極道恋事情
※本エピソードは周焔の兄・風黒龍の恋の話となります。BLではなくNL(男女カップリング)となりますので、ご留意くださいませ。
*黒蘭を愛したマフィア
物心ついた頃から手に入らないものなどなかった。
また、それほど執着して手に入れたいと思うものもなかった。
だが今、心の底から欲しいという感情を自覚して戸惑いを隠せない。
自分の中にこんなにも激しい欲があったのかと驚くほどに欲しくて欲しくて堪らない。しかもそれは”もの”ではない。
女だ。
そうだ、例えば恋をするならこんな女性《ひと》としてみたい。
いや――、もっと言うならこんな女を抱いてみたい。
生まれてこのかた四半世紀を過ぎた今、それは初めて芽生えた激しい感情だった。
◆
実に邪だ。ふとそんな妄想が浮かんでしまうほどに、一目見ただけで視線を外せなくなった。それほど強烈な印象だった。
それは繁華街を歩いていた時のことだ。通りすがり、何とはなしに視界をよぎったステージバーの店先で流されていた映像に釘付けにさせられるとは甚だ予想していなかった。
おそらくはこの店で行われているショーのものだろう。バックバンドを従えた女が歌っている――ただそれだけの、何の変哲もない映像だった。
「おい、周風――? 何してるんだ」
今の今まで傍らを歩いていた連れの男が数メートル先から振り返っては首を傾げて呼び掛ける。こちらが立ち止まった為に、彼との距離が開いてしまったのだ。その声でようやくと我に返った。
「どうかしたのか?」
彼が戻って来ては訝しげに画面を覗き込む。
「――? この映像がどうかしたのか?」
何だ、この店のショーのものじゃないか。えらい別嬪な歌い手だな――彼はそう言ったものの、それ以上の興味はそそられていないようだ。
「お前――ここの店、入ったことあるか?」
未だ画面に視線を取られたままでそう訊いてみるも、『ないが――』と即答が返ってくる。
「そういやここ最近、この界隈にはこういったステージバーが増えてきたらしいからな。古き佳き時代を彷彿とさせるとかで、昨今人気みたいだが――」
それより早くメシにしようぜと催促する。
「ああ……では行くか」
そうは言ったものの、画面に映っていた女のことが頭から離れなかった。
◆
「――で? ああいうのがお前さんの好みってわけか?」
歩きながらそう問われてガラにもなく頬が熱を持つ。彼曰く、別嬪なのは認めるが、いかにも玄人感丸出しのタイプだと言い、あれでは男が食われちまうだろうぜと笑う。
「……綺麗な女だったからな。それに歌声も良かった」
「ほう? 珍しいな、お前が女に興味を示すとはね」
いつもは数多寄ってくる女性たちに対しても、満足に顔さえ覚えておらず、おいそれとは近寄らせないオーラ丸出しだというのにな――と、冷やかし半分の言葉さえ右から左だ。それほどまでに頭の中は映像の中の女性でいっぱいだった。
彼女が歌っていたのはジャズだ。
繁華街の喧噪でじっくり聴けなかったのがひどく残念に思えるほどの耳心地好い歌声だった。
それだけではない。
歌に合わせた”振り”も艶めかしく、誘うような視線が印象的で、ずっと聴いていたならば、図らずも雄の本能を抉り出されるような気分にさせられそうなのだ。
くねる細い腰つき、くるぶしまであるロングのフレアドレスは一見上品ともいえるが、よくよく見るとかなり深い位置からスリットが入っていて、彼女が動く度にほんの一瞬だけチラッと覗く色白の脚が脳天を刺激する。数人いたバックコーラスの女たちの方が遥かに露出度の高いドレスを着ていたが、その誰にも全く興味をそそられなかった。
視線が追うのは唯一人。
美しいネイルで彩られた指先で手招きする仕草がジワジワと疼きを誘う。
ああ、そうだ。恋をするならこんな女性としてみたい。叶うことならこんな女を抱いてみたい――つい邪な妄想が浮かんでは消え、また浮かんでは身体を熱くする。まるで地中のマグマがドクドクと音を立てて対流するかのように、身体の奥の奥の――そのまたずっと奥の核の部分から何か大切なものが引っ張り出されて、掬われてしまうような感覚が怖いくらいだった。
◆
*ファミリーの証、龍と蘭
自らの父親がここ香港という煌びやかな大都会を治めるマフィアの長だと知ったのは、物心ついて間もなくの頃だった。
幼い頃に自分を抱き上げた母の肩には小さな蘭の花が咲いていた。
父の広い背中には、全面にうねるような龍が踊っていた。
それらが刺青であると知ったのは、インターナショナルスクールに入学してしばらく後のことだった。
蘭の花も踊る龍も、どちらも黄色だった。
黄色といっても菜花やレモンのような鮮やかなイエローではなく、宝飾品によくある渋めの琥珀色というのがぴったりだったと思う。
両親は黄色が好きなのだろう――幼い頃は漠然とそんなふうに思っていた。そうではないと分かったのは思春期の頃――男は龍の彫り物を背中に、女は蘭の花を肩に――それがファミリーの大切な証なのだと教えられた時だ。
何故に龍と蘭なのか。
その理由は組織を築いた曾祖父の名が『龍』で、曾祖母の名が『蘭』だったからだそう――知ってしまえば単純な話だ。
以来、子孫たちには必ず龍と蘭にまつわる証を刺青として刻むことがファミリーの慣わしになったのだそうだ。
祖父の字は蒼龍といった。祖母の肩には青い蘭の花が刻まれた。
父の字は黄龍だから母の肩には黄色い蘭が咲いていた――とまあ、そういうわけだ。
そして父の長男として生まれた自分には”黒龍”という字が与えられた。数年後に生まれた義弟は”白龍”とされた。何故に義弟かといえば、弟は父と妾の女性の間に生まれた子供だったからだ。
「黒龍、あなたが大きくなってお嫁さんをもらう時がきたら――その女の人の肩には黒い蘭が贈られるのよ。白龍のお嫁さんには白い蘭ね」
それが母の口癖だった。
母は妾の子である弟のことも分け隔てなく実の子のようにして可愛がった。妾の女性のことも疎まずに親友さながらに仲良くした。
そんな姿をずっと見てきたからだろうか。将来お嫁さんにするなら母のように美しくてやさしい、そして大きな心を持った女性がいい――幼心にそんなことを思ったのは遥か遠い日のことだ。
◆
*頭領・隼と息子たち
香港の裏社会を治める周一族といえば、その世界に身を置く以上知らない者はいない。堅気である一般人でもその名前くらいは殆どの人々が聞いたことがあるだろうといえる巨大組織である。
ファミリーの長は周隼といい、歳は五十代の半ばだが、実年齢からは想像もつかないくらい若々しく感じられる伊達男としても有名であった。
俳優やモデル顔負けの整った容姿はさることながら、色香漂う雰囲気だけでも興味をそそられる風貌をしていて、そこにマフィアという闇のイメージが重なれば、それはもう映画やドラマの中にのみ存在するファンタジックな想像を掻き立てられずにはいられない。ゆえにここ香港では本来の裏社会の印象とは別の意味でも名を轟かせているような男であった。
そんな周隼には二人の息子がいたが、これまた父をしのぐような伊達男ぶりで、若さも手伝ってか社交界では常に噂に上るほどの兄弟であった。
