極道恋事情

28 ダブルトロア1



◆1
 オーストリア、ウィーン――。
 
 高年の男が二人、リモート通話を交わしながら深刻な面持ちでいた。
「なんと……! あの御方がこのウィーンへおいでになるというのか?」
 パソコンの画面を覗き込みながら、緑寿を間近に控えた男は酷く驚いた声を上げる。”あの御方”とは彼にとって忘れたくても忘れられない人物の一人で、香港マフィアの頂点に君臨する周ファミリーの嫡男、周風黒龍であった。
「いったい御用向きは何だというのだ……」
 ファミリーの本拠地は香港だ。しのぎや付き合いの関係で近隣諸国へ赴くことがあったとしても、大概はアジア圏内である。米国や欧州へ出掛けることは稀なはず――と、もはや驚愕ともいえるほどに顔面蒼白の様子でそう尋ねた彼に、画面の向こうの男もやれやれと肩を落とした。
『近々そっちで宝飾品関連の見本市が開催されるだろうが。お前さんも知っての通り、周一族は中国の山の中に鉱山を持っていて、掘り出した鉱石を加工して市場へ流していらっしゃる。今回は新たな加工業者と顔合わせを兼ねたご視察のようだ』
 それというのは世界的にも有名な市で、二年に一度各国を巡って開催される大々的なイベントだ。今年はここオーストリアが開催国に選ばれた為、首都ウィーンのイベントホールにて数日間に渡り催されることとなったわけだ。
「なんと……。あの宝飾市にいらっしゃるというのか。では御父上の頭領・隼もご一緒で?」
『いや、今回はご子息である周兄弟が頭領に代わってご視察なされるとのことだ』
 兄弟は共に三十路を超えた立派な青年だ。そろそろ次代継承者として父抜きでこうした交渉事を任される流れになってきているのだろうとの説明に、リモート画面の前でガックリと首を垂れた。

 男の名は楚光順。歳は六十代の半ばで、元は香港の裏社会を治める周ファミリー直下に属していたマフィアである。
 在籍時には忠誠心にも厚く、人柄も良く、頭も切れた為、頭領の周隼からも信頼されていた男だった。

 ところが、一人娘の楚優秦が起こした或る事件によって自らファミリーを去ることを余儀なくされたことから、慣れ親しんだ香港を後にして、ヨーロッパへ移住したという経緯の持ち主だ。リモート通話の相手は光順の古くからの馴染みで、現在も香港で周ファミリー直下に与している男だった。
 二人は同世代で、ファミリーに入ったのも同時期の、いわば同僚といった仲であった。娘が事件さえ起こさなければ、今でも香港でファミリーの重鎮として肩を並べていられたはずである。そんな間柄の二人だから、片方がファミリーを去り、もう片方がファミリーに残って境遇が変わってしまった今となっても、これまで同様互いを気に掛け、友情を築いているわけだった。



◆2
 光順の一人娘・優秦は、香港の裏社会を治める周家の長男坊である周風に恋心を抱いていた。ところが、想いは彼女の一方的なもので、残念ながら報われることはなかった。どうしても諦められなかった優秦は、周風が別の女性を妻に娶ると知るや否や、父親の部下であった組織の男たちを使い、その女性を拉致して手籠にしてしまおうというとんでもないことを企てたのだ。
 寸でのところで大事には至らなかったものの、周風らの助けが一歩遅れていたならば、取り返しのつかない大惨事になるところであった。光順は一人娘の犯したその責任を取るべくファミリーを抜け、二度と彼らの前に顔を見せないと誓って香港を後にして来たわけだ。
 最初に住んだのはフランスのパリ郊外だった。その後、仕事の関係でオーストリアのウィーンへと移ったのだ。
『周一族の方々はお前さんが現在ウィーンに住んでいることをご存知なのか?』
「いや……あのような大それた事件の後だ。今後万が一にもまた娘がご迷惑をお掛けしてはいけないと思い、最初の住所はお知らせした。だがあれ以来、娘もご嫡男のことは口にしなくなったのでな。諦めてくれたものと思い、わざわざ以前の記憶をほじくり返すこともなかろうと思ってコンタクトは取っていない。おそらく引越し後のことはご存じないはずだ」
『そうか……。まあボスのことだ。既にお前さんの住処も調べはついているかも知れんが、あれから二年以上経っているしな。娘御の想いもほとぼりが冷めているといいのだが――』
「ああ……。そうであって欲しいと祈るばかりだ。とにかく……ご長男の風老板がこのウィーンへおいでになることは我が娘には絶対に知られんようにせんと。ご滞在は見本市の開かれる数日間のことだろうし、なんならその期間に合わせて娘を家族旅行にでも連れ出すことを考えよう」
『ああ。それがいいかも知れんな』

 ところが――だ。なんとこの会話を娘の優秦が立ち聞きしていたのだ。

 そんなことは夢にも思っていない光順は、昔馴染みの男にファミリーが動く詳しい日程などが分かり次第また連絡をくれと言ってリモートは切られた。

(信じられない! パパまでがアタシをないがしろにするなんて……! 見てらっしゃい、パパの思い通りになんかさせないんだから!)

