極道恋事情

24 謀反1



◆1
 香港――。
 夜も更けてきた秋の初め、路地裏にある一軒のバーでのことだ。
「クソッ――! 周風の野郎……この俺をないがしろにしやがって!」
 既に客足も少なくなったカウンターの隅に腰掛けて、勢いよくロックグラスをテーブルへと叩きつける男が一人。
 ダウンライトが照らしている黒髪には少々行き過ぎというくらいにヘアワックスが塗りたくられており、まぶしいほどの艶を放っている。ダークスーツに身を包んだその男は、一見しただけで堅気ではない雰囲気をまとっていて、外見だけでいえば裏社会に生きるそれなりの立場の者と受け取れた。年は四十代くらいだろう。
 彼の暴挙を見るともなしにポーカーフェイスを装っていたバーテンダーからすれば、聞かずともこの辺りを治める一大マフィアに与する者なのだろうということが認識できた。
 そんな男が一杯目のグラスに口をつけるなり怒り任せにグラスを叩き置いたとなれば、いかに客の事情に首を突っ込まないのが鉄則の仕事柄といえど、そちらに視線を取られずにはいられなかった。
 焦れている男の脇には彼の手下と思われる男がもう一人――宥めるように機嫌を取っている。
「いったいどうしたってんです兄貴! また周風と揉めたってわけですかい?」
 周風――一般人であるバーテンにとってもその名だけは耳にしたことがある。まさに一大マフィア頭領一族の名だ。風といえば確か長男坊である。
 ここは中環地区にあるので、わりと頻繁にそちら関係の客も訪れてくる。カウンターにマフィアが座ったとしても今更驚きもしないが、それにしても頭領の息子の名が出るとはさすがに興味を引かれずにはいられない。バーテンは何事もなかったかのようにトーションでグラスを拭いながらも、つい耳が彼らの会話を追ってしまうのをやめられずにいた。

 男たちの会話は続いている。

「てめえも知ってるだろうが! つい昨日のことだ。いよいよボスの跡継ぎを本格化する前触れだとかで長男の周風がブレーンの体制を整え出した。側近から幹部、状遣いや御用係に至るまで、ありとあらゆる役目に関する人事が発表されたんだ」
 ボスとは言わずもがな組織を束ねる周隼のことだろう。次々と飛び出す大物の名に、バーテンは危うく心臓が縮む思いでいた。
「ああ、ええ! もちろん知ってますよ! 兄貴はどのお役目に抜擢されるのかって、俺ら下っ端の間でも噂で持ちきりでしたぜ。当然側近は間違いねえでしょうけど、もしかしたら四天王に選ばれるんじゃねえだろうかって皆で期待してましたから」
 四天王とは数ある側近の中でも特に秀でた者のことだ。言葉の通り精鋭の四人が選ばれる。常にボスと行動を共にし、機密事項なども共有する。それに抜擢されれば、ボスに準ずる立場として下の者たちからも尊敬される非常に名誉なことといえた。
「――それだ……。俺も当然そのつもりだった。だがな……蓋を開けてみりゃ四天王どころか側近ですらねえ……! この俺がただの兵卒扱いだ!」
「まさか――」
 聞いていた舎弟の方も絶句状態で口を大きく開けている。
「事実だ!」
 今一度ドン――ッ! とテーブルにグラスを叩き付けた男の顔は、怒りの為か茹で蛸のごとく今にも火を噴きそうなほどであった。



◆2
 事の発端はまさに今しがた男が言った通りで、マフィアの次期頭領を継ぐ周風――つまりは周焔の兄であるが――が自分の世代の組織を固める為に側近などの人事を正式決定する動きが出始めたことに遡る。
 この男も現頭領である周隼の全盛期には幹部とまではいかないまでも、まあ将来的にはそれなりの地位に取り立てられるだろうと思われていたものだ。
 ところがいざ次世代のブレーンが決まってくる段階になると、扱いに不満を覚えるようになってきたのだ。もはや側近どころの話ではなく、下手をすると新入りの若い者らにも劣るような立場しか与えられず、当然男としては納得がいかなかったわけである。
 前々から長男の周風とはそりが合わない向きがあったものの、こうまであからさまに酷い扱いを受けようとはさすがに想像もつかなかったというのが実状だ。
 だが当の周風から言わせれば、この男が陰で後ろ暗い事に手を染めているのを知っていた為、こういった処遇にしたという理由があった。むしろ破門にせずに組織に置いてやっているだけでも分厚い待遇というところなのだ。
 男の名は羅辰といった。年は四十半ばで、若い頃から組織に入った人物である。
 外見は厳つく体格もいい。マフィアとしての風格という点ではなかなかであるが、野心家で、己の利益の為なら他がどうなろうと構わないやり方と、筋者堅気の見境もなしに平気で人を騙して陥れるという数々の悪行が目立つ男だった。周風としては自らの側近として認めたいとは思わなかったのだ。
 羅の方でもそんな風のことを綺麗事しか言わない温室育ちのお坊ちゃんと見下しているきらいがあって、これではそりが合わないのも当然といえよう。
 そこへもってきて風の人事に腹を立てた羅辰は、これまでの鬱憤が一気に爆発した――とまあそんな具合だった。
「俺はファミリーを抜けることに決めたぜ。今はまだボスが健在だが、将来的にあの甘ちゃんの下で働くなんざまっぴらだ!」
 酒を煽りながらそう吐き捨てる羅に舎弟の方も驚き顔で閉口してしまった。
「ですが兄貴……ファミリーを抜けてこれからどうしようってんです? もちろん兄貴が抜けるっておっしゃるなら自分はついて行きますよ? けど……俺らみてえな半端者がマトモな仕事に就くなんざ、いささか無理ってもんだと思いますがね……」
「は! マトモな仕事に就こうなんざ甚だ思っちゃいねえわ! それより俺はてめえで組織を構えて周風のヤツを見返してやるつもりだ」
 憤る兄貴分の言葉に舎弟は驚き顔で眉をひそめた。



◆3
「見返すですって? ですがどうやって?」
「俺がファミリーを抜けりゃあ周風のヤツもしてやったりだろうからな。厄介払いができて清々したってな面をしやがるのは目に見えてる! だが、タダでおさらばしてやるつもりはねえ……! 抜けるついでにヤツの鼻っ柱を挫いてやろうと思ってな」
「鼻っ柱を挫く……ッスか? まさか周風の嫁でも寝取ろうってんですかい?」
 あの姐様はめちゃくちゃ別嬪だもんなぁ、と想像しただけで鼻の下を伸ばしている。
 風の妻というのは確かに超がつくほどの美女で、ここ香港のみならず近隣の裏社会でも羨ましがられているほどだった。何より当の周風が溺愛も溺愛というくらい惚れ込んでいて、とにかく目の中に入れても痛くないくらいの勢いで大事にしているのだ。そんな妻を横取りすれば、風にとっては何より痛手となるだろうと思うわけだ。
 ところが羅の目的はそこではなかったようだ。
「はん! 確かにイイ女にゃ違いねえが、そんなもんを掻っ払ったところで大した銭にはなりゃしねえ。仮に闇市に売っ払ったとしてもたかが知れてらぁな」
「はぁ、そんなもんッスかねぇ。あれだけの別嬪なら相当高く売れるんじゃねえかと」
 まあ金になるならない以前に、あんな美女を好きにできるなら、それだけで万々歳だと舎弟は浮き足立っている。ニタニタと緩んだ表情からは、ともすれば兄貴分が飽きた暁には自分もおこぼれに与れるかも知れない、と、そんな妄想を描いているのが丸分かりだ。
「てめえは相変わらずに考えが小せえったらねえな。いいか、女なんざ抱くだけならどれも一緒だ。特に美人は三日で飽きるって言うだろうが。俺が欲しいのはそんなちっぽけなもんじゃねえ。周風を、いや……なんなら周一族をひれ伏せさせられるくれえの金と権力よ!」
 金さえあれば権力の方は自然と付いてくる、羅はそう言ってグビリとグラスを空にした。
「おい、バーテン! これと同じ物だ」
 空のグラスをテーブルの上で滑らせて、お代わりを要求する。バーテンが『かしこまりました』と酒の準備を始めるのを横目に窺いながら、前々から思っていたことだが――と言って羅は自らの胸の内に秘めていたらしい計画を暴露し始めた。
「周一族が中国の山ン中にある鉱山の開発に関わってるのはお前も知ってるだろうが」
「ああ……ええ。少数民族の為とかなんとか言って道路開発に助成した結果、偶然にもえらい鉱石を掘り当てちまったっていう例の話ですかい?」
「そうだ。そこで掘り出された原石をごっそり掻っ払っちまおうって寸法さ」
 ニヤりと男は下卑た笑いを浮かべてみせた。



