極道恋事情
◆1
それは或る日の昼食後のことだった。商社を経営している周焔が秘書兼伴侶の冰と側近の李と共にクライアントとの打ち合わせを終えた帰り道でのことだ。少々遅めの昼を外食で済ませ、店を出た所で偶然に起こった。
「氷川社長……? 氷川社長ではありませんか?」
突如呼び止められて振り返った先には驚き顔でこちらを一心に見つめている一人の男の姿があった。”周”ではなく”氷川社長”と呼ぶところをみると、社を通しての知り合いなのだろう。どうやら彼の方は出立ちからして休日のようだ。ラフな服装の上、連れの女性が一人とまだ小学校に上がる前くらいの子供が二人一緒である。誰が見ても一目で家族だと分かる具合だった。
今日は土曜ということもあって、本来であれば周の社も休みなのだが、取引先の希望により休日返上で打ち合わせに出掛けた帰りというところだった。場所は銀座の大通りに面した老舗鰻屋の目の前である。
「……? お前さん、確か――」
「香山です! 以前御社の営業部でお世話になっておりました」
男が名乗ったと同時に、周も李も「ああ」と思い出したように瞳を見開いた。
「香山か。元気だったか?」
周にそう声を掛けられると香山と名乗った男は興奮気味というくらい嬉しそうに頬を紅潮させながら瞳を輝かせた。
「お、覚えていてくださって光栄です……! お久しゅうございます!」
「ああ――かれこれ七、八年ぶりくれえか」
「はい……! その節はお世話になりました」
深々と頭を下げる彼の後ろでは家族と思える三人が遠慮がちにしながらも上目遣いでじっとこちらを見つめている。
「そちらはご家族か?」
周が気を利かせて軽く会釈をすると、
「ええ、まあ……」
男は紹介するでもなく、なんとなくバツの悪そうに苦笑ながらも恐縮したように頭を掻いてみせた。気のせいかも知れないが、咄嗟に家族の前に立ち、彼らを隠すような仕草を見せる。周も李も不思議に思い、チラリと視線だけで互いを見やってしまった。
香山と名乗ったこの男が周の社に勤めていたのは、現在の汐留に移る以前のことだった。まだ賃貸の雑居ビルにいた時分で、起業して間もなくの頃である。彼は新卒で入社してきて営業部に在籍していた。歳の頃は周と大して変わらず、確か一つか二つ下だった記憶がある。香山の方は自分と同い歳くらいで既に社の代表として切り盛りしていた周に尊敬の念を抱いていたようだ。
その頃の社は現在の汐留のビルのように巨大ではなかったこともあり、社長と社員とが頻繁に顔を合わせられる距離感だったので、周も李もこの男のことは覚えがあったのだ。
仕事は可もなく不可もなくといった感じで特に”デキる”男という印象ではなかったのだが、入社して一年もしない内に実家の家業を継ぐといって退職していったので、ある意味他の社員に比べれば印象に残っていた感がある。彼の実家というのは九州の博多にあり、確か事務用品や小中学校の教材などを扱う小売店を営んでいたはずだ。
◆2
当時は独身だった彼だが、地元に帰って家業を継いでから割合すぐに結婚したのだろう。子供の年頃を見れば聞かずともそんな経緯が窺えた。
しばらく経っても男が家族を紹介する気がないようなので、またもや気を利かせた周がそれとなく話題を変えた。
「奇遇だが元気そうで良かった」
「はい、あの……自分もまさか社長にお会いできるなんて思ってもみませんでしたので……光栄です」
「恐縮なことだ。それじゃ我々はこれで失礼させてもらうが、元気でな」
家族も手持ち無沙汰のようだし、なんとなく雰囲気からして邪魔になってはいけないと思い早々に切り上げようとしたが、どういうわけか男は慌てたようにして引き留めの言葉を口にした。
「あ、あの……っ!」
「――?」
「あ、すみません。お忙しいですよね……」
「いや、構わんが」
「……お引き留めしてすみません。会社の場所、移られたんですね。実は今回久しぶりで東京へ出て来るからと思ってネットで調べたんです。懐かしい思いもありましたし……外から社のビルだけでも見られたらと思いまして」
そんな思いからネット検索をし、そこで初めて社の場所が移転したことを知ったのだという。
「お陰様でな。今は汐留だ」
「ものすごく大きくなられていて驚きました。社員の方も増えられたんでしょうね。自分が勤めていた頃の同僚とか……まだ居るのかな」
「そうだな。以前の社屋から付いてきてくれた者も多い。おそらくお前さんが勤めてくれていた頃の同僚もいるだろう」
実のところ、この香山以外の社員は寿退社をした女性たちを除けばほぼ全員が今も勤めてくれているのだが、そうはっきり言えば辞めた彼に対して気を悪くさせかねない。よって、このように言葉を濁したわけだ。
「そ、そうですか。ヤツらどうしてっかな。元気でやってるといいんですが……。たまには会いたいな……」
当の香山の方はといえば、自分から引き留めた割にはあまり核心のない話ばかりを振ってくる。見たところ必死で話題を探そうとしているようにも思えた。
まあ久しぶりの再会であるし、当時は経営者と社員という立場だったわけだから、ある種の緊張があるのかも知れない。周も当たり障りのない返事を返していたが、ここは人の往来も多い飲食店の店先だ。そろそろ引き上げ時であろう。
行き交う人の流れの邪魔にならないようにと道端に避ける仕草を繰り返す周と李の仕草を見ていた香山の方も、さすがにこの場で長い立ち話はまずいと感じたようである。ただ、避ける度に人の流れからかばうようにして周が一緒にいる男の肩に触れる仕草を不思議に思ったのか、
「あの……そちらは?」
冰を見やりながら男がおずおずとした感じで訊いてきた。
「ああ、こいつは俺の家族だ。今は秘書をしてくれている」
周が紹介すると同時に冰がにこやかにしながら「初めまして」とお辞儀をすると、何故か彼はホッとしたように肩を落としてみせた。
「ご家族ですか。どうも初めまして。弟さんかな? 社長にはたいへんお世話になりました」
「あ、いえ。こちらこそお世話になっております」
冰が律儀に返したが、正直なところそれ以上は話題も続かない。連れの子供たちがぐずり出したのを機に香山一家とはその場で別れることとなった。
◆3
「ねえあなた! 今の人、前に勤めてたところの社長さんだったの? すっごいイケメンでびっくりしたわ! 紹介くらいしてくれればいいのに」
周らと別れた後で香山の女房らしき女が名残惜しそうに恨み言を口にしている。子供たちは子供たちで、早く買い物やら次の予定に移りたい様子だ。
「ママぁ、早く行こうよー。お腹空いたぁー!」
一人は男の子で、母親の腕を引っ張り全体重を掛けるようにして焦れている。もう一人は彼の妹だろうか。少しばかり歳下に見える女の子だが、こちらは母親と同様に今さっき会ったばかりの周たちに興味津々のようだ。照れの裏返しなのか、わざと興味のなさそうにツンと唇を尖らせながらも、
「なぁに、あの人たち。パパの知ってる人なの? なんか大っきくて怖ーい」
言葉とは裏腹にソワソワとしながら周らの後ろ姿をチラチラと目で追っている。こんな小さな子供でも見目良い者に対しては無意識にも興味を惹かれるものなのかと驚かされる。香山という男はやれやれと溜め息ながらも気を取り直したようにして苦笑を浮かべてみせた。
「さあ、それじゃ行くぞ。待たせて悪かったな」
一家は周らとは反対方向に向かって歩き出す。機嫌を取り戻した子供たちが小走りするのを慌てて追う女房の姿を何とはなしに視界に映しながら、遠慮がちに後ろを振り返る。人並みにまぎれても頭ひとつ抜きん出ているような長身の周は、目を皿のようにして捜さずともすぐに見分けがつく。香山はそんな周の背中を見送りながら、しばしぼうっとその場に立ち尽くしていた。
