極道恋事情

24 謀反2



◆21
「冰さん! 申し訳ございません! 私がついていながらこんなことになってしまって……。焔老板はまだ……」
 医師の鄧から粗方の経緯を聞いたのだろう。李は周が拉致されてしまったことに酷く動揺しているようであった。
「李さんのせいではありません! 運転手の宋さんも身を挺して白龍を庇ってくださったんです。咄嗟のことでしたのに……お詫びを言うのはこちらの方です!」
 冰は車の潰れ具合からも運転手の宋が自らを盾にして周と李を護るようにハンドルを切ったことを理解していた。恐縮して頭を上げられないでいる二人に心からの詫びと礼の気持ちを伝えたのだった。
「冰さん、私はもう大丈夫ですのですぐに復帰いたします!」
 もう起き上がれるので自分にも何かしら手伝わせて欲しいと懇願する李にこれまでの調査で分かってきたことを話して聞かせ、まずは静養が第一だからと身を案じる。だが李としては居ても立っても居られないのも事実のようで、自ら鄧に車椅子を用意してくれと頼む始末だ。その気持ちも分からないではない。冰は絶対に無理をしないとの約束で、社の運営や周の捜索に加わってもらうことに同意した。
 もうすぐ三連休が終わろうとしている。
 緊急事態ではあるが、社の業務を止めるわけにもいかず、李には主にそちらの方を見てくれるよう頼むことにする。
「白龍が帰って来た時の為にも会社の方はしっかり守っていかないといけませんので」
 そうして週が明けると、業務は主に李と劉に任せながら、捜索の合間に冰自らも進んで社の仕事をこなすという日々が続いた。汐留に泊まり込んでいる紫月も業務を手伝ってくれたので大助かりであった。
「すみません、紫月さんにまでご足労をお掛けしてしまって……」
「いいってことよ! 捜索は遼と源さんがいれば俺なんか正直なところお飾りだしさ」
 この紫月という男はどんな時でも前向きでポジティブな思考を忘れない。そういえば以前二人で一緒に拉致された際にも紫月は終始明るかった。落ち込むことももちろんあるのだろうが、例え窮地でもその時々の状況を即座に受け入れて柔軟に構えてくれる。まるで風に揺れる柳のごとく、やわらかで穏やかでありながら決して折れない強さを併せ持つ。そんな紫月が側に居てくれることが、冰にとってはどれほど励みになることか知れなかった。時にはジョークを交えながら前向きに導いてくれる彼の存在が何よりの癒しでもあった。
 明るい彼につられて自然と周囲の皆にも笑みが咲く。
「ね、紫月さん! こんなに助けていただいてるんですから、白龍が帰って来たらたくさんお給料を貰わなくちゃですね!」
 冰もまた然りで、気がつけば自然と朗らかな言葉が出てきていた。
「おう、そうだな! んじゃ、しっかり働いてガッツリ氷川から報酬をもぎ取るべ!」
「ですね! もぎ取っちゃってください!」
 二人笑顔で精を出す。その様子を横目に、李と劉もまた主人の無事を祈るのだった。

(老板、どうかご無事で! 姐様たちがこうして社や我々を支えてくださっています! 一日も早くまた皆で笑い合える日が来るよう、それまで社のことはしっかり守って参りますので……!)

 大パノラマの窓から差し込む午後の陽射しを仰ぎながら、李と、そして劉もまたその日を夢見ては熱くなった目頭を押さえたのだった。



◆22
 一方、羅辰らを乗せたタンカーは既に大陸へと到着、鉱山に向けていよいよ企みの時が近付いてきていた。
 薬物を投与された周は以前の鐘崎と同様に、これまでの記憶を失って呆然たる時を過ごしていた。
 羅たちからは『あなたはたいへんご立派な慈善家で、これから行く鉱山の開発に尽力している御方なんですよ』と教えられ、現在は不運な事故で記憶を失ってはいるが、一日も早く快復できるよう精一杯お世話をさせてもらいますなどとうそぶかれていた。
 それと同時に、これまで仲睦まじく暮らしてきた伴侶がいると香山を紹介された。同性同士ではあるが、籍まで入れていた妻といえる存在だという。
 いかに記憶を失っているとはいえ、すぐには信じられずに周は戸惑いを隠せずにいて、そんな態度に焦れるわけか、香山自身からも自分たちは恋人同士で愛し合っていたのにどうして信じてくれないのかと泣き付かれることもしばしばであった。
 最初の一日目こそは会えただけで感激だという調子であったが、次の日になると『恋人同士だったことを認めてくれ』とそればかりせがまれ、『何も覚えていない、すまない』と返せど今度は焦れて苛立つ始末だ。覚えていないのなら今からまた愛し合えばいいと身体の関係までをも迫る香山に対して、どうしてもその気になれずに憂鬱な思いが色濃くなるばかりである。
 何も思い出せず、気力すらない全く湧かずにただただ呆然と過ごすだけの周にとっては、この香山という男が自分の恋人――ましてや籍まで入れた伴侶だなどと言われても、まるで心が揺れずに戸惑うばかりであった。
「氷川さん! 貴方は僕を愛していると言ってくれて結婚までしてくれたんですよ! 僕は貴方の妻も同然なんです! 思い出してくれとは言いません! 過去の記憶なんてどうでもいいんです! せめて僕を信じて恋人だと……妻だと認めてもらえないでしょうか」
 胸元に抱き付いては交わりばかりを強いてくる。香山にしてみれば、実際に記憶が戻ってしまうことの方がまずいわけだが、羅辰たちからはよほどの奇跡でも起きない限りは思い出すこともない重い病だと聞かされていたので、安心して自分が伴侶だと言い張っていたようだ。
「結婚……? 俺があんたと……か?」
「そうです! あんなに愛してくれたのに!」
 そう言われてみれば確かに自分には大事に想う相手がいたような気もしてくる。
「結婚……嫁……」
 そうだ。確かに嫁と呼べる誰かがいたはずだ。
 だが、それが今目の前にいるこの男なのかどうかまでは思い出せない。
「すまない……まだよく思い出せなくてな」
 そんな周の態度に焦れるように香山はひたすらにベタベタとスキンシップばかりを繰り返していた。羅の舎弟である藩も二人を横目に苦笑いである。
「しっかしよくやるってーか、ああまで迫られちゃ周焔が気の毒にも思えてきますわ」
「好きにさせておけ。どうせ原石を掻っ攫っうまでの辛抱だ。周焔が鉱山に現れたことを知れば、遅かれ早かれファミリーが助けにやって来るだろうからな。そうすりゃ周焔もあの男から解放されるってもんだ」
「はぁ。しかしまあ例の薬ですが、よくできた代物っスねえ。周焔は広東語はもちろん、あの香山ってヤツに日本語で話し掛けられりゃ、ちゃんと日本語で答えてましたぜ! 記憶はねえってのに言語だけはどっちの国の言葉もしっかり覚えてるってんですから!」
「そういう仕様の薬なんだ。ヘンなことに感心してねえで、そろそろ準備に掛かれ。現地で怪しまれねえように周焔にはこのスーツを着せるんだ」
 羅は用意してきたそこそこ仕立ての良いスーツを舎弟へと手渡すと、いよいよ最終目的に向けて気を引き締めた。