父の隼が色男ゆえ二人は腹違いではあったが、兄弟仲はすこぶる良く、組織には有りがちな敵対心などは微塵もないといった安定ぶりで、次代を継ぐ後継者として内外からも太鼓判で認められる頼もしい存在でもあった。
長男は周風という。字は黒龍だ。
本妻の息子で、頭脳や体術にも優れ、王道育ちゆえ性質は紳士的で優雅な印象だ。
弟の周焔は妾腹であったが、ファミリーの象徴である”色に龍がつく”という字も与えられ、白龍とされていた。本妻と兄からも本物の家族として大切に扱われていて、そのことに恩義を感じている彼は、本拠地香港を離れて現在は実母の故郷である日本の東京で商社を起業、ファミリーの資金源に一躍買っているといった出来た男らしい。つまり弟の焔は父の周隼と日本人女性との間に生まれた混血であった。
風が焔を巻き上げ威力を増すように、兄弟で力を合わせて組織を繁栄させていって欲しいとの願いを込めて付けられた名だそうだ。ここ香港では珍しくはないイングリッシュネームも、それぞれ『ゲイル――疾風――』と『フレイム――炎――』とされ、こちらもまたモダンだと持て囃されてもいるのだった。ちなみに父の周隼は『ファルコン』で、イングリッシュネームに関しては三人共に特に捻りはないのだが、それでもモダンに感じられてしまうのは彼らの見た目がとにかく群を抜いているからだろう。
兄弟二人、生い立ちに差はあれど、どちらも非の打ち所がない美麗かつ男気あふれる容姿の持ち主だ。そんな彼らのお眼鏡に敵いたいという女性は数多く、連日のようにアプローチが絶えないというのもまた、このファミリーが有名な所以であったようだ。
◆
*美しい女1
「それはそうと周風、今夜はお前さんの奢りだからなー? 忘れたなんて言わせねえぞー」
先程の店先に流れていた映像が脳裏から離れず、ぼうっとしていたのだろう。暢気な声でまたしてもハッと我に返らされた。
「――あ、ああ……分かってる。お前には今回の件でえらく世話になったことだしな。どこでも好きな店を言え」
苦笑しつつも、引きずり込まれそうになっていた妄想から覚めさせてくれたことには感謝せねばなるまい。たわいのない会話を交わしながら連れのお目当てだというレストランまでの道のりを歩いていた時である。
『いいじゃねえか、ちょっとくれえ!』
『困ります……。本当にもう時間がないの! そこを通してくださる?』
『チッ! お高くとまってんじゃねえぞ、グォラ! こちとらこんなひなびたバーに毎度通ってやってんだ。お前さんの店の売り上げにだって相当貢献してやってる上客だぞ! そんな態度がまかり通ると思ってやがんのか!』
『それは……有り難く思っております。でももうステージが始まるの! お願いですから通して』
『るせー、このアマが! ちょっとツラがいいからって調子こいてんじゃねえぞ!』
どこからともなく聞こえてきた言い争うやり取りに二人は揃って歩をとめた。なんとも不穏な空気に自然と眉根が寄ってしまう。
「何だ、どこかで揉め事か?」
「そのようだな。まあここいら界隈では珍しくもなかろうが」
面倒事はご免だが、揉めている内の一人はどうやら女性のようだ。男が一方的に怒鳴って脅しているのは明らかで、見過ごしてしまえばそれはそれで気分が悪い。それ以前にファミリーが治めるこの地区で、まかり間違って傷害事件などを起こされれば後々厄介なのは事実だ。周風は舌打ちたい気持ちを抑えて、声のする方へと踵を返した。
「見て見ぬふりができないその性格は相変わらずだな、周風」
仕方がない、付き合うぜとばかりに共に踵を返しながら不敵に笑ったこの男とは幼い頃からの腐れ縁だ。大人になった今、頭脳明晰な取り柄を活かしてファミリー専属の顧問弁護士をしてくれている男でもあった。
路地を少し進むと案の定か、ゴロツキふうの男が華奢な女の行く手を塞ぐようにしてちょっかいを掛けていた。レンガの壁に手をつき、女を壁面に押し付けて、逃がさないぞとばかりに息巻いている。それらを面白がるようにしては男の手下と思われるようなもう一人がニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた。
「何なら今ここでその綺麗なオベベをひん剥いてやってもいいんだぜ! そうすりゃいっそステージがどうのだなんて言ってられなくならぁな!」
迫っている男が小太りのせいか、周風の側からは女の肩先しか見えないが、繻子かサテンの風合いといったドレス姿であることだけはぼんやりと確認できた。この界隈は歓楽街だから、夜の商売の女だろうか。色白の肩はなめらかな肌質で美しく、細い肩紐に散りばめられたラインストーンがすぐ側の街灯に照らされて、女が身を捩るごとにキラキラと反射している。男の陰になっていて顔立ちは分からないが、ルーズに結われた髪は黒曜石を思わせるような深い黒――だ。それらを見ただけでもこんな路地裏には不似合いな、まさに掃き溜めに鶴という言葉が脳裏に浮かんでしまうのが第一印象であった。
「脅しじゃねえぞ! 本当にヤってやるからな!」
小太りのゴロツキが女の肩紐を引きちぎらんと手を掛けた時だった。
「そこまでだ。無粋をするんじゃねえ」
グイとその手をひねり上げられて、ゴロツキは「ヒギャアッ!」という叫び声と共に、軽々地面へと転げさせられてしまった。
◆
*美しい女2
「な、な、何をしやがる!? き、貴様……ッ、何者だ!」
あまりに突然だった為か、すぐには状況が理解できないようだ。側にいた手下もこれは敵わないと察知してか、既に逃げ腰状態でいる。
それもそのはずである。周風と幼馴染の弁護士の男は二人共に一八〇センチをゆうに超える長身の上、隙のないダークスーツ姿でキメている。歳は若いが、有無を言わさぬ圧を伴ったオーラが身体中から滲み出ていて、一目で敵にしてはいけない相手だと本能が告げるようなのだ。何よりゴロツキの腕をひねり上げた男――周風――の瞳は鋭く、闇色に揺れていて、逆らえば命にかかわると直感させられる。如何に王道の箱入り育ちといえど、そこはやはり裏の世界で育った男なのである。
「あ、兄貴……い、行きましょう……」
手下は既に一歩二歩と足をもつれさせながら、兄貴分を置いて行く勢いだ。
「……っそ、覚えていやがれ!」
ようやくと地面から立ち上がったゴロツキも、狭い路地を転がるようにしながらその場を後にしていった。
「――ったく、どこにでもバカはいるもんだ。怪我はないか?」
逃げて行く男たちの後ろ姿を横目にしながら周風は女を振り返った。――と、そのまま視線を外せないくらいの衝撃が風を襲った。なんとそれは先程通りすがりに見た映像の中に映っていた女だったからだ。
胸前で両手を震わせながら見上げてくる女の顔は形容し難いほどに美しく、映像など比ではない。思わず地面がグラリと揺れて歪むほどに高揚感を煽られる、そんな邂逅に息も止まりそうだった。
「あ……りがとうございます。助かりました……」