「あなたー! 何してんの? 子供たち見るの手伝ってよー!」
不満げな女房の呼び声でハッと我に返る。そのまま急ぎ足で家族の後を追い掛けて行った。
一方、周らもまた車までの道のりを歩きながら香山についての話題が上っていた。当時、直接社員らを取りまとめていた李は、周に比べれば何かと詳しいようだ。
「確か彼のご実家は九州でしたね。家業を継がれるとのことでしたが、しっかりやられているようでなによりです。お子さんもできて順風満帆というところでしょう」
「ああ。元気にやっているようだな。久しぶりにこっちに出てきたらしいから観光かなにかか」
「今はちょうど春休みですから。もしかしたら泊まりがけで湾岸のテーマパーク辺りがお目当てかも知れませんね」
二人の話を聞きながら冰も興味深げにしている。もっとも彼の関心は香山ではなく周が起業した当初の頃のことのようだ。
「白龍が日本に来たばかりの頃の会社かぁ。どんな所だったのか見てみたかったなぁ」
冰が来日した時は既に汐留に移っていたから興味があるのだろう。
「当初は賃貸の雑居ビルだったからな。行ってみたけりゃ今度連れて行ってやるぜ?」
起業当時のことに冰が関心を寄せてくれるのが嬉しかったのか、周の機嫌も上々のようだ。
「いいの? うわぁ、楽しみだなぁ」
冰としては若かりし頃の周がどのように過ごしていたのかを想像するだけでワクワクするらしい。
「ビル自体はまだ健在だし、場所的にもここからすぐだからいつでも連れてってやるさ」
「ホント? この近くなら銀座?」
「日本橋だ」
「へえ、日本橋で始めたの? すごい! 一番最初から東京の一等地で会社を立ち上げちゃうなんて! やっぱり白龍はさすがだなぁ」
尊敬の眼差しで見上げながらも頬を染める伴侶に、周もまたより一層愛しさを感じるのだった。
◆4
そんな二人にとって驚かされる出来事が起こったのは週が明けた月曜のことだった。なんと一昨日に会った香山が汐留の社屋を訪ねて来たからである。
それはもうすぐ昼になろうという時刻だった。今日はクライアントとの打ち合わせもなく比較的のんびりとしたスケジュールだったので、ランチをどうしようかなどと李と劉も含めた四人で朗らかに相談していた時であった。受付嬢の矢部清美から少々困惑したような声で内線が入ったのだ。
清美は一等最初の時、冰が訪ねて来た際に著しく失礼な対応をしたことで李から営業部へと配置換えをさせられた経緯のある気の強い女性だ。だが社を思う気持ちには芯があり、受付嬢は社の顔だと誇りを持って臨んでいるところは尊敬にも値する。冰に対してもきちんと謝罪をして、尚且つ冰が拉致された際にも機転を利かせて即座に李に知らせてよこした功績が認められ、再び受付嬢に返り咲いたという逞しい存在でもある。以後は反省すべき点はわきまえて、客への応対も卒なくこなしてくれている、正に立派な社の顔である。そんな彼女がほとほと困った様子で内線をかけてきたものだから、李らは何事が起こったかと驚かされたわけである。
「実はアポイントはいただいていないお客様なのですが……」
客には聞こえないように気遣っているのか、声のくぐもり具合からするとおそらく来客の荷物などを預かっておくクローゼットスペースに篭って通話しているようだ。冰の一件以来、きちんと学習して気遣いの感じられる対応といえた。
「アポ無し――とな。例えそうでも仕事に関する要件ならば私が会うが」
ごくたまに突如飛び込みのような形で営業をかけてくる者もいる為、ゆくゆくは仕事が組める可能性もゼロではないので、アポイントがないからといって蔑ろにするのは浅はかというものだ。李は社長に代わって先ずは自分が会ってみてもいいと思ったようだが、話はそう単純なものではなかった。
「いえ、それが……仕事絡みのご用事ではないとのことでして。以前当社にお勤めになっていらした方なんだそうです。香山様という男性ですが、身なりなどはきちんとしていらっしゃいます。是非社長に面会されたいと申されておりまして……」
意外にも押しが強いらしく、それでひとまずは李に判断を仰ごうと思ったらしい。これにはさすがの李も首を傾げさせられてしまうこととなった。
「香山というと……例の香山か?」
一昨日偶然に街中で出会ったばかりの彼が一体何の用事があるというのだろう。すぐ側に周もいるので、これは本人に意向を仰ぐしかない。
「香山か。まあいい、どうせメシを食いに出ようと思っていたところだ。こちらから階下に出向こう」
周がとりあえず用件を聞くと言うので、李と劉、そして冰の四人でランチに出掛けがてらロビーで会うこととなった。
◆5
一方、香山の方では社長だけでなく李や劉、冰までが一緒に来たことに驚いているようであった。ヘンな例えだが、招かれざる者が一緒で困惑しているふうにも受け取れる。ということは、周自身にのみ伝えたいプライベートな用件があるというところか――。
「お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません。あの……恐縮ですが社長に少しお時間をいただけたらと思いまして」
言いづらそうにしながら視線を泳がせている。他の者には聞かれたくないということのようだ。それらを察した周が、
「これから出るところだが少しなら構わん」
李らには待機してもらうように言い、ロビー端に設置されている外が見える休憩用の応接セットに促して話を聞くことにした。当然李たちからも姿は見える位置だが、話している内容までは聞こえないだろう。
「それで俺に用というのは?」
周が訊くと香山は恐縮したように頭を下げてみせた。
「お仕事中に押し掛けてしまってすみません。実は夕方の新幹線で博多に帰るものですから……その前にもう一度お目に掛かってひと言ご挨拶をと思いまして……」
「そうか。丁寧にすまねえな」
「いえ、新しい社屋も見てみたかったので。本当に立派で……びっくりしました。つい昔のままの感覚でいましたが、今の社長は自分なんかが易々と会っていただけるような方ではなかったですね……。本当にすごいです」
「そんな大層なことはねえがな。こうして今も変わらずに社が経営できているのは皆のお陰だと思っている」
「はぁ……こんなに立派になられたのに自分なんかにも会っていただけて……有り難い思いでいっぱいです。自分も辞めずにいれば良かったと後悔していますよ」
「実家を継いでいるそうだな? 李に聞いたぞ」
「ええ。ですが自分のところは本当に小さな零細企業ですから。こちらとは比べ物にもなりません」
「そう謙遜するな。親父さんを継いでいるんだ。立派なことじゃねえか」
「……いえ、そんな。あ……りがとうございます」
たわいのない話ばかりでなかなか要件を言い出さない男に首を傾げさせられる。いくら昼休みとて、あまり李らを待たせたままにしておくのもと思い、そろそろ切り上げようと思った。
「わざわざすまなかった。元気でな」
そう言って立ち上がろうとした周を香山という男は慌てたようにして引き留めた。
「あの……社長!」
「――? どうした」
「よろしければ……連絡先を交換していただけないでしょうか。あの、自分のところは零細ですが……いつか仕事で何かのご縁をいただくことができるかも知れませんし……」
「ああ、構わんが」
周が名刺を差し出すと、香山は興奮気味で頬を紅潮させガバリと頭を下げてみせた。
◆6
「ありがとうございます! これは自分の名刺です!」
慌てた様子で鞄をまさぐり、名刺を差し出してくる。それと同時に周から受け取った名刺を両の手で大事そうに抱えては、穴が開くほどといった調子でじっと見つめていた。
