どこか寂しげな瞳が諦めの胸中を物語っているようでもあった。



◆74
「なるほど、そうだったのか。これは是が非でもヤツらからこの街を取り戻さねばならんな」
 そう言った僚一に女は更に驚き、暗闇の中で瞳を見開いてみせた。
「取り戻すだって……? あんた……いったい」
「俺たちはその為にここへ来たんだ」
「俺たち……? じゃあもしかして昼間の男も……」
 そういえば昨夜連れて来られた若い男のほうはどこへ行ったんだとばかりに、女が部屋の中を見渡している。僚一は布団から立ち上がると押し入れの襖を開いて不敵に笑った。中には意識を失ったようにして昼間の男が横たわっている。女はますます驚いて絶句状態だ。
「……! そんなところに……」
「今は軽く峰打ちで眠らせてある。ヤツらに盛られた薬の影響もあるからな、当分は起きてこんさ。予定ではお前さんの目を騙くらかす為に俺がこいつと入れ替わるつもりでいたんだがな。お前さんのプロの目には完敗というところだ」
「……その人もあんたの仲間だっていうの?」
「俺の息子だ」
「息子!? あんた……その歳でこんなに大きな息子さんがいるっていうの……?」
 女は心底驚いているといった様子だ。
「なんだ、そんなに若く見てもらえるとは光栄だな」
 僚一がクスッと笑みを浮かべると、女は何とも言いようのない戸惑った表情で眉根を寄せてみせた。
「まあこいつがここへ捕らわれたことを知ったのは偶然だったがな。こいつの面倒を見るように言われたのがお前さんだったってのが不幸中の幸いってもんだ」
 僚一に言われて女は戸惑ったように瞳を震わせた。
「あんた……こんなアタシを信用しようっていうの?」
 元々はこの若い男を敵の手中に堕とす為に任務を言いつけられた女だ。そんな自分を信用できるのかと驚き顔でいる。
「できるだろ? お前さんはあんなヤツらの仲間でいるような女じゃあねえ。おれはそう思っている」
「あんた……いったい……」
「僚一でいい。俺の名だ」
「僚一……?」
「そうだ。鐘崎僚一。息子は遼二だ」
 名乗ったと同時に女はまたしても驚いたように大きく瞳を見開いた。
「鐘崎って……! じゃあまさか鐘崎組の?」
「ほう? うちの組をご存知か?」
「あ、当たり前よ! 鐘崎組といったら……芙蓉にいた頃からその名前はよくよく知っていたもの! 正直なところ、この街が乗っ取られてから……いつかはあの鐘崎組に助力を頼めればと思っていたわ。美濃屋のお父さんも事あるごとにそう話していたし、会所の四郎兵衛様たちもこうなったらもうプロの手を借りるしか道はないだろうって言ってらしたようだけど……」
 茶屋の主人たちは定期的に会合を開いては打開策に頭を悩ませていたそうだが、上納金は増える一方で外の世界との連絡手段も厳しくチェックされて動きが取れなくなっていったとのことだった。
「それでも街中の茶屋の皆んなで協力して、いつかきっと鐘崎組に助力を申し出ようって思っていたらしいの」
 それこそ常連客の中に伝言を頼めるような信頼に値する人物でも見つかればと期待していたらしい。当初、紫月らがここに連れて来られた時も同じことを考えていたわけだが、そういったところにだけは敵の目も厳しく、ここ最近では外に入り用の品を買いに出掛ける時でさえ監視がついて来る始末だったそうだ。
「結局……事態はどんどん悪くなっていって……今ではこの街の誰もがあいつらに逆らえなくなって、アタシたちは一生飼い殺しにされる運命なんだって諦めかけていたもの」
 そんな中にあっても自分を救ってくれた美濃屋の主人や無理矢理遊女にさせられた若い芸妓たちに少しでも苦労を掛けまいと、がむしゃらに客を取ってきたのだと女は言った。
「この酔芙蓉という源氏名も……美濃屋のお父さんがアタシの名前の蓉子と料亭芙蓉からつけてくれたの。いつかきっと本来のお前に戻れる日がくるからって。そういう願いを込めて……って言ってくれたわ。お父さんには返しても返し切れない恩がある。本当にこの街を取り戻せるならアタシはどんなことでもするわ!」
 女はすがるような目で僚一を見つめた。



