極道恋事情

21 孤高のマフィア2



◆21
「冰と里恵子の二人を連れ去ったなら、おそらく車だろうが……えらく手際がいい。計画的犯行か」
「とすると、目的は里恵子か……?」
 この場合、どちらかというと冰は巻き添えを食らった可能性が高いと三人は踏んでいた。里恵子の店で拉致に遭ったことから考えて、そう考えるのが自然だ。たまたま化粧室で一緒にいた冰のことも、顔を見られたなどの理由から仕方なく連れ去ったのだろうと推測できる。まさか本当の目的は冰の方で、それこそたまたま一緒にいた里恵子が共に拉致されたなどという事実に辿り着けるはずもなかった。
「今、李にGPSで追ってもらっている。俺たちは店の防犯カメラを調べるぞ!」
「森崎にも連絡を入れてすぐに来てもらおう」
 周と鐘崎はすぐさま黒服を呼んで店内外の映像のチェックに取り掛かった。
 防犯カメラは数ヶ所に設置されていたが、そのどこにも犯人らしき人物は見当たらない。冰と里恵子が化粧室へと向かう際の映像はかろうじて確認できたものの、肝心の連れ去られる瞬間が映っていないのだ。その内の一台にガムテープが貼られているのが分かったが、貼られる瞬間の手の映像以外は確認できなかった。もしも犯人が防犯カメラの位置まで把握していたとするならば、いよいよ計画的犯行の線が濃厚だ。大会社のビルなどと違って常時防犯カメラを監視している警備室などもないことから、ガムテープなどで遮られたとしてもすぐには気付けなかったわけだ。
「森崎が到着したら、ここ最近で里恵子が拉致されるような事案があったかどうか確かめる必要があるな」
「ああ。ある程度犯人と思わしき人物が絞り込めたところでウチの組員らを総動員して当たらせる」
 そうこうしている内に李がすっ飛んでやって来た。
「老板! 冰さんの位置ですが、老板が贈られた腕時計のみ反応がありました!」
 つまり、スマートフォンの方は犯人によって潰されたということだ。まあ拉致しようなどというくらいの犯人ならば当然か。こういう時はやはり別口でGPSを持たせておいて正解だったと言える。ところが、李からはあまり喜ばしい報告が聞けない事態に焦ることとなった。
「現在地は掴めました。ですが……これが示す場所に冰さんがいらっしゃる可能性は薄いと思われます」
 どういうことだと周らは顔を見合わせる。
「今、腕時計があるのは割合近くなのですが……」
 なんとその場所が貴金属やブランド品の買い取りをしている質屋だというのだ。李の差し出したタブレットを見つめながら、周と鐘崎は険しく眉根を寄せてしまった。
「まさか身に付けていた宝飾類を売り飛ばしたってわけか?」
 拉致されてからまだそう時間は経っていない。質入れが事実ならば、よほど周到な企てを持っている犯人といえる。



◆22
「とにかく急ごう! ここの質屋は確か――新参者の若え野郎がつい最近開いた店だ。客の素性を詮索せずに明らかに盗品まがいと思われる物でも簡単に引き取るとの噂でな。正直、同業者の間じゃあまりいい評判は聞かねえ」
 鐘崎の組ではこの種の業者とも普段から繋がりがあるが、昔からそれ一本で生業にしている者たちからも評判が良くない店らしい。
 表看板にも査定は短時間で身分証明なども必要ないようなことがうたってあり、割合頻繁に店舗の場所を移しながら闇を掻い潜って営業しているそうなのだ。冰らを拐った犯人がそれを知っていたかは別としても、噂通りの店なら即換金できた可能性が高い。既にGPSがそこを示しているということはもう犯人に追いつくことも難しいかも知れないが、とにかく今は手掛かりを辿るしか方法はない。周と鐘崎らは急ぎその質屋へと向かった。
 応対に出てきたのは見るからに軽そうな空っとぼけた男だったが、鐘崎組の名を聞くと同時にギョッとしたように顔色を変えると、聞かれたことに対してペラペラと暴露し始めた。
「た、確かにおっしゃる通り……ついさっき質入れの客が来るには来ましたが……」
「そいつが置いてった物を全部出してもらおうか」
「は、え……あ、はい……只今」
 男はすごすごと店の奥へ引っ込むと、たった今質入れされた宝飾類を持ってきて鐘崎らの前へと差し出した。
「これで全部か?」
「はい、間違いねっす……」
 男が並べた物の中には冰の腕時計はもちろんのこと、二人の財布をはじめ、里恵子の指輪やイヤリング、それに昨年のクリスマスに周と鐘崎が贈った純金製のキーホルダーまでがあるのに驚かされた。
「ヤツら……金になりそうなモンは根こそぎ売り飛ばしていったってわけか」
 当然だが財布からは現金やカード、免許証などもろとも抜き取られており、小銭の一枚すら残ってはいない。ただ、冰のも里恵子のも質の高い高級品であることから、財布自体には値が付くと踏んだのだろう。この短時間に二人が身に付けていた貴金属類を全て引っ剥がしたことはある意味感心せざるを得ない。
 さすがに足がつくと思ったのかスマートフォンは見当たらない。とすると、冰のガーネットの宝石が付いたストラップの価値には気付かなかったようだ。暗くて見落とした可能性もあるが、一目で宝石とガラス玉の見分けがつかないとすれば、玄人の目利きというわけではなさそうだ。
 いずれにしてもよほど金に困っているか、あるいは普段からこうした略奪に慣れているのかは知れないが、とにかく手際がいいのは確かだ。
「それで、これを持ってきたのはどんなヤツだ。男か女か――ツラに風貌。いくらで引き取ったのかはもちろん、話していた内容などもできる限り詳しく教えてもらうぞ」
 鐘崎が凄みをかけると、男は冷や汗を拭いながらタジタジと頭を掻いてみせた。
「持ち込んできたのは野郎が一人でした。歳は三十代後半か四十くらいだったかな……。あ、でも顔はグラサンしてたしハッキリとは分からないっスよ?」
 男の言うにはどうやら相手も急いでいたようで、換金額に関してはそれほどしつこくなかったという。いくらでもいいから金になれば御の字という調子だったそうだ。



◆23
 どうせ泡銭だからという程度の感覚だったのだろうか。だとすれば金にひっ迫しているというわけではないのかも知れない。
「とにかく防犯カメラを見せてもらうぞ」
 いくら店を転々としながら営業しているといっても、カメラくらいは設置してあるだろうと鐘崎が迫る。店主の男は素直に映像も差し出したが、彼の言葉通り、売りに来た男はサングラスをかけていて終始うつむき加減でいる。服装も特徴のないありふれたダウンジャケットにズボン、おまけにニット帽を目深に被り手袋まではめていて、はっきりと顔は分からなかった。
 ここまで用意周到な犯人だ。車種などが分からないように店先からは離れた位置に車を停めるくらいの頭は働かせていることだろう。車両の特徴を掴むのは難しいかも知れないが、とにかくは付近の防犯カメラを片っ端から当たるしかない。組の若い衆たちが揃ったら早速に人海戦術で動くことにする。
「それで、いくらでこれを引き取ったんだ」
 周が訊くと、男は気まずそうに苦笑しながら驚くような安値を口にしてみせた。
「ふん――! 随分とえげつない商売をしやがったもんだな。これを置いてったヤツもそれで納得したってんなら相当な馬鹿だ」
 周からしてみれば物の価値を全く分かっていないと、ある意味憤りを隠せないところだが、裏を返せば犯人にとって冰らから奪った貴金属は単なる棚ボタ程度の感覚なのだろうと想像がつく。彼らの目的は金ではなく、里恵子本人か、あるいは冰本人であることが明らかだ。
 周は内ポケットから財布を取り出すと、たった今聞いたばかりの質入れ金額を男の目の前へと差し出してみせた。
「コイツは盗品で持ち主は俺たちの仲間だ。本来返してもらって当然のものだが、それじゃアンタが困るだろう。思っている売値とは桁違いだろうが、今回は差し引きゼロで諦めるんだな」
 つまり、利益にはならないが損もしないというところである。周にしてみれば店が犯人に払った金額を肩代わりするようなもので理不尽この上ないが、今は盗られた物を取り戻すことの方が重要である。店主の男も惜しそうにはしていたものの、周と鐘崎の威圧感の前では首を縦に振るしかない。まあ、差し引きゼロなら御の字どころか上々なのも確かだ。
「こりゃあどうも……。けど、これじゃ旦那の方が大損っすよね? お気遣いには感謝いたしやすぜ」
 男は金を受け取りながらヘコヘコと頭を下げてみせたのだった。



