極道恋事情

27 身代わりの罠1



◆1
「身代わりの任務だ?」
 珍しくもポカンと口を開け、唖然とした表情で鐘崎が片眉をひそめていた。それというのもただの身代わりではなく、とある夫婦に代わって数日の間を過ごして欲しいという内容だったからだ。
 鐘崎組の長である父の僚一が詳細を付け加える。
「実はな、今度この東京で世界的権威のある医師会の会合が催されることになった」
「ああ、そういや源さんがそんな話をしていたな。何でもその会合で新たに発見された治療のメカニズムが発表されるとか言っていたが」
 もちろんニュース番組などでも流れていたので、鐘崎自身もその会合自体が催されるのは耳にしていた。
「その新たなメカニズムというのを発見したのが若手の医師でな。医学会では天才と謳われている人物だ。名はクラウス・啓・ブライトナー、歳は三十二だ。父親がドイツ人、母親は日本人の混血で、一昨年結婚した妻は日本人。クラウスとは八つ違いの二十四歳だ。二人共普段はドイツ住まいだが、会合に出席する為、来週始めから一週間ほど来日する」
「つまり――そのクラウスが無事に会合で新たな発見を発表するまでの間の護衛というわけか?」
「まあな。護衛については俺と源さんの方で担う。医学会でも非常に重要な機会だ。クラウスの発見を会合の前に入手しようとする敵対者が彼を狙っているという情報が入った」
 その為、ブライトナー夫妻の来日と同時に身代わり役として彼らと入れ替わり、本物の夫妻には他人の目に触れない極秘の場所で過ごしてもらうこととなった。僚一と源次郎らが警護に当たるという。
「ただし、会合前に夫妻が一切周囲に姿を見せないというのは怪しまれる。そこで身代わり役が夫妻を装って、食事や買い物などに出掛けるシチュエーションを作り出さねばならんということになってな。年齢的にも体格的にもぴったりと当てはまるのがお前だったというわけだ」
 僚一が差し出した数枚の写真を見て、鐘崎は少々驚き顔で父を見やった。
「これ――」
「驚いたろう。俺も依頼が来た時にそれを見てなるほどと納得させられた。クラウスはお前によく似ている」
 明らかに違うのは髪と瞳の色だけで、顔立ちは確かによく似ている。鐘崎本人が見てもそう思うのだから、他人が見れば間違えてもおかしくないといったところだ。
「身長体格も遜色ない。髪色だけ染めて眼鏡をかければ完璧にクラウスだ」
「……事情は分かった。だが俺はいいとして、嫁役はどうする。写真を見る限りさすがに紫月では怪しまれるだろう……」
 それというのもクラウスの夫人は体格からして小柄だったからだ。紫月は細身だし、以前にも女装で事件を乗り切ったことがある。変装すること自体は可能といえるが、さすがに体格を変えるのは無理があろう。



◆2
「それについては依頼元が女性のエージェントを用意するそうだ。コードネームは六条女雛、クラウスの妻と同い年の女だ」
「六条……何だって?」
「女雛だ。正式なコードネームは六条女雛、普段はメビィと呼んでくれとさ」
「……随分とまた変わった名だな」
「なんでも六条御息所にあやかって本人が希望したコードネームだそうだぞ」
 意味ありげに僚一は笑う。
「六条御息所だ?」
 六条御息所と聞いてすぐに頭に浮かぶのは、かの有名な源氏物語に出てくる貴婦人だ。非常に高い身分にあり、美貌にも才気にも秀でていたものの、嫉妬に駆られ生霊となって恋人の妻を死に追いやったという少々驚愕なエピソードが有名である。
 それにちなんだ名と聞かされれば、何とも言い難い気持ちにさせられるというか、正直なところ驚かされる。しかも女雛といえば一般的に思い付くのは雛人形だ。お内裏様――つまりは男雛の隣にいる”お雛様”である。どちらも身分は最高位という女性たちだ。
 それらになぞらえるということは、よほど腕に自信があるか、あるいは出世欲が強いのだろうかと、ついそんなふうにも思ってしまう。若い女が自らのコードネームに選ぶにしては、いささか首を傾げさせられそうな名でもある。
「本当に本人が希望した名なのか?」
「そう聞いているぞ。なんでも当初は”白雪姫”という名を希望していたそうだが、同じチームに”眠り姫”というコードネームの女がいたそうでな。それならと今の名に決めたんだそうだ」
「白雪姫がダメなら源氏物語にお雛様――か」
 自他共に認める切れ者なのか、あるいは文学好きの夢見る乙女か。
 だがまあ、他人のコードネームにどんな意味があろうと、仕事の上では関係ないことだし、わざわざ首を突っ込んで知りたがるほどの興味もない。鐘崎にとっては与えられた任務を滞りなくこなしさえできればそれでいいのだ。
 僚一が差し出した資料に女の顔写真と簡単な経歴が載っていた。それらにザッと目を通す。
 年若いのでエージェントとしての実績は浅いが、これまでに彼女が関わった案件を見れば、割合難しいものが多いようだ。しかも見事解決に導いている。
「なるほど。身長や年齢などはぴったりか」
 体格は似ているが、顔立ちはクラウスの夫人とは少々違う。似てはいないが、どちらも単体で見たならば、ほぼ万人が美人だと思うだろう見目良い容姿であった。
「本人とはあまり似ていないな。これで周囲をごまかせるのか?」
「その点は化粧で何とでもなるそうだ。メビィは変装も得意としていて、これまでにも何度か別人に化けて任務を成功させているらしい。聞くところによるとやり手の女だそうだ」
「……やり手ね」
 ということは、夢見る乙女というよりは切れ者という方に近いのだろうか。小さな溜め息と共に資料をめくる。温度の低い息子の声音に僚一は苦笑してしまった。
「そうあからさまに嫌そうな顔をするな。お前が女と組むのを懸念するのは分からんでもないが、これも仕事だ」
「分かっている。それで、俺はその女と組んで何をすりゃいいんだ」
「うむ、説明しよう」



◆3
 まずブライトナー夫妻が来日し、滞在先のホテルにチェックインした時点で入れ替わり、本物の夫妻にはそこで着替えてもらい僚一らと共に警備が厳重な別の施設へと移動してもらう。その後、会合当日までの間、医学会のお偉いさん方と食事を共にしたりプライベートで買い物に出掛けたりする夫妻の行程を鐘崎とメビィが代行するという手順だ。
「クラウスはドイツ住まいだからな。母親が日本人だから日本語も多少話せるそうだが普段はドイツ語だ。お前さん、言語の方はイケるな?」
「ドイツ語か――。簡単な日常会話程度ならな。だが、医学用語など詳しいことを振られたら完璧にとはいかねえぞ」
「その点は心配無用だ。今回、お前らの世話係を装って周焔のところの鄧浩に助力を依頼した。彼は医者だ。ドイツ語はもちろんのこと、専門的な話を振られても対応できる」
「鄧先生か。そいつは心強いな」
「お前らには常にどこからか監視が付くことが予想される。会食相手のお偉いさんも事情は把握しているから、適当に和気藹々とした雰囲気を演出してくれればいい。その間も鄧が同行してくれることになっている。食事や買い物などの用事が済んだらお前らは滞在先のホテルへ戻り、メビィはそのままホテルに滞在。鄧には敵の目を引きつける為に一般客と同じエレベーターから帰ってもらい、その間にお前はコネクティングルームから直接地下の駐車場へ抜けて帰宅できるようになっている」
 その際はクラウスとは違う雰囲気の服装などに着替え、抜かりなくやってくれと僚一は言った。
「なにせただでさえお前とクラウスは似ている。一日の行程を終えて自宅へ戻る際には、極力クラウスの雰囲気とは違う変装を心掛けるようにしてくれ」
「守備は分かった。だが、コネクティングルームから直接地下駐車場へ降りられるなんてシステムが存在するのか?」
 通常、一般的なホテルはそのような造りにはなっていない。コネクティングルームから隣の部屋へ移動することは可能だとしても、一旦は廊下へ出なければならないはずだ。監視が付いている中、いかに隣の部屋といえども、帰ってすぐに隣室から出入りすれば気付かれないとも限らない。
「その点は心配いらん。なにせホテルというのはグラン・エーの特別室だからな」
「グラン・エーだと? 粟津財閥のホテルか」
「そうだ。お前ともよく知った仲の粟津帝斗の親父さんが経営するホテルさ」
 帝斗には以前三崎財閥の事件の際にも大層世話になった経緯がある。おそらくはその特別室というのも粟津家がプライベートで使っているペントハウスにある部屋のことだろう。鐘崎自身も帝斗に呼ばれて訪れたことのある部屋だ。
「あそこのフロアには一般客は入れん仕様だったな」
 それならば監視がそのフロアにまで付いて来るのは難しいだろう。なかなかにいい準備といえる。



