極道恋事情
◆61
そうして経営者、客共々全員がしょっ引かれていき閑散となったフロアで周は愛しい伴侶を力一杯抱き締めた。
「冰……! すまなかったな。辛い思いをさせた……!」
「白……龍……ホントに白龍……だよね? まさか来てくれるなんて思ってなかった……。ありがとう……ありがとう……俺……」
「悪かった! 遅くなっちまって……。心細かったろうに……たった一人でよく頑張ってくれた。無事で良かった……!」
無事に腕の中へと戻ってきたこの世で唯一無二の宝物を確かめるように、万感の想いを込めて抱き締める。息もできないほどに両の腕で思い切り抱き包み、擦れて痛いくらいの頬擦りを繰り返す周の瞳からは、じわりと潤み出した抑え切れない熱い雫が睫毛を濡らしていた。まさに安堵の男泣きであった。冰もまた、慣れ親しんだ愛しい腕の香りに触れて湧き上がった涙がホロリと頬を濡らす。
「よくここが分かったね。ホントにありがとう……!」
頼みのGPSもなかったというのに、この場所を探し当てるのはさぞ大変だったろうと思う。亭主なのだから、仮にもマフィアなのだから、それくらいはすぐに出来て当たり前と思えるかも知れないが、何の手掛かりもない中でこちらの現状すら分からない。焦燥感に駆られながらの捜索は想像するよりも遥かに難儀だったことだろう。それを乗り越えてこうして駆け付けてくれた亭主の愛情に深く感謝するとともに、改めて自分が普段この愛する人の側にいられる幸せを噛み締める冰であった。
「鐘崎さんや丹羽さん、皆さんも本当にありがとうございます。それに何と言っても森崎さん……俺のことで里恵子ママさんまで巻き添えにしてしまって申し訳ありません……!」
冰がガバリと頭を下げる傍らで、周もまた改めて森崎と里恵子に心からの謝罪を述べた。
「今回のことは俺の責任だ。里恵子をとんでもない目に遭わせ、森崎にも多大な心労を掛けてしまった。申し訳ない。この通りだ」
二人揃って真摯に頭を下げる夫婦に、森崎と里恵子もとんでもないと言ってちぎれんばかりにブンブンと首を横に振り、恐縮してしまった。
「お詫びと……それにお礼を言うのはアタシの方よ! なんと言ってもアタシのお店で冰ちゃんを危ない目に遭わせてしまったんだし、ここに連れて来られてからも冰ちゃんにずっと守っていただいたわ! こうして無事でいられるのは冰ちゃんのお陰ですもの!」
「里恵子の言う通りです! 拉致の後も俺はただうろたえるだけで何の解決方法も見出せなかったというのに……周さんや鐘崎さんの調査のお陰でここまで辿り着くことができたんです。本当になんとお礼を申し上げてよいか……。それと同時に自分ももっともっと精進しなければと痛感しております……!」
森崎が恐縮する中、とにかくも拉致された二人が無事で良かったと安堵した一同であった。
「では周、例の香山という男の件は我々に任せてくれ」
ほぼ制圧を終えた丹羽が引き上げがてら敬礼をしてよこす。
◆62
「既に部下が聞き込みに回ったところ、香山自身もどうやら今回の拉致ともまったくの無関係というわけではなさそうだ。ここの経営に携わっている男と会っていたらしいことも裏が取れている。事情聴取が済んだら詳しい結果を報告する」
別働隊で地元県警の刑事らが調査を進めた結果、拉致を依頼したのは香山で間違いないとの情報が上がってきているらしく、彼の身柄は一旦県警預かりになるらしい。拉致の実行犯との間でどういった取引きがあったのかなどの詳しい事は今後突き詰めて調査が成されるとのことだった。
むろんのこと周にとっては自分の命よりも大事な唯一無二の伴侶をこんな目に遭わされた以上、おめおめと警察の手に引き渡すのは許し難いことであり、どうあっても自らの手で落とし前をつけたいのは山々である。だが、今回の捜索で丹羽に助力を頼んだ以上、一旦は彼らの手に渡し、法に則ったやり方で処するのは致し方なかろう。
ただ、拉致の実行犯は東京から九州までの遠距離を普通のワゴン車で移動したわけである。以前もマカオの張や香港の企業家に拐われたことがあったが、いずれもプライベートジェットを所有しているほどの富豪連中だった。連れ去る手段からしても最低限の安全は予測できていたと言える。
それから比べると今回は移動手段からしてずさんにも程があるというものだ。日本の東の果てから最南端までの遠距離を高速道路を使って拉致するなど、たまたま運良く何事もなかったから良かったものの、事故を起こす可能性もあったわけだ。何より狭い車の中で長時間に渡って窮屈な思いをさせられたわけである。万が一事故などで冰と里恵子が命を落としていたら――と考えると、はらわたが煮えくりかえるなどでは済まされない。
理由はどうあれ、その原因を作った香山を法の裁きだけで赦すわけにはいかない。
世話になった丹羽はもちろんのこと、心やさしい冰自身は無事に解決できた以上報復などという事は望まないであろうが、周には自らの処し方で――というよりもファミリーなりのやり方でと言った方が正しいか――落とし前をつけなければ到底気が治まるわけもない。
そんな思いを呑み込んで、今はともかく沈黙のまま警察に従うしかない。素直に丹羽に任せる周の心の内を理解しているのは同じ世界に生きる鐘崎と源次郎、李ら側近たちのみであった。
そうして丹羽ら警察を見送った後、一同は博多駅近辺のホテルで一先ず身体を休めることにした。
時刻は深夜だ。このまま東京へ戻るよりも先ずは冰と里恵子の心身の疲れを労い養うのが先決である。
今回の件で惜しまず助力を買って出てくれた鐘崎らに対しても、せめてもの詫びと礼の気持ちを込めて周が手配した最上級の部屋で一夜を寛ぐこととなったのである。
◇ ◇ ◇
◆63
「うわぁ……広いー!」
部屋に入るなり冰が感嘆の声を上げては、窓辺に駆け寄って眼下の街を見下ろしながらまるで子供のようにはしゃいでいる。
「これ……グランドピアノ? 部屋にピアノがあるなんて見たことないよ……」
広大なリビングに豪華なバスルーム、キッチンまで付いていて、ベッドはなんとキングサイズの物が二台並んでいる。ホテルというよりは高級マンションの一世帯でも充分に有り余るほどだ。真夜中なのによくこんなすごい部屋が取れたねと言っては、すっかりいつもの彼に戻った様子に安堵しながら、周は背後から愛しき伴侶を抱き締めた。
「すまなかったな、冰――。またもとんでもねえ目に遭わせちまった」
周は懐にしまっていた腕時計を取り出すと、冰の手を取ってそれをはめた。
「あ……! 時計!」
盗まれたと思っていたものを目の前に差し出されて、冰は驚き顔でいる。
「これ……」
「お前が拉致された直後に質屋に売り飛ばされていたのを回収した。スマフォの方も早々に丹羽が取り戻すだろう」
「そうだったの! 盗られちゃったんだって思ってはいたけど、まさか質入れされちゃってたなんて。それにスマートフォンも……。まあスマフォ自体はまた買い替えられるだろうけど、ストラップが失くなっちゃうのが一番心配だったんだ」
冰にとっては周と初めて想いを通わせた日に彼からもらったお揃いのストラップが何よりも大切な宝物なのだ。
それにしても腕時計が質入れされていたのならどうやって居場所を突き止めたというのだろう。冰にしてみればこの腕時計は拉致犯の男が所持していて、そこから自分たちに辿り着いたものとばかり思っていたからだ。
「そいつのGPSが効かなかったんで焦らされたがな。カネの調査と――、それにうちの受付嬢の機転に助けられたんだ」
周は鐘崎が里恵子の店のホステスから仕入れてくれた情報と受付嬢の清美と英子からもたらされた仮説によってここに辿り着けたことを話して聞かせた。
