極道恋事情
◆41
「冰ちゃん……? 今のはいったい……」
どういうことなんだと歩きながら里恵子が問う。冰は未だフロア内に警戒しながらも種明かしをしてみせた。
「あのディーラーはイカサマを行っていましたからね。おそらくカード自体本来の五十二枚が揃っておらず、ある程度思い通りの目が出せるようにしてあるんでしょう。テーブルにいた客と組んで始終合図を送り合っていましたから。負けが詰んでいたのは香港の方のようでしたし、周のお父様のカジノへも行ったことがあるようでしたのでちょっと気の毒に思ったもので」
要はイカサマでいいようにカモにされていた客に肩入れしてやったというわけらしい。
「そうだったの……。でもさすがに冰ちゃんね。周さんや遼二たちから話に聞いてはいたけど、すごい腕前だわ! ちょっと見ただけでイカサマを見破って、しかも勝たせちゃうんですもの!」
里恵子にしてみれば直に凄技を目の当たりにして興奮冷めやらぬというところなのだ。
それにしてもさすがに闇カジノというだけあってか、どのテーブルでもあからさまと思えるイカサマが目につく。先程の客のようにまんまと引っ掛かる者も多いようだが、中には逆にディーラーを出し抜かんとしている客もいるようだ。そんな中で悪目立ちしない程度に上手くテーブルを梯子しながら冰は自らもゲームに参加すると、地道に勝ちを重ねていった。そうして換金をする頃にはそこそこの金額を稼ぎ出す結果となった。
まあ冰にとってはこれでもかなりセーブしたほうである。変な話だがその気になれば容易に大勝ちできるだろうディーラーしかおらず、冰の目から見れば破れたザルのようなものである。だがここで本気を出してしまえば嫌でも注目されてしまう。時には負け、また時にはまずまずの勝ちっぷりを繰り返しては、最終的にかなり運良く稼げた程度に留めてこの夜を終えることにしたのだった。
そうして換金した金を手に裏手の事務所で待っていた拉致犯の男の元へ戻った。
「よう、兄さん! カジノは楽しめたかい?」
意気揚々と出迎えた男であったが、その直後に驚きを通り越した蒼白へと顔色を変えさせられる羽目となった。なんと冰はその全額を彼の目の前に差し出してみせたからだ。
「こいつぁ……いったい」
いかにセーブしたといえども余裕で札束が立つほどの金額である。絶句顔でポカンと大口を開ける男を前に、冰は更なる驚きの文句を口にした。
「お陰様で楽しく遊ばせていただきました。あなたにはホテルや食事まで用意していただき親切にしていただいたので、ささやかですがこれはお礼に受け取っていただければと思います」
これには男はもとより里恵子も開いた口が塞がらないほど驚かされてしまった。
◆42
「や、えっと……これ、まさか兄さんがカジノで……?」
「ええ。ああいったお店は初めてでしたが、とても楽しかったです」
「は……楽しかったってアンタね……。場慣れした奴らでも一晩でこんだけ稼ぐなんざ奇跡っつーかさ……」
まるで化け物でも見るような目で閉口している男に、冰はまるで場にそぐわない朗らかな笑顔を携えながら、
「きっとビギナーズラックというやつでしょう。俺もこのお札の束を手にした時はビックリしました。ですが、どうせ俺たちはこの後異国のマフィアさんに売り飛ばされてしまうわけですから。持っていても仕方ありませんし……というよりも身の丈に合わない大枚なんて怖いだけですから」
だからどうぞ収めてくださいという冰の笑顔に、男の方が空恐ろしいというような顔付きをしてみせた。
「あんた……いったい何者だ……」
恐る恐るといった調子で机の上に積まれた札束と冰とを交互に見やる。
「何者だなんて、そんな大した者ではありませんよ。それに、元々はあなたのお店からいただいてきたお金ですし、俺は楽しく遊ばせてもらえただけで充分です。お陰でいい思い出ができました」
「そ、そうかい……。そりゃ良かった」
「ところで俺たちが売られる先というのはもう決まったのでしょうか?」
「い、いや……まだだが」
「そうですか。ではひょっとして明日の夜ももう一度くらいは遊ばせてもらえるのかな」
あまりにもあっけらかんと言い放つ様子に、男の方が後退り気味だ。
「あ、ああ……。あんたらが希望すんなら明日も遊んでくれて構わねえが……」
男はそう言いながらも、これはもしかすると売り飛ばすよりも金になるのではと思い始めたようだ。本当にただの奇跡的なビギナーズラックなのか、はたまた物凄い金の卵なのか、それを見極める為にももうしばらく様子を見るのも悪くない。視線を泳がせる彼の顔つきからはそんな感情がうごめいているのが見てとれる。案の定、男は冰と里恵子をすぐに売り飛ばすことはやめて、もう少し様子を見ることにシフトチェンジしたようであった。
「な、なんだったら明日と言わずもう二、三日遊んでってくれても構わねえけどさ……」
「そうですか! いやぁ、嬉しいですね。ではこの中から明日のチップ代だけ拝借してもよろしいですか? なにせものすごく楽しかったものですから、すっかり病みつきになりそうでして」
「は、はは……。そう……そいつぁ良かった。チップは兄さんが好きなだけ換金してくれて構わねえぜ……」
「そうですか。ありがとうございます」
冰はにこやかに微笑むと、楽しみだと言って嬉しそうな顔をしてみせた。
その夜、冰たちをホテルに送り届けた男は、その足ですぐさま年ごろにしている愛莉のマンションへと向かった。彼女の顔を見るなり懐から札束を取り出して興奮気味に声を上ずらせる。
「おい、見ろよ! 俺らが掻っ攫ってきた例のガキだが、ありゃあとんでもねえ金の卵かも知れねえぞ! ちょいとカジノで遊ばせてやったら一晩でこんなに稼ぎやがった!」
男が札を扇型に広げては部屋の中で気がふれたように小躍りしてみせる。愛莉も驚きに絶句状態だ。
◆43
「ちょっと……落ち着きなさいよ! まるっきりワケが分かんないわよ! 一からちゃんと説明して!」
男は札束と愛莉を抱えながら『ヒャッホー!』と奇声を上げてベッドへとダイブした。そして冰らを例の闇カジノで遊ばせてやった経緯を順を追って話して聞かせた。
「なあ、もしかするってーとよ! 香山なんぞからはした金を搾り取るより、ものすげえ金が手に入るかも知れねえぜ! あのガキ、見た目は優男だが空恐ろしい雰囲気を持ってるっつーかさ。肝っ玉も据わってるし、とにかく只者じゃねえのは確かだ。性質もいいヤツそうだし、がめつくもねえしよ! あのガキと組みゃ大儲けできそうだ」
大陸に売り飛ばすなんてもったいない。こうなったら当初の予定を変更して彼を仲間に加え、ひと商売企んだ方が絶対にいい。男はすっかり趣旨替えする方向に頭がいっているようだ。