小さく形のいい唇には真紅に艶めくルージュ。大きな瞳は髪のそれにも増して深い黒だ。じっと見つめていたならば、まさに吸い込まれそうだと思えるくらいの漆黒の瞳をわずかに潤ませながら発せられた礼の言葉は震えているものの、これまた耳心地がいいソプラノ――。ドレスの色は鮮やかな真紅で、ルージュと引き合って艶めかしい。
「あ……ああ、いや……お役に立てて何よりだ」
それだけ返すのが精一杯というほどに衝撃的ともいえる女との出会いは運命か、一瞬で風の心臓を射抜いてしまうほどの強烈な印象であった。
しばしぼうっとしてしまっていたのだろうか、女が再び礼を口にしたその言葉で風はハッと我に返った。
「あの……助けてくださってありがとうございます。きちんとお礼を申し上げるべきところですが、あいにくすぐにステージが始まってしまうもので。失礼は承知ですが、お礼は改めてさせていただけたら有り難く存じます」
女がわずか瞳に笑みを讃えながら申し訳なさそうに見上げてくる。
「ステージ……? 貴女の仕事か?」
「ええ、ここのバーで歌っていますの」
「歌……。貴女は歌い手さんなのか」
ということは、やはり先程表通りのモニターで見た女に間違いはないのだろう。まさに奇跡のような巡り合わせに、一気に心拍数が加速する。
周風の身長からすれば三十センチほども違うだろうか。女は細い肢体の胸元から折り畳んだ紙のような物を取り出すと、伏し目がちにしながらそっとそれを差し出してよこした。
「これ、よろしかったら……。今夜のチケットですの。ご都合が悪ければどうぞお気になさらず読み捨ててくださいまし」
こんなものじゃお礼のひとつにもなりませんが今は心ばかりでご容赦くださいという彼女からチケットを受け取ってやると、ぺこりと頭を下げながらやわらかに微笑んで路地裏の一角にある扉の中へと消えていった。
◆
*美しい女3
「おい、どうするんだぁ周風――」
幼馴染の弁護士が冷やかすように肩に肘をついて寄り掛かってきても、風はたった今彼女から受け取ったチケットから目が離せずにいた。ふと、どこからともなく漂ってくるほんのりとしたいい香りは、チケットに移った彼女の残り香だ。
「はぁん? こいつはランジュールのフルーワァーだな。別嬪さんに似合いのいい趣味だ」
ランジュール、それは大手化粧品メーカーの企業名だ。フルーワァーは香水の名。仄かな香りだけで銘柄を言い当てたところからすると、この幼馴染も相当な色男であるのは想像に容易い。そんな彼が肩先にグイと体重をかけて覗き込むも、風の視線は未だチケットに釘付けだ。
「おいおい、まさかとは思うが……そいつを観ていこうってか? この後のメシの約束はどうしてくれるんだ」
二人は仕事が終わった帰り道で、打ち上げがてら軽く一杯引っかけていこうと約束していたところだったのだ。
「軽食がつくと書いてある」
ようやくのことで口を開いた風は、すっかりステージを観る気になっているようだ。
「はぁ? 本気でここに寄っていく気かよ……」
「構わんだろうが。どうせ軽く一杯引っかけるだけのつもりだったんだ。それに……」
「せっかくの厚意を無碍にするわけにもいかん――か?」
弁護士の幼馴染はからかうように笑いつつも、既にこの友の心の内を見透かしてはクスッと微笑ましい気分になるのを嬉しくも思っていた。
(こいつは……ひょっとするってーと、ひょっとする成り行きかね)
先程からの友の様子からして、あの女性に心惹かれてしまったのだろうことは一目瞭然だ。
「ふぅん? 今まではどんなにイイ女が寄ってきたって眉根ひとつ動かさなかったカタブツのお前さんがねぇ?」
つい冷やかし文句のひとつも言ってやりたくなってしまう。
「何の話だ。それより急ぐぞ。そろそろ開演だ」
「へえへえ、お付き合いさせていただきますですよ!」
呆れたように肩をすくめながらも、半ば楽しそうに笑っては風の後に従う男の名は曹来、二人は公私共に親友といえる頼もしい間柄でもあった。
◆
*美しい女4
表通りへ迂回し、バーに入ると、なかなかに洒落た造りで驚かされた。先程のゴロツキが”ひなびたバー”だと言っていたのを聞いていたせいもある。大して期待していなかっただけに新鮮な印象といえた。
確かに築年数は経っていそうだが、レトロな風合いの建築が逆に趣きを感じさせる。店内も広々としていて、何より吹き抜けの高さのある天井がより一層開放感を与えているようでもあった。
ほぼ中央にステージらしき床から一段上がった台座があり、グランドピアノが置かれている。まるで四阿のように六方には柱が建っていてモダンである。周囲にはテーブル席が点在して、客は好きな席を選んで座るようだが、さすがに開演間近とあればステージに近い位置はほぼ埋まっている。二人は割合遠目のテーブルを選んで落ち着くことにした。
メニューを開けば酒と食事が主のようだから、歌はバックミュージック程度の感覚なのだろう。おそらく先程の彼女はそのステージで歌うものと思われる。風はガラにもなく僅かばかり速くなる心拍数と共に席に着いた。
注文を聞きにきたウェイターに軽めのワインを頼んでしばし寛いでいると、歓声と共に先程の彼女がステージ上に現れた。スポットが浴びせられると、思った通りか美しい。彼女が姿を現したと途端に、客席からは登場を讃える掛け声が方々から飛んだ。
「いよ! 待ってました黒蘭姫!」
「今夜も相変わらずに美しいねぇ!」
歓声を飛ばしているのは殆どが男性客である。勝手知ったる素振りからは相当な常連なのだろうことが窺い知れた。
「黒蘭……というのは彼女の名前か?」
風は手元のチケットに目をやりながら驚いたように呟いた。見れば確かに小さな文字で出演者の名前が印字されている。ピアノの他にもトランペットにサックス、パーカッションにコントラバス。ということは演目はジャズだろうか、歌い手の名は黒蘭とある。あまりにも小さな印字の為、チケットを渡された時には気が付かなかったのだ。
黒蘭――。風にとってはその名前からして何とも運命を感じずにはいられないものだった。
というのも、周家の妻になる女性には蘭の花の”証”が与えられる慣しになっていたからである。証というのは刺青のことで、妻になる女の肩に小さな蘭を彫るのである。しかも花の色にも決め事があって、亭主の字にちなんだ色とされているのだ。
風の父、つまりはファミリーの長である周隼の字は黄龍という。だから母の肩には黄色い蘭の花が入っているのだが、もしも風が妻を娶れば、やはり字にちなんだ色の蘭の花が証として妻の肩に刻まれるわけだ。そして風の字は何を隠そう”黒龍”である。つまり妻になる女性の証は”黒蘭”になるというわけなのだ。
まさに偶然であるが、そんなところにも運命を感じずにはいられなかった。
ステージ上に立つ彼女の真っ白な肩に黒い蘭の模様が刻まれた絵図を想像すれば、風の視線は見たこともないほどの初々しい光に包まれる。そんな友を横目にしながら、曹は人知れず笑みを誘われるのだった。
◆
*美しい女5