◆75
「そうか。さすがは芙蓉の女将にまでなったあんただ。厳しい戦いになるかも知れんが、力を貸してもらえるか?」
 僚一は女の白魚のような手を取って穏やかに微笑み掛けた。
「蓉子でいいわ。もちろんどんなことでも協力する!」
 女は形のいい大きな瞳をキラキラと輝かせて、生きた視線で真っ直ぐに僚一を見つめた。
「そうか。ありがとうよ、蓉子」
「ううん、アタシの方こそ! ここであの鐘崎組の組長に出会えたなんて奇跡だもの! 四郎兵衛様やお父さんたちもこのことを知ったらどんなに励みになるか知れないわ! それで……アタシは何をすればいい?」
 頼もしい言葉に僚一も瞳を細めてうなずいた。
「今しばらくはヤツらの思い通りに事が運んでいると思わせておきたい。その間に俺たちの方で敵の戦力を削ぐべく片付けたいことがある。俺がここに張り付いていられない間、あんたには息子の面倒を見てもらいたいんだが――頼めるか?」
 僚一は息子が非常に危険なDAという薬物を盛られたことを打ち明けると、当面は敵から渡されるその薬を盛り続けているように見せ掛けながら、密かに息子の世話をしてやって欲しいと頭を下げた。
「あの薬……そんなに厄介な物だったのね……。分かったわ、ご子息のことは任せてちょうだい。アタシが責任を持ってお世話をさせてもらう!」
「ありがとうよ、蓉子!」
「ううん、アタシこそ!」
 そんな話をしていると、邸の玄関口が開く音がして、数人の男たちがやって来た気配を感じた。
「アイツらだわ! きっと……アタシがあなたの息子さんをモノにできたかどうか確かめに来たんだわ!」
 蓉子は急いで押し入れの襖を閉めると、そこに風呂先屏風を立てて部屋の隅にあった座布団やらを雑多に積み上げた。わざと部屋を散らかして容易には押し入れに近付けないようにする為である。それと同時に急ぎ纏っていた着物を脱いで襦袢姿を晒すと、
「僚一さん、あなたも早く脱いで!」
 手際よく僚一の羽織っていた着物を脱がせて、慌てて布団の中に引き入れた。
「いい? あなたには催淫剤が盛られていることになっているの! とにかくアタシを求めている現場をアイツらに確認させなきゃならないわ! 出来るだけ調子を合わせて!」
 蓉子は布団に包まって僚一の広い背中に腕を絡み付け抱きついた。
「よし、分かった。そんじゃちょいと失敬するぜ」
 僚一も彼女の意を汲み取ると、その細い肢体に馬乗りになっては彼女を抱き締めた。
 そっと部屋の障子が開かれ、男たちが中の様子を覗き込んでくる気配を察知する。どうやら相手は二人か三人連れのようだ。聞き耳を立てながらこちらの様子を窺っているのが分かる。蓉子は彼らに聞かせるようにとびきり妖艶な色っぽい嬌声を上げてみせた。