◆23
 一方、香港で調査に当たっていた周隼と僚一らは、とあるバーのバーテンダーから気になる情報に辿り着いたところだった。羅がよく顔を出していたというバーで聞き込みを行っていた時のことだ。
「ええ……確かにこのお客様です。あの夜はお二人でお見えになられていまして、ファミリーを抜けて新しい組織を立ち上げるとかなんとか話しておられました。はっきり聞き取れたわけではありませんが、鉱山がどうのとおっしゃっていらした様な……」
 本来であれば易々と客の秘密をバラすようなことは絶対にしないバーテンダーではあるが、やって来たのは香港を仕切るマフィアの頭領本人だ。話の向きからしても明らかに犯罪であると思われることから、見聞きした知り得る限りのことを打ち明けてくれたのだった。
 羅と舎弟の顔写真を見せて確認したところ、バーテンダーはその二人で間違いないと証言した。
「鉱山というと、例の鉱山のことか? ヤツらの目的は掘り出した原石ってことか……」
 だとすればかなり大掛かりな計画だ。人員もさることながら運搬の車両も必要となってくることだろう。まあ運搬中の車両ごと奪取するというだけなら不可能ではないか。
「なるほど……。それで焔を拉致したというわけか。あそこへは周一族の者が直接出向かない限り麓の村にすら入れないことになっている。奴らはそれを知っていてDAを盛ったってことか……。記憶を奪い、鉱山の視察に行くなどと上手いこと吹き込んで焔を鍵に使うつもりだろう」
 僚一はすぐに隼らと共に鉱山へと向かうことにした。

 同じ頃、汐留の冰らのところにも驚くような情報が舞い込んできていた。至急伝えたいことがあるとマカオの張敏が冰宛てに連絡をしてきたのだ。
 リモートで繋ぎながら鐘崎らと共に張と対面で会話する。
『雪吹君、実はちょっと気になる情報を耳にしてね。以前キミのご主人たちを拉致したロナルド・コックスを覚えているかね?』
「ロナルド……ああ、もしかしてロンさんのことですか?」
『そうだ。今はキミのお父上の頭領・周から例の鉱山で三年間の労働を言いつかったロンだ。そのロンがどうしてもキミに連絡を取りたいと言って、知人を通して私のところへ連絡が来たわけだ』
 知人というのは鉱山での拉致事件の時に協力してくれた地元マカオの裏社会を仕切るボスの男である。確かロンと彼とは幼馴染であったはずだ。
『実はキミのご主人の周焔さんが鉱山へ視察にやって来たそうなんだが、ロンの話では以前とはまるで別人のようで、様子がおかしかったと言うんだ。ロンがキミのことを気に掛けて、姐さんはお元気ですかと声を掛けたらしいんだが、まるで無反応だったようでね。ロンの顔も覚えていないようで、なにより全く覇気が感じられないし、言い方は悪いが生気のない蝋人形のようだったと言うんだ』
 第一、周一族が視察にやって来るなどという予定自体なかったのだが、突然数人で現れて視察がしたいと言ったそうだ。周の周りには側近らしき男たちが数人ついていたそうだが、その誰もが初めて見る顔ぶれの上、あまり愛想もなく高飛車な態度だったようで、どうにも怪しいと思ったロンが冰に知らせた方がいいのではと、マカオの幼馴染に連絡してよこしたということだった。



◆24
「そうでしたか。張さん、ありがとうございます!」
 周の様子がおかしかったのはDAという薬物を食らったせいだろう。覇気がなかったというし、おそらく記憶が曖昧になり、ロンのことを覚えていなかったのもうなずける。羅辰たちはまんまと周を使って鉱山に潜り込んだというわけだ。
『ロンの話では現地の採掘公たちは全て外へ追い出されて、現在は立ち入りさえ禁じられているようでね。こんなことは初めてだと皆戸惑っているそうだよ。鉱山の坑道には周焔さんと側近の者たちだけが入って行かれて、採掘自体が休止状態になっているそうだ』
「追い出されてって……どうしてそんな。視察というなら現地のロンさんたちの案内がないと困るでしょうに……」
「つまり、ヤツらの狙いは掘り出された原石を奪うことか……」
 横から鐘崎が口を挟む。
「そんな……!」
 その推測に冰は驚き、大きく瞳を見開いた。ちょうどその時だった。香港の僚一からも連絡が入り、たった今、張から聞いたのと同じ内容が語られた。
「冰、すぐに鉱山へ飛ぶぞ! 氷川は間違いなくそこだ」
「鐘崎さん……。はい! すぐに支度をします!」
 羅辰の目的が鉱山にあると確信した一同は、急ぎ現地に向かうことにしたのだった。



◇    ◇    ◇



 中国南部、鉱山――。

「姐さんー! 姐さん! お久しぶりです!」
 冰らが麓の村に着くとロナルドことロンが待っていて駆け寄って来た。すっかり鉱山での生活にも慣れ、たいそう真面目にやっているようで、現場でも責任のある地位に抜擢されているらしく、冰はもちろんのこと鐘崎らもひどく驚かされてしまった。
「ロンさん! お元気そうでなによりです! この度はご連絡くださってありがとうございます!」
「いえ、まさかこんなにすぐ来ていただけるとは!」
 一通りの挨拶を終えるとロンが心配そうな顔つきで現状を報告してきた。
「早速ですが、実は先週から降り続いている雨の影響でここいら一帯も地盤が緩んでおりまして。俺たちは採掘場から追い出されちまったんで中の様子が分からないんですが、この調子だと落盤などの危険性もあって心配してたとこなんです」
 既に雨は上がっていたが、冰らが到着する直前までは結構な勢いで降り続いていたという。本来ならば早く様子を見に行きたいところなのだが、周と共にやって来た男たちにしばらくは現場に近寄るなと言われていて、どうしたものかと思っていたそうだ。
「周はその人たちと一緒に鉱山に入って行ったわけですね?」
「はい。ですがご主人は格好からして普通のスーツ姿でしたし、あれじゃ坑道を歩くだけでもたいへんなんじゃねえかと」
「ロンさんのことも覚えていなかったんですよね?」
「ええ、こんな言い方したら失礼ですが、なんだかボーッとしてて、前に見た時とは別人ってくらい雰囲気が変わっちゃっててね」
 おそらくは薬物のせいだろう。例のDAを盛られたのは間違いなさそうだ。
「そうですか……。ロンさん、すぐに助けに行きたいと思うんですが、ご案内をお願いできますか?」
 落盤の危険性もあるというし、一刻も早く救出に向かうべきだろう。だが、相手は羅辰たちだ。武器を持っていないとも限らない。
 鉱山のことなど何も分かっていない素人の彼らだけで中に入って行ったこと自体が既に驚愕なのだ。救出に向かうにしても相応の準備が必要不可欠である。どうしたものかと思っていた矢先、香港から周隼と僚一らが到着した。



◆25
 ロンは一族の姿を目にすると、さすがにバツの悪い思いがあるのかタジタジと冰らの後ろに隠れるようにしていたが、意外にも当の周風から真っ先に声を掛けられて驚いた様子であった。
「ロナルド、此度は情報に感謝する。弟の様子が変だと教えてくれたお陰で、ここにいることが突き止められた」
 ロンにとってみれば元々はこの周風に対する逆恨みから拉致などという大それたことをしでかしたわけだが、いくら情報を提供したといっても、まさか風本人から感謝の言葉を掛けられるなどとは思ってもみなかった為、驚かされてしまったのだ。
「い、いやぁ……俺の方こそアンタには悪いことしちまって……。それに何と言っても尊敬する姐さんのご主人のことでしたし」
 拉致事件の時の冰の采配ぶりに感銘を受けたロンが舎弟にして欲しいと言ったのは記憶に新しいところだが、未だにその思いは変わっていないようで、冰の亭主の一大事なら是非とも役に立ちたいと思い連絡を入れようと思ったのだそうだ。
「それに……あんなことをした俺を頭領・周は許してくださった。鉱山での採掘の仕事まで与えてもらって、感謝するのは俺の方です」
 それこそ意外にもこの鉱山での仕事がロンにとっては性に合っていたようで、今では一つのチームを任される班長の立場になっていた。それには周隼たちの方が驚かされたといったところだった。
「頭領・周、息子さんを助けに行かれるなら是非俺に案内させてください! 鉱山のことは鉱山の男に任せていただければ幸いです!」
 ロンがチームを率いて捜索に当たってくれると言うので、厚意に甘えることになった。
「すまんな、ロナルド。助力に礼を言う」
「いえ、とんでもねえ! 山に入るにゃいろいろと装備も必要なんで、俺たちに任せてください」
 案内はロンに頼むとして、冰が是が非でも共に連れて行って欲しいと言うので、鉱山へはロンのチームと共に冰、鐘崎、紫月、そして兄の風が同行することとなった。むろんのこと坑道の入り口までは父の周隼と僚一に源次郎らも共に向かい、医療機器を積んだ車両と医師の鄧も入り口で待機することとなった。万が一怪我などを負っていた場合に即対応する為だ。それと同時に探索に入る部隊に何かあった場合は、すぐに応援に駆けつけられるようにと互いに通信機器を持って挑むこととする。
 そうして現場に着くと、羅辰が手配したと思われるトラックが連なっていた。積荷を確認したところ、やはり掘り出されたばかりの鉱物のようである。
「案の定か。ヤツらの狙いは原石を盗むことで間違いないようだな」
 だが辺りに人影は見当たらず、数あるトラックの内、その殆どがまだ空のようだ。



