極道恋事情

23 黒蘭を愛したマフィア2



*不安1

 そんなある晩のことだった。今宵も黒蘭としてステージに立つ日であったが、いつもは欠かさず届いていた紅薔薇の花束が今夜に限って届けられなかったのである。
 むろんのこと毎回こんな豪華な花束を贈ってもらうこと自体に恐縮していた気持ちも確かだったが、無ければ無いで何かあったのかと不安になるのもまた事実であった。
 電話では毎晩のように話していたし、特に変わった様子もなかったように思う。美紅は何となく沈んでしまう気持ちを戒めるかのように気を取り直して舞台用のドレスに袖を通した。
(私ったら……何を贅沢なことを望んでいるのかしら。いつもあんなに良くしてもらっているのに)
 まさか嫌われたとか飽きられてしまったなどということはないだろうが、それでもいつも届く物が今日に限って届かないことにやはり不安が隠せない。

(風……)

 よくよく考えてみれば、これまで幾度も会ったり電話をしたりしていながら、肝心の気持ちを聞いていないことに気がつく。楽しかった、嬉しかったという言葉は何度も聞いたが、好きだとは言われていないのだ。かくいう自身もそういった気持ちを伝えてはいないのだから、お互い様といえばそうだ。
「好きよ、風。私は貴方が……大好き……!」
 美紅は初めてデートをした時に貰った薔薇の花束をブリザードフラワーにして楽屋の化粧台に飾っていた。半分は自宅に置いてあり、もう半分をこの楽屋に飾っていたのだ。
 本当はドライフラワーにしようとも思ったのだが、この幸せな出来事を枯らしてしまいたくないとの思いから、ブリザードフラワーにしたのだった。その花を見つめながら、今宵どうしても歌いたい一曲に想いを馳せていた。
 歌の題名は『ゲイル』だ。図らずもそれは風のイングリッシュネームであったが、この時の美紅はまだそれを知らなかった。ゲイルという歌を選んだのはまさに偶然である。
 出逢いはやわらかに吹くそよ風だった。それが次第に強さを増して、気がつけば突風の如く渦を巻き、想いは果てしなく募っていった。嵐のように強いその風でどうか私を攫いに来て欲しい。そんな熱い想いが込められたバラードだ。
 恋焦がれてやまない風への想いをこの曲に乗せて歌いたい、そう思ったのだった。



*不安2

 そうしてステージが終わると、楽屋に戻った美紅を驚かせるような贈り物が届けられていた。
 いつも花束を持ってきてくれるチケット売り場の中年女性は既に上がっている時間帯だったせいか、今日は化粧台の上に贈り物と思われる花束が置かれていて、彼女からのメモが添えられていた。

 黒蘭ちゃんへ
 あんたがステージにいる時に言付かったんで、ここに置かせてもらうね!
 持って来たのはすごーい男前の紳士だったよ!
 じゃあお先に。今日もお疲れ様!

「紳士……誰かしら?」
 美紅は首を傾げてしまった。というのも贈られた花束がいつも風から届く紅薔薇ではなく、黒い蘭の花束だったからだ。第一、これまで花束を贈ってきた客などは風以外にいない。花束を手に取るとその中央に小さなメッセージカードを見つけた。いつも風から贈られるカードとは別の仕様で、今日のものは封筒に入っている。しかもきちんと封緘がしてあって、それも蝋を炙って押すタイプの本格的なものだ。
 美紅は逸る気持ちでそれを開いた。

 貴女と初めて会った場所で待っている Z.F

「Z.F……! 周風」
 頭が真っ白になるほどに高鳴った心臓を花束で覆うようにして楽屋を抜け、大急ぎで裏手の通りへと走った。
 街灯の下に立つ長身のその人が視界に入った瞬間に、まるで時が止まったように瞳を見開いたまま立ち尽くしてしまった。
「風……!」
 そこにはいつにも増してクラシカルな正装ともいえるスーツ姿の周風がやわらかな微笑みと共に佇んでいたからだ。
「来てくださったの……?」
「――ああ。貴女の歌を聴かせてもらった」
「まあ……! そうでしたの? 私、気が付かなくて……」
「すまない。ステージが始まっていたものだからホールの隅でね。素晴らしかった」
「そうでしたの。あ、ありがとう。来てくれて嬉しいわ……! あ! それにお花も……」
「ああ。それよりも美紅、明日はステージと――それにアルバイトの方も休みだろう?」
「ええ……。ご存じでしたの?」
「――貴女のことなら何でも知っている」
「まあ……風ったら」
 何故だろう、会話のひとつひとつはいつもと何ら変わりのない甘やかで心がこもったものだ。それなのにどこかワクワクとしきれない空気が二人の間を隔てているように感じるのは気のせいだろうか。例えるならばひどく緊張したといえるような雰囲気に不安がよぎる。