◆24
 その後、鐘崎組の組員らと周の側近たちが合流し、手分けして質屋周辺の防犯カメラを当たることとなった。里恵子の恋人である森崎も組員たちを連れて合流、全員が一丸となって捜索に当たった。
「周さん、鐘崎さん、申し訳ございません! 里恵子の巻き添えで冰さんまで危険な目に遭わせてしまって……」
 森崎は平身低頭で謝罪を繰り返したが、実のところ犯人の目的が里恵子だという確証はない。
「まだ里恵子の巻き添えと決まったわけじゃねえ。もしかしたら目的は冰の方かも知れねえんだ」
 周に宥められて森崎は申し訳なさそうに肩を落としてみせた。
 ここは都内の一等地だ。防犯カメラ自体はそこかしこに見つかったものの、時間帯は深夜である。既に閉店している店もあり、すべてをチェックするには朝を待たなければならないことも多く、思ったように捜索は進まなかった。
「こうなりゃ警視庁の丹羽に応援を仰ぐしかねえ」
 誘拐事件として警察が介入すれば、防犯カメラの映像入手に加えてNシステムなどでも追跡が可能だ。正直なところ極道マフィアが警察組織に助力を願うなど、本来ならならば進んで頼りたくはない相手であるが、丹羽個人にならば打ち明けるのも有りといえる。八方塞がりの今、面子がどうのと言っていられる場合ではない。周と鐘崎は急ぎ丹羽に連絡を取ることに決めたのだった。

 一方、里恵子と冰を拐った犯人は周らが血眼になっているその頃、既に西へ向かう高速道路上にあった。車中では薬物で意識を失った里恵子と冰を目に、愛莉が大文句をたれていた。
「信じられない! 誰が里恵子ママまで拐って来いって言ったのよ! 拉致るのはこの冰って子だけって話だったじゃないの!」
「仕方ねえだろ。そいつをふん縛ってる現場にそのママって女がやって来たんだ。大声出される前に咄嗟に薬を盛った俺らの機転を褒めて欲しいもんだね!」
「……ッ、そりゃ分かるけどー。ああもう! 信じらんない……! ママのイイ男性はヤクザだって噂もあったのよ……? もしもアタシたちが犯人ってバレたら殺されちゃうわよ!」
 愛莉は半狂乱で頭を抱えている。自慢の巻き髪をグシャグシャと両の手で掻き上げては唇を噛み締める。
「相っ変わらずガミガミうるせえんだからよぉ、お前は! とにかくこうなっちまった以上はギャアギャア騒いだってしゃーねえだろ。それに……さすが銀座のママってだけあってめちゃくちゃイイ女だしよ! ここは棚ボタだと思うしかねえだろが」
 男の方は暢気だ。
「冗談じゃないわよ! ママのイイ男性に知れたらマジでヤバいことになるって! 間違ってもヘンな気なんか起こさないでよね! ママに手なんか出した日には冗談抜きで殺されるって! 東京のヤクザを敵に回すなんて絶対にご免だわよ、アタシは!」
 蒼白なのは愛莉だけである。



◆25
「まあ落ち着けって! バレたところで全部あの香山ってヤツのせいにすりゃいいだけだ。俺たちは関係ねえとシラを切り通しゃいいのさ!」
「そんな暢気にしてる場合じゃないってのに……!」
 だが、確かに男の言うことも一理ある。すべてを香山のせいにすれば自分たちに災難は降り掛からないだろうか。いずれにせよ既に拉致してきてしまった今となっては、悔やんでもどうにもならない。愛莉はハラハラとしながらも、とにもかくにもこの二人をさっさと香山に引き渡してよねと念押しするのだった。

 そうして一行が博多へと着いたのは、次の日の昼頃だった。どうやら冰の方がしっかりと薬を食らってしまったらしく、焦燥感いっぱいの里恵子に揺り起こされてようやく意識を取り戻したというところだった。
「里……恵子ママさん?」
「冰ちゃん! 良かった、気がついたのね!」
「ええ……あの……」
 二人が連れ込まれたのは狭く薄暗い部屋で、古ぼけたソファやらテーブルやらが雑多に詰め込まれていて、ビール瓶などをストックする箱なども散らばって埃を被っている所だった。窓もなく、壁やカーテンなどの装飾から察するに、以前はバーかクラブだったようだ。扉の隙間から漏れる陽の光で、今が昼間なのだということが分かる程度である。二人はそのソファの上に寝転がされていたらしい。
「ここ……何処ですか? 俺たちはいったい……」
 意識がはっきりしてくるごとに昨夜の化粧室で起こったことが頭の隅に蘇ってくる。
「そういえば……昨夜、手を洗いに行って……そのまま誰かに羽交い締めにされたような……」
「そう……。相手は男が三人だったと思うわ。アタシが追い掛けて行った時にはもう冰ちゃんは意識を失ってて、助けを呼ぶ間もなくアタシもあっという間に捕まっちゃったのよ」
「……! 思い出しました……。じゃあ俺たちはあのまま……。捕まったのは俺とママさんだけということでしょうか」
「分からないけど、アタシが気がついた時には冰ちゃんと二人きりだったわ。周さんや鐘崎さんたちももしかしたら別の部屋とかで同じような目に遭っているのかも知れないけど、見当たらないわね」
「……そうですか」
 いずれにしても緊急事態に変わりはないだろう。こんな目に遭う心当たりはないものの、周も鐘崎も裏社会に生きる人間である。本人たちはもちろんのこと、家族である自分がいつどんな目的でこうした拉致などに遭ったとしてもおかしくはないという覚悟は常に意識している冰であった。
「とにかく相手の出方を待つしかないでしょうか。もしも拉致されたのが俺とママさんだけとしたら、白龍たちは俺たちがいなくなったことに気付いてくれているはずです」
 冰は咄嗟に自分の腕時計を確認した。GPSを辿ってくれれば案外すぐに助けが来るだろうと思ったからである。だが、肝心のそれを身に付けていないことに気付くと、さすがに蒼白とならざるを得なかった。