「仲間に加えるって……急に何言い出すのかと思ったら! アンタのお気楽さったら……相変わらずバカ丸出しなんだから! 第一、その冰って子が素直に『うん』って言うかも分かんないのにさぁ。それにもしもその子が承諾したとしても里恵子ママのことはどうするつもりなのよ!? きっと今頃はママのいい男性が血眼になって行方を捜してるはずよ。アタシとしては早く二人を香山ちゃんか海外の輩に引き渡しちゃった方が無難だと思うけど! ねえ、絶対にそうすべきよ!」
男に比べれば愛莉の方がまだマトモなようだ。だが男はすっかりその気になっていて、聞く耳を持たない様子である。
「大丈夫だって! こうなりゃ本格的にマカオあたりのカジノに行ってみるのもいいかも知れねえ! いかんせんウチのカジノじゃ内部で金が回るだけで採算は取れねえだろ? やっぱ他所から金が入ってこねえことには損だしよ! あのガキンチョと一緒に稼げるだけ稼いで、そのママって女のオトコが乗り込んで来たら速攻香山に引き渡して、全部ヤツのせいにすりゃいいさ! 万が一拉致の実行犯ってのがバレたとしても、俺たちは香山に脅されて仕方なく二人を拐って来たことにすりゃいいんだよ!」
という以前に、拉致の実行犯だと疑われたところで知らぬ存ぜぬで通せばいいと男は得意顔だ。最初の予定とはまったくかけ離れた状況に愛莉は溜め息が隠せない。だがまあこうなってしまった以上は後に引けないのも確かか。男の言うようにいざとなったら全てを香山のせいにすればいい、今はそれで納得するしかないと思う愛莉であった。
そうして次の日の夜がやってきた。男は様子見をする為にも連日で冰と里恵子をカジノへと案内すると、今夜は愛莉にもその腕前を見届けろと言って裏手の事務所へと連れてきた。
「見ろ! 今日の昼間に即席で仕掛けたモニターだ。各テーブルに取り付けたから、ここで見張ってりゃあのガキンチョがどんな動きをするのかが一目瞭然ってわけよ。本物の金の卵だったら大儲けできるぜ!」
半信半疑ながら、愛莉も促されるままにモニターへとかじり付いた。
◆44
一方、冰の方でもフロアに入るなり昨夜は無かった監視カメラのような代物が各所に取り付けられていることに気が付いていた。設置の仕方からして素人の冰が見てもずさんと思われるような不器用さだ。おそらくは拉致犯の男が仕掛けたのだろうが、昨夜の自分の稼ぎに興味を示して、こっそり動向を見張ろうとしているのだろうことが窺えた。
「これは……ひょっとすると運が向いてきたのかも……」
拉致の依頼者であるどこぞの専務という人物よりもこちらの方が金になると思わせることができれば、拉致犯の男の気持ちを動かす絶好の機会となり得るからだ。
冰は勝負に出るなら今だと踏んだ。
この際大いに注目を浴びて、男をこちらの味方につければ大陸のマフィアに売り飛ばすことを考え直してくれるかも知れない。と同時に、そのマフィアという連中に対しても是非自分のところに売って欲しいと思わせられれば、拉致犯とマフィアの双方を競わせて小競り合いに持ち込める可能性もゼロではない。強欲な者同士で争いに転じればそこが好機だ。騒ぎに乗じてこの場を脱出することができるかも知れない。
正直なところ冰は周や鐘崎のように武術に長けているわけではないから、正面きっての暴力に巻き込まれれば絶対的に不利となる。自分自身はおろか、里恵子を守りながら戦うなど無謀にも等しい。腕力という点では非力な自分にできることは頭脳戦で切り抜けるしか術はないのだということを冰は重々理解していた。
「里恵子ママさん、今夜も絶対に俺の傍を離れないでください」
万が一の時は周家の名を盾にしてでも里恵子だけは守らなければならない。それには自分が一大マフィアのファミリーであるという堂々たるオーラを醸し出さなければ信じてはもらえまい。
今までも幾度となく窮地に陥り、その度に破天荒ともいえる演技で乗り越えてきたものの、側にはそんな自分を見守ってくれる愛しい男の周がいた。彼のみならず彼の父親の隼や兄の風、鐘崎や紫月に源次郎や李といった頼れる仲間たちがガッシリと脇を固めてくれたからこそ安心して演じ切ることができたのだ。だが今度ばかりは状況が違う。今自分たちがいるこの場所を周らが突き止められる可能性がゼロに近いこの状況下で、里恵子を守りながらたった一人で戦わなければならないのだ。
(大丈夫。何が何でもここを乗り越えて、ママさんを無事に森崎さんの元にお返しするんだ。その為なら使える手も駒もありとあらゆるものを屈指してやるさ。虎の威を駆る狐と思われようが構わない。俺の中にはいつでも白龍がいる……。例え今は――お互いの姿が見えなくても……魂はいつも繋がってる……! だから怖いものなんてない――! 俺は周焔白龍の唯一無二の伴侶だ……!)
冰はこれまで以上に心して演じ切る覚悟を決めるのだった。周りには敵しかいない、四面楚歌の中でたった一人乾坤一擲の大海原へ漕ぎ出さんとするその様は、まさに孤高と称するにふさわしい切なくも尊き姿であった。
◆45
そうして冰はテーブルに着くと、昨夜とは打って変わったふてぶてしい態度で堂々と脚を組んでみせた。さすがに闇というだけあってか、通常通る受付などはなく、席が空いてさえいれば自由に参加が可能なようだが、やはり最初が肝心である。常連ならば、客の間でも『ああ、こいつか』というように暗黙の着席ルールのようなものがあるようだが、冰は顔すら知られていない新参者だ。おまけに年も若い。お門違いだと舐められてはならないし、それには周囲がいったい何者だと思うくらいの圧を伴ったオーラが必要不可欠なのだ。
選んだのはカードゲームの卓――昨夜は香港から来たと思われる見知らぬ男の窮地を手助けしてやったポーカーのテーブルである。一大勝負に出るならここしかないと踏んだ。
他にもお得意のルーレットをはじめダイスゲームなどのテーブルもあったが、そのどれもが磁気などを使ったイカサマが仕掛けられていて、客の立場からは覆すのが難しいと思われるからだ。ディーラーとしてならともかく、ボールなどに直接触れられない今の状況では、目視だけでディーラーの技と意図を読み解けるカードしかないとの判断であった。
まず、テーブルに着いた際のオーラだけで周囲が自ずと席を譲って避けるような雰囲気を醸し出すところから始める。里恵子にはそんな自分の肩に腕を回してもらうように頼み、ともすれば年若い生意気な優男が美女をはべらすというビジュアル的にも目を引く仕草でギャラリーの視線を釘付けにするという作戦でいく。
「こんばんは。お邪魔させていただきますよ」
冰が来た時は席がまだ二つほど空いていて、ゲームの途中であった。それらが一段落するまで黙って勝負の行方を見守るとする。昨夜とはまた別の顔ぶれではあったが、今宵もディーラーが客の中の一人と組んでイカサマが行われているのは間違いないようであった。
ターンが終わると冰は相変わらずにふてぶてしい態度のままでこう言い放った。
