極道恋事情
◆21
「チームのヘッドからも通達が入ると思うが、オレたちはメビィの警護については一切関与しない。てめえの身はてめえで守れということだ」
「そんな……」
企てがすっかりバレてしまったことでメビィは言葉も出ない様子だ。
「それから遼二。お前も脇が甘過ぎる」
顎先で『立て』と合図すると、メビィには聞こえないように口の動きだけでこう告げた。
(歯を食い縛れ)
と同時に鐘崎の横っ面に僚一からの重い拳が飛んできた。理由はどうあれ策略に引っ掛かってしまったことへの制裁である。メビィに見せつける為にもこのくらいは致し方ないというところなのだ。
よろけた鐘崎をすかさず紫月が抱きとめる。この制裁も組の長である僚一の判断だ。庇う言葉を口にしてはならない。鐘崎本人はもちろん紫月もそれを分かっているから口出しはしないものの、無言で亭主を支えるあたりはやはり愛情である。
「よし、遼二。顔を洗ってついて来い。今夜の手順についてミーティングだ。メビィはこのまま部屋へ残り、あとはチームの指示を仰げ」
僚一はそれだけ告げると早々に鐘崎らを伴って特別室を後にした。
◇ ◇ ◇
「親父、すまなかった。俺の落ち度だ」
粟津帝斗が用意してくれた別の部屋へと移ると、鐘崎は真っ先にそう言って頭を下げた。
「まあ仕方ない。さっきはあの女の手前、ああするしかなかったが、正直なところお前だけの落ち度とは言い切れん。あのチームと組むことを決めたのはこの俺だからな」
僚一は自分が殴った息子の頬を気遣いながらも軽く溜め息を落とした。
「だがまあ、女のあしらい方についてはまだまだお前に教えねばならんな」
そう言って苦笑する。
「紫月もすまねえ……。あんな写真が出回って、おめえを驚かせちまった」
鐘崎は紫月に要らぬ心配をかけたことにも心痛む思いでいた。
「いいってことよ。お前が俺に隠れて滅多なことするなんて思っちゃいねえ。これは罠に掛けられたなって、真っ先にそう思ったしさ」
実に理解のある嫁で、鐘崎にしてみればそれだからこそ申し訳ない気持ちでいっぱいにさせられる。
「氷川と冰もすまなかったな」
鐘崎には彼等が顔を揃えていた時点で、きっと自分や紫月のことを気遣って朝早くから駆け付けてくれたのだろうことが分かっていたのだ。
「構わん。お互い様だ。俺もまさかおめえが進んであんなことをするわけがねえと思ったしな。だてにモテるのも困りものだが、とにかく誤解と分かって良かった。それより今夜の手順はどうする。乗り掛かった船だし、今回の件にはうちの鄧も携わっているからな。俺も力になるぞ」
頼もしい周の言葉に、鐘崎と紫月はもちろんのこと僚一も有り難くうなずくのだった。
◆22
「既に紫月には説明したが、今夜のパーティーの余興として紫月には居合い抜きを披露してもらうことになった。俺と源さん、それに遼二と鄧でクラウスの周りを固め、絶対の警備を敷く。焔は紫月の側で不測の事態に備えてくれ」
「分かった。俺の方からは李と劉、それにもう数人の部下を用意しよう。クラウス某を狙うヤツらが会場内のどこに潜んでいるか分からん。人数は多くても困らんだろう」
「助かる。ウチの組からも若い衆に会場全体から周辺の建物まで抜かりなく見張りをさせる。外回りの部隊は各自銃を携帯、万が一クラウスや周辺の関係者が拉致されんとも限らない。その際、逃さないよう万全の体制を敷く。俺たちは銃器類が持ち込めんが、防弾ベスト着用で警護に当たることとする」
そんな中で唯一冰にだけは出番がないものの、周の側近たちと共に会場となるホテルの周辺で皆の帰りを待っていると言ってくれた。
「皆さん、どうぞお気をつけて。無事に前夜祭が済むよう応援していますね」
あたたかい冰の言葉に皆は癒しをもらえる気がしていた。
◇ ◇ ◇
そうしていよいよパーティーの時がやってきた。
予定通りクラウス・ブライトナー本人と、彼の脇にはクラウスの妻に化けたメビィが寄り添って会場へと向かう。夫妻の周囲では通訳係の鄧をはじめ、鐘崎に僚一と源次郎らの鉄壁の警護が目を光らせていた。
周もまた李ら側近と共に招待客を装って会場入りし、主には余興に携わる紫月の警護に当たった。
「守備はどうだ」
僚一が耳元に着けた通信器具で見張りの若い衆らと連携を取り合っている。
『親父っさん、怪しい人物を確認しました。場内で乾杯用のシャンパンを配っているウェイターの中に混じっている様子です』
「了解した。外の様子は変わりないか?」
『こちら外部隊、異常ありません』
「よし。引き続き目を光らせてくれ」
『了解』
少しすると周からも通信が届いた。