◆4
「では帝斗らにも今度のことはある程度話してあるということだな?」
「そうだ。粟津の会長、つまりは帝斗君の親父殿だが、快く協力への返事をいただいた。ホテル内で何か必要なことがあれば、帝斗君が全面的に面倒を見てくれるそうだ」
「そいつは有り難い」
 帝斗とは気心も知れているし、断トツで頭の切れる男だ。頼りになる。
「我々が任務に当たる間、組のことは紫月と幹部の清水に任せることにする。まあお前さんも通いで済むわけだから、夜にはここへ帰って来られる。俺と源さんはブライトナー夫妻に付きっきりとなるから、留守の間のことは頼んだぞ」
「了解した。それで、女との顔合わせはいつだ」
「明日午後一、グラン・エーで焔のところの鄧先生も含めて待ち合わせている。むろん粟津親子も一緒だ」
「承知した。では俺の方も紫月と相談して変装用の準備を整えておく」
 こうしてクラウス・ブライトナー夫妻の身代わり兼警護ミッションが幕を開けることとなった。
 鐘崎はクラウスになり切る為、まずは髪色を染めるところからスタートだ。急なことなので、美容院に行く暇もなく、自宅で紫月が手伝い亜麻色へと染め上げる。
「瞳の色はカラコンでいいな。この写真の色だと薄いグリーンってところか」
 紫月が数あるカラーコンタクトレンズの中から近い色を選んでくれる。
「それから……っと。ああ、そうそう。遼、髭剃るのも忘れんなぁ!」
 クラウスの写真を見ながら紫月が細かいところまで確認して指示を出す。何せ今日の明日という急な話だ。こうしてチェックしてくれると大助かりなのだ。
「あとはホテルへの出入り用に何種類か変装用具が必要だな。グラン・エーを使う客層なら上品なエリート感にすりゃ怪しまれずに済む」
 若者の姿ばかりでなく、初老に化けることも必要だ。白髪のウィッグや眼鏡に帽子、ステッキなどの小道具に至るまで様々なパターンを用意していく。変装用の服の他にもクラウスになり切る為の服装も用意せねばならない。
「結構な大荷物になるな。帝斗に言って業者用の搬入口から運び入れてもらうべ」
 紫月は各変装毎に使う服や小物、靴に至るまでを一揃いずつ分かりやすいようにセットして衣装ケースに詰め込んだ。
 鐘崎の組では依頼内容によってはこうした変装なども必須の為、準備は手慣れたものである。それもこれも手際良く身支度を手伝ってくれる姐さんがいればこそだ。
「すまねえな、紫月。世話を掛ける」
「何言って! これも俺ン仕事だからさ」
「それもだが、今回は女のエージェントと夫婦役を演じにゃならん。お前にも申し訳ねえと思うが……」
「バッカ。仕事なんだからそんな気ィ遣う必要ねって! それよかエージェントの姉ちゃんに対してあんまし無愛想にすんなよー? 俺的にはそっちの方が心配!」
 朗らかに紫月は笑う。こんなふうに送り出してくれることが、鐘崎にとっては何よりの癒しになるのだ。
「俺、そんなに愛想ねえか?」
「お前は俺と違ってただでさえ硬派な雰囲気だからなぁ。若頭としちゃ大事なことだし、まあそこが魅力でもあるわけだけどさ。特に女に対してはぶっきらぼうなトコがあるから」
 紫月はからかいながら笑う。
「そうか……。それじゃ少し笑顔の練習でもしていくか」
「あははは! そいつはいいな。頑張れ、遼!」
 鐘崎がすまなさそうにしているのを笑顔で受け止めながら、紫月はそんな亭主の肩をキュッキュッと揉んでは激励してくれるのだった。



◇    ◇    ◇





◆5
 次の日、丸の内にあるグラン・エーへと向かった鐘崎親子は、そこでエージェントの女と初顔合わせとなった。医師の鄧と共に初日だけは周も一緒だ。到着と同時に地下駐車場で粟津帝斗が迎えてくれた。
「いらっしゃい。久しぶりだね、遼二! 元気そうで何よりだ」
「お前さんもな。今回はまた世話を掛ける」
「事情はお父上からうかがっているよ。エージェントのメビィさんが特別室でお待ちだ。今は僕の父が対応している」
 地下の駐車場から特別室へ抜ける道順の説明を受けながら待ち合わせ場所へと向かう。
「この通路は一般のお客様には開放していないからね。一旦警備室を経てから駐車場へ合流できるようになってる。監視の追尾はそこでかわせるから」
 帝斗の説明に続いて僚一がつけ足す。
「移動用の車を車種違いで五台ほど常駐させておく。行き帰りの変装に合わせて、都度見合う車を使ってくれ」
「了解した」
「変装用の荷物は朝一で紫月から預かったよ。既に特別室のコネクティングルームへ届けてあるから」
 鐘崎親子が出向く前に紫月と若い衆が搬入業者に化けて運び入れてくれたそうだ。これで事前の準備は完璧である。
 そうして特別室に着くと、帝斗の父親とエージェントの女が待っていた。
「初めまして、メビィです。あなたが遼二さん? ホント、クラウスさんにそっくりね」
 女はまだ変装はしておらず素のままだったが、なかなかに見目良い美人だ。やり手というだけあってか物怖じしたところはなく、どちらかといえば自信にあふれているといった堂々たる雰囲気だった。
「これが変装後のイメージですわ。クラウスの奥様の遥さんでしたわね。彼女に似せてメイクしてみましたの」
 女が差し出した写真は大層良く化けられていると言える。
「これならば周囲に怪しまれることもなかろう。大したものだな、メビィ」
 僚一に褒められてメビィは得意気な笑顔を見せた。
「今から私たちは夫婦ね。よろしく遼二さん」
 にこやかに微笑まれて、鐘崎も『よろしく頼む』と会釈で返した。
 その後、皆で今一度ブライトナー夫妻の行程を確認し、来日から出国までの一週間の細かい動きを日毎に分けてスケジューリングしていった。
「僚一、その間、鄧には今回の任務に専念してもらえる。汐留の方には鄧の他にも常駐の医師がいるので、こちらのことは気にせんでくれていい」
 周がそう言ってくれるので、僚一らも心強い。
「俺は今のところ直接の出番はねえが、今後一週間は常に身体を開けておけるよう調整済みだ。何かあればいつでも遠慮なく言ってくれ」
「すまんな、焔。頼りにしているぞ」
 立地的にも鐘崎組よりは周の社の方が近いし、すぐに助力できる体制は整えておくと言ってくれる。心強いことだ。