”アイス・カンパニー代表取締役、氷川白夜”と書かれた名刺には社の住所と電話番号、ウェブサイトのアドレスなどが載っているが、紙質はしっかりとした厚めで洒落たデザインのものだ。それを食い入るように見つめながらもほんのわずか残念そうに眉を落とす。期待していた情報がそこには書かれていなかったからだ。
「あの……氷川社長。恐縮ですが、もしよろしければ携帯の番号などもお教えいただけたら有り難いのですが……」
おずおずと香山が言い掛けた時だった。タイミング良くかその携帯が鳴ったのに、二人して互いを見合ってしまった。
「ど、どうぞ出られてください」
「すまんな。ちょっと失礼する」
周が応答すると、相手は鐘崎であった。懐から取り出したスマートフォンの先には粋な組紐と見事過ぎるくらいの輝きを放つ宝石が揺れている。彼のような青年実業家が持つスマートフォンに女性が好みそうなストラップというのがイメージできなかったわけか、香山は思わず目を釘付けにさせられてしまった。やり手の男ならば一切の飾りがないシンプルな物を身につけている印象があったからだ。
「おう、どうした。ああ、今はロビーだ。ちょうどこれからメシに出ようとしてたところだ。ああ、じゃあ待ってるから降りて来てくれ」
短い通話を切って「すまねえな」と言う。
「これから仕事の打ち合わせが入っちまったんで失礼するが、気をつけて帰れよ。元気でな」
香山からしてみれば、今彼が手にしているそのスマートフォンの番号を知りたかったわけなのだが、こう言われてはこれ以上引き留めるのはさすがに言い出しにくい。香山は残念そうな顔つきながら、お時間を取らせてすみませんでしたと言って立ち上がった。
その間わずか五分くらいだったろうか、李ら三人は受付嬢のデスクの脇で立ち話をしながら待っていた。例の一件以来顔見知りとなった冰と清美は仲の良い同僚といった感じで世間話をしている。今は昼時なのでランチに行く社員らも多く、人の往来は多いがクライアントはやって来ないからちょうどいいのだ。そうこうしている内にエレベーターから鐘崎が紫月を伴って降りて来た。香山と別れた周も合流して出迎える。
「カネ! 一之宮も。珍しいな、こんな昼間っから」
「よう、氷川。突然に悪いな。ちょうどこっちに出てくる用事があったんだが時間が読めなくてな。予定よりもえらく早く済んじまったんで、お前の顔を拝みがてら昼メシでもどうかと思ってよ」
鐘崎と紫月が汐留を訪れる時は大概がツインタワーの周の邸側にある車ごとペントハウスに上がれる専用エレベーターを使う。まずは家令の真田に挨拶してから連絡通路を渡って社長室へと向かうのが通常となっているのだ。
◆7
「それじゃ食いに出掛けるか。冰と一之宮は何がいいんだ」
この面々が揃えば店選びは当然嫁たちのご要望に合わせるのが旦那組の道理というものだ。
「うっしゃ! 冰くんは何がいい?」
「紫月さんの食べたいものでいいですよー」
「マジ? いつもすまねえなぁ。そんじゃねー、俺行ってみたい店あるんだ!」
「もしかしてデザートのスイーツが豊富なところだったりして!」
「正解ー! 遼と氷川もそれでい? あ、李さんと劉さんはどうっすか?」
「構いませんよ」
「もちろんです!」
李も劉も紫月の甘い物好きは折込済みなので、にこやかに即オーケーの返事をした。
そんな彼らが社の玄関を出て行く姿を見送りながら、受付嬢の清美は同じくじっとその後ろ姿を見つめている香山に気付いて視線をとめた。
「あら……? あの人、まだいらしたのね」
それ自体は別にどうというわけでもないのだが、香山という男の視線が何となく普通じゃないように感じられて、清美は胸がざわつくような感覚に襲われた。彼はじっと周らの行く先を見つめたまま気難しげな顔つきでいる。まるで自分も一緒に行きたかったというふうにも思えるのだ。
「株式会社香山文具、取締役専務、香山淳太……か。住所は博多……? 随分遠いところからいらしたのね」
先程もらった名刺に目をくれながら独りごちる。虫の知らせか、女の第六感か――。清美は無意識にも何かあった時の為にと密かにその名刺を受付の鍵付きデスクの中へとしまったのだった。
「清美先輩! 交代が来てくれたのでそろそろ私たちもお昼に行きましょう」
「え? あ、ええそうね」
後輩の英子に促されて我に返る。ふとロビーを見れば、もう香山の姿はなかった。
「いない……」
(帰られたのかしら?)
「先輩、どうかされたんですか?」
英子が首を傾げながら覗き込んでくる。
「あ、ううん……何でもないわ。それじゃ行こうか」
交代の者に受付を預けると英子と共にランチへと出掛けて行った。
一方、香山の方は夕方の新幹線の時間までまだ余裕があったわけか、向かった先は周らが入っていったレストランであった。後をつけるつもりではなかったのだが、本人も気付かぬ内にフラフラと足が向いてしまったようだ。一人レストランに入ると、周らからは見えない衝立の陰に席を取って、見るともなしにぼうっと彼らの様子を窺っていた。
周ら六人は普段から親しい間柄という雰囲気で会話も進んでいるようだ。楽しげにメニューを広げて盛り上がっている。
「俺、何やってんだ……。こんなコソコソ後をつけるようなマネをして……」
だが、どうしてもあのまま帰る気にはなれなかったのだ。
◆8
ウェイターが注文を取りにやって来たので適当なメニューを頼んで溜め息を落とす。視線は相変わらずに周らの一団に釘付けであった。
彼等の話している内容までは聞き取れないものの、時折上がる笑い声くらいは分かる距離だ。料理を待つまでの間に和やかな談笑が続いているといった雰囲気に羨ましい気持ちがザワザワと胸を締め付ける。しばらく見ていると一人の男が周の隣に座っていた男に対してスマートフォンを差し出しながら何やら盛り上がっている様子が窺えた。一人は初見だが、周の隣にいる男は一昨日会った時に秘書をしている家族だと紹介された男である。
「あの人……社長の弟さんか? 確か秘書だと言っていたな」
だがどういうわけか彼を見ていると理由もなくモヤモヤとした気持ちが湧き上がる。他の男たちには感じられない特殊な感情が胸をざわつかせるような気がするのだ。そういえば一昨日も道行く人の流れから彼を庇うように周が気遣っていたのを思い出した。
(何だろう、この気持ち……。弟なら大事にして当たり前なんだろうが、それにしても過保護過ぎやしないか?)
そんなことを思っていた香山の視界に弟らしき男――つまり冰であるが――が取り出したスマートフォンに付けられたアクセサリーが飛び込んできて、思わず目を見張らされてしまった。そこには先程社長の周が付けていたのと色違いのストラップが揺れていたからだ。
(あのストラップ……。氷川社長のとお揃いか?)
揃いのストラップ――ただそれだけのことなのに酷く胸が締め付けられる。羨ましいを通り越して憎悪にも似た感情が沸々とし、いてもたってもいられない気持ちに陥った。
香山は興味が行き過ぎてしまい、何とか彼らの会話を聞けないかと化粧室へ立つふりをして柱の陰に身を潜め、そっと聞き耳を立てた。
『ほらこれ! こないだ伊三郎の親父さんたちと一緒に撮った写真! 冰君のスマホにも送っとくぜ』
『わぁ! ありがとうございます! よく撮れてますね』
『だろう? 皆んなが着物姿ってのも貴重じゃね?』
『紫月さんの花魁姿が一番貴重ですよ! 鐘崎さんも白龍も渋くてカッコいいし!』
『お! さすがデキた嫁さんだなぁ。冰君はいつだってちゃんと亭主を褒めるのを忘れないもんなー』
そんな話で盛り上がる中、社長の周、――香山にとっては氷川となるわけだが――彼も非常に機嫌が良さそうでいて満足げに笑みを浮かべている。それより何より話題に上がっていた『亭主』だの『嫁』だのというワードが引っ掛かってならなかった。
(どういうことだ……? 嫁とか亭主って……まさか氷川社長は結婚してんのか?)