◆4
 羅の計画では、他にも自分たちと同じように周一族のやり方に不満を抱いている者は少なからずいるので、その者たちに声を掛ければ鉱山から原石を運び出す手段や人員は割合容易に整うだろうという。
 ただ、問題がひとつ。肝心の鉱山に入るには現場での厳しい警備によって、周家の血筋の者が直に出向かない限り、簡単には原石の保管場所まで案内してはもらえないらしいということだった。
「あのファミリーはな、年に数度は必ず一族の誰かが現地に出向いて視察を行っているんだが、代理の者だけで行ったんじゃ山にはおろか麓の村にすら入ることもできねえって話だ」
 そこさえクリアできれば後の手筈はすっかり整っているのにと男は悔しそうに歯軋りする。
「こうなりゃ一族の誰かを無理矢理にでも拉致して鉱山まで引きずって行くってのも手だが、さすがに香港にいるボスと長男の周風には手が出せねえ。周りにゃ鉄壁ってくれえのガードが眼を光らせていやがるからな。唯一可能なのは日本の東京にいる次男坊だが……俺たちが犯人だとバレたらそれこそボスは黙っちゃいねえだろう」
 次男を拉致して薬物でも盛ってしまえば、鉱山まで連れて行く自体はなんとかなるだろうと羅は言う。だが問題はその後だ。如何に香港よりもガードが甘いとしても、次男坊の側にも精鋭の側近と言われる者たちが付いている。すぐに香港のファミリーの元へと報告がいくのは間違いない。
 犯行を別の誰かになすり付けるにしても、さすがにそこまで都合のいい輩など思い付かないと言ってはまた歯軋りを繰り返した。
 そんな様子を見ていた舎弟が思い付いたように身を乗り出してこう言った。
「そうだ! でしたら……兄貴! 耳よりな話がありますぜ!」
「耳よりな話だ?」
 羅は怪訝そうに眉根を寄せながらも半信半疑で舎弟を見やった。
「実はちょいと面白い話を耳にしましてね。兄貴もご存知でしょうが、つい数ヶ月前のことですよ! 日本の九州にある闇カジノに出入りしていて、しょっ引かれた野郎がいたでしょう。なんでもそこで売り買いしようとした若い日本人が実は周ファミリーの次男坊の連れ合いだったとかで、ファミリーからえらい制裁を食らったっていう」
「ああ……そういやそんなことがあったな。あの野郎、陳とかいったか。そん時の一件が仇になってファミリーから絶縁されたと聞いたがな」
 二人が話しているのは半年ほど前に冰と里恵子が拉致され、九州の博多で繰り広げられた事件のことだ。



◆5
「いえ、それなんですが――実際は絶縁されたわけじゃなく、野郎の方からファミリーを去ると申し出たって話ですぜ」
「――!? 自分から抜けただと? お前、陳のヤツとは親しかったのかよ」
「ええ、まあ。歳も近かったですし、割とよく話はしてましたよ。ヤツによれば闇カジノでファミリーの次男坊に直接叱責を食らって、その時のオーラにビビッちまったようでね。自分にはこの道は合わねえと実感したんだとか。釈放されてからすぐにファミリーに謝罪がてら組織を抜けることで赦して欲しいと言ったそうです」
 それによると、陳は故郷へ帰って今後は地道にやっていくことに決めたらしいとのことだった。
「――で、その陳が何だってんだ。まさか野郎を犯人に仕立て上げるとでも言うつもりか?」
「いえ、そうじゃねえです。ヤツはもう裏の世界に戻ってくる気はねえでしょうから、そっとしといてやるのがいいと思ってます。ただヤツが闇カジノで売り買いしようとしてた次男坊の連れ合いですが――どうもその売買自体を依頼した野郎ってのが、周家の次男坊に気があったらしいんですわ」
「気があっただと? 次男ってーと――名は確か周焔だったな」
「ええ。その時の依頼者ってのは周焔が日本の東京で経営している商社に勤めてた元社員だそうですが、恋にとち狂うあまり周焔の連れ合いを拉致って異国のマフィアに売り飛ばそうってな計画をしてたんだとか。陳の他にも台湾やマカオから来てた連中が名乗りを挙げてたようですが、結局カジノが検挙を食らったことで話はオジャンになり売買にも失敗――元社員の野郎は当の周焔からえらい仕打ちを食らったとか」
「は――当たりめえだわな。元社員だか何だか知らんが、素人がマフィアに喧嘩を売るなんざ頭がイカレてやがる」
 周一族に対してはいけすかない思いがあるものの、異国の、それも素人がマフィアを相手に己の我を通そうなどお門違いにもほどがあると、憤りを隠せない。羅にとって、マフィアとしてのプライドと周一族に対する不満とはまた別次元の話のようだ。
「まあ、奴さんとしては周焔が香港マフィアのファミリーだとは知らなかったようですがね。落とし前で殴る蹴るの暴行を食らったとかで、どうも相当恨みに思っているらしいって話でね。いつか絶対復讐してやるんだって息巻いてるらしいんです」
 陳とその元社員の男は闇カジノでの一件の際に留置を通して顔見知りになったらしく、互いに釈放されてから一緒に酒を飲んだことがあったらしい。そこで周焔についての執拗な愚痴を耳にしたそうだ。
「で、結局のところ周焔はてめえの嫁に手を出されたってのに、殴る蹴るだけでその元社員って野郎の始末すらしなかったってのか? 周焔ってのも案外だらしのねえヤツだな」
 異国のマフィア――それも頭領の身内に手を出して殺されなかっただけマシだと鼻で笑うところだが、羅にとってみればそんな周一族の甘い沙汰も気に入らない原因のひとつだったようだ。