そうしてステージが始まると客たちは演奏と美声に酔いしれた。風もまた例に漏れず釘付けさせられる。料理はおろか酒にも殆ど手をつけないままで聞き入っていた風とは裏腹に、曹の方は席を立ったり座ったりと忙しない。化粧室へでも行っているのか、あるいは急な仕事の連絡でも入っているのか、スマートフォンを片手にとにかく出入りが激しく落ち着いて座っていないのだ。そんな友を気遣う余裕もなく風はただひたすらにステージ上の女の姿を見つめていた。
ジャズにバラード、時にはラップもまじえた歌声は美声で、まさに天使のそれと讃えるにふさわしい。常連が待ってましたと歓声を飛ばすのもよくよく納得させられる思いであった。
そんな心躍るひと時も終盤に近付き、今宵最後の一曲だと彼女が告げる頃になって、友の曹がようやくと用事を終えたのか席に戻ってきては、すっかり冷めてしまった料理をつつき始めた。
「落ち着きのない奴だな。急な仕事でも入ったのか?」
呆れ口調で聞けば、曹は「まあな」と言っては意味ありげに笑った。と同時にスッと差し出されたのは一枚のメモ――。
「――何だ?」
怪訝顔で問えど、クスッと笑みながら『見ろ』と顎をしゃくるだけである。仕方なくメモに視線をやった瞬間に、驚きに瞳を見開かされる羽目となった。
「――!? お前、これ……」
メモには女性のものと思われる名前に住所らしき地名と番地までもが記されている。しかも最後の一行がこれまた風の心を揺らした。
高美紅、通称黒蘭。職業は歌手とある。
「まさか――これ……? 彼女の……か?」
「そ! さすがにこの短時間だ。調べるのはそれが限界だったがな」
不敵に笑いながら料理を掻き込んだかと思えば、ぬるくなってしまったワインを一気に喉へと流し込む。察するによほど腹が減っていたと思われる。にもかかわらず、食事も後回しで情報をかき集めるのに奔走してくれていたというわけか――。風は自分が彼女に興味を惹かれていることがバレているのだろう気恥ずかしさもあってか、すぐには言葉も詰まって出ないほどであった。
「明日になればもう少し詳しいことが入手できるはずだ。どうも彼女はご両親を亡くしていて天涯孤独のようだぞ」
「天涯孤独――?」
「彼女の両親は台湾生まれのようでな。結婚後すぐにこの香港に移り住んだらしいんだが、亡くなった経緯や親戚があるのかなどはまだ不明だ。とにかく少し時間をくれ」
「時間をくれってお前さん……」
別段頼んだわけでもないのに、すっかり調査する気満々でいる友にどう反応を返せばいいかと困惑させられる。
「ンだって知りたいだろ?」
「……俺はそんなこと言っ……」
「聞かずともお前さんの顔にそう書いてあるからなぁ」
曹は笑うが、実にその通りなのでまたしても反応に困ってしまう。
「は……、まったく敵わんな」
さすがの風もタジタジである。
「しかしまあ……この短時間によくここまで掴んだものだ。それだけは素直に尊敬するぜ」
お手上げだというように肩をすくめる仕草がなんともスマートで粋だ。普通の男が同じことをしたならば、サマにならないどころかキザだと引いてしまうような仕草を嫌味なく軽やかにやってのける。このあたりはやはり育ちというべきか、あるいは持って生まれた天性の賜物か。曹もまたそんな友が誇りだと言わんばかりに両手を広げては肩をすくめて返した。
「まあこれくらいのことを朝飯前にできんようでは周ファミリーの専任弁護士なぞ務まらんからな」
鼻高々で不敵に笑う。
「すまない、曹。感謝している」
意外や素直に礼を述べた風に驚きつつも、曹は満足気にウィンクで応えてみせたのだった。
◆
*美しい女6
その後、すっかりと夜も更けて深夜である。風は店を出ると、早速にこのデキた友人が調べてくれた黒蘭という女性の住所へと向かっていた。
車は一台で来ていたので当然曹も一緒である。目立たぬよう気をつけながら、少し離れた場所に車を停めて彼女の帰りを待つ。しばらくするとアパートの前にタクシーが着き、一人の女が降り立った。
「彼女か?」
「どうかな。暗くてよく分からんが……」
タクシーが退けばはっきりするだろう。
「しかしお前さんも案外晩生なんだな、風! ここまで来るなら店で彼女の出を待って、送ってやれば良かったものを」
「バカを言うな。初対面の男が出待ちなんぞしてみろ。怖がらせちまったら申し訳ないだろうが」
しかも彼女は例のゴロツキに言い寄られたばかりだ。次から次へと男にちょっかいを掛けられては気の毒だろうと思うのだ。
「お前さんはあんなチンピラとは違うだろうが。まあ俺の予感じゃ彼女の方も満更じゃねえように思えたがな。お前さんが誘えば案外一発オーケーだったかも知れねえぞ?」
「他人事だと思って気軽に言ってくれるな。俺はあの人に対して例え僅かばかりでも不安を煽るようなことはしたくねえんだ」
だが彼女を一人で帰して、またあのゴロツキのような輩に絡まれないとも限らない。せめて無事に自宅の玄関に入るところまでは見届けたいとの思いから、アパートまでやって来たというわけだ。
「しかしまあ……俺もあのゴロツキのことをどうこう言えた義理じゃねえな。いくら無事を見届けたいといっても、これじゃストーカーも同然だ」
はぁ、と肩を落として軽く落ち込む風に、曹はやれやれと苦笑を誘われるのだった。そうこうしている内に支払いが済んだのか、タクシーが彼女を置いて発車した。
「お! 車が退いたぞ。彼女か?」
「ああ……どうかな」
二人で身を乗り出すも、降り立った女は先程の黒蘭という女性とは大分雰囲気が違う。体格こそよく似てはいるものの、化粧っ気はなく黒縁のゴツい眼鏡をかけていて、服装もあの美しい彼女が好んで着そうには思えない野暮ったさだ。
「何だ、人違いってか……」
曹はガッカリした声を上げたが、風の方は気に掛かるその人を見間違えるはずもなかった。
「いや、彼女だ。間違いない! 確かに雰囲気は違うが、あれは彼女本人だ」
まさか――! と曹が顔を上げる。
「どれ?」
職業柄か、常に持ち歩いているオペラグラスをダッシュボードから取り出して目を凝らせば、確かに彼女に似ている。風もそれを受け取りながら興奮気味に声を震わせた。
「間違いない、彼女だ!」
とにもかくにも無事に玄関へと入っていく姿を確認できたことで、その夜は帰路についた。
「しかし何だってまたあんな格好だったんだ? 彼女は普段着に関しちゃセンスがねえってわけか?」
その答えを知ることになったのは次の日の昼、またしても偶然の出会いに歓喜させられることになろうとは、この時の風はまだ知る由もなかった。
◆
*邂逅1
「周風、昨夜の彼女だがな。やはり両親は他界していて天涯孤独というのは本当のようだぞ。父親は五年前に亡くなっていて、原因は事故だったそうだ。母親の方は三年前、病でご亭主の後を追うように静かに息を引きとったらしい」
今日も弁護士の曹と共にファミリーが統括する関連企業の視察に回っていた時だ。少し時間をくれと言っていた曹が更なる情報を調べ上げてきたのだ。それによると彼女には親戚と呼べる者もいるにはいるが、その殆どが台湾に住んでいて、しかもかなりの高齢揃いらしい。