「ふぅん、今時のカードゲームって難しいんですねぇ。皆さんのされているのを拝見していましたがさっぱり分からないや。せっかくカジノなんていう映画みたいな世界に来られたというのに、これでは僕などお門違いじゃあないですか。つまらないなぁ……。もっと簡単なのはやってもらえないのかな。できれば……そう、ディーラーさんとサシで勝負させてもらえると有り難いんだけどな」
いきなりの図々しい物言いに、ディーラーはもちろんのこと同じテーブルにいた客やギャラリーたちの鋭い視線が一気に冰へと向けられる。青二才が何を生意気にと敵意剥き出しで睨み付けてくる者もいるし、はたまた面白いとばかりにニヤけて身を乗り出してくる者もいる。
名指しされたディーラーも一瞬勘に障ったようだが、そこは腐ってもディーラーのプライドがあるのだろう。すぐに『おもしろいことをおっしゃいますね』と快諾を口にした。彼の表情から察するに『小生意気なクソガキが! コテンパンに叩きのめしてやる』と言わんばかりなのが窺える。薄く笑んだ口元からは余裕とは裏腹に小馬鹿にされた怒りの感情の方が滲み出ているとも受け取れた。
冰はふと目をやった先に隣にいた客が吸っていたと思われるシガレットケースに気が付いて、にこやか且つスマートな仕草でそれをねだった。
「失礼。一本ごちそうになっても?」
つまり煙草を一本恵んでくれないかと聞いたわけだ。
◆46
隣の客もすぐにその意に気付いてか、ケースから煙草を差し出すと、軽い会釈と共にそれを口に銜えた冰に自らのジッポライターで火を点すところまでサービスしてくれた。この時点で既に冰の得体の知れないオーラに呑み込まれているといった証拠といえる。
「ありがとう」
冰は美味そうに深く一服を吸い込むと、咥え煙草の仕草のままで立ち上る紫煙を煙たそうにしながら瞳を細めては大量のチップをディーラーの目の前へと積み上げてみせた。
「ご厚意に感謝しますよ。それでは始めましょうか」
チラリと上目遣いでディーラーを見やる。紫煙を挟んで見つめられた一瞬の視線の中にゾッとするほどの鋭い輝きを感じてか、ディーラーはビクりと武者震いに襲われたようであった。
「お客さん、見慣れないお方ですね。随分と自信がお有りのようだが……この店は初めてで?」
まがりなりにもここは勝負の壇上だ、どう転んでも恨みっこなしに願いますよと言わんばかりにディーラーが威嚇の態度を見せる。
「ええ、まあ。僕はこの土地の者ではないので。たまたまさる御方のご厚意でご招待いただいたのですよ」
”招待”という言い回しにディーラーの方も一瞬眉根を寄せる。それというのも、ここに出入りするにはそれなりの伝手が必要だからだ。
見た目は小生意気な素人に見えるが、態度は堂々とし過ぎているし、あまり邪険にしても後々まずいことになるやもしれないとの懸念からか、ディーラーも態度を決めかねているようだ。そんな心の揺れをいち早く読み取った冰は更なる図々しい物言いで畳み掛けてみせた。
「それよりも僕の我が侭で貴重なお時間をいただくわけですからね。他の皆さんのお邪魔にならない為にも勝負は今されていたやつじゃなく、オーソドックスな……何といったかな。ファイブカードでしたっけ。五枚のカードで遊ぶやつ。それでお相手いただくというのでは如何でしょう」
その提案に、さすがのディーラーも眉を吊り上げた。
「ドローポーカーだと? お客さん、ここはカジノですぜ? 子供のお遊びとは違うんだ」
一般的にはカジノでポーカーといえばテキサス・ホールデムというポーカーの中でも代表的な種のやり方で進められていることが多い。ここのカジノもまさにそれで行われていた。
たった今冰が言ったドローポーカーというのは幾種もあるポーカーの中でも一番簡単なやり方で、それこそ初心者が家族友人と楽しむような遊び方である。まがりなりにも一対一でディーラーを独占しようという時にそんな申し出をすれば小馬鹿にしていると思われても仕方がない。
だが、テーブルには相変わらずイカサマの片棒を担ぐ相方が居座っている以上、いくら一対一といっても目配せなどで邪魔をされるのはご免被りたいところだ。それには互いに手の内を見せないままで勝負に持ち込めるファイブカードでの対戦に持ち込むしかない。と同時に、周囲のギャラリーに対しても一目瞭然でこのディーラーのイカサマを暴露するにはそれくらいが分かりやすくて都合がいいのだ。
だがまあ、元々破天荒すぎる申し出に対してディーラーの首を縦に振らせるには横柄で自信満々な態度と共に言葉巧みに追い込んでいくしかない。冰は相も変わらず空っとぼけた態度のままで、ふてぶてしく紫煙を燻らせてみせた。
◆47
「ですが僕はこういった場所で遊ぶのは初めてでしてね。正直なところポーカーといえばそれくらいしか知らないのですよ。先程から皆さんのゲームを拝見してはいたんですが、何が何やらさっぱりでして。このお店にも是非にとご厚情をいただいてご招待を受けたんです。明日には海外に帰らなければならないのでね。せっかくですから僕にも出来そうなもので遊ばせていただければ嬉しいなと思いまして。どうでしょう、勝手は承知の上ですが、初心者に情けをかけると思って記念にお相手いただけませんか?」
形のいい指先に挟まれたシガーの灰が長く伸びて今にも落ちそうである。それに気付いた隣の客がスッと灰皿まで差し出して、これではまるで映画の中に見るボスの扱いだ。言っていることと態度のギャップがあり過ぎて、凄腕なのかド素人なのかがまるで分からない。
「ああ、ありがとう。お借りしますよ」
丁寧に礼を述べながらも冰は当たり前のように差し出された灰皿に灰を落とすと、ますます堂々たる素振りでカードが配られるのを待った。
「如何でしょう、皆さんをお待たせしては申し訳ありませんし、ちょっとだけお付き合いくださいな。雰囲気を楽しんだら早々に退散致しますので」
ディーラーの方でもこの若い身勝手な客が実は隠れたやり手なのかズブの素人なのか興味が湧いたようだ。
もしもただの素人ならば、せいぜいいたぶれるだけいたぶって、その図々しい鼻っ柱をへし折ってやるのも悪くない。懐が空になるまで巻き上げて、ここは子供の遊び場ではないと灸を据えてやるのもオツというものだ。
「分かりました。では仰せの通りのファイブカードでお付き合いさせていただくのもやぶさかではありません。その代わりミニマムを上げさせてもらいますが、それでよろしければですが」
これだけの我が侭に付き合うのである。掛け金の最低額を通常よりも高い設定から始めさせてもらうという意味である。どうせミニマムの意味すら分からないだろうと圧をかけたが、冰がすんなりとうなずいてみせたのにまたしてもディーラーにとっては苛立たされることとなった。
「それで結構ですよ。こちらとしても無理を言っているわけですからね。設定はあなたにお任せしますよ」
にこやかに微笑むその表情に、思わず『チッ!』と舌打ちたいのを抑えて、ディーラーはカードの束を手に取った。
(青二才のクソガキが! 目に物見せてくれる!)