*不安3

「美紅――これから少し時間をもらえるか?」
「え……? ええ、もちろん! じゃ、じゃあ少しお待ちになって。着替えて――」
 着替えてくるわと言い掛けた瞬間に手首を掴まれた。
「――そのままでいい。大事な話があるんだ」
「……大事な……話?」
「ああ――」
 じっと見つめてくる視線は熱がこもっているようにも見える。それなのに、やはりどこかいつもと違うように感じられるのは錯覚だろうか。二人の間に流れるそんな雰囲気に胸騒ぎが隠せないまま、美紅は風に手を引かれ助手席へと乗ったのだった。

 運転中も風は黙ったままだった。時折『突然にすまない』と微笑を見せるものの、それ以外は特に会話もなく緊張の面持ちでいる。

 『もう会うのはよそう――』もしかしたらそんなことを告げられるような思いがよぎり、時折チラリと運転席の横顔を見上げながら、美紅は不安になっていく胸を押さえるのだった。

 着いたところは老舗のホテルだった。香港でも五つ星と名高い有名中の有名処だ。エレベーターで上階へ上がると、そこには見知らぬダークスーツ姿の男性が立っていて、深々とお辞儀をしながら二人を迎えた。
「老板、用意は整ってございます」
 胸に手を当ててビシっと敬礼する姿は、古き佳き時代の銀幕から抜け出してきたように紳士そのものだ。そんな男に対して風は軽く会釈だけをしたものの、特には礼の言葉を述べるわけでもない。やはりいつもと違う雰囲気の彼に戸惑いを隠せなかった。

 案内された部屋は個室で、美紅にとっては目を見張るほどに豪華な設えであった。個室といっても十分な広さがあり、全面ガラス張りの窓から見える夜景が見事過ぎるほどだ。テーブルにはフルコースと思われる食器とカトラリーのセットが二人分用意されていて、卓の真ん中には豪華な花が飾られている。
 クラシカルな部屋に重厚な調度品、風の今日の出で立ちも隙のないダークスーツ姿であるし、別世界に迷い込んでしまったような錯覚を受ける。幸いステージ衣装のままだったので、このような場所でも浮かない格好だったことにホッとするも、着替えずにそのまま来て欲しいと言ったのは風の方だ。ここでの食事を想定していたのならうなずける話だが、それよりも何故こんな豪華な場所に案内されたのか、その理由も分からない。
 美紅が戸惑っていると、それまでは口数の少なかった風が真摯な様子で見つめてよこした。



*告白1

「美紅――貴女に大事な話がある」
「……はい」
「俺は――貴女に魅かれている。おそらくはあの裏路地で出逢った瞬間から一目惚れだった」
「風……」
 突然の告白に一瞬で心拍数が跳ね上がる。もしかしたら別れを切り出されるのではと思っていただけに、真逆のことを聞かされて、嬉しさよりも戸惑いが隠せずにいた。
「今日は貴女に正式に交際を申し込むつもりでいたんだ。だが貴女が歌ってくれたあの歌を聴いて……それだけではとても気持ちが抑え切れない想いでいる」
「風……あれは……そう、貴方を想って歌ったのよ」
「歌の題名はゲイルだったね? 歌詞も心に染みた」
「風……。ありがとう、あの……私あの歌の歌詞がとても好きで……」
「貴女にはまだ言っていなかったが、俺のイングリッシュネームもゲイルというんだ」
「まあ……! そうでしたの」
「だから余計に嬉しくてね。まるで貴女が俺のことを歌ってくれているように思えてしまったんだ」
 実にその通りなのだが、まさかイングリッシュネームがあの歌の題名と同じだったとは驚きもひとしおである。
「美紅――」
「貴方が来てくださっているなんて思っていなかったから……。でもどうしても歌いたかったの。私……私も貴方に惹かれているから。貴方に助けられたあの日から……ずっと私は」
「美紅、それは本当か?」
「ええ、本当よ」
「そうか……。美紅、俺は貴女が好きだ。貴女のやわらかな物腰も天使のような歌声も、何もかもが愛おしくて堪らない。できることならば貴女を妻に迎えたいと……」
「風……」
 美紅は驚いた。これまでも少なからず嫌われてはいないのだろうとは思っていたが、まさか妻にしたいとまで思ってくれているとは夢にも考えたことすらなかったからだ。信じられない思いと嬉しさとですぐには言葉も出てこなかったほどだ。
「貴方にそんなふうにおっしゃっていただけるなんて……私……」
「俺は本気だ。だがその前に……貴女に正式にプロポーズをする前に言っておかなければならないことがある。――俺の家のことだ」
「……? 貴方のお家の……?」
 美紅は不思議そうに小首を傾げた。
「ああ。俺の家は香港の闇とも言われているマフィアだ。父は組織を治める頂点にいる」
 つまりマフィアの頭領というわけだ。
「貴女を想う気持ちに嘘はない。貴女が俺を好いてくれているのだろうことも感じていた。だがマフィアである俺の素性を知った貴女がこれまでのような気持ちを向けてくれるかと考えれば自信がなかった」
 本当はもっと早くに打ち明けるべきだった、風はそう言った。