『僚一。こちら周だ。今、余興用のステージ前だが、俺の位置から十時の方向、二十歩先で日本医師会の偉いさんと話している若い男がいるだろう。そいつの懐に短刀らしきを確認した。常に周囲を気に掛けていやがるから間違いないだろう』
ということは、僚一が予測した通り、敵は銃を使ったスナイプではなく直接の刃物で至近距離から襲ってくると考えられる。
「お前の二十歩先だな。男を確認した。警戒に当たる」
『それから――あと十分ほどで一之宮の居合抜きが始まるようだ。歓迎の挨拶と乾杯の発声が済んだと同時に演目が開始される。俺たちは引き続き一之宮の警護に当たる。おそらくは余興の最中か、終了間際を狙ってくる可能性が高い。気を付けてくれ』
「分かった。全員、今一度体制を固めろ。焔の言うように余興の最中は皆の目がステージに集中する。犯人にとってはクラウスを狙いやすい絶好のチャンスだ。気を抜くな!」
『了解!』
◆23
僚一はクラウスにもその旨を耳打ちすると同時に、乾杯のシャンパンには口を付けないようにと伝えた。
「乾杯発声後はグラスを掲げるだけに留めてください。口に持っていってはいけません。中身だけでなく、グラスの縁に毒物が仕込まれている可能性もありますから」
クラウスは驚きつつも素直にうなずいた。
「それから遼二。余興中に襲ってくる可能性が高いからクラウスの前後左右に目を光らせろ。紫月のことは焔たちに任せてお前はクラウスの警護に集中するんだ」
「ああ――、了解だ」
どさくさに紛れて舞台上の紫月が襲われる可能性もゼロではないので、鐘崎にとっては当然気に掛かるところだろうが、今はクラウスの警護の方が優先だ。僚一も息子の気持ちを分かっていて釘を刺すのは辛いところだが、これは任務だ。
紫月の警護についている周もまた、そういった親子の気持ちを痛いほど承知しているので、万が一の際には自分が親友に代わって彼を守ろうと思うのだった。
乾杯が無事に済むと、日本医師会を代表して歓迎の挨拶が述べられた。その直後に紫月による居合抜きの余興が披露される。舞台上に袴姿の侍が真剣を携えて現れると、会場内は歓喜に湧いた。
『皆、照明が落ちる。全方向に意識を研ぎ澄ませろ。怪しい動きを見掛けたら躊躇せずに確保、絶対にクラウスを狙わせるな!』
『了解!』
そうしてステージが始まった。予想通りか、場内の視線は一斉に余興へと集中する。照明もステージ以外は薄暗く落とされているので注意が必要だ。
居合抜きの見せ場が終了した時だった。場内が拍手喝采に湧く中、クラウスを目掛けて三方向から男たちが動きを見せた。ごくごく至近距離になるまではその動きも感知できなかったことから、敵も素人ではないと思われる。おそらくはクラウスを狙う者たちがプロの殺し屋を雇ったのだろう。
だがこちらもプロだ。そうそう思うようにやられるわけにはいかない。僚一と源次郎がクラウスの盾となって守る中、鐘崎が向かってきた男たちを体術で次々と沈めていった。――と、その直後だ。
「キャア……!」
突如女の悲鳴が轟いた。
クラウス本人に隙がないことを悟った敵が夫人を人質にせんと羽交い締めにして連れ去ったのだ。
まあ夫人の方は本物ではなくエージェントのメビィが替え玉となっているわけだから、慌てるには及ばないといったところか。あとは彼女が属するチームのエージェント仲間が助け出すだろう。
僚一らは予定通り女の方には気を取られずに、引き続きクラウスの安全確保に当たる。と同時に場内の客たちの安全面にも気を配るのを忘れない。いかにクラウスを守り切ったとはいえ、医師会の面々に何かあれば、それはそれで一大事だからだ。
◆24
数分ほど後、僚一らや周、鐘崎組の若い衆らによって敵が差し向けたと思われる殺し屋集団はすべて確保することに成功した。気絶させたりお縄にした彼らを会場の端に取り押さえて警視庁の到着を待つ。と、そこで一件落着に胸を撫で下ろした鐘崎が、紫月の姿が見えないことに気付いた。よくよく見ると周もいない。
「……あいつら、何処に行きやがった……」
「まさか――メビィを助けに向かったんじゃあるまいな」
「あの女をだと――!? 何故……」
鐘崎は蒼白となった。紫月のことだから例え自分の亭主を罠に掛けたような女であっても、一応は敵に連れ去られたものを黙って見過ごすことができなかったわけだろうか。周の姿も見えないことから、紫月を追ったと思われる。
「クソ……ッ! 氷川がついてりゃ大丈夫だとは思うが……。すまねえ親父! あとを任せる」
鐘崎は即座に会場を後にし、紫月らの行方を捜しにかかった。
◇ ◇ ◇
