極道恋事情
◆41
それはある晩のことである。食事が済んだ後、風呂の準備を終えた冰が、いつものように身体を洗ってくれていた時のことだ。
「そうだ、周さん。今日は髭を剃りましょうか」
相変わらずにこやかに、そして甲斐甲斐しく世話をしてくれながらそんなことを言った。
「髭……?」
「ええ。ほら、結構伸びてきましたし」
そう言って手を取られ、頬を触らせられた。
「ね、ジョリジョリするでしょう? 周さんは男らしいお顔立ちですから髭が伸びていても渋くて格好いいんですけどね。でも剃ったほうがすっきりして気持ちよく眠れるかも知れませんし」
記憶を失くす前も周は普段から髭を剃るのが習慣だった。ここへ帰って来たばかりの頃は、必要以上に身体に触れたり押し付けがましいことをしてもよくないだろうと思い、髭を剃ることまではしていなかったのだが、周から話し掛けてくることも増えてきた今、すっかり伸び放題になってしまった髭を剃るのも悪くないと思い、そう訊いてみたのだ。
「……そうだな。冰君がその方がいいと言ってくれるなら……うん、剃ろうか」
周は素直に同意したものの、ふと添えられていた冰の手を自ら握り返した。
おそらくは無意識だったのだろうが、触れた手と手の感覚にほんの僅か心の奥が熱くなる気がしたといった表情で、戸惑ったように視線を泳がせる。冰はそれに対して驚くでもなく、嫌がる素振りも見せない。握り返された手を再び握り返してくれながら微笑んでくれる。鏡越しに見る冰の顔は相変わらずに穏やかで、『じゃあ剃りますね』と言って明るい声を聞かせてくれている。
「泡を付けますから少しの間動かないで我慢しててくださいね」
ふわふわと頬回りにシェービングフォームが塗られる。周は鏡の中に映るその手つきをぼんやりと見つめながら、白くて綺麗な手だななどと思い、ずっとその動きを追い掛けていた。
「刃を当てますからねー。ちょっと動かないでくださいね」
「ん……? ああ」
シュ、シュっと慎重に泡ごと剃ってくれる。鏡に映る冰の視線は真剣で、だが時折細められる瞳がそこはかとなくやさしく感じられる。周はそんな仕草を見ているだけで、不思議とあたたかな気持ちになっていくのが心地好かった。
「はい、剃れました! じゃあ顔を洗いましょうか」
寒くないですかと言って背中からたっぷりの温かい湯をかけてくれる。
「湯に浸かりましょう。ゆっくり温まってくださいね」
冰は一旦バスルームを出ていったが、周が上がる頃にはタオルや着替えを用意して待っていてくれた。着替えが済むと鏡台の前で髪を乾かしてくれる。毎日同じことの繰り返しだが、色白の指先で髪を梳きながらドライヤーを当ててもらうこの瞬間が周はとても好きだと感じるようになっていた。
「よし! 乾きました。湯冷めしない内にベッドへ行きましょう」
寝かせつけてくれるのも冰の役目だ。いつもはそのまま部屋を後にする彼を見送るのだが、今日は何故かもう少し一緒にいたいと思ってしまった。
◆42
「じゃあ、おやすみなさい周さん。ゆっくり休んでくださいね。何かあればご遠慮なく声を掛けてください」
「ああ、すまない。……と、その……冰君……」
「はい?」
何でも言ってくださいというようなあたたかい表情を向けられて、周は胸が熱くなるのを不思議な感覚で受け止めていた。
「いや、その……なんでもないん……だが」
わずかすまなさそうに視線を外す。
「昼間から寝たり起きたりしているものでな……。その、なんというか……」
「まだ眠くありませんか? じゃあもう少しここにいさせていただいてもよろしいですか?」
にっこりと微笑みながら冰はベッド脇にスツールを運んできて腰掛けた。
「そうだ! なにか温かいものでも淹れましょう」
「え……? あ、ああ……すまない。だが……」
手間を掛けさせるばかりで申し訳ないといったふうに視線を泳がせた周を安心させるように冰は悪戯そうに笑ってみせた。
「ふふ、本当のことを言っちゃうと俺が飲みたかったりするんですよ。周さんのお部屋のバーカウンターには美味しい材料がたくさん揃っていますから」
パッと明るい笑顔を見せると、カウンターに行ってせっせと茶の用意をしてくれる。ニコニコと楽しそうに湯を沸かし、ときおり鼻歌のようなものを口ずさみながら二人分のカップを並べている。気を遣わなくていいようにとの配慮からか、自分が飲みたいのだと言ってくれる。それが単なる気遣いなのか、あるいは本当にそう思っているのか、どちらにせよ周にとっては心温まる対応に違いない。やさしくてあたたかくて、側にいるだけで心がウキウキと躍り、元気が出るような気持ちにさせられるこの青年と、願わくばずっとこんなふうに一緒に過ごしていたい。彼の仕草のひとつひとつを眺めながら、周は初恋を覚えた少年のような心持ちに胸が熱くなるのを感じていた。
「はい、周さん。ハチミツ入りのレモネードを作ってみましたよ。温まりますよ」
「あ、うん……すまない」
ゆっくりと身体を起こし、マグカップを受け取る。ほんのりと甘い香りが安らぎを誘うようだ。
「熱いですから火傷をしないように気をつけて飲んでくださいね」
「ん? ああ、すまない」
湯気の立つカップをそっと口元に運んでは、言われた通りに気をつけて含む。
「美味い」
「よかった。俺、大好きなんですよ、これ!」
「そうか……。本当に美味いな。俺も好物になりそうだ」
「ふふ、それはよかった! 周さんに気に入っていただけて俺も嬉しいです!」
そう言って笑う表情も可愛らしいが、綺麗な色白の手でカップを持つさまが小さな子供を思わせる。両の手でしっかりと包み込みながら、ふぅふぅとする仕草に自然と笑みを誘われてしまった。
「冰君……ありがとうな。いつも世話を掛けてすまない」
「え? いいえー! 俺も周さんとこうしていられることが楽しいですから!」
言葉通り本当に嬉しそうな満面の笑みが周の心にあたたかい温もりを灯してくれるようだった。
「周さん、テレビはご覧になりませんか?」
冰は身軽に立ち上がってテレビをつけると、何やらDVDをセットしてリモコンを片手に戻ってきた。
「これ、世界中の大自然を映したドキュメンタリーなんですけどね。とっても雄大な景色で、観ながら寝るとよく眠れるんですよ。俺、大好きでね」
それはいつも周と共に寝る前に流していたものだった。これを観ていると自然と心地の好い眠気に誘われるのだ。冰は周の腕枕でこの映像を観ながら眠りにつくのが好きだった。
「いい景色だな。なんだか落ち着く気がする……」
「でしょう? いつか行ってみたいですね」
そう言いながらそっとやさしく手を取って、さするように撫でてくれる。やわらかなその手の温もりが心地好くて、周はいつしかウトウトと瞼を閉じ始めた。
しばらくして軽いいびきを立てて眠りに落ちた様子に、冰はテレビを消して静かに布団を掛けた。温かな羽布団が気持ち良いのか、周の瞳がわずか弧を描いたように感じられる。
「おやすみ、白龍。大好きだよ」
起こさないようにそっと髪を撫で、触れるだけの小さなキスを額に落とす。灯りを絞って、冰は自室へと帰っていった。
◇ ◇ ◇
◆43
その後も特に変わったことのないまま数日が過ぎていった。周にとって変化を感じることといえば、秘書の冰と接している時が一番心地好いと思えることくらいだった。彼と食事をしたり、彼の笑顔を見ているだけでなんとも言いようのない安心感に包まれるのだ。
早く全てを思い出したい。どんなふうに彼と出会ってどんなふうに毎日を過ごしていたのか。どんなふうに仕事を共にしてきたのか。全て思い出して心から笑い合いたい。自分が結婚していたという相手のことよりも、今は何故かこの冰という青年とどのように過ごしていたのかを知りたい気持ちに駆られる。それは周にとってとても不思議な気持ちだった。