◆26
 ロンの話では掘り出した鉱石は比較的入り口から近いところにある広い空洞に集められるとのことで、羅辰らがそこから荷運びを行なっているものと推測できた。
「ですが、掘り出した鉱物はつい先週に粗方運搬車が持って行っちまったんで、集積場には殆ど残っていねえはずですが」
 トラックに積まれた量から見ても、空洞にあった量と一致するという。なるほど鉱石が積まれているトラックを見ても、まだ満載には程遠く、思っていたより量が少ないことから、羅たちにとっては当てが外れたといったところなのか。
「しかしヤツらは何処へ行ったというんだ。誰一人見当たらないというのは変じゃねえか?」
「まさか鉱石の量が少なかったんで、他にも無いかどうか探して歩いてるんじゃあるまいな」
「勝手に坑道の中をうろついているとも考えられる……」
 だとすれば非常に危険だと言って、ロンは顔色を蒼くした。
「冗談じゃありませんぜ! ここの坑道は他所から比べりゃ平坦な造りではありますが、素人だけで奥へ入るのは危険過ぎる! しかもこのところの大雨で地盤が緩んでいるこんな時です。落盤で道が塞がることだってあるんだ!」
 ロンは落盤があった際に対応する為の機材なども装備すると、チームを率いて早速に探査へと乗り出す準備に取り掛かった。当然、冰や鐘崎ら同行する者たちにも手厚い装備品が貸し出される。
「姐さん、慣れねえとちょっと窮屈かと思いますが、安全の為です。辛抱なさってくだせえ」
 ロンは甲斐甲斐しく皆への装着を手伝うと、いよいよ坑道へと向かう。
「何かあればすぐに応援に駆け付ける。遼二、頼んだぞ!」
 父の僚一からそう託されて、鐘崎はしっかりとうなずいたのだった。
 坑道を少し進むと掘り出した鉱石が集められるという空洞が見えてきた。なるほど広い空間で、そこから表へと荷運びを行う台車などが散乱している。
「やはりこれを使って鉱石をトラックに積んだのは間違いないようッスね。しかし……手荒な扱いをしやがる」
 荷運びに使った台車や鉱石が入れられていた木箱などが方々に散らかっていて、泥や砂などで汚れたまま放置されている。普段使う大切な道具が雑に扱われていることに溜め息まじりで眉根を寄せているロンの様子にも鐘崎らは驚きを隠せなかった。きっと彼はこちらが思う以上にこの仕事に誇りを持っているのだろうことが窺えるからだ。
 変われば変わるものである。今の彼を見ていると、以前に自分たちの拉致を試みた輩とは思えないほどの変わりようである。これも冰への尊敬と、罪を犯した彼を赦してここでの仕事を与えた頭領・隼の処遇の賜であるとすれば、ほとほと感心せざるを得ない。そんな感慨に浸っていると、先に様子見に行かせていたチームの先導隊がロンの元へと戻って来た。



◆27
「班長、どうやらこの奥へ行ったのは間違いないようです! この先にこんな物が落ちていました」
 チームのメンバーが拾ってきたのは煙草の吸殻であった。それを目にするなりロンが眉を吊り上げる。
「なんてことしやがる……! 坑道には稀に天然のガスが漏れ出すことだってあるんだ! ひとつ間違えば大爆発を起こしかねない!」
 何も知らない素人の羅たちが吸ったもので間違いなかろう。ロンは大急ぎで坑道を奥へと進んでいった。
 幸か不幸か道筋には煙草の吸い殻の他に空のペットボトルや菓子パンの袋、他には乾電池なども捨てられていて、羅たちがここを通ったことを示していた。おそらくは持参してきた懐中電灯の電池が切れて入れ替えたのだろう。ペットボトルやパンの袋があるということは、彼らもある程度の長丁場を想定していたのかも知れない。それらをそのままゴミとして放置していくことにもチームとしては憤りを隠せないといったところだった。
 場慣れしているロンたちが準備してくれた装備品を身に付けていても、気を許せば現在地が分からなくなるほどに辺りは闇に包まれていて真っ暗である。普段採掘が行われる際には巨大な照明類が持ち込まれるそうだが、今はそれもない。何よりも物凄い湿度のせいでか、息をするのもやっとといったところで、額からは汗が滴り落ちてくる。慣れない冰らにとっては過酷な環境といえた。
 こんな所にしっかりとした装備もなく長時間居れば、体力の消耗どころか命の危険に関わりそうだ。普通のスーツ姿だったという周のことを考えれば、一刻も早く彼を見つけて救出しなければと焦るばかりだった。
 しばらく進むと、また少し広々とした空洞に出たが、今度は道が四方に向かって分かれていることに気がついた。
「ここから先はこれまで来た道のように平坦な所ばかりではありません。地下河川が通っている所もありますし、万が一その道を選択していれば非常に危険です!」
 ロンの言うには先日からの大雨によって水かさが増えているのは間違いないそうだ。
「しかし四方向とはな……。ヤツらがどの道へ入ったのかが分からんことには厄介だな」
 鐘崎がタブレットで坑道の地図を見ながら渋顔でいる。
「おそらくですが、素人が進みやすいと判断するなら一番平坦に見えるこの道じゃねえかと思うんですが……」
 ザッと四つの穴を見渡せば、確かに一つだけ平坦な道がある。他の三つは急激な上り坂になっていたり、大きな岩がゴロゴロしていたりして、進むには困難だ。
「だがこの道を行ったとすれば非常にマズイっす!」
 ロンによればそこは地下河川に通じているというのだ。