*告白2

「例えば貴方のお父上がご存命であられたならば、こんな俺との縁を反対なされただろう。それ以前に堅気の貴女を裏の世界に引きずり込んでいいものかと自問自答を繰り返した。だが貴女と一緒にいたくて……貴女を離したくなくてどうしても言い出せなかった」
「風……」
「いつまでも隠していていいことじゃない。貴女が驚かれるのも尤もだ。それでも俺はこの気持ちを貴女に伝えたかった。こんな俺の我が侭を……どうか許して欲しい」
 辛そうに瞳を細める風に、美紅はブンブンと首を横に振ってはその手を取った。
「どうかそんな……謝ったりなさらないで。私……私ね、風。貴方のお家のことだったら……知っていたわ」
 今度は風の方が驚きに瞳を見開いてしまった。
「知ってたって……俺がマフィアだということを……か?」
 いつ、どうしてと逸る気持ちを抑え切れない。
「実は……」
 それは出会って割とすぐの頃だったそうだ。仕事の合間を縫って美紅の勤めるファーストフード店に風が昼食を買いによく顔を出すようになった頃だという。いつものようにレジで風を見送った直後、店長に呼び止められたのだ。

「高美紅! 高美紅! ちょっと来い!」
 早く! と言って血相を変えた店長に店の裏手のパントリーに連れて行かれた。
「高美紅! 今のお客様だが……最近よくお見えになるそうだな? 店の者たちの話では必ずお前のレジに並ばれるとか……。お前さん、あの方に何か失礼なことでもしたのか?」
 結構な剣幕でそう尋ねられて驚いた。
「失礼なって……いえ、特には……」
「本当だろうな! では何も失礼に当たることはしていないのだな?」
「え、ええ……多分」
 あのお客とはいったいどういう関係なんだと問い詰められて、最近よく寄ってくださるようになっただけだと当たり障りのない説明をした。すると店長は『それだったらいいが』と大袈裟に肩を落としながらこう訊いてきたのだそうだ。
「お前さん、あの御方が誰だか知っているのか?」
「誰って……」
「まさか本当に何も知らないというわけか。あの御方はな……」
 ここ香港を仕切るマフィア頭領の息子だと、そこで初めて店長から知らされたのだ。
「お前さんだって名前くらいは聞いたことがあるだろうが」
「え、ええ……」
 周一族といえば香港では有名だ。裏社会とは縁がない一般人でもその名くらいは聞いたことがあるだろう。
「あの御方は――いずれは頭領を継ぐと言われているご嫡男だ。あのファミリーはウチの店が入っているショッピングモールの開発にもご尽力くださった方々なんだ。くれぐれも失礼のないように……頼むぞ、本当に!」