◆6
「鄧には遼二とメビィの世話係として常に一緒に行動してもらう。買い物などのプライベートで出掛ける際も同行してもらうが、一日の行程を終えた時点でこの特別室まで夫妻役の二人を送り届けて、一足先に一般客と同じ出入り口から帰宅してくれ。その後、遼二はコネクティングルームを経て帰宅。次の朝も同様に、遼二は直接地下駐車場から極秘通路を使ってここでメビィと合流。鄧は一般客と同じホテル内のエレベーターで監視役を引きつけながら夫妻役を迎えに上がるといった手順でいく」
 常に監視役に怪しまれないよう心掛けてくれと僚一は言った。ホテル内での細かい要望は帝斗が面倒を見てくれるそうだ。
「必要なものがあればいつでも遠慮なく僕に言っておくれ。夜中でも気にすることはないよ。ブライトナーご夫妻が無事にご帰国されるまで僕ら粟津一族も全面的にキミらの手助けができるよう準備を整えているからね」
 帝斗もそう言ってくれるので、体制としては万全といえた。

 そうしていよいよ夫妻が来日する日を迎えた。

 予定通り、彼らには一旦グラン・エーの特別室に入ってもらい、僚一と源次郎らの厳重な警護の下、真の滞在先へと移動してもらう。
「今日は夕方から歓迎の食事会が催されることになっている。場所はこのホテル内のレストランで、接待相手は我が国の医学会のお偉いさん方だ。彼らも事情は承知の上だ。偽夫妻と知ってのパフォーマンスだから、今日のところは難しい話は必要ない。適宜和やかに調子を合わせてくれればいい」
 問題は三日後だと僚一は言った。
「会合の前夜祭として、クラウスの発見を快く思っていない連中もまじえた大きなパーティーがこことは別のホテルで催される。場所的には車で五分足らずの老舗ホテルだが、そこでは各方面から医者がわんさとやって来る。専門的な話を振られる機会も多かろう。鄧、サポートを頼むぞ」
「お任せください。私も今回の件を請け負うに当たってクラウス・ブライトナーについて少々調べましたが、彼は普段からあまり社交的ではないようですね。仲間内では研究に没頭しているだけの無口で愛想のない変人と言われているようですから、遼二君に話し掛けてくる御仁には極力私が代わって会話を引き受けさせていただけるかと」
「すまない、鄧先生。頼りにしてるぜ」
「ええ。遼二君は軽く会釈をしていてくれればよろしいです」
「そちらの方は鄧に任せよう。奥方役のメビィも側でにこやかにしていてくれればいい」
「承知しましたわ」
 メビィもにっこりと微笑んだ。



◇    ◇    ◇






◆7
 その日の夜は予定通り仲間内での会食が無事に済んだ。鐘崎と鄧も行程終了後は速やかに撤収し、何事もなく一日の任務を終えた。
 次の日はプライベートで買い物に出掛けるという行程だ。昨夜とは違って人目につくことが予想される為、いよいよ腹を据えて掛からねばならない。鐘崎がコネクティングルームに到着すると、隣の特別室からコンコンとドアを叩く音がして、メビィが声を掛けてきた。
「遼二さん、お着きになられたの? ちょっと失礼してよろしいかしら?」
 鐘崎はまだクラウスへと変装していなかったが、ルームの鍵を開けて彼女と対面した。
「あら! まあなんていうお姿!」
 メビィが驚くのも無理はない。鐘崎の出立ちが老紳士だったからだ。
「本当に遼二さん? これも変装ですの?」
「ああ。出入りの際はなるべくクラウスの雰囲気とはかけ離れた印象の方がいいと思ってな」
「でも……なんて見事な。これじゃどこから見ても七十代くらいにしか見えないわね!」
 大したものだとメビィが感心顔でいる。
「買い物に出掛けるのは昼少し前だったな。まだ時間的には余裕だ。小一時間もすれば鄧先生が迎えにやって来るだろう」
 鐘崎はそれまでにクラウスへの変装を整えると言った。
「私もこれから夫人に化けるわ。それにしても見事な変装用具ね。すごい衣装ケースの山だけど、この中にいろいろな変装道具が入っているの?」
 部屋には紫月の用意した変装用具一式がそれぞれの服から靴、小物に至るまで一パターンずつ衣装ケースに詰められて仕分けされたものが置かれていた。各ケース毎に老人風とかベンチャー企業の若社長風、会社の重役風などといったラベルが付けられていて、一目で何の変装かが分かるようになっている。
「それにしてもすごい準備ね。これなら時短ですぐに着替えられるわ」
 これも全部あなたが準備されたの? と訊く彼女に、鐘崎は微笑で答えた。
「これは俺の嫁が準備してくれたものだ。確かに時短で済むし、非常に助かっている」
「まあ、奥様が……。ご主人の仕事をよく理解していらっしゃるのね」
 メビィは感心しながらも、積まれたケースをしきじきと眺めていた。
「そういえば遼二さんの奥様は男性の方なんですってね」
 初対面で尚且つこちらの素性をある程度知っている相手であれば、必ずと言っていいほど一度は訊かれる質問だ。鐘崎にとっては特に隠すことでもないので、その通りだと答えた。



◆8
「奥様っていうことは籍も入れていらっしゃるの?」
「ええ」
「まあ、じゃあ本気ですのね。……どんな方なのかしら?」
「俺にとってはかけがえのないヤツです。世間一般の夫婦と何ら変わりませんよ」
「へえ……。奥様のことを愛していらっしゃるのね」
「もちろん」
 老紳士の変装を解きながら鐘崎はごく当たり前のようにそう答えた。普通ならばそれ以上言及されることもないのだが、どういうわけかメビィは鐘崎の相手が男性というのが気になって仕方ないようだ。
「でも遼二さん、女性にもモテたんじゃありません? 鐘崎組といったら私たち裏の世界では知らない者がいないほどの有名処ですし、遼二さんもお父様の僚一さんもすごく男前ですもの。女が放っておかないと思うわ」
 絶対に引き手数多のはずなのに、どうしてわざわざ同じ男性なんかと結婚までしたの? と言いたげだ。正直なところ鐘崎にとってはうっとうしい話題といえる。だがまあ、紫月からも一緒に組む女性に対して無愛想にするなよと釘を刺されていたこともあって、ここはにこやかに答えるしかなかろう。
「俺が生涯を共にしたいと思っただけです。男性だからとか女性だからというのは関係なく、俺はヤツと一緒に生きたいと思ったのでね」
 この手の質問はこれまでにも嫌というほど受けているので、正直に答えるが賢明だ。メビィの方も鐘崎のあまりのストレートさにタジタジと押され気味でいる。
「……随分はっきりとおっしゃるのね。羨ましいご夫婦だと思うけど……でもじゃあ女性には全くご興味ないのかしら?」
「興味というよりも――既に結婚している身なのでね。そういった意味では自分の嫁以外には興味がないということになるだろうな。男性女性関係なく――ね」
 鐘崎は笑いながらクラウス用の変装道具を衣装ケースから引っ張り出す。いくら時間に余裕があるといっても、そろそろ準備しなければまずいだろう。だが、メビィの方ではまだまだ興味が抑えきれない様子だ。鐘崎にとってはさすがに眉根を寄せさせられるような話題を振ってきた。というよりも、彼女にとってはそれが一番訊きたかったことなのかも知れない。
「ねえ遼二さん。あなたが奥様を大切にしてらっしゃるのは分かったけれど……。でもたまには違った空気に触れてみたいとは思わないのかしら?」
「――違った空気?」
「ええ、そう。例えば……奥様以外の女と寝てみたいとか、男性ならばそういう欲求があってもおかしくないと思うんだけれど」
 つまり浮気願望はないのかということだろうか。