◆6
「あのファミリーは何かにつけて甘過ぎる! ボスの周隼もそうだが、長男の周風なんぞはそれに輪を掛けた甘ちゃんぶりだ! 風のヤツに比べりゃ弟の方はまだ気概がある方だと思っていたが、所詮は甘ちゃんの血筋だったってことか……。俺だったら殴る蹴る程度で許すなんざ理解できんな。とっくにあの世へ送ってるだろうぜ!」
「確かにそうですね。まあファミリーのそういった温情っていうか、人柄に惹かれて寄ってくるヤツも後を絶たねえのは事実ですが……」
「はん! マフィアは仲良しごっこじゃねえんだ! だから俺は自分で組織を打ち立てて、本物のマフィアってのはどういうもんかってのを分からせてやりてえわけよ!」
 それよりも、その周焔の連れ合いに手を出したという元社員の話が鉱山での原石略奪にどう関係があるというのだと羅が詰め寄る。舎弟の方はちょっとした悪知恵があるんですがと言って、ニヤッと笑ってみせた。
「どうです? その元社員ってのを仲間に引き入れて、最終的に犯人に仕立て上げるって手もあると思うんですが」
 拉致と略奪は全てこちらで行うとして、香港のファミリーが現地に駆け付ける頃にはその元社員だけを置き去りにしてしまえば、犯行は彼一人になすり付けられるのではというのだ。
「聞くところによるとそいつは闇カジノでの一件に失敗した後も、わざわざ単身で東京に出向いて周焔の連れ合いを殺そうとしたんだとか。たまたま運悪く焔が一緒だった為にそれも失敗に終わったそうですが、警察沙汰になって実の親からも縁切りを食らったらしいですぜ。焔を嵌める為に力を貸してやると言えば案外簡単に話に乗ってくると思うんですがね」
「ふむ……」
 羅はしばし考え込んでいたが、悪くはない案だと言って身を乗り出した。
「確かに執拗な野郎のようだな。周焔への復讐も望んでいるようだし、ボスも三度目ともなればそいつが犯人だってことで納得されるだろう。上手く鉱山に潜り込めさえすれば後は何とでもなる。積荷を終えたら周焔と一緒にその野郎を置き去りにしてくればいいか……。問題は周焔を拉致した後にどうやって言うことを聞かせるか――だが」
「そうですね。噂によると次男坊の焔ってのは兄貴の周風よりも野生味のあるお人らしいですし」
「ああ……。兄貴の方は純粋な温室育ちだが、弟は妾腹ってこともあってそれなりの苦労はしてきたんだろう。二十歳そこそこで香港を離れて、日本の東京で起業――、大成功していると聞くしな」
 能力も気概も持ち合わせている精鋭なのは間違いない。そんな男だ。仮に暴力で脅したとて、素直に従うとは思えない。



◆7
「だったら……アレを使うしかねえか」
 羅はやや緊張の面持ちで拳を握り締めた。
「アレってのは何です?」
「……薬だ。拉致る時にゃ催眠剤でも盛ればいいと思っていたが、どうせならもっと徹底的なブツを使って、ヤツの思考能力を奪っちまうのも手だな」
「思考能力を奪う――ですか? そんな都合のいい薬があるんですかい?」
「ああ……。禁止薬物のひとつだが……前にちょっとした伝手で手に入れた物だ。これまではさすがに使ったことはなかったんだが」
 男が口にした薬物の名はとんでもない代物であった。
「そいつはデスアライブといってな、通称DAと呼ばれているめちゃくちゃアブねえ代物よ。神経系統を狂わせるとかで、一服盛るってーとこれまでの記憶が曖昧になっちまうそうでな。そいつを食らったが最後、自分がどこの誰だかも分からなくなるそうだ。元々は戦闘ロボットを作り出す為に開発されたっていう闇の薬物だが、今じゃ生産すら禁止になってる」
「……うへえ、随分とまたおっかねえ代物ですね。そんな大層なブツを兄貴は持ってるってんですかい?」
「まあな。周焔を掻っ攫うことに成功したら、ヤツにそれを盛って言うことを聞かせ、鉱山に潜り込む。記憶喪失も同然だから、せいぜい親身になって『あなたはこの鉱山の開発に力を入れて注いできた御方なんですよ』とでも言えばいい。腑抜けの焔は鉱山に出入りする為のただの鍵ってわけだ」
「なるほど! それならなんとかなりそうですね」
 デスアライブ、通称DA。以前に地下の三千世界で鐘崎が食らったことのある危険薬物だ。男たちはそれを周に盛ろうとしているのだ。
「ついでにその元社員って野郎には周焔が記憶を失くして気の毒な目に遭ってるとでも言えばいい。これを機に本当に恋人になって愛しの焔とずっと一緒に暮らせばいいとでも言やぁ喜んで話に乗ってくるに違いねえ」
 羅は早速その元社員というのを捜し出すよう舎弟に指示を出した。
「そいつの名前は分かってるのか?」
「ええ。確かコウヤマとかいってたような……。地元じゃそこそこ名のある文具店の御曹司だそうで。まあ調べるのはわけないんで任せてくだせえ」
「ふむ、だったらそっちは上手くやってくれ。俺の方では周焔を掻っ攫う手配に掛かる。元社員の方はてめえに任せたぜ!」
「分かりました。すぐに手はずを整えますぜ」
 水面下でそんな企みがなされているなど露ほども知らない当の周は、遠く離れた東京の地で愛しい冰と共に穏やかで幸せに満ちた日々を送っていたのだった。



◆8
 こうして周一族が関わる鉱山での原石略奪計画が密かに幕を上げた。
 犯行に加わるメンバーは、あろうことかまがりなりにも現役で周ファミリー直下に与する者たちだ。いわば組織に対する謀反である。しかも鉱山から掘り出した原石を奪うという相当に大掛かりな代物だ。普通に考えるならば年月も人員も莫大に掛かるだろう机上の空論といえる。
 だが、計画を率いる羅辰はファミリーの中でもまずまずの立場にあった為、少なからず賛同する者が集まってしまったのだった。類は類を呼ぶの如く、誰もが一攫千金を夢見るろくでなしばかりである。ともすれば羅を出し抜いて我こそが新しい組織の頂点を乗っ取ろうと狙っている者も少なくはなかった。
 そんな中、羅の舎弟である男は準備の為にまずは九州の博多へと向かった。周焔に恋焦がれ、それが叶わなかったことで犯罪に手を染めて人生を踏み外したという元社員の男に会う為である。
「名前は――っと。香山淳太――ね。いったいどんな野郎なんだか」
 手元のメモ書きを見ながら香山という男の住んでいるとされる住所へと向かう。
 着いてみればそこはかなりの築年数が経っていると思われる寂れた感じのアパートメントだった。
 表札は一応出ているものの、コピー用紙にマジックで殴り書きされたような文字が雨に滲んで擦れている。開けっ放しになった小窓から中を覗けば、台所には空いた酒の缶や弁当のトレーなどが雑多に散らばっていて、外の廊下にまでムッとした生ゴミの悪臭が漂ってくる始末だ。
「は――、人生踏み外したってのは本当のようだな。この調子じゃ生活の方もカツカツってところか」
 少々大きめの報奨金を積んでやれば容易に落ちるだろう。男はほくそ笑みながら所々塗装が剥がれ落ちた玄関の扉を叩いたのだった。

 一方、羅の方でも次男坊・周焔の拉致計画に向けて着々と構想を練り上げていた。実行犯は羅を含めた男四人だ。
「いいか、決行は周焔が接待の会食に出掛けた夜だ。その帰り際を狙う。ヤツの側には側近の李狼珠《リー ランジュ》がいるはずだ。どちらも舐めては掛かれねえ相手だから油断はするな」
 李は香港にいた頃から頭脳も切れるし武術にも優れていると言われていた精鋭だ。幼少の頃から周焔の側近として辛酸を共にしてきた侮れない男である。この二人を相手にまともにやり合えば、いくら四対二でも恐らく勝ち目は薄い。
「だから今回はあいつらの車にトラックで体当たりするって方法でいくぞ。周焔は後部座席だろうから正面から突っ込む。その時点で運転手と助手席の李は潰せるだろう。トラックを衝突させたら即座に降りて周焔を奪取。別口で待機させておく車に乗せて迅速にその場を撤収する」
 万が一周が何のダメージも受けていなかった場合を鑑みて、反撃を食らう前に素早くスタンガンで撃墜するという綿密な作戦が伝えられた。
「いくら周焔がデキる野郎でもトラックに突っ込まれれば多少の隙は狙えるはずだ。ヤツの奪取さえクリアすれば後はDAを盛っちまえば楽にいける。くれぐれも抜かるな!」
 そんな魔の手が着々と近付いてきていることなど知る由もない周は、その日いつものように李を伴って接待の会食へと向かったのだった。