◆76
「ん……ッ、主さん……! いい……いいわ。もっと……もっと来て!」
 僚一も蓉子に合わせて夢中で彼女にかじりつき、勢いよく腰を振る仕草で布団を揺らす。むろんのこと本当に身体を繋いでいるわけではないのだが、そこは男に関してはプロ中のプロである蓉子と、酸いも甘いも熟知している僚一のことである。男たちを騙すのなどわけもないといったところだ。
「ああん……! そう……そうよ! もっと……! もっとちょうだい!」
「ん……ッ、は……! なんていい女だ……! 堪らねえッ……」
 荒い吐息と色香に満ち溢れた嬌声で真っ暗闇の部屋は瞬く間に淫らな色で埋め尽くされていった。
 しばらくすると男たちは納得したのか、そっと障子を閉じて去って行く気配が感じられた。
『見たか? さすがは酔芙蓉だ。上手く傷野郎をモノにしやがった!』
『ああ。羨ましい限りだぜ! こっちにもちったぁおこぼれを与りてえこった!』
 男たちは満足げに高笑いを繰り返すと、すっかり信じ込んだまま邸を出ていった。その様子に聞き耳を立てながら息を殺す。
「ふう……! 何とかごまかせたようね」
 蓉子がホッと肩の力を抜いては安堵の言葉を口にする。
「ああ、お前さんのお陰だ。あいつらの言葉じゃねえが、さすがだな」
 僚一は心からの賛辞を込めて蓉子の上から退くと、労うようにその肩を抱き包んで腕枕をしてみせた。
「感謝している、蓉子。お前さんのお陰だ」
「そんな……! でも上手く騙せて良かったわ」
「ああ、ひとまず安心だ。それはそうとお前さん、今からまた美濃屋に帰るのか?」
 そっと穏やかに笑みながら問う。
「いえ……、美濃屋での仕事は切り上げてきたから、朝まではここに居られるわ」
「そうかい。だったら今夜はゆっくり休みな。お前さんもずっと辛抱続きでしんどかったろうからな」
 蓉子としてはこのまま本当に抱かれたとて構わないと思っていたようだが、僚一は状況に乗っかって踏みにじるようなつもりは更々ない様子だ。ゆっくり休めとやさしく腕枕をしてくれている。
 蓉子はそんな扱いを嬉しく思うと同時に、心の深いところでは幾分残念に感じることを自覚して、何とも曖昧な心の揺れに瞳を細めてしまった。
「あんた、ホントにそれでいいの……?」
「いいって、何がだ」
 演技とはいえ裸同然でひとつ布団の中で肌を重ねたこの状況で、何もせずに肩を並べて眠るだけとはさすがに男にとっては辛いのではないかと危惧したわけだ。だが、隣の僚一は何事もなかったかのように平然としている。

(嫌だね、アタイったら……。この人は普段アタイを目当てにやって来るお客や……さっきのアイツらとはワケが違うんだよ。しかもあんなに立派な息子さんがいるんだもの。きっと奥様も素敵な方に違いないわね……。まかり間違ったってアタイのことなんか鼻も引っ掛けるワケないってのにさ。何を期待しているんだか……)

 紳士的に気遣ってもらえることが嬉しくもあり、だが裏を返せば欲情すらしてもらえないことが寂しくもある。蓉子はフイと切なげに瞳を細めると、
「本当にイイ男……。憎らしいくらいだよ……なんてね?」
 わざといつもの女郎言葉で甘えるように僚一の腕枕に頬を擦り付けた。
「ありがとう、アタイのイイ人。主さん。おやすみなさい……」
「ああ、ゆっくり休めよ」
 そっと瞳を閉じた女の髪をやさしく撫でながら、僚一もまたしばしの眠りについたのだった。



◇    ◇    ◇



 それから数日かけて、僚一らは武器庫に保管されている物を少しずつ外の世界へと運び出す作業に移っていった。源次郎が手配した鐘崎組の若い衆らが桃の節句を飾り付ける大工に化けて街の至る所で目を光らせる。食材を運び入れている業者たちにも協力してもらい、一週間が過ぎる頃にはすっかり武器庫を空にすることに成功した。
 その間、薬を盛られた鐘崎の世話は蓉子が甲斐甲斐しく面倒を見てくれたお陰で、容態のほうも大分安定してきたといったところだった。
 鐘崎は親身になって身の回りの世話をしてくれる女の存在を不思議に思いながらも、未だに自分がどこの誰なのかを思い出せずに苦しんでいた。



