極道恋事情

23 黒蘭を愛したマフィア3



*不穏1

 次の日、予定通り風は空港まで弟たちを迎えに行きがてら、ウェディングドレスの専門店まで美紅を送り、二人は一旦そこで別れた。
「採寸が済む頃に曹を迎えにやるから」
 一人で帰らせることになってすまないという風を見送ると、美紅は店内へと向かった。担当者は年配のベテラン女性で、母の香蘭が結婚する時にも世話になったそうだ。つい先日には香蘭も付き添ってくれて顔合わせをしていたので、スムーズに迎え入れてくれた。
「周のお嬢様、お待ちしておりました! 本日はわざわざお運びいただいて恐縮です」
 本当は邸まで出向いてくれると言われたのだが、たった採寸ひとつでそれではあまりに申し訳ないと、美紅が店にやって来たのだ。
 採寸はすぐに済んだが、せっかく来てくれたのでドレスの下見をしていかれたらと勧められて、有り難く言葉に甘えることにした。
「本格的なデザインは周の坊っちゃまとご一緒にお決めになられるのですよね! 今日はどんなタイプのものがあるかだけでもご覧になっていかれてください」
 美紅のウェディングドレスはオートクチュールで作るということで、デザインも一から作成されるわけだ。
「ありがとうございます。お手数をお掛けして恐縮です」
 さすがに専門店だけあってたくさんのドレスに溜め息が隠せない。

(あの人はどんなデザインが好みかしら?)

 風の顔を思い描きながら見ていると、自然と頬が綻んでしまう。一通り見学させてもらった後、丁寧に礼を述べてから美紅は店を出た。
 風からは迎えの車をやると言われていたので、とりあえず店先で待つことにした。そんな折だ。一人の女がにこやかな調子で近付いて来た。
「高美紅さん? 初めまして、私は風の幼馴染で楚優秦《チュウ ユーチン》というの。もう打ち合わせは済んだのかしら?」
 初めて会う女だったが、えらく親しげに話し掛けられて、美紅も丁寧に会釈で返した。
「お世話になっております。高美紅ですわ」
「あなたのことは風から聞いているわ。この度はご婚約おめでとう」
「ありがとうございます」
 彼女の方はこちらのことをよく知っているようで、『風から聞いている』という言葉の通り親しげだ。だが美紅の方では風本人からもその名前さえ聞いたことがなかった。まあ幼馴染というなら昔からの付き合いだろうし、もしかしたら家同士で懇意にしているのかも知れない。そう思った美紅は始終丁寧な対応を心掛けながら相槌を打っていた。
「実は風から頼まれてたあなたを迎えに来たのよ。この店の裏通りに車を待たせてあるの」
「――え?」
 迎えに来るのは曹のはずだ。



*不穏2

「あの……ですが、曹さんがいらしてくださると聞いていたのですが」
 美紅が戸惑っていると、優秦はクスッと笑みを携えながら朗らかな調子で言った。
「曹先生は急なお仕事が入ったとか。弁護士さんですもの、いろいろと忙しい方なのよ。それで風から私のところに連絡が来たのよ」
「まあ、そうでしたの。ご足労をお掛けしてすみません」
 それならと、美紅は特に疑うこともなく彼女に案内されるまま車に乗り込んだ。
「こちらはうちの運転手と執事よ」
 美紅は優秦と一緒に後部座席に通されたが、前の席には運転手の他にもう一人男が乗っていて、二人共に軽く会釈をしてよこす。ということは助手席の男が執事というわけだろう。それにしては随分と年若いなという印象だったが、とにかくはお世話になりますと挨拶をするにとどめた。
 優秦という女は初対面とは思えないフレンドリーな感じで、いろいろと話し掛けてきて、しばらくは世間話のような状態が続いた。
 後になってよく考えれば風が何の連絡もなしに幼馴染を迎えによこすだろうかと疑うところだが、美紅にしてみれば忙しい彼らのことだからそういうことも有り得るだろうと思ってしまったのだった。



 その少し後のことだ。
 予定通り美紅を迎えに行った弁護士の曹から彼女と落ち合えないでいるとの連絡が入ったのは、風が弟らと共に空港を出ようとしていた時だった。
『風、様子がおかしい。店に迎えに来たんだが、担当者によると美紅嬢はつい先程帰ったばかりと言うんだ。外で待たれているのかと思い、周辺を見て回ったが何処にもいない。失礼を承知で美紅嬢の携帯にかけてみたが繋がらないんだ』
 美紅には店で待つようにと風が伝えたはずである。
 不審に思った曹がすぐさま防犯カメラを見せてもらったところ、彼女が店を出た直後に一人の女が声を掛けて近付く様子を突き止めたというのだ。
『相手は楚大人《チュウ ターレン》のところの一人娘の優秦《ユーチン》嬢で間違いない』
 そんな予定があったのかと訊けども、風は知らないという。迎えに曹を行かせたのも美紅がよく見知った者の方がいいと思ってのことだったからだ。
『とにかく優秦嬢の携帯番号を教えてくれ!』
 電話が繋がって事情を聞ければ万々歳だが、もし繋がらなければGPSで現在地を突き止めようと、曹は既にそう考えているようだ。それと同時にすぐさま組織本部に待機している舎弟に連絡を入れて、数人を応援に回してくれるようにと頼むのも忘れなかった。



*不穏3

 一方、風の方の車中では事態を聞いた弟の焔とその友人たちが早速に美紅の行方の調査に乗り出してくれていた。焔は当然のことながら、友人たちも日本の裏社会に生きる極道だ。こういった事件や調査には慣れているし、心強いといえた。
「兄貴、優秦の携帯のGPSが繋がった! 電話の方もコール音はするが――出ねえな」
「ということはマナーモードに入れてるってところか。変な話だがこれ以上こちらから電話をかけるのはやめておいた方がいいだろう」
 これは焔と友人の男との間での会話である。
「仮にその優秦って女が風さんの奥さんに対してよからぬ事を企んでいたと考えて、何度も電話で呼び出せば企みがバレたと思わせかねない。GPSが生きているというなら、まだ電源は落とされていないということだ」
 当然、美紅のGPSも真っ先に探査にかけたものの、繋がらなかった。
「ということは――優秦って女は奥さんの携帯は取り上げて電源を落としたが、自分のは落とし忘れているということになる。詰めが甘いがこちらにとっては幸いだ」
 弟・焔の友人は即座に様々なケースを想定して、対策までをも巡らせている。彼の父親は周ファミリーとも古くから懇意の仲であり、日本国内に限らず台湾や香港、インドネシアなどアジア圏では右に出る者はいないとされる精鋭のエージェントなのだ。日本では極道・鐘崎組という看板を挙げていて、裏の世界はもちろんのこと、政治家や企業家など多方面から秘密裏に持ち込まれる難しい依頼をこなし、”始末屋”と異名をとるほどの凄腕である。その息子である焔の友人も父親の素質を充分に継いでいて、現在は若頭として組を治める頼もしい男でもあった。名を鐘崎遼二といい、もう一人はその鐘崎と男性同士で生涯を共にしていくと決めた伴侶で、一之宮紫月といった。
 風らはタブレットを広げて優秦という女のGPSを辿りながら、自分たちもそこへ合流するように行き先を変える。
「……ッ、啓徳ならすぐだったってのに――」
 風が子供の頃はまだ空港が香港の中心地である街中にあったものの、今は離島区に移ってしまった為、市街地に戻るまでにはそれなりに時間を要する。幸い、道はそれほど混んでおらず、風たちを乗せた車は猛スピードで美紅らを追ったのだった。
「相手は山の中へ向かっているな――。この辺りには確か優秦の親父の別荘があったんじゃねえか?」
 弟の焔がタブレット上の地図を目で追いながらそんなことを呟いている。
「――だがあそこはだいぶ前に手放したと聞いているぞ。それこそ啓徳が閉鎖した頃のことだ。新しい別荘を新空港に近い所に買ったとか」
 風が父の隼から聞いた話では、確かそうだったはずである。
「手放したというよりは――売れずに放置されている可能性もあるな。あの辺りは辺鄙だから買い手がつかなかったのかも知れねえ」
 弟の焔が眉根を寄せながらそう呟く。そうであれば現在は廃墟も同然だろうか。
「……そんなところに連れ込んで何をしようってんだ」
 想像するだに嫌な予感しかしないが、とにかく今は一秒でも早く追いつくことが肝心だ。風らは優秦の示すGPSを必死に追い掛けたのだった。