◆26
「……やられてしまったようですね。白龍がくれた腕時計が見当たりません」
「腕時計?」
「ええ。俺に何かあった時の為にって白龍が持たせてくれているものです。GPSが入れてあって現在地が分かるようになっているんですが……」
「それが盗られちゃったっていうこと?」
「そのようです。財布とスマートフォンも見当たりませんが……ある意味当然といったところでしょうか。まさかとは思いますけど腕時計の機能にまで気付いて取り上げたとなると、相手は素人ではないかも知れませんね」
 冰は裏社会という点では素人同然だが、周と暮らすようになってからは様々な事件に遭遇してもいる。本人も無意識の内に、ある程度どんなことが起こっても冷静に事態を受け止めることが身に付いてしまっているようだ。
「あら……そういえばアタシの時計も……指輪やイヤリングもないわ……。それに帯留めも……!」
 里恵子が身を弄りながら驚きの声を上げる。
「周さんと鐘崎さんに戴いたキーリングも見当たらない!」
 ということは貴金属の類が根こそぎ持っていかれたということか。冰は更なる事態を冷静に分析していた。
「目的が換金だとすればGPSに気付いて潰された可能性は低いでしょうか。拉致の目的はお金……か。それとも……」
 念の為、里恵子に拉致されるような心当たりがないか訊ねるもすぐには思い当たらないという。
「瑛二も一応組を構えている立場だから、もしかしたら瑛二の関係かも知れないけれど」
 だが、拉致に遭った順番から考えると里恵子よりも冰の方が先である。森崎や里恵子が目的ならば、順番としては逆になるはずだ。
「巻き込まれたのは里恵子ママさんの方で、犯人の目的は俺、もしくは周の可能性が高いかも知れません。昨夜、化粧室にママさんが来てくれたのは俺の様子を見てくれる為だったわけですよね?」
「ええ……。周さんが心配そうにしていらしたから、それならアタシが行って見てきてあげるわっていう話になって」
「だとすれば目的は俺か周で間違いないでしょう。身代金が目的であれば既に犯人から周に連絡がいっているはずです」
 それならばしばらくは待機しかなかろうか。
「このビールケース……メーカーは有名な日本製ですね。ということはこの場所はまだ国内の可能性が高い。犯人は海外絡みではないということか……」
 冰はこれまでも二度ほど拉致に遭ったが、いずれも香港やマカオなどへ連れ去られるという事案だった。だが、今監禁されているこの場所はどうやら空の上という感じではなさそうである。揺れもなければ飛行機特有の騒音もしない。というよりも微かに聞こえてくる横断歩道の信号音からして日本であることは間違いなさそうだ。
「時計が盗られた上に窓も無し……か。あれからどのくらい時間が経ったのかも分からないけど、今回は海外の可能性は低い……。とすればやっぱり白龍が目当ての人質なのか……」
 冰が考え込んでいると、遠くの方から誰かがやって来る物音が聞こえてきて、二人は咄嗟に身構えた。
「ママさん、俺の後ろへ!」
 冰は里恵子を自分の背に隠すようにして固唾を呑む。扉が開くといかにもチンピラといった雰囲気の男が顔を出して、暢気に笑いながら話し掛けてきたのに驚かされるハメとなった。
「よう、お二人さん! 気が付いてたのか! おっはようさんー!」
 なりはチンピラだが恨みつらみといったような敵意は感じられない。話している言語も日本語だ。拉致犯というにしてはそぐわないほどの親しげな素振りだが、それに加えて男からはこちらを気遣うような言葉が飛び出して、ますます驚かされることとなった。



◆27
「いやぁ、悪ィね! こんなむさ苦しい所に連れ込んじまって! 気が付いたんならこっち来いよ! もうちょいマトモな部屋へ案内するからよ」
 男は馴れ馴れしい感じでニタニタと笑う。
「あなたは……どなたですか? 俺たちにどんな御用です?」
 冰が訊くと、男は関心したように肩をすくめてみせた。
「こいつぁまた! 何とも品のいい! ってよりもめちゃくちゃ男前の兄さんじゃねえの。昨夜はこっちもテンパってたんでよく分からなかったが、とんだ上玉だ」
 どうやら危害を加える様子は見られないようだ。冰はもう少し突っ込んで理由を訊ねることにした。
「お目に掛かるのは初めてですよね? よろしければご用件をうかがいたいのですが……」
「ご用件――ねぇ。正直俺にとっちゃあんたらにゃ何の用もねえっつーかさ。ま、言ってみりゃこっちも商売ってところでね。恨みはねえが依頼者のご要望だ」
「依頼者……ですか。それはどのような方なんでしょう」
「どのような方って言われてもな。一応金をもらって頼まれてる仕事だからね。依頼者の素性を教えるわけにもいかねえわけよ」
 そこんトコ分かってくれる? とばかりに冷笑する。つまり、この男は誰かに頼まれて金で拉致を請け負っただけということか。
「そうですか……。ご事情は分かりました。それで俺たちはこれからどうされるというわけですか?」
 冰が落ち着いた調子でいることを不思議に思ったのか、はたまた感心したのか知れないが、男は大したもんだとばかりに呆れ半分で肩をすくめてみせた。
「あんた、若えのに随分と肝っ玉が据わってんのな? 正直あの情けねえ専務とはツキとスッポンって感じだわなぁ。あんたにゃつくづく同情させられるっつーかさ、いくら仕事でもこんなマトモな兄さんをハメるのは申し訳ねえ気になってくらぁ」
 男が口を滑らせた”専務”という言葉から、拉致を依頼した黒幕はどこかの会社の専務なのだろうと推測される。だが、ここは深く突っ込まずに聞かなかったふりをしてサラリと受け流すことにした。
 おそらくこの男は思慮深いタイプではないのだろう。口を滑らせたことを指摘するよりも、上手く調子を合わせていればその内にもっといろいろなことを喋くってくれるかも知れない。そこのところの判断は冰の手腕といえた。
 男の方も冰の臆せず、かといって小馬鹿にするでもなく、怯えるでもない態度に興味を抱いた様子だ。こちらの知りたい情報をペラペラと喋り出してくれた。
「こう見えて俺はここいら界隈では顔が利く方でね。ここは大陸に近いこともあって異国のマフィア連中とも繋がりがあるわけだ。あんたらにゃ悪いが、そいつらに売り渡そうって寸法さ!」
「売り渡す……俺たちをですか? それが依頼者という方のご意向ということでしょうか」



◆28
 案の定またもや男が口を滑らせた”大陸が近い”というヒントから考えると、今いるこの場所は都内ではないのかも知れない。ひょっとすると九州か、あるいは日本海側の海沿いが連想できた。
「大陸のマフィアとおっしゃいましたが、あなたはそういった方々とお知り合いなのですか?」
 冰が訊くと男は自慢げに胸を張ってみせた。
「まあな。商売上いろいろとツテがあってよ。あんたらを引き渡す先はまだ決まっちゃねえが、香港かマカオ、台湾あたりの連中で一番いい条件のところになるだろうな」
「香港かマカオ……ですか。俺たちはそこのマフィアに売られるということですか?」
「そういうこと! っつーかさ、あんた随分と落ち着いてっけど……怖くねえのか? マフィアに売り飛ばされるなんて聞いたら、たいがいは泣いて騒ぐのが普通じゃね? それともあんまり現実離れした話なんで、実感が湧かねえってだけなのか?」
 冰のあまりの堂々ぶりに男の方が怪訝そうに警戒色を強めている。
 確かに普通から考えると、拉致された上に売り飛ばされるなどと聞けば怯えて当然なのだが、過去に二度も同じ目に遭っている冰にしてみれば、恐怖よりも先に理由が知りたいと思ってしまうわけだ。変な話だがある意味慣れっこになっている感があるのかも知れない。
 それ以前に普段一緒に暮らしている亭主がマフィアそのものなわけで、冰自身も現在はファミリーの立場であるのだから”マフィア”と聞いてもピンとこないというのが正直なところだろう。本人は自覚がなくとも、自然とそういったオーラのようなものが身に付いてしまっているのかも知れない。
 だが、男の方からすればえらく奇異な感じに映ってしまうようだ。察するに、自分が拐って来たこの年若い男がただの青年実業家の愛人という程度の認識しかないと思われる。つまりはこちらの素性をまったく知らないということだ。そうでなければマフィアをマフィアに売り渡すなどという発想はよほどでなければ出てこないだろう。
 こういった場合、先ずは相手の目的と同時にどの辺りまでこちらのことを把握しているかによっても対応を変える必要がある。手の内を見せずに相手からは引き出せるだけの情報を合理的に得るにはどう立ち回ればいいのかを瞬時に判断していく。そこのところの判断は亡き黄老人の教えの賜物といえるが、駆け引きという意味ではディーラーの経験と相通じるものがあるようだ。冰にとってはある意味興味をそそられる部分といえる。
 どう出ればスマート且つ鮮やかにこの男をねじ伏せることができるのか――その過程を幾筋か瞬時に頭の中で組み立てて、一番有利に運べそうな道を選んでいくことは、冰にとって苦痛というよりもむしろ興味深いと思えるものでもあった。
 相手の男は態度ともに口も軽く、こちらに対して直接的な動機は持っていない。金絡みで請け負った仕事として捉えているなら、その”仕事”の部分を妨害する素振りさえ見せなければ敵意を抱かせることはないだろう。加えて人見知りではないようだし、口が軽いのであれば話好きと想像できる。相手の心をくすぐる会話で徐々に情をこちらに手繰り寄せていくのも有りか――。
 冰は自らも少々饒舌になり、男との会話を繋いでいくことから探りを入れる作戦に決めた。