だが肝心の奥方らしき女性の姿は見当たらない。彼ら六人は全員男である。それに会話の内容からすると、冰と呼ばれている弟だと思っていた男が嫁と受け取れるように思えてならない。香山はすっかり混乱してしまった。
◆9
とにかくは席に戻るも引き続き彼ら六人の様子をチラチラと窺うのをやめられずにいた。その後次々に料理が運ばれてきて全員で食事を始めたが、そのところどころで周が隣の男の世話を焼く様子が見てとれた。自分の皿から彼の皿へと料理を取り分けてやったり、調味料を取ってやったりしている。しかも嫌々気遣っているというのではなく自ら進んでそうすることに満足しているふうに感じられる。逆もしかりで、弟と思われる男の方も周にドリンクを注いでやったりしていて、とにかく仲睦まじいといった雰囲気なのだ。
(何なんだ、あいつ……。 弟じゃないのか……?)
一昨日は確か家族だと紹介されたが、よく考えると顔立ちなどはまるで似ていない。兄弟でないというなら一体どのような間柄なのか。嫁だの亭主だのと言っていたところからすると、まさか男同士で結婚している――あるいはそれには近い関係だとでもいうのだろうか。香山は沸々と湧き上がる衝動を抑え切れずに困惑しきってしまった。
その後、周らが食事を終えてレストランを出て行ってからもしばらくは呆然としたままその場を動けずにいたが、帰りの新幹線の時間が迫ってきたので仕方なく東京を後にするしかなかった。待ち合わせていた女房と子供たちとは駅で合流したものの、正直なところ頭の中は先程見聞きしたことでいっぱいで、ろくな会話もないままに博多の自宅へと戻った。女房の方はそんな香山の態度に不満そうであったが、当の本人はそれどころではない。周と共にいた秘書兼家族だという男のことが気になって気になって仕方なかった。
それから一週間が過ぎ、次の週末がやってくると、いてもたってもいられずに香山は一路東京へと向かった。帰って来たばかりでいったい何の用があるのかと当然女房は目を釣り上げたが、何とかごまかして博多駅へと急ぐ。目的は言わずもがな、周の社についての詮索であった。
香山淳太は今から八年前に新卒で周の社に就職した。九州の実家からは遠かったが、家業を継ぐ前に世間を見てくるという意味でも勉強になると、両親も反対せずに上京を快諾したのである。当初は四、五年勤めたら実家に戻るつもりで入社したものの、一年足らずで辞めてしまった。理由は仕事がきついからとか自分に合わなかったからというわけではなく、香山自身の気持ちの問題であった。何を隠そう、香山は社長である周に好意以上の想いを抱いてしまったからである。
周は外見からして老若男女誰が見てもほぼ万人がいい男だと認めるような容姿だが、いざ接して見ると気取ったところはなく社員たちに対してもフランクで、もちろん仕事の面でも申し分ないデキた男であった。香山が入社した頃はまだ貸店舗からのスタートであったが、日々クライアントも増えていくしで将来はきっと大きな企業に発展するだろうという確信が持てる社であったのは間違いない。家業を継がずにここで一生を賭けるのも悪くないと思えるような勢いのある企業だった。
◆10
それにもかかわらず何故すぐに辞めてしまったのかといえば、周に対する恋慕の気持ちが強くなり過ぎて、側にいるのが辛くなったからである。
当時、周には付き合っている恋人らしき存在はいないようだったが、これだけのいい男である。いずれは彼にも大事な相手ができて結婚という将来がやってくるのは想像に容易かった。当然その相手は女性であろうと思っていたので、これ以上のめり込まない内に彼の側を離れよう、香山はそう決心して故郷に戻ることにしたのだった。ちょうどその頃、実家から見合い話が持ち上がっていたことも理由のひとつだった。行き場のない想いを埋めるには新しい恋と、香山は自分が先に結婚してしまうことで周への想いを断ち切ろうとしたわけである。
ところが数年後経って再会してみれば、彼は同性の伴侶らしきと睦まじそうにしている現実を目の当たりにして、忘れていた恋慕心を掘り起こされる事態に直面したわけである。周が連れていた家族兼秘書だという男が伴侶と決まったわけではないが、二人の様子からしてまったくの他人という間柄には思えない。是が非でも事実を確かめなければいてもたってもいられない、香山はそんな気持ちに突き動かされるように周の社へと向かったのだった。
そうして汐留へ着いたものの、さすがに直接周を訪ねる勇気はない。仕方なく向かいのビルの一階にあるカフェに陣取って社屋を見るともなしに眺めていた。とはいえ、香山が知らないだけでこのビルも周の持ち物である。ペントハウスには冰と共に暮らす邸があるツインタワーの方なのだ。まあ低層階部分は商業施設やレストランなども入っている為、香山からすればここに周の住居があるなどとは想像もつかないことだろう。
「来たはいいけど……どうすりゃいいっていうんだ」
ここで待っていても周が降りてくる可能性は少ないだろうが、もしかしたら取引先へ外出するかこの前のように昼食に出ることがあるかも知れない。だが、もし運良くまた会えたところで何を話せばいいというのだろう。彼の側には例の秘書や李らも一緒だろうし、今こうしてここに自分がいる理由さえ上手く説明がつかない。彼らの姿を見掛けることができたとして、遠くからコソコソと様子を窺うのが関の山だ。それでも何かせずにはいられなかったのだ。
「もう一度雇って欲しいと言うのもアリか……」
だがそうなると今度は博多の両親や妻子を説得しなければならない。仮にそれでいいと言われたとして、上京して再就職となれば妻子はついてくるに違いない。ふと脳裏に離縁という言葉が浮かんでは、あまりの非現実的な妄想に苦笑しか出てこない。
「クソ……! 人生誤ったか……」
香山は困惑の中で自分を見失いそうになっていた。
◆11
結局何の目的も果たせないまま博多へ戻るしかなかった。カフェを転々としながら周の社屋の近辺で丸一日を過ごしたものの、再び彼に会うことは叶わず、見掛けることすらないままに諦めて帰るしか選択肢はない。重い気持ちのまま舞い戻れば、また新たな週が始まって何の変哲もない日常が戻ってくる。香山はそんな現実から逃れるように酒に溺れるようになっていった。
それはある日の夜のことだ。同業者の懇親会がらみで飲みに行った先のクラブで、この日も深酒に身を委ねていた。ウトウトとしかかっていると係についたホステスだろうか、宥めるように隣から声を掛けられて香山は重たい目を開いた。
「香山ちゃん、大丈夫ぅ? お連れさんは皆さん帰っちゃったわよ。今夜はもうそのくらいにしておいたら?」
ふと虚ろな視線をやれば、女は幾度か接したことのある見知った顔のホステスであった。目の前に水の入ったグラスを差し出しながら笑っている。周りを見渡せば一緒に来たはずの面々たちは既におらず、確かに一人取り残されていることに気が付いた。
「はん! どいつもこいつも薄情なヤツらばっかりだ」
「そんなことないわよぉ。皆さん心配してらしたわよ。お店もそろそろ閉店なの」
「ふん……あんたも薄情だ」
「まあ失礼しちゃうわ! 何か嫌なことでもあったのー?」
「嫌なことだらけさ」
「しょうがない人ねぇ。じゃ、特別! ホントは閉店だけどもうちょっとだけ付き合ってあげる。何があったのか全部話してスッキリしちゃいなさいよ!」