その頃、紫月の方では鐘崎の予想した通り、連れ去られたメビィの後を追っていた。クラウスらが襲われた際、舞台上にいた紫月からは彼女が連れ去られるのがはっきりと確認できたのだ。
「……参ったね、どこ行きやがった……。ヤツらが夫人を人質にとるとしたら先ずはこのホテルから離れるはずだ。ってことは……駐車場か」
紫月は全力で駐車場へと向かった。少し遅れて周も紫月の背中を追い掛ける。
一方、メビィの方でも拉致犯の男たちと一悶着交えていた。
いかにか弱い女といえど、そこは裏の世界に身を置くエージェントだ。普通の女性よりは体術にも長けているし、まんまと連れ去られるわけにはいかない。メビィは懸命に男たちと死闘を繰り返していた。
だが男たちは三人。待機していた運転手も入れれば四人だ。夜間の立体駐車場にはそう都合よく人影も見当たらない。
「……ッ! いったいウチのチームは何してるっていうのよ!」
どういうわけか彼女の警護を担当していたはずのチームの面々が見当たらない。連れ去られたこと自体に気付いていないのか、助けが来る様子がまったくないのだ。
さすがに大の男、それもプロの殺し屋集団が相手ではメビィに勝機は望めない。ついぞ捕えられてしまい、猿ぐつわを噛まされてしまった。
「んー、んー!」
離してと叫ぼうにも声が出せない。そんな中、男の一人が替え玉の正体に気付いてしまったようだった。
◆25
「おい! こいつはブライトナーの嫁じゃねえぞ!」
「なにッ!? 貴様、何者だ!」
「クソッ、やられたか……。こいつは替え玉だ」
男たちは焦れたが、こうなってしまった以上仕方がない。
「クラウス・ブライトナーの件は諦めるしかねえな。おちおちしていれば追手が来る!」
「畜生! とんだ煮湯を飲まされたもんだ!」
「だが、代わりと言っちゃなんだが、この女が残った。せめて楽しませてもらおうじゃねえか」
ニヤニヤと下卑た笑いを見せると、男たちはメビィを車に押し込めんと担ぎ上げた。
「偽物だがなかなかにイイ女だ。こいつぁいい思いができそうだ」
「俺たちで可愛がってやるからよ!」
『嫌ぁー! 離してッ!』
叫べども猿ぐつわのせいで声にならない。放り投げられる勢いで車へと連れ込まれた、その時だった。駐車場の入り口から一人の男が走って来るのに気が付いた犯人たちが焦燥感に『チッ!』と舌打ちをした。
「クソッ! 追手か」
「車を出せ!」
慌てて発車させようにも運転手含め四人の男が乗り込むには多少のタイムロスが生じる。仕方なく扉を開いたままで急発進した。
「チッ! クラウス・ブライトナーの方に気を取られて、こっちは手薄だと思ったのによ……」
「しかも掻っ攫ってきたのが替え玉だ! ついてねえったら!」
車は猛スピードで駐車場の床に凄まじい摩擦音を轟かせている。
「構わねえ! 轢いちまえ! ここで捕まったら俺たちゃ終えだ!」
男たちは本気のようだ。
「は、舐めんじゃねえ」
ニヤっと口角を上げながら、向かってくる車のボンネットを踏み台にして軽々空へと舞い上がり――
「なにッ!?」
気付いた時には鈍い音と共に車が方向を失って急停止。なんと後ろ二輪のタイヤが見事にパンクさせられていたのだ。
「クソッ、何者だ!?」
「着物姿だったぞ! まさか例の余興の剣士か!?」
車の陰に隠れて姿は見えないが、後輪が両方ともパンクしては走り去ることもできずに、こうなったら降車して対戦するしか術はない。
「相手はたった一人だ! 急いで片付けろ!」
「この際、殺っちまっても構わねえ!」
男たちはメビィを座席に残したまま全員で外へ出た。と、身構える暇もなく、闇夜の駐車場に鈍色に光る長い刃が突如目の前に現れて、
「ギャアーッ!」
「ウヘァ……!」
とてつもない叫び声と同時にものの見事にその場へと沈められてしまった。男たちにとっては自分たちに襲い掛かってきたものが何かも分からないくらいの早技といえようか――ほんの一瞬で辺りは静けさを取り戻したのだった。
◆26
すぐに後部座席へと向かい、女の無事を確かめる。
「お! 良かった。無事だな」
――――!?
「あなた……」
座席の上で猿ぐつわを外されたメビィは、驚きに瞳を見開いた。なんと男は鐘崎の伴侶である紫月だったからだ。
「……どうしてあなたが」
「アンタが連れ去られるところを目にしたんでね。それより怪我はねえか?」
「……どうして……ウチのチームは何処?」
「さあ? アンタのお仲間は行方を見失っちまったのかもな」
「……どうしてアタシを……?」
アタシはあなたから鐘崎遼二を奪おうと企んだ女よ? それなのに何故助けたりするの?