◆29
「まあ、確かに映画かドラマみたいなお話なので実感が湧かないと言うのもありますが……正直に言えば怖いですよ。第一、何でこんなことになっているのかも分からないんですから。ですが、泣いて騒いだところでどうなるものでもないでしょう。それよりも、俺が知りたいのはあなたにこのことを依頼した方についてです。もちろんあなたが依頼者の秘密を守らなければならないのは理解できますが、こちらとしてもいきなり異国のマフィアに売り飛ばされるなんて聞けば、その理由くらいは知りたいと思うのは当然でしょう」
「まあ、そりゃあなぁ」
 男は確かに冰の言うことも一理あるという表情をする。平気で拉致を請け負うくらいだから、いい人間とは言えないが、思慮が浅いだけで根っからの悪人ではないのかも知れない。
「それに――本当に異国に売られてしまうのであれば、俺たちはこの場から居なくなってしまうわけですから」
 つまり拉致の理由を明かしたところで、依頼者には秘密は守ったと言えばいいだけだ。
「本心を言えばその依頼者という方にお会いして理由を訊きたいのは山々ですが、それではさすがにあなたが困られるでしょうから」
 理にかないすぎというくらいの冰の言葉に男も思うところがあったわけか、しばし首を傾げて考え込んでいたものの、今回の拉致に関して詳細を告げる気になったようだ。
「あんた、ホントに上物っつーか、できた人間っつーかさ。正直気の毒にも思えてくらぁな。よし、分かった! 本来はタブーだが、あんたの人柄に免じて教えてやらぁ。実は俺にあんたの拉致を依頼したヤツってのはな、あんたの存在そのものが気に入らねえらしいんだわ」
「気に入らない……俺をですか? 俺、どなたかに恨まれるような失礼をしたんでしょうか」
「や、失礼とかそういう問題とは違えだろうな。あんたが何かしたとか恨まれてるとかってよりも……あー、クソ! どう言やいいんだぁ、これ?」
 冰が理詰めで立板に水のような話し方をしたせいでか、男も言っていいことと悪いことを咄嗟に判断するのが難しいようだ。グシャグシャと頭を掻きながら参ったなというように眉根を寄せている。
 ここで考えさせる間を与えてはならない。
 冰はクイと可愛らしい仔犬のように首を傾げては、『早く言え、アンタが頼りなんだよ』というような素振りで煽りに入ってみせた。案の定、男は言葉を選ぶ暇もなく、結局は核心をぶちまけるしか思い付かなかったようだ。
「あー、つまりな……その、そう! 早え話があんたさえいなくなりゃ好きな男が自分のものになるとかならねえとか。つまりはあんたが今付き合ってる相手、氷川っつったっけ? 依頼者はその男に惚れてるらしいよ!」
「惚れてる? 氷川にですか?」
 男は「うんうん!」というように首を縦に振っては、これ以上は勘弁してくれと言いたげだ。
「なるほど……。それでしたら俺を邪魔に思うのも仕方ないというところでしょうか」
 と言いつつも内心ではさすがに驚きを隠せない。それまでは側でおとなしく聞いていた里恵子も然りだ。
「氷川さんに惚れているですって? じゃああなたに依頼した人物っていうのは女性なの? もしかして私たちの顔見知りだったりして……」
 今度は里恵子がそう訊いた。



◆30
「ま、まあそこンところはさすがに教えらんねえな。けど一応理由は話したんだ。今はこれで納得して欲しいね。それよか腹減ってんだろ? 風呂にも入りてえだろうし、とにかく付いて来いよ。あんたらの引き渡し先が決まるまでは近くのホテルを用意してやるからさ!」
 せいぜい残り数日を寛いでくれという男にこれ以上突っ込んで訊くことはしないでおく。ひとまず欲しい情報は拾えたわけだが、今の話が本当だとするとさすがに溜め息を隠せない思いだった。
 依頼者が周に好意を寄せていて、伴侶である自分をうとましく思っているということ自体も驚愕だが、その人物の正体は分からずじまいだ。当然だが心当たりもない。
 いつぞやも周の学生時代の知り合いだった唐静雨という女性の一件ではいろいろと苦労させられたものの、またしても自分の知らないところで周に想いを寄せる誰かに妬みを買うことになろうとは、さすがに消沈せざるを得ない。
 だが、まあとりあえず理由は分かった。つまり、何の関係もない里恵子を巻き込んでしまっているということだ。自分はともかく、里恵子だけは何としても無事に森崎の元へと帰してやらねば申し訳ない。冰はひとまず言われた通りに従いながら里恵子の安全を最優先に考えて、この状況から脱する機会を窺うことにしたのだった。
 そうして男に案内されたホテルというのに着くと、またもや驚かされる羽目となった。なんとそこは一般的なビジネスホテルなどではなく、ラブホテルだったからだ。
「ここはウチの組がやってるホテルでよ。世間で言うところのラブホってやつだけど、寝泊まりはできるし風呂もあるから。まあほんの数日だろうし勘弁してくれよ」
 これでも割合広いタイプの部屋を取ってやったんだぜと男は得意顔だ。”ウチの組が経営している”という言葉から察するに、この男はヤクザ者ということなのだろう。極道者であるなら鐘崎組のことも知っているかも知れないが、こちらがその縁者だということは後々の切り札として取っておく方が無難だろう。友好関係にある間柄ならば良いが、敵対組織という可能性もある。やたらなことは言わずに今は手の内を見せないに越したことはない。
 それよりも、如何に緊急事態といえど里恵子と二人でラブホに寝泊まりとは――周や森崎が聞いたら眉根を寄せるに違いない。まあ不可抗力であるし、先程押し込まれていたような部屋に比べればマシなのは確かだ。強引な手段で拉致されてきたにしては扱いが最悪でないことにも満足しなければならないだろう。
 すぐに食事を届けるからと言う男に対して、冰はとりあえずの礼を述べると共に、できれば里恵子の着替えも用意してもらえたら有り難いと付け加えた。
「ご覧の通り彼女は着物姿です。これでは寝るにしても着替えるにしても不便ですし、洋服をお貸しいただけると有り難いのですが」
「ああ、構わんよ! ついでにアンタの着替えも見繕ってきてやるわ。俺のお下がりだがアンタの方が細っこいから着られるだろうぜ。パンツは……アレだな、さすがに俺ンじゃ嫌だろうし、コンビニので良ければ買ってきてやるわ! そんじゃメシと一緒に届けっから」
 男は快諾すると、一応このホテルには監視カメラも付いているし、出入り口は組の者が見張っているので、逃げようという考えだけは起こさない方が無難だぜと釘を刺して部屋を後にしていった。
 その後ろ姿を見送りながら冰と里恵子はホッと肩を落とす。とにかくは暴力などを振るわれずに二人きりになれたことで緊張の糸がゆるんだのだ。