◆28
「ご主人たちが坑道に入ってから既に丸二日は経っています……。水や食糧くらいは持っていったとしても、中で迷っている可能性もある。この辺りは石灰岩で出来ている地層と重なっているので、奥へ行けば鍾乳洞のような箇所もあります。流水で削られた岩は鋭利な刃物も同然なんです! 万が一足を滑らせたりして怪我を負っていないとも限らねえ」
 ロンの判断でまずは一番平坦な道に捜索を絞るのが賢明だということになり、一同はもう少し奥へと進むことにした。
 十分ほど行くと、案の定か落盤に突き当たり、蒼白となった。
「クソ……ッ! やっぱりか。雨で緩んだ地盤が崩れてきやがった」
 岩肌には水が滴り落ちている箇所があり、空気も薄くなっているのかどんどん息苦しさが増してくる。
「仕方ねえ。まずはこの岩を取り除こう。ご主人たちがこの先に進んでいたとすればマジでやべえ!」
 ロンたちチームが一丸となって崩れた岩を取り除いていく。
 鐘崎らも手伝い、皆で作業を続けていると、小さな隙間が出来て、何とかその先の様子が窺えるようになった。
 穴から懐中電灯で照らしてみたが、光の届く範囲は狭く、人影は見当たらない。代わりに水の流れるゴウゴウという音だけが聞こえてきて、更に焦りが募った。
「やっぱり水かさが増していやがる! こいつぁ急がねえと!」
 ロンがチームに穴を広げさせていく中、冰は居ても立っても居られずに懇願した。
「ロンさん! この穴の大きさなら俺だったら何とか通れると思います! 先に行かせていただけないでしょうか!」
 なんと冰は一人でこの先へ行きたいと言うのだ。
「バカ言っちゃいけませんぜ! 姐さん一人でなんて危険過ぎる!」
「ですが白龍が……周が中に居るかも知れないんです! 一刻も早く助けないと……。彼は今、薬物を盛られていて、本来の思考能力が働かない状態なんです!」
 普段の彼なら自分の身を守るのに最善の行動を考えられるかも知れないが、あのDAを盛られた現状では自分の置かれている状況すら考えられずに、ただただ呆然としていることしかできないでいるだろう。以前同じ薬を盛られた際の鐘崎の様子からもそれは明らかだ。
 何も考えられないまま増水した河川に呑み込まれたとしても、本人はその事実さえ認識できないでいる可能性も高い。
 もしかしたら羅たち一味は危険を察知して逃げるかも知れないが、足手まといになりそうな周を置き去りにすることも十分考えられるのだ。
 そんな想像をすれば一分一秒でも早く助けに行きたいという冰の気持ちは理解できないでもない。
「分かりました。姐さん、俺が一緒に行きます!」
 ロンはチームに引き続き落盤を取り除くように指示すると、鐘崎らに対してもここに残って連絡を待ってくれるようにと伝えた。



◆29
「この先少し行けば河川にぶち当たります。水量によってはもっと機材が必要になるかも知れませんから、アンタらはここで待機してください」
「分かった。それまでに何としてもこの落盤を取り除いておく!」
 鐘崎らは自分たちもチームを手伝いながら、とにかくは崩れた岩を片付けて道を開けることに専念することにした。
 そうして冰とロンが少し進むと、道はまたしても二手に分かれた。一方からは水の流れる轟音が聞こえていて、もう一方は緩い下り坂だが歩けない感じではない。
「普通に考えればおそらくはこっちの道を選んだはずですが、水かさが増す前だったら河川の方へ降りたとも考えられる」
 どちらへ進むべきか、ロンがしばし考えていると、突如河川の方向から人がやって来る気配を感じて、二人は咄嗟に灯りを向けた。
 フラフラと今にも死にそうな面持ちで現れたその人物を目にするなり、冰は絶句するほど驚かされてしまった。なんとそれはあの香山だったからだ。
「香山さんッ!? 何故あなたがここに……」
 驚いたのは香山の方も一緒のようだ。
「アンタ……こそ」
 だが、香山にとっては驚きよりも安堵の気持ちの方が強かったようだ。
「そ、そんなことより助けてくれッ! この先は川の水が増してて……とんでもないことになってる! 道には迷うし……俺だってもうダメかと思ってたんだ!」
 ゼイゼイと肩を鳴らしながらも、とにかくは見知った冰の顔を見たことで安心した面持ちでいる。自分が彼にしたことなどすっかり忘れたかのように、口を開けば『助けてくれ』の一点張りだ。
「それよりあなた一人ですか? 他の方々は……白……いや、氷川は何処ですッ!」
 すると香山からは驚くような答えが返ってきた。
「他のヤツらはとっくに逃げちまった……。俺らを置いて行きやがったんだ!」
「逃げたですって? それで氷川はッ!?」
「あの人は……もうダメだ」

 ――――!?

「ダメってどういうことです!?」
「……分っかんねえよ! 俺だって自分のことだけで必死だったんだ! 他人のことなんか構ってらんねえ状況なんだよ!」
「構ってらんないって……あなたは氷川と一緒だったんじゃないんですか!?」
「っつーかよ! あの人のせいで俺まで置き去りにされたようなものなんだ! 畜生……ッ、あいつら、とっとと自分たちだけ逃げやがって!」
 香山の話によると、周は終始ぼうっとしていて、皆に連れられて歩いているだけだったというのだ。河川の増水に慌てるでもなければ避難路を探すでもなく、ただ呆然と突っ立っているか道端に座り込んでいるだけで、使い物にならないと判断した羅たちが見切りをつけたらしい。香山自身もそんな周と共に置いて行かれてしまったと憤っていた。



◆30
「仕方ねえから二人で何とか出口を探そうとしたんだが、あの人は俺に付いてくるだけで自分じゃ何もしやしねえ! 道を探すわけでもなけりゃ、ただボケっとしてて……あの人と一緒にいたんじゃこっちまでお陀仏だ!」
 だから見捨てて置いて来たというのだ。
「冗談じゃない!」
 冰は真っ青になりながら香山がやって来た方向へと駆け出した。
「行っても無駄だぜ! あの人は岩に座ったっきり動こうともしなかったから置いて来たんだ。今頃は水に埋まってとっくに流されちまってるだろうよ! それよりアンタも早く逃げた方がいいぜ!」
「……ふざけんなッ!」
 冰は堪らずに舌打ちながらも、必死の形相で河川へと走った。
「親切で言ってやってるのによ!」
 遠くから香山が罵倒する声が聞こえたが、最早そんなことはどうでもよかった。
「姐さんッ! 待ってください、姐さん!」
 ロンもまた冰を追おうと駆け出したが、香山に捕まってしまい、出口を教えろとせがまれた。
「あんた、地元の人間か? ここいらのことには詳しいんだろ? だったら出口を教えてくれ!」
「出口はそっちだ! ここを真っ直ぐ行きゃ俺の仲間がいる。一本道だから迷うこたぁねえ」
「本当だろうな? 嘘付いたら許さねえぞ! つーか、あんたが途中まで案内してくれよ!」
「そんな暇はねえ! こちとらそれどころじゃねえんだ!」
「見捨てるってのか? 他所者だからって邪険にしたら地元民の評判にかかわるぜ!」
 どうやら一人で行くことに不安があるのか、がっしりと腕を掴んだまま離さない勢いだ。そんな彼をなんとかして振り払いながら、来た道を指差して方向だけ教えると、ロンは必死に冰の後を追ったのだった。

 一方の冰は無我夢中で真っ暗な坑道を突き進んでいた。
 水の音が大きくなる毎に辺りの空気もひんやりとしてくる。そんな中、河川が見えてきた少し手前の窪地に身体半分まで水に浸かって座り込んでいる人影を見つけた。
 灯りを向けると、それは紛れもなく周であった。
「白龍ッ!」
 岩壁に寄り掛かるようにしてぐったりと目を閉じている。顔色は真っ白で血の気を失っている。そんな様子を目にしただけで一気に心拍数が爆発する。ドキドキと脈打つ動悸を抑えながらも冰は夢中で水溜りに潜り込んで屈むと、彼の胸元へと耳を当て、心臓音を確かめた。
 水音がうるさくて邪魔だが、微かに脈打つ感覚がはっきりと耳を揺さぶる。

(よかった! 生きてる――!)

「白龍ッ! 白龍、しっかりして!」
 両腕を彼の脇の下へと突っ込んで一気に引き摺り上げんと試みるも、半分以上水に浸かっているのでスーツも水を含んでいて相当に重い。
「……ッん! フッ、くぉおおおーーー!」
 力んでも力んでもなかなか思うように立たせられない。
 ふと触れた周の手が氷のように冷たくて、冰はカッと身体中が燃えるように熱くなるのを感じた。

 急がなきゃ……! この手……大きくて温かくて、いつも俺の頭を撫でてくれたこの手を本当に氷のように冷たくしてしまうなんて絶対にあっちゃならないッ……!