元々メビィの警護に鐘崎組は携わらないと言われていたのにどうしてと、女は戸惑い顔でいる。
「どうしてもこうしてもねえ。気がついた者が仲間を助けるのは当たり前だろうが」
ニッと笑いながら言う紫月の笑顔があまりにも爽やかで、メビィは言葉を失ってしまった。
「仲間って……あなた、アタシを恨んでないの……? アタシはあなたたちを嵌めた女よ? あなたのご主人である遼二さんを……奪い取ろうとした女よ?」
そんな相手を助けに来るなど理解できないといった表情でいる。
「ま、正直あんな写真をバラ撒かれたことは歓迎できねえけどな。それとこれとは別だろ? 俺たちは今、クラウス・ブライトナーを守るっていう同じ任務を背負った仲間だ。その仲間に何かあれば協力すんのは当然だべ?」
「あ……なた……」
「ほれ、突っ立ってねえで行くぜ! あいつらが意識を取り戻す前にしっかりお縄をくれなきゃいけねえ。アンタのチームも心配してるはずだ」
峰打ちで倒した男たちを見やる紫月に手を取られてメビィは堪え切れずにみるみると瞳に涙を浮かべた。
「どう……してそんなふうにしてくれるの? こんな……こんな女に……あなたは何故……」
今頃になって手篭めにされ掛かった恐怖が実感となって身体が震え出す。もしもこの紫月が助けに駆け付けてくれなかったらと思うと、確実に被害に遭っていただろう想像が頭の中に浮かんできてはガタガタと膝が笑い出す。情けなさと恐怖とですっかり涙を抑えることもできずに、メビィはしゃくり上げるようにして泣き出してしまった。
「おいおい……どうした。どっか痛めたか?」
見たところ外傷らしきは見当たらないが、もしかしたら腹などを殴られたりして怪我でも負ったのかと思い、そう訊いた。
「……っう……違……うの、もしあなたが来てくれなかったらアタシ……あの人たちに……」
肩を縮めて全身を震わせる。その様子で、怪我からくる痛みではないと悟った。今になって緊張の糸が切れて、それと同時に恐怖心が襲ってきたのかも知れない。そう思った紫月は穏やかな口調で言った。
「――そっか。怖かったよな。だがもう大丈夫だ」
彼女を怖がらせないようにと気遣いながらそっと頭を撫でる。
◆27
抱き締めて落ち着かせることもできたが、あのまま連れ去られていたとすれば、下手をしたら強姦まがいの目に遭っていただろうことは想像に容易い。いかに訓練されたエージェントといえど、まだ年若い女にとってその恐怖たるや相当なものだったろうと思うのだ。
そんな彼女に対して、いくら助けたとはいえ間髪入れずに抱き締めたりしたら、要らぬ恐怖心を抱かせてしまっては気の毒だ。そっと頭を撫でるに留めたのは紫月の細やかな気遣いであった。
メビィの方でもまた、そうした紫月の思いやりをまざまざと感じ取ることができたのだろう。恐怖が安堵へと変わる中で、自ら紫月の胸の中へと抱き付いては、嗚咽を隠すこともできずに号泣してしまった。
ギュウギュウとしがみつきながら、ヒックヒックと肩を揺らして泣きじゃくる。紫月もまた、子供をあやすように、その背中をトントンと叩いては、彼女が落ち着けるよう受け止めていた。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
「う……えっ、えっ、ごめ……なさい。アタシ……あなたのこと誤解してて……酷いことして……」
実を言えば、男のくせに鐘崎の嫁だなどといっている人間だ――裏の世界に生きる者の伴侶としての気概も持ち合わせていない柔な男だろうと思っていた。せいぜい身体と情欲だけで鐘崎をたぶらかしているようなチャランポランな男だと思っていた。ところがこの紫月はまったく違う。たった一人で四人ものプロ集団を易々と倒し、その腕前だけでも見事過ぎるほどだ。その上、自分たちを陥れた者を助けに来てくれるような大きな心を持ち合わせている。本来なら一等憎いはずの女だろうに、今もこうしてやさしく抱き留めて落ち着かせようとしてくれている。
「アタシ……本当に大馬鹿ね……」
メビィは涙を拭いながらつぶやいた。
「ん?」
「遼二さんが何故あなたをあんなに大切に想っているのか、今なら分かるわ。あなたたちの絆も……アタシのような女が入り込んでいいわけがないって思い知らされた……」
ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したメビィは、そっと紫月の胸元から離れると、姿勢を正して深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、紫月さん。あなたと遼二さんに、鐘崎組の皆さんにもたいへんな迷惑をかけてしまったわ。本当にごめんなさい……!」
落ち着いた彼女にホッとしながらも、すぐに柔和に笑うと、
「いいってことよ!」
悪戯そうに口角を上げながらそう言った。その笑顔があまりにも爽やかで、あたたかくて、メビィは再び潤み出した目頭を押さえたのだった。