この際、誰のどういった縁でここに招待されたのかなどどうでもいい。ディーラーの瞳の奥には、ただただ目の前の勘に障る男を叩きのめしたいという感情だけがメラメラと燃え盛っているようでもあった。
◆48
そうしていよいよ一対一の対戦が始まった。
カードが五枚ずつ配られると、冰は相変わらずに勘に障るような余裕の態度でそれを確かめる。
勝負はしょっぱなから絵札のスリーカードというなかなかにいい目が揃ったが、なんと冰は迷わずに降りてしまった。背後で見ているギャラリーたちは『なんともったいないことを!』というようにザワつきを見せる。だが冰はどういうわけか平然としていて、まるで動じる素振りも見せない。そんな勝負が三度も続けば、さすがにディーラーの方も焦れを隠せなくなったようだ。
そうして三度目ならぬ四度目の正直といわんばかりにまたしても勝負に出ずに「降りる」と言い放った冰を目の前に、ついぞ「チッ!」と音に出して舌打つと、
「お客さん、どういうつもりですかい。あんた、さっきっからおちょくってんのか……。勝負する気がないんだったら他のお客さんの邪魔だ。さっさと退いてもらおうか!」
すっかり敬語も飛んで、いかに闇カジノといえどもさすがに客に対する態度ではない。ギャラリーたちがざわつき始める中、冰は相変わらずに余裕の態度でにこやかに笑ってみせた。
「勝負する気がないだなんてとんでもない。僕は真剣に考えてあなたに挑んでいるんですよ」
「嘘をつけ! さっきっからフォールドばっかりでまるっきしやる気がねえだろうが!」
「そんなことはありません。これでもファイブカードは幼い頃から家族の中では一番強かったんですよ。子供ながら祖父や父にも負けたことがないんです。それはひと勝負ひと勝負真剣に考えている証拠だって親からは褒められたものです」
「……ッ! お客さん、いい加減にして欲しいね。子供のお遊びと一緒にするとはさすがに失礼ってもんじゃありませんかね! こちらとしてもあんたが初心者だの記念だのって言うから相当な我が侭を聞いてお付き合いして差し上げてるんですよ。せっかくなら楽しんで帰ってもらおうと、さっきっからいい目を与えてやってるってのに、乗ってきやしねえ!」
頭に血が昇ってしまったわけか、ディーラーはつい言ってはならない禁句を口走ってしまった。
だが、そこは聞かなかったふりをして空っとぼけてみせる。
「おや、そうですか。それはどうも、お心遣い感謝しますよ。確かにね、まずまずの手が揃っているのは認めるところなのですが――。例えば今の勝負に限って言えば、僕のフォーカードではあなたのストレートフラッシュには勝てませんからね」
だから降りたまでだとにこやかに微笑む。冰は手元のカードを裏返しては、綺麗に揃ったフォーカードを美しい仕草で扇状に開いてみせた。
◆49
驚いたのはディーラーだ。何故自分のストレートフラッシュが見破られているのかと、瞬時に顔面蒼白となる。
「き、貴様……いったい……」
まさかイカサマが見抜かれたとでもいうのか。ディーラーは一瞬で身に付けているシャツがべっとりと肌に付くくらいの大汗にまみれてしまった。
「いかがです? もしもよろしければですが、今度は”親”を交代しませんか?」
「……なん……だと? アンタね、親を交代とか……マジでガキの遊びじゃねんだ! あんましふざけてやがると……」
「お気を悪くされたのなら謝ります。ですが、僕が子供の頃に家族とやっていたポーカーでは、親は交代で皆んなが順繰り順繰りやったものです」
空っとぼけたというには過ぎるくらいの歯に絹着せぬ物言いに、周りで見ているギャラリーたちもさすがにザワザワとし出す。
「その代わり――次は必ず勝負させていただくと約束しますよ。何でしたら親は交代しなくても構いません。ただ僕にも一度くらいカードを切らせていただきたいなぁ。これでもカード捌きには自信があるのですよ。こういったカジノで遊ぶなんて滅多にないことですからね。楽しくてワクワクしているのです。我が侭を聞いていただけるならもっとミニマムを上げていただいても構いませんよ?」
言葉じりは丁寧だが、チラリと上目遣いの視線は刺すように鋭い。しかもほんの一瞬のことで、ハタと視線を合わせたその瞬間にはごくごく柔和な表情に戻っている。射貫かれんばかりのその視線は果たして現実なのか、それとも自身の恐怖心が生み出した幻か――。額から頬から滝のように流れる汗を拭うこともできずに、ディーラーは硬直状態に陥ってしまった。
仮にイカサマが見破られていたとしても、大勢のギャラリーの前でこう出られては断ることもままならない。今の勝負を見ていた者たちに対して、あからさまにイカサマだと言われたようなものだからだ。案の定、疑うような目つきでギャラリーたちが棘を持ち出した雰囲気がビリビリと伝わってきた。
闇カジノだけあって、ここに来る客は殆どがイチモツ含んでいそうなただならぬ連中ばかりだ。日常的にイカサマを行っていたなどと知れては気性の荒い輩たちに何をされるか分かったものじゃない。
濡れ衣――まあ本来ならば濡れ衣とはいえないのだが――それを晴らす為にもこの申し出を蹴るわけにはいかなかった。
「い、いいだろう……。受けて立つ……」
ディーラーがカードの束を冰へと向けて差し出すと、広いフロアのギャラリーたちが水を打ったように静まり返った。
こんなことは前代未聞といえる。
新参の客のめちゃくちゃな言い分に乗せられてディーラーが汗だくになっているのはもちろんのこと、有無を言わせぬ図々しい態度がいったい何者なのだろうと興味を掻き立てる。いつの間に集まったのか、他のテーブルに着いていた客たちもほぼ全てが冰らの元へと集まって来ていて、あっという間に黒山の人だかりができてしまっていた。
別部屋の事務所内でモニターしていた愛莉の男たちもフロアへと駆け付けて、カードゲームのテーブルはまるでマフィアか大物政治家同士の緊張下でのトップ会談のような雰囲気に包まれていった。
◆50
冰は相変わらずに咥えタバコで紫煙を燻らせながらも渡されたカードを手に取ると、なるほど流麗な仕草でそれを扱ってみせた。一本目の煙草は既に吸い終わっていたのだが、隣にいた客が気を利かせるように新しい一本を差し出してよこしたのだ。言うまでもなく、先程よりも丁寧な仕草でジッポライターを点すオマケ付きである。その厚意を当たり前のように受けながらも上品に会釈をする仕草自体にも、周囲のギャラリーの目は興味をそそられているようだ。
むろんのこと単純な興味で見ている者もいれば、中には胡散臭いとおもむろに敵視する様子の者もいる。
それらをものともせずに冰は台の上でカードを開き、一瞬で閉じる。手の中では扇状に開いたかと思えば滝が流れ落ちるような見事な捌きでカードを自在に操ってから目にも止まらない速さで束ねて数回シャッフルを繰り返すと、寸分違わずというくらい綺麗に揃えたカードの山をディーラーへと差し出した。
流麗な仕草の一部始終はそれを見られただけで満足といえるほどの完璧な神技だ。対戦中ということを忘れ、マジックでも始まるのかというような心持ちにさせられる。客たちはもっと見ていたいというように身を乗り出しては、テーブル全体がうっとりとした溜め息であふれかえっていった。
「ありがとう。たいへん満足しましたよ。ではお約束通り次で勝負と参りましょう」
そう言いながら灰皿の上で煙草をひねり消す。指先の一挙手一投足までがいちいち美しく、ギャラリーたちは冰が動くだけで視線を釘付けにさせられている。まるでフロアにいる全員が冰に加担するとでも言わんばかりの異様な重圧の中、ディーラーは震える手でカードを配り終えた。