「は! 随分とやさしいじゃねえかよー」
「ふふふ、今頃気付いたのー? 遠慮しないでいいから何でも言って! そんなに深酒しちゃうくらい嫌なことがあったのね?」
「ああ……最ッ低のことがな」
すっかり酔いも回っていた香山は、女の言葉に乗せられるようにして思っていることをぶちまけた。
「フられたんだ……。ずーっと前から好きだった人によー。しかも相手があんなクソガキだなんて……!」
「あらぁ。あなたのようなイイ男を振るなんて見る目がない女ねぇ。あなたなら他にいくらでも素敵な女性がいるわよ。そんな女、こっちから願い下げちゃえばいいわ」
客商売とは分かっていても、こんなふうに言われれば気持ちが楽になるのは確かだった。香山は女にの言葉に甘えるように好きになった相手が女性ではなく男性だということや、彼がいつかは素敵な女といい仲になることを間近で見るのが辛くて身を引いたにもかかわらず、彼の現在付き合っている恋人らしい相手が男性であるだろうことなどを洗いざらい打ち明けてしまったのだった。
そして酔いに任せてついつい相手の素性まで口走ってしまう。
「まさか氷川さんがあんなガキを相手にするなんて思ってもみなかった……! こんなことなら諦めずにあの人の側に居ればよかったと思うと後悔しかねえよ……!」
◆12
それを聞いた途端に女はハタと真剣な顔付きへと表情を変えた。
「……氷川さん……ですって?」
それまでは適当に聞き流していたものの、俄然興味をそそられたようにして身を乗り出す。女にとっても聞き覚えのある名前だったからだ。
「ねーえ、香山ちゃん。あなた確か前に東京の商社に勤めてたんだったわよね? 何ていう名前の会社だったの?」
「ああー? そんなこと訊いてどーするんだよ」
「あら、いいじゃない。教えてくれたって減るモンじゃなし!」
「ま、どーでもいっか。俺が勤めてたのはアイス・カンパニーってところ! あの頃もそれなりにデカい会社だったけど、今じゃ都内の一等地にバカでかい自社ビルをブッ建てるほどに成長した一流企業さ。マジで辞めるんじゃなかった……」
「やっぱり……!」
女は独りごちると香山に身をすり寄せるようにしながら耳元で囁いた。
「あなたの好きだった男性って氷川白夜のこと?」
女が放ったフルネームにドキりと胸が高鳴る。
「……まさかアンタ……氷川社長を知ってんのか?」
いっぺんで酔いが吹き飛んだように、今度は香山の方が大きく瞳を見開いてしまった。
「アタシね、ちょっと前まで銀座のクラブに勤めてたのよ。っていってもほんの数ヶ月だったけどね。アイス・カンパニーの氷川白夜って社長ならたまに店に来てたから、もしかして同一人物かもって思って」
「それ……本当なのか?」
「ええ、もちろん。けど、あの人確か奥さんがいたはずだけど」
「……奥さんって、じゃあ社長は結婚してるっていうのか!?」
「そう聞いてるわ。でもその奥さんと上手くいってないらしくて、別居してるとかなんとかって噂も耳にしてたわね」
「詳しく教えてくれ!」
思いも掛けなかった話向きに、香山はすぐさま食らい付いた。なんと女は佐々木里恵子がママをしているクラブ・フォレストにいた愛莉というホステスだったのだ。冰が記憶喪失に陥った時期に氷川こと周に直談判して関係を迫ったことのある例の女だ。周から門前払いを食らったことを機に里恵子の店を辞めて、生まれ故郷である博多に舞い戻っていたのだ。
あまりの偶然に香山と愛莉は驚いたように互いを見つめ合ってしまった。
「本当に……あの人が結婚してるっていうなら……それはそれで諦めがつくってもんだ。でも……だったら俺が見たあのガキはいったい何だっていうんだ。やけに社長と親そうにしてたし、それにスマホにはお揃いのストラップまで付けてた……。てっきり社長とイイ仲なのかと思ったが」
「そのガキってどんな子なの? 一概に男っていっても、いろいろタイプとかあるじゃない。マッチョな感じとか可愛い系とか」
「ふん! 確かに顔の作りは整ってたが、一から十まで社長に世話を焼かせてるって印象でイケ好かないヤツだったぜ!」
「ふぅん? じゃ、可愛い系かぁ。まあ氷川さんにマッチョな彼ってのも想像つかないわよね。厳ついタイプならボディガードってことも有り得そうだけど可愛い系なら違うかぁ。正直信じられないけど……。それマジでホントなの?」
「ああ、ホントのホントさ! もしもアンタの言うように奥さんと上手くいってないっていうなら、あのガキが原因かも知れない……」
真剣な様子の香山に愛莉もますます興味をそそられたようだ。
◆13
「へえ、あの氷川さんが……。まあとびきりのイイ男だからモテるだろうとは思ったけど、まさか両刀だったとは驚きだわ」
愛莉はドポドポと香山のグラスに酒を継ぎ足しながら心底驚いたといった調子でいる。
「そう言われてみれば……あの人がお店に来る時に若い男の子が一緒だったこともあったわね。確か秘書だとかって聞いたような気がするけど」
愛莉は銀座の高級クラブには不似合いという印象だったと言って、その若い男のことを思い巡らせていた。
「氷川さんが来る時はたいがい彼の友達の鐘崎さんも一緒だったし、割と大人数で来てたわね。どっちも青年実業家って雰囲気だったし、それぞれのお付きっていうか秘書とかを連れてるんだろうなって思ってたから気にも留めなかったけど」
銀座に生きる女性たちの中には周や鐘崎が同性の伴侶を持っていることを知っている者も多い。周はともかくとしても鐘崎が極道組の若頭だということも知っている者は知っているといった具合だ。だが、愛莉は銀座に勤めて日が浅かったこともあり、そういった詳しい事情までは把握していなかったようだ。しかも半年足らずで故郷へ戻ってしまった為に、周らのことは青年実業家という認識しか持っていなかったのだ。
一方、香山の方は秘書と聞いて自分が見た男でほぼ間違いないのだろうと確信していた。
「なあ、その若いガキだが……どんな様子だったか詳しく思い出せないか?」
「どんなって言われても……アタシはあの人たちのテーブルに呼ばれたことはないし、いつも必ずママが自ら係に付いてたからなぁ。こういったクラブに来るにしては子供っぽいなっていうか、まあ彼単体で見れば確かにイケメンだったとは思うけど、氷川さんや鐘崎さんの中に混じっちゃうと幼いなぁって印象しかなかったしね。正直ホステスに囲まれる絵を想像すると浮いてるなっていうくらいしか覚えてないけど」
「どんなことでもいいんだ! 店で氷川さんがどんな様子だったかとか、誰か気に入ったホステスはいたのかとか……何でもいいから聞かせてくれないか?」
香山のあまりに必死な様子に、愛莉は少々引きつつも当時のことを思い浮かべた。
「そうねぇ、アタシ的には氷川さんのお目当てはママかもって思ったことはあったわね。だって毎回必ずママがテーブルに付くし、お店で仕入れてる果物とかお酒も氷川さんの商社が卸してる老舗店と契約してるって聞いたことがあるわ。ママと二人きりでVIP専用のプライベートルームにこもってたこともあったわよ。だからてっきりデキてるのかもって思ってたわ」
まあこういう世界だから二人共本気じゃないにしろ、遊びと割り切って単に寝るだけの仲なのだろうと思っていたのだという。まさかあの氷川社長が男まで相手にしていたとは信じられないという印象の方が強いと、愛莉も驚き顔だった。