そんな中で迎えたある週末のことだった。周の容体が落ち着きを見せ、少しずつ周りの者たちとの会話も増えてきたと聞いた鐘崎が、紫月を連れて汐留へと様子見にやって来たのだ。
冰と紫月は相変わらずに二人で甘いものを楽しみながらおしゃべりに花を咲かせている。皆で周を囲んで話すのもいいが、かえって緊張させてしまってもよくない。あまり特別扱いせずに普通にしていてやるのがいいと思っている冰の考えであった。
「楽しそうだな。うちの秘書はあんたらともよく知った間柄だったらしいな」
少し離れたソファで鐘崎と肩を並べながら周が問う。鐘崎もまた普段とさして変わりのない話し方で応えてみせた。
「ああ。俺たちはよくここへ寄せてもらうんだが、こうして会えばあいつらはいつもあんな調子だ」
「鐘崎君……だったな? あんたも俺のことはよく知っていたのか?」
今の周は記憶を失っているわけだから、そんな呼ばれ方でも驚くこともないのだが、さすがに『鐘崎君』ではなんともむず痒い気分にさせられる。
「鐘崎でいいさ。俺とお前さんはガキの頃からの幼馴染だ。冰と一緒にいるのは紫月といってな。ヤツもお前さんとは古くからの馴染みだ」
もっとも紫月と周が出会ったのは高校生の時で、以来三人で親友としてツルんできた仲なのだと教える。そして鐘崎はその紫月が自分の伴侶であることも隠さずに打ち明けた。
「あんたにも男の嫁がいるのか」
「俺も――ってことは、お前さんもそうだということを誰かに聞いたのか?」
鐘崎も紫月も、冰がまだ周と結婚しているという事実を知らせていないことを聞いていた。その理由も含めてだ。
「医者から聞いた。俺には男同士で生涯を誓った相手がいるとな。ただ肝心の相手が誰かということは教えられないと言われてな」
「なるほど。俺も少し聞きかじっただけだが、お前さんと一緒に例の鉱山にいた男、香山というヤツが、自分がお前さんの伴侶だと名乗ったそうだな」
「ああ……。だがどうしてか信じられなくてな」
「周りの連中がお前さんに本当の嫁が誰かってのを教えないのは、そういう経緯か。また香山のように嘘をつかれる可能性もあるからな。それにお前さんならいずれは自分の嫁を捜し当てられると信じているんだろう」
鐘崎もまた、医師の鄧らと同じことを言った。
◆44
「そういえば鐘崎、あんたも俺と同じ薬物を盛られて記憶を失くしたことがあったそうだな?」
「ああ。鄧先生から聞いたか?」
「あんたの場合は割合短期間で記憶が戻ったというが」
「俺は幸いにしてあの薬を食らったのが一度だけだったからな。おそらくお前さんは何度か食らっちまったんだろう。その分、重症化しちまったというところなんだろうな」
「そういえば鉱山に連れて行かれた時に俺の主治医だとかいう男に何度か注射を打たれたのを覚えている……」
おそらくはそれが例の薬物だったのだろう。何度か打たれたということは、鐘崎の時とは比べものにならないくらい重症化していると思われる。
「鐘崎……あんたは何がきっかけで思い出せたんだ?」
「俺の時は荒療治だったな。なにせ敵衆に囲まれて、今すぐに記憶を取り戻さないっていうと命にかかわるような事態だったからな」
「敵衆……。そういや俺の親はマフィアだと聞かされたが、あんたも同業者ってわけか?」
「まあな。俺の親父とお前の親父さんとは古くからの馴染みだ。俺たちは世間一般からは極道と呼ばれちゃいるが、実際にはちょっと意味合いが違う。裏の世界のいろいろな方面から依頼を受けて仕事をさせてもらっているんだが、俺が記憶を失くした時もまさにそんな依頼の最中だった」
鐘崎はその時の敵対組織に薬物を盛られたことを簡潔に話して聞かせた。
「そんな窮地だから、俺が記憶を取り戻さなきゃ一貫の終わりってことでな。その時に嫁の紫月が言ったんだ。『俺が欲しけりゃ思い出してみやがれ』とな」
鐘崎は自分の記憶を取り戻す為の策として、紫月がわざと他の男のものにされてしまうシチュエーションを作り、それが嫌なら思い出せと言って荒療治に出たのだと言った。
「それで……あんたは思い出せたのか?」
「ああ、お陰様でな。俺がえらくヤキモチ焼きだということを紫月は分かっていて、それを逆手に取ったんだ。俺の襟首を掴み上げて、そりゃあえらい迫力だったわ」
鐘崎は苦笑ながらも誇らしげに笑みを見せる。
「あんたの嫁ってのは……また随分と男気のあるヤツなんだな」
「まあな。そこが可愛いところだ」
周は『羨ましいことだ』と言って切なげに微笑んだ。
「今頃は……俺の嫁もどこかでそんなふうに俺のことを想ってくれているんだろうか」
そんなことを口走った周に、鐘崎はクスッと笑みながら言った。
「お前さんの嫁は紫月とはまたタイプが違うからな。間違ってもお前さんの襟首を掴んで『思い出してみやがれ』なんてことは言わんだろうがな。だがヤツはお前のことを何より大事に想ってるのは間違いねえ。ヘタすりゃ、てめえの命に代えてもお前さんには幸せでいて欲しい。そんなふうに考えるヤツだ」
ここでもまた、医師の鄧らから聞いたのと同じことが語られる。こうまで皆が口を揃えて『いいヤツだ』と言うからには、本当にそうなのだろうと思う。正直な話、羅辰や香山たちといた時とは違って、ここへ来てから会う人間は皆どこか一緒に居て心地好いというか、信頼できる気がしているからだ。
周はどうしてか申し訳ない気持ちに駆られてしまった。
◆45
「鐘崎、ヘンなことを訊いてもいいか?」
「――? なんだ」
「もしも俺の嫁が……そんなにも俺のことを想ってくれているその嫁が……俺の心変わりを知ったとしたらどうなると思う」
「――心変わり?」
さすがに聞き捨てならない言葉だ。
「自分でも不思議なんだが……あんたをはじめ、周りの皆から素晴らしいと絶賛される嫁よりも……俺には気に掛かるヤツがいる……。こんなことはあっちゃならねえことなんだと、頭では分かっちゃいるが……どうしようもねえんだ。せめてその嫁が俺に会いに来てくれれば……また気持ちは変わるのかも知れんが、俺にはどうしてかその嫁のことが全く思い出せないんだ」
普通だったら如何に記憶を失くしているといっても、懐かしいとか心がキュッと掴まれるとか、なんらかの感情が湧いてもいいはずなのに、それが全く湧かないというのだ。
「嫁との思い出も、会いたいという感情すら揺さぶられない。それなのに俺は……彼とどんなふうに出会ったのか、どんなふうに過ごしてきたのか、それの方が気に掛かって仕方ない。早く記憶を取り戻して、自分が彼と過ごした日々を知りたい。ここ最近はそんなことばかり考えてしまうんだ」
周は辛そうに瞳を歪めながらそう言った。
「彼――ってのは?」
鐘崎が訊くと、周は視線の先にいる冰を指した。
「彼……冰君は俺の秘書だそうだが、何故か彼といると心が和む。俺は彼とどんなふうに出会ってどういうきっかけで秘書にしたのか、どんなふうに仕事を共にしていたのかを知りたくて仕方がない」
「つまり、お前さんはあの冰に惹かれているというわけか?」
「惹かれているのかどうかは分からない。ただ……ひとつ納得できることがあるとすれば、俺が同性である男と結婚していたというのは嘘じゃねえんだろうと思えたことだ」
鉱山で助けられてからこのかた、周囲の皆から男と結婚していたと聞いた時は正直驚きもした。一等最初に思ったことは、自分は同性愛者なのだろうかということだったそうだ。だが、確かにあの冰に関してだけは何故か心が揺さぶられる。今は過去のことをまったく思い出せずにいるが、恋愛対象として男に気持ちが動いたとしても不思議はないと思えるのだと周は言った。