「――ねえな」

 少々ぶっきらぼうに鐘崎は断言で返した。
「……随分はっきりおっしゃるのね」
「本当のことだからな。それよりあんたもそろそろ支度しなくていいのか? クラウスの嫁さんに変装するには化粧もせにゃならんだろうが」
 これ以上仕事以外の話に付き合う義理もない。鐘崎は着替えるからと言って、メビィを隣の部屋へと追い返すことにした。



◆9
 彼女を見送り、コネクティングルームの扉に鍵を掛ける。
「……ったく。厄介な役目を押しつけやがって、親父のヤツ」
 女に興味を持たれることにはある意味慣れっこだが、任務以外のプライベートについてあれこれと詮索してこられては面倒だ。やり手だと聞いていたが、これでは仕事の方も卒なくこなしてくれるのかと心配になってくる。二日目からこんな調子では、あの女と組んで一週間を過ごさねばならないと思うと気が重くなるのも確かだ。小さな溜め息を漏らすと、鐘崎はクラウスになり切るべく着替えを整えたのだった。
 それから一時間もしない内に鄧が迎えにやって来た。鐘崎としてはホッと一安心である。特別室のメビィも既にブライトナー夫人への変装を済ませて待っていた。
「まあ! 遼二さん、さっきのお爺さんの姿とは別人ね! やっぱりこっちの方があなたらしくていいわ」
 感嘆の声を上げながら、キャッキャと浮かれた調子で鐘崎の腕に抱き付いた。
「さあ、あなた! 今日はお買い物三昧よ! 楽しみましょう」
 鄧もいるというのに、遠慮する素振りもなくすっかり夫婦気取りだ。鐘崎も掴まれた腕を振り払うことまではしなかったが、なんとも言えない仏頂面で部屋を後にしたのだった。



◇    ◇    ◇



 向かったのは銀座だ。
 事前にブライトナー夫妻の趣味を聞いていたので、彼らが好みそうな店を回って歩くことにする。
「あなた! ほら見て。これなんかどうかしら? 私に似合うと思う?」
 メビィは服や鞄などを手に取ってご機嫌だ。一応は流暢にドイツ語を使っているところをみると、やり手というのも満更嘘ではないのかも知れない。
「ああ、いいんじゃないか」
 鐘崎もドイツ語で返しながら、メビィが試着室へ入って行くと軽く溜め息を漏らした。
「遼二君、気が重そうですね。まあ一週間の辛抱だ」
 鄧がコソッと耳打ちしてくる。ホテルからここまで移動の車の中でもメビィはべったりと鐘崎の腕を掴んだまま離さず、店を見て回っている最中もまったく人目を気にせずといった調子で鐘崎の側を離れようとしない。いくら夫婦でもそこまでべったりするだろうかと、逆に怪しまれん勢いなのだ。当然鐘崎が気重に思っているだろうことも鄧にはお見通しであった。
「これも仕事だからな。贅沢を言っちゃいけねえとは思うが、あまり踏み込まれても面倒なのは事実だ」
「何かあったのですか?」
「今朝、先生が来る前にちょっとな。あの女、俺に浮気をしたくねえかと訊いてきた」
「それはまた……大胆ですね。具体的にはどのようなことを言われたのです?」
「たまには女を抱きたいとは思わねえのか――とさ」
「おや、驚いた」
 それでは憂鬱になっても仕方ありませんねと鄧も苦笑気味だ。
「私からそれとなく釘を刺しておきましょうか?」
「ああ……まあ、あまり酷くなるようならな」
「そうですね。鐘崎組としても他所様のエージェントと気まずくなってもいけませんしね。遼二君が必要と思われた時は遠慮なく言ってください」
「ああ、すまないな鄧先生」
 しかし、周にも言えることだが、イイ男というのも苦労が付きものですねと鄧は肩をすくめた。



◆10
 その後も何軒か店を回った後、そろそろ撤収するかということになった。
「楽しかったわ。また来ましょうね、あなた!」
 メビィは相変わらず鐘崎の腕にしがみついて離れない。
「そろそろ帰ろう。行程としては充分だろう」
 鐘崎がそう切り出したが、メビィはせっかくだからお茶をしていきましょうよと言い出した。
「行きたいお店があるの。丸の内だし、帰りがてら寄るにはちょうどいいと思うのよ」
 それに夫婦仲良くティータイムというシチュエーションを敵の監視係に見せておくのも必要だと言い張る。
「見張りの連中は……付いて来ているな」
 コソッと鄧に耳打ちすると、彼もまたそのようだと答えた。
「ええ。昨夜の会食の席には二人、今日は別の人間ですが、先程から二人見受けられますね」
 では仕方がない。確かに仲良くお茶をする場面も必要か。鐘崎は渋々ながらも賛同することにした。
 場所はグラン・エー近くのティールームだ。
「私、一度入ってみたいと思っていたのよ。紅茶の専門店なんですって」
 遼二さんは紅茶はお好きかしらと訊かれて、またもや腕にしがみつかれた。
「ご夫人、差し出がましいようですが、ここでは”遼二さん”はまずいですよ。クラウスとお呼びになられてくださいませ」
 にこやかながらもすかさず鄧が釘を刺す。
「あら、そうだったわね。ごめんなさい。つい……。じゃあ、”あなた”。これでいいかしら?」
 メビィはツンと唇を結びながらもそう言い直した。
 その後、三人で小一時間のティータイムを終えてからホテルへと戻ったのは、すっかり陽も落ちた夕食前の時間帯だった。
 特別室へと戻り、鄧が先に帰ると、メビィがまたしても面倒なことを言い出した。
「ねえ遼二さん。ああ、もう今はお部屋だからこの呼び方でいいわよね? これからディナーをどうかしら。外へ出るのがまずければ、ここのレストランで構わないわ。夫婦水入らずで食事っていうのも見せておく必要があるんじゃないかと思うんだけど」
 さすがにそこまでする必要もなかろう。
「ブライトナー夫妻はただでさえ会合当日までは慎重にしていなければならない身だ。それに会合に向けての準備もあるだろうし、クラウスの性格からしてあまり外へは出たがらないだろう。夜食はルームサービスの方が無難だ。粟津に連絡を入れておくから、夕食はこの部屋でとってくれ」
「遼二さんも一緒に食べていかれるわね?」
「いや。俺はまだ親父への報告なども残っているのでな。これで失礼する」
「あら、冷たいのね。残念だこと」
「言うまでもないと思うがこれは遊びじゃねえんだ。あまり浮かれていてはいざという時に支障が出る」
 断り文句ひとつ、邪険にしてもいけないしと気遣うのも疲れるところだが、鐘崎の言葉にメビィは渋顔ながらも納得したようだった。
「それもそうね。仕方ないわ。じゃあまた明日」
「明日の予定は医師会の案内で病院を視察することになっていたな。俺は朝九時にここへ来る。アンタも準備しておいてくれ」
「ええ。それじゃ」
「ああ。今日はご苦労だった」
 鐘崎にとって長い一日がようやくと終わったのだった。