彼女の話に香山はどこかでホッとすると共に、ママとデキていたかも知れないなどと聞かされれば、それはそれでまた別の嫉妬心に駆られそうになっていた。
「その……ママっていうのは美人なのか?」
「里恵子ママ? そりゃあ銀座でオーナーママををしているくらいだもの! 見た目はもちろんめちゃくちゃ綺麗だし、政治経済の話とかにも詳しかったようよ。まあ場所が銀座だし、政治家とかも来るからいろいろ勉強してたんじゃないかしら。アタシみたいな上京組からすれば雲の上っていうかさ、まさにプロって感じだったわね」
まあそれが堅苦しくて辞めたっていうのもあるけどねと言って愛莉は笑った。
「けど、ママにはちゃんとイイ人がいたし、どっちかっていったら氷川さんの方がママにご執心なのかと思ってたけどねぇ」
煙草をふかしながら暢気に笑う愛莉を横目に、香山の脳裏には自分が恋心を寄せていた男が美しいママを抱く映像が浮かんできて、行き場のない気持ちで頭の中はぐちゃぐちゃになりそうだった。
◆14
「なあ、あんた。銀座にはあんたが勤めてた頃の……同僚だったホステスの知り合いとかが居るんだろ? その人らに訊いてもらえないかな」
「訊くって何を?」
「氷川さんがそのママっていう人と実際はどんな関係なのかとか、例のガキがどういった経緯で秘書になったのかとか……どんなことでもいいんだ。氷川さんに関することならどんな小さなことでもいい!」
香山のあまりの必死さに愛莉は呆れてしまった。彼女自身も周こと氷川に対してはあまりいい印象を持っていないのは確かだし、ともすれば恨みめいた感情も無きにしにもあらずなわけだが、そんな愛莉からしてもこの香山という男の執着ぶりにはドン引きさせられるほどである。こうまで執拗に想われては、何だか”氷川社長”が気の毒にも思えてくるようだった。
「まあツテがないわけじゃないけどねぇ。でも氷川さんのことを知ってどうするつもりなの? 香山ちゃん、あなた確か奥さんもお子さんもいるんじゃなかった?」
愛莉から見ても香山は特に印象に残るほどのイイ男というわけでもないが、割合大きな文具店の御曹司で、今は父親を継いで専務という肩書きまで持っている男だ。金銭的には全く心配のない生活だろうし、世間一般からすれば羨ましい部類といえるだろう。子供もいると聞いているし、そんな立場の彼が同性である男に入れ上げたところで感心できないと思うのも正直なところなのだ。だが、香山自身はすっかりのぼせ上がってしまっているようで、もはや周囲が何を言ったところで聞く耳など持たない様子である。やんわりと苦言を呈した愛莉の言葉など右から左のようで、出てくる言葉は『氷川社長、氷川社長』と、ただそれ一点である。
「家族のことなんて関係ないんだ。そもそも女房だって俺のことが好きで結婚したわけじゃないし、親同士の仕事上の都合から見合いの話が持ち上がって仕方なく一緒になったってだけなんだ!」
「何バカなこと言ってんの! しっかりお子さんまでいるくせにさぁ。そんな言い方したら奥さんだってお気の毒じゃないの!」
「気の毒なもんか! 最近は何かにつけて小言ばっかり言いやがるし、それに俺は知ってんだ! あいつのスマホには昔付き合ってた男の連絡先がまだ残ってるってのをな」
「あら、嫌だ。奥さんのにスマフォを盗み見たりしてるの?」
無粋な男ねと愛莉は笑う。
「あいつだって密かに俺のスマホを見てるしな。お互い様だ。俺も女房もまだ若いし、いくらでもやり直すことができる歳さ! それより今はどうしても氷川さんのことが知りたいんだよ!」
これはもう何を言っても埒があかない、そう思った愛莉は適当に話を合わせて切り上げることにした。
「しようのない人ねぇ。分かったわ、とりあえず昔の仲間に聞くだけ聞いてみるけど、アタシだってそう長く銀座にいたわけじゃないしね。あんまり期待しないでよ」
「どんな小さなことでも情報があれば助かるよ。何もタダでとは言わない。もちろん相応の礼はさせてもらうから!」
すがるように両手を取ってそう言うと、香山はおぼつかない足取りで店を後にしていった。
「はぁ……何だかヘンな話向きになっちゃったわね」
さてどうしたものか。呆れ半分の溜め息をつきながら、愛莉もまた店じまいをして上がったのだった。
◆15
そうしてマンションに帰ると、ねんごろにしている男が愛莉を訪ねて来ていた。
「よう! 遅かったじゃねえの」
男はソファの上で寛ぎながら缶ビールを数本開けている。おそらくはもうかなり前から上がり込んでいたのだろう。
この男とは地元を出る前からの顔見知りであったが、帰郷後久し振りに再会してから一気に深い仲になった間柄だ。自称ヤクザと息巻いてはいるが、実のところは半グレのようなものであった。互いに合鍵を渡し合ってからというもの、度々こうして訪ねて来ては床だけを共にして帰っていくのである。
「ちょっとね、しつこいお客に捕まっちゃってー」
「しつけえ客だ? なんかヘンなことされなかったろうなぁ?」
男はニヤニヤとしながら我が物顔で愛莉の肩に絡みついてきた。
「よしてよ、もう! 別にいやらしいこととかはされてないって。ただあんまりにもしつこい話を聞かされてさぁ。それでこんな時間になっちゃったってだけ!」
「ふぅん? 酔っ払いの戯言かよ。おめえも苦労するなぁ」
背中から抱き締めながら愛莉の巻き髪を指に絡み付けて弄んでいる。
「そうだ、ねえアンタぁ」
「ンだよ」
「アンタ、香山文具店って知ってる? 駅前の割と大きな店」
「香山文具店だ? ああ、そういや昔っからあるな。入ったことはねえけどな」
それがどうかしたのかと男は抱き締めていた腕を解いて再びドカリとソファへと背を預けた。
「じつはそこの若旦那がさぁ……」
愛莉も冷蔵庫からソフトドリンクを出してきて男の隣に座ると、先程聞きつけてきた香山のことを話して聞かせた。
「なんでもこないだ東京に行った時に元いた会社の社長に偶然再会したとかで、その男にイカれちゃったらしくてさぁ。アタシが銀座にツテがあるって知ったらその彼について何でもいいから情報が欲しいだのって始まって、しつこいったらないの! っていうより、もう殆どストーカーよ、あれは」
「野郎が野郎に惚れたってか? その香山ってヤツはゲイなのかよ」
「さあ、どうだか。奥さんも子供もいるくせに今更昔好きだった男に執着するなんてどうかと思うけどね」
「ふぅん? そいつ、妻子持ちなのか?」
「女房とは好きで一緒になったわけじゃないから今からでもやり直せるとかなんとかバカ丸出しだったわ。あんまりしつこいから適当に言いくるめて帰したけど、あの様子じゃまた近々店に来そうで憂鬱だなぁ」
クサクサしたふうにドリンクを煽る愛莉を横目に、男の方は企みめいた笑みを浮かべていた。
「案外ちょっとした小遣い稼ぎができるかも知れねえな」
「小遣い稼ぎ?」
「そいつ、香山っつったっけ? 香山文具店といやぁそこそこ老舗だろ? そんな店の若旦那が妻子を放っぽって他所の野郎に入れ上げてるとなりゃあ、いい揺すりのネタになるじゃねえか。ちょっと脅しゃあ、まとまった銭が搾り取れるかも知れねえぜ?」
どうやら男は揺すりで一儲けすることを思い付いたようだ。
◆16
「香山ちゃんを脅そうっていうの? アンタもワルねえ」