「彼女にとっちゃ会った事すらねえ戸籍上で繋がってるだけの親戚といったところのようだな。歳は二十三、修業後すぐに働きに出て、現在は昨夜行ったアパートで一人暮らしだ。ちなみに恋人と呼べるような相手もいない。まあ詳しいことまでは何とも言えんが、これまでに男の影は見当たらないといったところだな」
良かったなというようにニッと微笑まれて、風はガラにもなくこめかみを朱に染めた。
しかしよくもまあこの半日で次から次へと情報を仕入れたものだ。裏社会に生きるファミリーの顧問弁護士ともなればそれくらいは確かに朝飯前なのだろうと思えども、さすがに感服せざるを得ない。
「お前さんの情報力には感謝する。昨夜の晩飯も俺の我が侭でフイにしちまったことだしな。昼はそれこそどこでも好きな店を選んでくれ。もちろん俺の奢りだ」
甚だ申し訳なさそうに視線を泳がせながらそんなことを口走った風であったが、その直後にまたもやその約束を反故にすることになろうとは、さすがに読めなかった。なんと、通りすがったファーストフード店のレジに昨夜の女性の姿を見つけてしまったからだ。
「おい、風……。あれ……」
曹も驚きを隠せないでいる。それは彼女の方も同様のようで、こちらを見つめながらひどく驚いたように瞳を見開いていた。
吸い寄せられるように視線が外せないまま、気付けば風はレジの前に立っていた。
*邂逅2
「あの……昨夜はありがとうございました」
彼女が深々と頭を下げながら言う。昨夜アパートの前で見た通りの黒縁眼鏡をかけて、髪もきっちりとひとつにまとめられていて野暮ったいとしか言いようがない。おまけに化粧っ気も皆無だ。服は支給されている揃いの制服だが、とにかく地味という以外に形容し難いようななりである。だが礼を言ってよこすところをみると、確かに昨夜の歌姫で間違いないのだろう。夜のステージだけではなく、昼にはこのファーストフード店で働いているというわけだろうか。
「あの……何を差し上げましょう?」
遠慮がちに訊かれて、自分たちの後ろに客が数人並んでいることに気がついた。
「あ、ああ……すまない。それじゃあ僕はこちらのハンバーガーとドリンクのセットを」
お前は? と、隣にいた曹に問い掛ける。
「それじゃ俺も同じ物で」
にこやかに口角を上げた傍らで、キュッと風の尻をつねる。
「……ッ痛!」
豪華な昼食を奢るはずがファーストフード店のハンバーガーになるとは、さすがにつねられても当然か――。風は彼女に向かってにこやかに微笑みながらも、心の中で友に対して『すまん!』と手を合わせたのだった。
だがしかし、こうなってしまった以上ジタバタしても始まらない。二人はオーダーしたハンバーガーセットを受け取ると、目立たない角っこの席を選んでそこへと落ち着いた。
「すまない、曹……。なんというか、その……面目ない」
珍しくも平身低頭の男を横目に、曹はまたしてもニヤニヤと意味深げな笑みを浮かべては大袈裟に肩をすくめてみせた。
「こいつは高くつくぞぉー。ま、三倍くらいの貸しってことにしとくわ!」
そう言って笑う。
「すまん……」
「構わん。それよりハンバーガーなんて学生以来だな。お前さんともよく学校帰りに寄ったもんだが、今じゃ考えられん絵図ではあるな。マフィアの次期頭領がお付きもつけずにファーストフード店でハンバーガーをかじるとは……かなりのレアもんだ。まあ、たまにはこういうのも悪くない」
懐かしい気分だと笑いながら、早速に頬張っている。確かに香港を仕切るマフィアの風には不似合いも不似合いで、こんなところを側近連中が見たら目を丸くするか大慌てで警護に駆け寄るか、そのどちらかだろう。
「しかしさすがに俺の調べでも彼女がここで働いていることまでは突き止められんかったなぁ。いやぁ、驚いた」
まあもう少し時間を掛ければいずれそういう情報も割れただろうがと笑う。
「しかし彼女、今日も瓶底眼鏡だったな。相当視力が悪いのかね? 素はあんな別嬪なのに勿体ねえことだな」
「ああ……」
そんな話をしていると、当の彼女がやって来た。手にしたトレーの上にはサラダとポテトがそれぞれ二つずつ乗せられている。そしてどういうわけか瓶底眼鏡は外されていた。
*邂逅3
「あの、お食事中失礼いたします。よろしかったらこれ……。心ばかりで恐縮ですが、昨夜のお礼です」
どうやら彼女からの差し入れらしい。
「いや、しかしそれでは申し訳ない」
化粧っ気はないが、眼鏡を外せば確かに美しい。すっかり見とれてしまいながら風が遠慮の言葉を言い掛けたが、すかさず曹が助け舟よろしく口を挟んだ。
「いいじゃねえか。ご厚意は有り難くお受けするものだ」
そう言って差し出されたトレーごと受け取ってしまった。
「おい、曹……」
「遠慮なくご馳走になりますよ。それよりお嬢さん、こちらではアルバイトか何かかな? 今日もこの後は例のバーで歌われるんですか?」
曹はすっかり打ち解けた調子で会話を進めている。いきなりそんなプライベートなことに口を突っ込んだりしたら失礼だと言わんばかりにハラハラとしている風を無視して、にこやか且つスマートに問い掛けていた。
「いえ、あの店では週に二、三度歌わせていただいておりますの。普段はこちらでアルバイトをしておりますわ」
「そうだったんですか。じゃあ今日は夕方まで?」
「ええ、五時に上がりますの」
「そう……。だったらその時間にこいつを迎えにやりますんで。送りがてら夕飯でもご馳走してもらったらいい」
「そんな……」
「遠慮なさることはありません。このサラダとポテトのお礼です。ご親切にしていただいたんです、奢られっ放しで食い逃げなど男が廃るというものです」
「おい、曹……! こちらさんが困ってしまわれる……」
何とか機会を作ってやろうという曹の気持ちは充分有り難く思えども、いくらなんでもこれではまるでナンパそのものだ。風はハラハラとさせられてしまったが、思い切って彼女を見上げた。
「申し訳ない。驚かせてしまいましたね。ですが……ご迷惑でなければ、いつかお礼に食事くらいはご一緒させてください。もちろん無理にとは申しません。貴女を困らせるつもりは毛頭ありません」
風が真摯にそう言うと、意外や彼女も頬を真っ赤に染めながらはにかんだ笑顔を見せてくれたのに驚かされた。
「迷惑だなんて……とんでもありません。ただこんなことでそんなふうにおっしゃっていただいては……かえって申し訳なく思いますわ」
モジモジと頬を染めながら俯き加減で視線を泳がせ合う二人を横目に、曹はやれやれと苦笑させられてしまった。
あの屈強ともいえる瓶底眼鏡をわざわざ外してやって来たということは、少なからず彼女の方でもこちらに対して良い印象でいたいという気持ちの表れのように思えてならない。つまり、互いに好意があるという証拠だろう。
(まったく! 似た者同士とはよく言ったものだが、こうまで純朴とはね。世話が焼けて仕方がない)
曹は心の中で溜め息をつきながらも、このウブな男女の背中を押す役目を買ってやろうと思うのだった。
*邂逅4