「そうだったんだ。矢部さんたちが……。また彼女たちに助けてもらっちゃったね! 鐘崎さんと紫月さんにも毎回頼りきりになっちゃって……。でも白龍が来てくれて本当に助かったよ。俺一人だったら絶対絶命だった。お父様の名前を出してなんとかしようって俺の考えがそもそも甘かったのは言うまでもないんだけどさ……。もうそれ以外思い付かなくて……」
あのまま周たちが現れなかったら今頃はどうなっていたかと言って落ち込む冰を周は思い切り抱き締めた。
「お前は本当によく頑張ってくれたさ。だがまあ……あのチンピラが言っていたことを聞いて考えさせられるところが無きにしも非ずと思ったのも実のところでな。お前は正真正銘俺の伴侶で親父の息子であるのは確かだが、それを知らない者にとっては証を求めたがるのも一理あるのかも知れない――とな」
◆64
「ああ……うん、そうだよね。俺も字くらいだったら適当に付けちゃえと思ったけど、刺青はないしイングリッシュネームも咄嗟には思い付かなくてさ。そういえば俺の字……! さっきは灰龍って言ってくれてたけど」
周が助けに入ってくれた時に『字は灰龍、イングリッシュネームはダブルブリザードだ』と言ったことを思い出したのだ。
「そういやお前には伝えていなかったな。灰龍というのは親父と兄貴と一緒に決めたお前の字だ。主には兄貴の案なんだが、兄貴の黒龍と俺の白龍を混ぜ合わせた灰色がいいんじゃねえかってことでな。”雪吹”から連想できるのは白だが、景色という点からすれば見方によっちゃグレー一色の世界ともいえるし、何より兄貴と俺を混ぜた色にすれば三人が揃った時にグラデーションになる。揺るがない肉親の絆を表せればいいと言ってくれてな。イングリッシュネームの方は雪吹冰そのままで芸がねえが、俺が考えた名だ」
「そうだったんだ。まさかお父様やお兄様たちと一緒にそんなことまで考えてくれてたなんて……!」
冰は感激で胸がいっぱいという表情で愛しい亭主を見つめた。
余談だが、父の周隼は例の男も知っていた通りファルコン、そして兄弟のイングリッシュネームは兄の風がゲイル――つまり突風を表していて弟である周はフレイム――焔だ。イングリッシュネームに関しては親子共にひねりはなく、香港名をそのまま英語にしただけである。よって、冰は凍るという意味からフリーズまたは氷そのもののアイスとなるわけだが、周が旧姓の”雪吹”を組み込んでおいてやりたいとの思いからダブルブリザードとしたのであった。冰もまた、その名を聞いただけで亭主の深い思いを理解することができて、目頭が熱くなるのをとめられなかった。
「そっか……ありがとうね白龍。素敵な名前をつけてもらって俺……すごく嬉しいよ。本当にありがとう」
こんな幸せはないよ。その言葉に変えて冰は愛しい腕の中で滲み出した涙を拭ったのだった。
「あの男の人に字とイングリッシュネームを教えてくれって言われたあたりから正直手詰まりになっちゃってさ。こうなったら本当のことを言って白龍に連絡して確かめてくださいとでも言うしかないかなって思ってたんだ。やっぱり俺って詰めが甘いっていうか……白龍がいないとダメダメなんだなって」
グスグスと涙声で鼻をすすりながら、情けなさそうに肩を落としてみせる。頬に伝わる雫を指で拭ってやりながら、周にとってもまた思うところがあったようだ。
◆65
「実はな、冰。お前が周の籍に入ってくれた時に親父と兄貴からも言われていたんだが……。俺たち男三人の背中に刺青が入っているように継母と義姉さんの肩にもファミリーの証となるものが掘ってあるんだ」
「え……!? そうなの?」
冰は驚いた。
「まあ彫り物といっても俺たちのとは比べ物にならねえくらい小さなものだがな。周家の妻である証として蘭の花が彫ってあるんだ」
「蘭の花……。あ! それってお母様の名前の……?」
「そうだ。香蘭から取った蘭の花模様だ。継母は親父の字にちなんだ黄色い蘭。義姉さんは兄貴の字――黒龍――にちなんで黒い蘭だ。それで……俺は白龍だからお前を正式に娶る際、肩には白い蘭を入れないかと言われたんだが」
周としてはいくらファミリーの証といえど冰の身体に傷を付けるのを躊躇ったのと、これまでは裏社会とは関係のない人生を送ってきた冰のことを考えれば、刺青を入れろとはさすがに言い出せなかったというのだ。だが、この先もしも今回のような非常事態に陥り、自分が側で守ってやれなかった場合のことを考えたら、揺るがないファミリーの証が冰の命を救ってくれるかも知れないと思い始めたのも実のところだと言っては、少々切なげな笑みをこぼした。
「だがまあ……ファミリーの証なら彫り物でなくとも、例えば指輪とかそういった物で代替えがきくからな」
早い内に何か手立てを考えようと言う周であったが、その直後、思いもよらない返事が返ってきて驚かされてしまった。
「いいよ。俺、白龍がいいって言ってくれるなら、俺の肩にも白蘭を彫ってもらいたい」
「冰……お前……」
「っていうか……俺なんかが本当にファミリーの大切な証をいただいてもいいんだろうかって……まずはそっちの方が心配だけど……」
周はめっぽう驚いてしまった。すぐには言葉も出てこなかったほどだ。
「……いいのか?」
「白龍と、それにお父様たちのお許しがいただけるなら……俺は嬉しいよ」
「冰、お前……」
周はこれ以上ないくらいに大きく瞳を見開きながら、今一度強く強く愛しい者を抱き締めた。
「すまない、冰……。俺たちの我が侭でお前の身体に傷を付けるなんざ……」
「ううん。そんなことは全然いいんだ。ただ本当に俺なんかが大切なファミリーの証をいただいてもいいのかなって、それだけ。本当にいいなら俺はすごく嬉しいよ」
「冰……! すまねえ。本当に……!」
「そんな謝ったりしないで」
「黄のじいさんにも何と言い訳していいか……」
もしも黄老人が生きていれば、冰を娶る際には裏社会に生きる自分たちの掟など全ての事情を打ち明けて、赦しを請うたことだろう。冰にもそんな亭主の気持ちがよくよく理解できるのだった。
「白龍……。じいちゃんのことまで考えてくれるなんて本当に……俺こそ何て言ったらいいか」
しばし言葉にならないままで二人はただただ抱き合い、互いの温もりを確かめ合ったのだった。
◆66
いったいどのくらいそうしていたのだろう。広いリビングの窓際で、二人立ったままでただただ互いの背に腕を回して抱き合う。じわりと汗ばむほどに長い長い時間そうしていた後、静かにその温もりを解いてはどちらからともなく見つめ合った。
「冰、一度香港に帰ろう。黄のじいさんの墓に行って、じいさんにも許しを請いたい。その後で本当にお前の気持ちが変わらないというなら親父たちにも報告したいと思う」
もしも黄老人の墓前でやはりそんなことはしない方がいいと思ったならば、ファミリーにも報告しない。じっくりと考えた上で決めてくれればいい、周はそう言った。
冰もまた、周のそんな気持ちが有り難くてならなかった。そしてもう心は決まっていた。
「ありがとう白龍。でも大丈夫。じいちゃんもきっと喜んでくれると思うんだ」
「冰……!」
周は感極まる気持ちに代えて、冰の背丈に合わせ少し膝を曲げては屈み、コツリと額と額を合わせた。そしてひと言、
「ウォーアイニー、周冰灰龍」
それは互いの生まれ育った国の言葉での愛の囁きだった。これまで幾度も愛を伝え合ってきたものの、母国の言葉で云ったのはこれが初めてかも知れなかった。
「白龍……多謝」
俺も愛してる。あなただけを生涯愛してついていくと誓うよ!