「男同士で結婚していたということには納得できる気がする。だが、肝心の相手のことがまったく思い出せない。それよりも彼と過ごした日々を知りたいと思ってしまう。こんな気持ちでいる俺のことを……嫁が知ったらと思うと、俺は自分を許せない気持ちになる。いくら会えないといってもこれでは浮気そのものだ」
「それほど冰のことが気に掛かると?」
「……最低な亭主だ」
頭を抱え込んで瞳を歪める友を、鐘崎はやわらかな視線で見下ろした。
「仮に、お前の嫁がその気持ちを知ったとしたらだが――。おそらくはお前の幸せがそこにあるのならヤツは黙って身を引く。お前の嫁はそういうヤツだ」
周は驚いたように顔を上げて鐘崎を見つめた。
「だったら尚更だ……。俺はそんなにも俺のことを想ってくれる嫁を差し置いて、目の前にいる別の人間に心を寄せている……。最低だ」
鐘崎はそっと、そんな友の肩に手をやると静かに言った。
「お前の思った通りにすることだ。お前の本能が冰と過ごした日々を知りたいと告げるなら、今は余計なことを考えずそれに従えばいい。だがそれは決してお前が嫁を裏切る行為ではない。逆にお前が嫁に近付く過程のひとつだと思うことだ」
どういう意味だと周は鐘崎を見上げる。
◆46
「冰と過ごした日々を知りたいのなら素直にその感情に従えということだ。それが嫁を裏切ることになるとか、自分は最低の亭主だとか、そんなことを思う必要はない。お前が感情のままに動くことこそが嫁と再会できる一番の近道だということだ」
今はそれしか言えないが、俺を信じろと言って鐘崎は力強くうなずいた。
「冰君との日々を知ることが……嫁を思い出すことに繋がるというわけか?」
「そういうことだ」
鐘崎は周にこれほど強い自我が生まれつつあることに光明を見る思いでいた。やはり夫婦の絆というのは大したものだ。誰が何を言わずとも周の興味は冰を求めてやまないのだ。
この際、本当のことを教えてやってしまった方が周を苦しませずに済むとも思えるが、どこかで聞いた話によると人間はストレスがなくなってしまうと良くないのだそうだ。まあ、過度にあり過ぎるのは問題だが、周に自力で記憶を取り戻させることを考えるならば、今のこの悩みや苦しみは、ある意味必要なのかも知れないとも思う。
「そうだ。お前さん、身体の方はもうすっかりいいんだよな? だったらちょっと外の空気を吸いに出てみねえか?」
例のケーキが美味いラウンジにでも連れ出してみるのも悪くない。あの店は冰が初めて周を訪ねて来た日に連れて行ったと聞いているし、その時と同じようなシチュエーションを作ってやれば何か思い出すかも知れないと思うのだ。
「冰、紫月! 出掛けるぞ」
鐘崎は二人を呼び寄せると、ケーキを食べに行こうと誘った。驚いたのは冰だ。
「あ、でも身体の方は大丈夫なの白龍?」
この四人が顔を揃えているからだろうか、ついいつもの感覚で口走ってしまったのに首を傾げたのは周だった。
「白龍……?」
彼はまだ自分にそういった字があることを知らないようだ。周焔という氏名は教えられたものの、さすがに字など細かいことまでは知らされていなかったのだ。
冰もそれに気付くと、すぐに『何でもありません』と言って微笑んだ。
「周さんの体調が良いならそれもいい気分転換になりますね!」
「そうそう! 家にこもってばっかじゃモヤシになっちまう! それにあそこのケーキは絶品だからな。きっとお前も気に入るって!」
紫月はすっかり乗り気だ。それに話し方もこれまでと全く変わらずにフレンドリーで、周は何故か心が和むような気にさせられてしまった。
「紫月……君だったな? 俺はあんたとも親しかったんだ……よな?」
周に訊かれて紫月は『もちよ!』と親指を立てて笑った。
「お前とは二人で一緒にバディを組んで事件を解決したこともあるんだぜ!」
そう、以前宝飾店で起こった大規模な人質事件の時は周と紫月、そして鐘崎と冰というバディ体制で見事解決への突破口を開いたものだ。
◆47
「俺が……あんたと一緒に……か?」
「おうよ! 遼とこの冰君も一緒でさ。俺たち四人で力を合わせて、そりゃあもう電光石火っちゅーくらいに鮮やかな活躍ぶりだったんだぜぃ!」
「……そうか。俺が……あんたたちと……」
そんな様子を横目に冰も嬉しそうに笑顔を見せている。
「紫月さんはどんな時でもポジティブですから、例え苦境でも絶対に突破口を切り開いちゃうパワーの持ち主ですもんね! それになんと言っても初対面でも全然そんな気しないっていうか、こちらが緊張する間もなく自然と引き込んでくれちゃいますもん! 俺と初めて電話で話した時もすっごくフレンドリーで、なんかもうずーっと前から親しくしてたような気持ちにさせてくれたんですよ」
「だろー? それが俺の唯一の取り柄だからさ!」
「唯一だなんて! 紫月さんはいいところだらけですよ! 俺の尊敬する方です!」
「マジか? そんなん言ってもらうと照れるじゃねっかー」
「だって本当ですもん!」
「冰君は褒め上手なぁ! 俺とは違って亭主を伸ばすタイプだよな! 俺も見習わなくっちゃいけねえ」
チラリと鐘崎の方を見て舌を出す。何気なく言った言葉だが、『亭主を伸ばすタイプ』という短いひと言には、ある意味で紫月の賭けともいえる思いが込められていた。受け取りようによっては冰にも亭主がいるとも取れるし、単に紫月自身の亭主――つまりは鐘崎に当てて言っただけとも取れる。ここで周が何か思い出す小さなきっかけというか、『ん?』と不思議に思ってくれるだけでもいいと思ってのことだった。もちろんそんな彼の気持ちに気付いた鐘崎も、
「おう、そうだな。俺もたまには褒めてもらったら、もっといい亭主に成長すっぞ!」
すぐさま会話にノって悪戯そうに笑う。
「ん、分かった! んじゃ今度からなるべく褒めちゃるわ!」
「あははは! 嫌だなぁ、お二人揃ってそんな謙遜するんだから! 紫月さんはいつだってめちゃくちゃ鐘崎さんを想ってるって節々に感じるし、すっごく愛情感じますよー」
「だろー? 分かってねえのは遼だけなんだよ」
カハハハと豪快に紫月は笑う。冰と二人、向き合ってパン! と手を合わせてはしゃいでいるのが実に楽しそうだ。周もまた、そんな彼らの笑顔を見ているだけで、より一層和まされる気がしていた。
◇ ◇ ◇
そうしてラウンジに着くと、鐘崎はなるべく人目を気にしなくて済む奥の席に案内してもらえるよう黒服に願い出た。パーテーションもあるし、ここならばほぼ個室も同然だ。
黒服が持って来たサンプルにかじりつきながら紫月が早速に食指をウズウズとさせていた。
「遼、お前も食うだろ? 食い切れなかったら俺が引き受けちゃるから!」
甘い物を好んで食べない鐘崎には二口三口つまませてやればそれでいいのだ。鐘崎もよく分かっていて、お前の好きなのを選べと笑う。
「んじゃねー、俺は毎度鉄板のチョコレートケーキと、遼にはブルーベリーのムースケーキな!」
冰君は? と、訊く。
「俺はラズベリーのムースケーキです。俺もこれが鉄板ですから!」
ニコニコと微笑む仕草が可愛らしい。そんな冰をチラリと窺いながら、周もまたサンプルを眺めた。
「周さんは何にします?」
冰に訊かれて、なんとなく惹かれる一点を指差した。
「じゃあ、俺はそれを」
周が選んだのは生クリームの上に削られたホワイトチョコレートがふんだんに掛かっているシフォンケーキだった。