「それで……どうされる。まさかだが、また降りるというのだけはご勘弁願いたいね」
「ご心配なく。僕は約束を違えるようなことはしませんよ。お付き合いいただくのはこれで最後です」
「……だったらいいが……」
「うん、そうだね。それじゃ一枚もらおうかな。やっぱりね、ポーカーというからには一度くらいはカードのチェンジもしなきゃ面白味がありませんからね」
「……ッ、分かった」
ぎこちない滑り方でカードの山札から一枚が冰の目の前に届けられる。揃った目はダイヤのフラッシュであった。
「うん、いいね! それじゃ勝負と参りましょう」
冰がにこやかに微笑んでカードを開くと、それを目にしたディーラーはホッとしたように肩を落とした。そして次の瞬間にはようやくと自信を取り戻したわけか、勝ち誇ったように自らもカードを裏返しながらこう言った。
「フルハウス。残念ながら勝負は私の勝――」
勝ちですねと言い掛けて、思わず「ヒッ!」と喉を詰まらせた。
「なに……ッ!?」
まるで急転直下の七面鳥のごとくみるみると血の気が引いてゆき、見開かれた目には真っ赤な血管の筋までが浮き出る勢いで棒立ちとなる。フルハウスになるはずだったカードは一枚が欠けたことによりただのスリーカードとなってしまっていたからだ。
◆51
「き、貴様……ッ! 何をしやがった……さっき……カ、カードを切った時に何か仕込みやがったな……!?」
「仕込むだなんてとんでもない。ただ運が僕に味方してくれたというだけですよ」
「ンなわけあるかッ! こんな……こんな……だいたいファイブカードにしようだの親を交代しろだの……てめえは詐欺師だろうが! こ、ここがどういう店か知らねえのか! 俺らに喧嘩売ろうってんなら命の保証はねえぜ!」
半狂乱で騒ぎ立てるディーラーを抑えるようにして愛莉の男が手下たちを連れて乗り込んできた。
「兄さん、この騒ぎはいったいどういうこった!」
冰の腕前に興味はあるものの、こんな騒動を起こされてはさすがに庇い切れないとばかりに目を吊り上げる。ところが今度は今の勝負を見ていた大陸のマフィアらしき面々が仲裁に入るようにして続々と集まって来た。
「まあまあ、とにかく落ち着きなって。ところで旦那、例の話だが――この若い御仁で間違いねえな?」
つまり、冰と里恵子を売り渡すという例の約束である。
「よければ俺のところで預かりたいんだが構わねえかな? これからすぐにでも契約を交わしてもらえるってんなら当初の倍でどうだ」
どうやら今の勝負を見ていて冰の腕前に興味を示したようだ。約束していた値の倍額で買い取りたいということらしい。
冰の件では一番高い値をつけた先に売り渡すという話になっていたらしく、他のマフィア連中に先を越される前に早々に商談を決めてしまいたいらしかった。
だが、拉致犯の男にしてみても冰を彼らに売るのをやめて、自分たちの金儲けに使いたいと思っていた矢先である。当然素直に『うん』と言うわけにはいかなかった。
「いやぁ、その件だが……ちょっと待っちゃくれねえかな。こっちもいろいろと手違いがあってな、この話は一旦白紙に戻してもらうつもりだったんだわ」
「何だと!? そいつぁまたえらく話が違うじゃねえか。まさか値を吊り上げようって魂胆かッ!?」
一人がゴネ始めると、彼とはまた別の組織のマフィアがすかさず参戦に割って入ってきた。
「だったら俺のところは三倍だ。それで文句はねえだろう」
「何を横から! それならこっちは四倍だ!」
次第に一触即発という危うげな雰囲気になっていく。冰の腕前を巡って売る側と買う側の間で争いが始まらんとしている。まさに企み通りといえる展開となっていった。
ここで取っ組み合いの騒動でも始まれば、いよいよ好機である。騒ぎに乗じて店を出られさえすれば、後はタクシーを拾って逃げ切ればいい。寝泊まりをしているラブホテルとの行き来の間に見た車窓からの風景で、今いるこの街が九州にある大都市だということは理解していたし、大通りに出ればタクシーは山と走っているだろう。冰はこっそりと里恵子の手を掴むと、いつでも走り出せるようにと合図を送るのだった。
ところが――だ。さすがにフロア内で揉めるのもまずいと思ったわけか、愛莉の男が場所を事務所に移して話し合おうと言い出した。
◆52
先程のディーラーは既に男の手下たちによってフロアから連れ出されたので、騒ぎは一旦収まったのだが、今度は冰と里恵子の売買に関する争奪戦で静かな睨み合いが始まってしまった。未だポーカーのテーブルに座ったままでいた冰の周りには、我先に取り入らんとマフィアたちが取り囲んでは次々と話し掛けてくるという異様な事態に陥っていった。事務所に場所を移すどころか、冰の側を離れたら負けだとばかりの勢いなのだ。
これではさすがに逃げられない。――とすればまた別の手段に持ち込むしかない。冰は瞬時にタクシーでの逃走計画を諦めると、次の手を考え始めたのだった。
「あんた、大した腕だな! ポーカーは初めてとか言っていたが、ありゃ嘘だろうが。俺もこの道じゃ長えが、あんたほどの腕と度胸を持ったヤツは見たことがねえ。是非ともウチに来ちゃくれねえか? 本国に帰ればそりゃあ丁重に扱わせてもらうぜ!」
一人が冰の肩を抱きながら猛アピールを口にする。よその組織に売られれば、色を売らされたり臓器を売り飛ばされたりするかも知れないが、自分のところに来てくれればそんな滅多な扱いは絶対にしないからと強調しているわけだ。それを聞いていた他のマフィアたちも負けてなるものかといったふうに、次々と甘い誘い文句を繰り出しては、冰を真ん中に挟んでの睨み合いとなっていった。
「ちょ、ちょっと旦那方、待ってくだせえよ……。この話はなかったことにって……」
愛莉の男が横から割って入ろうにもギッと睨みを据えた眼力だけで、『うるせえ、てめえはすっこんでろ!』と、まるで取り合ってはもらえない。体格的にも筋肉質で、腕力では敵わなさそうな屈強な男たちが相手では、この場は諦めるしかない。他の客たちもさすがにマフィア連中とは関わり合いになりたくはないわけか、そそくさと自分たちのテーブルへと戻って行き、何事もなかったかのようにゲームの続きに興じ始める。あっという間に冰のいるテーブルは閑散となってしまった。
「ところであんた、さっきはいったい何をどうやったってんだ? あんたにゃディーラーのカードが全部読めていたようだが、あんな勝負は見たことがねえ。誘い口も見事なもんだった!」
「はぁ……それはどうも、恐縮です」
「俺のいる組織でもカジノを運営していてな。香港じゃ右に出る店はねえってほどの超一流どころだが、例えウチのディーラーでもあんたとは勝負にならねえかも知れねえと思ったぜ?」
「香港のカジノですか……。それではあなたは香港からいらしたのですか?」
ということは、このマフィアは周ファミリーの組織とも全くの無関係ではないということだろうか。ひょっとすると本当にファミリーの一員かも知れない。
◆53
「まあな。ここには年に一、二度顔を出しちゃいるが、あんたのような上玉に出会えるとは運がいいぜ! あんたを連れ帰ればきっとボスも喜んでくださるだろうぜ」
「ボスって……あなたの上の御方ですか? まさかそんな……僕ごときで喜んでくださるとは思えませんけど……」
「そんなことはねえ! 情けねえ話だが、俺はファミリーの中でも下っ端の部類だからな。正直ボスの顔さえ間近で拝んだことはねえんだが、あんたのような上玉を獲得したとなりゃ、一度くれえは会ってくださるかも知れねえ。そうすりゃ俺も一気に幹部に格上げなんてのも夢じゃねえかもな!」