広東語でそう応えた嫁をまた抱き締め、幾度も幾度も頬擦りを繰り返した。
「あ! そういえば……ねえ白龍!」
愛しているという言葉でふと思い出したように冰は目の前の亭主を見つめた。
「ん? どうした」
「さっき丹羽さんから香山さんって方の名前が出てたけど……」
香山さんって例の香山さん? と不思議そうに首を傾げる。冰にとってはまさか今回の発端が香山にあるなどとは思いもつかないといったところだったが、拉致犯の男から聞いていた『氷川っていうヤツに想いを寄せている人物からの依頼だ』という言葉を思い出したのだ。丹羽が香山についても取り調べると言っていたのを聞き、周に想いを寄せていたというのは香山なのではないかと思ったのだった。
「まさか今回の拉致を依頼した専務さんっていうのが……香山さんなの?」
「どうもそのようだ」
周は香山が何らかの目的で自分と近付きになりたいと思っていたらしく、その為に今回の拉致を依頼したようだということを打ち明けた。
「じゃあ……白龍のことを好きだっていうのは香山さんのことだったっていうわけか……」
拉致犯の男から聞かされた話によれば、どこぞの専務とやらが今回の拉致を依頼したことや、その目的が周への好意と同時に伴侶である自分が邪魔だからという理由だった。
「そっか……。香山さんは白龍のことが好きだったんだね」
「さあ、どうだかな。恋情というよりも単に出世やなにかの観点から俺を利用したいと思っていた可能性もある」
退社してから何年もの間、一度の音沙汰もなかったのは事実だ。年賀状のひとつさえよこしたこともないというのに、偶然再会したことで思い出したようにコンタクトを取りたがる様子からしてもそちらの可能性の方が高いと周は思っているようだ。
◆67
仮に永い間胸の内に秘めていた恋情が抑え切れずに計画的な構想を巡らせていたというならまだしも、たまたま再会したことで思い出したように近付きになりたがるなど感心できるものではない。立身出世の為に簡単に他人を利用しようなどという考えもいただけないが、既に妻子がいるにもかかわらず別の恋情の為に他人を雇って拉致までさせるなど言語道断だ。いずれにせよ周にとっては尊敬できる相手ではない。いくら昔の社員だったからといって、今後関わり合いになりたいとは微塵も思わないというのが正直なところだった。
だが冰は拉致犯の男から直接理由を聞いていた為、香山の想いはある程度真剣なのではないかと思っていた。
「多分だけど白龍を利用したいっていうよりは、本当にただ好きだっただけなんじゃないかな。俺たちを誘拐した男の人がそう言ってたからさ。この前偶然銀座で再会したことがきっかけになっちゃったのかな……」
つまり焼け木杭に火が点いてしまったというところなのだろう。だが彼は既に結婚して子供もいることだし、一時の迷いを振り切って家族を大切にしてくれればいいと、そんなことをポツリと口にした冰を見つめながら、周は込み上げる愛しさが抑え切れずにいた。
「お前は相変わらずにやさしいんだな。俺が狭量なのかガキなのか……怒りが先に立って、香山の存在なんぞ微塵も残らんくれえにぶっ潰しちまいてえところだ……」
「白龍ったら、そんなこと言って。でも俺も里恵子ママさんもこうして無事だったんだし、香山さんにも早く立ち直って欲しいなって思うよ」
香山の目的がどうであれ、本来であればとんでもない目に遭わされたと怒って当然のところ、この冰は相手の更生と幸せを願うという性質である。周はそんな伴侶を心から尊く、そして愛しく思わずにはいられなかった。
「お前……腹が立たねえのか?」
「え……? あ、ああ……そりゃあいきなり拉致とか驚いたし、関係のない里恵子ママさんにまで迷惑を掛けちゃったのは申し訳ないと思うけど……。ただ、あの人……香山さんの気持ちを考えたらさ。好きな人に近付きたいっていう想いは分かるし、俺のことが邪魔だって思うのも仕方ないのかなって。あ、でもだからって今回みたいなやり方がいいことだとは言わないけどさ」
冰にしてみればまだ周と想いが通い合う前は確かにいろいろと思い悩むところはあったし、振り向いてはもらえなかった時のことを想像すれば、行き場のない苦しさがあったわけだ。誰かを本気で好きになってしまった時の様々な葛藤は理解できる、とまあそんなところなのだろう。だが周の言ったのはそういった意味ではなかったようだ。
「俺が言ってるのは……お前が俺に対して怒らねえのかということだ」
「白龍に? 俺が? どうして」
◆68
「お前がこんな目に遭ったのは俺のせいだ。香山が俺を利用したかったにせよ恋情があったにせよ、俺が原因でお前は危険な目に遭った。今回はお前の機転と度量のお陰で怪我なども負わされずに済んだが、一歩間違えば暴力を振るわれていたかも知れない……。本来なら『おめえのせいだ』と詰られて当然だろうが」
「詰るって……俺が白龍を?」
「そうだ」
冰には考えも及ばなかったのだろう。大きな瞳をパチクリと見開いてはポカンと口を開けたまま固まってしまっている。しばらくすると冰は困ったように眉を八の字にしながらプッと噴き出してしまった。
「嫌だな、白龍ったら! そんなこと思うわけないじゃない! 俺は……その、こ、これでも白龍の……お……お、お嫁さんだよ。ふ、夫婦は一心同体なんだからさ、何があってもどっちのせいなんて思わないし、ましてや怒るなんて有り得ないよ。白龍だって俺が前に記憶喪失になっちゃった時にも見捨てないでずっと側に置いてくれたじゃない! あの後で紫月さんたちから聞いたんだけど、もしも俺の記憶が戻らなくても十年でも待つって言ってくれたって……。俺、本当に嬉しかったんだよ」
ところどころ恥ずかしそうに言葉を詰まらせながらも頬を真っ赤に染めてそんなことを言う。堪らずに周はその頬を自分の胸板へと押しつけて、両の腕できつく抱き締めてしまった。
「冰……! お前ってヤツは……本当に」
今の気持ちをどんな言葉で綴れば伝わるだろう。愛しくて尊くて仕方がない。とてもじゃないが周には上手い言葉など思いつくはずもなかった。
愛している。
お前だけだ。
そんな陳腐な言葉では到底伝えきれない。あふれてやまない想いに代えて、周はただただ愛しい伴侶を抱き締めたのだった。
「側にいてくれ……」
「白龍……?」
「……俺を一人にするな……! ずっと……ずっと側にいると……生涯ずっと側に居て、俺と添い遂げてくれると……」
大概のことでは動じない逞しい腕を、鋭い瞳を震わせながらそんなことを言う。側にいろ、ではなく『側にいてくれ』と、俺を一人にするなと、まるで甘えるように抱き締めてくる。
冰は驚きながらもわずかに震える広い背中に手を回すと、そっと大切なものを抱き包むようにゆっくりと撫で、添えた。
「側にいるよ。絶対に離れない」
そう、今生ではもちろんのこと、いつかは肉体が滅びて魂になっても添い遂げて離れはしない。来世があるというのなら、どんなことをしてでも再び巡り合って、共に歩く人生を選ぶだろう。
大きな胸に抱き締められながらやわらかに瞳を閉じる。その表情には溢れんばかりの幸せと共に亭主を支える嫁としての大いなる愛情が満ち満ちと輝いているかのようであった。
「冰……」
抱擁を解いてクイと顎先を持ち上げ、欲情の点った瞳が視界に入り切らないほど近くで見つめてくる。そっと重ね合わされた唇の熱さがもう抱きたいと云っているのが分かる。
「白龍……大好き……」
「ああ。俺もだ」
お前だけを心の底から愛しているよ!