図らずもそれは冰が一番最初にここに連れて来てもらった時に頼んだものだった。あの時は周がラズベリーで冰がホワイトチョコレートのケーキだったから逆であるが、周は『俺たちの名前にぴったりだな』と言ってくれたのだ。
ラズベリーは焔の赤、ホワイトチョコレートは雪吹の白だ。例え記憶がなくても自然とそれを選んだ周に、冰はむろんのこと、鐘崎も紫月もほっこりと温かい気持ちにさせられたのだった。
◆48
ケーキが運ばれてくると、初めての日と全く同じゴージャスな飾りに心が浮き立つ。冰は隣に座る周を見つめながら、あの日に周が言ってくれたのと同じ台詞を口にしてみせた。
「周さん、半分食べたら交換しませんか? そうすればどっちの味も楽しめますよ?」
周は少し驚いたように瞳を見開いたものの、すぐに『そうだな』と言ってうなずいた。
「冰君はケーキが好きか?」
「ええ、ここのケーキは特に大好きです!」
「この店のはそんなに美味いのか?」
「味ももちろんですけど、ここは周さんに初めて連れて来てもらったお店なんですよ。だから余計美味しく感じられちゃって」
「俺が冰君を連れてきたのか? ここに……?」
「そうです。周さんの会社に雇っていただけることになったその日にね。それで周さんが言ったんですよ、半分食ったら交換だって。そうすればどっちの味も楽しめるぞってね」
「……そうだったのか。俺が……そんなことを」
「その時に頼んだケーキもこれと同じものだったんですよ。周さんのはラズベリーで、俺のは周さんが食べてるホワイトチョコの方でしたけど」
「……ほう?」
マジマジとケーキを見つめている周に、
「なるほど。ぴったりだな」
鐘崎が珈琲を含みながら口を挟んだ。
「ピッタリ?」
「お前らの名前にピッタリだと言ったんだ。雪吹と言やぁ白だし、焔は赤だ」
周は、『あ……!』と瞳を見開いた。
「そう言われてみれば……そうだな」
何故だか分からないがひどく懐かしいような気分にさせられる。ふと、脳裏に不敵な笑顔で皿を交換する男の姿がぼんやりと過った。
『ほら、食え。半分食ったら交換だ』
『ピッタリだな。俺らの名前にピッタリだと言ったんだ』
あれは誰だったのだろう。目の前では緊張の面持ちでケーキを口にする感じのいい青年の姿が浮かぶ。彼の仕草を見つめる男はとても機嫌が良さそうにしていて、楽しそうだ。そんな二人の姿を想像するだけで、不思議と心温まる気がしていた。
「そういう紫月さんもピッタリじゃないですか! ブルーベリーの紫は紫月さんのお名前の色ですもん!」
「お! ホントだ! つーか、遼はさぁ、甘いモンが苦手だろ? けど何故かブルーベリーのムースだけは食うんだよな」
「当たり前だ。ブルーベリームースは去年のクリスマスの時にお前が作ってくれたやつだからな。あれ以来ケーキといえばそれと決めている。それに……お前を食うのは俺だからな」
ぼんやりとしていた周の耳にそんな賑やかな会話が飛び込んできて、ハッと我に返らされる。
「あははは! 食うのはケーキだろー!」
「ブルーベリー、イコール紫。紫イコールお前。つまりそれを食うのは俺限定ってことだ」
「うっは! 出たよ。遼の専売特許俺様発言! ってことは、このブルーベリーケーキは全部お前が食わなきゃいけねえってことになるぜー?」
甘いものが苦手なくせに丸々一個食べ切れるのかー? と、紫月がニヤニヤと鐘崎の顔を覗き込む。
「いいぞ、全部食っちゃる! そん代わりお前が食う分が減ることになるが、それでもいいならだがな」
「ええー! そいつぁ困る!」
なんともくだらない争いに、冰は可笑そうにクスクスと笑っている。
「嫌だなぁ、もう! 鐘崎さんと紫月さんってば相変わらず熱々なんですからね!」
そんなやり取りにも何故か心和まされる周であった。
◆49
その夜、汐留のダイニングにて周はいつものように夕卓についた。目の前には相変わらずに何かと気遣って世話を焼いてくれる冰がいる。調味料を取ってくれたり、茶を注ぎ足してくれたりとよく気が回る。
「冰君、今日は楽しかった。久しぶりで外に出たが、たまたまはいいもんだな。ケーキも美味かったしな」
「そうですね! 俺も嬉しかったです。また行きましょう」
「ああ。それで……俺も週明けから仕事に復帰したいと思ってな。身体の方は何ともないんだし、家でゴロゴロしているだけじゃしょうもねえし。まあ仕事の内容は冰君たちに教えてもらいながらになると思うから、結局世話を掛けちまうのはすまないと思うが」
冰は驚いた。ついこの間までは呆然としていて、ろくに会話もままならなかった周がそんなことを言い出すとは思ってもみなかったからだ。だが、確かに一人邸にこもっていても、かえって滅入ってしまうこともあるかも知れない。通勤時間も掛からないわけだし、周がそうしたいと言うならそれもいいだろう。そう思った冰は賛成することにした。
「周さんが復帰してくだされば俺たちも助かります! 李さんと劉さんも喜ぶでしょうし。ただ無理はしないでくださいね。少しでも疲れたり頭が痛くなったりしたら、我慢せずにすぐに言ってください」
「ああ、そうさせてもらう。世話を掛けるがよろしく頼むな」
「こちらこそです! 嬉しいなぁ。周さんと一緒にお仕事できるなんて今から楽しみです!」
言葉通り本当に嬉しそうに笑顔を見せてくれるその表情を見ているだけで、周もまたホッとあたたかい気持ちになるのだった。
◇ ◇ ◇
そうして半月が過ぎた。
社の代表としての仕事を完璧にとまではいかずとも、李や冰のサポートもあってか、周が勘を取り戻すのは早かった。もちろん、記憶は相変わらずに戻らないままだから、接待などに顔を出すことは控えていたものの、それ以外の業務はほぼほぼ差し障りなくこなせるようになり、李らも明るい兆しに期待を馳せる。
また、社の仕事に復帰してからというもの、身の回りのことも徐々に自らで行えるようになっていった。これまでは一から十まで冰の手を借りていた食事や風呂なども、一人で進んで行えるまでに快復をみせていく。
週末には鐘崎と紫月が汐留を訪れたり、逆に鐘崎らの家へ遊びに行ったりして、少しずつだが以前と変わらぬ日々が戻りつつあった。
そんな中で周が気に掛かることといえば、やはり自分が結婚していたという相手のことだった。記憶を失くしてから、かれこれもうひと月にもなるというのにその相手はただの一度たりと連絡をしてこない。会いにすら来ないのだ。周にはそれだけが不思議でならなかった。
周りの人間は皆口を揃えて『いい人だ。あなたのことをこの世の誰よりも大切に想っている』と言う。医師の鄧から聞いた話では、社の方を切り盛りしてくれているとのことだったが、仕事に復帰した今も会った試しはない。支社や系列会社を見てくれているとしても、一生懸命に社の存続の為に動いてくれているというのであれば、そんな人物が亭主の緊急時に知らんふりでいるというのも腑に落ちない。
友の鐘崎や紫月、側近だという李や劉、家令の真田に運転手の宋、それに秘書の冰。彼らと過ごす日々は実に心地好いのは事実だ。記憶はなくとも、すっかり皆とも馴染んで、特に不満などもない。過去のことは思い出せずともこのまま新たに皆との絆を深めていけばそれでいいような気にさえなってくる。
周にとっての悩みは、未だ会えない伴侶のことと、日に日に募る冰への想いの狭間で揺れ動く感情だけであった。
◆50
もしかしたら……自分の嫁というのは既に毎日接している中の誰かなのではないか、ついそんな考えが浮かんでしまう。幼馴染だという鐘崎も、自分の欲求に素直になることこそが近道だと言っていた。
(素直に……か。だとすれば、もしかしたら……)
秘書の冰が嫁なのではないか?