◇    ◇    ◇






◆11
 深夜近くになった頃、風呂を上がったメビィは特別室で少々苛立ちながら通話中であった。相手は彼女が所属するエージェントチームの取りまとめ役、つまりヘッドである。
『どうだ。上手くいきそうか?』
 通話の向こうで男が訊く。
「なんとかやってるけど……今のところはまだどうにも。とにかく堅物過ぎて話にならないわ。このアタシが一生懸命色気を使ってあげてるっていうのに、あの人ときたら! 自分の奥さんにゾッコンだかなんだか知らないけど、付け入る隙もありゃしないんだから!」
『ほう? お前相手でも靡かねえってか? やはり鐘崎一族、一筋縄じゃいかんか』
「感心してる場合じゃないわよ! こうなったら仕方ない。ちょっと強引だけどプラン・ブラボーでいくしかないわね。あなたたちの協力が必要よ」
『おいおい、まだ二日目だってのにもうプラン・ブラボーかよ』
 一番目の作戦――プラン――の名はアルファ、つまりメビィが鐘崎にスキンシップを繰り返すことによって興味を引こうという予定だった。それで靡かないのならば次は二番目の作戦、プラン・ブラボーを発動したいという意味だ。
「まだですって? もう二日目よ! ブライトナー夫妻の滞在日程は一週間しかないのよ。悠長にしてる場合じゃないでしょ!」
『それもそうだ。まあこっちの方はいつでもいけるがな』
「鐘崎遼二の声は編集できてるわね? 明日は病院の視察だから、帰って来てから決行してくれる? 何とか理由をつけてアタシがあの人を引き留めるわ」
『了解だ。お前の部屋を見渡せる位置にカメラマンを配置しておく。他に必要な物があれば言ってくれ』
「今のところ無いわ。遼二を眠らせる睡眠薬はアタシの方で用意してある。あとは上手く珈琲にでも混ぜて飲ませてしまえばオーケーよ。それより画像と音声の編集を急いでちょうだいね! 明後日の朝には裏の世界の共有データベースに載せられないと意味ないわ。明々後日はもう会合の前夜祭だもの。それまでには何がなんでも遼二を落とさなきゃ」
 通話を終えるとメビィは舌打ちながらも溜め息をついた。
「まったく……! このアタシに興味を示さないなんてどういう男かしら! ちょっと男前だからってお高くとまっちゃってさ! 嫁に惚れてるかなんか知らないけど、所詮は男じゃないの!」
 鐘崎遼二がゲイだという情報は得ていなかった。結婚した相手がたまたま男だったというだけで、鐘崎が通常そういった嗜好の持ち主だとは聞いていない。裏の世界のデータベースで検索しても彼がゲイだとは思われていないようだ。
「いったいどんな嫁なんだか! 相手は一之宮紫月とかいったわね。データベースに顔は載っていなかった……。ということは、あの遼二が細工して奥さんの情報を公開していないっていうことかしら。そんなに大事だっていうわけ?」
 おそらくは自分の嫁が余計な厄介事に巻き込まれないようにと、わざわざ非公開にしているといったところだろうか。
「紫月だかなんだか知らないけど、嫁気取りしていられるのも今の内だけよ! 鐘崎遼二を落として公私共にこのアタシがパートナーの座を奪ってやるわ。そうすれば鐘崎組と強大な縁ができるし、ウチのチームの裏社会での立場も安泰になる」
 裏の世界での立場も強くなり、ますますいい思いができる。クラウス・ブライトナー夫妻警護という任務の陰にそんな思惑が潜んでいるなどとは、この時の鐘崎はもちろん、長の僚一でさえ思いもよらないといったところであった。



◆12
 次の日、予定通り病院の視察が済んでグラン・エーの特別室へ帰って来ると、メビィは早速に鐘崎を引き留めた。鄧とは既に部屋の前で別れている。鐘崎もまた、この日の行程を終えて、いつもの通り着替えて帰ろうとコネクティングルームに向おうとした時だった。
「遼二さん、ちょっと待って。帰り際にウチのエージェントチームから情報が入ったの。それによると、どうやらこの部屋も監視されているらしいの」
 鐘崎は首を傾げた。
「ここがか? だが、この階には一般客は入れないはずだが」
「それがどうも外かららしいの。このホテルの正面に見える背の高いビルがあるでしょ? あそこから望遠レンズで見張っている怪しい人影が見つかったそうよ」
 メビィの言うには彼女の所属するチームが調査に当たったところ、ちょうどこの部屋の窓が見える対面に監視役と思われる人物が発見されたそうだ。
「どうもアタシたちが部屋に帰ってからのことを知りたがっているらしいわ。おおかたクラウスさんが会合で発表する資料の整理でもしていると見込んで、探ろうと思っているんじゃないかしら」
 真正面には確かに高楼のビルが見えるが、そこは国内でも有名処といえる大企業の自社ビルだ。一般人がそう簡単に陣取れるはずはない。
「……。俺の方にはそういった情報は入っていないが――」
 第一、そんな事実があれば父の僚一が見逃すはずもないからだ。
「あなたのお父様はクラウスさんたちに付きっきりだもの。状況が上手く掴めていなかったのかも知れないわ。見て、この対面の位置に人影が見えるでしょ? あれは敵の監視役で間違いないわ」
 それとなく窓の外を見やれば、確かにこちらを見ているような人影の動きが確認できた。
「……ふむ、よほどクラウスの発見が欲しいということか……」
 もしかしたらこちらが考えている以上の、強行突破的な行動に出てくる可能性もゼロではない。
「でしょう? だからこの際、私たちが部屋で資料の整理をしているところを確認させてやるのも必要じゃないかしら。万が一アタシたちが替え玉だとバレたら、本物の夫妻の居場所を捜しに乗り出されても厄介だわ」
 ここはひとまず資料を広げる素振りで発表の準備をしているところを見せつけて、敵の欲しがっている情報源がこの部屋にあることを印象付けるのが得策ではないかと言う。敵がどうやって対面のビルに入り込んだのかは疑問だが、相手もプロを雇ったと考えれば不可能ではないか。望遠レンズのようなものを覗く人影が確認できるのは事実だし、明らかにこちらを監視している素振りが見て取れる。
「……確かにな。じゃあ今夜はもう少し俺たちに敵の目を引きつけておくか」
「そうね。だったらまずはディナーね! ルームサービスを取りましょ。あなたとアタシが仲睦まじく食事をした後、ここで資料を広げる素振りを見せれば完璧だわ」
「そうだな」
 鐘崎は早速にルームサービスの夜食を手配した。まさかこれがメビィらの罠だとは夢にも思うはずはなかった。