◆31
「里恵子ママさん、とんでもないことに巻き込んでしまって申し訳ありません。犯人たちの狙いは俺のようですし、ママさんには本当に何とお詫びしたらいいか……」
「ううん、そんなことない! でもさすがに周さんのパートナーだわ! 冰ちゃんすごく落ち着いて対応してくれたから、さっきの男の人もヘソを曲げなかったんだわ」
 極端に怯えたり過剰に逆らったりすれば、相手を刺激して、からかいついでに小突かれたり暴力を振るわれていたかも知れない。冰が冷静且つ丁寧に接したことで先程の男も荒ぶらずに済んだのかも知れないと里恵子は礼を述べた。
「一先ずは落ち着けたけど、でもこれからどうしましょう。周さんたちもアタシたちが拉致されたことはとっくに気が付いているでしょうけど、さすがにこの場所までは突き止められるかどうか……」
 冰のGPS付きの腕時計が奪われたとなっては、そこから追うのは難しいだろうと推測できる。
「そうですね……。俺の腕時計が何処にあるかにもよりますが、さっきの男の人が持っていてくれるなら案外すぐに助けが来ると思うのですが――」
「そうよね。さすがにこのホテルの場所までは分からなくても、周さんたちがあの男に辿り着けば鬼に金棒だわ」
「問題は……何らかの理由で腕時計のGPSが追えなかった場合のことをどうするかです。さっきの話だと俺たちを大陸のマフィアに売り渡すということでしたが、正直なところ売り渡してくれた方が道は開けるんじゃないかという気もします。それが本当に香港マフィアならば――の話ですけど」
 確かにそうだ。本当に香港マフィアというなら、冰にとっては一応ファミリーということになる。仮にマカオのマフィアだったとしても、張敏をはじめ伝手がないわけじゃない。言語の点でも心配はいらないし、こちらの素性を話せば何らかの道は開けるかも知れない。問題があるとすれば、売り渡される先のマフィアというのが偽物だった場合だ。
 ひとくちにマフィアといっても香港の周ファミリー直下ならばともかく、枝分かれした組織の下っ端の――そのまた下っ端などという可能性も高い。相手が幹部クラスならば話は通じるだろうが、それこそ周ファミリーの顔すら見たこともないようなマフィアまがいならば、何を言っても通じないだろう。色が目的の闇市にでも売り飛ばされるか、下手をすれば臓器を抜かれて――などということも有り得るかも知れないのだ。
 いずれにせよ里恵子をそんな危険な目に遭わせるわけにはいかない。できることなら日本にいられる間に何らかの手を考えるのが必須だと踏む冰であった。



◆32
「とにかく、ここに居られる内にできそうな対策を考えましょう。さっきの男の人が食事と着替えを届けてくれると言っていましたし、彼に会えたらもう少し話をしてみることにします」
 調子の良さそうな男だったし、巧みに言葉で誘導できれば思わぬ道が開けるかも知れない。場合によっては冰お得意の演技であの男をこちらの味方につけることも考えねばならない。依頼者よりもこちら側に肩入れするのが得だと思わせることができれば或いは風向きを変えられるだろうか。冰はどう出れば上手い方向へ持っていけるかを思い巡らせるのだった。

(あの人は商売で今回のことを引き受けたと言っていたよね。ということは依頼者から入る手数料と……俺たちを売り飛ばす際に入手できる金額を上回る条件を出せれば、案外コロッと考えを変えてくれるかも知れないけど……)

 男の感じからして金さえ積めば簡単に動きそうだが、問題はその金をどう都合するかである。
 むろんのこと、ここで男を騙すだけの為に大口を叩くことも手だが、ああいった男に対しては目の前に現生を積まないことには信用してはもらえまい。手っ取り早くこちらへ引き込むには口約束だけでは難しいだろう。例えばの話だが、周に連絡を取ってあの男が目を剥くような現金の束でも積んで見せれば即寝返るかも知れないが、さすがにこの手は現実味がない。
 だがまあ、風向きを変えられそうなタイミングさえ巡ってくれば一瞬の判断で光明が差すかも知れない。それを見逃さない為にも冰は神経を研ぎ澄まさねばならないと自分に言い聞かせるのだった。



◇    ◇    ◇



 一方、周らの方でも警視庁の丹羽と合流して二人の行方を追っていた。大人二人を連れ去ったとすれば、車は最低でもワゴン車かそれ以上の大型車だろうと踏んで、例の質屋周辺の防犯カメラを当たっていった。幸いなことには二人が拉致されたのは深夜である。車の台数も少ないことから、目的を絞り込むのは意外にも手こずらずに済んだ。
 目星がついたのは三台であった。一台は二トン車で、Nシステムで追った結果、近隣倉庫に出入りしているだけの商業車だと判明した。残る二台はいずれも普通のワゴン車で、一台は東北道へ入り、もう一台は西へ向かう高速道路で確認できた。
「このいずれかに拉致された二人が乗せられている可能性が高いな。運転手はどちらも男だが、あいにく現段階ではどちらと決めるには至らない。引き続きNシステムでこの二台を監視する」
 丹羽の協力でここまで絞り込めたものの、追跡には時間を有することは致し方ない。周らは何もできずに待つしかない歯痒さを噛み締めながらも、二人の無事を祈るのだった。



◆33
 そうして一夜が明けた。
 周は正直なところ仕事どころではなかったが、事情を知る由もない業務は待ってはくれない。クライアントは次々にやって来るし、後回し出来る接待などを除いては仕事をなおざりにするわけにもいかず、業務は側近の劉に任せることにして李と共に冰らの行方を必死に追っていた。
 まずは過去の例の通り、海外へ連れ去られた可能性を考えて空港からの離着陸を当たる。丹羽の話では目ぼしい車輌は北と西へ向かう高速道路上で発見できたということだったので、羽田以外の各空港についても念入りに調べを進めていく。すぐに追えるようにプライベートジェットやヘリの飛行許可も手配する必要がある。李や側近たちもまじえて寝ずの調査で拉致から半日を迎えようとしていた。
 そんな折だ。いつもは劉と冰が二人一組でツインタワーに入っている関連企業周りをするのが日課なのだが、今日は劉一人が忙しなくしている様子を気に留めた受付嬢の矢部清美から気になる情報が拾えることなろうとは意外であった。彼女からの言葉は思いも寄らない蜘蛛の糸となって周らに光明をもたらすこととなったのである。
「あら、劉さん! 今日は随分とお忙しそうね。雪吹君の姿が見えないけれど、もしかして風邪でも引かれたの?」
 劉は無意識にも険しい表情でツインタワーとの間を行ったり来たりしていたようだ。その際、必ず受付の前を通るので、不思議に思った清美から声を掛けられたのだ。
「ああ……いや、そういうわけではないのだが……」
 何とも言いづらそうに言葉を濁す劉の様子に、勘の鋭い清美は何かあったのかと不審に思ったようだ。
「実は私たちの方でも雪吹君に相談したいことがあって。来週のお花見イベントの件なんですけど」
 周の社では毎年社員たちへの福利厚生として季節毎にイベントを行なっているのだ。花見や花火大会、秋には小さな神輿を出してのイベントなどもある。冰は秘書課だから、社員たちの参加人数や要望やらを取りまとめる任務も請け負っていて、これまでにも何度か清美と協力して行事に携わっていたのだ。
「花見イベントか……。では雪吹さんに代わって私が要件を聞いておくが」
 劉がそんなことを言い出したので、清美はますます不思議に思ったようだ。
「あの……何かあったんですか? もしよかったら後程秘書室をお訪ねしてもよろしいかしら? 劉さんにお言付けしてもいいんですけれど、イベントのことはこれまでも雪吹君と一緒にやってきたから」
 できれば冰と直接話したい様子の彼女に、さすがの劉も何と断ればよいか頭をひねらされるところだ。
「雪吹さんは今……その、そう! 社長の御用で出張に出られていてな。帰って来たらキミに連絡を入れるように伝えるから……」
「あら……そうだったんですか。じゃあ一応これが参加者の名簿と進行表です。雪吹君が帰られたらまた詳しくご相談させてください」
「あ、ああ分かった。預かっていくよ。キミたちもご苦労様だ」
 劉は資料を預かると、そそくさとその場を後にしていった。