◇ ◇ ◇
◆28
駐車場の通用口では周がその様子を見つめながらホッと胸を撫で下ろしていた。そこへ血相を変えた鐘崎が駆け付けて来て、焦燥感いっぱいといった顔つきで息を切らしながら訊く。
「氷川ッ……! 紫月は……!?」
周は無言のままニッと笑むと、視線だけで駐車場の真ん中を指した。そこには袴姿の紫月がメビィの頭を撫でながら微笑んでいる様子が窺えた。彼女の方では涙を拭うような仕草が見てとれる。
「あいつ……やはり……あの女を助けに来たってわけか」
鐘崎も二人の無事な姿に安堵してか、ホッと胸を撫で下ろす。
「一之宮は本当に大した男だな。俺の出る幕なんざこれっぽっちも残ってなかったぜ」
周は笑うと、犯人たちをたった一人で片付けた挙句、見ての通りメビィのことまで改心させてしまった紫月を讃えた。
鐘崎にしても思うところは一緒である。
そういえばこれまでにも紫月は本当に大きな心で様々なことを受け止めてくれた。三崎財閥の娘・繭が鐘崎に恋心を抱き、突拍子もない事件を企てた時もそうだった。繭を責めることもなく真っ直ぐに向き合って彼女を改心させてしまった。
また、今は立派に一国一城の主となったクラブ・フォレストの里恵子の件も然りだ。恋人の森崎瑛二に裏切られ、自暴自棄になって鐘崎の子供を産みたいなどと言い、唐静雨らと一緒になって罠に嵌めた里恵子を諭し、立派に彼女の進むべき道へと軌道を導いた。
そんな厄介な女たちに対しても恨むことや詰ることをせず、真心で向き合って解決してくれたのだ。もちろん、夫である鐘崎のことを責めることもなく、大いなる愛情ですべてを受け止めてくれた。
そして今もまた、自分の亭主に不埒な罠を掛けようとした女を恨むどころか救い出して、おそらくは繭や里恵子の時と同じように真心で向き合い、改心させてしまったのだろう。
鐘崎はそんな彼がどれだけ尊い存在かと思うと、震える全身を抑えることができなかった。思わず熱くなった目頭を押さえながらも、ようやくの思いで尊きその名を口にしたのだった。
「紫月……!」
「お、遼! 氷川も。ちょうど良かった、あいつら一応峰打ちしたけど、目ぇ覚ます前にふん縛らねえと」
クリクリと大きな瞳を輝かせながら笑う彼を渾身の思いで抱き締めた。
「紫月……すまねえ。本当に……」
紫月を抱き締める鐘崎の腕は小刻みに震えていて、言葉にせずとも彼が今どんな思いでいるのかが分かるようだった。肌でそれを感じ取ったメビィは、改めて二人に深々と頭を下げ、心からの謝罪をしたのだった。
「ごめんなさい……。本当に……ごめんなさい!」
アタシ、自分がどれだけ浅はかだったか思い知りました……!
そんなメビィの姿に、鐘崎と紫月もまた胸を撫で下ろすのだった。
その後、周の後を追って来た李らによって犯人たちはしっかりとお縄をくれられ、到着した警視庁へと引き渡された。
クラウス・ブライトナーも無事で、怪我のひとつも負わせずに前夜祭を終えることができた。捕まった殺し屋集団からクラウスの研究と命を狙っていた黒幕も割れて、会合当日は無事に発表へと漕ぎ着けたのだった。
◇ ◇ ◇
◆29
こうしてクラウス・ブライトナー夫妻の警護というひとつの大きな任務が終了した。早いもので、今日はもう夫妻がドイツへと帰国する日である。関わったすべての者たちで夫妻を見送る為、鐘崎と紫月らも空港へとやって来ていた。もちろん僚一と源次郎やメビィのチームのメンバー達も一緒だ。
チームの面々にとっては鐘崎組に対して頭が上がらない状態であったが、窮地に陥ったメビィを救い出してくれた寛大な心に深く礼を述べると共に、自分たちの企てが如何に浅はかであったかということが身に沁みたようである。二度とこのような軽率な行為はしないと誓い、チームのヘッドとメンバーたちは長の僚一に平身低頭で謝罪をしたのだった。
クラウスとその夫人も無事に発表までの警護を成し遂げてくれた皆に礼を述べ、故国へと帰って行ったのだった。
空港の屋上テラスではクラウスらの乗った飛行機を見送りがてら、メビィが紫月に改めて謝罪を述べていた。
「本当にごめんなさい。あなたには何度謝っても足りないわね……」
申し訳なさそうに伏目がちでいる彼女が酷く肩を落としている様子に、紫月の方は元気付けんとおどけてみせる。
「もう済んだことだし気にすんなって。な?」
ニカッと白い歯を出して笑う笑顔が相変わらずに爽やかだ。言葉の上だけのお愛想ではない真心のこもった晴れやかな笑顔を見ているだけで、またもや潤みそうになる目頭を必死に押さえながらメビィはポツリとつぶやいた。
「ねえ、紫月さん。失礼ついでと言ったら言葉は悪いけど……ひとつだけ訊いてもいい?」
「ん? なに?」
「あのね、もしも……もしもよ。そんなことは絶対ないって分かってるけど、もしも今回アタシが遼二さんに色仕掛けをした時……遼二さんの方でもその気になってくれたとしたら……」
あなただったらどうしたかしら?