*不穏4

 その頃、美紅の方でも少々不安にさせられる事態に陥っていた。
 店から邸のある高楼までは大して離れてはいない。如何に道が混んでいようと車ならば二十分も掛からないはずだった。事実、来る時は十分足らずで着いてしまったくらいだ。ところが、車は邸のあるビルとは少々方向違いと思える道に入っていく。
「あの……優秦さん? どちらかへお寄りになるのでしょうか」
 もしかしたら風がそうしてくれと頼んだのかも知れない。久しぶりに会うという弟を迎えに行ったことだし、空港からの帰り道の途中、どこかのレストランででも合流するということも考えられる。少しの不安が過ぎるも、隣に座る彼女は相変わらず親しげにしゃべっているし、疑っては申し訳なかろう。そんな素直な考えを後悔する羽目になったのは、車が寂れた山奥の廃墟の様な場所に到着した時であった。
「着いたわ。降りてちょうだい」
「……優秦さん? ここは……」
 どう見てもレストランなどとは程遠い。美紅が戸惑っていると、背後から運転手と執事だという男二人に羽交い締めにされて驚いた。
「何をなさるんです!? 離してくださいッ!」
 男たちはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべるだけで力をゆるめる気配もない。引き摺られるようにして建物の中に連れ込まれると、そこには更に驚愕といえる光景が待っていた。



 どこそこ寂れてはいるが、元はかなりの豪邸だったと思われる。人が住まなくなってかなりの年数が経ったからだろう、埃や蜘蛛の巣にまみれてはいるが富豪の別荘地のような造りであった。
 天井の高い大広間の窓から差し込む陽の光が澱んだ空気の動きを映し出していて気味が悪い。
 それだけではない。
 かつては豪勢だったろうゴブラン織の大きなソファには、見るからにガラの悪そうな男たちが群れていて、その誰もが獲物を欲するハンターのような視線をニヤつかせている。ザッと十人はいるだろうか、いやそれ以上だ。彼らの目的が何かなど、聞かずとも想像がついてしまい、美紅は背筋に悪寒を覚えた。
「どういうことです……? あの人は何処なんです?」
 美紅が声を震わせながら訊くと、優秦はそのひと言で癇に障ったように目を吊り上げた。
「あの人は――ですって!? まだ籍も入れてない内から早速女房気取り!? ……ッ、ふざけないでよね!」
 これまでの親しげな態度を一変、憎しみのこもった表情で睨み付けると同時に思い切り平手打ちを食らって、美紅は硬直させられてしまった。



*不穏5

「……優秦さん……何をなさるの……」
「ふん! なぁに、その上品ぶった言い方! さっきっから聞いててイライラしてたのよ! まったく腹立つったらないわ! 貧乏人の素人のくせして、一丁前にファミリーの一員を気取ってるつもりなわけ?」
「そんな……」
「いい? アタシはね、風とは小さい頃からずーっと一緒に育ったんだから! パパは周のおじ様から直下の組織を任されてて裏の世界のことだって熟知してるわ! いつかはこのアタシが風の奥さんになるつもりだったのよ!」
 つまりこの優秦という女性は風に惚れているということか。敵意剥き出しの態度からしてもそれが明らかだ。
「それなのに降って湧いたように現れたどこの馬の骨とも知れないバカ女と結婚ですって? 冗談じゃないわ! あんたなんかに風は渡さない! 絶対に渡さないんだから!」
 癇癪を起こすように怒鳴り上げられて、美紅は返す言葉も見つからずに押し黙ってしまった。そんな様子を横目に、少しはお門違いだということを理解したらしいと思ったのか、優秦は満足そうに嘲笑してみせた。
「ちょっとはわきまえる気になった? だいたい風も風よ! こんな女のどこがいいのかしら!」
 そう吐き捨てると、男たちに向かって顎をしゃくり、信じ難いことを言ってのけた。いや、信じ難いというよりは、やはりかと思わされる。
「いいわ。犯っちゃって! 全員でその女を輪姦すのよ! それで風も諦めがつくでしょ」
 優秦はニヤっと笑うと、部屋の隅に設えてあったカウンター席に腰を下ろして煙草に火を点けた。と同時に男たちが立ち上がって美紅を取り囲む。
「最初は誰からだ?」
「さっきクジで決めたろーが! 最初はこの俺だ」
 あっという間に前後左右を男たちに拘束されて、引き摺られるようにソファの上へと放り投げられた。
「何をなさるの……! そこを退いてください!」
「フッは! たーまんね! 今時『何をなさるの?』なんて上品なことを言える女がいたとはねぇ」
「そーゆうのが男をソソらせちまうって知らねえのかー?」
 男たちは美紅の顎を掴み上げながら、ソファの上で馬乗りするように体重を掛けてきた。
「やめてください! 離して!」
「そうはいかねえ。にしても、ホントめちゃくちゃイイ女じゃねえの! 周風さんも罪なことするよなぁ」
「そうそ! あの人がおとなしくウチの嬢さんと一緒になっときゃ、こんな目に遭わずに済んだんだぜ、アンタも!」
 ウチの嬢さんと言うところからすると、この男たちは彼女の父親の配下の者たちか。胸倉を掴み上げられて、美紅は堪らずに叫んだ。



*不穏6

「優秦さん! こんなことやめさせてください! 優秦さん!」
 だが当然か、優秦はカウンターで煙草を燻らしながら素知らぬ顔でソッポを向いている。
「ま、観念しなよ。アンタ、周風さんとはもうとっくに寝てるんだろ? やることは一緒だからそう怖がることはねえって! 俺たちで十分可愛がってやるからよ!」
「そうそ! 風老板なんかよりもっとよくしてやるって!」
 男がブラウスを引き千切らんと手を掛けた時だった。
「やめて! 私には夫になる人がいるのよ! 彼以外の男の方と不貞をするなんてできないわ!」
 キッと意志のある瞳で男を睨み付けながら言った。
「は! 参ったね。いったいいつの時代の女だよ? 言っとくがその”夫”と結婚させねえようにしようって話なんだ。アンタが俺たちに輪姦されたって知りゃあ、周風さんだって気が変わるだろうしな。元々女には不自由したことがねえような色男っぷりだ。大勢の野郎に穢された女なんかにゃすぐに見切りをつけて放り出すに決まってる!」
 男がのし掛かり、ソファに押し倒されそうになった時だ。
「待って! 待って……。分かったわ。私があなたたちのお相手をすれば気が済むのね?」
 美紅の言葉に男たちは『ヒュー!』と言って肩をすくめてみせた。
「何? 素直に俺たちに抱かれる気になったってか?」
「へえ? アンタもなかなか聞き分けがいいじゃねえの。だがまあ、せいぜい嫌がって抵抗してくれたほうが萌えるんだけどなぁ」
 美紅はそんな男の腰に携えてあったサバイバルナイフに視線をやると、
「それ、貸していただけないかしら?」
 そう言って微笑を浮かべてみせた。
「は? ふざけてんのか、てめえ! これで俺らに切り掛かろうってか?」
 男が眉間に皺を寄せたが、そうじゃないと言って美紅は男の腰からナイフを抜き取った。
「何しやがる、このアマ!」
 ところが切り掛かるどころか、美紅は自分のスカートを自らそのナイフで切り裂いてみせたのに、男たちは驚かされる羽目となった。そして『ありがとう、お返しするわ』と手にしていたナイフを男へと差し出した。
「……ふぅん? どういう風の吹き回しか知らねえが、案外やるじゃん、アンタ」
 半ば面食らい気味の男にフッと微笑むと、
「ええ、だって邪魔なんですもの」
 言ったと同時に男の首筋目掛けて横から足蹴りを食らわせた。わざわざスカートを裂いたのは、タイトなデザインだった為、思うように動きが取れないと思ったからだ。
「ぅぐぁ……ッ!」
 男は仰け反って床へとひっくり返った。