◆34
「うーん、どうも様子がおかしいわ。劉さん、ぜったい何か隠してらっしゃる」
 清美が難しい顔で腕組みをしていると、後輩の英子が興味ありげに首を傾げた。
「清美先輩、何かあったんですか? 雪吹さんがどうのってお話してらしたようですけど」
 冰が以前拉致に遭ったことは受付嬢らの間では知らない者はいない。劉の不審な態度からしても、またもや何か事件めいたことでも起こったのかと気持ちが逸るわけだ。
「うん、まだ何とも言えないけど……女のカンからすれば何かあったのは間違いない気がするわね。まさかだけど……雪吹君がまた誘拐されちゃったとか」
「ええッ!? まさか……!」
 英子も驚き顔だ。
「雪吹君ってめっちゃイケメンだし……、だけど社長や李さんたちと違って線が細いっていうのかしら。なんていうか、上手く言えないけど……性格もやさしいし、つけこまれやすい雰囲気満々なのよねぇ。こんなこと言ったら怒られるかも知れないけど、良からぬ組織に目をつけられて食い物にされちゃいそうな危うい感じっていうの?」
「それで誘拐ですか? んもう! 先輩、映画じゃないんですから!」
 英子は笑うが、清美は存外真面目なようだ。
「そうよ、まさに映画かアニメならさ。雪吹君を気に入った悪の組織に誘拐されて、危ないところを間一髪で社長が助けに行くとか! なーんかそんな想像が浮かんじゃうのよねぇ」
「いやだ、清美先輩ったら! それじゃボーイズラブじゃないですか! あー、でも確かに社長と雪吹さんなら絵になりますよね! アタシ、今度の同人誌イベントでそんな漫画描いてみようかな」
 どうやらこの英子という後輩は創作が趣味らしく、以前から同人誌なども発行しているらしい。清美自身はあまり興味がないようだが、彼女の影響で理解はあるのだ。
「そういえば英子、ボーイズラブ好きだったわね。まあうちの社長は抜群のイケメンだし、何て言ったっけ? あんたがよく言ってるスーパー……なんだっけ?」
「スパダリですよ、スパダリ! スーパーダーリン! 社長のようなスパダリに美青年秘書の雪吹さんかぁ。そうだわ、美しい秘書が別の誰かに惚れられちゃって誘拐される。あわやこれまでかっていうアブナイところへスパダリ社長が助けに来るとか最高じゃないですか! ああ……なんかいいのが描けそうな気がしてきました!」
 英子はすっかり妄想の世界に入ってしまったようだが、清美にとっては今の英子のひと言で閃いたことがあったようだ。
「そうだわ、そういえば……」
 ガサゴソと受付デスクの中をまさぐると、一枚の名刺を取り出して英子へと差し出した。
「ねえ、あんたも覚えてるでしょ? ちょっと前に社長を訪ねて来た元社員だったとかいう男の人!」
「ああ……博多から来たとかいう。ええ、もちろん覚えてますけど」
 名刺を見つめながら英子もうなずいた。



◆35
「この人がどうかしたんですか?」
「うん、まだ何がどうって決まったわけじゃないんだけどさ。あの時、社長たちがランチに出掛けるのをじーっと見つめてたのが妙に引っ掛かったっていうか……ちょっと普通じゃないなって思ったのよ。それで念の為にと思って名刺を取っておいたんだけど」
「まさかこの人が雪吹さんを誘拐したとか?」
「そうと決まったわけじゃないけど……アタシの第六感が何かヤバいなーって雰囲気を感じたのは確かっていうか」
 そんな話をしていると、英子が思い出したように突如大きな声を上げた。
「あー! そういえば思い出しました!」
「こら! 大声出して!」
 嗜めるようにグイと英子の腕を引っ張って『しーッ!』と指を口元へ持っていく。
「す、すみません! でもこの人……確かあの後も見掛けたなって思って」
「見掛けたですって!? いつ!?」
 今度は清美が大声を上げてしまい、咄嗟に二人でデスクの陰に身を潜める。
「この人が訪ねて来た次の週だったかな……清美先輩がお休みの日でしたから言うの忘れてました」
「まさかまた社長を訪ねて来たとか?」
「いいえ、そうじゃないんですけど、向かいのツインタワーにあるカフェで! 随分長い間居座っていたようでしたけど……」
「それ、本当にこの人で間違いないの?」
「ええ。あの時はどこかで見た人だなぁくらいにしか思ってなくて、気にも留めなかったんですけど。ただ、その後もランチに出た時に今度は別のカフェで見掛けたんで、何してんだろうって思ったんですよ」
「別のカフェですって? この人、一人だったの?」
「ええ、それもやっぱりツインタワーに入ってるお店で。窓際に陣取ってずっとウチの会社の方を見てたっていうか……。ランチで見掛けた時は二階の軽食喫茶だったかな。さっきは一階のカフェにいたのに今度はこっち? って不思議に思ったのを覚えてます」
「まあ……。何だか怪しいわね。それで……格好とかは覚えてる? スーツだったとか普段着だったとか」
「えっと……スーツだったと思います。ここに訪ねて来た時と同じような感じの」
「本当に一人だった? 誰かと商談でもしてて、相手の人が化粧室に行ってるとかじゃなくて?」
「うーん、私が見た時は一人でしたよ。ランチの時は通り掛けに見ただけだからハッキリとは断言できないですけど、一階のカフェに居た時は一人でした。窓際の……ほら、ここからも見えるあの辺りの席でした」
 英子が指差した席からは確かにこちら側がよく見える位置だ。全面ガラス張りのカフェなので、様子を伺うには絶好といえるだろう。
「ツインタワーのカフェを転々と……かぁ。もしかしたら別のカフェにも居た可能性あるわね」
 いかに長居するといっても一箇所で何時間もというのはさすがに居ずらいかも知れないし、そういった意味で店を移動したとすれば、目的は何だろうと勘繰りたくもなるというものだ。
 清美はこのことを李らに報告すべきか迷ったが、些細なことでも何かの役に立つかも知れないと思った。何もなければ聞き捨ててくれればいいわけだし、何より自分のカンが告げるべきだと言っているのだ。
 先程の劉の態度からしても何かあったことは間違いなさそうだ。ここは鬱陶しがられようが報告すべきと腹を決めた清美であった。
 かくしてこの判断が事態を好転させる大きなきっかけとなるわけだが、まさに女の第六感が功を奏した結果といえる。