鐘崎は今回、メビィがどれだけアプローチをかけてもまったく靡かなかったわけだが、万が一出来心で一時の過ちを侵すような事態になっていたとしたら、あなたは彼を許せるかと、そんなふうに訊いたわけだ。
いかにお互いを想い合っていても、魔が差すことだってあるかも知れないし、そうなればいくら心の広い紫月でも到底許し置けないだろうと思うのだ。メビィはもしもそんな状況になったとして、この紫月がどんなふうに対応するのかということに興味が抑えられずにいたようだ。
だが、紫月はメビィの思っていたことを遥かに裏切る答えを平然と言ってのけた。
◆30
「うーん、そうねぇ。万が一、遼が誘惑に負けて間違いを侵しちゃったらってことだべ? そん時は仕方ねえじゃん? ちっとキッツいデコピンでもくれてケツ叩いてやるしかねえべ」
メビィは驚いた。
「デコピンってあなたね……これは冗談で言ってる話じゃなくて、もっと真面目に……」
「俺はマジメさ。アンタみてえな別嬪の姉ちゃんが目の前にいてさ。二人っきりでいいムードになっちゃったんなら、それはそれで仕方ねえってことだよ。遼だって男――つか雄だからなぁ、あいつ」
カハハハと笑いながら紫月は続けた。
「なあ、メビィちゃんさ。アンタも同じ裏の世界に生きてる人だから分かると思うけどよ。俺たちの仕事っていつ何がどうなっても不思議じゃねえ世界だろ? 極端な話だが、もしかしたら今こうして話してる瞬間に敵と遭遇して死んじまうことだってある世界だ。だからさ、俺思うの。遼二と俺はこの世界に一心同体で生きてる生き物なんだって」
「一心同体……?」
「そ! だから遼が綺麗な姉ちゃんを抱きてえと思って情事に流されたんなら、その思いは俺にも通じてるっつーかさ。遼がやりてえと思ったことなら俺のやりてえことでもあるんだって。だからあいつが女を抱いたなら俺も一緒に抱いたんだって思える。あいつの脳と俺の脳は一緒なんだって、いつもそう思って生きてるからさ」
この世にはこんなにも深い愛が存在するのだろうか。
あいつと俺は脳が一緒、一心同体、言葉の上では美しいかも知れないが、実際にそう思って生きることなどできるのだろうか。
彼もまた自分と同じ感情を持った人間だ。どうすればそこまで崇高な考えに辿り着けるのだろう。もしかしたら自分には想像もつかないような悩みをひとつひとつ乗り越える中で辿り着いた答えなのかも知れない。すぐには相槌も儘ならないままで、メビィは紫月から目が離せずにいた。
「紫月……さん」
クラウスらの乗った飛行機がゆっくりと滑走路へ向かうのを眺める紫月の瞳を午後の陽射しがキラキラと照らし出し、それはとても美しかった。例えようもなく堂々としていながらどこか儚げでもあり、だが儚いからこそ美しくて、身体中が震えるほど、全身に鳥肌が立つほどに感動的であった。
金網越しに立つ彼の隣で、メビィはその背中に雄々しい大きな翼が羽ばたくような錯覚にとらわれてしまったのだった。
「なーんてな! カッコいいこと言ってっけどさ、実際そんなことになったら飛び蹴りでも食らわせちまうかも!」
またもや白い歯を出してニカッと笑った彼の腕に、メビィは堪らずに抱き付いてしまった。
「そっか。そうよね。ごめんね、変なこと訊いて。アタシね、アタシ……前に付き合ってた彼とね、そういうことがあったの。あれはアタシがエージェントになりたての頃だった。同じチームでアタシの指導に当たってくれてた彼を好きになって……。でもあっさり裏切られちゃったの。彼は誰にでも優しかったけど……でも手が早くてね」
メビィの言うにはその男が付き合っていたのは彼女だけではなく、方々に女がいたそうだ。
◆31
「それ以来、男が信じられなくなっちゃった。男なんて皆んな同じ……。ちょっと女が色気を見せればすぐに靡いて浮気も平気。だったらアタシはもう本気の恋なんてしない、逆に男を手玉に取って転がしてやれるような女になってやるって思って」
以来、がむしゃらに任務だけに没頭してきたのだという。今回の鐘崎を嵌めるという企てにも自ら名乗りを上げたのだそうだ。
「新任の研修期間が終わって、いよいよ本格的なエージェントとしてコードネームをもらえることになった時、アタシは白雪姫っていう名前を希望したの。だって白雪姫は世界で一番美しい女性の代名詞でしょう? だからアタシもそれにあやかって二度と男に裏切られるような女にはならないって意味を込めて考えた名前だったけど……」