愛莉は呆れてみせたが、確かに男の言うことも一理ある。香山の様子ではこれからもしつこくどうなったかと尋ねてきそうだし、追い払いがてら小銭が手に入れば一石二鳥である。何より少し痛い目を見れば懲りて考え直すかも知れないと思うのだ。香山本人がどうなろうとさして興味はないが、その妻のことを考えたら同じ女性として気の毒にも思えるからだ。今はいっときの感情で我を失っているのかも知れないが、香山にも目を覚ましてもらうきっかけになればいい、愛莉は意外にも純粋な気持ちで灸を据える程度に思ったのだった。
「んー、でも案外それいいかも! アンタが手伝ってくれるんなら銀座の仲間に言って情報仕入れてやるのも悪くないわね。もうちょい香山ちゃんを煽れるネタが手に入るかも知れないし」
「そんなら俺は香山ってヤツの方の近辺を探ってやろうじゃねえか。ちょいと叩けば他にも埃が出るかも知れねえ」
「やだ、案外大金が巻き上げられちゃったりして?」
「そしたら二人で豪勢に海外でも行って遊んで来るか!」
「バーカ! まだお金になるかどうかも分かんないのにさぁ」
「なるかどうか分かんねえモンを金にするのが俺の腕の見せ所だからな。まあ任せろ! 上手く搾り取ってやるって!」
男は愛莉を抱きすくめると、上機嫌でソファに押し倒した。
「前祝いってことで一発な?」
「ヤダァ、相変わらず気が早いんだからぁ」
こうして愛莉と男は香山を嵌めて金を騙し取る作戦に出ることになったのだった。
一方、香山の方は愛莉からの情報を今か今かと待つ日々が続いていた。表面上は普通を装いながらいつもと何ら変わりのない時間だけが過ぎていく。裏では愛莉の男が自分に探りを入れているなどとは夢夢知らないままで一週間が経った頃、待ちに待った愛莉からの連絡を受けて、香山は彼女に呼び出された街外れのバーへと向かった。
そこは表通りからかなり入り組んだ裏路地に建つ何とも怪しげな店だったが、今の香山にとっては情報欲しさが先に立っていて危険な雰囲気などを察知できる余裕はない。逸る気持ちで店に入れば、奥まった薄暗がりの席に愛莉の姿を見つけてパッと瞳を輝かせた。
ところが席に近付いてみれば愛莉の他に見知らぬ男が一緒だ。無精髭を生やした、見るからに堅気ではない雰囲気に押されてさすがに息を呑む。
「あの……こちらさんは?」
おずおずとする香山を横目に、愛莉は親しげに微笑んでみせた。
「そう警戒しないでー。氷川さんのことについてこの人もいろいろ協力して調べてくれたんだから! 女のアタシ一人じゃ分からなかった貴重な情報がたーくさん入手できたのよ。まあ座ってちょうだいな」
「そ、そうですか……。世話を掛けてすみません」
香山は半信半疑ながらも貴重な情報という言葉に抗えずにひとまずは腰を落ち着けた。
◆17
「ね、香山ちゃん。あなたにとっては驚く結果だと思うけどすっごいレアな話がゲットできたわよ!」
「レアな話……?」
「そう! アタシも信じられないって思ったくらいのすごい情報なんだから!」
その言葉通り、愛莉からもたらされた情報は香山にとって酷くべき驚愕なものだった。なんと香山が気になっていた家族兼秘書だという男は氷川、つまりは周の伴侶らしいというのだ。
「伴侶って……まさか氷川社長はあのガキとデキてる……いや、結婚でもしてるっていうのか?」
「そうみたい! 氷川さんに奥さんがいるとは聞いてたけど、その相手が男だったなんて驚いちゃったわ!」
しかも噂によれば周は自分の伴侶が男だということを隠してはいない様子だというのだ。
「氷川さんは堂々とその子を嫁だと言ってるようで、アタシが勤めてたお店でも知ってるホステスは何人かいるって話だったわ。まあさすがに自分からは触れ回っていないようだけど、訊かれればその男の子のことを自分の伴侶だって紹介しているらしいわ」
そういえば香山が銀座で偶然再会した時も、何のためらいもなく連れていたその男のことを”家族”だと紹介してよこしたのは確かだ。
「まさか……あの氷川社長が男と……だなんて」
香山は蒼白となり、全身をガタガタと驚愕に震わせていた。愛莉が注いだロックグラスの酒を鷲掴んでは一気に飲み干す。そんな様子からは相当に動揺しているのが見てとれた。
「信じられない……それが本当なら俺は何の為に身を引いたっていうんだよ……。あの人が……氷川さんが男なんか相手にするはずがないと思ったからこそ地元に戻って結婚までしたっていうのに! こんなことならずっとあの人の側に居れば良かった……。会社を辞める必要なんかなかったっていうのによッ!」
机に突っ伏し、頭を抱える香山を愛莉の男がニヤニヤとしながら見つめていた。
「専務さんよぉ、そんなにその氷川ってヤツが好きなんかよ? だったら俺が一肌脱いでやらねえでもねえぜ」
その言葉に香山はおずおずと顔を上げて男を見つめた。
「一肌脱ぐって……どういう」
「あんた、その氷川ってのにくっついてるガキンチョが目障りなんだろ? もしよければ俺がそのガキを始末してやることもできるんだがな」
「――!? 始末って……まさか」
「勘違いすんなよ? なにも殺そうってわけじゃねえ。ただ俺はいろいろと顔が広くてな。大陸の裏社会にも人脈がある。そのガキを拉致ってきてそいつらに売り渡しちまうくらいは朝飯前だって言ってんだ」
男の話に香山はみるみると瞳を見開いた。
驚いたのは愛莉だ。少し灸を据えてやるつもりが、男の方ではえらく勝手な構想を巡らせていることに思わず眉根を寄せてしまう。
「ちょっとアンタ! ぶっ飛んだこと言ってんじゃないわよ! ほんのちょっと脅かすだけのはずだったじゃないの!」
グイと腕を引っ張って耳元でそう囁くも、当の男はまるで聞く耳は持たない様子である。
「大丈夫だって! こいつがよほどのバカじゃなきゃ断ってくんだろ? 逆に話に乗ってくりゃ自業自得ってもんだろが」
「そんな……。言っとくけど厄介なことになるのだけはご免だからね、アタシは!」
「そうガミガミ言うなっての! おめえは何も知らなかったことにすりゃいいんだよー。あとは俺とこいつで話をつける。おめえは裏の事務所で待ってろって」
愛莉がいては進む話も進まないと思ったのだろう。男は手下を呼び付けると彼女を裏手の事務所へと追い払ってしまった。
◆18
そんな様子を不安そうに見やりながらも、香山自身は男の言葉に半ば興味津々のようだ。
「それで、その……売り渡すっていうのは……どういうことですか?」
逸り顔の香山を腹の中でせせら笑いながら、男は席を立ち上がると更に店の奥へと案内した。
「ど、何処へ行くんですか……?」
「ンなツラすんなって! なぁに、ちょいと俺の副業を見せてやるだけさ。アンタとはこれから手を組んで一勝負に乗り出そうってんだ。俺がデマカセを言ってねえって証拠を見せといてやろうと思ってな」
「はぁ……」
連れて行かれたのは狭い路地を数十メートル歩いた先にある別の店屋だった。そこも見たところバーのような造りではあったが、厳重に管理されたふうな分厚い扉二枚を挟んだ先に驚くような光景が広がっていて、香山は思わず息を呑んだ。なんとそこは闇カジノの賭博場だったのだ。
「ここはウチの組が秘密裏に運営している闇カジノでな。大陸が近いからそっちのマフィア連中も出入りしてるんだ。ヤツらに言って香港かマカオ辺りの裏社会にそのガキを売り飛ばしちまえば跡がつかねえ。ガキが消えたとなりゃ捜索願いくれえは出されるだろうが、異国のマフィアに渡しちまえばどんなに捜しても簡単には行方が掴めねえだろうさ」