◆36
 その後、清美と英子からの報告を受けて、周らは直ちに博多の香山について詳しい素性を調べに掛かった。また、同じ頃、別ルートから調査を進めていた鐘崎の方でも目ぼしい情報が入手できたらしく、紫月を伴って汐留の社へと駆け付けてくれた。
 それによると、里恵子の店のホステスが拉致の少し前に以前勤めていた女から周についていろいろと訊かれたことが分かったというのだ。訊いてきた女というのはもちろんのこと愛莉である。
「愛莉というと――前に冰が記憶喪失になった時に俺を訪ねて来た例の女か」
 彼女についてはその後厄介なことが起こらないようにと李が素性を探っていたはずだ。
「愛莉という女ですが、クラブ・フォレストを辞めた後は出身地である博多へと舞い戻ったようです。あちらでもホステスとして生計を立てていたようですが、特に老板に対して恨みを抱いている様子も見受けられなかった為、周期的に様子を窺うに留めておったのですが」
 李の説明によると、愛莉は容姿が整っているゆえに興味を持ったことには割と物怖じせずに突っ込んでいくという行動力の持ち主らしい。まあ、周のところへも単独で訪ねて来たくらいだし、その点は納得である。だが、性格的にもサバサバとしていて、手に入らないと思った場合の諦めも早く、これがダメなら次――というふうで切り替えも早いらしい。そんな女だから、周への恨みを抱く可能性は低いと認識していたという。
 今の李の説明と鐘崎らの調べ、そして受付嬢たちからの報告でいよいよ事態が見えてくる。
「――博多か。香山のヤツも博多だったな」
「とすると、どこかでその愛莉と香山が出会ったことで厄介な方向に歯車が噛み合わさってしまったということか――。二人で話す内に今回の計画に行き着いた可能性が出てくるな」
 周と鐘崎が互いを見合わせる。
「けどよ、仮に愛莉って女が氷川に仕返しを考えたとして、香山ってヤツはどう絡んでくるわけだ? 受付の姉ちゃんたちの話からすると、冰君に一目惚れでもしちまったんじゃねえかっていう想像だっけ? けどそいつって嫁さんもガキもいるんだろ?」
 紫月が首を傾げていると、その脇から鐘崎が付け加えた。
「冰に惚れたというよりは――氷川、案外お前さんの方が狙いなのかも知れねえぞ」
「香山が俺を?」
 さすがに有り得ないだろうと周は苦笑気味だ。それこそ紫月の言うように彼には女房も子供もいるわけだし、立場的にも地元で老舗の文具店を継いでいて、いわば堅実な人生を歩んでいると思われる男だ。
「ですが……そう言われれば思い当たる節がないわけでもありません。香山は我々と偶然銀座で出会った後もわざわざ社にまで訪ねて来ています。あの時も老板にのみ話があるということでしたが、いったい用向きは何だったのです?」
 李が訊くと、周も確かに大した用件ではなかったと、その日のことを振り返った。
「博多に帰る前にひと言挨拶がしたかったと言っていたな。新しくなった社屋を見たかったとも……。そういや名刺を欲しがったんで渡したんだが、その後に俺の携帯の番号を訊いてきた」
 ちょうどその時、鐘崎からの着信が入ったので、すっかりそのままになって忘れてしまったわけだ。



◆37
「プライベートの携帯番号か。これはやはり、その香山ってヤツは氷川に対して何らかの気持ちを抱いている線が強いな」
 それが色恋に近い感情なのか、はたまた全く別の仕事や出世に関することで大きな会社を率いている周を利用したいのかはともかくとして、近付きになりたい意図はあると見ていいだろう。
「そこへ持ってきて地元が同じ愛莉という女と何らかの形で接触する機会があった。話す内に二人に共通する氷川という目的に辿り着いたとしたら……」
 鐘崎の推理は相変わらず冴えていると言えるが、それならば拉致されるべきは周であろう。
「けど実際連れてかれたのは冰君の方だぜ? あの日は……結構長く里恵子ママの店にいたわけだし、俺らもだけど氷川だって一人でションベンくらいは行ったべ? その気になれば拉致るチャンスはいくらでもあっただろうにさ。里恵子ママは偶然その場にいたから一緒に拐われたとしても、わざわざ冰君を拐う目的は何だよ?」
 これは紫月の疑問である。
「冰を通して氷川にコンタクトを取りたいならば、既に連絡が来ていてもおかしくない。だが今のところ何の動きもないとすれば……考えられるのは冰を苦境に落とすことで氷川が苦しむ様子を見るのが目的か。もしくは氷川が相手では反撃に出られそうだと踏んで、拐いやすい冰を狙ったという線も考えられるが」
「ってことは……やっぱり香山ってヤツが氷川に恋愛感情を持ってて冰君に逆恨みでもしてるってことか?」
「あるいは愛莉という女が老板に門前払いを食らったことを恨んでいて、その腹いせの感情を冰さんに向けたということでしょうか」
 鐘崎と紫月、李の推測に周は思わず拳を握り締めてしまった。
「よし、ともかくここでこうしていても仕方がねえ。すぐに博多へ飛ぶぞ! これまでの情報と今の皆の意見からすれば冰と里恵子は博多へ連れて行かれた可能性が高い。まずは香山と愛莉に会って直接確かめる」
「俺と紫月も一緒に行く。念の為、警視庁の丹羽にも連絡を入れる。西へ向かったワゴン車のその後の足取りが掴めているかも知れんし、拉致犯を捕まえる為にも丹羽が指揮を取ってくれた方が都合が良かろう」
 こうして一同は一路博多へ向かうこととなったのだった。



◇    ◇    ◇



 その頃、冰と里恵子の方では拉致犯の男から意外な待遇を受けて驚かされる事態となっていた。
 冰が頼んだ里恵子の着替えと共に食事を運んできた男から彼の携わっている店で遊ばせてやると持ち掛けられたからだ。
「実は俺の組じゃカジノを経営していてな。よかったら遊んでいかねえか?」
「カジノ……ですか?」
 香港やマカオと違って日本ではカジノがあると聞いたことがないと冰が首を傾げる。男もそれに気付いたわけか、少々バツの悪そうに苦笑いをしてみせた。
「まあ……カジノっつっても闇ってやつだけどな。んでもそこそこデカくやっててよ、そこいらの闇カジノと比べりゃ本格的なわけよ! あんたらにゃ売り飛ばされる前にちったぁ楽しい思いをさせてやりてえと思ってさ」
 男いわく冰らが思っていたよりマトモな人間だった為、情けを掛けてやりたいと思ったのだそうだ。
「元手のチップはこっちで都合してやっからよ。せめても遊んでってくれよ!」
 そんな温情を掛けてくれるくらいなら売り飛ばすこと自体を考え直してくれた方が有り難いのだが、さすがにそう都合良くはいかないだろう。
 だが冰にとっては興味を引かれない話でもなかった。闇だろうがなんだろうが、カジノというならそこで事態を好転させられる機会が作れるかも知れないからだ。



◆38
 察するに、その闇カジノとやらに大陸からのマフィアと称する面々も出入りしていると思われる。男が何故そんなところで遊ばせてやると言うのか真意の程は知れないが、もしかしたらそこで自分たちが品定めをされるようなことも兼ねているのだろうかと想像できた。
 しかし闇とはいえどカジノであるなら冰にとっては棚から牡丹餅も同然のまたとない機会といえる。ここは有り難く男の厚意を受けるふりをして、ひとまずは言われた通り世話になることに決めたのだった。