確かに一日の中でも一番長く過ごす相手といえば冰しかいない。朝起きれば共に食事をし、出勤するのも一緒だ。仕事を終えて帰れば彼とまた夕卓を囲む。その間、常に甲斐甲斐しく気遣ってくれるのはずっと変わらない。例の鉱山で一緒にいた香山という男のように焦れたり押し付けがましいことを言ったりすることも全くない。それどころか、いつでも体調や気持ちを気遣ってくれて、心穏やかに過ごせるようにしてくれる。ただの秘書がそこまでするだろうかというくらいに思えるのだ。
むろんのこと李や劉も同じように接してはくれるが、いい仲間や友といった感覚を通り越して強く惹かれるのはやはり冰だ。さすがに抱きたいとか口付けたいとかといった感情とまでは言わないが、冰さえよければそういった深い絆を結びたい気持ちがないとは言い切れない。単に信頼し合っているだけの社長と秘書という上下関係とは違う気持ちを抱いているのは明らかだ。もしも嫁という存在がいなかったとすれば、遅かれ早かれ自分は冰にこの想いを打ち明けるのではないか、周にはそんなふうに思えてならなかった。
「じゃあおやすみなさい周さん。ゆっくり休んでくださいね」
何かあったら遠慮なく起こしてください、いつもと変わらぬ笑顔でいつもと同じ台詞を言うと、冰は自室へ向かう。周もまたダイニングを挟んで冰とは反対側の自室へと戻った。
そうしてベッドへと潜り込んだものの、なかなか寝付けないまま、周は一人思いを巡らせていた。
いっそのこと彼に素直な気持ちを打ち明けて、惹かれていることを云ってしまおうか。もしもあの冰が嫁でないとしたら、彼の性格上それを受け入れることはないだろうと思う。あなたには結婚している相手がいるのですよと諌めてくれるだろう。逆にその結婚相手が彼本人ならば想いを受け入れて本当のことを教えてくれるかも知れない。そんなことを考えていた時だ。ふと脳裏を過った閃きに周はカッと瞳を見開いた。
(そうだ……戸籍だ!)
戸籍を調べれば全てが明らかになるではないか。本当に結婚しているというなら、戸籍にはそれが記されているはずだ。
真実を知るのは怖い気もするが、このままでは前に進めるものも進めない。
(だが仮に……俺の嫁というのがあの冰君ではなく、これまでは会ったこともない別の誰かだとしたら……)
それはそれでまた新たな悩みが増えることになろう。
(なぜ周囲の人間は俺に本当のことを教えない……?)
例の香山という男が嘘を吹き込んだからというのと、周囲の人間が『この人が伴侶ですよ』と言ったところでそれを信じられなければ意味がないというのは分からないでもない。
◆51
それとも自分が盛られた薬物というのは、いずれ時間が経てばいつかは必ず切れる時が来ると分かっているから、それまで待とうということなのだろうか。
あの鐘崎も同じ薬を盛られたが、記憶はきちんと戻ったという。彼より多量に盛られた分、記憶が戻るまでの時間も長く掛かるが、それも残り少なくなってきているのだろうか。
確かに、自分自身でもここへ来た最初の頃と比べると、大分気力も戻ってきたように思う。
(あと少しの辛抱ということか……)
だがやはり戸籍を確かめたいとも思う。様々な気持ちに揺れながら、周はウトウトと眠りについたのだった。
◇ ◇ ◇
周が秘書の冰への想いに悩みながらも、自分の伴侶を確かめる為に戸籍を調べようかと迷っていた頃――。
香港の家族から少々意外な情報が飛び込んできて、周はもとより李や冰らも酷く驚かされることとなったのはそんな折だった。
なんと例の鉱山で周を拉致した羅辰らの遺体が発見されたというのだ。
あの後、各所で落盤が見つかり、ロナルドことロンたちもその修復作業に追われていたようだが、そんな中で崩れた岩の下から倒れている数人が発見されたらしい。坑道内は湿気も多く、あれからひと月以上も時間が経っていたこともあって、その損傷具合は無残なものだったようだ。
すぐに香港の周隼の元へと連絡が入り、DNA鑑定などを行った結果、羅辰とその一味であると確定されたとのことだった。
おそらくは周を置き去りにした後、道に迷って落盤に巻き込まれたものと思われる。自業自得ではあるが、長年ファミリーに属していた者たちの無残な末路に、隼らはやはり驚きを隠せなかったようだ。
ただ、不思議なのはその中に香山の姿がなかったということであった。
報告書類に目を通しながら李が亡くなった者たちの氏名を確認している。
「身元が分かったのは全てファミリーに属していた者たちのようですね。ではあの香山という男は無事に逃げ延びたということでしょうか……」
確かに羅辰たち一行は周と香山を置き去りにして逃げたということだったし、香山自身には冰も坑道内で遭遇していた。彼にはロンが出口を教えたはずだが、そこから先はまた道に迷ったとも考えられる。
「香山さん……無事に逃げ延びてくれていればいいですが」
鉱山でも周を置き去りにして逃げた――例えそのような男に対しても、冰は無事を祈る言葉を口にする。自業自得とはいえ、罪を恨んでも『あんなヤツ死んで当然だ』などとは決して思わないのだろう彼のやさしさが感じられて、周はそんなところにも強く惹かれずにはいられなかった。
やはり戸籍を確かめるのはやめるべきか――ふとそんな思いが過ぎる。
嫁が誰であろうと、この想いを全てこの冰に打ち明けてみたい。包み隠さず、彼に惹かれていることや、彼とは別の誰かが嫁だった場合は酷く動揺してしまうだろうこと、揺れ動く様々な気持ちの全てを冰に打ち明けて、そして彼の意見を聞いてみたい。二人でとことん話し合ってみたい。
冰にとっては迷惑かも知れないが、周はそんな気持ちが抑えられずにいた。
◆52
そんなある日のことだった。周は仕事に復帰したものの、未だ記憶が戻っていないこともあって、これまで面識があったクライアントと直接会って話をすることは控えていた。彼らには社長は少々大きな怪我を負って療養中ということにしていて、対応は全て李と冰らで行っていたのだ。そしてこの日は懇意にしているクライアントとの間で、新たな大口の取り引きが決定したのだった。
周は社長室に居たが、あの冰が普段どんなふうに自分たち近しい間柄である以外の人間と接するのかということに興味が湧き、隣の応接室でのやり取りをモニター越しに窺ってみることにした。
彼は思った通り性質の良さが滲み出るような対応で、微笑ましい気にさせられる。自分の前でだけではなく、誰に対しても同じように接する彼に心がキュッと摘まれるようだ。
「では今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
クライアントの社長が専務を伴って訪れていて、大層機嫌の良さそうに笑顔を見せている。応対する李と冰も興奮気味に礼を述べていた。
「ありがとうございます! お役に立てるよう精一杯やらせていただきます」
「いえいえ、こちらこそですよ。アイス・カンパニーさんにお引き受けいただけて、この上なく有り難い限りです。氷川社長にもどうかくれぐれもよろしくお伝えください」