◇    ◇    ◇






◆9
 汐留、周邸――。
「今夜は少し遅くなる。先に休んでいていいからな」
 周がいつものように冰の頭をクシャクシャと撫でながら不敵な笑みを見せている。その脇では真田が冰と自分、二人分の夕飯を用意しながら「お気をつけて」と送り出す言葉を口にする。周が接待などで留守にする夜は、執事である真田も冰と共に食卓を囲むのがすっかり恒例となっているのだ。いつもとなんら変わりのない穏やかで幸せに満ちた夕暮れであった。
「明日からは三連休なんだしさ。ちゃんと寝ないで待ってるから心配しないで! 白龍も気をつけて行ってきてね」
 スーツの上着を着せてやりながらニコニコと送り出してくれる嫁に周の瞳も自然と細くなってしまう。相変わらずに可愛いことを言ってくれる。こんな仕草を見れば頭を撫でるだけでは到底足りなくなりそうだ。周は長身の腰を前屈みにしながら、愛しい嫁の額に小さなキスを落とすと、迎えにやって来た李と共に上機嫌で出掛けていったのだった。
 まさかこの数時間後にとんでもない企みが待っていようなどとは、夢夢思うはずもなかった。



◇    ◇    ◇



 時刻は夜の十一時を回ったところだった。商談を兼ねた接待の会食としてはまずまず早めに切り上げられた時間帯といえる。
 『寝ないで待ってるからね!』そう言って微笑んでくれた可愛い仕草を思い浮かべながら、周は後部座席のシートへと深く背をもたれた。
 後はもう帰るだけである。瞳を閉じればウトウトと心地の良い眠気が降りてくる。
 それから数分走った時だった。場所はちょうど高速道路下に差し掛かった所でそれは起こった。
 駅前ならばともかく深夜の高架橋の下には人通りは殆どない。死角から突如大型のトラックが突っ込んできた事態に、さすがに運転手も回避できなかったのか、ガシャーンという爆音と共にフロントガラスにヒビが入り、運転手と助手席の李は衝撃で気を失ったようだ。後部座席の主人を守ろうとしてか、運転手はハンドルを切らずに自分が盾になるような形でトラックを受け止めた状態で停車した。
 周もまた突然の衝撃を食らって、ほんの一瞬意識がブレたようである。肩を思い切りドアにぶつけたと同時に事故を実感した。
 前を見れば運転手と李がガックリと首を垂れて気を失っているのが分かった。二人共に額からは流血が見てとれる。
「李……! 宋!」
 即座に彼らの容態を確かめんと前のシートに手を掛けて身を乗り出した時だった。ヒビで視界が悪いフロントガラスの向こうから数人の男たちがこちらへと駆け寄って来るのに気がついて、周は咄嗟に状況を理解した。



◆10
「クソ……! 嵌められたか……ッ」
 向かって来る男たちは明らかに同業者だ。決して心配して様子を窺いに駆け寄ってくれた通行人などではない。
 周は応戦せんと車外へ出ようと試みたが、その瞬間身体中に激痛を覚えてクラリと目眩のようなものに襲われた。事故の衝撃のせいだろう。気持ちの上ではしっかりしているつもりでも、肉体的には相応のダメージを受けていたのだ。
「ク……ッ、カネ……」
 脳裏を過ったのは親友の鐘崎の顔だ。
 周はおぼつかない手で懐からスマートフォンを取り出すと、緊急事態が起きた時の救援メッセージを送ろうと試みた。だが、やはり思ったように指が動いてはくれない。震える手で画面をスワイプするのが精一杯であった。
 ――と、次の瞬間。側面の窓ガラスを叩き割る衝撃と共に後部座席のドアが開けられた。施錠が外れされたのだろう。そう思うだけの意識はあれど、身体がいうことをきかない。やっとの思いで振り返った時には既にスタンガンの餌食で気を失ってしまった。
「お! 良かった……。兄貴、ノビちまってますぜ?」
「助手席は李狼珠だ。こいつが周焔で間違いねえな。急いで担架に乗せろ! 扱いは雑にするな。周焔に死なれたんじゃ元も子もねえ」
「兄貴、例の薬はどうします? 周焔が意識を取り戻す前に打っちまった方がいいんじゃねえですかい?」
「DAを打ち込むのは後だ! それよりスマートフォンを探して置いていくんだ! GPSを辿られたら厄介だ」
「それが……探してるんですがスマートフォンが見当たりません」
「そんなわけあるめえ! 胸の内ポケットあたりに入ってるはずだ!」
「全てのポケットを調べましたが見当たらないんです! 周焔はスマートフォンを所持していないんでしょうか?」
 遠くの方から事故に気がついて一人また一人と人々が騒ぎ出す気配が感じられる。
「チッ……! 管理は全部李にでも任せてるってのか……。まあいい。野次馬が寄って来る前にズラかるぞ!」
 驚くことに男たちが逃走の為に用意してきた車は救急搬送車を装ったものだった。いわゆる国内の救急車とは多少形が違うものの、外からパッと見ただけでは見分けがつかないような代物だ。これならば事故後に駆け付けた緊急車両と間違えるだろうし、通りすがりの誰かに本物の救急車を呼ばれるまでの時間も稼げるだろう。実に用意周到といえる。男たちは周を担架に乗せると、急いでその場を後にして行った。

 汐留の冰の元に事故の連絡が届いたのはそれから二時間余りが経過した頃であった。既に日付けもまたいでいる深夜未明、本物の救急車で近くの病院に搬送された李と運転手の宋の入院を知らせる一報であった。



◆11
 知らせを受けて劉と医師の鄧、それに真田までもが一緒に病院に駆け付けたが、そこで初めて周がいないことを知って一同は蒼白となった。二人を救助した救急隊員の話では、通報を受けて駆け付けた時には既に周は居なかったということだ。
 何が起こったのか状況を知ろうにも肝心の李と運転手は未だ意識不明の状態だ。命に別状はないとのことで、それだけは安堵したものの、周に何かあったことは間違いない。
「拉致を疑うべきかも知れません……。冰さん、すぐに鐘崎組へ連絡を! それから我々は事故のあったという現場へ急ぎましょう!」
 もしかしたら何かの手掛かりが掴めるかも知れない。医師の鄧の提案で、病院での付き添いには真田に残ってもらうことにして一同は現場へと向かった。