*不穏7

「な……、何しやがる、このアマッ!」
 また別の男たちが怒鳴り声を上げて恐喝してきたが、それも向かってくる順に続け様の攻撃を繰り出してかわしていく。身体を一回転させて回し蹴りを食らわせたかと思えば、次には鳩尾や首筋に目掛けて拳を打ち込み、あっという間に三人の男をその場に沈めてしまった。
 驚いたのは男たちだ。
「な、何だこのアマ……」
「拳法を使いやがる……」
「ざけんなって! そんな話聞いてねえって……!」
 一歩二歩と後退りながら信じられないといったように身構える。その様子に驚いたのは優秦も一緒だった。
「何やってんの! あんたたち、まがりなりにもマフィアでしょ! だらしないったらないわね!」
 そう言いながらもカウンターから立ち上がり、逃げ腰になる。
「誰か骨のあるヤツはいないのッ!? こんな女一人を相手に情けないったら!」
 発狂したように叫んだ優秦の声を遮るように、それまでは黙って様子を窺っていただけの一人の男がゆっくりとした動作で立ち上がった。見たところ他の連中とは違って随分と余裕がある様子だ。
「ふん! 拳法使いか。細っこい女にしてはまずまずの腕は認めてやるがな」
 男は言うや否や間髪入れずに美紅目掛けて同じ拳法の技を繰り出してきた。
「……ッ」
 それこそ回転蹴りに、素早く重い拳の嵐が立て続けに襲い来る。

(……っう、早い……)

 さすがの美紅も攻撃をかわすだけで精一杯だ。この男には反撃の隙がまるでない。それもそのはず、男は立ち上がるとえらく長身の上に筋肉質でガタイも良かった。拳法の腕前も相当なものだ。華奢な女がどう頑張っても太刀打ちできるものではない。
「ふ、いただき!」
 目の前ギリギリに飛んできた拳を避けようとした隙に美紅は床の突起に足を取られ、その場へと倒れ込んでしまった。
 すかさず体勢を立て直そうにも真上から見下ろしてくる男にスカートの裾を踏み付けられて身動きが取れない。動きの邪魔になるからと思って自ら引き裂いた布地が捲れ上がって太腿が露わになり、額に冷や汗が伝う。
「ふ、造作もねえ。いい脚してるぜ」
 見下ろしてくる男の視線が欲情に塗れていて、そのいやらしさに悪寒が走る。
「退いて……触らないで! 触ったら舌を噛み切るわ……!」
 必死に叫べど、ますます男を煽るだけだった。
「堪んねえなぁ。こいつぁ犯り甲斐があるってもんだ!」
 しゃがみ込んだ男にのし掛かられそうになったその時だった。
 突如物凄い勢いでドアが叩かれる音がして、それと同時に聞き慣れた唯一人の男の叫ぶ声がした。



*不穏8

「美紅ッ! 美紅ッ! メイ!」
「黒龍……!?」
「何ッ!? クソ! 亭主のお出ましか……! どうやってここを嗅ぎつけやがった……」
 だがドアにはしっかりと施錠がなされていて、おいそれとは開かないようだ。
「チッ! せっかく極上の獲物だってのに邪魔されてたまるか! おい、てめえら! 鍵を開けられる前に家具でドアを塞げ!」
 男は美紅の腕を掴み上げると、乱暴に引き摺りながら二階へ移動せんと走り出した。
 ところがだ。
 間髪入れずにビシュッという銃声が数発轟いたと思ったら、次の瞬間にはドアが蹴破られた。銃によって施錠が外されたのだ。
「……は! 冗談キツイぜ! いきなりブッ放すかよ……」
 同じ裏社会の人間だ。別段銃を所持していたとて驚きはしないが、中の状況も把握しない内からドアごと銃で破るとは思わなかったのだ。
 踏み込んできた風は修羅か夜叉かというような形相で、フロアにいた男たちも一瞬躊躇させられたほどだった。
「クッ……周風老板……」
「どうしてここが分かったんだ……」
 組織の頂点にいる彼を目の前にしてさすがに躊躇するも、とにかくは我に返って行く手を塞がんと男たちが応戦に出た。だが風はそれらをものともせずに、まるで龍神の如く勢いで美紅目掛けて駆け寄った。
「クソッ……こうなったら仕方ねえ……殺っちまうしかねえ!」
 男たちにとって風はまがりなりにも組織の頂点に君臨する長も同然だ。自分たちが与する優秦の父親は周ファミリーの直下だから、本来であれば謀反ということになるが、風は銃を所持しているし、それより何より企みに加担していたのがバレた時点でどのみち自分たちも殺されかねない。そう思った男たちは一丸となって風を仕留めんと襲い掛かろうとした。
 ところがだ。
「てめえらの相手はこっちだ!」
 後方から風と共にやって来たらしい男が三人現れて、手を煩わされる事態に舌打ちさせられる。
「構うこたぁねえ! 相手はたったの四人だ! 殺っちまえ」
 数でいえば圧倒的な差があり、どう見ても男たちが優勢だ。
「舐められたもんだな。クズどもが!」
 風が連れてきた三人の内の一人は拳法使いで、もう一人は空手の構えだ。攻撃を仕掛ける間もなく、入り口付近にいた男たちの意識をものの数秒で刈り取った。二人は体格も堂々としていて眼力も鋭く、ただ立っているだけで圧倒されるようなオーラを放っている。
「クソ……ッ、小癪な……!」
 これを相手にするのはかなり厄介だと男たちも焦りを隠せない。
 それ以前に拳法使いの男の顔立ちにも驚かされる。どこそこ雰囲気は違うものの、風とよく似た面立ちは影武者なのではと思わせるくらいに瓜二つだったからだ。
「クソッ……どうなっていやがる……」
「影武者でも連れて歩ってるってのか、風老板は!」