「はぁ……そんなことをして本当に大丈夫なんでしょうか? それに……ゆ、誘拐なんかしたら氷川さんが怒るんじゃないかと……」
香山にとって冰の存在が邪魔なのは確かだが、好いた男に機嫌を損ねられては元も子もないといったところか。
「心配するこたぁねえさ。聞くところによるとその氷川ってのとガキンチョとはえらく歳も離れてるっていうじゃねえか。どうせヤるだけが目当ての遊びに決まってらぁな。その内に氷川って野郎もガキのことなんざ忘れちまうだろうぜ」
若い男を伴侶だなどと言って側にはべらせているような男なら、少し時間が経てば消えた男のことなど忘れてすぐに代わりを欲しがるに決まっている。頃合を見てアンタがそのガキに取って代わればいいと言う男に、香山はドキドキと胸を逸らせた。
「……本当に……跡がつかないんですか……?」
「もちろんだ。大陸に売り飛ばしちまえば日本のデカだって手は出せねえさ。しかも売り飛ばす先は異国のマフィアだ。ガキの一人くらいどうにでもできるってもんだ」
「……あなたがその口利きをしてくださると?」
「ああ、任せろ。だがまあ、こっちも多少は危ねえ橋を渡るわけだ。タダってわけにゃいかねえがな」
「そ、それはもちろん……。本当に上手くやっていただけるなら御礼はします」
「そうかい。専務さん、アンタなかなか話が分かるじゃねえか。大陸の連中に話を持っていくにあたって袖の下ってわけじゃねえが多少の経費も掛かるからなぁ。それ相応の礼金は出してもらうことになるけどな」
「いくら……ですか? いくら払えばあのガキを消していただけるんでしょうか」
「そうさな、そのガキの使い道によって売り飛ばす金額は上下するだろうが、最低でも多少の金にはなる。その分を差し引いて、アンタには五百も払ってもらえばいい」
◆19
「五百……ッ!?」
「そう、五百万だ」
「そんな……」
「なに、安いもんだろ? アンタん所は地元じゃ老舗の文具店だ。それに専務のアンタが妻子を放っぽって別の男に入れ上げてるなんてことが知れたら困るだろうが? ここはおとなしく五百万払って、邪魔なガキを始末して、惚れた男を手に入れるのが得策だと思わねえか?」
これは脅しだと知りつつも、香山には既に断る勇気はなかった。男から提示された金額も五百万なら家族には知られずに何とかして出せるギリギリのところともいえる。ここで断れば妻子にバラすと脅されそうだし、もう腹を括るしかない。香山は迷いながらもうなずいてしまったのだった。
「わ、分かりました……。よ、よろしくお願いします……。ただ……本当に五百万以上は出せないんで……それでよろしければですが」
「ああ、それでいい。前金で半分の二五〇、ガキを拐って来て上手く大陸の連中に売り渡したら残り二五〇でどうだ」
「分……かりました」
香山としても、仮に騙されたとしても半分の二五〇万円なら何とかなると踏んだのだろう。例の秘書という男の拉致に失敗したとしても残り半分は支払わずに済むだろう。安易な憶測で香山は男との契約を交わすことに決めてしまったのだった。
◇ ◇ ◇
一方、香山たちがそんな企てをしていることなど知る由もない周と冰は、いつもと何ら変わりのない平穏な日常を過ごしていた。それらが一転したのは香山が愛莉の男と契約を交わしてから一週間が経った頃に起こった。
それは周と冰が里恵子の店であるクラブ・フォレストに訪れた際のことだ。鐘崎と紫月も一緒だった。
全くのプライベートだった為、仕事絡みのクライアントなどもおらず、四人は和気藹々と里恵子とのおしゃべりを楽しんでいた。
「うはぁ……! 手がベタベタになっちゃった。ちょっと洗ってくるー」
豪華なフルーツ盛りを素手で頬張っていた冰が照れ笑いをしながら席を立つ。
「おいおい、しょうのねえヤツだな。一人で行けるのか?」
亭主である周が半分からかいながら愛しげに笑って、冰がテーブルから出やすいように膝をよけてやっている。
「だ、大丈夫。おトイレくらい一人で行けるって」
恥ずかしそうにしながらも冰はいそいそ化粧室へと向かって行った。
「ったく、ああいうところはいつまでもガキのまんまだな」
苦笑しつつもそんな子供っぽい一面がまた可愛いのだと顔に書いてある。一人で化粧室へと向かった伴侶をソワソワと気遣う素振りの周を横目に、ママの里恵子がクスッと微笑みながら席を立った。
「周さんったら、何だかんだ言って冰ちゃんのことが心配で仕方ないんだから! いいわ、アタシが様子を見てきてあげる」
里恵子はそう言うと冰の後を追い掛けて化粧室へと向かった。
◆20
「すまねえな。世話を掛ける」
「いいのよ。旦那様はゆっくりしてて!」
チャーミングにウィンクを飛ばす里恵子に任せながら周もまたドカリとソファへ背を預けた。目の前では鐘崎と紫月がニヤニヤと視線をくれている。
「ま、冰君は相変わらず可愛いし! 氷川が過保護になるのも仕方ねえわな!」
「ゾッコンだからな」
二人から交互に冷やかされて周はタジタジと苦笑させられる。その直後だ。
「わっ……たーッと! 俺もやっちまった! 冰君のこと言えたギリじゃねえわ!」
冰同様、素手でフルーツを頬張っていた紫月が高級メロンをタワーの皿から滑らせて、慌てて掴んだ拍子に果汁で両の掌をベタベタにしてしまったのだ。
「わ……ッ! おめえまで何やってんだ、おい……」
鐘崎が慌てて卓上にあったおしぼりを差し出すも、こうなったらそれこそ洗った方が早い。
「あっはっは……。ドジなぁ、俺! ついでに冰君と連れションでもしてくるわ」
紫月が照れ笑いと共に身軽に席を立っていくのを見送ると、周と鐘崎の旦那衆二人はやれやれと肩をすくめながらも愛しげに笑い合ったのだった。
そんな和やかな雰囲気が一転したのは、それから間もなくのことだった。暢気に出て行った紫月が顔面蒼白という様子でとんぼ帰りしてきたからである。
「遼、氷川! 来てくれ! すぐにだ!」
尋常でないその様子に旦那二人は険しく眉根を寄せた。何も聞かずとも緊急事態が起こったことを察したからである。
すぐに席を立って化粧室へと駆け付けると、紫月の慌てぶりが理解できる光景が広がっていた。
「ドアを開けた瞬間にこの臭いだ。冰君と里恵子ママの姿も見つからねえ……」
化粧室の中には微かにクロロフォルムの臭いが漂っており、冰も里恵子も見当たらないことから誰かに拉致された可能性を悟った紫月がすぐに鐘崎らを呼びに戻ったというわけだ。
「クソッ! なんだってあいつらが……! まだ遠くへは行ってねえはずだ!」
「紫月! 念の為おめえは表の入り口の方を頼む!」
「分かった!」
周と鐘崎は急ぎ裏階段へ通じる扉へと向かった。ここで拉致したのなら、当然店の入り口を通るはずもない。裏階段から連れ去るのが妥当だからだ。案の定、店先の方には黒服も立っているし、他の客らの目にもつくので何も変わったことはなかったという。紫月が店の外へ出て裏口へ走ると、ちょうど裏階段を降りて来た鐘崎らと合流した。
「表は異常なしだ! そっちは!?」
「こっちも人影は見当たらねえ。一足遅かったか……」
「クソッ! 何処へ行きやがった……」
周はすぐに側近の李へと応援の要請を入れると、冰に持たせているGPSで現在地を追ってくれるようにと伝えた。結果が来るまでの間に三人は周辺の車などを調べて回ったが、あいにく裏手の方は閑散としていて人影もまばらだ。まるで何事もなかったかのようないつもの街並みが広がっているのみだった。