 時刻は既に未明である。車通りの少ない時間帯ということもあってか、現場にはまだ事故車両が残っており、警察へと運ばれる前であった。冰自身も普段周と共に乗っている高級車のフロント部分が無惨にも潰れているのを目の当たりにして、背筋が凍りつく。
 ぶつかった相手は大型のトラックだ。いかに頑丈な高級車といえども、これが相手ではひとたまりもないだろう。現場には車だけが乗り捨てられていて、運転手以下同乗者がいたかどうかも分からないという。分かっているのは犯人は逃げてしまって、今現在も行方が掴めていないという事実だけだ。
 次第に膝が笑い出し、その場で立っていることもやっとといった調子の冰を支えるようにして鄧が警察官に事情を訊いていた。
 しばらくして鐘崎が紫月と組の若い衆ら数名を伴って現場へと駆け付けてくれた。彼らの顔を見た瞬間に一気に気が緩んだわけか、冰の瞳からは溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。そんな彼を抱き包むようにして紫月が宥める傍らで、鐘崎が迅速に対応策を巡らせてくれていた。
「来る途中に警視庁の丹羽に連絡を入れておいた。ヤツもすぐに合流してくれるそうだ」
 鐘崎の話では事故車両を警察が回収してしまう前に自分たちで車内に残っている痕跡などを調べたかった為、丹羽への協力を仰いだということだった。彼がいればある程度の自由は利くだろうからだ。仮に周が拉致に遭ったと考えて、警察に任せているだけでは行方が追い切れないとの思いからである。
 丹羽もまたそんな鐘崎の考えが読めていたようで、到着するとすぐに車内を調べられるよう手を回してくれたのは有り難かった。
「大型トラックで体当たりして運転手と助手席を潰したっていうわけか……。目的はやはり氷川だろうな。氷川が後部座席に乗っていることを知っていての犯行と思われる」
「鐘崎、犯人に心当たりがあるか?」
 丹羽が訊く。
「手口から見て同業者の可能性が高いと思われるが……」
「ということは周の実家の関係者ってことか」
「断言はできんが、ほぼ間違いねえだろうな。最初に駆け付けた警官の話によると、事故があってから通報までの間に少々タイムラグがあったようなんだが、その理由が気に掛かる。事故を目撃した通行人の話だと、既に救急車が来ていて担架で怪我人を運んでいたそうだ」



◆12
 それ故、既に通報が済んでいるものと思い、集まってきた人々も警察が到着するのを待っていたそうだ。だがいつまで経っても何の動きもないことから不審に思った者たちが再度通報したことで、初めて警察と消防が駆け付けたということのようだった。
「つまり最初の目撃者が見た救急車ってのは犯人が装っていた可能性が考えられる」
「まさか予め救急車に似せた逃走車両を用意していたということか?」
「おそらく……。だとすればかなり用意周到な奴らだ。通報が遅れたことにも納得がいく。その時間を逃走に充てたということだろう」
 鐘崎は付近の防犯カメラの映像収集と警察のNシステム等を屈指して行方を追ってくれるように丹羽へと頼むと、意気消沈している冰のところへ行って励ましの言葉を口にした。
「冰、おそらくだが氷川は無事でいる可能性が高い。脅すわけじゃねえが、例えば殺戮が目的ならば既にここで行っているはずだ。李さんや運転手のこともトドメをささずに放置しているし、手口から考えてヤツらは氷川のみを生きたまま連れ去るのが目的だったと考えられる。今俺たちにできることはヤツらの行方を追うことと連れ去った目的を探ることだ」
 至急香港のファミリーに連絡を入れると共に、ありとあらゆる拉致の理由を洗い出すことに全力を尽くそうという鐘崎に、冰も涙を拭いながらうなずいた。
 犯人たちの追跡はひとまず丹羽の方に任せるとして、まずは汐留に戻り国外への脱出ルートに網をかけることから始めるという。これだけの大掛かり且つ迅速な手口から見て、相手は周の素性を知っている同じ裏社会の関係者の可能性が高いからだ。
 むろんのことマフィアの組織とは全く関係のない方面からの襲撃という点も皆無ではないので、どんな小さなことでも気に掛かる事案は片っ端から調べに掛かる心づもりだと鐘崎は言った。
「既に源さんが各地の空港を洗ってくれている。香港のファミリーにも現地での入国状況に目を光らせてもらうよう連絡する」
 正念場だが気をしっかり持って頑張ろうという鐘崎に励まされて、冰は懸命にうなずくのだった。
 その後、鐘崎組からも更に人数を動員して、夜を徹しての調査が進められていった。
 ファミリーの関係はもちろんのこと、周の経営する商社関係での付き合いなども含めて、恨みや妬みなどありとあらゆる可能性を挙げていく。鐘崎の父親の僚一が現在はまた海外での仕事で組を留守にしていたので、それだけが悔やまれたものの、逆にいえば渡航先で思わぬ情報が入手できる可能性もある。僚一にもすぐさま連絡を入れ、多方面からの援護射撃を手厚くしていく。汐留に在中している周の側近たちも総力を上げて主人を救出すべく行方の捜査が進められていった。



◆13
 一方、鐘崎らによる必死の捜索が行われていたその頃、周を拐った羅辰たちは再び逃走車を乗り換えるという周到ぶりで、東京から離れた西へと向かっていた。目指すは周家が関わる鉱山であるが、大陸へ渡るまでの道筋に今回は空路を使わず船での逃走を考えていたようである。
 いかにお膝元の香港から離れた東京での犯行といえど、まがりなりにも香港マフィアのトップである周隼の息子を拉致したのだから、事態が発覚すればすぐさまファミリーに報告がいくはずである。空路を使えば降り立った途端に網に掛けられるのは目に見えている。よって、貨物専用のタンカーに渡りをつけて、積荷に紛れて日本を脱出するという計画にしたわけだ。
 事故現場から救急車両を装った車で移動中に羅は部下たちに手早く指示を出していた。
「この車を乗り捨てるまでの間に周焔の着衣を引っ剥がすんだ! スーツもシャツも下着まで全部だぞ。早くしろ!」
「下着もですかい? 俺ラァそっちの趣味はねえんだけどなぁ」
 舎弟の男が苦笑しながらボヤいている。
「くだらねえこと言ってる暇はねえぞ! こいつらはいつ何があってもいいようにと自分の位置を示す機器を身に付けていないとも限らねえ。スマートフォンのGPSを潰しても安心しちゃいられねえんだ! いいから早く服を引っ剥がせ! 全裸にしたら先ずはこの薬を打ち込む」
 羅が注射器を取り出して舎弟たちが服を剥ぐのを待っている。
「お、兄貴! それが例のDAって薬ですかい?」
「そうだ。港で待たせている香山って野郎と落ち合う前に周焔の記憶を奪っておかねえとな! 怪しいモンがねえかよく確認したらこっちの服に着替えさせるんだ。早くしろ!」
 剥いだ周のスーツは全てこの車に置いていくようだ。
「うっは! すげえ……。ファミリーの背中にゃ龍の彫り物があるってのは聞いてましたが、ホントに入っていやがるぜ……! しかもなんて見事な!」
 すげえすげえを連発しながら舎弟が溜め息まじりでいる。
「感心してる場合じゃねえ! もうすぐ車を乗り換える場所に着いちまう! 見とれてねえで早くするんだ!」
「へえへえ、分かってますぜ。……って、うはぁ……こっちも立派っスねぇ! 顔もイケメンならイチモツも立派って、神様も不公平なことなさるよなぁ。どっちかひとつでもいいから俺にも分けて欲しかったね!」
 周の下着をずり下ろしながらまたもや驚きの声を上げている。そんな舎弟を横目に、羅は「チッ!」と小さな舌打ちと共にそっぽを向いてみせた。
「は! 気色悪ィこと抜かしてんじゃねえ! 野郎のブツなんぞ拝んだところで目が腐るだけだ。周焔ってのは男を嫁にしたとかいうが、正直俺には理解できんな!」
 羅は色事に関してもそれなりにお盛んであったが、相手にするのはすべて女性である。男が男を抱くなどとは到底理解できないというわけらしい。
 そんな折だ。またしても突如舎弟が大声を上げた。
「兄貴! ありましたぜ! ほら、この龍の彫り物の目玉のところになんだか怪しげな宝石が付いてますぜ!」
「どれ! 見せてみろ!」
 担架の上でゴロリと寝返りを打たせた背中を見れば、確かに龍の刺青の目玉部分に光る宝石が揺れている。
「こいつぁピアスだな。もしかしたらここにGPSが組み込んであるかも知れねえ」
 羅はすぐにそれを外すと、靴で踏み付けてから車内にあったペットボトルの飲み物の中へとそれを放り込んだ。
「よし、そろそろ到着だ。車を乗り換えたら港へ急ぐぞ! 早いとこ周焔にこれを着せるんだ」
 用意してきた着替え一式を舎弟に向かって放り投げる。
「了解です!」
 そうして救急車両を乗り捨てた一味はタンカーの待つ港へと向かった。ほどなくしてコンテナの中に車ごと乗り込んだ羅たちを積み込んで、タンカーはまんまと港を離れていったのだった。