とろける瞳と瞳を重ね合わせ、軽く触れ合っているだけの唇を次第に激しく絡み合わせて二人きりの甘い甘い世界へと落ちていく。そのまま夜が白々とするまで求め求めて、重ねた肌も気持ちもひとつにせんという勢いで睦の時を分かち合ったのだった。
◇ ◇ ◇
◆69
「そういえば冰、お前――」
「ん? なぁに?」
激しくも甘い抱擁の後で愛しい嫁に腕枕をしながら周が問う。うっとりと瞳を潤ませ、未だ恍惚に浸るような表情で冰もまた愛する亭主を見つめた。
「お前、煙草が吸えたのか?」
「え?」
「ディーラーとサシで勝負する時にお前が煙草を吸い始めたのには正直驚かされたからな」
冰には普段喫煙の習慣はない。かれこれ一年以上も一緒に暮らしているが、煙草を吸う姿を見たことがないので驚いたのだ。
「ああ、うん。吸えるよ、煙草。香港にいた頃はね、それもひとつの経験っていうか手段なんだってじいちゃんがさ」
「黄のじいさんはそんなことまで教え込んだわけか……」
「うん、まあね。じいちゃんは喫煙者だったし、煙草を吸う仕草っていうのは時には役に立つもんなんだって言ってね。肺には入れないでいいけど、扱いは格好よく見せられるようになれってさ。本当は護身術も身に付けろって言われてたんだけど、そっちの方はまるで上達しなかったんだよね、俺」
老人に勧められて道場のようなところにも通うには通ったが、ディーラーの技を覚えるだけでも精一杯で、さすがに体術まではこなし切れなかったというのだ。
それよりも何故煙草を吸っていたところを知っているのかと冰の方が不思議顔だ。
「もしかして白龍たちは俺がディーラーと勝負する前からあのお店に来てたの?」
実はそうなのだ。ちょうど周らが到着したのは、まさに冰がカードゲームのテーブルに着いた時だった。
「丹羽たち警察が外濠を固めるのに少し時間が必要だったんでな。何かあればすぐに助けに入るつもりで俺とカネはお前の後方で待機していたんだが、お前が店中の客の目を引きつけてくれたお陰で丹羽もやりやすかったそうだぞ」
「ええー! そうだったんだー」
「相変わらずにすごい腕前だった。ゲームに関しては言うまでもねえが、そこへ持っていくまでの過程がな。周囲までも自然と味方につけながら相手を追い詰めていく手腕はまさに圧巻だった。カネんところの源次郎さんなんか詰将棋を見ているようだと言って感激しきりだったぜ」
冰はすっかり驚かされてしまった。まさか皆がそんな早くから見守ってくれていたとは夢にも思わなかったからだ。
「あ、でも……」
言い掛けて冰はポッと頬を染めた。
「そうだよ、俺ね、なんとなく一人じゃないって思ってたんだ。もちろんあの時は白龍たちが来てくれてるなんて気がついてたわけじゃないんだけど……。ただ……なんて言うのかな、実際には側にいられなくても俺にはいつも白龍がついててくれるんだから何があっても大丈夫っていうか……だから怖くないって思えたんだよ」
「一心同体――か。まさにお前がさっき言ってくれた言葉の通りなんだな、俺たちは」
「白龍……。ん、うん! そうだよね。だって俺たちは」
夫婦なんだから!
二人同時にハモっては、また同時に噴き出してしまった。
◆70
「白龍……大好き! ウォーアイニー」
「ああ、ああ……俺もだ……! ウォーアイニー周冰!」
額と額とをコツリと合わせて微笑み合う。そんな二人の頬にカーテンの隙間から朝の気配を告げる明かりが差し込んでくる。
「あれ? もう外が明るいね……?」
「そのようだな。ゆっくり休ませてやるつもりだったのに、またお前に甘えちまった」
そんなふうに謝る亭主に微笑みながら、ゆるりと腕の中を抜け出して窓辺へと歩けば、東の方から深い蒼色が次第に橙色を連れてくるのが分かった。
「うっはぁ、綺麗な空!」
「ああ。こっちは東側だったんだな」
周もまたベッドを降りて愛しい者を追い掛ける。カーテンを握り締めながら感動に瞳を輝かせている彼の肩を背後からすっぽりと抱き包んだ。
「綺麗だね。こっちが東ってことは、ちょうどこの先に汐留があるんだよね」
「そうだな」
「真田さんは早起きだからきっともう起きてるね?」
「昨夜連絡を入れておいたからな。お前の帰りを首を長くして待ってるだろうぜ」
「そっか。心配掛けちゃったね。そうだ、何か美味しい物でもお土産に買っていってあげたいな!」
拉致という非常事態に遭ってもお土産という発想が出てくる冰を見て、彼の精神面での打撃が大きくなかったことに安堵の思いが湧き上がる。
ファミリーの証である蘭の彫り物を入れてもいいと言い、生涯絶対に側を離れず付いていくとまで言ってくれた。夫婦間の愛情はもちろんだが、周囲の人々のことも常に気に掛けて、こうして思いやってくれる。それらが自然体で出てくるところがまた堪らないのだ。周にとってはまさに出会えたことが奇跡といえるほどの唯一無二のかけがえのない伴侶であった。
感慨深い思いに胸を熱くする傍らでは、お土産は何がいいかなと大きな瞳をパチクリとさせながら真田の顔を思い浮かべている様子が本当に愛おしい。
「できれば普段はあんまりお店で見掛けないようなこの土地特有の物がいいよねぇ」
「こっちはラーメンが有名だな。博多うどんに明太子も旨いぞ」
まあ今時は全国どこにいても大概の物は手に入るといえど、わざわざ現地で選んでくれたというその気持ちこそが真田たちにとってもまた格別な喜びであろう。
「そっか。博多だったよね、ここ。明太子に博多ラーメンと博多うどんかぁ! 真田さん、好きかな?」
「あいつは好き嫌いはねえからな」
「ホント? じゃあそれにしようっと! 厨房の方たちや運転手の宋さんにハウスキーパーさんたちでしょ。お邸の皆さんの他にも会社の矢部さんたちと、それから鐘崎組の方々にも買っていかなきゃ! そうそう! 鄧先生たちにも食べてもらいたいな! 鄧先生はお茶を集めるのがお好きだもんね。こっちでしか買えないような珍しいお茶とかもあるといいなぁ」
そうなのだ。医師の鄧は茶葉を集めるのが趣味で、彼の医務室に行くと必ずお茶を淹れてくれるというのは邸中で有名な話である。
指折り数えながら次から次へと大切な者たちの名前を思い浮かべている仕草も実に可愛らしい。周にとってはそんな姿を見ているだけでもう愛し過ぎてどうにかなりそうだ。
「じゃあ後で買い出しに出掛けるか」
「うん! 楽しみだなぁ」
しばらく一緒に明け行く景色を眺めた後で、くっつけた頬と頬とを擦り合わせる。そうして二人は白み始めた空の下、再び熱い睦の渦の中へと堕ちていったのだった。
◇ ◇ ◇
◆71
そうして怒濤の一夜が明けた――次の朝のことである。
朝とはいっても実際には昼近くという時間帯である。周と冰はもちろんのこと、同じく拉致に遭った里恵子と森崎、そして鐘崎と紫月も当然のことながらそれぞれに熱い一夜を過ごしたことは言うまでもなかろう。ようやくと起き出してきた一同を訪ねて来た人物がいると源次郎に聞かされて、ひどく驚かされる羽目となった。なんとその人物というのはマカオの張敏だったからである。それだけでも目を丸めてしまうところだが、彼が連れていたもう一人の男を見た瞬間に、冰と里恵子は思わず「あ!」と驚きの言葉がついて出てしまった。