「はぁ……」
「とにかく俺のところに決めてくれる気はねえか? できる限り丁重に扱わせてもらうからよ!」
是が非でも自分のところで獲得したいと逸る男に他の連中が指をくわえて見ているはずもない。
「ふん、組織の中でも下っ端なんてことを堂々と抜かすヤツの口約束なんざ当てになるかってんだ! なぁ、お若い兄さん! 俺は台湾から来ているんだが、これでも組織じゃ幹部を張ってる。そいつよりもいい条件であんたを引き取ると約束するぜ!」
「おい、てめえら! 勝手に決めるな! 俺ンところはマカオだ。カジノといやマカオだろうが! ウチに決めてくれればマカオでも最上級の店でディーラーとして使わしてもらう。是非ともウチに来ちゃくれねえか?」
香港、台湾、マカオと出揃って、それぞれが自分のところが一番だと主張する。正直なところ冰にとってはどこへ連れて行かれたとしてもその後の交渉は何とかなりそうだ。この店が闇カジノだったことが不幸中の幸いといえた。
一番いいのは香港だろう。ボスというのが周の父親の隼である可能性が高いというのもあるが、仮にそうでなかったとしてもこちらの素性を話せば聞く耳は持ってくれるかも知れない。マカオになったとしても張敏がいるし、何とかして彼に取り継いでもらうことができれば万々歳だ。台湾にはさすがに伝手はないが、鐘崎の父親がしょっちゅう仕事で訪れていると聞いているし、組織の上層部ならば鐘崎組の名は熟知しているだろうからだ。
さて、どう出ようか。冰が即答せずにいると、香港から来ているという男がまたもや自分のところに決めて欲しいと粘ってきた。
「だったらこうしねえか? 俺たちの中で一等早く確実な条件を提示できた者がこの兄さんをもらうってことでどうだ。それぞれ上に許可を取って、口約束だけじゃねえって証拠を見せ合うんだ。その上でこの兄さんに行きたいところを決めてもらえば恨みっこなしだ」
「ふん! 上に許可なんざ取らずとも俺は今この場で即決できるがな。言っただろう? 俺は幹部の立場にある。買取額も上に訊かずとも今この場で俺自身が判断できる決定権があるのさ。おめえら下っ端とはワケが違うんだ」
台湾から来ているという男が誇らしげに息を巻く。香港の男も負けてはいなかった。
◆54
「何を! たかだか幹部くれえで威張るな! こちとらここ日本にファミリーのトップがいるんだ!」
「トップだ? てめえのところは香港だろうが! 見え見えのホラを吹くな!」
「ホラなんかじゃねえわ! うちのボスの息子が東京にいてな。息子と言やぁそれこそ組織のトップそのものだ! なんなら今からでも会ってもらおうじゃねえか!」
「何だと! 出任せこくんじゃねえぞ、ぐぉら!」
次第に額と額とを突き合わせての睨み合いへと発展する。それよりなによりボスの息子が東京にいるということだが、それはもしかしたら周のことではないだろうか。だとすれば香港から来ているというこの男は本当に周ファミリーの組織に与する者なのかも知れない。そんなことを考えながら様子見をしていた冰だが、側ではマフィア同士が襟首を掴み合いながら一触即発の言い争いに火が点いてしまったようだ。
[ファミリーの息子だかなんだか知らねえが、てめえなんぞ下っ端はどうせその息子にだって会ったことすらねえんだろうが! 下っ端は下っ端らしくわきまえろってんだ!]
[黙りやがれ、このクズが!]
[だったら今すぐその息子ってのを連れてきてみろよ! どうせてめえなんぞが連絡取ったところで取り継いですらもらえねえだろうがな! ファミリーのツラさえ拝んだこともねえ野郎がでけえ口叩いてんじゃねえ!]
もはや日本語もすっ飛んで、彼らの母国語でフロア全体に響き渡るような怒鳴り合いが始まり、次第に皆の視線が集まってくる。拉致犯である愛莉の男も側でオロオロとしているだけというところを見ると、さすがに広東語には詳しくない様子だ。
それならば――と、冰は少し突っ込んだ方向で話を進めてみることにしたのだった。
[まあまあ、皆さん。少し落ち着いてくださいな! できれば僕の意見も聞いていただけると有り難いのですがね]
冰が割って入ると、争っていたマフィアたちは驚いたように目を見張って一斉に眉根を寄せた。話し掛けられた言葉は流暢な広東語だったからだ。
[あんた……広東語が話せるのか?]
三人が三人ともピタリと争いをやめて冰を凝視する。
[ええ、まあ。それより僭越ながら僕としては御三方どこに決めていただいても有り難いと思っています。台湾は北には洗練された大都会と、南には美しいリゾート地がたくさんあって、住んでいらっしゃる皆さんもご親切と聞きます。とても素晴らしい国ですから前から一度訪れてみたいと思っていたところなんです。マカオには一流のカジノがたくさんありますし、先程のお話ですと僕をディーラーとして使っていただけるとか。それもたいへん魅力的なお話です]
褒められた台湾とマカオのマフィアたちは冰の言葉にたいそう満足げだ。アンタ、なかなか分かっているじゃないかと高揚した顔つきで身を乗り出してくる。
[ですが……どこかひとつ選ばねばならないとしたらやはり香港ですかね――]
香港を名指ししたと同時に他の二人のマフィアたちは目を吊り上げた。
[なんでぃ! えらく話が違うじゃねえかい! 香港には俺たち以上にいい条件でもあるってのかい!?]
だったらその理由を聞かせてもらおうじゃねえかと詰め寄る。今の今まで上機嫌だったと思いきや、こういうところの短気さと威圧の仕方はさすがに玄人といったところか。
[――すみません。ですが、香港には僕の実家があるものですから]
困ったように微笑んでみせた冰に、マフィアたちは唖然、あんぐり顔にさせられてしまった。
◆55
[実家があるだって……? じゃあアンタは香港の人間なのか? 確かに言葉もめちゃくちゃ流暢だが……]
[ええ。生まれも育ちも香港です]
[は……マジかよ……。こいつぁ驚いた……]
すっかり日本人だと思っていたマフィアたちはどうしたものかと戸惑い気味だ。
[なんだか……最初の話とえらく食い違ってきたようだが……とにかく、まあ……名前を聞こうか]
本当に香港出身というなら名前を聞けば一目瞭然だ。もしもこの若者が嘘をついているとすれば、咄嗟に香港名が出てくるわけもない。上手いこと取り繕ったとしても、それが事実か出任せかくらいは見破れるはずだと男たちは意気込んだ。
ところがなんと冰はすんなりと答えてみせたのにこれまた驚かされる。
[僕の名は周冰です]
それを聞いて一等目を丸めたのは香港から来ているという男だった。
[周って……マジかよ……。ウチのボスと一緒じゃねえか]
とんだ偶然もあるものだと肩をすくめてみせる。まあ周自体珍しい名というわけでもないし、そんな偶然もあろうかと溜め息をこぼしている。ということは、この男の組織というのはやはり周ファミリーで間違いないのだろう。冰は空っとぼけた態度のまま、駄目押しするように畳み掛けた。
[おや、あなたのボスも周さんと仰るのですか? じゃあおそらくは僕の父ともご縁がある御方かも知れませんね]
[は……はは! ご縁ってアンタねぇ。名前が一緒ってだけで知り合いとは思えねえがな。香港にゃ周なんてゴロゴロいるんだしよ!]
[まあそうですね。ですがそれこそこれも何かのご縁ですし、僕個人としてはできれば香港のあなたのところにお世話になれればと思うのですが]
[本当か!? そいつぁ有り難え! だったら早速ボスに報告させてもらっても構わねえか?]