*不穏9

 見た目だけでいえば風と間違えるほどだが、この男の方は優美な雰囲気が漂う風とは違って、もっと野生的な印象だ。食って掛かったが最後、確実に命を取られそうな怜悧且つ激しいオーラが恐ろしげで、蛇に睨まれた蛙のように足が竦んで動けない。彼と共にいるもう一人の男も似たような印象で、空手の構えだけ見ても恐らくは敵わないだろうと痛感させられる。
 残るもう一人は見たところ華奢な優男だった為、男たちはひとまずそちらから潰さんと束になって襲い掛かっていった。
「ク……仕方ねえ。あの優男から潰せ! その間に家具で防護壁を作るんだ!」
「おい、銃を持ってこい! 早くするんだッ!」
 男たちは一番華奢な男を制圧した後で残る屈強な二人に対しては飛び道具で迎え撃つ作戦に出るようだ。
 ところが、その華奢な男に数人で襲い掛かるも、やわな見た目に反して仕掛ける攻撃が全てかわされる上に、何がどうなったか分からない内に気が付けば床へと投げ飛ばされているといった具合に唖然とさせられる。彼の技は合気道だったのだ。相手の力を利用して、あっという間の一瞬で捩じ伏せてしまう。オロオロとしている隙に他の二人によって構えた銃を蹴り上げられては、重い拳と蹴りの嵐に太刀打ちするどころか逃げる暇さえ断たれて焦る。
「クソ……どこにも隙がねえ」
「こいつら化け物かよ……」
 慌てて家具の下に逃げ込み、そこから銃で足元を狙い撃とうと試みるも、構えた銃ごと掌を踏みつけられて、方々から『ぐあぁ!』という絶叫が上がる。とにかく攻撃の手際が見事過ぎるというか、動きが早過ぎて、どう太刀打ちするかと考える暇さえ全くないのだ。そんな三人に阻まれて、二十人近くいた男たちがいとも簡単に次々と制圧されていった。
 その傍らでは美紅を手に掛けんとしていた男と風が対峙していた。双方共に拳法使いだが、やり合うこと数回で風が勝利し、男は意識を刈り取られてしまった。
「美紅! 無事かッ!?」
「黒龍……!」
 男を倒したと同時に風は愛しい婚約者を腕の中へと抱き締めた。ふと視界に入った彼女のスカートが切り裂かれているのに気がついて、驚きの声を上げる。
「メイ……何をされた……!?」
 美紅もすぐに理解して、慌ててスカートを押さえた。
「大丈夫。これは私が自分でやったのよ」
「……貴女が? 自分で……?」
「ええ、そう。攻撃の邪魔になると思って仕方なく……。せっかく貴方に買っていただいた服でしたのに……」
 ごめんなさいと謝る彼女の両肩に手をやりながら、風は何ともいえない面持ちでその顔を覗き込んでしまった。周囲を見渡せば、確かに自分たちが乗り込んで来る前に倒されたと思われる男が三人ほど意識を失ったまま床に転がっている。
「まさか……こいつらは貴女がやったのか?」
「ええ……。子供の頃、父に勧められて拳法を習いに通っていたことがあって」
 でもお陰で少しは役に立ったわという彼女の言葉に、風は一気に全身の力が抜けてしまう心持ちにさせられてしまった。
「は……、本当に……貴女のお父上には感謝しかないな――」
 まさかこの華奢な彼女にそんな特技があったなどとは思いもよらなかった。ホッと肩を落とす風の元に、全ての制圧を終えた三人が集まって来た。
「兄貴、こっちは片付いたぜ」
「あ、ああ焔。遼二に紫月も、本当に助かった。感謝する」
 三人は風が迎えに行った弟の焔とその友人たちだったのだ。



*不穏10

 しかしながら弟の焔はともかくとしても、友人の二人も驚くほど武術に優れていて、さすがに日本の裏社会に生きる者たちかと納得させられる。
「義姉さん、初めまして。弟の焔です。こちらは日本の友人で鐘崎遼二と一之宮紫月です」
 初めて目にする焔はなるほど風に面立ちが似ていて、三人の内の誰が弟なのかは聞かずともすぐに分かるといった具合だった。先程の男たちが『影武者か』と口走ったのもうなずける。身長体格も風と遜色なく、若干髪型が違うかなというくらいで、二人が並べばまるで双子のようだ。
 友の鐘崎と一之宮も聞いていた通りの男前で、鐘崎の方は周兄弟に近い印象の男らしい魅力に溢れているが、一之宮の方は格好いいというよりも綺麗とか美人といった印象の方が強い。
 男性相手に美人といっていいのかは迷うところだが、とにかく本当に美しく、女性も顔負けというくらいにキメの細かい肌質などは羨ましいくらいだった。
 この二人は男性同士で愛し合っていて、もうすぐ結婚間近と聞いていたが、なるほど似合いのカップルだと納得させられる。おそらくは鐘崎の方が亭主で、一之宮という綺麗な男の方が妻という立ち位置なのだろうということは、女性の美紅にも想像できてしまうようなカップルであった。
「皆さん初めまして、高美紅です。焔さん、ご友人の鐘崎さん、一之宮さん、いらして早々にお手を煩わせてしまい申し訳ありませんわ」
 美紅が挨拶すると、三人は「本当に美人だ!」と言っては風の肩をつつく勢いで感嘆の声をあげた。
「兄貴から電話で聞いてはいたが……本当に素敵な女性で驚いてます。どうぞ末永く兄貴をよろしくお願いします」
 弟の焔にそう言われて美紅も頬を染めながらうなずいた。
「それはそうと、こんなふざけたことをしでかした張本人は何処へ行ったんだ」
 焔の友の鐘崎が辺りを見回しながら言う。
「そういやそうだな」
 美紅の安全を確認したことですっかり安堵していたが、企てた張本人の優秦の姿が見えないことに気付く。
「ふん、どうせ二階辺りに潜り込んだってところだろう」
 焔が『俺が見てくる』と言って、フットワークも軽く階段を駆け上がって行き、少しすると優秦の首根っこを掴むようにしながら戻って来た。



*不穏11

「案の定だ。クローゼットに隠れていやがった」
「……ッ、何よ! 離して! 離しなさいってば!」
 優秦にとっては風と同じく弟の焔もまた幼馴染に違いない。互いによくよくの顔見知りなのだ。
「離しなさいってば! 何よ! あんたなんか妾の子のくせに! 軽々しくアタシに触るなんて十年早いのよ!」
 暴れる優秦の目の前へ歩を進めると、風は彼女の頬を軽く叩いた。
「……痛ッ、何すんのよ……!?」
 恋する風に手を上げられて、驚愕というように肩を丸める。
「ふざけたことをしてくれたな優秦。俺の妻を騙してとんでもない企てをした上に、弟までもを罵倒するとは許しおけん!」
 特には怒鳴るわけでもなかったが、その声音は怒りに満ち満ちていて、優秦は今にも泣き出さん勢いで瞳をしかめた。
「風老板、たった今、楚大人《チュウ ターレン》より連絡がありました。もう少しでここに到着するそうです」
 やって来たのは弁護士兼側近の曹であった。この拉致が優秦の仕業だと判明した時点で、すぐさま父親の楚光順《チュウ グァンシェン》に連絡を入れていたのだ。
「本来ならばこんなもので許す筋合いもないがな……。お前の親父さんは非常に温厚且つ誰もが認めるほどに人望も厚い人柄だ。我がファミリーにもよく尽くしてくれている。その親父さんの顔を立てて今回の処遇は彼に任せるが、二度と俺たちファミリーの前にツラを合わせられると思うな」
 風はそれだけ言い捨てると、後の処理を曹に預けてこの場を後にした。