「お心遣い恐縮に存じます。氷川にはしっかりと申し伝えます」
「ところでその氷川社長のご容態は如何ですかな? 大きなお怪我をなされたとうかがったが」
周がトラックとの接触事故に遭ったことは打ち明けていたので、容態を気に掛けてくれているようだ。もっとも記憶を失くしたことまでは告げていないので、単に怪我の治療中ということにしているのだった。
「ええ、お陰様で順調に快復しております。社長様とのお取り引きのことを伝えたら氷川もきっと喜ぶと存じます。本当にありがとうございます!」
冰がそう言ってガバリと頭を下げた時だった。勢いよくお辞儀をしたせいでか、ゴツッとテーブルに額をぶつけてしまったのだ。鈍く響いたその音を聞いただけでも痛そうな様子に、
「だ、大丈夫ですか雪吹君……!」
思わず社長と専務が慌てて身を乗り出す。
「すみません、大丈夫です。あまりに嬉しくて……つい力が入ってしまいました」
冰はおっちょこちょいなものですからと言って恥ずかしそうに詫びの言葉を口にする。
「いやいや、そういう一生懸命なところが雪吹君のいいところですからな」
なあ、と言って社長は隣の専務を見やる。
「そうですよ。氷川社長様は敏腕であられるし、李さんは精鋭の右腕であられるが、雪吹さんのそういった誠実なお人柄にも私どもは惹かれておるのですよ」
二人にベタ褒めされて、冰は面映い笑顔を見せた。
「ありがとうございます。そのようなもったいないお言葉、心から感謝申し上げます!」
「いやいや、こちらこそ。末永くよろしく頼みますよ」
それではと言って、和やかな挨拶と共に帰って行く二人を見送った。
「冰さん、お疲れ様でした! このような大口の取り引きをいただけたのも冰さんのサポートのお陰です」
李が丁寧に礼を述べる。
「焔老板もきっと喜んでくださるでしょう!」
劉もまたそう言っては、三人で手を取り合って喜んだ。
◆53
「じゃあ李さん、今のお取り引きの件を早速周さんにお伝えしてあげてください」
冰は嬉しそうに言いながら、客人に出した茶器などを片付け始めた。
「冰さん、我々だけでいる時は『周さん』でなくて構いませんよ」
周が記憶を失くしてからというもの、いつもの『白龍』ではなく『周さん』と呼んでいることに対する気遣いである。李や劉にしてみれば、冰の辛さが充分に分かっているからだ。冰は毎日のように変わらぬ笑顔を見せてはいるが、胸の内では相当に切ない思いをしているだろうと思うのだ。
「李さん……ありがとうございます。でも大丈夫です。俺、正直なところ『周さん』っていう呼び方も気に入っているんですよ。初めてここへ来た頃のことを思い出すっていうか……懐かしい思いもありますし、それに周さんって呼んでると初心に返れるというか、何だか新鮮で!」
言葉通り本当に嬉しそうにそんなことを言う。
「冰さん……」
「そういえば……あの時もそうだったなぁ」
冰は何ともワクワクとした表情で懐かしそうに笑ってみせた。
「あの時――ですか?」
李と劉が共に首を傾げる。
「ええ、あの時! 俺が初めてこちらを訪ねて来た日です。周さんと話している最中に……さっきみたいにこのテーブルに頭をぶつけちゃったんですよ。あの時はすごく緊張してて、すっかりテンパっちゃってましてね」
あれは確か周が雇ってくれることになったことに驚いて、嬉しさのあまり無駄に力が入ってしまったのだ。
「俺ってホントおっちょこちょいで恥ずかしいなって思ってたんですけど、周さんは面白い男だって言ってくれたんですよ。それに……その後テーラーとお茶に連れて行ってくれて、俺もう夢のようでした」
懐かしむようにその頃へと思いを馳せる表情は穏やかで、愛にあふれているように感じられる。きっと周の一挙手一投足を思い浮かべながら愛しさを募らせているのだろう。李も劉も早くその想いが報われる日の来ることを願ってやまなかった。
「そういえば帰って来てからも周さんに言われたんだったなぁ。李さんが俺の住む部屋を案内してくださった時ですよ。周さんはその後すぐに接待の食事で出掛けると言って、いい子で待ってろよって。俺、とにかくいろんなことが凄すぎて緊張マックスになっちゃってましてね。ありがとうございますって頭を下げたら、周さんはさっき俺がテーブルに頭をぶつけたことも覚えててくれたんですよ。些細なことなのにやさしい言葉まで掛けてくれて……俺、すごく感激したのを覚えてます」
「やさしい言葉……ですか? どのようなお言葉だったんでしょう」
「ふふ、俺がまた勢いよく頭を下げようとしたらね、周さんが……」
その時のことを思い出しながらか、冰が片付けようとしていた茶器を置いて、目一杯お辞儀をするゼスチャーをしてみせようとした時だ。
「おい、今度はぶつけねえように気を付けろよ」
張りのあるバリトンボイスが楽しげに言う声が聞こえたと思ったら、そこには隣の社長室の扉を開けた周が不敵な笑みを携えながらこちらを見つめていた。
◆54
「え……?」
冰はもちろんのこと、李も劉も、三人が三人ともポカンと口を開いたままで言葉を失ってしまった。そんな様子に微笑みながらも、周は長いストライドで足早にやって来ると、大きく広げた両腕で冰を抱き締めた。
「……白……龍?」
もしかして記憶が戻ったのだろうか。本能でそう感じた冰から出た言葉は、『周さん』ではなく『白龍』であった。
「ああ、ああ……。すまなかった。心配を掛けた!」
「白……! ホントに……白龍!? じゃ、じゃあ……」
思い出したの? その言葉は言わせてもらえなかった。
両の頬を大きな掌で包まれたと思ったら、そのまま広い胸に再度抱き包まれて、冰の瞳はみるみると熱い雫でいっぱいになっていった。それらがボロボロとこぼれ落ちるのを胸元のシャツで受け止めながら、周は腕の中の愛しい黒髪に口付けた。
「白龍……白ッ……!」
止め処なく流れ落ちる涙を見ただけで、何も言葉にせずともどんな思いでこのひと月余りを過ごしてきたかが分かる。きっと胸が潰れそうになりながらも精一杯明るい笑顔でただただ寄り添っていてくれたのだろう。そんな二人の様子を見つめる李と劉もまた、同じようにあふれた感激の涙を拭ったのだった。
「李と劉も、すまなかった。心配を掛けたな」
「老板……いえ、いいえ、とんでもありません! ご記憶の方は」
「ああ。お陰ですっかり思い出した。お前さんたちの助力には感謝でいっぱいだ」
「そ、そうですか……! 良かった……。本当に良かったです!」
いったい何がきっかけだったのだろう。皆思うところは一緒だった。
「そういえば俺が記憶喪失になっちゃった時は……白龍の……」
言い掛けて冰はハタと口を塞いだ。恥ずかしそうにしながらも頬を真っ赤に染めて視線を泳がせている。
冰が記憶を取り戻したきっかけは、周の自慰行為だったからだ。さすがに李と劉の前では暴露するわけにもいかず、冰はモジモジと顔を赤らめてしまった。
「きっかけはお前だ、冰」
「え……!? 俺!?」
え、俺……そりゃまあ確かに……そういうこともした……にはしたけど……。まさかアレを白龍が見てたっていうの……!?