香港の男は瞳を輝かせて勇み足だ。
[ええ、それはまあ。僕が香港に帰ればきっと父も喜んでくれると思いますし。ただ……そうだなぁ、こんな帰り方をしたら情けないことだと叱られるかも知れないですけれどね……]
拉致されて帰郷したなどと聞けば父は呆れて怒るに違いない――とまあそんなふうに受け取れる言い方だ。冰が溜め息をつきながら苦笑すると、香港の男は呆れたように肩をすくめてみせた。
[ちょい待てって! アンタなぁ、いくら実家が香港にあるっつってもさすがにそこへ帰すわけにはいかねえぞ。俺は取引としてアンタを買うわけだ。行く先は俺の組織のボスのところでアンタの家じゃねえ。まあボスがその先アンタをどう扱うかまでは俺の知るところじゃねえが……腕前が確かだってことは伝えさせてもらう。そこんところは勘違いしねえでもらいてえな]
男が少々圧をかけた言い方で眉をしかめる。冰は困ったような上目遣いでまたもや苦笑してみせた。
◆56
[――ひとつお聞きしてもよろしいか?]
[……なんだ]
[あなたのボスは周さんと仰いましたね。下のお名前は何と申されます?]
[ボスの名前だ? そんなことを訊いてどうする]
[大事なことなんです。というよりも興味があると言った方が正しいでしょうか……。実は僕の父も香港ではボスと呼ばれていましてね。あなたのボスとも何らかのお付き合いがあるのではと思ったものですから]
[ボス……だ? いったいどこのボスやら知らんが、アンタの親父さんってのは企業家か何かか?]
当初聞いていた話と大分食い違うような話向きに男が眉間の皺を深くする。持ち掛けられていた取引では単なる一般人の若い男を金で買わないかという話だった。正直なところ、闇市にでも落として色を売らせるか、臓器を金に変えた後で始末してしまってもいいくらいに思っていたからだ。まさか香港生まれの香港育ちの上、企業家の御曹司だなどとは思ってもみなかったというところなのだ。
確かにたった今目にしたばかりのゲームの腕前には驚かされるものがあったし、明らかに場慣れしているのは認めざるを得ない。堂々とし過ぎている態度からしていったい何者なのだという疑問も湧いてくる。
もしも香港の社交界でそれなりの地位がある家柄の息子を売り買いしたとなれば、後々面倒事に発展しないとも限らない。下手をすれば香港を仕切る自分のボスにも迷惑が掛かる可能性が出てくるかも知れないのだ。
正直なところ、この取引からは手を引いた方が賢明なのではないか――男は迷い始めていた。
だが、次の瞬間、更に驚かされることになろうとは思いもよらなかった。この得体の知れない若い男がにこやかに放ったひと言で身体中の血の気が引く思いをさせられるとはさすがに想像できなかったからだ。
[僕の父は周隼といいます。香港では周りの方々にボスと呼ばれているのですよ]
ですからきっとあなたのボスとも何らかの繋がりがあるのではないでしょうか――、そう言わんばかりに微笑まれて、男はもちろんのこと、他の二人のマフィアたちも絶句させられてしまった。
[周隼……だと?]
[冗談だろ……]
台湾とマカオの男たちが口を揃えて後退る。裏社会に生きる以上、隣国を治めるマフィア頭領の名前を知らないわけもないからだ。香港の男にとっては大きく瞳を見開いたまま、瞬きさえもままならずといったふうであった。
[周隼……だ? アンタ、からかってんじゃなかろうな……。そいつぁウチのボスの名だぜ。いったい……]
◆57
確かに香港育ちというなら一大マフィアの名前くらいは知っていても不思議はないが、そうだとしても自分がその息子であると言い出すなど仰天だ。いくら畏れを知らない若僧だとはいえ、まさかこんな大それた嘘をつくだろうか。それ以前に、少し冷静になって考えてみれば自分の属する周ファミリーに冰という名の息子がいるなどとは聞いたことがないということに気付く。
(ボスには確かに御子息がいらっしゃるが……それも二人だったはずだ。一人はボスの後継と言われている長男坊だ。もう一人、弟の方はこの日本の――東京にいると聞いている。名前は……確か兄が周風で弟の方は周焔だったはず)
周冰などという名は聞いたことがない。
[アンタ、まさか出任せを言ってるんじゃあるめえな……?]
百歩譲って仮にボスに隠し子がいたとして、それが目の前にいる年若い男だという確証はない。だがもしも本当に隠し子だったとしたら、それはそれで一大事である。どう出ればよいか――男はすっかり混乱してしまったようであった。
[……そうだ! 証拠だ。何か証拠を見せてくれればアンタを信用してもいい]
[証拠……ですか?]
[そう、証拠!]
男は意気込んでそう言うと、しばし腕組みをして考え込んだ。
(ウチのファミリーには決まったルールの字があるはずだ! 色に龍がつくっていう字だ。それにイングリッシュネームだ。ボスの字は確か……黄龍。イングリッシュネームはその名の通りファルコンだ。長男は黒龍で次男は白龍、さすがに兄弟のイングリッシュネームまでは忘れたが、親子の背中にはファミリーの象徴である彫り物の龍が入っているはず……。こいつが本当にボスの息子だってんなら、証拠となる色にちなんだ字があるに違いない。もしかしたら彫り物も……)
背中に龍の刺青があり、色と龍が合わさった字があれば、ひとまずのところ息子と認めてもいいだろうか。よしんば間違ったとしても、香港にいるボスに対しての言い訳になるだろう。男は冰をじっと見つめながらこう聞いた。
[アンタの字とイングリッシュネームを教えてもらおうか。できればその服を脱いで背中を見せてもらえると有り難いんだがね]
[字とイングリッシュネームは……まあ分かりますけど、背中……ですか?]
冰はとぼけてみせたが、すぐに男の言わんとしていることが読めてしまった。おそらくは周隼の息子は二人だけだということと、彼らの背中に龍の刺青があることを知っているのだろう。本当に周隼の息子だというのならば、ファミリーを象徴する決定的な証があるはずだと言いたいのだ。
◆58
だが、冰に刺青はない。それどころか字さえ決まってはいない。周の籍に入る際、字に雪吹の文字を入れてもいいぞと言われたものの、特に必要ないだろうと思い、そのままになってしまっていたからだ。
さて、どうしたものか。
字のルールは分かっている。色に龍を付ければいいわけだから、ここはひとつ適当な名を伝えてしまえばいいか。だが、イングリッシュネームは、それこそ考えたこともなければ決めてもいない。刺青も無い上に、あまり適当なことを言っても疑われるばかりだろう。
ここまではどうにか上手く切り抜けてきたものの、さすがの冰も手駒を使い果たして窮地である。
(うーん、やっぱり周家の名前を出したのは不味かったかなぁ。お父様の――虎の威を借りればなんとかなると思ったのは甘かったか……)
こうなったら本当のことを言うしかなかろう。下手に嘘を繕っても後々辻褄が合わなくなるだけだし、いっそ腹を括るしかない。どうやらこの男は本当に周ファミリーに属しているのは間違いないようだし、香港に連れて行かれた後でもそれこそなんとかなるはずだ。冰は降参とばかりに深い溜め息をついてみせた。
[ふう……分かりました。まず僕の背中をご覧になりたいとのことですが、あなたが思っているようなものは何もありませんよ。それから字とイングリッシュネームですが、それも……]
言い掛けた側から男が眉を吊り上げた。
[何もないだと!? そんなわけあるめえ! まがりなりにもボスの息子だってんなら背中にゃその証があるはずだ! とにかく字を教えてもらおうか! もしもガセだったら……こっちにも考えがあるぜ!]