チームには既に眠り姫という先輩エージェントがいたことから、メビィの希望は却下されてしまったのだそうだ。
「ここでもまたアタシの思いは叶わなかった。付き合っていた彼には裏切られて、願いを込めたネームも却下。正直恨みたくもなったわ。こんなアタシを理解してくれるのは同じような境遇に遭った女性しかいないって思ってね」
それで六条御息所が思い浮かんだのだそうだ。
「ついでに名前の方にも強い意志を込めたものにしたくて女雛にしたの。お雛様は美しい女性の代名詞だし、お内裏様として夫と幸せになる女性ですもの。もう二度と男には騙されない。裏の世界で名を上げて誰からも見くびられない女になってやるって思ったの」
なるほど。一風変わったコードネームにはそういった由来があったというわけか。
世の中には自分の理想や希望が通らないことなど五万とある。というよりも通らない事の方が多かろう。だが、年若い彼女にとっては、やはりきつい出来事だったのだろう。
「そっか……。辛かったな」
紫月は抱き付かれた腕とは反対側の手で彼女の頭をポンと撫でた。
「世の中にゃそんな野郎ばっかじゃねえよ。まあそういうのが多いってのも事実だけどな。過去のことを悔いてそれをバネにするのはいいとしても、ガムシャラに突っ走るだけじゃ息が切れちまうさ。眉間に皺ばっかり寄せてちゃ、せっかくの美人が台無しだしな」
たまには肩を張らずに息抜きも必要じゃねえの? と紫月はそう言って微笑んだ。
「素のままのアンタはきっと優しいイイ女なんだ。明るく笑ってる方が可愛いぜ! そうすりゃアンタにもいつか必ず上っ面だけじゃなく本気で互いを預けられるようなヤツと巡り会う日が来る」
な! と言って細められた瞳は穏やかでやさしく、あたたかさに満ち溢れていた。
「……本気で互いを預けられる……相手」
そうか。そうなのだ。
一時の甘苦しい誘い文句やムードなどではなく、全身全霊をかけても大切だと思える相手。己の幸せよりも相手の幸せを願えるような唯一無二の存在――。
互いを預けるという言葉に重く深い覚悟のようなものを見て、メビィは憑き物が落ちたかのように目の前が光明で溢れていくのを感じていた。
「ん、うん……! そうね。アタシにもあなたと遼二さんみたいに信じ合える相手が……できるといいなぁ」
「大丈夫。アンタなら必ず巡り会えるさ。そん時は俺や遼二にも紹介してくれよ?」
「うん……うん! もちろん……!」
スピードを上げて滑走路から飛び立つ翼を二人肩を並べて見送った。
◆32
そんな紫月とメビィの後ろ姿を見守る鐘崎の視線もまた、穏やかに――ゆるやかに――流れる午後のひと時の中で幸せそうに細められたのだった。
「よう、カネ」
「おやおや、今度はお前さんの方がハラハラさせられているのかい、遼二?」
女にしがみ付かれている紫月を見つめる鐘崎の背後から周と粟津帝斗がひょっこりと顔を見せて、冷やかすように笑う。
「いや、そうじゃねえが……。敵わんなと思ってな」
「一之宮か?」
「ああ。あいつはデカくてあったけえ心で誰をもああして幸せにしちまう。帝斗もよく知ってると思うが、三崎財閥の令嬢の件でもそうだった」
「ああ、繭嬢のことだね。そういえばそうだったね。あの時も紫月が真正面から彼女に向き合って、無事に一件落着したんだったね」
「ああ。それだけじゃねえ。里恵子の事件の時もそうだった。俺のことも常に広い懐で受け止めてくれる。俺はいつまで経ってもあいつの域には到達できる気がしねえ」
もしも今回とは逆に紫月が女とどうこうなったり、もしくはその相手が男だったなら尚更牙を剥いてしまうだろうと思うのだ。
「あいつに粉掛けられたりしたら……俺にはその相手を真心で受け止めるなんて芸当は逆立ちしたって出来やしねえだろう。ただ焦れて、妬いて、相手をぶっ潰すしか脳がねえならず者だ。そんな俺と……あいつはこれからもずっと側にいてくれるだろうかと不安になる。紫月の尊さには一生掛かっても追いつくことはできねえだろうとな」
情けないといったふうに伏目がちにする友に、
「お前だけじゃねえさ。俺も一緒だ。冰や一之宮のようにデカくてあったけえ人間には到底なれねえだろうぜ」
周もまた似たような思いを重ねるのだった。
「だが、俺もお前もあいつらのことがこの世の誰よりも何よりも大事だってことだけは自信を持って言える」
そうだろう? と笑む。
「ああ。それだけは自信があるがな」