 優秦は拳を握り締めながらギリギリと歯軋りをし、その顔面には怒りの色をあらわにしていた。



◇    ◇    ◇






◆3
 楚光順がなんとか周風と娘の優秦を会わせないようにと心を砕いていた頃――、その思いを踏みにじるような企みが水面下で澱みつつあった。なんと、娘の優秦が元の組織にいた組員たちを抱き込んで、またしても良からぬ企てに手を染めようとしていたからである。
 優秦が声を掛けたのは、父の光順が周ファミリーに与していた頃に部下であった数人の男たちだった。彼らは優秦にそそのかされて周風の婚約者を手篭めにする実行犯に加わった男たちである。
 
 楚光順が束ねていた組織を畳んでヨーロッパへと移住したのをきっかけに、それまで彼の下についていた部下たちも当然のことながら解散を余儀なくされた。
 光順は堅気となって新転地で細々とした事業を始めたわけだが、それまで抱えていた部下たち全員を養う力は持ち合わせていなかった。光順の人柄に惹かれて、どうしても共に歩みたいと言ってくれた側近たち数人だけを連れてヨーロッパへと移り住むことになったのだ。
 それにあぶれた末端の者たちは職探しにも苦労をさせられ、多くは香港の繁華街でチンピラ同然の生活を強いられることとなった。これまでは周ファミリー直下ということで幅を利かせていた者たちも肩身の狭い思いをすることとなり、金銭的にも苦労続きだ。そんな中での周風のウィーン行きは一攫千金のまたとない機会となってしまったわけだ。

「報酬はパパが持ってる絶品の日本刀よ。その他に骨董品の置き物も数点付けるわ。どれも希少価値の高いものだから、上手く売れば大金になるわ。あんたたちの渡航費だってまかなえるし、当分は遊んで暮らせるわよ!」
 そう持ち掛ける優秦に、男たちは半信半疑ながらも心が動いた者もいたようだ。
「親父さんのコレクションなんかを勝手に持ち出して平気なのか? まさか土壇場で裏切るんじゃねえだろうな、嬢さん」
「大丈夫よ! パパは今回あの人がウィーンへ来ることをアタシに内緒にしようとしたんだもの。このくらいの仕打ちは当然よ! それより周風たちのスケジュールをしっかり調べ上げてちょうだい! 泊まるホテルまでは突き止められないとしても、あの人が選びそうなホテルならアタシの方でも目星をつけられるわ。あんたたちは風が誰と一緒に来るのかっていうのを正確に調べ上げてくれるだけでいいわ。こっちに着いてからやってもらう手順はアタシの方で考えとくから!」
 こうして優秦と男たちの間で企てに向けての準備が始まってしまったのだった。



◆4
 一方、そんな企みを知る由もない周風は、予定通りウィーンでの見本市に赴く為、準備を進めていた。同行するのは妻の美紅と側近の曹来、それに日本からは弟の周焔と彼の伴侶である冰。そして共に鉱山での採掘事業に関わっている鐘崎と紫月も一緒だった。もちろん彼らの護衛兼補佐役として周焔の側近である李狼珠は必須、皆の体調を管理するお役目である医師の鄧兄弟、鐘崎組からは源次郎といったお馴染みの精鋭たちが顔を揃えることとなった。
 鄧の家系は医者一家なので、祖父母と両親、それに長男坊の鄧海が香港のファミリー専属、そして日本の汐留にはお馴染み次男坊の鄧浩が専属医として活躍してくれている。
 今回の渡航先はオーストリアのウィーン、ドイツ語圏だ。医者一家の鄧兄弟は二人共にドイツ語が堪能なので、香港と日本の双方から同行することになったわけだ。今回、父親世代はそれぞれ本拠地で留守を預かるようで、息子たちが中心となっての遠征であった。