偽小僧がボスの息子だなどと大ボラを吹いたとあれば、それこそただじゃ置かないと男がいきりたったその時だった。
[冰灰龍]
落ち着いたローボイスだが、有無を言わさぬといった圧のある声音が後方から響いて、一同はハタとそちらを振り返った。
◆59
視線の先に飛び込んできたのは鋭い瞳の中に仄暗い焔がユラユラと揺れているような目つきをした長身の男――。一目で敵にしてはいけないと本能が告げる圧を纏った男の姿に、誰もがブルりと身震いを誘われる。話している言語も広東語という点から考えて、同じ裏社会に生きる、聞かずともおいそれと触れてはいけない立場の人間だというオーラがビリビリと伝わってくる。冰もまた彼を目にした瞬間にみるみると瞳を見開いた。
[そいつの字は灰龍。イングリッシュネームはダブルブリザードだ]
[ダ……ブルブリザード……?]
冰に食って掛かっていた香港の男がビクりと後退りながら声を震わせる。
[それから……こいつの背中を見たがったことは後悔してもらわねばならんな。そのひと言だけでもこの場でてめえの首を叩き落としてやってもいいくれえだ]
[い、いや……あの……えっと……]
男は言われていることが分からないながらも顔面蒼白で唇を震わせている。
[何処の誰とも分からんチンピラ風情に俺が易々と嫁の肌を晒させると思うか?]
[よ、嫁……!?]
男はガタガタと小刻みに身体を震わせながらも、冰と長身の男とを交互に見遣っては視線を泳がせる。
そんな様子に冷ややかな一瞥をくれながらも長身の男がゆっくりとした所作でダークスーツの前を開いたと同時に、彼の隣にいたやはり長身の圧を伴ったもう一人の男がガバりとその上着をずり下ろして背中を露わにしてみせた。
見事に張った筋肉の腕、肩、そして広い背中には躍るようにうねる龍の彫り物――鱗の所々に象徴的に彩色されているのは白だ。それを目にした途端に香港の男のみならず、側にいた台湾とマカオの男たちも絶句、みるみると顔色を失っては呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
冰もまた例に漏れず然りである。紛れもなく、それは愛しい亭主だったからだ。彼の隣でスーツの襟をずり下ろしてみせたのは研いだ刃の如く鋭い視線を瞬かせた鐘崎――。
[バ、バ、バ……白龍の刺青……! じゃ、じゃあ……あ、あなたは……まさかそんな……]
男がうろたえる中、冰も茫然自失といったように硬直状態に陥ってしまった。
後ろを振り返れば森崎が里恵子の肩を抱き包むようにして睨みを据えている姿が目に入る。それと共にいつの間に湧いて出たのかというほどに驚かされる面々、周と鐘崎の他にも紫月や李、源次郎といったお馴染みの面々が頼もしげに不敵な笑みを携えているのが確認できて、冰はみるみると肩の力が抜けていくような心持ちに、椅子に腰掛けたままでパチクリと瞳を見開いてしまった。
その直後だ。
「うぉーい、そこまでだ! 全員その場から動くなよー! 一歩でも動けば容赦なくブッ放すぞ!」
フロアの隅々にまで轟き渡る声がしたと同時に、各所で警棒と拳銃を構えた男たちが交互に入り乱れてはフロア全体を見渡している。指揮を取っているのは地元県警を従えた警視庁捜査一課の丹羽修司であった。
◆60
「クソ……ッ、やられた! サツのガサ入れかよ……!?」
愛莉の男がすかさず逃げようとしたが、すかさず鐘崎に腕を捻り上げられてしまい、
「痛ててててっ! ちょ……ッ、放せって! マジで腕ちぎれる……!」
仰け反りながら泣き言を口にする。
「案ずるな。この程度じゃ千切れはせん」
軽くあしらわれて、ガックリと肩を落とす。店内にいた他の連中も丹羽が連れてきた刑事たちによって次々とお縄にされていった。
その様子を呆然と見つめながら、未だに椅子から立ち上がれずにいる冰を庇うようにして周の広い背中がマフィアたちとの間に壁を作る。誰の助けも望めない孤独の中で必死に演技を繕ってきた緊張の糸が、愛しい亭主の顔を見た瞬間にゆるみ、力が入らなくなってしまったのだ。素の自分に戻るにはある程度時間が必要なのである。
そんな伴侶のことをよくよく理解している周もまた、気の毒な目に遭わせてしまったことを心から憂いながらも、精一杯独りで闘い抜いた勇姿を何よりも尊重し、ここから先は自らが全力で守ってやろうと思うのだった。
目の前では既に縮み上がっているマフィア連中に一瞥をくれながらも、静かだが地鳴りのするような圧を伴った声音で問い掛ける。
[他所の国のことにはとやかく言うつもりはねえが、香港から来たというてめえだが――。こういうことは頻繁に行なっているわけか?]
つまり、人身売買のような取引のことを訊いたのだ。
[こ、こういうことって……]
[今の話じゃこいつを売り買いするような話向きだったな。我々ファミリーはそんなことを許可した覚えはねえぞ。本国での属はどこか知らんが、仮にも周直下を名乗っている者がファミリーに隠れてこんなことを行っているなら言語道断だ。しかもてめえが売り買いしようとしていたのは俺の嫁だ。それがどういうことを意味するか分からねえほどの間抜けじゃあるまい]
[ファ、ファミリー……嫁って……そ、そんなの聞いてな……ってか、知らなくて! 俺はただの一般人だっていうから話に乗っただけで……ボ、ボ、ボスの為に少しでも役に立てればと思っただけです! まさかこの若……]
若僧がと言い掛けて、慌てて言い直した。
[いえ、この人が本当にファミリーのご関係者だなんて全く知らなかったんです!]
[知っていようがいまいがこいつを売り買いしようとしていたのは事実だ。言い逃れはできねえぞ]
[……そんな……! あ、あなたは……まさか……]
[周焔。てめえがさっき言っていた息子だ]
[周……焔……ッ!?]
やっぱり――! と半狂乱で声を裏返し、男は腰を抜かしたように脚をもつれさせながら後退ると、その場に屈み込んで頭を床に突っ伏してしまった。
白龍の刺青を見せられてまさかとは思ったものの、本当に本人が現れるとは思ってもみなかった。会ったこともなければ姿さえ見たこともない、ただその名だけは耳にしていたファミリーのトップを目の前にしてパニック状態に陥ったのだ。しかも初めて触れるそのオーラは、仮に素性を知らずともただそこに立っているだけで一歩二歩と後退りたくなるような圧が全身からビリビリと感じられる。それだけでも蒼白ものだが、加えて秘密裏の人身売買などに首を突っ込んで、しかもその相手が頭領の息子の嫁だったとあっては、もう生きた心地すらしない。ここにきて男はようやくとボスの次男坊が同性の伴侶を娶ったという噂を思い出したわけか、更に蒼白となったようであった。しばらくは土下座状態のまま、顔すら上げることができなかった。
[とりあえずこの国の法にしたがって縛につくことは覚悟しろ。その後で我がファミリーから制裁があるものと思っておけ]
[は、ははぁーーー!]
ますます身を縮めて土下座を繰り返す男を他の制圧を終えた丹羽が自らやって来てお縄をくれ、闇カジノは幕引きとされたのだった。