 それが美紅が風の素性を知った全容だった。



*告白3

「そうだったのか……あの店の店長が」
 だが美紅は素性を知った後もそのことについては一切口にしなかった。風にはそれが不思議でならなかった。
「怖いとは思わなかったのか……? こんな俺と貴女はその後も変わらずに接してくれたが」
 苦しげに首を傾げて覗き込んだ風に、美紅は染まる頬の朱を隠すように伏し目がちにしながらこう答えた。
「貴方が好きだったから。例え貴方がどこの誰であろうと少しでも一緒にいたかったの。貴方は身に着けていらっしゃるもの全てが高級で、例えマフィアだと知らなくても私など不釣り合いなのだと解っていたわ。きっと貴方にとってはごく普通の……私のような女でも……物珍しい思いでいてくださるんだろうと思っていたし、いつかは飽きられて相手にされなくなる覚悟はできていたの」
 それでも、例え一時の遊びに過ぎなくとも、飽きられるその日が来るまでは側にいたい。儚い夢が覚めてしまうその時まではせめてもこの人の声を、笑顔を少しでも感じていたい、触れていたい、そう思っていたのだと美紅は言った。
「今日も本当は……もしかしたらこれでお別れなのかも知れないと思っていたの。貴方が……いつもと違うように感じられて」
「美紅!」
 すまない……! と、風は思い切り彼女の細い肩を抱き締めた。
「緊張していたんだ……貴女に素性を打ち明けたなら、もう俺の側にはいられないと……そう言って離れていってしまうかも知れないと思ったら……」
 それゆえ自然と口数も少なくなって、表情も固かったというわけだ。
「いいのか……? こんな俺でも」
「風……それは私の方よ。私は……両親も亡くして、親戚だってどこにどんな人がいるのかも分からない。天涯孤独も同然だわ。裕福とは程遠いし、作法も何も分からない小娘よ? 一時の遊びとしてならともかく、貴方に本気で想っていただけるような価値なんてこれっぽっちもない女だわ」
「そんなことはない! 貴女がいいんだ。貴女でなければダメなんだ……! 俺は、俺は……貴女を妻にしたい。生涯貴女と共に生きていきたいんだ!」
「風……ありがとう……私も」
「では受けていただけるか? 俺のプロポーズを」
「とても嬉しいわ……」
 だが、美紅はそれこそ何の取り柄もないこんな女でいいのかと、戸惑いを口にした。
「貴方が良くてもご両親や周りの方々のご迷惑にならないかしら? 貴方は将来の責任がある御方よ? 私なんかを選んで足を引っ張ることになったら……」
「そんな心配は必要ない! 両親もそんな狭量ではないし、きっと喜んでくれる。だが仮に……万が一にもそうでなかったとしたら、その時は俺が家を出る。そうして貴女と二人で幸せな家庭を作るさ!」
「風、そんな……」
 将来のある貴方にそんな思いはさせられないわ。そう言い掛けた時だった。



*告白4

「よく言った! それでこそ私の息子だ。あっぱれだ、風よ」
 凛々しいバリトンボイスに驚いて振り返れば、そこには不敵に微笑む父、香港マフィア頭領の周隼がドアを開けて入って来たのに呆然とさせられてしまった。父の傍らには母親の香蘭が満面の笑みを浮かべながら手を叩いている。
「父上! 母上も……」
 その後方から『よ!』というようにおどけた仕草で顔を出したのは幼馴染の弁護士、曹であった。
「よう、周風! 上手くやったようだな!」
 ニヤっと笑みながら曹がウィンクを飛ばしてよこす。どうやら両親を連れて来たのはこの曹の計らいらしい。
「すまんな、風! お前さんの様子から今日こそ美紅嬢に告るものと思って、節介をさせてもらった。ご両親も是非にと申されたのでな」
「曹……こいつぅ!」
「いやぁ、すまんすまん!」
 はははは! と部屋中に幸せの笑い声が轟いた。父の隼は美紅の目の前へと歩を進めると、
「なるほど、素敵なお嬢さんだ! 風をよろしく頼む」
 と言ってにこやかに微笑んだ。母の香蘭も『なんて綺麗で可愛らしい娘さんかしら!』と感激の面持ちで、
「こんなに素敵な娘ができるなんて、最高の幸せよ!」
 と、美紅の手を取った。
「お父様、お母様……ありがとうございます! 不束な者でございますが……精一杯風さんについて参りたいと存じます」
 丁寧に腰を落とし、深々とお辞儀をした美紅を見つめながら、両親共に非常に満足そうにうなずいてはとびきりの笑顔で祝福したのだった。
「それはそうと風! 美紅嬢に例の物はお渡ししたのか?」
 曹が問う。
「ああ、すっかり忘れていた!」
 風は懐から小さな箱を取り出すと、自ら蓋を開いて跪き、美紅へと差し出した。中身はもちろんのこと指輪である。
「まあ……!」
 それはプラチナの台にはめられた大きな漆黒の石であった。周りには幾重ものダイヤモンドがキラキラと輝いている。
「貴女のサイズに合わせて作ったんだ。どうか受け取ってください」
「私のサイズ……」
 いったいいつの間に指のサイズまで調べたというのだろう。
「言っただろう? 貴女のことなら何でも知っていると」
「まあ……風ったら」
 立ち上がり、そっと手を取り風自ら指にそれをはめてくれる。その瞬間、美紅の美しい瞳から大粒の涙が出てこぼれては色白の頬を伝わった。それを指で拭ってやりながらそっと手に口付ける。それを見ていた母親の香蘭が微笑みながら言った。
「美紅ちゃん、その指輪はね。周家に伝わる夫婦の証の指輪なのよ」
 ほら見て! と自分の指にはめられた指輪を差し出してみせる。なるほど母の手にはたった今風から貰ったのと同じデザインの、けれども石の色は別のものが輝いていた。