「白龍! ちょっと痛いかもだけど我慢してね! うりゃあーーー!」
 普通の状態からすれば抱え上げることさえ無理に等しいが、火事場の馬鹿力の如く気力だけが冰を突き動かした。持てる力の全てで再び抱き上げると、今度は水の中から引きずり上げることに成功する。
「いけそうか……しっかり、白龍ッ! 必ず助けるからねッ!」
 冰は彼を岩肌へと押し付けながら立たせると、自分の背におぶるようにして担ぎ上げた。



◆31
「よし……なんとかおぶれた!」
 冰と周とでは当然だが体格の差があり過ぎる。逆ならばともかく華奢な冰が大柄な周をおぶるのは楽ではない。しかも意識がない状態だから体感的には重さは倍くらいに感じられるだろう。その上スーツは水浸しで、一層重みを増している。空気はただでさえ希薄だ。正直なところ歩くのも精一杯といったところだった。
 足元もおぼつかない中、岩壁に手をついて必死に進む。ふと、脳裏にいつかの飛行機の中での紫月の言葉が蘇った。
 あれは確か周のプライベートジェットで香港から帰って来る機内だった。紫月と共にお茶を届けに周と鐘崎の元へと向かった時だ。二人共に寝入ってしまっているのを見て、ジャケットや靴下を脱がせて、寝やすいようにしてやったのだ。
 その時に紫月が口走っていた。
『こーゆー時にでっけえと苦労するよなぁ』
 鐘崎の大きな身体を右へ左へと転がしながら、やっとのことでジャケットを脱がせていた仕草を思い出す。憎まれ口を叩きながらも紫月は嬉しそうだった。そしてその”でっけえ”亭主を見つめる瞳は愛情にあふれていた。
「そうだよ、俺だって男だ! この世で唯一人の亭主も担げないようじゃ男が廃るってモンだよ!」
 またあの日のように皆んなで笑い合えるよう、今は何としてもここから脱出することを一番に考えなければいけない。
「けどホント、こーゆう時にでっけえと……苦労しますね、紫月さん!」
 冰は笑いながらも自らを奮い立たせんと、紫月の笑顔を思い浮かべながら必死に重たい亭主の身体を背負って歩み続けた。脳裏にはすぐ隣で紫月も鐘崎をおぶり、二人揃ってガタイのいい亭主を背負って歩く幻想が思い浮かぶ。
『ふんあー! マジ重えー! つか、背中に固い腹筋が当たって痛ええー! 冰君も大丈夫かぁー?』
『ええ、なんとか……。白龍も鐘崎さんも筋肉質ですもんねー』
『ホント! 無駄に鍛えてっかんなぁ。こんにゃろ、後でたっぷりご褒美ぶんどってやっからなぁ!』
『ご褒美って何ですかー』
『んー、そうだな。例のラウンジのケーキ一年分!』
『あっははは! 紫月さんてばホントに甘味大魔王なんですからー』
 互いの顔を見合わせながら笑う。重い亭主を担ぐ紫月の顔は愚痴とは裏腹に誇らしげで、愛情溢れんばかりだ。脳裏に次々と浮かんでくるそんな想像が冰に力を与え、どれほど勇気付けてくれたことか知れない。
 ふと、背中の周に意識が戻ったのか、
「こ……こは?」
 聞き慣れたその声にハッと首を捩って振り返る。
「白龍ッ! 気が付いたの?」
 冰が感嘆の声を上げるも、当の周は彼が誰なのかも分かっていないようだ。
「あ……んたは誰……だ? 俺はどう……して」
 やはり例の薬物のせいで何も覚えていないのだ。冰は切ないながらも愛しいその声を聞けただけでホッと胸を撫で下ろした。そして、何も分からないでいる彼を驚かせないように明るい声で応対する。
「あなたを助けに来たんですよ。この先少し行けば仲間が待っています。もうちょっとですからがんばりましょう!」
 岩壁に冰の頼もしい声音が反響してこだまを繰り返す。
 すると周の方も不思議な安堵感を覚えたのか、ゆっくりと瞳を見開きながらこう訊いた。
「助けに……来た? あ……んたは救助隊か何かか?」
 今の彼にとって冰は明らかに他人なのだろう。切なさが込み上げる。
 それでも冰は彼が生きていてくれただけでよかった。
「ええ、そうですよ! 救助隊の僕が来たからにはもう大丈夫です! さあもう少しですからしっかり掴まっててくださいね!」
「す……まない。世話を……掛ける」
 それだけ言うと周はまた気を失ってしまった。
「白龍、安心して休んでてね! 絶対に助けるから!」
 ずり落ちそうになってきた重い身体を再び背負い直すと、冰は気力を振り絞って出口を目指したのだった。




◆32
「姐さん! 姐さーん!」
 しばらく行くと、こちらへと向かって来るロンの声が坑道内に反響するのが聞こえてきた。
「姐さん! 良かった、無事でしたかッ! ご主人は……」
 よろよろしながら周をおぶって歩く姿にロンが瞳を見開く。
「大丈夫。お陰様で息はあります……」
「そっか! 良かった!」
 ロンは『代わりましょう』と言って、冰の背から周をもらい受けた。
「すみませ……ロンさ……助かります」
 既に冰自身にも手助けが必要なくらいの虫の息だ。すると、今度は遠くの方から鐘崎らの呼ぶ声が聞こえてきて、二人はホッと肩を撫で下ろした。崩れた岩盤を退け終えて二人を追って来たのだ。
「助かった……。姐さん、もうちょいですから! がんばりましょう」
「ええ……ロンさん、ありがとうございます。本当に……」
 すっかり気が緩んだ冰が倒れ掛かったところを追いついて来た兄の風が支え、受け止めた。
「すまなかった冰! ロナルドも……感謝する!」
 出口までは兄の風が弟をおぶり、冰の方は鐘崎がおぶって、一同は無事に坑道を脱出したのだった。

 その後、すぐに待機させてあった医療車へと運び、医師の鄧によって適切な処置が施されていった。この辺りの山中からは大きな設備の整った病院までは遠いので、医療車を持って来たのは大正解であった。
「衰弱が見られますが目立った外傷はありません。身体を温めて体温を維持していけばもう心配はいりません」
 鄧の言葉に誰もが胸を撫で下ろす。冰にも鎮静剤が与えられ、しばし周と共に休ませることにしたのだった。
 一同はロンらチームに厚く礼を述べると、後日また改めてと言い残し、ひとまずは周らの手当ての為に鉱山を後にした。
 その後一番近いマカオまで行き、周の体力が回復するまで三日ほどを過ごした。その間、父の隼と兄の風とで、ロンからの言伝を知らせてくれた張敏らにも挨拶に回って歩いた。
 周の容態は日に日に快方へと向かったものの、例の薬物によって記憶の方だけは相変わらず曖昧のままだった。家族の顔を見ても何も思い出せず、自分が何処の誰かも分からないという。それ以前に呆然としていることが多く、話し掛ければかろうじて相槌は打つものの、まったく覇気が感じられない。視点も定まっておらず、こちらの話が理解できているのかいないのかと不安が募るばかりだ。つまり感情がない状態の人形のようであった。
 父と兄はこのまま香港の自宅で彼を引き取って看病をと言ったが、医師の鄧が普段の生活に戻してやった方がいいとの見解を示した為、冰と共に汐留に戻ることにする。
「お父様、お兄様、白龍のことはお任せください。記憶が戻ったら必ず二人揃ってご報告に帰って参ります」
 冰もそう言うので、周のことは彼に任せることになったのだった。
 周自身は東京へ戻るも香港の実家へ行くも、どちらがいいかなど判断がつくはずもない。ただ言われるままに付き従うといった様子であったが、そのことからも覇気どころか自我さえ朧げであることが分かる。冰にとっては彼が生きて怪我もなく無事に見つかってくれただけで何よりであったものの、この先の生活は頭で思う以上に辛いことや切ないことも出てくるだろう。
 これまでも様々な事件を乗り越えてきた二人だが、それとはまた意味合いの違う壁が二人の前に立ちはだかっているのは事実である。