◆14
 一夜明けて汐留――。
 鐘崎らによる必死の捜索にも関わらず、周の行方については朝になってもこれといった目ぼしい情報は上がってこなかった。頼みは事故に遭った当事者である李と運転手の宋であるが、二人共に未だ意識が戻ってはいない。事情を説明し、収容されている病院から引き取って鄧が汐留の診療室で懸命に治療に当たっていたものの、骨折と全身打撲が見られ、とにかくは意識が戻るまで待つしか術はなかった。
 三連休だった為に社の業務に関してはひとまずのところ支障はなかったので、それだけは幸いといえた。
 捜索の本拠地を汐留の周邸に構えて鐘崎組からも通信機材などが様々持ち込まれ、鐘崎や紫月もしばらくは泊まり込みで情報の収集に当たることとなった。
 そんな中、昼前になると、丹羽ら警察の捜査で犯人が乗り捨てたと思われる救急車両を装った車が見つかったとの連絡を受けて、鐘崎は源次郎と共に現場へと出向いた。紫月には汐留に残ってもらい、冰の支えになるようにと側に居てやることを頼んで出掛ける。現場に着くと既に丹羽が待っていて、車内から周の物と思われる衣服一式が見つかったとの報告を受けた。
「確かに氷川のスーツに間違いねえな」
 見覚えのあるネクタイの他にも普段周が贔屓にしているテーラーで仕立てられたスーツは、裏地に刺繍されたネームとサイズからしても周の物で間違いない。鐘崎は他にも残留品がなかったかどうかを尋ねると、案の定といったところか周の刺青に取り付けてあるGPS付きのピアスがペットボトルの飲み物の中に沈められているのが放置されていた。
 昨夜、事故の一報を受けてまず最初にこのGPSを探索にかけたが繋がらなかった。スマートフォンの位置情報は当然潰せるとしても、背中のピアスにまで気がついたとなると、それはプロの仕業を意味していると思われる。
 このピアスにGPSが仕込まれていることは鐘崎をはじめとするごく僅かな側近たちしか知り得ない。少し前までは紫月にさえ言っていなかったのだから、ひょっとしたら冰にも知らされていないかも知れない。
 そんな物を即座に見つけて潰したとなると、裏社会の事情に詳しい者の仕業としか考えられないのだ。

(やはりか。しかし下着まで引っ剥がすとはな……。敵にとって一番の危惧は行き先を知られたくねえってことか……)

 これはもう同業者で間違いないだろう。しかも十中八九は香港のファミリー絡みと思われる。
 鐘崎は丹羽に頼んでこれら一式を持ち帰らせてもらうことにした。
 むろんのこと鑑識作業や科学捜査などで必要なのは理解できるが、今は一刻を争う緊急時だ。事情を知らない警察の捜査に任せていては手遅れにならないとも限らない。無理を承知で頼んだものの、なんと丹羽の方でも思いを汲み取ってくれたわけか、快諾してくれた。



◆15
 それらを急ぎ持ち帰って更なる捜索を続けることにする。汐留までの車中では鐘崎と源次郎がこれまでの経緯から想像できることを話し合っていた。
「服や所持品を全て残していったということは、簡単には身元を特定できないようにする為とも考えられますが、そうであれば敵は周さんを始末する心づもりでいるということでしょうか?」
 源次郎が訊く。
「だが、李や運転手を残しているわけだから、連れ去られたのはすぐに氷川――つまり周焔だと割れる。始末してどこかに埋めるか海へ放り込むだけならわざわざ背中のピアスを外す必要もなかろう」
 第一、周には衣服を剥いだところですぐに身元が分かるほどの特徴的な刺青が入っている。
「俺の予想だが、犯人たちは氷川に危害を加えるつもりはなく、何かの駒に使おうとしている可能性の方が強いんじゃねえかと」
 駒とは例えば身代金を要求する為の人質などという意味である。
「裸にした理由は身体のどこかにGPSを所持していないかどうかを探る為じゃねえか? おそらくは背中のピアスにそれが組み込まれていると察知して水に沈めたと考えれば、ヤツらが一番危惧しているのは行き先を知られることだ」
 確かに周ほどの人物が居なくなれば、汐留にいる側近はむろんのこと香港のファミリーもすぐに捜索に乗り出すことは敵にとっても想定内だろう。
「ただ不可解なのはこれら所持品の中に氷川のスマートフォンだけが残ってないということだ」
「とすると、目的はスマートフォンの中身ということでしょうか? 電源を落として犯人が持ち去ったのかも知れません」
「いや――、俺がおかしいと思うのはスマートフォンに付いているストラップの方だ」
「ああ、冰さんとお揃いだという組紐の物ですね?」
「ヤツらはわざわざ服をひん剥いてまで背中のピアスを外している。そこまで用心深い犯人がストラップのダイヤを見逃すはずもねえということだ。ペットボトルに沈められていたのは背中のピアスだけだった。同じような宝石にGPSが組み込まれているかも知れないと疑っても不思議はねえはずだ」
 確かにそうだ。GPSで辿られるのを阻止するつもりなら、組紐の先に付いているダイヤも当然外して置いていくはずである。
「スマートフォン自体にも位置情報は組み込まれています。二重にGPSが仕込まれている可能性は低いと踏んだのでしょうか」
「かも知れんな。問題は目的だ。氷川を拉致していったい何を企んでいやがる……。香港のファミリーの元にもまだ何の連絡も入ってねえようだし、目的は身代金じゃねえってことか」
「現在、台湾で任務中の僚一さんもすぐに香港の周ファミリーの元へ向かってくれるとのことでしたので、既に合流できている頃かと」
「ああ。親父にはファミリーと連携してもらい、ここ最近の香港周辺で不穏な動きがなかったかどうか探ってもらうとして……俺たちは氷川の行方の目星をつけたいところだが……」
「今のところ空路に張った網にはそれらしい動きは掛かっておりません。とすると、ヤツらはまだこの日本のどこかに潜んでいることになります」
「うむ……」
 恐らくは乗り捨てられていた車があった場所からまた別の車で逃走したことは確かだろうが、周辺には防犯カメラも皆無の山の中だ。
「丹羽の方でもあの山中から幹線道路へ出るルートを調べてくれているそうだから、いずれ目ぼしい車両が引っ掛かってくるはずだ。俺たちは引き続き空港と鉄道などに目を光らせるしかなかろう」
 そうして汐留へ戻ると、鐘崎らが持ち帰った周の衣服一式を目にした冰が、堪らずに泣き崩れてしまった。



◆16
 これらを冰に見せれば心を痛めることは分かっていた。だが、隠したとしても逆に不安にさせかねない。
「冰、辛い気持ちは分かる。だがお前は氷川の唯一無二の伴侶だ。俺は情報をお前に隠して蚊帳の外に置くのは違うと思っている。それよりも今は皆で一丸となって氷川の行方を突き止めることに全力を尽くそう」
 鐘崎に激励されて、冰は涙ながらにうなずいた。

(そうだよ。泣いてる場合じゃないよね。俺が拉致に遭った時には白龍はいつも出来得る限りのことをして助ける道を考えてくれた。多分、今の俺と同じように不安だったに違いないだろうけど、一生懸命俺を捜し出すことに力を尽くしてくれたんだ。今度は俺が白龍を助ける為にできることは何でもしなきゃ……!)