*告白5

「琥珀色……ですのね?」
「ええ、そう。我が家は夫の字にちなんだ色の石を妻に贈るというのが慣しなのよ」
 そして父の隼の字が黄龍だから黄色い石、息子の風は黒龍だから黒い石なのだと付け加えた。
「字……そうだったのですね」
「私も結婚する時にこの人から貰ったのよ。私のは琥珀であなたのはオニキスね」
 そう言って手を差し出しては美紅の手を取って二つの指輪を並べてみせた。
「末永く風をよろしくね」
「お母様……はい! はい! 私こそどうぞよろしくお願いいたします」
 再びあふれた涙は幸せの色に輝いて、陶器のような肌をより一層美しく染め上げたのだった。
「では美紅、食事を一緒にと言いたいところだが、若い二人の邪魔をしては無粋というものだ。後日改めて我が家でご一緒させてくれ」
 父の隼はそう言って母と共に部屋を後にしていった。その後ろ姿を見送りながら曹もまた敬礼と共に美紅に深々と頭を下げてみせた。
「高美紅嬢、改めまして私は周家の専任弁護士であり、そしてこの風老板の側近を務めさせていただいております曹来と申します。以後、末永くお見知り置きください」
 曹は風を取り巻くブレーンの要であり、側近であったのだ。するとすかさず風が少々おどけた調子で割って入った。
「それと共に俺の幼馴染であり、大事な親友だ! 腐れ縁とも言うな?」
 ドッと笑いが巻き起こり、美紅を囲んでこの優美な男二人は互いの肩を突き合っては少年の様な笑顔を見せたのだった。






*初めての夜1

 その後、二人だけでフルコースのディナーを堪能した風と美紅は、ホテル最上階にある部屋で初めての一夜を共にすることとなった。
「このホテルは我がファミリーも出資していてね。ペントハウスには専用のプライベートルームがあるんだ」
 美紅にとってはまさに夢の世界である。先程のレストランの個室を上回るような美しい調度品の数々に、大きな瞳を見開いたまま瞬きさえも忘れてしまうほどだった。
「もしも貴女に振られてしまったら俺は貴女を一人ここに残して退散するつもりでいたが……」
 ご一緒して構わないか? と訊いてくる風の視線はそこはかとなくやわらかで幸せに満ちあふれている。
「もちろん……お帰りになると言っても許しませんわ」
 チャーミングに微笑む笑顔が実に可愛らしい。まるで小悪魔のように悪戯そうにそう言っては自ら腕に両手を絡ませてくれた彼女を、風はそっと抱き締めた。
「分かりました。では仰せの通りご一緒させてください、奥様」
「まあ……風ったら」
 クスクスと笑っては、
「一緒にいてください。ずっとずっと……貴方のお側にいさせてください、旦那様」
「美紅」
 見上げるほどに背の高い彼がクイと膝を曲げて目線を合わせてくる。
 両の掌ですっぽりと頬を包み込まれる。
 コツン、額と額が合わさり端正な顔立ちがボヤけるくらいの至近距離にドキドキと心臓音がうるさく騒ぎ出す。長く形のいい指先で顎を持ち上げられたと同時に、しっとりとした唇で甘噛みされるような口付けが落とされた。
 たったそれだけでもうひざがガクガクと笑い出すくらいにゾワゾワとした得体の知れない感覚が全身を支配する。腹の中心から絶え間なく何かが湧き上がっては脳天に向かってスゥーっと抜けていく。押し寄せる波のようにそれが何度も何度も繰り返されるのだ。もうとっくに二十歳を過ぎたいい大人だというのに、美紅にとっては初めて味わう感覚だった。
「風……アタシ……こんな気持ち初めてで……」

 どうにかなってしまいそう――!

 ともすれば立ってさえいられない美紅の身体を更に熱くしたのは、甘やかなその口付けの直後だった。
「美紅、実は貴女にもうひとつ打ち明けておかなければならないことがあるんだ」