 邸へと戻る車中では風が美紅の肩を抱きながらぴったりと寄り添っていた。今日は弟たちを迎えに行ったこともあり、いつものセダンタイプの高級車ではなく大勢が乗れるワゴン車であった。
 風はスーツの上着で美紅を覆い、破けたスカートを隠してやる。たまたま運良く救出が間に合ったものの、怖い思いをさせてしまったことは明らかだ。
 大勢の男たちに囲まれて、一歩間違えば手篭めに遭っていただろうと思うと、怒りと後悔とで腑が煮え繰り返りそうだ。美紅が武術に長けていて気丈に対応したことには驚かされたものの、供の一人も付けずにウェディングドレスの店に行かせたことが悔やまれてならない。
「やはり貴女専用の護衛をつけるべきだな――」
 早急に手配しようと言う風に、弟・焔の友人の鐘崎もそれがいいと言ってうなずいた。
「俺のところもこいつ専属の護衛役として組の若い衆を交代でつけています。こいつも合気道をしていますし武術には長けていると言えますが、何かの時には護衛がいれば心強い」
「そうか。遼二のところもそうしているのだな」
 美紅は女性だから護衛係も同じ女性の方が彼女も何かと安心だろう。とはいえ堅気だった彼女を下に見たり、羨んで意地の悪いことを考えるような者は論外だ。風は早速に人選を思い巡らせるのだった。



*不穏12

「しかし貴女が拳法を使えるとは驚かされた。大の男三人を捩じ伏せてしまうとは……」
 誠、お父上のご教育の賜物だと言って肩を撫で下ろした風を横目に、
「でも、そうね……私も咄嗟のことで昔習っていた拳法を思い出したのだけれど、やっぱり身体が鈍りに鈍っていて結局太刀打ちできなかったわ。今からでももう一度ちゃんと修行を始めようかしら」
 そんなことを言う美紅に、彼女の受けたショックが思ったよりも大きくなかったことに安堵の思いがよぎる。美人で華奢な見た目からして、か弱い印象を抱きがちだが、度胸も器の大きさも充分に備わっている彼女に姐としての誇りを垣間見るようで、風はよくよく得難い存在と巡り会えたことに目頭が熱くなる思いでいた。
「ああ。貴女がそうしたいなら俺も反対する理由はない」
 もう仕事も辞めさせてしまったことだし、結婚すれば一日中家にいられるわけだ。退屈凌ぎにもなるだろうし、健康にもいいだろうと風も賛成したのだった。



 その後、優秦《ユーチン》の父親、楚光順《チュウ グァンシェン》は娘の犯した罪の責任をとって、自ら周直下を離れたいと申し出た。光順本人は組織への忠義にも厚く、堅気に対しても横暴なことは一切しないというできた男であった為、ファミリーとして彼を失うことは正直なところ痛いといえる。が、しかし事態を重く見た頭領・周隼も色恋絡みの嫉妬が原因とはいえ、大勢の男たちに輪姦させてまで結婚を妨害しようなどという企てを許し置くはずもなく、光順の申し出を受け入れたのだった。
 光順にしてみれば命を取られなかっただけでも大赦に値すると言って、二度とファミリーの前には顔を出さないと誓い、平身低頭で謝罪した。
 かくして美紅の拉致事件は寸でのところで大事を逃れ、風ら若夫婦にとっても穏やかな日常が戻ってくることになったのだった。
 その後、美紅の希望した武術の修行にはファミリー内から信頼の置ける師匠が選抜され、道場に通わずとも邸のある高楼内で稽古をつけてもらえることになった。他所に通わせてまた何かの企みに巻き込まれないようにとの風の配慮である。
 また、弟・焔の友人たちの結婚式にも呼ばれて、美紅も日に日にファミリーとしての交友関係や生活のサイクルにも慣れた頃、待ちに待った二人の結婚式当日を迎えようとしていた。
「いよいよ明日だな。貴女の夫として末永く頼ってもらえるよう精進するつもりだ」
「黒龍、私こそ……。良い妻になれるように努力するわ」
 香港マフィア頭領の長男坊の結婚式だ。招待客だけでもすさまじい人数である。近隣諸国のマフィア頭領たちなど裏の世界の関係者はもちろんのこと、政界、経済界など各界からも名だたる人物が山と招かれて、式は盛大なものになるであろう。
「人の多さもだが、貴女には気疲れさせてしまうかも知れないがすまないね」
 自分がずっと側にいるからと気遣ってくれる風に、美紅もまたありがとうと言ってうなずいたのだった。



*マフィアの花嫁1

 そうして式当日を迎えた。
 朝から雲ひとつない晴天に恵まれて、若い二人はもとより両親や親族たちも喜びに湧いていた。日本の東京からは弟の焔とその友人の鐘崎、一之宮も駆け付けて、式場内の控え室は歓喜に満ち溢れ賑やかであった。
 そんな幸せに一気に翳りを落とすこととなったのは、着替えの為、美紅が義母の香蘭と共に花嫁の控室へとやって来た時だった。
「まあ……なんてこと……!」
 美紅よりも先に香蘭が驚愕ともいえる表情で声を詰まらせる。なんと、今日この日の為にオートクチュールで新調した純白のウェディングドレスに墨汁のようなものが掛けられて、所々に真っ黒な染みが撒き散らされていたのだ。それを目にするなり美紅もまた驚きで言葉を失ってしまった。
 話を聞きつけてすぐに風と父親の隼らが隣の新郎控室から飛んで来た。
「これは……」
 さすがの風も絶句させられる。
 ドレスの側の床には墨汁と思われる空の容器が転がっていて、絨毯にもこぼれ落ちた染みがこびりついていた。
「なんてことを……いったい誰が」
 誰もがすぐに優秦の顔を思い浮かべたが、彼女は父の楚光順がファミリー直下を去ったと同時に家族共々外国へ移り住んでいて、もうこの香港には居ないはずだった。
「まさか優秦がまだ諦め切れずにこんなことをしでかしたというのか……」
 由々しき事態に頭領・隼も額に青筋を浮かべる。だが証拠がない以上、彼女の仕業だと決め付けるには早いか。
 風の結婚に関して羨んでいる者は多い。もしかしたら全く別の誰かの仕業ということも考えられるが、いずれにせよもう式までは時間がない。今は犯人を追及するよりも代わりのドレスを何とかすることの方が先決だ。
「仕方がない……こうなったら式場に言って別のドレスを調達するしかなかろう」
 せっかくこの日の為にと二人で選んで作ってもらった世界に唯ひとつのドレスだが、さすがに今から墨汁の染みを拭い去るのはどう考えても不可能だ。式場にあるレンタルのドレスで凌ぐしかない。
 早速手配をと言って部屋を出て行こうとする風を美紅が引き止めた。
「待って、黒龍」
「……?」
「待って……。せっかく貴方に作っていただいたドレスよ」
「だがメイ……これでは」
「それに……この染みの模様なら活かせるかも知れないわ」
 どういうことだと全員が彼女を見つめる。美紅はその場にしゃがみ込んで墨汁の容器を拾い上げると、
「よかった。まだ少し残っているわ」
 そう言って、芳名簿用に用意されていた筆を手に取った。