 冰は涙を拭うと、鐘崎らが持ち帰って来た周の所持品をひとつひとつ丁寧に確かめていった。
 スーツを見れば愛しさが込み上げて、再び涙が溢れ出そうになる。『先に休んでいていいからな』そう言っていつものようにあの大きくて温かい手で頭を撫でてくれた。『おかえり』と言ってこの上着を受け取り、ハンガーにかけてやるはずだった。そんな気持ちを懸命に堪えて涙を拭う。
 腕時計、財布、胸ポケットに入れているボールペン。シャツにネクタイ、靴下にハンカチ、大きなサイズの革靴。それらを順番に確かめながら、冰はふとあることに気がついて鐘崎を振り返った。
「鐘崎さん! あの……スマートフォンが見当たりませんが……」
 確かに他の物は全て揃っているというのにスマートフォンだけが無いのは不可解だ。むろんのこと鐘崎もそれには気が付いていたわけだが、おそらくは敵が持って行ったのではないかと言った。
「スマートフォンには様々情報が入っているからな。連絡先ひとつにしてもそうだが、敵にとっても何かしら得になりそうな情報があると思ったんだろう。もしくはスマートフォンの中味自体が目的という可能性もある」
 確かに周ほどの人物ともなれば、アドレス帳だけでも非常にレアといえる情報源だ。GPSを潰す為に電源を切って持ち去ったと考えるのが自然だ。
「……そうですよね。じゃあスマートフォンは犯人が持って行ってしまったのかも知れませんね」
 冰はスマートフォン自体ももちろんだが、お揃いで付けているストラップのことを思い浮かべていた。初めて周と結ばれた日にもらった大切な宝物だ。
「白龍……」

(今、どこでどうしているの? 容態はどうなの? 怪我はしていない? 犯人に何か酷いことをされたりしていない?)

 まるで周に問い掛けるように心の中でそう呟く。

 なぁ、冰。俺たちは一心同体の夫婦なんだからな。何があっても、例え側にいられなくても魂はいつでも繋がってる。それだけは忘れてくれるなよ。

 そんなふうに言ってくれた周の笑顔が脳裏に浮かんでは、また涙が溢れてくる。

(あ……! でも……そうだよね。俺たちは一心同体の夫婦なんだ……。だったら俺にはきっと白龍の考えてる事が分かるはずだよ!)

 冰は事故に遭った瞬間から周が何を考えどう行動したのかを思い浮かべてみることにした。



◆17
 事故の瞬間は確かに衝撃が凄かったのだろう。ほんの一瞬でも気を失ったかも知れない。もしくは意識を失ったまま連れ去られてしまったのかも知れない。だがもし、周に僅かばかりでも意識があったとしたら、どう行動するだろう。

(まずは通報だ。白龍たちは非常事態に陥った時にはそれを仲間に知らせるメッセージを持っていたはず……。一斉に鐘崎さんや李さん、源次郎さんたちにも通知されるという暗号化されたメッセージだ)

 以前、宝飾店での大量拉致事件の際には鐘崎が周や源次郎に緊急事態を知らせんとして一斉送信したこともある例のメッセージである。あの時はMG55という内容だった。
 今回も事故直後に犯人が車に駆け寄って来ることに気が付いたとすれば、周ならばまずは鐘崎らに向けてそういったメッセージを発信したはずである。その際には当然スマートフォンを使ったはずだ。だが鐘崎らはメッセージを受け取っていない。とすれば、送信する前に犯人と鉢合わせてしまい取り上げられたか、もしくは打撲などで身体がいうことをきかずにそれがままならなかったかだ。

(短文のメッセージを打つ余裕がなく、目の前には犯人が迫っていた。俺だったらどうする……? おそらく白龍が咄嗟に思い浮かべたのは鐘崎さんの顔だろう。李さんは一緒にいたんだから、頼るなら鐘崎さんしかいない。でも送信するには時間がない。この状況を鐘崎さんに伝える為に他にできる方法といったら……)

 冰はハッと何かに閃いたように瞳を大きく瞬かせた。
「鐘崎さん! 紫月さん! 白龍たちが乗っていた車……今はどこにありますか?」
 突如として大声を上げた冰を鐘崎と紫月の二人が振り返る。
「氷川たちの乗っていた車ってのは事故に遭った車両のことか? 今はまだ警察だが……」
「それ、もう一度見せていただくことはできないでしょうか? 昨夜は俺、気が動転してたので見過ごしちゃってたことが……今なら何か分かるかも知れないと思うんです! ちょっと確かめたいことがあって……」
「分かった。すぐに丹羽に連絡を入れる!」
 冰は汐留の留守番を劉に任せると、鐘崎と紫月と共に事故車両が置いてある警察へと向かった。
 保管場所に着くと、丹羽の手配のお陰でスムーズに車内を見せてもらうことができた。
「鑑識作業は一通り済んでおりますのでどうぞごゆっくり」
「ありがとうございます!」
 冰はいつも周が座る後部座席に乗り込むと、車内を念入りに見渡した。そこで再び周の身になって考えを巡らせる。時には破れたフロントガラスを見つめ、手元には自分のスマートフォンを持って、尚且つ全身が打撲で辛い状況を想像する。

(犯人たちが前方から駆けて来る。鐘崎さんに連絡を取ろうとスマフォだけは手にしたけど身体が思うようにいうことをきかない。でも何か手掛かりを残して”カネ”にこの状況を伝えなければならない。だとしたら……)

 どこからともなく周の声が重なってくるような気がする。まるで本当に魂が重なり合ってその時の状況を教えてくれているかのようだ。冰の脳裏には、手にしていたスマートフォンの録音ボタンを押して犯人が駆け付けるまでの僅かな間にそれを隠す周の行動が浮かんできた。

(確かに録音すれば後で誰かがこれを見つけてくれるかも知れない。白龍が咄嗟に隠すとしたら……ここ)

 シートと背もたれの間に手を突っ込んだ瞬間に、何かが触れる。
「あった!」
 なんとシートの奥の奥から周のスマートフォンが出てきたのだ。



◆18
 電源は落ちてしまっているが、間違いなく周のスマートフォンだ。ストラップもちゃんと付いている。
「でかしたぞ冰君! やっぱり氷川は俺たちに向けてのメッセージを残してくれてたんじゃねえのか?」
 わざわざシートの奥に突っ込んだところから見ても、単に落としたというわけではなさそうである。三人はすぐにそれを持ち帰って中を調べることにした。
 汐留へ向かう車中で早速に車載の充電器へと繋いで起動を試みる。故障してはいない様で、しばらくすると無事に起動したことに皆は瞳を輝かせた。
「ロックが開くか?」
「ええ、白龍が俺の顔認証も組み込んでくれているので……」
「そっか! さすがは夫婦だな!」
 紫月が感心する傍らで、
「開いた!」
 冰が感嘆の声を上げた。
 まずは冰の予測に従って録音が残されていないかを調べてみる。すると、やはりか。犯人のものと思われる会話が聞こえてきたのに三人は驚きの表情で互いを見合った。
 シートの奥に突っ込まれていたこともあり、くぐもってはいるが、なんとか会話は聞き取れる。話しているのは広東語であった。
「やはり同業者か」
 鐘崎の読みは当たっていたが、驚愕だったのはその内容である。