「どんなに心の狭え旦那でも、俺たちにはそれを笑って受け止めてくれる嫁がいる。デカくてあったけえ心で包んでくれるあいつらがいる。つくづく幸せ者だと思うぜ」
「ああ。そうだな。出来の悪い旦那にはもったいねえ器のデカい姐さんたちだ」
幸せだな、俺たちは――。
――ああ、とことん幸せだ。
「お前さんたちは本当に素晴らしい伴侶を見つけたものだね。僕も頑張らなくちゃ」
帝斗も心からの笑顔を浮かべる。そんなふうに瞳を細め合う三人の元に紫月とメビィが戻って来た。
「よう、遼! 帝斗と氷川も。そんなトコに居たんか」
爽やかな笑顔が再び鐘崎の胸を熱くする。
「遼二さん、周さん、粟津さんも。この度は本当にご迷惑をお掛けしました。アタシ、心を入れ替えて頑張ります!」
だからもし――
「もしまた一緒にお仕事させていただける機会があったら、その時はどうぞよろしくお願いします!」
ペコリと頭を下げた彼女に、男たちは笑顔でうなずいた。
「ああ。こちらこそよろしく頼む」
「またなぁ、メビィちゃん! 元気でなぁ!」
笑顔でチームの元へと駆けていく彼女を男四人で見送った。
◆33
「さて、俺たちも帰るとするか」
「おう!」
「そういえばな、一之宮! さっきお前とあの女が仲良さそうに喋ってるのを見て、こいつがキィキィ言いながらヤキモチを焼いてたぞ?」
周が鐘崎の首根っこを抱えるように腕を回して、ニヤっとしながら意地悪く笑う。
「そうそう! お前さんに粉かけるような輩がいたらブっ潰すとか言ってたよねぇ」
帝斗までもが『フフン』と胸を張るオマケ付きで、ニヤニヤと嬉しそうだ。
鐘崎はいたたまれない顔つきで片眉を上げてはバツの悪そうに視線を泳がせつつも、ガラにもなくその頬を朱に染めてしまった。
「ほええ? なになに? 遼、お前妬いてくれたんか?」
紫月が冷やかすと、鐘崎はフッと視線をゆるめながら存外素直に笑った。
「ああ。妬いた」
「マジ?」
「大マジだ!」
カハハハと紫月は笑い、鐘崎の腕を肘で突きながら、とびきり嬉しそうに頬を染めてみせた。
じゃれ合う二人を見守る周と帝斗の視線もまた、そこはかとなく幸せに満ちている。
「なんだカネ、今日はえらく素直じゃねえか」
「ふふふ、遼二は元々素直なのさ!」
「その通り! むっちゃ素直な永遠の少年ってところだな!」
三人に好き放題言われて鐘崎は形無しだ。
「ま、けどそこが俺にゃ堪んねえっつか、とりま自慢の旦那だからさぁ」
ペロりと舌を出しながらフォローの言葉も忘れない。そんな嫁さんに、鐘崎は破顔するほど幸せそうに瞳を細めてしまった。
「おお、おお! お熱いことで結構だな、カネ!」
「ホント! 羨ましい限りだねぇ」
友らの冷やかしの言葉ひとつ、すべてが幸せで堪らない。
「ああ。ああ……本当にな。ずっとお前に側にいてもらえるよう、俺も精進しなきゃいけねえ」
またもや素直にそんなことを口走った鐘崎を取り囲んで、
「おや、本当に素直だこと!」
「雪でも降るんじゃねえか? なぁ、カネ!」
「カハハハ! そう心配すんな、遼。俺ァ、てめえがもう要らねっつっても、一生側でまとわり付いててやっからさぁ」
「紫月……」
それは本当か? というように瞳をまん丸くして感嘆の表情でいる。
「……約束だぜ。こんな俺だが……ずっと……生涯ずっと側にいて離れねえと」
「任せろ!」
再び破顔するほどに嬉しそうな顔をした鐘崎を、両脇から周と帝斗が突っついた。
「あー、熱い熱い! 熱くてやってらんねー」
「ホントだねぇ。何か冷たい物でも奢ってもらわないと!」
周と帝斗がからかえば、
「おー、いいね! んじゃアイスクリームでも食ってくかぁ!」
ちょうど目の前にあったカフェレストランのショーケースを指差しながら、すかさず紫月が身を乗り出してはしゃぎ顔だ。
「おいおい、一之宮! アイスクリームかよ。相変わらず甘味大魔王だな」
「僕はアイスティーがいいね」
「俺、アイスコーヒーな!」
ショーケースを覗き込んではすっかり奢ってもらう算段になっている様子に、鐘崎はタジタジと頭を掻いては笑った。
「いいぞ。お前らには世話になったことだしな。この際アイスクリームなんてケチなことは言わねえ。とびきり豪華なディナーを振る舞わせてもらうさ!」
「おや! それは光栄!」
「そんじゃ冰にも連絡せにゃ!」
「やったね! んじゃ、冰君を迎えに行きがてら東京戻るか! 今日はお疲れさん会で打ち上げといくべ!」
笑い声の絶えない、そんな穏やかな一日が今日もまたゆっくりと暮れていくのだった。
身代わりの罠 - FIN -