◆13
 二時間後――。
 食事が済み、リビングのテーブルには敵の目をごまかす為の資料が散らばっていた。
「……さん? 遼二さん!」
 ソファの背もたれに深く身体を預けたまま眠り込んでしまった鐘崎の肩を揺すって、メビィはニヤっと口角を上げた。
「どうやら効いたようね。ぐっすり眠ってしまってる……。ま、当然よね。無味無臭、わずかな予兆も感じさせないまま心地好い眠りに引き込んでしまうっていう特別な代物だもの」
 色白の手に握られているのは強力な睡眠薬だ。大概この手の薬を盛られれば、意識を失う直前に何かおかしい、頭がクラクラするなどの自覚症状を覚えても不思議はないのだが、彼女の使った薬はそういった予兆さえも感じさせないという精巧な代物だったようだ。メビィはすかさずスマートフォンを取り出すと、仲間へと決行の合図を送った。
「アタシ。こっちは準備オーケーよ! 遼二は眠ったわ。早速始めるからしっかり撮ってちょうだいね」
 そう言って鐘崎の身体をソファへと横たえると、ネクタイを解いてワイシャツの前をはだいた。そして自らも服を脱ぎ、下着姿になると、そのまま鐘崎へと覆い被さるようにして胸元へと顔を埋めた。
「これでよし……っと! それにしてもなんて見事な身体つきかしら。腹筋も引き締まってて、よくよく男前の顔立ちに似合ってる……。見てるだけでドキドキしてきちゃうわ」
 今回は任務として引き受けた役割ではあるが、実際にこの男が自分のものになるのなら非常に幸運だと興奮せずにはいられない。
「あら……? これは刺青……。さすがに鐘崎組ね。こんな立派な刺青までいれて……しかもよく似合ってる」
 メビィは肩の雄々しいそれを指でなぞりながらうっとりとした溜め息を漏らした。
「ああ……この人がアタシのものになることを考えたら……なんて素敵なのかしら! あとは彼の手をアタシの背中に回して……」
 まるで情事の真っ最中といったシチュエーションをでっち上げる。
「いいわ、撮り始めてちょうだい。通話はこのままにしとくから、音声もしっかり拾ってよ!」
 仲間に合図を送り、メビィは艶めかしい声を上げ始めた。対面のビルに見えた人影は敵の監視役などではなく、鐘崎を陥れる為に配置されたメビィのチームのメンバーだったのだ。食後の珈琲に混ぜられた睡眠薬のせいで、鐘崎はまんまと罠に嵌められてしまったのだった。



◇    ◇    ◇



 そうして一夜が明け、次の日の朝がやってきた。

 鐘崎が目覚めた時には既に太陽が昇っていて、側にメビィはおらず、一人ソファの上だった。スーツの上着が背もたれに掛けてあり、毛布に包まっているところをみると、昨夜いつの間にか眠り込んでしまったというところか。鐘崎はガバリとソファの上で身を起こした。



◆14
「ここは……? まさかあのまま寝ちまったのか」
 鐘崎にしては有り得ない話だ。いくら疲れていたとしても、任務の最中に眠り込んでしまうことなどないからだ。状況が掴めずにいると、隣の寝室からメビィがやって来た。
「あら、遼二さん。お目覚めになった?」
 見ればガウン姿だ。ということは彼女も今起きたところというわけか。
「俺はいったい……」
「昨夜ルームサービスを召し上がった後にそこで寝てしまわれたのよ。一応毛布だけ掛けて差し上げたんだけど、風邪を引かなかったかしら?」
「……あんたがこれを?」
 毛布をじっと見やりながらも失態という表情で眉をしかめている。
「きっと疲れていらしたのね。ああ、あなたの組事務所には連絡を入れておいたからご心配なさらないで。幹部の清水さんっておっしゃる方が出られて、敵の監視係を引きつける為に今夜はここでお泊まりいただくからって説明しておいたわ。遼二さんは手が離せないからアタシが代わりに連絡を入れたとお伝えしたら納得してくださったわよ」
「……清水が。そうか……すまない。世話を掛けた」
 何故、任務中に眠ってしまったのか、鐘崎は半信半疑の様子でいたが、昨夜開いたシャツの襟も元通りにしておいたことだしとメビィは何事もなかったかのように微笑を浮かべている。
「あなたが寝てしまってからもアタシのチームが敵を見張っていたけど、深夜頃には撤収したっていうことだったわ。残業の甲斐があったわね」
 しれっと真っ当なような台詞を言ってのける。昨夜、対面のビルにいた人影は敵の監視役でも何でもなく、鐘崎を陥れる為のメビィの仲間だったなどとは口が裂けても言うわけがない。何も知らないのは鐘崎ばかりであった。



◇    ◇    ◇



 一方、汐留の周の社長室では、出勤した李が珍しくも焦った様子で驚きの声を上げていた。
「これは……! 老板、ご覧ください。少々大変なものを発見いたしました……」
 李の日課は出社後すぐに裏の世界の情勢を把握する為に独自のデータベースにあるニュース掲示板をチェックすることである。今日もいつも通りにパソコンを覗いたところ、驚愕といえる画像が視界に飛び込んできたのだ。
 すぐさま主人の周に報告を入れる。すると周と冰が揃って李のかじりついているパソコンを覗き込みにやって来た。
「……!? 何だ、これは」
「わ……ッ! これ……まさか鐘崎さん!? ですよね?」
「ああ……」
「で、でも髪の色が違うし……」
 映っているのは明らかに鐘崎だと思えるのだが、信じたくないという思いからか、冰は別人ではないかと不安げに周を見つめる。
「ヤツは今、身代わりの任務中だからな。その人物になりきる為に髪を染めているんだ。間違いなくカネだ……」
 覗き込んだ画面には鐘崎が下着姿の女とソファの上で抱き合っている画像が数枚映し出されていたのだ。冰などは見てはいけないものを見てしまったというようにして、咄嗟に手で顔を覆ってしまったほどだ。



◆15
「カネと……女の方は例のクラウス・ブライトナー警護の任務に当たっているエージェントのメビィか? いったいどういうこった」
「音声も上がっています……。ですが……」
「構わん、再生しろ」
「は……」
 李が再生すると、鐘崎と思われる声がやたらと淫らな台詞を連発しながら女とまぐわり合っている様子が聞こえてきた。

『あなたに奥様がいることは分かっているわ。でもいいの。気にしないで』
『遊びでもいいってのか?』
『ええ、そう。例えいっときでもあなたと思いを通わせ合えるならそれだけで充分よ。もちろん奥様には黙っているから安心して。今はアタシのことだけ考えてちょうだい』
『なんて女だ。可愛いことを言ってくれる……』
『ねえ、遼二。今日はアタシ主導で動いてあげる……。普段奥様がやってくれないようなこともしてあげる』
『……は、いったいどんなことをしてくれるんだか』
『ふふ、こういうことよ』
『……ッあ』
『ね、気持ちいいでしょう? もっと淫らなこともしてあげるから。だからアナタも躊躇しないでアタシを求めて』
『ふ、堪んねえな。大胆な女だ』
『大胆な女はお嫌い?』
『いや、そうじゃねえが……』
『ふふ、そんな顔しなくても大丈夫よ。今夜のことは口が裂けても絶対誰にも言わないから。奥様にバレる心配はないわ』
『ああ……そう願いたいね』

 会話の内容も信じ難いが、興奮したような吐息まじりで、音声だけでも淫らな映像が脳裏に浮かぶようだ。もっと驚くべきはその後に続けられた二人の艶めかしい嬌声だった。画像には女が鐘崎の腹の上で絶頂を迎えているような場面も映し出されている。
「どうなっていやがる……。こんなモンが裏の世界の掲示板に上がっているなんざ……」
 さすがの周もすぐには状況を理解出来ずにいるようだ。
「李、とにかく鄧を呼んでくれ。ヤツは昨日もカネたちと一緒に病院の視察に付いて回っていたはずだ」
「かしこまりました。すぐに!」
 そうして鄧がやって来たが、画像と音声を確認させたところ、やはり驚き以外の何ものでもないといった反応を見せた。
「昨夜も視察から帰った後、お二人を特別室にお送りし、私は一昨日同様そこで失礼しました。遼二君もその後コネクティングルームからすぐに帰宅したはずですが……」
「だがこの画像だ。鄧が帰ってからカネは女の部屋に残ったということか」
「まさか……! 確かにこの女の方は遼二君に対して必要以上にベタベタとしていた感はありますが、遼二君の方では面倒そうにされていましたし」
 鄧は昨日一昨日の様子を詳しく周に話して聞かせた。