 夜になると男が迎えにやって来て、冰は里恵子と共に闇カジノへと案内された。昼間聞いた通りにチップは用意されていて、どこでも好きなテーブルで遊んでいいと言われたが、さすがに闇――つまりは違法なだけあって、周ファミリーやマカオの張敏たちの店とは雰囲気がまったく違う。男が自慢するだけあって確かに規模的には大きいといえるが、薄暗い中に方々から立ち上る紫煙のせいでかフロアは靄がかかっているふうで、客も見るからに危なさそうな者ばかりだ。大陸からのマフィアが混じっていてもおかしくはない――というよりもそれで当然だろうと思わせる雰囲気だった。
「里恵子ママさん、絶対に俺の傍を離れないでください」
 冰は彼女の手を取って自分のベルトを掴ませると、さりげなくスーツの上着で隠してからゆっくりとフロア内を歩き出した。本来であれば里恵子はホテルに待機させておくべきだろうが、この状況で二人が離れ離れになるのはかえってまずい。互いに目の届く範囲で共にいた方が安全との判断であった。
 男と別れると、冰はなるべく目立たないように気を配りながらフロア内をザッと見渡して歩いた。客やディーラーの雰囲気を肌で感じとっていく為だ。亡き黄老人からしつこいほどに教え込まれた身の振り方のひとつ、その場その場で周囲に溶け込み、悪目立ちせず変幻自在の自分を作り出せという教示である。
 この雰囲気の中ではどう振る舞えば有利に持ち込めるかをいち早く掴み取って、それに合わせた人物像を演じていくわけだ。
 事実、ジゴロやヤサグレといったイチモツもニモツも含んでいそうな連中の中にあっては、素のままの冰など場にそぐわない坊々の優男にしか映らない。舐められて、ただ立っているだけでちょっかいを掛けられるか、悪くすれば憂さ晴らしに因縁でもつけられるのが目に見えている。まずは周囲からそのように見られない為にも、棘のある威圧的な印象を身にまとうことが必要不可欠だ。そう踏んだ冰はすぐさま自分の雰囲気を下卑た男へと変える演出に取り掛かったのだった。



◆39
 一歩、また一歩と歩を進めるごとに冰の目つきは仄暗い事情を背負った飢えた獣の如く鋭さを増していく。歩き方ひとつにしても次第に下品な仕草へと変わっていく。フロアを半分進んだ頃にはすっかり圧を伴った危ない若者といった雰囲気を纏っていた。
 驚いたのはその変貌ぶりを間近で見ていた里恵子だ。数分前までとはまるで別人のような危険な匂いが掴んでいた彼のベルトを通してビリビリと伝わってくるのが怖く感じられるほどなのだ。
 里恵子が一番最初に冰と出会ったきっかけといえば、唐静雨と一緒に周と鐘崎に復讐を企てていた鉱山での拉致事件だ。あの時も周を助ける為に一大演技をかまして見事に窮地を切り抜けた手腕を目の当たりにしたわけだが、その後里恵子自身も改心して彼らと交流を深める中で、冰本来のやさしい性質に触れていき、彼がどんな人間であるかはよく理解したしたつもりになっていたものだ。
 今もきっとあの時と同じように何らかの演技でこの場を切り抜けようというわけなのだろうが、それにしても一瞬と言えるほどの短時間でこれほどまでに纏うオーラを変えてしまえる資質には驚きを隠せない。

(冰ちゃん……? 本当に冰ちゃんよね?)

 思わずそんな言葉を掛けたくなってしまうくらいに変貌を遂げた彼の傍らで、里恵子は逸り出す心拍数を抑えるだけで精一杯であった。
 そんな中、とあるテーブルの側を横切った時に冰は突如として歩をとめた。そこではカードゲームが行われていて、賭けている客の一人が悔しげに歯軋りをしているのが目についたからだ。
 無精髭を生やし帽子を目深に被った、いかにもな風貌の男である。歳は分からないが、若者には見えないから四十代くらいだろうか。
[クソ……ッ! またヤられた……! いったいどうなっていやがる!]
 チッと舌打ちと共に男が漏らしたひと言は日本語ではなく、彼の左右にいる客たちにはその意味が分からないようである。男がしゃべっていたのは広東語だった。
[こうまでツキがないとは信じられねえ……! シャングリラでもここまで追い込まれた試しはねえってのによ!]
 焦れた態度から察するに、おそらくはえらく前から挑んでいるものの負けが詰んでいるといったところか。それより何より彼が口走った”シャングリラ”というひと言だ。広東語を話しているところから見ても、おそらくは周ファミリーが持つカジノの名であることは明らかと思えた。冰はしばしそのテーブルを窺った後、さりげなくその男の背後に忍び寄ると、早口の広東語でこう囁いた。
[三枚です]
 男が驚き、思わず振り返ろうとしたのを咄嗟にとめてもうひと言を付け加える。
[振り返らないで! いいから三枚交換したいと言うのです]
 そっと肩に置かれた掌から圧が感じ取れたのか、まるで操り人形のように男は言われた通りに三枚を交換したいとディーラーに告げた。



◆40
 するとディーラーは薄く笑みながらカードを三枚滑らせて男の前へと差し出した。
 開いたカードを見るなりさっきまで焦れていた男の目つきがパッと明るさを取り戻す。交換した三枚によってなかなかにいい目が揃ったからである。男が手にしたカードは絵札のスリーカード、ここはポーカーのテーブルだったのだ。
 男は今度こそもらったと言わんばかりに意気揚々と勝負に出ようと身を乗り出した。だが冰はまたしても男の肩に手を置くと、それを止めにかかった。
[降りてください。そのままでは相手の思う壺ですよ]
 男は正面を向いたまま冗談じゃないというオーラを滲み出してみせたが、冰はますます圧をかけるようにグイと肩先に指を食い込ませると、『この勝負は降りろ』と合図を送ってみせた。
[あなたは感情を顔に出し過ぎです。とにかく降りなさい。早く!]
 仕方なく男が降りると、ディーラーはわずか不機嫌そうに眉根を寄せた。つまり、そのまま勝負に出ていれば確実に負けたという証拠である。
 男にしてみればワケが分からず驚き顔のまま次のターンが始まると、冰は引き続き広東語で『とりあえず一枚要求しろ』と男に告げた。
 すると今度は先程とは比べ物にもならないワンペアという目が揃う。残念そうに肩を落とす男の様子を見て、冰はやれやれと溜め息をつきたい気分にさせられてしまった。こうもあからさまに態度に出されては、ディーラーはもちろんのこと同じテーブルに着いている客たちの目にも男が持っている駒が透けて見えてしまうからだ。だが、それならば逆手に取ればいい。冰はまたしても驚くようなことを口にしてみせた。
[勝負に出ましょう。あなたが今持っている全てのチップでレイズしてください。できれば自信満々ではなくクサクサした態度でやっていただけると尚いい]
 レイズとは他の客たちよりも上回る金額で勝負に出ろという意味だ。だがカードは単なるワンペアである。
 それこそ冗談じゃないと男がいきり立つ雰囲気が感じられたが、冰は肩に置いた指先を更に食い込ませて言われた通りにしろと圧をかける。
[いいですか? 全てのチップですよ。ケチればあなたが損をするだけです]
[……ッ! アンタいったい……]
[早くなさい。周りに気付かれたら終いです]
[……チッ……! クソ……ッ]
 男が言われるまま半分自暴自棄のような形で全額を投じ勝負に出ると、なんと結果は彼の大勝ちとなり一気にテーブルが湧いた。今まで負け越した分を取り返したどころか、お釣りがわんさと転がり込んでくる快挙だ。散々負け越していた男にとっては一攫千金にも等しい奇跡である。
[嘘だろ……まさかこんなワンペアなんかで……]
 感極まった男が背後を振り返ると、もうそこに冰の姿はなかった。



Guys 9love

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