「あなたは……確か」
「その節はお世話になりました」
張の一歩後ろで控えながら深々と頭を下げたのは一昨日の夜に冰がカジノで手助けをしてやった男だったからだ。
「まあ! あなた、ご無事でしたのね」
里恵子が驚いたように不思議顔でいる。というのも闇カジノは丹羽たち警察のガサ入れによって経営者も客も根こそぎお縄を食らったはずだからだ。
「実は……たまたま昨夜は顔を出さなかったものですから。今朝になってあの店が検挙されたことを知って驚きました……」
男は張のカジノで経営を手伝っている者だそうで、年に幾度か海外の様々なカジノへと出向いては世情を見て回っているとのことだった。
本場ラスベガスなどの大きな店にも出向くし、今回のように闇カジノのようなところへも行くらしい。客として他所の店のやり方など様々情報を収集して歩くというのだ。
そんな中で冰に助けられ、その見事過ぎる腕前に驚いた彼は、すぐさまボスである張に報告を上げたということだった。それを聞いた張は、助けてくれた人物のやり口や話していた言語、見た目などの特徴を聞いて、もしやと思ったそうだ。
「でもまさか東京から遠く離れた九州の、しかも闇カジノに雪吹君がいるわけもないと思ったんだがね。広東語を流暢に話していたというし、若いのに物凄い目利きだったとこいつが興奮しながら訴えてきたもんで、念の為に周焔さんの会社に連絡を入れてみたんだよ。ちょうど劉氏が出られたんだが、周さんも雪吹君も出掛けていて居ないというじゃないか! そこで劉氏に事情を話したところ、キミらが博多にいると聞いてね。居ても立っても居られずに朝一番の飛行機で飛んで来たというわけさ」
男が昨夜のガサ入れを免れたのは、張に連絡を取っていてカジノには顔を出していなかったかららしい。
◆72
「そうだったんですか。張さんのところの方だったとは……!」
「雪吹君のアドバイスのお陰で命拾いをしたそうで……なんと御礼を言っていいか……! 本当にありがとう!」
張からも丁重に頭を下げられて、冰は困ったように面映ゆい顔をしてみせた。
「そんな……」
「まあ私自身、雪吹君と周さんにはしょっぱなから最も失礼なことをやらかした身だから……。他所様のことをどうこう言えた義理ではないんだが、それにしてもキミらはよくよく難儀な目に遭う方々だ。今回もまた拉致されて来たとか……。大変だったね」
そんな中でも臨機応変に対応して切り抜けたという冰の活躍を聞いて、張はえらく感銘を受けたようだった。
「この御恩は忘れないよ。いずれ何かお役に立てることがあれば御恩返しできたらと思っている」
改めて深々と頭を下げる張に、周もまた有り難いと言っては会釈で返したのだった。
「お前さんにはマカオで俺たちが捕まった時に散々世話になったからな。恩返ししなきゃならねえのはこちらの方だ」
そう、鉱山の視察に出掛けた時に周兄弟と鐘崎が拉致に遭ったことは記憶に新しい。その際には張が地元の裏社会を取り仕切っているボスの男に協力を願い出てくれたお陰で皆は無事に救出されたわけだから、まさに助け合いである。偶然とはいえ今回冰が張のところの関係者の力になれたことは良かったと思うわけだった。
「さあ、じゃあ張とも思い掛けず会えたことだし、皆んなでメシに繰り出すとするか!」
こうして一同は張たちも交えて一件落着の昼食会を楽しんだのだった。
一方、丹羽ら警察にお縄を食らった愛莉の男は、闇カジノの経営に携わっていた他にもいろいろと細かなボロが露見したらしく、実刑は免れないようであった。愛莉もまた彼と共に冰らの拉致に加わったとして取り調べを受けたものの、主犯の男にくっ付いていただけということもあり、彼よりは軽い刑で済むようだ。いずれにせよ検察に回されての取り調べが行われるわけで、相応の厳しい日々が待っていることに変わりはない。
拉致に愛莉が関わっていたと知って里恵子はひどく驚いたが、これを機に反省すべき点は改めて立ち直ってくれればいいと思うのだった。
そして何といっても気になるのは今回の発端を作った香山である。
取り調べの結果、愛莉たちと会っていたことは認めたものの、肝心の拉致に関しては知らないの一点張りであった。愛莉の男に渡したとされる二五〇万円という手付金も銀行などから引き出された経緯は掴めなかった。おそらくはタンス預金などから出したのかも知れないが、証拠として残っていないことにはどうにもならない。勾留し続けるわけにもいかず、とりあえずのところは見張りをつけての様子見ということで帰されたとのことだったが、周がそれを知るのはまだ先の話であった。
◇ ◇ ◇
◆73
その後、周らが東京へ戻ると、頃は花見の季節である。
ちょうど気象庁による桜の開花宣言が出されたのもあって、もう数日を待たずして周の社でも花見イベントが催されるので、帰って早々ではあったが感傷に浸る間もなくの大忙しだ。その準備ももちろんだが、まずは何を置いても救出の大いなるきっかけをくれた受付嬢たちに礼を言わねばならない。冰は帰るとすぐに清美と英子の元へと向かったのだった。
「雪吹君! まあ! 無事で良かったわ!」
「ご心配をお掛けしてすみません! お二人のお陰で今回もまた大事に至らずに済みました。本当に助かりました。ありがとうございます!」
「ううん、そんなこと全然! でも無事に帰って来られて良かったわ」
「大変でしたね! でもお元気そうで安心しました!」
三人で輪になり手を取り合って喜ぶ。
「そうだわ。帰って早々で悪いんだけど雪吹君! もうお花見は今週末だから! この前劉さんにも渡しておいたんだけどこれが資料ね。準備は例年通り済んでいるわ!」
清美が参加者名簿やイベントの進行表などを取り出してきて広げてみせる。
「お花見の方も全部お任せしきりになってしまってすみません! 今年も盛況になりそうですね! イベントの景品などの発注は済んでいますので、明日には届くと思います」
「ありがとう! 桜の方も週末頃がちょうど満開かしらね。楽しみだわ!」
かくしてうららかな春の中、日常が戻ってきた幸せに笑顔を咲かせる一同であった。
冰は清美たちとの打ち合わせを済ませると、社長室へと戻って花見イベントの最終確認に取り掛かった。というのも、今回は冰がまたしても拉致に遭ったということで、心配した周ファミリーが香港からやって来るという連絡を受けていたからだ。せっかくなので彼らにも花見を楽しんでもらえたらと、社のイベントとはまた別口で、日を改めて屋形船などの手配をしたいと思ったのだ。それらを李と打ち合わせながら舅たちに喜んでもらえるもてなしに様々頭をひねる冰であった。