 周と冰の――未だ知らぬ永き道のりが始まろうとしていた。



◇    ◇    ◇



エピソード「謀反」前編了

※拙作をご覧くださいまして、誠にありがとうございます。
「謀反」後編準備の為、しばらくお休みをいただきます。また、よろしければ再開のおりにはお付き合いいただけましたら幸甚でございます。何卒よろしくお願い申し上げます。一園拝



◆33
 汐留、周邸――。
 プライベートジェットで医療車ごと汐留へと戻った周が意識を取り戻したのは鄧の医務室だった。
「気が付かれましたか? ご気分はいかがです?」
 穏やかな声で話し掛けられて、周はぼんやりとそちらを振り返った。相手は白衣を着た男、聞かずとも医者だろうと分かった。マカオ滞在中にも顔を合わせていたので、この医師のことは覚えていた。
「あ……あ、ここは?」
「日本の東京です。私はあなたの専属医で鄧浩と申します」
「東京……」
「ここはあなたのご自宅の中にある医務室です。ご容態が落ち着かれるまではしばらくここに入院といった形を取らせていただいていますが、経過を見てお部屋の方にも戻れます。もう何も心配はいりませんので、安心してご養生なされてくださいね」
「自宅……」
「ええ、そうです。あなたを見つけた鉱山を出た後、しばらくの間はマカオに滞在していました。ご容態が落ち着かれたのでご自宅へ戻ってきたわけです」
「ここが自宅……なのか? 随分と立派なところのように思えますが……」
 医務室だというここは設備こそ最新のものが揃っているものの、周が休んでいる部屋は造りも豪勢で、まるで高級ホテルの一室のようだ。何も覚えていない周からすれば、ひどく不思議に思えるのだろう。鄧は驚かせないようにゆっくりと言葉を選びながら、必要最小限の経緯を説明した。
 まずは周が現在記憶を失くしているということと、この社を経営していることだけが告げられる。マカオでの滞在中に周隼が父親で、周風が兄だということは伝えていたので、ザッとではあるが生い立ちや名前などは正直に打ち明けていた。
「具合の悪いところはございませんか? 頭が痛いとか怠いなど、どんなことでもご遠慮なさらずにおっしゃってくださいね」
「ああ……気分は悪くない……。ただ何も覚えていないだけです……。ここは東京だということですが、自分がここに住んでいたことすら思い出せない……」
 やはり何も覚えていない様子だ。
「あなたがご記憶を失ったのは薬物を盛られたせいです。薬が切れるまでに時間は掛かると思いますが、私共で薬の成分を分析したところ効果は一生というわけではない可能性が分かりました。慌てずにゆっくり構えていてくだされば、いつかはきっと思い出せる日がきます」
 鄧は心配せずに今はとにかく身体を休めることを第一に考えてくださいと言った。
「少しお待ちになっていてください。今、あなたの秘書をしている御方をお呼びしますね」
 冰は既に社に出ているので、周が目覚めたら声を掛けることになっていたのだ。
「秘書……?」
「ええ、あなたの秘書の方です。彼は今、社の方を切り盛りして頑張ってくださっておられるのですよ」
「俺の……秘書……。俺には秘書がいるの……か?」
 天井を見上げながら呆然とそんなことを呟く。
 しばらくすると血相を変えるようにして飛んできた青年の顔を見た途端に、周はわずかに瞳を見開いた。



◆34
「あ……んたは……」
 そう、救助隊の青年だ。暗闇の洞窟のような場所から自分を助け出してくれたこの青年の顔はぼんやりとだが覚えていた。
「確か……救助隊の……」
「こちらは冰さんです。周焔さん、あなたの秘書をなさっている方ですよ」
 鄧がそう紹介すると、
「雪吹冰と申します。周さん、ご容態は如何ですか?」
 冰も穏やかにそう名乗った。
 何も覚えていない周に対して一度にたくさんの情報を与えても混乱させるばかりであろう。そう思った冰は、自分が彼の伴侶であることを伏せて、しばらくはただの秘書だと名乗るに留めることに決めた。鄧や真田らにもそう告げていたのだ。
 そんな冰に続いて真田も息咳切らしながら駆け付けてきた。
「こちらは真田さんです。周さんが生まれる前からずっとお邸のことを見てくださっていた御方ですよ」
 つまり執事だそうだ。冰にそう紹介されて、真田もほとほと心配そうに瞳を細めた。
「坊っちゃま……真田でございます。誠心誠意お世話をさせていただきます! どうぞ何なりとどんなことでもお申し付けくださいまし!」
 その顔つきから本当に心を痛めて心配していることが分かる。
「執事に……秘書……」
 周には自分の周りにそんな者たちがいるというのが不思議でならないようだ。先程聞いた医師からの話では、どうやら自分は割合大きな会社を経営しているらしいし、執事や秘書がいてもおかしくはないのかも知れない。そう思えども、やはり何一つ過去のことは思い出せないままだ。覚えているのは羅辰らと共にいたことと鉱山に連れて行かれたあたりから以後のことだけだった。
「……す……まない。何も……思い出せないんだ」
 医師の鄧といい秘書の冰といい、執事だという真田も皆が本心から自分を案じていてくれるのだろうことはなんとなく感じられる。実際、羅辰らにも同じようなことを聞かされたが、今ここに集まっている者たちには不思議と安堵感を覚えるのも確かだ。羅たちといる時には微塵も感じなかった感情だ。
 きっとこの人の好さそうな三人も記憶を失くしていることを憂いているに違いない。何故覚えていないのかと泣きつかれたりもするのだろうが、なるべくならば彼らに心配を掛けるようなことは控えたい。おぼろげにそんなことを思っていた周であったが、秘書の冰から飛び出した言葉は想像とは真逆の穏やかなもので、周はある意味ひどく驚かされてしまった。
「無理に思い出そうとなさる必要はございません。僕らは周さんがこうしてご無事でいてくれただけで充分なんです! どうかくれぐれも焦らず、ご無理はなさらないでください。今はただご安心なされてゆっくりお身体を休めることに専念されてくださいね」
 穏やかな笑顔を向けられて、周は上手く言葉にならないまま胸が熱くなるのを感じるしかできなかった。



◆35
 その後、冰と真田はそれぞれ仕事に戻っていったが、夕方になるとまた二人が医務室へとやって来て、食事の世話などをしてくれた。そんなことが数日続き、容態も大分安定したからということで自室へ戻ることになったが、相変わらずに記憶は戻らないままだった。
 それでも冰と真田はまったく焦れることもなく、常に穏やかに接してくれる日々が続いた。
 朝食は秘書の冰と一緒にし、彼は言葉数こそ多くはないが、粥をよそってくれたり茶を淹れてくれたりと甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。無理に会話を強要することはなく、黙っていながらも何かの拍子にふと視線が合えば穏やかな笑みで安心させてくれる。そんな彼は昼間は仕事に行くが、昼食は真田が、そして夜はまた秘書の冰が共にダイニングにつき、なにかと細かい気配りをしてくれる。
 特には会話もないままだが、周は彼らが側にいてくれることで不思議と安堵感を覚えるのが心地好くも思えていた。