◆77
「あんたはいったい誰なんだ。何故俺に良くしてくれる。もしかして……家族かなにかか?」
「家族? あら、いやだ。そうじゃないけれどね、アタシにとってもあなたが大事な人だっていうのは本当よ? 心配しないで。きっと思い出せる時が来るわ。それまではアタシを信じて、言った通りにしていてちょうだい。アタシなんかよりも、もっともっとずっとあなたを大事に思っている人たちが必ず助けてくれるから!」
 蓉子は毎晩息子の様子を見にやって来る僚一から、男遊郭の花魁をしている紅椿が息子の伴侶だということや、彼らが遊郭で働かされる為に外の世界からここへ拉致されてきたことなどを聞き及んでいたのだ。彼女自身は鐘崎よりも幾分年上ではあったが、日々世話を続ける内に弟ができたような感情が芽生えていったようだ。
「大丈夫。絶対に記憶を取り戻せると信じて、もう少し辛抱してちょうだい。今はとにかく体力をつけることが何より大事だわ」
 身体が良くなれば気力も湧いてくる。蓉子はそう信じて栄養のある根菜を使った消化の良いスープなどを自らこしらえては鐘崎に与え続けたのだった。
 そうしていよいよ桃の節句の祭りの日がやってきた。街を上げての花魁道中が催されるとのことで、見物客たちでいつも以上に賑わいを見せている大通りには華やかな桃の花が飾られ、芳しい香りで埋め尽くされていた。
「いよいよ今夜だわね」
 蓉子は僚一に言われた通りに花魁道中が催される時間になると、密かに鐘崎の手を取って邸の外へと連れ出した。敵がアジトにしている最端の祠から三浦屋のある大門の近くまで急ぎ足で小走りを続ける。
「おい、あんた……何処へ行こうってんだ……?」
 蓉子の介抱のお陰ですっかり体調を取り戻した鐘崎が不思議顔で訊く。
「ふふ、今宵は桃の祭りなの。この街きっての大掛かりな花魁道中が催されるわ。あなたの体調もだいぶ良くなってきたみたいだし、それを見物に行こうと思ってね。そりゃあ雅なんだから!」
 あなたもそれを見れば少しは気分が晴れるわと言って蓉子は笑ったが、内心はドキドキとしていて、祈るような心持ちでもあった。
 薬によって記憶を奪われたこの彼が生涯唯一無二として望んだ伴侶の花魁――紅椿の道中を目にするわけである。その姿を見ることで記憶が取り戻せればと切に願う。それと同時に、自分たちが邸から消えたことに敵が勘付かないわけもない。遅かれ早かれ追手が捜しにやって来るだろう。万一の時は桃の祭りを見物しに出ただけだと言ってごまかせと僚一にも言われていたが、はたして無法者の彼らが素直に聞き入れてくれるかは五分五分といったところだ。蓉子にとっても乾坤一擲の賭けに変わりはない。無事にこの彼が記憶を取り戻すことさえできれば道は開けるはずだ。蓉子はまさに神に祈る気持ちで大通りを急いだのだった。



◆78
 そうして街の入り口の大門が見えてくる辺りまで来ると、ちょうど三浦屋の前辺りで艶やかな花魁道中が始まった頃であった。通りの右側を遊女である花魁が江戸の頃そのままに雅な着物を纏って道中を繰り広げている。反対の左側では粋に着崩した着物から色香漂う生肌を覗かせた男花魁が、遊女の花魁とすれ違うようにして闊歩して歩く。その周囲では見物客たちが黒山の人だかりとなって大賑わいであった。
「始まっているわ! ほら、あなたもご覧なさいよ。あれがこの街きっての太夫たちよ!」
 鐘崎の袖を引っ張って蓉子が花魁を指差した。
 一方、あふれかえる群衆の中に蓉子と鐘崎の姿に気付いた紫月は、僚一からその過程を聞いていたこともあり、フッと雅やかに笑んでみせた。前を歩く導き役の下男、春日野の肩をトンと叩いて歩をとめる。それを合図に道端で控えていた源次郎らが大通りに大きな赤い傘と長椅子を出して、粋な仕草でその上に真っ赤な毛線を広げてみせた。
 そこでいよいよ男花魁紅椿を所望する客、レイの出番である。花魁の前に歩み出ると、紳士な物腰で手を差し出して丁寧に一礼をしてみせた。
 すると花魁紅椿も用意された長椅子の上へと腰を落ち着けて、禿が差し出した煙管を受け取り、それに火を灯した。ふうと粋な仕草で一服を含んでは気高く微笑む。名乗りを挙げた客レイに向かって手にしている煙管を差し出せば、今宵の契りを受け入れるという合図である。見物客たちは今か今かとその経緯をワクワクとしながら窺っていた。
「よッ! 花魁紅椿!」
「粋だねぇ!」
「その紳士に煙管を渡しなさるか、なさらぬか!」
 群衆の中からそんな掛け声が飛び交っては、桃の祭りは最高潮に盛り上がりをみせて湧く。
 蓉子は鐘崎の腕を取ると、群衆を掻い潜って見物客らの最前列へと歩み出た。
「ご覧よ、あれが男花魁紅椿さ!」
 グイと鐘崎の背を押して、その瞳に紅椿の姿を見せつける。