「冰さん、今しがた連絡がございまして、ちょうど鐘崎組の皆さんも屋形船でお花見をされるとのことですので、今年は船を二艘用意してご一緒に如何ですかとのことですよ!」
「わぁ! それは素敵ですね! 紫月さんたちと一緒なら楽しさ倍増ですよー」
「組の若い衆さん方専用に一艘と、老板のご家族と鐘崎の親父さんに若さん、紫月さんたち。それに我々といった具合で乗せていただけるそうです。鐘崎組のご縁のある船宿だそうで、手配もしてくださっているとのことでした」
「そうですか! 何から何まで申し訳ないなぁ。でもすごく楽しみですね!」
屋形船での花見は社のイベントの翌日に行うということで、周ファミリーは三日ほどの滞在予定だそうだ。
「社のイベントにも間に合うので、ファミリーの皆様にはお邸の室内からご見学いただくように手配しております」
さすがに周の家族となれば社員たちも興味津々だろうし、イベント会場に連れ出すわけにもいかない。ファミリーには真田ら邸の者と共に室内でディナーを楽しんでもらうことにしたのだった。
◆74
同じ頃、周の方では今回の件の報告を兼ねて香港の父親と兄を相手にリモートでの話し合いがなされていた。パソコン画面の向こうには厳しい表情の二人が拉致に遭った冰の心配をしている。
『それで冰は本当に大丈夫なんだな?』
「ええ、お陰様で。特に心に傷を負った様子もなく、すっかり元気にやってくれています」
『そうか。だったらいいが――。皆の前では心配を掛けんと気を張っているとすれば気の毒だからな。よくよく注意して様子を気に掛けてやってくれよ』
「ありがとうございます」
『ところで冰を売り買いするだのと言っていた男についてだが、日本での刑を終えたら我々の方で預かる。それで構わないな?』
「はい、私の方は結構です。父上と兄上にはお手を煩わせてしまい恐縮ですが」
『これは我々ファミリーの問題だからな。偶然とはいえ、そういった事実を洗い出してくれたお前と冰には感謝している』
「恐縮です」
父の隼の方でも売り買いに関わっていたという男の素性を詳しく調べて対処するとのことだった。
『それより今回の騒動のきっかけを作った香山とかいう男だが、お前の社に勤めていた者だとか。そっちの方はどうするつもりだ』
『お前に恋情を抱いていたそうだが、自分自身で手を汚さずに金で雇った者に罪をなすり付けるなど到底許されん行いだ。何ならそいつについてもこちらで処理してやっても構わんぞ』
父と兄が交互にそんなことを言う。彼らにとっては周と同じく冰もれっきとしたファミリーであるわけだから、それに手を出されたとあっては自分たちで制裁をくだすのは当然という認識でいるようだ。
「お二人のお気持ちはたいへん有り難く存じます。ですが、香山の件は私の甘さが招いた問題ゆえ、私の方で処理致しますのでどうぞご心配くださいませんよう」
周が丁重に頭を下げると、父と兄も『そうか』とうなずいた。
「それよりもわざわざご来日いただけるということで、お心遣いに感謝いたします。日本はちょうど花見の季節ですし、冰もお会いできるのを楽しみにいろいろと計画をしている様子です。どうぞお気をつけていらしてください」
『ああ。すまんな。こちらからは香蘭と風の嫁の美紅が同行させてもらう。本当はあゆみも一緒にと思っていたんだが、あいにく泊まりがけの健康診断の予約を入れてしまっていると言ってな。ずらせばいいと言ったんだが、病院に迷惑が掛かると言って聞かんのだ。そんなわけで今回は香蘭と美紅を連れて行く。二人とも今から大はしゃぎだ』
あゆみというのは周の実母のことである。ファミリーは何かにつけてあゆみのことも分け隔てなく気に掛けてくれるのだが、毎回それに甘えてはいけないという気持ちもあるのだろう。健康診断というのも全くの嘘ではないのだろうが、おそらくはあゆみ自身がそういった理由をつけて今回は遠慮したのだと思えた。周にはそんな母の気持ちがよく分かる気がしていた。
◆75
「それは良かった。父上と兄上にはお忙しいところお手間を取らせて恐縮ですが、母上と義姉上にも少しでも楽しんでいただければ幸いです。当日は空港までお迎えに上がりますゆえ」
そうしてリモートでの会合を終えると、周もまた自らの業務に戻ったのだった。
ファミリーがやって来たのはその数日後のことである。週末の連休を前に、周の社では中庭で花見イベントが催されていた。
隼らはツインタワーにある邸の応接室で真田の接待を受けながらディナーを楽しんでいた。
大パノラマの窓からは階下でのイベントの様子が見て取れる。広い中庭を囲むように植えられた桜が満開を迎えていて、その輪の天辺には昨年真田がクリスマスツリーにと用意した樅の木が青々とした葉をつけている。その手前に小さなステージが設置されていて、周の挨拶などが行われている様子も目にすることができた。
まあ、そうは言っても高層階から望むその姿は豆粒のようなものではあるが、皆が楽しそうに盛り上がっている様は理解できる。
「マム! ほら見て! ステージでマイクを持っているのが冰よ」
風の嫁の美紅が持参してきたオペラグラスを義母へと渡しながらはしゃいでいる。
「あら、本当だわ! 冰は司会も担当すると言っていたものね! 白龍の隣でしっかり支えてくれているのが頼もしいわね!」
余談だが、美紅は結婚する前からこの義母のことを「マム――お母さん」と呼んでいて、よほど公の場でないと「お義母さん」とは言わない。理由は様々あるが、義母の香蘭自身がそう呼んで欲しいと言ったのと、美紅の両親が既に他界していて、この香蘭のことを本当の母のように思っているかららしい。嫁と姑という関係を越えて実に仲が良い母娘なのだ。そんな二人の横では父の隼と兄の風も満足げに瞳を細めていた。
「本当に白龍は大したものです。一人ファミリーの元を離れて起業し、こんなに立派な社に育て上げたわけですから。それに今では資金面でも我々ファミリーに多大な貢献までしてくれている。本当に頭が下がる思いですよ」
いい弟を持って幸せだと風が感慨深げに中庭を見下ろしている。隼はそんなふうに思ってくれる兄がいればこそ、弟である焔もこうして伸び伸びと社の経営に専念できるのだと言って息子たちを褒め称えた。
「本当に俺はいい息子を持って幸せ者だ。焔はもちろんだが、風、お前には心から感謝しているぞ」
そんな亭主たちの側で香蘭と美紅も嬉しそうに微笑み合うのだった。
階下の中庭では冰や受付嬢の矢部清美たちが中心となってイベントのゲーム大会などで大盛り上がりに湧いている。普段はなかなか会う機会がない社長の周とも間近で触れ合えるということで、彼の周りには入れ替わり立ち替わり次々と社員たちが寄ってきている。老若男女を問わず皆に慕われている様子がペントハウスで見ている隼たちにもよくよく分かるようであった。冰もまた、ステージ上でゲームの勝者に景品を手渡したりと大忙しである。近くの一流ホテルに発注した豪華なバイキング形式の食事に飲み物、景気良く振る舞われるケータリングの料理に社員たちは舌鼓し、花見の宴は大盛況の内に幕を閉じたのであった。