 そんな中、ある日の診察中のことだった。
「先生、ひとつ訊いてもいいか?」
 珍しくも周が自ら話し掛けてきたことに驚きながらも、鄧は『何でも訊いてください』と言って穏やかに微笑んだ。
「あの秘書だという青年だが……彼はどういう……」
 そこまで言い掛けたものの、再び押し黙ってしまう。おそらくはどういう人間なんだと訊きたいのだろうが、上手く言葉にならないようだ。
「秘書というと冰君のことですね?」
「ああ……。あの時、山の中の洞窟で……あの青年が俺を助けに来てくれたのは覚えてるんだ。俺は救助隊かと思っていたが、ここに来てあんたらから秘書だと聞いて驚いた。あの時、俺が『救助隊か?』と聞いたら、彼もそうだと答えたような気がする」
 秘書であるならどうしてその時にそう言わなかったのかというのが、周にとっては不思議でならなかったようだ。
「実は……あんたらが助けに来てくれる前に俺と一緒にいた男から……俺には男の嫁がいると聞かされていた。その男は自分がその嫁だと言ったが、俺はどうしても思い出せなかった。というよりも――信じられなかった……と言った方が正しいか……」
 つまり香山のことを言っているのだろう。記憶がないのをいいことに、香山は自分が周の嫁だと言い張ったのだろうことは、勘のいい鄧にはすぐに理解できた。
「――その男の名前は覚えていますか?」
「ああ。香山淳太と名乗っていた」
「香山……ですか」
 ――やはりか。
「だが……嫁だと言ったその香山という男も……気が付いたら居なくなっていた。次に気付いた時にはあの秘書だという青年に助けられていたというわけです」
 嫁だと言い張った香山はこちらが何も思い出せないでいることに焦れていたという。周自身も何故かその香山に対しては、何を言われても全くといっていいほど気持ちが動かなかったというのだ。



◆36
「周焔さん、その香山という男は他に何か言っていましたか?」
「ああ……。俺たちは男同士だが、俺が香山を愛して結婚を申し込んだと言っていた。思い出せないなら今からまた愛し合えばいいと」
「なるほど。それであなたは何と答えられたのですか?」
「いまは何も思い出せない……すまない、とだけ」
「香山さんはどういう反応をされましたか?」
「……えらく嘆いて、焦れていた。まあ、本当に俺が彼を愛していたのなら申し訳ないことだとは思ったが……」
「そうですか……」
「なあ、先生。先生は俺のことを良く知っているんだよな? だったら教えてくれないか? 俺は本当にあの香山という男と結婚をしていたのでしょうか?」
 どうやら周は自分がこれまでどのように暮らしてきたのかを知りたがっている様子だ。たとえ記憶が戻ってはいなくても、そういった自我が芽生えてきているのはいい兆候だ。なにしろこれまでは呆然としていて自我も欲求も何も感じられなかったわけだから、少しずつ快方に向かっているという明らかな証拠といえる。
 それと同時に、鄧が光明を感じるのは周の話し方だった。極めて丁寧に話してはいるが、言葉の節々にこれまでと同様のニュアンスが見てとれる。おそらくは無意識の内にも彼の中に過去の記憶が生きているのだろうことが感じられるのだ。鄧は周自身が話したいことがある内は徹底的に付き合うことに決めた。
「周さん、まず……あなたに男性の伴侶がいて、結婚していたことは事実です。しかしお相手はその香山という男ではありません。彼は以前あなたの経営する社に勤めていた元社員というだけです」
「香山が元社員? ではあの男は俺に嘘をついたということ……なのか?」
「その通りです。香山はあなたに恋情を抱いていたようですから、あなたの記憶がないのをいいことにデタラメを吹き込んだのでしょう」
「でたらめ……。何故そんなことを」
「どんな手を使ってもあなたを自分のものにしたかったのでしょう」
 周は『はぁ』と溜め息をつきながらも、今度はまた別のことを尋ねてきた。
「だったら……俺が結婚していた男というのはいったい誰なんです? ここに来てからその男とはまだ会ってもいないが……」
 結婚していたというくらいなら、当然心配して一番に駆け付けてくれてもいいはずだと思うのだろう。それ以前にここは自宅であるというのに伴侶たるその男が一緒に暮らしていないのはおかしいと思っても不思議はない。
「それとも……その男と俺はあまり上手くいっていなかったということでしょうか?」
 もしかしたら別居でもしていて、既に仲は冷え切っていた。だから会いにも来ないのか、と周はそんなふうに思っているようだ。さすがの鄧もこれには少々答えに詰まってしまう。
 あの秘書の青年があなたの伴侶ですよと教えるのは簡単だが、当の冰本人がその事実を伏せているのだから、鄧としても自分の口から言ってしまうのもどうかと躊躇うところなのだ。



◆37
「周さん、あなたのご伴侶はあなたのことを何よりも大切に想っておられますよ。会いに来られないのはあなたが一生懸命に作り上げてきた会社の方に専念されているからです。ここは本社ですが、他に関連企業などが日本の各地にございますし、いつかあなたがご復帰されるその日まで社の運営をとめるわけにはいかないと頑張っておられるのです。お二人の間は決して上手くいっていないわけではない。むしろあなたを大切に想えばこそなのです。それに、あなたならば私が教えずとも、いずれあなた自身で大切なその人を見つけられるはずです」
 鄧はこれも治療の一環なのですよと言うに留めた。
「今はまだ……俺には教えられないということか」
「教えられないのではなく、あなたなら例え記憶が戻らなくとも、大切なその方のことだけは絶対に見つけられると思うからです。変な先入観を持たせずにあなた自身で見つけられる日が来るのを待ちたいと思うのです」
 鄧は、仮にその伴侶が誰かということを教えたとしても、それこそ香山のように嘘という可能性もあるでしょうと説明をした。
「極端な話ですが、例えばあなたの金銭や権力が目当ての輩が『僕が伴侶です』と一度に数人が名乗り出てきたとしたら、あなたはその中から本当の伴侶を選べるでしょうか。ご覧の通りあなたが経営なされているこの会社は非常に大きく立派なものです。この機会に乗じて自分があなたの伴侶だと名乗り出てくる輩がいたとしても不思議はないでしょう?」
 仮に数人が例の香山という男のように『我こそがあなたの伴侶です』と言ってずらりと並んだとして、誰が本物なのか当てられるかと言われても自信はない。
「……それは……確かに難しいかも知れない」
「そんな時に頼りになるのは、やはりご自分自身の気持ちと本能しかないのですよ」
 鄧はそう言った。
「そうか……。そう言われてみれば確かにそうだな。俺はあの香山という男に彼が俺の嫁だと言われても……どうしてか信じられなかった」
 周は納得したようだった。
「それと……もうひとつ不思議に思えるのは、あの秘書の青年のことだ。彼もまた……自分が俺の秘書だとは言わなかった」
 だが、実際には秘書であるにもかかわらず、救助隊かと訊いたことに対して、『そうですよ』と答えたというのだ。
「香山という男とは逆だが、俺はあの青年に助けられた時に何故だか分からんがホッとした気持ちになってな」
 周は、愛して一緒になったはずの香山よりも、初めて会う救助隊の男に安堵感を覚えたことが不思議でならなかったのだと言った。
「冰君はおそらく記憶を失くしたあなたを気遣って、訊かれるままに救助隊だと答えたのでしょう。彼にとってはあなたと彼がどのような間柄であるとかはどうでもよく、ただあなたが生きて無事でいてくれたことが何より嬉しかったのだと思いますよ」
「俺の無事が……嬉しかったというのか?」
 まあ、秘書ならば社長の無事を喜ぶのは当然なのかも知れないが、彼はあの細い身体で自分をおぶってくれて、がんばりましょうと勇気付けてくれた。その言葉がストレートに心に染みた気がするのだ。
「いったいあの青年は俺にとってどういう……」
 そこまで言い掛けて、周は突如辛そうに瞳を歪めて頭を押さえ込んだ。