「ではお嬢さん、本日夕方五時にこいつを迎えにやりますので――とにかくはメシだけでも奢られてやってくださいな。ああ、そうそう! 親友の俺が言うのもナンですが、こいつは堅物ってくらいの紳士ですから。無粋なことは絶対にしない男だと太鼓判を押しておきますよ」
曹はポケットから名刺を取り出すと、万が一にも困ったことがあった際にはすぐに応援に駆け付けますよと言ってそれを差し出した。
「曹さん、弁護士さんでいらっしゃいますの?」
「ええ。こいつとはガキの頃からの腐れ縁でしてね」
曹がユーモアたっぷりに言うと、彼女は「まあ!」と言って照れ臭そうに微笑んだ。
「申し遅れました。私は美紅――高美紅と申します」
頬を朱に染めながらも会釈と共にそう言った彼女に、風もまた遅ればせながらと名刺を差し出した。
「周風といいます」
曹のものとは違い、風のそれは肩書きも何も書かれていない、まさに氏名だけの名刺である。まあ、普段の風の付き合いの中では肩書きなど必要ないわけだし、名前のみで充分事足りるからだ。
さすがに美紅の方も不思議そうに瞳を見開いていたものの、名刺というには豪華すぎるほどの肉厚で、ただの四角い紙ではなく千切った和紙の風合いがモダンである。名前の文字を取り囲むように周囲にはキラキラと光る細い黒の箔押し模様が施されていて、正直なところこれまでには見たこともないくらい洒落たものであった。
「周さん――とおっしゃられますのね? 素敵なお名刺ですのね。大切にいたしますわ」
肩書きがなかったにもかかわらず特に不審を抱いたわけでもないらしいその言葉にホッと胸を撫で下ろす。しかも大切にするとまで言ってくれた。例え社交辞令であっても、風にとってはこの上なく嬉しい言葉であった。
「ありがとう。どうぞよろしく」
「こちらこそ! よろしくお願いいたしますわ」
美紅と名乗った彼女は今一度軽く会釈をすると、レジの仕事へと戻っていった。
「上手くいったな。せいぜいがんばれよ?」
その後ろ姿を見送りながら曹が不敵に笑ってよこす。
「……お前さん……。まあ、その……なんだ。感謝はしている」
途中ハラハラとさせられた場面もあったことだが、結果としては初デートの約束に漕ぎ着けたわけだ。ここは素直に礼を述べるべきであろう。
「しかし彼女、今時珍しく上品な話し方だったな。違和感がまるでないところをみると、付け焼き刃で咄嗟に繕った話し方ではあるまい。普段からああだとすれば理想的な淑女そのものだ」
確かに曹の言う通りだ。まるでいにしへの時代から抜け出てきたような女性らしさが、彼女の容姿をより一層引き立てているといえる。
「しかもだ。とっさに眼鏡を外して来たところをみると案外向こうもお前さんに気があるんじゃねえのか?」
「……まさか。フロアに出る時には外しているだけかも知れん」
「俺にはそうは思えなかったがね。ふ――これで貸しは五倍に増えたな」
「おいおい、五倍とはまた――デカく出てくれる」
「当然だろー? まあ、出世払いで構わんさ」
「はは……。お前には適わんな」
「その代わり恥ずかしがってねえでちゃんとエスコートしてくることだ!」
面映ゆい表情を見せた友に向かって激励かたがたそんな言葉を贈った曹だった。
◆
*初デート1
そして夕方――。
五時を回った頃、店の近くのネイザンロードには、車を停めて彼女を待つ風の姿があった。当然だが今は隣に曹は乗っていない。しばらくすると通りの向こうから息を切らして駆けてくる彼女を見つけて、風は車を降りた。
「周風さん……! お待たせしてしまいましたわ! ごめんなさい」
アルバイト帰りの彼女の服装はおとなしい色合いのカットソーにカジュアルなジャケット、ボトムは細身のクロプドパンツという地味なものであったが、例のごつい黒縁眼鏡はかけておらず、結っていた髪も下ろしていた。相変わらずに化粧っ気はないものの、唇には淡紅色をした艶のあるリップクリームが塗られていた。
バーで見た時のような派手さはないが、素顔でも色白で肌質は美しく、まるで陶器のようだ。若干幼くは感じられるが、これはこれでまたバーでの美しさとは別の意味で可愛らしい。バーでの彼女が大輪の紅薔薇ならば、素顔の彼女は清らかな蘭のようであった。
「僕も今来たところです。それよりも急がせてしまったのでは――」
「いえ、そんなことは……」
「では参りましょうか」
風は助手席のドアを開けると、丁寧な仕草で彼女をいざなった。
「ありがとう。失礼いたしますわ」
美紅は高級車に驚いているようだが、風にしてみればこれでも派手さを控えた車種にしたつもりだ。普段は運転手付きの、それこそ超がつくほどの高級車が通常なのだ。まあ昨夜のように弁護士の曹と一緒の時などはカジュアルなスポーツカーということもあるのだが、一般人からすれば既にカジュアルとは言い難いだろう。
それはさておき夕方の陽射しに照らされる通りを湾に向かって数分走らせると、風は星光大道に出る手前の藝術館の近くで車を停めた。
「夕飯にはまだ少し早い。散歩がてら歩きましょうか」
そう言ってチラりと視線をやった手元から覗く腕時計は決してギラギラとした派手さはないが、一目で高級と思われる上品なものだった。そういえば着ているスーツもおそらくはシルクの織り物だろうと思われるような質感である。隣に並べば見上げるほどに長身で、しかも俳優かモデル顔負けの美男子である。物腰は柔らかで言葉使いも品があり、美紅はただ側にいるというだけでドキドキと高鳴り出す心拍数を抑えられずに戸惑った。
(私ったらこんな……普段着で来ちゃって良かったのかしら……。早退してもう少しきちんとした服を買うべきだったかな)
心の中でそんなことを思ったのは秘密である。だがまあ、そんなことを思ったところで今更だ。少しの後悔と躍るような高揚感、様々な感情に翻弄されつつも、美紅はまるで雲の上を歩いているように夢心地でいた。
*初デート2
夕陽に照らされた湾を望む景色は実に美しく、向かいには香港島が見える。いつもと何ら変わりのないはずの景色だが、こうして肩を並べていると本当に夢のような心持ちにさせられる。しばし大道をゆっくりと歩きながらたわいもない話に花を咲かせた。
「そういえば、今は眼鏡をしておられないが――」
風は気に掛かっていたことを聞いてみた。
「え……? あ、ええ。あれはダテ眼鏡ですの」
「――! そうなのですか。てっきり視力がお悪いものと思っていました」
「本当は……視力はとてもいいんですのよ」
はにかみながらも何故か少し不安そうに見上げてくる。
「あの……やっぱり眼鏡をしている方が感じがよろしいかしら?」
少々首を傾げさせられるようなことを訊かれて、風は目の前の彼女を見つめてしまった。
「いえ――? 視力がお悪くないのだったら、かけない方が僕は素敵だと思いますが……」
遠慮がちながらも思ったままを告げてやると、彼女はホッとしたような笑顔をみせた。まるで『よかった……』と言いたげな雰囲気だ。
「実はあの眼鏡は父がプレゼントしてくれた形見ですのよ」
「形見――。ではお父上は」
「亡くなりましたの。もう五年になりますわ」