◆76
翌日はいよいよ屋形船での花見である。鐘崎の知り合いの船宿が気を利かせてくれて、一般の乗船客とは別の場所から乗り降りできるように計らってくれたので、一同は車で指定場所まで向かうこととなった。門前仲町の繁華街から車で少し行った先にある人目に付きづらい静かな所だ。鐘崎組もだが、今回は香港から一大マフィアのファミリーが来ると聞いて、船宿が格別の計らいで持てなそうとしてくれたことが有り難かった。
河岸にはずらりと並んだ桜がまさに満開を迎えていて、昨夜の社内イベント同様天気も上々、最高の花見日和である。
香港からやって来たファミリーも全員着物姿で乗船し、日本の春を満喫することになったのだった。
「父上、兄上、大変よくお似合いです」
彼らの和服は以前から何かの機会の為にと冰が真田と一緒に呉服店で選んでいたそうだ。隼たちもその気遣いを大層喜び、香蘭と美紅などは歩き方まではんなりとして、まさに仲良きかなファミリーの幸せの絶頂という感じで誰もが情緒を楽しんだ。
屋形船が走り出すと、船宿が腕によりをかけてこしらえてくれた料理と酒が振る舞われ、昨夜のディナーとは打って変わって純日本風の膳がずらりと卓上に並ぶ。
「まあ、熱々だわ! これは日本の天麩羅ね!」
「マム、見て! こっちはお塩と……これは天つゆね? いろいろな味が楽しめるなんて最高だわ!」
「ホントね! 衣がサックサクで美味しいわー!」
次々に配られる揚げ物に箸をつけた香蘭と美紅が感嘆の声を上げている。
「天麩羅はこの船の中で揚げてくださっているんですよ」
鐘崎が隼と風に灼がてらそう説明する。周は鐘崎の父の僚一と源次郎らに熱燗を注ぐといった調子で、息子たちの細やかな気遣いに父親世代も頼もしげだ。紫月と冰は女性陣の香蘭と美紅の両脇で、花見にはもってこいの桜餅などを勧めては、本格的な薄茶を点てたりして盛り上がっていた。
「ウチの組員の実家が茶道の師範をしてましてね。今日の花見の為にと奴さんに薄茶の点て方を教わってきたんですよ」
鐘崎組に新しく入った徳永竜胆という男は茶道家の息子である。桜餅には薄茶だろうということで、紫月が徳永から教わってきたのだそうだ。
「付け焼き刃だからなぁ、上手くできてっか分からないッスけど……」
真剣な様子で一生懸命茶を点ててくれた紫月に、
「美味しい!」
「まあ、本当ね! 紫月、とっても上手よ!」
「ホント! 桜餅にぴったりですね! さすが紫月さんです!」
女性たちと冰にも絶賛されて、紫月は照れ臭そうにしながらも満面の笑みを見せた。
船は隅田川を走り、途中で橋をくぐるごとに皆からは歓声が湧いた。両岸の桜が闇夜の中、真っ白に浮かび上がってまさに溜め息の出るくらい見事な景色である。海へ近付くにつれ、大都会東京の夜景が煌びやかに広がっては、花の情緒とはまた違った感動を生み出してくれる。一同は最高のひと時を楽しんだのだった。
そんな幸せに水を刺すような一報が入ったのは、船が岸に戻ってきた直後のことだ。周宛てに掛かってきた一本の電話――相手は警視庁捜査一課の丹羽修司であった。
◆77
『周か!? 今は家か? 会社か?』
ろくに挨拶もなしで緊張気味の声がスマートフォンの向こうで訊く。
「えらく藪から棒だな。今は外だ。ちょうど屋形船での花見を終えたところだが――」
周が電話に出た時はちょうど下船し終わって、鐘崎と共に船主に御礼の挨拶を述べながら雑談をしていた最中だった。他の皆は船を降りた順から迎えの車が待っている通り沿いまで歩きがてら、河岸の桜の前で記念撮影などを行っていた。
周と鐘崎の父親たちと源次郎などは息子と共に船宿のスタッフや船頭らと世間話をしていたが、紫月と冰は母親の香蘭と姉の美紅たちと記念撮影で盛り上がっていて、執事の真田がシャッター係を引き受けたりしながら、先に車までの道のりを散歩していたようだ。つまり、夫婦は旦那同士・嫁同士といった具合で離れた位置にいた。
電話の向こうでは丹羽が何やら慌てた調子だったので、周はすぐさま通話をスピーカーへと切り替えた。緊急事態であるなら側にいる鐘崎らにも直に聞いてもらった方が話が早いからだ。
『たった今、福岡県警から連絡があった。香山が姿を消したそうだ』
「何……ッ!? どういうことだ! ヤツはまだ勾留中じゃねえのか!?」
今は県警が事情聴取をしているはずである。まさかだが、脱走されたとでもいうのだろうか。だとすれば不手際にもほどがある。だがそうではなかったらしい。
丹羽の話では、香山が今回の件を拉致犯の男らに依頼したという明確な証拠が掴めなかった為、一旦は家へ帰し、交代で見張りの刑事を二人ずつつけていたというのだが、今朝方再び聴取に香山宅を訪れたところ、もぬけの空だったというのだ。家に人の気配はなく、本人はもちろんのこと女房子供も不在とのことだった。連絡が今になったのは、慌てた県警が独自に捜して歩いていたからだそうだ。
「バカを抜かしてんじゃねえ! 香山が家へ帰されたなんぞ俺は聞いてねえぞ!」
さすがに周が声を荒げたが、丹羽のところへすら報告が上がってきていなかったのだから仕方がない。
『現在鉄道各社とフェリーや空路の方でも香山の足取りがないかどうか洗っているそうだが、万が一お前らの前に姿を現すかも知れない。十分に注意して欲しい!』
丹羽はこれからすぐに所轄の警察官を周らのいる船宿に向かわせると言った。
『俺も駆け付けるが、今は練馬だ。少々時間が掛かる』
警視庁内に居ればまだ早かっただろうが、練馬というなら車で飛ばしてもすぐとはいかないだろう。注意喚起の為にとにかくは電話で知らせてよこしたというのだ。
「話は分かった。もしも香山が俺の前に姿を現したならば、こちらで処理させてもらうぞ」
周の声音はむろんのこと、その意味は重い。県警の見張りがついていたにも関わらず撒かれたというなら、丹羽も周を責められる立場ではない。だからといって報復などを容認できるとは言い難い。彼にとっても難しい立場なのだ。
『周、気持ちは解る。我々の不手際も謝罪せねばならんが、とにかく……俺が行くまで滅多なことは考えてくれるな』
それだけ告げると通話は切られた。
◆78
と、ちょうどその時だった。継母の香蘭が血相を変えて周の元へと駆けて来た姿を見た瞬間、現場は一気に緊張に包まれた。
[黄龍! 白龍! すぐに来て!]
彼女の話では、冰らと記念撮影をしていたところ背後から見知らぬ男が現れて、シャッターを押していた真田を羽交い締めにし、刃物を突き付けているというのだ。目的は冰のようで、しきりに『氷川さんと別れなければ、このじいさんを殺す』というようなことを繰り返しているという。美紅は体術に優れている為、万が一のことがあったら紫月と共に冰らを守ると言って、香蘭に連絡係を頼んだとのことだった。
[クソッ! やはり来やがったか!]