*初めての夜2

 そう言ってスーツの上着を脱いでは無造作な仕草でソファの背に掛ける。綺麗な形の指、だがどこそこが男らしくて眺めているだけでまたしても腹の奥から得体の知れない熱い何かが湧き上がってくるような感覚に襲われる。色香さえ漂うその指でネクタイを外す。そのままワイシャツのボタンまでもがひとつまたひとつと外される毎に、合間から覗く逞しい胸板が心拍数を跳ね上げる。
 いよいよ抱かれるのだろうか、そう思うと今にも膝が力を失ってその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「驚かないでくれ」
 短い前置きと同時にクルリと身を捩って晒された背中を見た瞬間に、瞬きさえも忘れてしまうほどの衝撃に包まれた。
 広く逞しいその背中の全面には躍るような龍の刺青。鱗の所々に象徴的に配色されているのは深い黒だ。
「あ……あ……」
 思わず両手で口元を押さえながら、しばし言葉も出てこないほどだった。
 それは怖いというよりも美しいと思う感情を強くえぐられるような衝撃だった。マフィアというからには刺青が入っていたとて驚くところではないのかも知れないが、良くも悪くも衝撃的なのは事実だ。
「やはり驚かせてしまったな。だがこれから妻になる貴女に隠しておけるものでもないからね」
 僅か申し訳なさそうに瞳を細めた風に、美紅はただただ首をフルフルと横に振るだけで精一杯であった。
「驚……いたけれど、とても綺麗だわ……。黒い龍……ですのね」
 ということは、これもやはり字に合わせたものなのだろう。
「ご覧の通りだが俺は黒でね。親父の背中には黄龍が彫ってある」
 やはりか。
「じゃ、じゃあその龍は字の……?」
「ああ。これもファミリーの決まり事なんだ。一族の男には龍の彫り物、その妻になる女性には夫の字の色の蘭が贈られることになっている」
「蘭……」
「だから貴女に黒い蘭の花束を贈ったんだ」
 そういうことだったのだ。いつも贈られる花束が今日に限って紅薔薇ではなく黒い蘭だったのは。
「もしかしたらさっき気付いたかも知れないが、母の肩には黄色い蘭の彫り物が入っているんだ」
 そういえばドレスの肩紐から見え隠れする黄蘭があったように思う。突然の両親との対面に緊張の方が先立っていて、余裕がなかったせいかよく覚えてはいないが、風の言葉で漠然としていた記憶が徐々に蘇る。



*初めての夜3

「あ……じゃあもしかして私の肩にも……」
「ああ。入籍する時にはそうする選択肢もあるが――俺自身は貴女の身体に傷をつけたくはないという思いもある。俺たちは新しい時代を築いていく若い世代だ。無理に古い慣しに従うこともないと思っている」
 妻の証なら指輪やピアスなどのアクセサリーで充分事足りると風は言った。
「風……私……。その……もしもよろしければ私にも贈ってくださる? 貴方の妻だという消えない証……」
「――美紅」
「私がそうして欲しいの。この肩に貴方の字の色の蘭を刻んで欲しい……」
「メイ……」
「ね、もう一度見せてくださる? 貴方の黒い龍を」
 その希望に応えるように風は再び美紅へと背中を向けた。
「綺麗だわ……。本当に」
 このうねる龍のように有無を言わさず力強く全てを奪って欲しい。美紅はそんな衝動が抑えられなかった。
 先程から幾度も這い上がるゾワゾワとしたそれは欲情の感覚に他ならない。いつものやさしい紳士の顔を脱ぎ捨てて、野生の獣のように激しい感情をぶつけられてみたい。
 そっと、堪らずにその広い背中に頬を埋めた。
「風……私……おかしいの。さっきから……とてもドキドキして」

 本当にどうにかなってしまいそう……!

(嫌だわ、こんな……いい歳をして自分から貴方を漁るような感情がはしたない。でもどうしようもないの。さっきっから淫らなことばかり考えて……貴方に……)

「めちゃくちゃにして欲しいだ……なんて」
「メイ……」
 愛しい女に求められて嬉しくないわけがない。
「おいで」
 風はやさしくエスコートするように手を取ると、ベッドルームへと誘った。
「メイ、愛している」
 先程から美紅ではなくメイと呼ばれるのも新鮮で、より一層欲情を煽る。抱き締められたまま背中のファスナーを降ろされて、美紅はクッと肩をすくめた。
 激しく求められたい気持ちはあれど、その裏で初めての体験が少し怖いのも本当のところだ。そんな感情の揺れに戸惑う仕草も風にとっては愛しくて堪らないものだった。
「黒龍だ」
「……え?」
「俺の字だ。黒龍と呼んでしっかり掴まっていなさい。そうすれば怖くない」
「ええ、ええ……」
 頬から首筋、鎖骨へと色香にあふれた愛撫に侵され再び身体の芯から熱い疼きが沸々と顔を出す。シーツの海へと縫い付けられ、あっという間に奪い取られたサテンのドレスがするりと滑ってベッド下へと落ちる。うねる龍が躍る背中へと腕を回して無意識にしがみ付いた。
「あ……あ、風……!」
「黒龍だよ、メイ」
「あ……黒……龍」
「そうだ」
 耳元をやさしく侵す低い声音が頭の中を蕩けさせていく。いつ何がどうなったのか、今どうされているのかも分からないほどに一気に高みへと押し上げられて、まるでうねる高波に呑み込まれてしまったかのような感覚に襲われた。
 二人を繋いだという証拠の律動が次第に激しくなるのを感じながら、美紅は一生忘れられない至福を噛み締めたのだった。