「……!?」

 すると、鐘崎はその姿を一目見るなり何かに掻き立てられるように険しく眉根を寄せてみせた。
「紅……椿?」
「そうよ。彼の前で跪いている男がいるでしょう? あの紳士に煙管を差し出せば紅椿が今宵の契りを受け入れるという合図なのよ!」
 あなたはそれでいいの? と尋ねるように蓉子は鐘崎の袖をグイグイと引っ張ってみせた。

(思い出しておくれ! 彼はあんたのこの世で一番大事なお人じゃないか! 頼むから思い出して!)

 ぐずぐずしていると敵がやって来る。今頃はアタイたちが邸から消えたことに気付いているだろうからね。追手が来る前にどうか思い出して!

 蓉子は祈るような気持ちで手を合わせるのだった。



◆79
 フラフラと引き寄せられるように鐘崎が通りの中央へと歩み出る。

 一心不乱といった調子で食い入るように花魁の姿を見つめながらも、苦しげに瞳を歪めては何かを思い出そうと必死な形相でいる。

 それを横目にレイがわざと見せつけるように花魁紅椿の側へと寄り、色白の顎をクイと持ち上げて自らの腕の中に抱き込もうとした。その時だった。
 無意識にレイの腕を鷲掴んで何か言いたげに拳を震わせる鐘崎の行動に、沿道からは一際大きな歓声が巻き起こった。
「いよッ! ライバルのご登場かい?」
「いいぞ、兄ちゃん! 行け行けー!」
「さあどうする紅椿! どっちの男を選びなさるか!」
 野次馬たちの掛け声にチラリと紅椿の紫月が鐘崎を見遣り、吸い寄せられるように二人の視線と視線が重なった。
「おや、主さんもわちきを御所望かえ?」
 ニッと企んだように瞳を細めて笑う紅椿を見つめながらも未だ苦しげに戸惑っている鐘崎を制するようにレイが割って入った。
「おい、若いの! いい覚悟してんじゃねえか。だが横恋慕は無粋ってもんだぜ?」
 こちらもニヤニヤとしながら紅椿は渡さないとばかりに挑戦的な態度で仁王立ちしてみせる。
「横……恋慕?」
 やっとのことでそう口を開いた鐘崎に、
「そうさね! この紅椿は俺様が買おうと先に名乗りを挙げたんだ。それを横から掻っ攫おうなんざ無粋ってもんだろうが」
 事と次第によっては一戦受けて立つぜとばかりに威嚇を口にする。花魁の前に立ちはだかるようにして勝ち誇ったように笑ってみせた。
「それとも何かい? この俺から奪い取ろうってのか? お前さんにそれだけの覚悟があるってんなら見せてもらいてえもんだな!」
「覚悟……?」

 覚悟――遠い昔にどこかで聞いたような気がするそのひと言が妙に気持ちを逸らせる。

「覚悟……」

 どこでだったか、そしてそれは誰の言葉だったのか――。
 鐘崎の脳裏にその言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えして、ザワザワと心を乱す。
 もうそこまで出掛かっているのに肝心な何かが思い出せずに歯痒さだけが心を震わせる。
 まるで濃霧の中で目の前の霧をいくら掻き分けようにもその先にはどうやっても辿り着けない――そんな気持ちだった。

「どうなんだ、若えの! この紅椿の為に俺とやり合う覚悟があんのかって訊いてんだ!」
「覚悟……紅椿……覚悟……」

(そうだ、この言葉を知っている。確かに知っている。酷く大事で絶対に譲れねえ何かだったはず……。だが……それが何だったのかが思い出せねえ……)