*マフィアの花嫁2

「メイ……? 何をするつもりだ」
「昔ね、父がまだ生きていた頃、趣味で水墨画を描いていたの。真似事だけど私も一緒に描いたこともあるのよ」
 切なげながらもそう言って微笑むと、トルソーからドレスを外してテーブルの上へと広げてみせた。そして驚くようなことを口にした。
「黒龍、お願いがあるの。貴方の背中の刺青を見せてくださる?」
「背中の……? 構わんが、いったいどうするつもりだ」
「ドレスにも黒龍を刻むのはどうかしら。上手に出来るかは自信がないけれど私が描くわ。布地も絹だからちょうどいい……」
 つまり絹本画と同じ感覚で描けるという意味なのだろう。
「この染みの形なら龍の動きに合わせて水しぶきが飛び散ったような壮大な感じにぴったりだと思うの」
 湖から龍が飛び立つ瞬間をイメージした絵にすればいいのではないかと言うのだ。
 その発想に風はむろんのこと、両親である隼も香蘭も、それに弟の焔らもその場にいた全員が絶句するほど驚かされてしまった。
「貴女という人は……」
 風は感動ですぐには言葉にならないほどだった。そしてすぐさま言われた通りに服を脱ぐと、うねる龍が舞う背中を晒してみせたのだった。
「ありがとう黒龍」
 美紅は筆を取り、広げたドレスの布地へと龍を描き付けていった。その腕前はなかなかのもので、みるみると風の背に舞う刺青に似た龍図が出来上がっていく。
 ウェディングドレスに墨で絵を描くなど前代未聞だが、完成してみれば見事であった。しかも図柄は愛する夫の字、ファミリーの証である。その大胆ともいえる発想はもちろんだが、実際に形にしてしまう力量にも閉口させられる。何より窮地を力に変えてしまう美紅の器の大きさはあっぱれという他なく、絶賛に値するものだった。
 父の隼も弟の焔も脱帽だと言って感嘆し、母の香蘭などは感動で堪らずに涙する始末である。
 そうしてドレスが出来上がると、風は自らのタキシードのジャケットを差し出しながらこう言った。
「メイ、俺のにも描いてくれないか」
「え……? でも貴方のは何ともなっていないのだし……」
 わざわざ汚すこともないと美紅の方が驚きを隠せない。だが風はどうしてもお願いしたいと言って聞かなかった。
「描いて欲しい図柄があるんだ。それは貴女の肩に入れた黒蘭の花だ。貴女のドレスには俺の龍を、俺のジャケットには貴女の蘭を。これ以上ない夫婦の絆ではないか?」
 その言葉に美紅は瞳を見開いた。
「貴方……。本当によろしいの?」
「ああ。もちろんだ! 二人で作り上げる世界にふたつとない最高の礼服にしよう」
 そう言って手を取り、固く握り締める。若き夫の愛情が滲み出る言葉に、美紅もその美しい睫毛を濡らしながらうなずいた。



*マフィアの花嫁3

「それはいい! 素晴らしい考えだ」
 父の隼からも大絶賛を得て、新郎のタキシードには黒蘭の花模様を咲かせることに決まったのだった。
「焔、ちょっと頼まれてくれ」
 美紅が筆を手に描き始めると、父の隼が次男坊の焔にそっと耳打ちをした。
「急ぎですまんが花屋に行って蘭の花を調達してきてくれないか? 色は三色、黄色と黒と白だ。俺たち家族、男三人の字にちなんだ蘭の生花をドレスの襟に添えてやりたい。ついでに俺たちも自分の字の色の蘭をコサージュとして胸に飾るぞ」
 なるほど。蘭の花は周家の妻に贈られる証だというのは裏社会の人間なら誰もが知っている話だ。それに男三人の字に合わせた色がプラスされれば、家族が一丸となって美紅を大切なファミリーとして認めたという公の宣言にもなるといえる。勘のいい者ならば、以後彼女に手出しをするなという暗黙のお達しと取るだろう。
 焔も即座に父の考えを理解してか、『分かった!』と言って急ぎ控室を後にした。
 蘭の花を襟回りに飾るというのなら、式と披露宴の間は枯れないように花の根元に水分や栄養剤を仕込む細工も必要だろう。幸いホテルには宴席専用の生花部が入っている為、事情を話せば適切に用意してくれることだろう。焔と共に友人の鐘崎と一之宮も付き添って、大至急調達に向かったのだった。
 控室では美紅がタキシードのジャケットに蘭図を描き終えた頃、焔たちが息咳切らして生花を持ってやって来た。
「親父! 間に合ったか?」
「ああ、焔。ご苦労だったな。ちょうど描き上がったところだ」
 それからは衣装部が総出の勢いでドレスの襟に蘭の花を括り付けていった。
 そうして着替えが済むと、シルクタフタのスカート部分に男々しく舞う黒龍図と、襟元をぐるりと囲んだ三色の蘭花が調和して、それは見事なものに出来上がった。敢えて水墨調の柄の入った生地で仕立てたかのようだ。美紅の美しさがより一層ドレスを引き立てて、壮観である。
「素晴らしいじゃないか、美紅よ! これこそまさに世界にたったひとつの愛に溢れたウェディングドレスだ」
 父の隼が手を叩いて祝福の言葉を口にする。母の香蘭も感激に打ち震えながら『世界一誇らしい私の娘だわ!』と言って歓びの涙を拭ったのだった。
 風と美紅の新郎新婦もまた隼から贈られた三色の蘭の襟飾りに感激し、調達に奔走してくれた弟・焔とその友人たちにも心からの感謝を述べた。
 そうして式場に姿を現した新郎新婦を目にするなり、会場からはどよめきの声が上がった。まあ当然であろう。



*マフィアの花嫁4

「なんと……お珍しいお衣装ですな」
「え、ええ……。お式に柄物のドレスとは驚きましたわ」
 参列者たちがザワザワと騒ぎ出す。美紅の描いた絵は確かに巧みではあったものの、よくよく見れば元は純白と思われる生地に墨で後から描き付けたことが明らかだ。
「アタクシはお母様の香蘭様とは社交界でよくご一緒させていただいているんですが、ドレスはオートクチュールの純白とうかがっていましたのに……」
「何かあったのかしら?」
「余程のご事情かしらね?」
 誰もがふと脳裏に浮かんだ想像を口にし始める。
「まさかですけど、嫌がらせでドレスに墨汁でも撒かれたのかしら?」
「まあ恐ろしい……!」
「でも御嫡男様は方々から引き手数多で憧れの的でしたもの。有り得ない話じゃないかも知れませんわね」
「まあ……なんて酷いことを……! どなたの仕業か知りませんけど、やった張本人は随分と度胸がお有りですわね。仮に嫌がらせだとしても、周家を敵にまわすなんて正気の沙汰じゃありませんわ」
「花嫁さんもお心を痛めていらっしゃるでしょうに……。アタクシなら泣いて騒ぐところですわ。せっかくの晴れの日だというのにお気の毒なことね……」
「ファミリーのことですもの。もう犯人は分かっていらっしゃるのかしらね?」
「犯人だなんて、あなた! ファミリーに聞こえたらアタクシたちもただじゃすみませんわよ!」
 既に式が始まっているというのに、場内では至る所でヒソヒソ話が絶えずに奇妙な空気が蔓延していく。
 口では気の毒だの恐ろしいことだのと言いながらも、皆一様に心のどこかでは真相に興味津々というのが明らかだ。口さがない婦人たちがざわつきを見せる中、そのいでたちから何があったのかをいち早く理解したらしいお隣台北と上海のマフィア頭領が、わざと周囲に聞こえるような張りのある声音でこう言った。
「何と素晴らしいカップルだ! 風君はこれ以上ない器の大きい嫁御を娶られましたな」
「仰る通りですな。お父上の頭領・隼もさぞご自慢のことじゃろう。将来も御安泰で先が楽しみじゃわい」
 歓喜するように瞳を細めて絶賛したのを機に、参列者たちも二人の衣装について言及することはなくなった。
 確かに二人の重鎮の言う通りである。祭壇に立つ新郎新婦は見るからに幸せそうで、どう見ても憂いの表情には見えない。嫌がらせなどどこ吹く風の如く、またそれに対して焦れるでも憤るでもなく堂々たる姿はあっぱれという他ない。
 加えて花嫁の襟元と家族の胸に付けられた揃いの蘭花が、押しも押されもしない絆を物語っている。さすがは香港の裏社会を仕切るファミリーだ。それにふさわしい実に肝の据わった新妻だと、美紅の評判が轟くことになり、結果としては普通に純白のドレスとタキシードで行うよりも遥かに意味のあるものになったのは言うまでもない。
 香港の裏社会を仕切る周隼を継ぐ次代頭領はおそろしく器の大きい、そして美貌も他の追随を許さないほどに美しく、またファミリーの誰からも大切にされて、ケチのつけようがない妻を娶ったと大絶賛されることとなったのだった。
 また、お色直しには、風の方は墨色の絹地にそれより少し濃い漆黒糸で刺繍された龍図が雄々しい中華服と、美紅の名にちなんで真紅に黒い蘭が咲き誇るチャイナドレスでのお披露目となり、その艶やかさに会場内は感嘆の溜め息で溢れかえった。
 ウェディングドレスの襟元にと父から贈られた蘭の生花をお色直しでは髪に飾りたいと言った美紅の気持ちにもファミリーは大感激であった。
「なんてお美しい奥様かしら」
「姐様としての風格も充分な素晴らしい方ですわね!」
「御主人の風様も本当に麗しい男前でいらっしゃいますわ!」
 所々からそんな声が上がり、披露の宴は大盛況の内に滞りなく済んだのだった。