◆16
「では女の方はカネに任務以外で何らかの感情を抱いているということか?」
「さあ、そこまでは何とも。単に遼二君がイイ男だから、この女性の方でも浮かれているのかとお見受けしておりましたが……」
 若いエージェントだし、組んだ相手が男前とくれば浮かれても仕方ないかと思えるが、それにしても鐘崎の性質上、進んでこんなことをするとも思えない。
「そういえば遼二君が気になることを仰っていましたね。なんでもこの女に『浮気をしたいと思ったことはないのか』と訊かれたとか」
「浮気だ? まさかそれに乗っかるようなバカじゃねえはずだが」
 鐘崎が紫月に一途なことは言わずと知れているが、仮に魔が差したとするなら、よほど女が巧みだったということか。それにしても信じ難い。
「もちろんはっきり否定したと仰っていましたよ。遼二君にとっては任務以外で余計なことに首を突っ込まれるのは非常にうっとうしいといった感じでしたが……」
 鄧の言うには鐘崎は心底面倒臭そうにしていたとのことだった。
「そ、そんなことより……この掲示板って紫月さんが見てる可能性もあるわけでしょ?」
 冰がハラハラとした表情で気に掛けている。こんな淫らな画像を紫月が見たとしたら、いくら彼でもさすがに平常心ではいられないだろうと思うのだ。
「李、カネの現在地を調べてくれ」
「は! お待ちください」
 すぐに鐘崎の刺青に取り付けてあるピアスのGPSを検索する。
「出ました! 鐘崎さんは現在グラン・エーにいらっしゃると思われます」
「ということは、昨夜このまま泊まったのは事実ということか」
 周が渋顔で眉根を寄せる。
「カネのことだ。これも何か任務に関するカモフラージュという可能性の方が高いが、それにしてはわざわざ裏の世界にいる全員が目にする掲示板にこんなモンを上げる意味が分からねえ。こいつぁ……今頃各方面で騒ぎになってることだろう……」
「白龍……」
 冰は何を置いても紫月のことが心配だという顔つきで、訴えるように見上げてくる。
「そうだな。僚一も源次郎さんも今はブライトナー夫妻に付きっきりだ。こっちの方までは気がついてねえ可能性が高い。一之宮のところへ行ってみるか」
「うん……うん、そうしようよ!」
 周は冰を連れて紫月を訪ねることにし、鄧にはグラン・エーに出向いて至急鐘崎と落ち合ってくれるようにと伝えた。
「李はここに残って各所からの連絡を取りまとめてくれ。状況によってはカネの親父にもすぐに知らせねばならん。それから念の為、これらの画像と音声の分析を頼む。もしかしたら故意に作られた偽画像という可能性もある」
 この手の代物をネット上に撒くということは、普通ならば動画で上げる方がより効果的だ。それをわざわざ音声と画像に分けたという点が、周にとってはどうにも引っ掛かってならない様子だ。
「分かりました。すぐに解析にかかります!」
 そうして一同はそれぞれの目的地へと向かった。


◇    ◇    ◇






◆17
 川崎、鐘崎組――。
 周が冰と共に事務所を訪ねると、紫月の方でも既に画像のことを知っているふうであった。既に外出できるような出立ちでいることから、彼もまた出掛けようとしているところのように思える。おそらくは鐘崎に会って確かめる心づもりでいるのかも知れない。きっと相当に思い悩んでいるに違いない。
 だが、そんな予想とは裏腹に、パソコン画面から視線を外した彼が柔和な表情で迎えてくれた。
「よう! 二人ともこんな朝っぱらからー」
 大して驚いたふうでもないことから、紫月の方でも何故二人が駆け付けてくれたのかを理解している様子であった。
「もしかしてお前らもこれを見たんか?」
 パソコン画面を指さして笑う。
「紫月さん……あの、それ……」
「お前さんが余裕で笑ってるところからすると――こいつは何かの策なのか?」
 紫月があまりにもあっけらかんとしているので、もしかしたらこれも今回の任務の一環なのかと思ってしまう。ところがそうではなかったようだ。
「いや、策とかじゃあねえな。俺も聞いてねえし」
「聞いてねえだと? カネから連絡は? 昨夜はここへ帰ってねえのか?」
「エージェントの姉ちゃんからウチの清水宛てに連絡は来てたけどな。敵の視察が続いてるとかで、泊まり込みで任務を続けるって話だったようだ。遼には電話してみたけど出ねえわ」
「出ねえだと? やっぱり何かヤベえ事態に巻き込まれてるんじゃあるめえな? ――で、お前がそんな悠長にしてるところを見ると――何か気付いたことでもあるわけか」
「まあね。この画像から察するに――おそらくだが遼は睡眠薬でも盛られたってところだろうな。電話に出ねえってことはまだ薬が切れてなくて夢の中なのかも」
「薬を盛られただと? 何故分かる」
「見ろ、遼のこの手の形だ」
 紫月は一枚の画像を拡大しながら言った。
「女の背中に回された手の形だ。遼は何か物を掴む――というか抱える時には必ず中指を九の字に折る癖があるんだ」
「……ふむ、癖か。ちなみにお前を抱く時もそうか?」
 際どい質問とも取れるが、周は至って真顔だ。
「その通り」
 紫月はニヤっと笑うと、手の部分を更に拡大して説明を続けた。
「どの画像を見ても遼の指は五本とも揃って伸びきっている。しかも力が入ってねえのが丸分かりだ。つまり――」
「睡眠薬で眠らされて、女が自分でカネの手を背中の位置にもっていったってことか?」
「多分な」
 だが音声はどうだ。どう聞いても鐘崎の声に思える。
「音声の方も編集されたのかも知れねえな。遼の声質をどっかで拾われて都合のいいように作り変えたと考えるのが妥当だと思うね。それを女の声と合成したのかも」
「なるほど――。今、俺の方でも李に画像と音声を検証してもらっているんだが、もしかしたら作られた物かも知れんな」
 そうなると、気になるのはこんな物が出回った理由だ。わざわざ裏の世界の誰もが見られるニュース掲示板に上げる目的が分からない。