「ちょっ……あの、待っ……白龍……俺、俺ね……確かにその……うわー……!」
取り止めもない言葉と共に顔を真っ赤にしたり、はたまた真っ青にしたりと忙しい。本人にとっては一大事なのだが、何も知らない李や劉からすればそれほどまでに嬉しいのだろうと微笑ましい笑顔で見つめてくる。冰はますます赤面させられてしまい、まるで子供が地団駄を踏むようにバタバタと顔を覆ってしまった。
実はこのひと月の間に幾度か周を想って自分を慰めたことがあった。もちろん深夜の自室でのことだし、それを誰かに見られているわけもないのだが、もしかしたら自分の気付かないところで周に見つかってしまっていたのかも知れない。冰は咄嗟にそんなふうに思ってしまったのだ。
瞳を白黒させながらもドキドキバクバクと心拍数が聞こえてきそうなくらい頬を紅潮させた冰の頭を、クシャクシャっと撫でながら周はきっかけを語った。
◆55
「さっきテーブルに頭をぶつけたお前を見た瞬間に、初めてお前がここを訪ねてくれた日のことを思い出したんだ」
「……! あ、あの日の……?」
「ああ――、あの時もこの部屋だったろう?」
確かにそうだ。二人が十二年の時を経て再会したのはこの部屋だった。そして緊張がマックスになってテンパっていた冰は、先程と同じようにこのテーブルに頭をぶつけたものだ。周にとって、冰が自ら訪ねて来てくれたその日のことは何よりも嬉しい記憶として心に刻まれていたのだろう。瞳を細めながらテーブルを見つめる視線が、まるで冰そのものだとでもいうように愛しげだ。
「お前が訪ねてくれたあの日、俺は本当に嬉しかった。香港を離れて以来、あんなに心震えたのは初めてだったように思う」
心の奥底に眠っていたその時の感動が、閉ざされていた周の記憶の鍵を開けたのだ。
「白龍……」
「あの日、テーブルに頭をぶつけるほどに緊張して、何に対しても一生懸命で……素直で律儀なお前を目の前にしながら……初めて出会った幼かった頃と何ひとつ変わっていないお前に気持ちの癒される気がしていた。――その時のことを思い出した。それからはあふれる泉のように次々と記憶が蘇ってきた。そりゃあもうすげえ勢いで――な?」
「白龍……! 白龍がそんなふうに思っていてくれたなんて……俺……」
冰もまたその日のことを思い返しては再び潤み出した涙を拭う。
「今まで忘れちまってたのが嘘のようだったぞ。変な話だが、ものすげえ貴重な体験ってくらいの感覚でな……。お前らと過ごした日々のひとつひとつが写真みてえになってドワーッと押し寄せてきたっていうかな。頭の中で映像として浮かんできたっていうか。とにかく言い表しようがない感じだった」
周は今一度冰の頭ごと引き寄せては、すっぽりと腕の中に抱き包むようにしながら言った。
「何もかも忘れちまってた俺の心の扉を――お前が開けてくれたんだ」
「白龍……ううん、ううん! 俺なんか……なんにもできなくて……。ただ側にいるだけで……白龍が一番辛かっただろうに……! 思い出してくれて本当にありがとう……本当によくがんばってくれて……」
「お前のお陰だ――。そして李に劉。真田に鄧、皆のお陰だ――!」
「白龍……。うん、ほんとにそうだよね。皆さんのお陰――!」
冰は安堵とも喜びともつかない高揚感に、ガクガクと全身が震えるような心持ちだった。
◆56
「そうだ! こうしちゃいられない! 皆さんに知らせなきゃ!」
冰は感激の涙を拭うと、パチクリと大きな瞳を見開いた。
「ねえ白龍、頭が痛いとかはない? そうだ、素人判断は良くないよね! 鄧先生に診てもらおう! 真田さんや香港のお父様、鐘崎さんと紫月さんにも知らせなきゃ!」
まるで上へ下への大はしゃぎでいる。そういえば冰の記憶が戻った時も周はまるで少年のようにはしゃいだものだ。今は逆だが、リアクションもそっくりの二人はやはり似た者夫婦なのだ。
「では私は鄧先生に連絡しておきます。老板と冰さんはお邸に戻られて真田さんを安心させてあげてください!」
李も嬉しそうに声を弾ませる。
「ええ、それじゃお言葉に甘えてちょっと失礼させていただきます!」
冰は社の方を李らに任せると、
「白龍、行くよ!」
周の手を引っ張る勢いで邸へと向かった。
「おいおい、そう急くな」
連絡通路を小走りする冰に手を引かれながら、周は嬉しそうだ。高揚の為か頬を真っ赤に染めながら息を切らす勢いで早歩きする横顔を感慨深そうに見つめては瞳を細める。そんな中、周は突如として歩を止めた。
「――? 白龍? どしたの?」
あまりにも急かし過ぎたせいで、どこか具合でも悪くしたのかと焦る冰を周はヒョイと抱き上げた。
「わッ……ったっとー! えッ!? 白龍、な、なにー!?」
目を白黒させて驚く冰をそのままグイと片手で肩に担ぎ上げると、悠々と通路を歩き出しながら周は笑った。
「お前には例の鉱山でおぶってもらったからな。その礼を込めてのお返しだ。今度はちゃんと俺が担ぎ上げてやりてえと思ってな」
「ひええー、白龍……! き、気持ちは嬉しいけど……いくら何でもこれじゃ……は、恥ずかしいよー!」
「恥ずかしがることはねえ。亭主が嫁を抱き上げるのは当然だろ?」
「そ、そーゆー問題じゃないって……! 誰かに見つかったら恥ずかしいでしょー!」
「誰に見つかるってんだ。ここはペントハウスの通路だぞ? そう簡単に見えはせん!」
不敵な笑みも話し方も、まさに周そのものだ。
「それにな――俺が今こうしたくて仕方ねえんだ。少しでもお前に触れていたい。俺にできることは何でもしてやりたい。今思い付くのはこんなことだけってのが情けねえが……亭主に花を持たせると思って担がれていてくれ」
「白龍……」
「ありがとうな、冰。愛してるぜ――」
心から――!
「んもー、んもうー! 白龍ったらさ! 思い出したと途端にそんなカッコいいこと言うなんて反則……!」
また再び潤みそうになった目頭を押さえながら、冰は嬉しさのあまり脚をバタつかせてはドンドンと周の背中を叩いて、心から嬉しそうに笑ったのだった。
◆57
邸に戻ると二人のはしゃぎ合う声を聞いた真田がすっ飛んでダイニングへとやって来た。
「おう、真田!」
その声音と笑顔だけで真田にも記憶が戻ったことが分かったのだろう。冰と同じようにみるみると瞳を潤ませては歓喜の涙を流したのだった。
「坊っちゃま! 冰さん! おめでとうございます! ああ良かった! 安心いたしましたぞ!」
「すまなかったな、真田。長い間心配を掛けた」
「いいえ、いいえー!」
感激に浸っていると、階下の医務室から鄧が運転手の宋を車椅子に乗せて駆け付けて来た。
「焔老板!」
「おう、鄧! 宋も! お陰様で全部思い出したぞ」
「老板! おめでとうございます! よく頑張られました!」
周は身を盾にしてトラックの衝突から護ってくれた宋にも厚く礼を述べると、一番重傷を負ってしまった容態を気に掛け、心から労った。その宋の怪我も鄧の献身的な治療によって、大分いいところまで快復していると聞き、ホッと胸を撫で下ろす。それぞれにとって永かった冬がようやくと明けたことに、皆で手を取り合って喜びを分かち合ったのだった。
「そうだ、白龍! お父様たちと鐘崎さんたちにも報告しなきゃ!」
「ああ、そうだな。じゃあ俺はカネに電話するから、お前は親父の方を頼む」
「うん、分かった!」
鐘崎のことを『カネ』と言った周の言葉に、本当に全てを思い出したのだと感激を新たにする。そうして二人はそれぞれ香港のファミリーと鐘崎らへの報告に取り掛かったのだった。
それから一時間もしない内に鐘崎が紫月と共に汐留へと駆け付けて来た。時刻はまだ午後の二時を回ったばかりだったが、真田が今晩は赤飯を炊くと言って大はしゃぎだ。
「鐘崎の坊っちゃまと紫月さんもどうぞご一緒に祝って差し上げてください! 今宵は鯛のお頭付きですぞ!」
早速に買い物をとはしゃぐ真田に、周もタジタジである。
「おいおい、鯛のお頭付きとはまた派手なこったな」
苦笑ながらも嬉しそうに頭を掻いている。ふと、思い出したように周は瞳を見開いた。
「そういやあの時も赤飯が出てきたんだったな」
「あの時? なんだ、それは」
鐘崎が興味ありげに笑う。
「初めて冰を抱いた次の朝だ。朝飯に赤飯が出て、さすがに驚かされたもんだ」
まるで恥ずかしげもなくしれっとそんなことを言ってのけた周に、冰の方は大慌てだ。
「バ、バ、白龍ったら……」
皆んながいる前だというのによくもまあそんなに堂々と、と口をパクパクさせながら真っ赤になった頬を押さえている。そんな様子を横目に、
「冰君ってば相変わらずに可愛いんだからなぁ!」
紫月がクククと笑いを堪えている。
「そういや氷川、いろいろとご無沙汰だったろうからな?」