「……そうでしたか。お辛いことを言わせてしまった」
美紅の父が他界しているのは既に曹の情報で知ってはいたが、さすがにそうは言えない。申し訳ないと目を伏せた風の仕草に、美紅は敬意を抱いたようであった。
「周風さん……とても素敵な方ですのね。ありがとう、私……そんなふうに言っていただいたこと初めてで……」
「美紅さん――。風で構いません」
「え? でもそんな……」
「よろしいのです。その方が僕も嬉しく思います。その代わり僕も美紅――と呼ばせていただいてよろしいか?」
「ええ……! もちろん! 嬉しいですわ」
美紅は照れて頬を染めながらも言葉の通り嬉しそうに声を弾ませた。
「では美紅」
「風……さん」
「”さん”はいらない――」
「……風?」
「はい、美紅――」
そんなやり取りが可笑しかったのか、二人は同時に『プッ!』と噴き出してしまった。
「あははは! いや、すまない。こんなふうに笑うことなんて普段はなかなかないものだから」
「私も……! こんなに思い切り笑ったのは久しぶりですわ」
虚勢を張ることもなく、圧を纏う必要もない。もしもここに側近や取り巻きがいたならば、何ものにも縛られずに心からの笑顔を讃える風のこの表情に驚いたに違いない。
「それで――さっきのお話の続きでしたわね。実は私、小さい頃はお友達ができなくて……いつも独りぼっちだったんですのよ。とても寂しくて、でも私のどこが悪くてお友達ができないのか分からなくて……」
一概には信じられない話だが、幼い頃は皆に嫌われて虐められていたのだという。
*初デート3
「それで、いつも泣いていた私にある日父がこの眼鏡を買ってくれたんですの。もちろん子供用でしたから、これよりももっと小さな物でしたけど形は似たような瓶底眼鏡でしたわ」
父はそれを手渡しながら、友達ができる魔法だと言ったそうだ。同時に長く伸ばしていた髪を切り、服装も女の子らしいふわふわとしたスカートからボーイッシュなパンツスタイルに変えてみろと言われて、美紅は半信半疑で従ったのだそうだ。
「でも父の言う通りにしたら、それまでは私に見向きもしなかったクラスの子たちが少しずつ話し掛けてくれるようになりましたの。すごく不思議でしょう? だから私、本当にこれが魔法の眼鏡だったんだって思って」
それ以来おまじないのようにしてずっとかけているのだそうだ。
「今日も……本当は眼鏡をかけて来ようか迷ったんですの。でも……」
如何に魔法の眼鏡であろうと、あの屈強な瓶底眼鏡が自分を素敵に見せるとは思えないというのは本能で分かっているのだろう。外してはみたものの、『眼鏡をしている方が感じがいいか』などと訊いてくるところをみると、彼女にとって例の眼鏡は対人関係を円滑にする頼みの代物であるのは確からしい。
風はそれを聞いていみじくも納得させられてしまった。
「なるほど――」
つまりこういうことだろう。
美紅は美しい。大人になった今、化粧すらしない素顔でも見惚れるほどなのだから、子供の頃から見目良かったに違いない。あまりに美しい彼女は自然と疎まれたりやっかまれたりしていたのだろう。長く見事な髪を切り、わざと地味な服装をしてゴツい瓶底眼鏡をかければ、少なからず美しさを隠すフィルターの役目にはなったはずだ。案の定、見た目が野暮ったくなった彼女に安堵感を覚えたクラスメイトたちが虐めることをやめたとしても不思議はない。
美紅の父は彼女の容姿が美しすぎるが故に敬遠されるのだろうことが分かっていたのだ。加えてこの美少女が成長した暁には、野暮ったい身なりが不埒な輩から守る武器にもなり得ると思ったのかも知れない。
「お父上は本当に貴女を大切に思い、大事にされていらしたのですね」
そういえば曹の調べでも彼女の背後に男関係は見当たらないと言っていたのを思い出す。こんなにも美しい女性を男が放っておくはずもなく、引き手数多で当然なのだろうが、これまでそういった誘いが少なかったとすれば正にこの瓶底眼鏡の賜と思えた。例のバーでゴロツキに絡まれていた時は美麗なステージ衣装だったし、魔法の眼鏡もかけていなかった為だろう。
こう言っては少々邪だが、風は彼女が今も父親の与えてくれたおまじないを守ってくれているお陰でヘンな虫がつかなかったことに感謝の気持ちさえ覚えるような心持ちでいた。
「僕は眼鏡をかけていない貴女も素敵だと思いますよ。もちろんかけていても可愛らしいが」
「まあ……風さん」
「美紅、”さん”はいらない」
『ね――?』というように腰を屈めて顔を覗き込むと、頬を真っ赤に染めながら、
「ありがとう……その、風」
と言い直しては恥ずかしそうに微笑んだ。その笑顔がそこはかとなく愛しく思えて、風もまた朱に染まりそうな頬の熱を夕陽へと逃してごまかすのだった。
◆
*初デート4
その後、風は大道の端に佇むカジュアルなカフェレストランへと美紅を案内した。すぐ隣には普段馴染みにしている五つ星のホテルがあったものの、今日の彼女の服装からしていきなりそんな所へ連れて行けば場違いだと、かえって気の毒な思いをさせかねない。ホテルのレストランから比べればカジュアルではあるが、まずは気負わずに会話が楽しめることが何よりである。それでも美紅にとっては大層洒落た印象だったのだろう、大きな瞳をキョロキョロとさせながら、『こんなに素敵な所でお食事なんて初めてだわ』と言って、心から嬉しいと礼を述べてくれたことに風はより一層魅かれてやまない気持ちにさせられてしまうのだった。
その帰り道、車までの道のりを歩きながら美しい湾からの眺めを楽しんだ。すっかりと降りた夜の帳が街の灯を華やかに引き立てていて、まさしく絶景だ。生まれてこの方、高楼の自宅から飽きるくらいに見慣れた風景ではあれど、風にはまるで別の街に来たかのような高揚感が不思議にも思えるほどだった。
心躍る人と共にいるだけで、いつもと変わらぬ何の変哲もない景色がこんなにも鮮やかに映るものだろうか。そう感じていたのは風だけではなかったようだ。
「綺麗ですわね。この湾の景色は珍しいものではないはずなのに、今日はとても美しく感じるわ」
不思議ねと言って微笑む表情、それこそがまさに美しかった。もしも許されるものならば、今この場で本能のままに抱き締めてしまいたいくらいだった。
紳士の物腰などかなぐり捨てて、欲望の赴くままに目の前の彼女の全てを奪ってしまいたい。野生の獣のように牙を突き立て、我がものにして誰にも渡したくはない。
そんな衝動を呑み込んで、
「風が出てきた。夜は冷える。そろそろ行きましょうか」
風は自らの上着を脱ぐと、そっと彼女の肩にそれを羽織らせてやりながら柔らかに微笑んだのだった。
「あら……よろしいんですの? これでは貴方がお寒いんじゃ」
「僕は男ですからね。大丈夫です」
「風……ありがとう」
羽織らせた上着の襟をキュッと合わせて大事そうに掴みながら、暖かいと言っては頬を染める。そんな彼女の横顔を見ているだけで至福に思えた。
*初デート5