◆18
「そこまでは俺の方でも検討がつかねえけどな。考えられるのは、今回の身代わり任務とは丸っきり別の思惑が動いているのかも知れねえ」
「別の思惑か――。すると女の所属するエージェント・チームが関わっている可能性が高いな」
 周は早速にその線でも調べてみるかと言った。
「あの女、メビィとかいったな。そいつのチームとお前らの組との面識は?」
「仕事を組むのは初めてだな。けど、遼も親父もチームの存在は知っていたようだ。裏の世界でもそこそこ名のあるチームらしいな」
 そうでなければ僚一が共に組む仕事を請け負うはずがないからだ。
「任務を受ける前に親父は相手のことを徹底的に調べるからな。その時点で黒い部分は見つからなかったってところだろう」
「ということは、よほど猫被りが上手かったということか。とにかくそのチームとやらについて李に詳しく調べてもらう」
 周がスマートフォンを取り出した時だった。紫月の方にも父の僚一から緊急とのことで連絡が入った。
「こいつぁヤベえ。氷川、今晩催される会合の前夜祭にクラウス・ブライトナーの命を狙う動きが濃厚になったそうだ」
 僚一との通話を終えた紫月が少々蒼白顔で言った。
「命を狙うだと? 本物のブライトナー夫妻はその前夜祭とやらには出席しねんだろ?」
「もちろん遼たちが身代わりで出ることになってるはずだけど、それが儘ならなくなったとか。ンで、急遽俺にも警護に加わってくれって親父が」
「……そうか。では俺の方からも人員を出そう。もちろん俺もお前と一緒にそのパーティーとやらに潜り込む」
「俺ン方は今からグラン・エーで親父と落ち合うことになった」
「僚一はこの画像のことについて何か言っていたか?」
「いや……それについては何も。親父はまだ知らねえのかも」
「分かった。ではすぐにグラン・エーへ向かうぞ。着くまでには李からの解析結果が入手できるかも知れん。カネと落ち合えれば事情もはっきりするだろう」
 三人は急ぎ鐘崎のいると思われるホテルへと向かうことにした。
 その道中で李からの報告が入った。
『老板、解析の結果ですが、画像の方には細工された形跡が見当たりませんでした。ただ音声の方は作られたものと思われます』
 李の言うには女の声は本物らしいが、鐘崎の方は明らかに機械で編集されたものだという。
『ですが非常に精巧にできています。うちのシステムでは見破れましたが、わざわざ解析しなければ本物だと思わせるに充分でしょう。それなりの技術を持った者の仕業かと』
「分かった。ご苦労だったな。それで、鄧から連絡は来たか?」
『はい! この報告の直前に連絡があったばかりですが、どうやら特別室へ向かうのに手こずっているようです」
「手こずっているだと? 理由は?」
『今日の昼過ぎまでは誰が訪ねて来ても通すなと言われているとかで、フロントで立ち往生になったとか』
 つまり特別室に滞在している女の方で何らかの工作を行ったということか。
「ますます胡散臭え話だな。で、鄧はまだペントハウスに上がれん状況なのか?」
『いえ。今しがた、やっとのことで粟津一族のご嫡男である帝斗さんに連絡をつけてもらい、これから鐘崎さんの部屋へ向かうそうです』
「了解した。俺たちも間もなく到着する。ついでにもうひとつ頼みたい。今回鐘崎組が組んだエージェント・チームについて至急調べて欲しい。画像の女が所属するチームだ」
『かしこまりました。ではすぐに』
 李との通話を終えたところで車はグラン・エーへと到着した。と、タイミングよくか僚一を乗せた車と地下の駐車場でちょうど鉢合わせることとなった。



◆19
「親父!」
 車から降りる僚一の姿を見つけた紫月が焦燥顔で駆け寄る。
「おう、紫月。焔と冰も一緒だったか」
「あ、ああ……。ちょうど氷川と冰君が組に寄ってくれてたからさ」
「こんな朝っぱらからか?」
 平日で仕事もあろうというのに、わざわざ二人が組事務所にまで顔を出すことに首を傾げるところだが、なんと僚一の方ではその理由も見当がついていたようだ。
「もしかしてお前らも例の掲示板を見たのか?」
「それじゃ……やっぱ親父も知ってたんか?」
「まったく厄介なことをやらかしてくれたものだ。今しがたチームのヘッドを締め上げてきたところだ」
 僚一は既に全貌を知っているようだった。
「チームのヘッドを締め上げたということは、やはり何かの策略だったってことか?」
 周が訊く。
「その通りだ。まあ歩きながら説明しよう」
 一行は地下からコネクティングルームまでの直通エレベーターに乗り込みながら、僚一の説明を待った。
「蓋を開けてみれば実にバカバカしい話だ。今回の任務を我が組に持ち掛けて、女を使い遼二にハニートラップを仕掛けて落とすのが目的だったそうだ。メビィと遼二がイイ仲になれば、ウチの組とも強固な関係が築ける。しいては裏の世界での立場も上がる、と、そう踏んだらしい」
 だが、色仕掛けをしようにも肝心の鐘崎自身がまるで乗ってこないことに焦れて、既成事実をでっち上げたということらしい。裏の世界全体に情報をばら撒いたのも、言い逃れたり握り潰されるのを防ぐ為だったという。
「お陰で本来の任務に多大な支障をきたすこととなった。クラウスの発見を狙っているヤツらが遂にはクラウス自身の命を狙うという事態を引き起こしたわけだからな」
 鐘崎とメビィの画像が裏の世界にばら撒かれたことで替え玉作戦に気がついた敵方が、本物のクラウスを狙って動き出したというのだ。
「あいつらが余計なことをしてくれたお陰で今夜の前夜祭にはクラウス本人を出席させざるを得なくなった。替え玉作戦は効かねえということだ」
 それで警備体制を万全にすべく紫月までが駆り出されることになったということらしい。
「今夜のパーティーで紫月には各国から来日しているゲストへの余興として居合抜きの演技を披露してもらいたい。変な話だが、居合を見せるということは堂々と真剣を会場内へ持ち込めることになる。敵もパーティ会場の中では飛び道具で狙うことは考えていないはずだ。至近距離から刃物などで襲ってくる可能性が高い」
 会場内には世界的権威のある医者が多数招かれている。当然出入り口での警備も厳しいから銃器類を持ち込むのは容易でない。刃物で襲ってくるだろう相手には、こちらも刃物で渡り合おうというわけだ。



◆20
「つまり、敵はおそらく通常ホテル内にある備品で仕留めることを考えるはずだ。調理場には包丁もあるし、シェフかサーバーを装えばそれらを持って堂々と場内へ侵入できる。確実にターゲットのみを狙える刺殺で仕掛けてくるだろう。真剣が持ち込めれば、万が一の時に役立つというわけだ」
 また、クラウスの警護には万全の体制で臨むが、夫人の方はメビィに引き続き替え玉役を担ってもらうという。
「幸いにして夫人の顔は広く知られているわけじゃない。メビィの化粧で充分にごまかせるからな。我々としても夫妻を警護するよりクラウスのみに特化する方がより確実だ。メビィ自身も危険には変わりないが、警護はチームのヤツらに丸投げして俺たちは一切面倒を見ないと断言した」
 つまり、クラウスと一緒に夫人役のメビィが狙われても、警護はチームのメンバーで責任を持てということらしい。それが今回息子を陥れようとした制裁だと僚一は言った。
 そうこうしている間にコネクティングルームへと到着した。鐘崎の姿は見えないから、おそらくはまだ隣の特別室で眠らされたままかも知れない。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
 僚一に続いて紫月が緊張の面持ちで特別室へと踏み込む。冰だけをコネクティングルームで待たせることにして、周も紫月に続いた。メビィのような女に冰の顔を覚えさせてやる筋合いはないからだ。
 一同が部屋に入ると、ちょうど鐘崎が目を覚ましたばかりといったところだったようだ。リビングのソファで鐘崎が寝ぼけ眼でいて、メビィも側で立っていた。
 驚いたのは鐘崎だ。クラウスの警護についているはずの父親が顔を出したことももちろんだが、紫月と周までが一緒だ。と、タイミングよくか鄧も到着し、いよいよ面子が揃ったところで僚一が制裁に乗り出した。
「メビィ、俺がここへ来た意味が分かるな? お前たちの企ては失脚したということだ」
 そのひと言でメビィは蒼白となった。
 分かっていないのは鐘崎だけだ。
「親父……企てってどういうことだ」
 僚一は数枚の写真を息子の前へと差し出してみせた。
「……なッ!? これはいったい……」
「昨夜撮られたものだ。早朝に裏の世界のニュース掲示板にバラ撒かれた。お前は睡眠薬を食らって嵌められたというわけさ」
「睡眠薬だと……? じゃあ……昨夜ここを狙っていたという敵の監視役ってのは」
「この女の仲間だ。とんでもないことをしでかしてくれたものだ」
 僚一は今夜のパーティーで替え玉作戦が効かなくなり、クラウス本人が出席せざるを得なくなったことや、メビィには引き続き責任をとって夫人役を演じさせる旨を説明した。



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