記憶を失くしていた間はさすがに夫婦の情も交わせなかっただろうと鐘崎が冷やかしながらニヤっと笑う。まるで今夜からは楽しみだなと言わんばかりの笑顔に、ますます赤面させられてしまう冰だった。
◆58
「んもう! 白龍も鐘崎さんも……どうして男ってこう恥ずかしいことばっか平気で言うんだろう」
両手で顔を押さえてアワアワとしている冰に、
「何言ってー! 冰君だって男だべ?」
紫月までもが冷やかしながら肩をツンツンとつついてくる。
「ヤダ、もうー! 紫月さんまで!」
すっかり茹蛸状態の冰に、全員がドッと湧く。賑やかな笑い声に包まれるダイニングのパノラマの窓からは、その幸せあふれる数々の笑顔を讃えるかのように降りそそぐ午後の陽射しが大都会の街並みをキラキラと照らし出していたのだった。
その日の夜は周の快気祝いということで、鐘崎らや医師の鄧、李と劉に運転手の宋も加わって、皆で祝膳を囲むこととなった。
真田が張り切って用意した膳には言葉通り鯛のお頭付きと赤飯、それに合わせた純和食の豪勢な食卓が華やかだ。いつもは周と二人のダイニングはまるで花が咲き誇ったように賑やかな設えとなって、冰も喜び倍増であった。
その倍増が更に倍増となったのは、皆で乾杯を始めようとしていた時だ。なんと香港からファミリーが駆け付けて来たのだ。
父の隼に継母の香蘭、兄の風に義姉の美紅、そして今回は実母のあゆみも一緒だった。
冰からの報告の電話を受けて、即座に飛んでやって来たのだそうだ。あの後すぐに着替えもそこそこにして大急ぎで飛行場へと向かったという。
ファミリーのサプライズともいえる心遣いに周はもちろんのこと、冰もまた嬉し涙を誘われるほどに喜んで、快気祝いの宴は幸せに満ちあふれたのだった。
「焔、今回は本当にすまなかった。俺がブレーンを決めた人事が発端となってお前には気の毒な思いをさせてしまった」
申し訳ない、この通りだと深く謝罪をした兄の風と共に、その妻の美紅も揃って頭を下げた。
「白龍にも、それに冰にも周りの皆様にも……多大な心配とご苦労を掛けてしまったわ。本当にごめんなさい」
「兄貴! 義姉さんも……! 頭を上げてくれ。兄貴のせいじゃねえんだ。それに鉱山まで助けに来てもらって、礼を言わなきゃならねえのは俺の方だって」
「そうですよ。皆さんが全力で助けてくださったお陰で俺も白龍もこうして無事でいられたのですから!」
周も冰も恐縮してしまう。兄の風も美紅も周らの言葉を有り難く受け止めて、再度頭を下げた。
「ところで焔、羅辰らと一緒にいた例の香山という男だがな。あれからヤツの行方に関して調べを進めていたんだが、ようやくと詳細が掴めたところでな」
父の隼が口を挟んだ。
鉱山の落盤によって羅辰らの遺体が発見されたのは過日報告を受けた通りだが、その中に香山の存在はなかった。香山には冰も現地で顔を合わせており、ロンが出口までの道のりを教えたはずである。だが、その出口で待機していた隼たちの前にも香山は姿を現さなかったというのだ。
おそらくはロンから道順を聞いた後に、また道に迷ったものと思われたが、その後の行方は知れずじまいだった。鉱山でも見掛けた者はいないというし、遺体が発見されたわけでもない。気に掛かった隼が風と共に調べを進めたところ、ようやくとその行方が掴めたというのだ。
◆59
「どうやらヤツはロンから教わった通りに無事に出口まで辿り着いたらしいんだが、そこで俺たちが待機しているのに気が付いたようでな。見つかったらまずいと思ったのか、また坑道にこもってしばらくは隠れていたらしい。その後、俺たちが現場を後にしたのを見送ってから鉱山を降りたようだ」
だがその過程は散々たるものだったようだ。
何とか出口までは辿り着けたものの、鉱山から麓の村まで降りる山中で再び道に迷い、二日三晩を彷徨ったらしい。行き倒れ同然で地元民に発見された時にはげっそりとやつれていたそうだ。
「山を降りる途中で相当な苦渋を味わったようでな。発見された時にはヤツの頭は老人かというくらい真っ白になっていたそうだ。たった一人で山中を彷徨うといった環境がヤツの黒髪を白髪に変えてしまったんだろう」
これには周も冰も酷く驚かされてしまった。
「それでヤツはどうなったんです?」
「地元警察に保護されて、今は日本に帰国している。髪が一瞬で白髪になっちまったくらいだ、どうやら精神の方もすっかりイカれちまったようでな。取り止めのない言葉でこれまでの経緯を語ったそうだが、それこそ記憶も定かでなく、言葉すら曖昧だそうだ。警察に付き添われて実家のある九州に戻されたらしいが、その後は父親が引き取ったと聞いている」
さすがに哀れに思ったのか、父親が引き取ったということは親子の絶縁も解消されたということか。
「そっか……。香山さん、無事だったんだね」
驚きつつも、とにかくは生きて実家に帰れたことだけでも良かったのかも知れないと冰は思った。
「そうでしたか。父上、兄上、お忙しい中ヤツのことまで調べてくださって恐縮です」
周は丁寧に礼を述べた。
「まあ羅辰にしろ香山にしろ自業自得といえばそうだろうが、とにかくは焔の記憶も戻って良かった」
あの状態では香山という男も今後は焔にコンタクトしてくることもなかろうと言って、隼は一件落着に安堵したようだった。
「それからもうひとつ、鉱山のロナルドだが――。彼には今回たいへん世話になった。当初鉱山での仕事は三年の約束だったが、焔の窮地をすぐに知らせてくれて、救出に当たっても進んで陣頭指揮を取ってくれた。普段の仕事ぶりも我々が思っていた以上に一生懸命取り組んでくれていて感服させられる。その功績を讃えて従事期間を切り上げることにしようと思ったんだ」
隼の話ではあの後再び現地に出向いてロンにそれを伝えたという。マカオにある彼の両親が経営していたホテルを再建し、そこで一から始めないかと提案したところ、ロンは大層感激したそうだ。
ところが、それに対する返答は意外なものだったらしい。
◆60
「だがな、ロナルドの言うには鉱山での仕事が性に合ったそうで、引き続きこの仕事に就いていたいと言うんだ」
これには隼も風も驚かされてしまったのだが、ロン本人がそうしたいと言うものを無理に解雇するわけにもいかない。ロンにはこれまで以上の報酬を約束して、鉱山の任務を任せることにしたのだそうだ。
「そうですか。あのロンが……。お陰様で俺も記憶が戻ったことですし、近く現地に行って直接礼を述べたいと思います」
「ああ。そうしてやってくれればロナルドも喜ぶだろう。なにせヤツは今も冰に心酔しているようだからな」
ロナルドことロンとは周兄弟の拉致をきっかけに知り合ったわけだが、本当に変われば変わるものである。今ではすっかり頼もしい鉱山の男となった彼に、誰もが心温まる思いでいるのだった。
「白龍、ロンさんの所へは俺も一緒に行くよ。チームの方たちにもちゃんと御礼を伝えたいし」
冰もそう言ってくれるので、近々夫婦揃って鉱山を訪れることにした。
「だったら俺と紫月も同行させてもらうか。俺たちもすっかり世話になったことだしな。帰りにはマカオの張の所にも寄れるし、マカオまで行きゃ香港も近い。親父さんたちのところにも顔を出せる」
鐘崎の機転に隼らも喜んだ。
「遼二と紫月が一緒に行ってくれるなら心強い。香港では充分寛いでもらえるようにして待っているぞ」
「でもホント、俺たちっていい方たちにご縁をいただいて幸せだよね。ロンさんといいマカオの張さんといい、皆さんのお陰で今回もこうして無事にいられるんだもん」
冰がニコニコとしながら感激している。だが、彼らとの出会いを考えれば必ずしもいいきっかけだったわけではない。マカオの張は身勝手な理由で冰を拉致したわけだし、ロンは周兄弟と鐘崎を亡き者にしようと企んだような輩である。そんな彼らと今はこうして固い絆で結ばれるようになったのも、周隼の懐の深さと冰や周のあたたかい人間性の賜であろう。誠、縁とは不思議なものだ。きっかけはどうあれ、彼らとこうして絆を持てたことに、誰もが良かったと思うのだった。
「さあ皆様、メインのお料理ができましたぞ。今宵は香港から坊っちゃまのご家族も駆け付けてくださったことです。純和食をたっぷりとご堪能くださいまし」
真田が出来立ての料理を運んで来て、皆は再び快気祝いの膳を楽しむことにする。
和やかな歓談ですっかりと夜も更けて、周と冰も是非にと言うので、鐘崎と紫月もファミリー同様今宵は汐留に泊まっていくこととなった。
周と冰にとっても記憶が戻って初めての夫婦水入らずの時だ。昼間は皆への報告が何より優先だった為、二人だけで向き合うのが今になってしまったわけだが、ようやく長かったこのひと月余りの不安が解消された喜びを分かち合える二人であった。