*誓い

 初めて情を交わした後、広いベッドの上で美紅は風の腕枕に抱かれながら熟れるほどに頬を染めていた。未だ夢なのか現実なのか分からないほどだ。広い胸に頬を埋めながら恥ずかしそうに肩を丸めている仕草に瞳を細めながら、風は今一度愛しい女の額に口付けた。
「美紅、もうひとつ貴女に聞いて欲しいことがある」
 うっとりと潤んだ瞳を開けて「何かしら?」というふうに見上げる。
「俺には弟がいてね。字は白龍という。ヤツの背中には俺のと遂になる白い龍が彫ってあるんだが、実は弟といっても腹違いでね」
「まあ……そうでしたの」
「腹違いではあるが、俺にとっては本当の弟といえるし、とてもいいヤツなんだ。お袋も実子として俺たち兄弟を育ててくれた。弟の実母、つまりお袋からすれば親父の愛人ということになるんだが、その女性とも仲良くしている。まるで親友のような間柄だとお袋は言っているんだが、俺たち兄弟には分からないところでの苦労は当然あったと思っている」
「まあ……」
 先程会ったばかりの風の母はとても綺麗な女性だったし、母とは思えないほどに若々しくて、何より可愛らしくもありやさしい印象だった。父も同様で、風によく似た男前の顔立ちはもとより長身で渋い色気があり、美紅から見ても確かに格好いいと溜め息が出そうだった。あんな理想を絵に描いたような夫婦の間でも愛人の女性がいるのだろうかと、風から直接聞いてもピンとこないというのが実のところだった。
「美紅……」
「はい……」
「俺は親父のことを尊敬しているし、愛人の女性に対しても歳の離れた姉と思って育った。その子供である弟のことも実の弟として愛情を持っている。それは本当だ。だが、俺は将来貴女以外の女性と縁を持とうとは思わない。そこだけは親父と違うところだと思っている」
「風……」
「マフィアなどというと方々に妾がいても当たり前と思われがちだが、俺は貴女にそういった面で不安な思いをさせたくはない。それに、今は昔と違って血生臭いことはめっきり減ったし、経済マフィアといった方が正しいくらいだが、少なからず貴女に胸を張れないような後ろ暗いことに手を染めているのは事実だ。だが、貴女を蔑ろにしたり、他所で別の女性と関係を持ったりなど不貞だけは働かないと固く約束する」
 それだけは信じて欲しいと風は熱い視線で美紅を見つめた。
「風……ええ、ええ。信じるわ。私も貴方だけだと誓うわ」
「メイ、ありがとう」
 そっと、再び額に口付ける。
 二人は固く手と手を繋いだまま、甘やかで安らかな眠りへと落ちていったのだった。






*妬む女

 その後、周風と高美紅の正式な婚姻の準備が着々と進められていった。
 香港一大マフィア頭領の長男が結婚するというので、社交界は大騒ぎである。前々から風に憧れていた女性たちはもちろんのこと、邸内でメイドをしている者たちの中でもガッカリとしてしまい退職を願い出る者まで出てくる始末だ。風の元へはこれまで家同士の付き合いがあった者やファミリーが経営に携わっている企業の娘など、方々から連日のように連絡が入り、中には素直な祝いのメッセージなどもないわけではなかったが、大半は残念だの羨ましいだのといったものが殆どだった。とにもかくにも対応に追われるてんてこ舞いの日々が続いた。
 そんな中、ガッカリするどころか怨みにも似た感情でいきりたっている女が一人。
 彼女はファミリー直下の組織を束ねる父を持ち、風とは幼馴染として小さい頃から親戚のようにして育った娘で、名を楚優秦《チュウ ユーチン》といった。
「信じられない! あの風が婚約ですって? 相手の女はファミリーとは何の関係もない素人だそうじゃないの! いったい何処の馬の骨よ!」
 お付きのメイドたちの前でティータイムに出された食器などを叩き割ったり罵倒を浴びせたりしては、とにかく収拾がつかない勢いなのである。割られた食器を片付けようとメイドが床へと屈めば、
「ちょっと! あんた、今笑ったでしょ! そんなふうに物を拾うふりして顔を隠そうたってアタシはごまかされないわよッ!」
「そんな……滅相もございません! 笑うなど……」
「うるさいッ! アンタたちなんかもうクビよ! 出て行きなさい! 今すぐよ! 早くして!」
「お嬢様……」
 今度はソファに置かれていたクッションを床へと叩きつける。
「……いったいどんな女よッ! 風とはいつかこのアタシが結婚するつもりだったのに! 絶対に許さないんだから……ッ」
 風に対しては子供の頃からずっと好意を持っていて、これまでも幾度アプローチしてきたか知れない。だが風の方はまるでその気がないわけか、いつでも妹のような扱いばかりだった。優秦本人も心のどこかで相手にされていないのを分かっていたせいか、はっきりと想いを打ち明けたことはなく、それでもいずれは家同士の繋がりによって何とかなるだろうと悠長に構えていたのだ。
 それが蓋を開けてみれば突然の婚約発表である。優秦の父親は裏の世界でもそこそこ力を持っている人物だった為、娘である彼女も幼い頃から周囲に持て囃されて育ってきた。望むものは全て手に入ったし、風のこともいずれは思い通りになると信じて疑わなかったのだ。
「降って湧いたように現れた女があの人の妻になるなんて……信じられないッ! 絶対に許さないんだから……。見てらっしゃい!」
 優秦は鏡に映った自分に誓うかのようにギュッと唇を噛み締め、拳を震わせるのだった。