車に戻る途中で風は一軒の花屋を見つけて立ち止まった。少し待っていてと言い、店頭で花々を眺めている彼女の前に真紅の薔薇だけで作ってもらったブーケを差し出す。
「……え? あの……」
「今日はとても楽しかった。その記念です。ちょうど花屋を見つけたからというのは粋に欠けるが、美紅――貴女の名にちなんだ真紅の花を贈らせて欲しくてね」
「風……」
感極まったように瞳を細めて美紅は花束を抱き締めた。
「ありがとう、風……。私……いいのかしら? こんなに素敵な思いをさせていただいて……。明日になったら全部夢で……覚めちゃっていたらと思うと怖いわ……」
美しいソプラノを震わせる。心なしか漆黒の瞳が潤んでもいるようで、風はまたしても抱き締めたい衝動に駆られてしまった。
「――大丈夫。覚めたりはしない」
「……風」
「俺だって夢のように楽しかったんだ。決して覚めて欲しくはないと思う気持ちは一緒だ」
「風……!」
そっと肩に手を回して、車までの道のりを寄り添って歩いた。
アパートの場所は知っていたが、それもさすがに言えないことのひとつだ。ここは知らぬふりをして美紅のナビゲートでアパートへと送った。
「遅くなってしまってすまなかった。今日は本当に嬉しかった」
「私こそ……。あの、風……?」
「ん? どうした」
「あの……よろしかったら少し寄っていかれる?」
お茶の一杯だけでもと言ってくれた彼女に風は驚かされてしまった。
「――厚意に甘えたいのは山々だが……今日はよしておくよ」
「そう……?」
やっぱりご迷惑だったわねと言いたげに申し訳なさそうな顔をした彼女に、
「貴女の部屋に寄らせてもらったりしたら俺は獣になってしまいそうだからね」
だから今日はやめておくよと微笑んだ風に、美紅はまるで茹でた蛸のごとく真っ赤に頬を染め上げた。
「……風ったら」
それでもいいのよ――と言いたげに見つめてくる瞳は熱っぽく、愛しさが募る。
「おやすみ美紅――。俺が今まで生きてきた中で――今日は一番嬉しい日だった」
そう言って彼女の後頭部に手を回し、クイと引き寄せると――そっと額に小さな口付けを落とした。
「風……あ……りがとう、私も……私も一番素敵な日だったわ。いただいたお花、大切にするわね」
「ああ――。さあ、お行き。貴女が玄関に入るまで俺はずっとここで見ているから」
「ええ。それじゃ……」
それでも後ろ髪を引かれるのか、なかなかドアを開けられないでいる彼女に、風は「そうだ」と言って胸ポケットからペンを取り出すと、サラサラと何かを書き付けては彼女の色白の手を取ってそれを差し出した。
「俺の連絡先だ。何かあれば――いや、何もなくとも……いつでも貴女のいい時に連絡をくれたら嬉しい」
小さなメモに書かれていたのは数字の羅列、それは風の電話番号だった。
「あ……りがとう、風。嬉しいわ……私、本当に」
そうして彼女が玄関の扉の中へと姿を消すまでずっと見送っていた。
◆
*紅薔薇の贈り物1
それから数日、美紅は風からもらった電話番号を名刺と共に宝物のように肌身離さず持ち歩いては眺める日が続いた。思い切ってかけてみようと何度思えども、なかなか勇気が出せずにいたのだ。
風もまた、ただ一人からのコールを待ち望む日々であったが、仕事に追われていたこともあってか彼女が勤めるファーストフード店にも立ち寄れないままでいた。
そして週末――今宵は美紅が”黒蘭”としてステージに立つ日である。
もしかしたら風が友人の曹と共にひょっこり顔を出してくれるかも知れない。淡い期待に胸を震わせる美紅の楽屋に”それ”が届けられたのはバーが開店して間もなくのことであった。
「黒蘭ちゃん、見てちょうだい! なんて見事な薔薇の花束かしら!」
店の受付カウンターにいる中年女性が興奮したように楽屋へと駆け込んで来る。
「あんた宛てによ! 送り主は……あら残念! イニシャルしか書いてない!」
「イニシャル……ですって?」
美紅が花束を受け取ってカードを開くと、そこには『Z.F』とだけ記されてあった。
(Z.F――周風だわ!)
間違いない。しかも先日のデートの帰りにもらったものと同じ紅薔薇の花束だ。
だが、今日のそれは先日のものよりも遙かに大きく見事なものであった。美紅はこれ以上ないくらい瞳を細めながら、大きな紅薔薇の花束を抱き締めた。まるでそれが風その人だといわんばかりに大事に大事に抱き締めては頬を染めたのだった。
そして迷うことなくすぐに電話を手に取った。既にメモなど見ずともすっかり暗記してしまっているナンバーを押す指が震える――。ツーコールもしない内に相手は通話に出てくれた。
「あの……突然にごめんなさい。高美紅です」
『美紅! かけてくれて嬉しいよ』
通話の向こうから聞こえてくる心躍ったという嬉しそうな声音にホッと胸を撫で下ろす。
「風――! あの、ありがとう……私……こんなに素敵なお花をいただいて」
『ああ、届いたか?』
今度は照れ臭そうに笑うのが分かる。
*紅薔薇の贈り物2
『本当は直に届けたかったんだがね。あいにく仕事に追われてしまって――すまない』
「いいえ、そんな! とても嬉しいわ。あの、私……アタシね、本当はずっと電話したかった……。でもお仕事中だったらご迷惑かしらとか……用もないのにとか、いろいろ考えてしまってかけられなかった……」
本当は貴男にどう思われるか怖かった。用もないのに仕事中の忙しい時に――なんて思われて嫌われたらどうしようと、そんなことばかり考えて勇気が出せなかった。
ところどころ言葉を詰まらせながらそんなふうに言った美紅に、風は今すぐにでも仕事を放り出して会いに行きたい衝動に駆られてしまった。
『俺も同じだったよ、美紅。番号を渡したりして、貴女を困らせてしまったんじゃないかと――。花束も貴女を滅入らせてしまってはいけないと迷ったんだがね。でもどうしても届けたかった』
その気持ちを抑えられなかったんだと言う風の言葉を、美紅もまた嬉しさで胸がはち切れんばかりの思いで聞いていた。
『美紅、今夜は聴きに行けなくて残念だが、貴女が喜んでくれて嬉しかった』
「ううん、ううん、いいのよ。アタシには貴方の気持ちがたくさん詰まったこの花束で充分よ。本当にありがとう!」
『このところ少し仕事が立て込んでいてね。なかなか会いに行けないが、落ち着いたら絶対に聴きに行く――!』
「ありがとう、風。貴方もお忙しいでしょうけど、お身体はお大事にしてね。くれぐれもご無理はなさらないで」
その言葉通りに風が美紅の歌を聴きに来ることはなかったが、ステージに立つ日には必ず大輪の紅薔薇の花束が届けられるようになった。それと同時に美紅がファーストフード店でのアルバイトの日は、仕事の合間に風が自らハンバーガーを買いに寄ることもあった。レジで品物を受け取るだけのほんの短い時間であったが、一目だけでも顔を見たくてと言ってくれる彼の気持ちが何よりも嬉しく思えていた。電話は毎晩のようにかけ合っていたので寂しくはなかったし、何より美紅の部屋は紅薔薇であふれていて、まるで風に包まれているようだと言っては通話越しに幸せを噛み締める日々が続いた。