*マフィアの花嫁5

 控室に戻って着替えを済ませ、式場を後にするファミリーは幸せに満ち溢れていた。
 突然の嫉みによってウェディングドレスを汚されるという災難を見事感動の一着へと変えた美紅の機転によって、その絆も更なる強靭なものとなり、ここに次世代を継ぐ若き頭領夫婦が誰からも絶賛される形で誕生したのであった。
「次は焔、お前さんの番だな」
 父の隼が次男坊の焔に向かってそんな期待を口にする。彼もまた、兄に似て男前ゆえ引き手数多であることに違いはないのだが、意外にもまだ生涯を共にしたいという唯一無二の相手には出逢えていないようだ。
「そうだな、俺も兄貴みてえに素晴らしい伴侶を見つけられるように頑張らねえと!」
 タジタジながらも照れ臭そうに頭を掻いた頼もしいこの弟に周風と美紅のような強い絆で結ばれる相手ができるのは、この晴れの日から二年足らず後のことであった。
「兄上、義姉上、末永くお幸せに! 新婚旅行が済んで落ち着いたら是非東京へも遊びに来てください。待ってるぜ!」
「ああ、焔。そうさせてもらうよ。楽しみだ!」
「遼二さんと紫月さんもありがとう! 三人でまたいつでも私たちの新居へもお立ち寄りくださいね」
 この日の為にわざわざ東京から駆け付けてくれた弟と友人たちに礼を述べると、風と美紅の若夫婦は睦まじく寄り添いながら微笑んだのだった。

 ふと空を見上げれば、五月晴れに浮かぶ雲が暁に染まり、香港の巨大なビル群の壁面を眩しいくらいの夕陽が照らしていた。
「そういえば……あの日もこんな空だったわね。貴方に初めてお食事に連れていってもらった……」
「ああ、初デートの時だな。二人で星光大道を歩いたのが昨日のことのようだ」
 その帰り道で贈られた真紅の薔薇の花束を、美紅は今でも大事にしていて、ブリザードフラワーにしたそれを新居に飾っていた。
「今日からはこのお花も一緒に飾るわ」
 父から貰った三色の蘭花を大事に胸に抱えながら美紅は言った。
「それもまたブリザードフラワーにするのかい?」
「ええ、そうよ。ブリザードフラワーにしておける時期が過ぎたら今度はドライフラワーにして我が家の家宝にするわ!」
 貴方にいただいた薔薇と一緒にと言って微笑む横顔が堪らなく愛おしく、可愛くてならなかった。
「そうだ、メイ! 俺たちに娘ができたら、その子の結婚式にはこの花をブーケにして贈ってやるのもいいな。もしも息子だったらその嫁さんに贈ろう!」
 早々ともう自分たちの子供の結婚式のことまで想像を巡らせる風に、美紅は大きな瞳を更に大きく見開いてはまん丸くしている。
「おいおい、えらく気が早いことだな」
 父の隼が呆れたように笑う傍らで、
「まあ! それならお爺ちゃんとお婆ちゃんもそれまで元気でいないとだわね!」
 母の香蘭までもがすっかり孫の将来を思い描いている。
「だったら兄貴、早速今夜から励まねえと!」
 弟の焔が肘でクイクイっと肩を突きながら不敵に笑う。
「おいおい、下ネタかよ」
 照れ隠しの為か、風が真っ赤に染まった頬の熱を隠すようにして弟の首根っこを抱え込む。
 その場の誰もが冷やかすように肩をすくめては、ドッと賑やかな笑い声に包まれた。

 暁に染まる空が次第に深い蒼色へと変わり、やがて香港の見事な夜景が輝き出す中、幸せに満ちた笑い声はいつまでも止むことなく、街へ夜空へと溶け込んでいったのだった。

黒蘭を愛したマフィア - FIN -



【番外編】
*素晴らしき贈り物


 周風と高美紅の結婚式が行われる三月ほど前のことである。
 楚優秦が引き起こした事件以後、風は美紅を一人で外出させることは控えていた。必要な物の買い出しなどは必ず自分が付き添うか、仕事で時間が取れない時には母の香蘭と護衛係を数人つけての重装備である。美紅もそんな風の心遣いを有り難く思っていたものの、ほんの少し買い物に出掛けるだけで何人もの側近たちを煩わすのは申し訳ないとの思いから、極力邸内で過ごすことにしていた。
「メイ、毎日家に篭りきりにさせてしまってすまない。出掛けたい時は遠慮せずに言ってくれな」
 割合早めに帰宅できた日の夕食前、風がスーツを脱ぎながらそんな気遣いを口にする。高楼の窓から夕陽を眺めながら、美紅は婚約者の上着を受け取ってハンガーに掛けながらクスッと微笑んでみせた。
「ありがとう黒龍。でも大丈夫よ。実は私、今ちょっと夢中になっている趣味があるの。家でしかできないことだからちょうどいいのよ」
「趣味? それは初耳だね。いったいどんなことに夢中なのかな、我が奥方は!」
 風が興味ありげに訊く。
「ふふ、まだ内緒よ?」
 奥ゆかしく口元に手を添えて微笑む仕草がなんとも愛しい。
「おや、俺にも秘密の趣味なのか?」
 ますます気になるといったふうに風が眉根を寄せてみせる。
「うふふ、そうよ、旦那様。今はまだ秘密! でもあと数日で貴方にもお伝えできるわ」
 人差し指を唇に持っていき、微笑む姿が可愛らしい。
「そうか。じゃあ楽しみにしているよ」
 風はやれやれと笑いながら部屋着へと着替えを終えた。
「貴方! 今日のお夕飯は海老尽くしよ。お母様に新鮮な海老をたくさん戴いたの!」
「ほう? それは楽しみだな。食事の支度まで貴女にさせてしまってすまないが、貴女の料理は本当に旨いのでね」
 これまでは邸の調理人たちが作ってくれていたのだが、美紅が住むようになってからは彼女の手料理の日も増えているのだ。とはいえ、朝や昼などは変わらずに厨房が用意してくれるので、美紅にとっては食事の支度も楽しみのひとつであった。
「ところでメイ、来週はいよいよ日本だ。遼二と紫月の披露宴だからね」
「そうでしたわね。そろそろ支度を始めないと。お父様とお母様はチャイナ服で出られるそうだから、お式には私たちも一緒でいいかしら?」
「そうだね。それと今回は披露宴の後に観光に出掛けるぞー! 弟の焔が京都を案内してくれるそうだ」
「まあ、素敵! 私、一度行ってみたかったのよ」
 春節を過ぎたばかりの今の季節、日本はまだ冬の最中だ。
「日本はこちらよりも寒いからね。コートなどはあっちに行ってから一緒に選ぼうと思っている。焔の家からは銀座が近いから色々と買い物も楽しめると思うぞ」
「まあ、銀座! 素敵ね。雑誌やインターネットでしか見たことないけれど、たくさんのショップがあって素敵な街よね。そういえば香港は冬でもそんなに寒くないけれど、日本では雪が降ったりするのよね?」
「そうだな。俺たちは寒さに慣れていないから、焔が色々と準備してくれているようだぞ」
 弟の焔によれば、香港育ちの人間には驚くほど寒いだろうとのことで、暖かい靴下や手袋、軽く羽織れるショールなどを家族の皆に用意しているそうだ。
「焔さんにもお世話をお掛けするわね。有り難いことだわ」
 美紅はそんな義弟への土産として、こちらでしか手に入らないような懐かしい香港の乾物食材などを用意していた。鮑やフカヒレといった高級食材である。今の時代だからインターネットで何でも入手できるといっても、そこは気持ちである。弟や彼の側近を含め、邸の者たちへの土産などにも気遣ってくれる婚約者を風もまたより一層愛おしく思うのだった。