◆38
「どうしました!?」
「いや、大丈夫だ。少し頭が痛くなっただけだ」
「そうですか……。もしかしたら記憶が戻りつつある兆候かも知れません。今後も頻繁に起こる可能性があります。少しでも体調に変化を感じた時はすぐに私に言ってくださいね」
「ああ……すまない先生。世話を掛ける」
「いいえ、どうかご遠慮なさらずに。体調のことだけでなく、思ったことや不思議に感じることなど、どんな小さなことでもいいのでお話くださいね」
 鄧は穏やかに微笑むと、『そうだ』と言って席を立った。
「お茶でも如何ですか? 実は私、茶葉を集めるのが趣味でしてね。リラックス効果のあるお茶でも淹れて参りましょう」
 鄧が準備をする姿を横目に、周はまたしても不思議な感覚に囚われるのを感じていた。
 頭の中で聞こえる声が次第に大きく鮮明になっていくのを感じる。

『鄧先生は茶葉を集めるのがご趣味だもんね! ここでしか手に入らないような珍しい茶葉とか買っていってあげたいな』

 いつか誰かが言っていたような気がする言葉だ。その時はとても幸せで、穏やかな気持ちでその言葉を聞いていたような気がする。
「あれは……誰だったんだ」
 ニコニコと笑うその笑顔がとても愛しく思えていた気がする。だが、肝心のその顔が思い出せないのだ。
 ふと、脳裏に秘書の青年の姿が浮かぶ。

(あの青年だったらきっとあんな笑顔で笑うのだろうな)

 彼のことを思い浮かべるだけで気持ちが穏やかになっていくのが不思議と心地好かった。



◇    ◇    ◇



 その夜、夕飯の時に周は思い切って秘書の青年と会話をしてみようと思った。これまではただ一緒に卓について、特には思うことも感じることもなく出されたものを食べるだけで終わっていたのだが、昼間医師の鄧と話をしたことによって、他の者ともコミュニケーションを取ってみたいと思うようになったのだ。周自身、自分でも驚くような欲求といえた。
「冰……君だったな? 少し話してもいいか?」
 周に話し掛けられて、冰は驚いたように瞳を見開いた。だがすぐにやわらかな笑顔を見せてくれたことにホッとする。
「もちろんです。俺も周さんとお話させていただけるのはとても嬉しいです!」
「そうか……すまない。まだ自分がどこの誰かも思い出せないのでな。上手く話せるかどうか分からんが……」
「構いませんよ。急ぐことはありません。ゆったりと構えていてくだされば、いつか自然と思い出せる時がきますよ」
 慌てることはないと微笑んでくれる。こう言ってはなんだが、例の香山という男とは正反対だ。彼は何につけても焦れたり強要したりするばかりだった。



◆39
「冰君は俺の経営しているという社で毎日業務に携わってくれているんだよな? 仕事は大変ではないか?」
「いえ、全然! 俺は元々大して役に立っているのかいないのかという感じでしたし、業務のことは李さんと劉さんがしっかり見てくださっているので。周さんがご復帰なされるまで俺も微力ですが少しでも李さんたちのお手伝いができるようにと思っています」
「そうか……。キミにも李さんや劉さんにも世話を掛けてすまないな」
「いいえー! 俺たちはこれまでいつも周さんに支えられて、散々お世話になってきたんです。今こそ恩返しする時です。それに社の仕事は楽しいですし!」
 周は『そうか』と言って、わずかだが笑みを見せた。
「冰君はどうして俺の秘書になったんだ? 俺たちはどうやって出会ったのかが知りたくてな」
 そんなことを訊いてくる周の言葉に驚きつつも、冰はにこやかに答えてみせた。
「俺は……その、すごい斜め滑りというか……周さんが温情を掛けてくださって、俺を秘書なんていうすごいポストにつけてくださったんですよ」
「斜め滑り?」
 面白いことを言う、とばかりに周はまたしても少しの笑みを誘われてしまった。
「そうなんです。本来だったら俺なんかこちらの会社に入社することさえ難しかったと思います。周さんの会社は商社ですし、社員さんたちは皆さん精鋭揃いで、とても俺なんかが近付けるような雰囲気ではないですよ。でも周さんはそんな俺を雇ってくださって。今でもどんなに御礼を言っても足りないくらいです」
 少し恥ずかしそうにしながらも、頭を掻いて笑う。やはりこの青年と話していると、ひどく心地が好いのが不思議だ。
「なあ、冰君……。キミは……俺が結婚していたという相手のことも知っているか?」
 医師の鄧が教えてくれなかったくらいだから、それこそこの青年に訊くのも野暮だろうとは思うのだが、どうしても聞かずにはいられなかった。彼のような青年が自分の結婚相手をどのように思っていたのかが気に掛かって仕方なかったからだ。
「周さんの結婚相手……。ええ、もちろん。存じていますよ」
「そうか……。実は昼間鄧先生にも同じことを訊いたんだが、教えてくれなくてな」
 周は『それはあなた自身で見つけるべきです』と言われたことを話して聞かせた。
「そうですか、鄧先生がそんなことを。でも……そうですね。それが一番いいのだと思います。例え周りの誰かが『この人があなたの奥さんですよ』と言ったところで、周さんがそう思えなければ意味がありませんし。それに……周さんの伴侶さんは周さんのことをいつでも何処にいても一番大切に想っています。それだけは信じてあげてください」
「……そうか。なあ冰君。冰君から見て俺の伴侶はどんなヤツだった? いいヤツだったか?」
「どんな……。うん、えっと……」



◆40
 さすがに自分のことを『いいヤツですよ』と言うのもためらわれて、すぐには上手い返事ができずに困ってしまう。だが何も覚えていない今の周に返すならば、当然『いい人ですよ』と言うべきなのだろう。冰は恥ずかしそうに面映ゆい表情を見せると、
「周さんの伴侶さんは周さんのことを誰よりも何よりも大切に思っています。きっと自分よりも周さんのことが大事で大事で仕方ないというくらいあなたを愛している人です。それだけは信じてください」
 と言って満面の笑みで答えた。
「そうか。そんなに想ってもらっていたのか……。では俺は幸せ者というわけだな。逆に……俺はどうだったんだろう。俺はそいつのことを大切にしてやれていたんだろうか」
「ええ、もちろん! とても……とても大切にしていらっしゃいましたよ。彼こそ本当に幸せ……」
 幸せ者ですと言い掛けて、
「世界一幸せな人だと思います!」
 慌ててそう言い直した。
「そうか。ありがとうな、冰君。キミにもそう言ってもらえて安心できた。何故だろうな、俺はキミと話していると……とても心地がいいんだ。記憶もいつかは戻るんじゃないかと前向きな気持ちになれる気がしてな」
「そんなふうにおっしゃっていただけて嬉しいです! 俺でよければなんでも聞かせてください」
「ああ。そうさせてもらうよ。ありがとうな、冰君」
「いいえ、こちらこそです!」
 そっと、扉越しに二人のそんな会話を聞きながら、真田もまた熱くなった目頭を押さえたのだった。



◇    ◇    ◇



 鉱山からここ汐留に帰って来てからというもの、冰は李らと共に社を切り盛りし、周は鄧の医務室で診療を受けた後は自室で過ごすというのが日常となっていった。元々DAという薬物は記憶を奪うだけで身体への悪影響はない代物だ。体調的にはどこも悪くはないが、自ら何かをしたいとかといった欲求が湧かずに、周囲から言われるまま従うようにできていて、本人は善悪の判断もつかぬまま出された指示通りに動くことへの違和感すら感じない。戦闘用のロボットとして生きた人間を都合よく動かす目的で開発されたというくらいだから、自我が働かないのも無理はないといったところだった。
 周はほぼ丸一日中を自室で過ごしていたが、それに対して不満を覚えることもなければ、外に出たいと思うことすらない様子で、食事だと言われれば素直にダイニングの席に着く。風呂は冰が着衣のまま手助けをして、身体はもちろん髪なども洗う。それをごく当たり前のことだと思い、健康な成人男性として情けないという感情すら覚えない。生きている意味も感じなければ、仕事もせずに毎日毎日自室で過ごすだけという単調な日々を繰り返す中で、周の心を少しずつ解していったのは常に穏やかな冰の存在であった。



Guys 9love

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