◆80
「クソ……ッ、どうして……」
「返事がねえってことはやり合う気もねえってことでいいな? だったらさっさと消えてくんな!」
「……待て……。待ってくれ……!」
「この後に及んでまだ邪魔しようってか?」
 勝ち誇ったように笑うレイと鐘崎が面つき合わせたままで時が止まる。一触即発の睨み合いに沿道の野次馬たちは大盛り上がりだ。
「いいぞー! 兄ちゃん、やっちまえ!」
「おえ、若えの! 俺っちはおめえさんの味方につくぜ! いい歳こいて洒落っけ気取った成金野郎なんぞに負けるんじゃねえ! 奪い取ってやれ!」
「そうだそうだ! 男なら覚悟を見せつけてやんな!」
「それならわしはこっちの紳士に肩入れしてやるぞ! 若いヤツなんぞに譲ることはねえ!」
 やいのやいのと二手に別れて群衆までもがレイ側と鐘崎側に割れる。あわや乱闘寸前の盛り上がりに、
「おやおや、ちょいとやめなんし!」
 花魁紅椿のハスキーな美声が轟いた。

 一瞬、盛り上がっていた場がシーンとなり静寂を取り戻す。

「どなたさんも落ち着きなんし!」
 腰掛けていた縁台から優雅に立ち上がると、紅椿の白魚のような手がスッと伸びて鐘崎の着物の襟を鷲掴んだ。
「わちきが欲しいんかえ?」
 企むように笑うと同時に勢いよく掴んだ襟ごと引き寄せて、これまでの花魁言葉を一転――、戸惑う鐘崎の耳元にドスを効かせた低い声音を浴びせ掛けた。
「俺が欲しいか? だったら思い出せ」
「お……もい出す? 何……を?」
「俺が何故”紅椿”を名乗っているか分かるか?」
「……? 何故……って、それがあんたの源氏名だからだろう?」
「ふ――、ただの源氏名じゃあねえ。紅椿ってのはな、この世で一等大事な男の肩に彫られた”覚悟”の証だからだ」
「大事な……男……? 覚悟の……あか……し?」

 覚悟――ここでもまた”覚悟”という言葉だ。それが自身にとって非常に大切な何かであることだけははっきりと分かるものの、何に対する覚悟なのかが思い出せない。
 だが、この紅椿という男を目にした瞬間に理由もなく心が逸り、無意識の内にもフラフラと彼を目指して歩を踏み出してしまっていたことは確かだ。今こうして面と向かって話していても、ドキドキと高鳴り出す鼓動は早くなるばかり――。
 きっと彼は自身にとって大事な何かを知っている。
 知っているなら教えて欲しい。思い出させて欲しい――そんな思いが鐘崎の心を揺さぶってならなかった。

「思い出せ、遼。俺が欲しいなら、てめえのこの手で奪ってみせろ!」
「遼……? 誰のことを言っている……」
「さて、誰のことだかね?」
「あんたは……何を知っている? 俺のことも見覚えがあるようだが、あんたと俺はいったいどういう関係だったんだ? 昔からの知り合いか? 俺は今――何も思い出せなくて困っているんだ」
 もうすぐそこまで出掛かっている気がするのに、最後の霧が晴れてはくれない。すがるような視線でまっすぐに見つめてくる男に紫月はフッと口角を上げると、
「昔からの知り合い――ね。ンな甘っちょろいもんじゃねえが――な!」
 ニヤっと笑みながら語尾に力を込めると、掴んでいた襟をグイとはだいて彼の肩先に咲く彫り物をあらわにしてみせた。その瞬間、沿道からは大きなどよめきが湧き起こった。
「おお……!」
「見ろ! 紅椿だ……」
「ひぇやぁ! たまげたねえ……! ありゃ本物か?」
 再びザワザワとし出した周囲の喧噪を掻き消すようにして鐘崎の脳裏に誰かが会話している声が浮かんでくる。
 一人は紛れもなく自分だろう。それに相槌を打っているのは――少しハスキーな男の声――だ。
 その声を、その独特のクセのある話し方を聞いているだけでも心がギュンギュンと音を立てて引き寄せられるような気がする。
 ずっと傍で聞いていたい。
 ずっと一緒に話していたい。
 他の誰にも渡したくはない。
 自分だけのものにしておきたい。そんな衝動をも感じさせるような懐かしい――声だ。



Guys 9love

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