周以下男たちはすぐさまその現場へと向かった。
走りながら香蘭が更に詳しい経緯を話し伝える。
[どうやらその男は白龍の会社の近くで私たちが花見に出掛けていくのを目撃したようなの! 白龍に会いたかったらしく偶然姿を見掛けたんで後をつけて来たらしいわ。冰が白龍と仲睦まじく着物姿で歩いているのを見て腹が立ったとか……]
それで皆が下船して来るのを待ち伏せていたようだ。
だが、刃物で真田を拘束しているということは、最初から何らかの危害を加える準備があったということになる。上手いこと周のみに会えればと思っていたのだろうが、冰に対しては攻撃の意図があったということだろう。まったくもって性懲りのない男である。とにかく一同は現場へと急いだ。
一方、冰らの方では真田を人質に取られたままで香山と対峙していた。
「冰さん、すぐに逃げてください! 坊っちゃまと冰さんの為ならこの真田、命など少しも惜しくはございませんぞ! この老いぼれのことは構わずに、さあ早く行ってください!」
真田が必死で声を張り上げている。その首根っこをがっしりと押さえ込みながら、香山が半狂乱で目を吊り上げていた。
「はん! こんなジジイまでがお前なんかを庇うとはな! どこまで図々しいクソガキなんだ!」
香山はこの真田が冰らとどういう間柄なのかは分からずとも、かなりの目上であるにも関わらず冰を庇うこと自体にも腹を立てているようだ。
「香山さん! その人を離してください! あなたの目的はこの俺でしょう?」
冰もまた必死の説得を試みる。その脇では紫月と美紅が一瞬の隙も逃すまいと、いつでも応戦できるように身構えていた。
冰は説得を続けている。
「その人は俺の父も同然なんです! 俺がそっちへ行きますから、どうかその人を離してください!」
冰の言葉に真田は胸を熱くする。そんな彼をますます刃物で脅しながら、香山は支離滅裂なことをがなり立ててよこした。
◆79
「離して欲しけりゃ二度と氷川さんに近寄らないって約束しろよ! 俺はなぁ、お前なんかのせいで警察にしょっ引かれて……散々な目に遭ったんだ! 親父にはみっともねえって言われて専務を外された! もう口すら聞いてくれなくなったし、これじゃ解雇も同然だ! それだけじゃねえ! 女房までもが子供を連れて実家に帰っちまった! 従業員からは白い目で見られて蔑まれた……。お前のせいで全てを失ったんだぞ! 今すぐ氷川さんと別れるって言え! そんでもって二度と氷川さんの前にツラを見せないって約束しろよ! そうしたらこのジジイは離してやる!」
「分かりました! あなたの言う通りにします! ですから早く真田さんをこちらに!」
冰が手を差し出しながら一歩二歩と距離を詰め始めると、当の真田が必死にそれをとめた。
「冰さん! 来ちゃいけません! あなたは坊っちゃまのお側で生涯添い遂げるべき御方なんです! このような理不尽に屈することはなりませんぞ!」
理不尽と言われて香山は頭に血が昇ってしまったようだ。
「黙れクソジジイ! 本当にぶっ殺されたいのか! だいたいてめえは何なんだ! そうまでしてあのクソガキを庇いてえわけか!」
「お若いの、こんなことをしても何もいいことなどありませんぞ! 例えこの老いぼれや冰さんを傷付けたとて、氷川の坊っちゃまがあなたに向き合うとお思いか?」
核心を突かれて香山はますます頬を怒りの色に染め上げた。
「うるせえクソジジイ! 説教なんて聞きたかねえんだよッ! マジでホントにブチ殺すぞ!」
勢いよく襟首を掴み上げたと同時に刃先が真田の手の甲を掠め、血が噴き出した。
「真田さん!」
冰は蒼白となり、紫月と美紅にも緊張が走る。
鮮血を目の当たりにして、冰の中で仄暗い何かが沸々と湧き上がり、これまではハラハラとしていたその表情からは次第に焦燥が失われていった。
と同時に逆に落ち着き払った感情が冰を支配する。
両手を大きく広げると香山に向かってゆっくりと距離を縮めた。
「香山さん、あなたは俺が気に入らないのでしょう? だったらその刃を向けるべきは俺でしょう。真田さんを離して俺を刺しなさい!」
ジリリ、ジリリと縮められる距離に香山の方が焦燥感を募らせる。
「さ、指図するな! カッコつけやがって……! マ、マジで刺される度胸もないくせに……強がってんじゃねえよッ!」
今度は真田を盾にするようにして首に突き付けていた刃物を背中へと移動させる。
「ほ、本当に殺すぞ……!」
「御託はいい。度胸がないのはあなたの方でしょう。早く真田さんを離して俺を刺しなさい。それとも向かってすら来れませんか? こんな大それたことをしでかした割には勇気がないんですね」
「う、うっせえクソガキッ! そんなに言うならホントに刺してやるぞ……」
「望むところです。いいからごちゃごちゃ言ってないで向かって来なさい! さあ早く!」
冰はわざと勘に障る言葉を投げ付けながら、香山の意識を自分の方へ向けさせんと煽りを続けた。と、その時だった。後方から血相を変えた周が駆け付けて来てその名を呼ぶ声がした。
「冰! 真田!」
待ち望んだその姿を目にした瞬間に香山がビクリと身構える。
◆80
「ひ、氷川さん……」
「香山! てめえ、こんなことをしてただで済むと思うのか!」
周の厳しい声音が夜を切り裂くようだ。都心といえど、船宿がなるべく人目につかない場所から乗船させてくれたので、辺りに人影は見当たらない。騒ぎを聞きつけて通報してくれる者も望めない中で真田を人質に取られていてはさすがの周とておいそれとは手が出せずに香山との睨み合いが続いた。
「氷川さん……聞いてください……俺だって本当はこんなことしたくないんです……! 当然……このじいさんにも恨みなんかないし、ただあなたの側に居たいだけなんです! あなたが俺の側にいてくれるならこの人はすぐに解放します! 俺はもう……親からも見捨てられたし、女房子供も実家に帰って……何もかも失いました……。もうあなたしかすがる所がないんです!」
呆れるほどに自分よがりな言い分だ。周の後方でそのやり取りを窺っていた僚一が、真田を救出すべくすぐさま作戦を口にした。
「隼、風、お前たち二人は焔を援護する形で犯人の注意を前方に引きつけてくれ。遼二は俺と共にヤツの背後に回って左右から挟み込む形で待機。隙を見せたところを一気に制圧する。それと同時に隼たちは真田氏と冰を保護してくれ」
「分かった。僚一、頼んだぞ」
鐘崎親子がその場を離れると、隼と風はすぐさま周の側まで駆け寄り援護に掛かった。
「焔、退け! そいつが香山か」
「稀に見るクズだな。ご老体を相手に刃物を振りかざすしかできねえとは呆れて物も言えん」
隼と風が周に向かって鐘崎親子の作戦を視線だけで伝えながら、わざと勘に障る言葉で交互に香山を煽る。周本人もすぐにその意に気付くと、ひとまずこの場を二人に任せていつでも冰と真田を保護できるようにと態勢を整えた。
「な、なんだテメエらは! ば、バカにしやがって……どこのどいつだ!」
「てめえのようなクズに名乗る筋合いはねえな」
「腹が立ったならその獲物を振りかざして俺たちに向けてみやがれ! いくらでも相手になってやるぞ?」
クイクイっと大袈裟な調子で手招きをし、わざと小馬鹿にしたように笑ってみせる。
「まあ、無理だろうな。女子供やご老体を相手にすら丸腰で渡り合えねえようなクズ野郎だ。到底そんな気概はなかろうさ」
「それもそうだな。男の風上にも置けん」
情けない野郎だというように、ここでも大袈裟に肩をすくめながら二人で嘲笑を繰り返す。
香山にしてみればさすがに堪らなかったのだろう。既に人質に取っている真田のことなどすっかり忘れたようにして、茹蛸のように顔を真っ赤にしながらワナワナと全身を震わせた。
「クソッ……! 黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって! お、俺をバ、バカにするな……! それ以上言ったらホントにぶっ殺すぞ……!」
作戦通り香山の意識が真田から離れたのを機に、
「おい!」
鐘崎親子が背後から突如大声で呼び掛けたと同時に後ろを振り返った香山を一撃で制圧した。それと同時に周が冰と真田を保護、大きな懐の中に二人を抱き締めた。
「白龍!」
「坊っちゃま!」
「ああ、ああ……すまなかった!」
無事を確かめる周の身体は小刻みに震えていて、それは安堵と共に香山に対する許し難い思いの表れでもあった。