 そうして香港を発つ前日の夜である。風が帰宅すると、すっかり支度の整ったスーツケースが綺麗に部屋の隅に並べられていて、準備も万端のようだ。こんな時に妻君がいると本当に有り難いと、風は感激に瞳を細めていた。と、ここで美紅が何やら後ろ手に頬を染めて、おずおずと近付いて来た。
「貴方、これ……どうかしら?」
 少々遠慮がちに手にしていた物を差し出しては、恥ずかしそうに上目遣いで微笑んでみせる。それを見た瞬間に、風は驚いたように瞳を見開いてしまった。
「これは……」
「この間から作っていた物ですの。貴方にと思って編んでみたのだけれど、もしかしたら少し大きいかも知れないの……」
 ちょっと心配なのと言いながら手渡す。小さくて着られなかったらいけないと思ったそうで、サイズが合うかと不安そうに笑う。それはアラン模様が見事なセーターであった。
「まさか……これを俺の為に? 貴女が編んだのか……?」
「ええ。日本に行くのにちょうどいいかと思って……」
 秘密にしていた趣味というのはこれのことだったのだ。
「なんて見事な……」
 それは白を基調に、所々水色と墨色の模様が入っていて、ふっくらとしたとても暖かそうな一着だった。
「貴方のお名前の風は水色のイメージがあって、私……」
 だから水色の糸と、それに字に合わせた黒も少し入れてみたのよと言う彼女を、風はセーターごと抱き締めてしまった。
「メイ……貴女という人は……! こんなに素晴らしいサプライズは初めてだよ! まったく……どれほど俺を喜ばせれば気が済むんだ……!」
 大感激というように声を震わせて喜ぶ様子に、美紅もホッと胸を撫で下ろす。
「良かった……。手編みなんて今時どうかしらと思ったのだけれど、素敵な本を見つけてしまって。どうしても作ってみたくなってしまったの」
「嬉しいよ、美紅! 最高のプレゼントだ!」
 風はセーターを広げて天高く持ち上げると、部屋の中でクルクルと回っては小躍りして喜んだ。
「早速袖を通してもいいか?」
「ええ、もちろん!」
 風が頬を紅潮させながらすっぽりと頭から被ると、確かにサイズは多少ゆとりがあるが、着やすさとしては抜群だった。
「メイ、とても暖かいよ! それに肌触りも最高だ!」
 風は少年に戻ったかのように大はしゃぎで、ヒョイと美紅を姫抱きすると、そのまま姿見の前まで行っては更に感嘆の声を上げた。
「どうだ? 似合うかい?」
「ええ、とっても! 貴方は何を着ても素敵だけれど、私の編んだ物を着ていただけてとっても嬉しいわ」
「メイ、ありがとう! ありがとうな、本当に! 一生大切にするからな!」
 風の感激はとどまるところ知らずで、
「そうだ! 親父とお袋にも自慢しよう!」
 そんなことを言って、姫抱きのままで部屋を出て行こうとする。
「黒龍ったら! 降ろしてちょうだいー! このままじゃいくらなんでも恥ずかしいわ……」
「いいじゃないか。貴女は俺の妻になるんだ。夫が妻を抱いて、何の恥ずかしいことがあるものか!」
 悪戯そうに笑いながらも降ろしてくれない未来の亭主に、美紅はパタパタと身を捩っては頬を染めた。
 そんな折だ。部屋を出ようと扉を開けた瞬間、目の前に側近の曹が立っていて、あわや衝突寸前。双方共に驚きの声を上げた。曹も明日からの東京行きについて行くので、その所用だったようだ。
「おう、曹! ちょうど良かった。見てくれ!」
 どうだ、素晴らしいだろうと風は得意顔だ。
「なに……! まさかお前、そのセーター……!」
「我が妻の手編みだ」
 未だその妻を抱えたままで、ウンウンと自慢げに胸を張りながら鼻息も荒くする勢いだ。
「周風、こいつぅ……! この幸せ者!」
 曹が片眉を上げながら肘でツンツンと突く。本来なら主人と側近にはあるまじき行為だが、風と曹とは幼い頃からの馴染み、もとい本人たちに言わせれば腐れ縁だ。立場以前に根っから信頼し合っている大親友なのだ。
「くぅー、羨ましいねぇ! 日本は寒いからってんで、奥方が編まれたのだなー! 実に羨ましいことだ!」
 曹は冷やかしつつも、『似合ってるぜ!』と言って絶賛した。
「で? これから親父殿に自慢しに行くつもりだな?」
 曹にはすっかり見抜かれているようだ。
「ご名答だ!」
 風も笑い、美紅は未だ降ろしてくれない亭主の腕の中で茹で蛸状態だ。
「黒龍、その前に降ろしてちょうだい! 本当にもう……こんな格好でお母様たちの前に出られないわよー」
「奥方殿、そのような心配はご無用ですぞ。あの親父殿のことです、対抗意識丸出しで母上様を抱き上げるくらいはなされますよ、きっと!」
 曹がわざとかしこまって執事の如く胸に手を当てながらそんなことを言う。風の方も友の援護射撃に機嫌は上々だ。
「さすがは我が友だ。よく分かっている」
「まあ! あなたたちったら……」
 調子のいいことを言っちゃってと美紅はますます頬を染め、
「でもダメダメ! 本当にもう降ろしてちょうだいな!」
「却下だ。絶対に降ろさんぞー」
「もう……! 貴方ったら……」
「では奥方様、賭けましょう! 親父殿が対抗意識を出して母上を抱き上げるかどうか」
「俺は抱き上げる方に賭けるぞ! きっとこーんなふうに目を三角に吊り上げながら、『私なら片手でできる』とか言い出しそうだ」
「違いない! 俺も抱き上げる方に一票だ!」
「嫌よ、もう! あなたたちったらー」
 三人で子供のようにはしゃぎ合う。
 賑やかな香港の夜が幸せと共にゆっくり更けていくのだった。

- 【番外編】素晴らしき贈り物 FIN -



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