『お! 良かった……。兄貴、ノビちまってますぜ?』
『助手席は李狼珠だ。こいつが周焔で間違いねえな。急いで担架に乗せろ! 扱いは雑にするな。周焔に死なれたんじゃ元も子もねえ』
『兄貴、例の薬はどうします? 周焔が意識を取り戻す前に打っちまった方がいいんじゃねえですかい?』
『DAを打ち込むのは後だ! それよりスマートフォンを探して置いていくんだ! GPSを辿られたら厄介だ』
『それが……探してるんですがスマートフォンが見当たりません』
『そんなわけあるめえ! 胸の内ポケットあたりに入ってるはずだ!』
『全てのポケットを調べましたが見当たらないんです! 周焔はスマートフォンを所持していないんでしょうか?』
『チッ……! 管理は全部李にでも任せてるってのか……。まあいい。野次馬が寄って来る前にズラかるぞ!』

 会話はこれで全てのようだ。その後は警察と救急隊が駆け付けて、李らを搬送する様子などが録音されていたものの、しばらくするとバッテリーが切れて電源が落ちたようだった。
 拉致自体も驚愕であるが、何より驚くべきは犯人が口にした『DA』という薬物名である。以前、裏の三千世界に行った際に鐘崎自身も食らったことのある危険薬物だ。
「クソ……ッ! なんてこった! ヤツらは氷川にあれを盛ったってのか……!」
 体験者である鐘崎はさすがに平常心ではいられないのか、拳を握り締めてはワナワナと震わせている。だが冰は逆に光明が射したとばかりの表情で、その瞳には活気が溢れていくかのような顔つきをしていた。
「例えDAという薬物が盛られたとしても白龍は生きている可能性が高いわけですよね? それなら希望はあります!」
 つい先程までは涙に暮れていた瞳に希望を讃えて冰は声を震わせる。

 大丈夫! 生きてさえいてくれればどんなことをしても助け出す……! 待っててね白龍!

 会話にもある通り、犯人は周を殺す気がないことが明らかだ。今の冰にとってはそれだけで余りあるほどだった。



◆19
「よし! とにかくこれを至急香港へ送るぞ! 氷川の親父さんたちなら犯人の声を聞けば誰だか分かるかも知れねえ!」
 鐘崎は持って来たノートパソコンを広げると、すぐに香港の周隼の元へと録音を共有した。

 汐留、周邸――。
 香港からの返事が届くと、すぐに犯人が割れた。やはりファミリーの一員で、男の名は羅辰。舎弟は藩ということが分かった。また、それと共に理由も見えてきた。おそらくは次代後継者である周風のブレーンを固める人事に不満を持っての犯行ではないかというのだ。
『羅辰は問題の多い男でな。本来ならばファミリーから追放してもいいところだったのだが、温情を掛けて残したのが間違いだったということか』
 兄の風は自分が原因を作ってしまったと言い、酷く悔いているようであった。
「とにかく理由は分かったんだ。後はその羅辰が氷川を拉致して何がしたいかということだ」
 汐留では羅たちの目的が何であり、今現在何処に潜伏しているのかということに絞って引き続き調査を進めることとなった。
 香港のファミリーの元へは鐘崎の父親の僚一も到着していて、羅辰たちが日本へ入国した時期や経路などについての詳細を調べてくれるということだった。それと同時に警視庁の丹羽にも協力を仰いで、入国後の足取りを追うようにと言われた。
 パソコンで繋いだリモート画面の向こうに僚一が顔を出し、息子である鐘崎に手はずを伝える。
『いいか、遼二。おそらく羅辰たちは偽造パスポートで名前を変えて入国しているはずだ。丹羽のところの修司坊に言って科捜研で顔認証と歩容認証などを使って本人であることを突き止めるんだ。その後、日本国内でヤツらが何処に宿泊し、誰と接触したのかを追えるところまで追ってくれ。焔を連れ去る際に使った車両を手配するのに手助けした者なども含めて徹底的に割り出すんだ』
「分かった。すぐに丹羽と連携する!」
『俺の方では羅たちの企みを事前に見聞きしている者がいないかファミリーの末端まで当たるつもりだ。焔を拐った目的を絞り込む』
 こうして香港と東京、二手に分かれての本格的な捜索が始まった。
 鐘崎らは羅たちが日本に入国してからの足取りを詳しく追っていくことから始める。僚一から指示のあった通り丹羽に協力を仰いだ結果、やはり偽名を使って渡航していたことが分かった。周の拉致が決行されるまでに少なくとも一週間ほどはこの東京に滞在していたようだ。調べを進めていくと非常に驚かされることが分かってきた。羅の舎弟である藩が入国後すぐに九州の博多へと移動している足取りが掴めたからだ。
「博多といえば例の冰と里恵子が拉致された事件の関連か? あの時に冰を売り買いしようとしてた男にでも会いに行ったということか――」
「ってことは、そいつも今回の計画に加担してる可能性が出てくるな。まさかあの時氷川に直接叱責を食らったことを恨みに思ってるとか?」
 鐘崎と紫月が首を傾げている。だが、再び香港に問い合わせたところ、その時の男なら既に組織を抜けており、故郷の実家へ帰っているはずだという回答がきて、またもや頭を捻らされることとなった。



◆20
「男の名前は陳か。出身地は中国の雲南省、実家は唐辛子農家だそうだ。しかもこの陳は冰の売買に首を突っ込んだことを後悔してか、自分からファミリーを抜けたいと申し出たそうだ。噂によるともう裏の世界は懲り懲りだと言って、堅気になることを強く望んでいたそうだが……」
「ふぅん? そんな男がわざわざ報復の片棒担ぐようなことをするかね」
「まあ堅気になりてえってのは見せ掛けだけのホラだったということも考えられるが」
「けどその陳ってヤツは故郷の実家に帰ったってんだろ? 博多に行ったところでヤツには会えねえだろうによぉ。それとも藩って舎弟は陳が実家に帰ったことを知らなかったってわけか?」
「さぁ、そこまではなんとも言えんが……。ただ気になるのは博多といえば例の香山という男のことだ。冰を拐った実行犯はまだ服役中だから除外するとして、香山ってのは既にシャバじゃなかったか?」
 とすれば、またしても香山が何かしら企んでいて、その為に今度は羅たちを雇ったということだろうか。
「羅辰はファミリーの中でもそれなりに一目置かれていた男のようだからな。いくらなんでも香山のような堅気が簡単にコンタクトできる相手じゃねえか……」
 だが舎弟の藩がわざわざ博多に出向いていることは気に掛かる。
「念の為だ。香山が現在何処に住んでどうしているかを洗う必要があるな」
 鐘崎はそちらの件でも調べに掛かることにした。
 その結果、香山の暮らしぶりは容易に割れたが、ここ数日の間は家に帰っていないらしいことが分かってきた。羅辰たちの企みとは全くの無関係という可能性もあるが、舎弟の男が博多を訪れていることはやはり気に掛かる。
「もしかしたら羅辰の方から香山を抱き込んだとも考えられるな……。香山が氷川に恋情を抱いていたことを陳あたりから聞きつけたのかも知れん」
 問題は香山のような素人を巻き込んだとして、羅に何の得があるかということだ。DAという危険薬物を使って周の記憶を奪った目的も気掛かりだ。
「ヤツら、何を企んでいやがる……」
 さすがに手詰まりとなり、ここから先は彼らの目的が掴めない事には動きが取れそうもない。
 そんな折、医師の鄧から李と運転手の意識が戻ったと連絡が入り、鐘崎らは急ぎ医務室へと向かった。
 運転手の方は骨折の他にも外傷があり、未だ重症であることに変わりはなかったが、李の方はそれに比べればまだ軽かったようだ。リクライニングができるベッドの上で半身を起こしながら、冰に向かって平身低頭で謝罪の言葉を口にした。



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