*幸せな二人

 一方、美紅の方は風の希望によってファミリーの拠点も入っている高楼のビルに移り住むこととなった。結婚後は新居として二人で住む部屋だという。
 入籍までの間は建前上ではあるが美紅が一人で住むことになっていて、風は同じビル内の別の部屋で暮らすらしい。いきなりの同居では美紅を疲れさせてしまってはいけないとの配慮であり、衣食住は別々でも夜は風が泊まりに来たりして、徐々に負担なく新居での環境に慣れてもらいたいという若き夫の心尽しであった。
「美紅、明日は日本に住んでいる弟が久しぶりに帰郷して来るんでな。貴女にも是非会ってもらいたいと思っている」
「ええ、そうでしたわね。なんでもお友達を連れていらっしゃるとか。お母様にうかがったわ」
「実はそうなんだ。俺たちの婚約を祝いがてらなんだが、弟の友人というのも結婚間近でね。式は東京でやるそうだが、俺や貴女にも是非出席して欲しいと言ってくれている」
「まあ! 私まで? 嬉しいわ。お父様とお母様もご招待されていらっしゃるのよね。お二人は男性同士とうかがったけれど、とっても素敵なカップルだとか」
「母から聞いたのか?」
「ええ。ファミリーの皆様とも古くから親しくなされている日本の裏の世界の方たちだと。今度ご結婚されるお二人は弟の焔さんと幼馴染でいらっしゃるんでしょう?」
「ああ。弟は高校時代に日本に留学していたんだが、その時も彼らにはクラスメイトとして随分世話になってね。男同士で生涯を共にすると決めるまでには紆余曲折あったようだが、二人共とてもいい奴らだ。しかも二人揃って男前だぞ」
 悪戯そうに笑いながらも『目移りしてくれるなよ』と付け加えた風に、美紅はクスクスと楽しそうに笑った。
「ふふふ、そうらしいですわね。お母様もそうおっしゃっていましたわ。とってもハンサムな二人なのよって」
 風は思わず瞳をパチクリとさせてしまった。
「まったく……。母はすっかり貴女を気に入ってしまったようだ。このところは俺といるよりも母と過ごす時間が長いようだが、貴女を疲れさせてしまっていないか心配だ」
 苦笑しながらも労いの言葉を掛けてくれる彼に、美紅は『ご心配なさらないで』と言って笑った。
「私は母を亡くしているし、お母様と一緒に過ごせることが楽しくて仕方ないのよ。それにね、お母様も娘がいなかったからとても嬉しいっておっしゃってくださって。貴方の奥さんとしてこの世界でどういうふうにしたらいいかとか、しきたりとかも教えていただけるし、とっても心強いわ。本当のお母さんだと思ってたっぷり甘えてねって言ってくださったの。私、もうどんなに嬉しかったことか……。貴方と一緒にいられるのも夢のようだけれど、お父様やお母様とも素晴らしいご縁をいただけて本当に嬉しいわ」
 言葉通り頬を染めながら微笑む仕草は、決して上辺だけのおべっかではないのだと分かる。風はそんな彼女がますます愛しく思えて仕方なかった。
「ありがとうな、美紅。世話を掛けるがよろしく頼むよ」
「ええ、こちらこそ。それよりも黒龍、明日はウェディングドレスのサイズを測っていただけることになっていて、お昼過ぎにお店に伺う約束なの。貴方は弟さんをお迎えに空港にいらっしゃるのでしょう? 戻られるまでには私も帰って来られると思うわ」
 一緒にお迎えに行けなくてごめんなさいと言う仕草がこれまた健気で風は思わず瞳を細めてしまった。
「謝るのは俺の方だ。一緒に見に行ってやれずにすまない」
「いいのよー。明日は採寸だけだし、すぐに済むわ」
「店までは車で送ろう。ドレスのデザインを決める時は俺も一緒に行かせてもらうから」
「ええ、ありがとう。楽しみにしてるわ」
 仲睦まじい二人は幸せの絶頂にいた。






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