 汐留の周邸でもウィーン行きの準備が着々と進められていた。
「ヨーロッパかぁ……! 俺、行くの初めてだよ!」
 夕食後のリビングでは冰がワクワクとした顔つきで感嘆の声を上げていた。側では亭主の周がバーカウンターで二人分の飲み物をこしらえている。風呂上がりにはよくこうして寝る前の一杯を共に傾けるのが習慣となっているのだ。
 衣食住の全般――つまりこうしたドリンクの提供などについても普段は真田ら家令の者たちが面倒を見てくれるのだが、自室へ戻ってからは周自らこうして世話を焼くのもまた愉しみのひとつなのだ。熱い紹興酒に角砂糖を溶かして、丁寧にトングでかき混ぜたグラスを愛しい冰の前へと差し出しながら、周はソファへと腰を下ろした。
「ありがとう白龍。いつも作ってもらちゃって悪いね」
 冰は早速にグラスを両手で握り締めては、ふぅふぅと息を吹き掛けながら熱い紹興酒を冷ましている。そんな可愛らしい仕草を見るのも周にとっては醍醐味である。
「俺たちが見本市を見て回っている間、お前らはオペラでも観に行ってくればいい。兄貴の方からは義姉さんの護衛としてライさんがお前らの観光にも付き合ってくれることになってるからな」
 ライさんというのは周の兄・風の側近の曹来である。李や劉と同じような立場の精鋭だ。頭脳明晰で武術にも長けている為、周にとっても彼がついていてくれれば安心なのだ。
「俺の方は李を連れて行くが、医師の鄧はお前らに同行してくれるように頼んである。ヤツの兄貴は俺たちの方で通訳をしてくれることになっている。鄧兄弟はドイツ語が堪能だからな」
 周と鐘崎、それに曹と李の側近たちも英語はネイチャー並みだが、さすがにドイツ語までとなると片言らしい。今の時代、翻訳機なども多数出てはいるものの、現地の言葉が流暢な鄧兄弟がいればより万全である。
「鐘崎さんトコの源次郎さんは白龍たちと一緒に回られるんだよね?」
「ああ。こっちは俺と兄貴にカネ、鄧の兄貴に李と源次郎さんの六人だ」
 ということは、旦那連中が仕事の間は、嫁組で買い物や観劇に出掛けられるということだ。



◆5
 つまりメンバーを整理すると、次のようになる。
 ウィーンの宝飾市で商談をするのは、周兄弟と鐘崎。通訳としてドイツ語が堪能な医師の鄧の兄、周焔側近の李、鐘崎組番頭の源次郎――計六人である。
 彼らが仕事の間に観劇や買い物などの観光をして歩くのは、紫月と冰、周風の妻である美紅、周風側近の曹、医師の鄧。こちらは五人だ。いわば嫁組ということになる。曹と鄧は嫁組の護衛役というわけだ。
「なんだか申し訳ないね。俺たちばっかり遊ばせてもらっちゃってさぁ」
 そんな気遣いをするところが冰らしい。
「なに、視察が済んだら俺たちもすぐに合流するさ。向こうの業者とも一度は接待で付き合わなきゃならんが、他の日の晩飯は一緒に食えるだろう」
「そっか。たいへんだけどがんばってね!」
「ああ。すまんが支度の方は任せたぜ! 観劇用に改まったスーツを持って行くといい」
「うん!」
 まあ視察が済めば、向こうでスーツの一、二着を新調してやるのも悪くない。周にとってはそういったことも楽しみのひとつなのだ。
「お兄様たちとは現地集合だったよね?」
「ああ。兄貴の方もプライベートジェットだからな。こっちはカネたちも一緒にウチのジェットで行く」
「わぁーい! じゃあ早速支度しようっと!」
 今回は家令の真田と劉が留守番役なので、お土産は何にしようかななどと、今から楽しい想像にふける冰であった。まさか現地でとんでもない企みが待ち構えているなどとは知る由もなく、汐留の夜は穏やかに更けていったのだった。



◇    ◇    ◇



 数日後。オーストリア、ウィーン――。
 周らがウィーンに着くと、空港には迎えの車が待っていた。鉱山で掘り出した原石を加工してくれている馴染みの業者が手配してくれたものだ。兄の風たちとは宿泊先のホテルで現地集合になっている。彼らの方が半日ほど遅れてやって来るそうなので、食事がてら街中を散策して歩くことにした。
「うわぁ……すごい建物ばかり……!」
 冰が感嘆の声を上げている。本格的な観光は見本市が終わった後で周らも一緒に回れるというので、今日はホテルの近場で買い物や食事などを楽しむこととする。
 メイン通りをブラブラと歩けば、目にするもの何もかもが華やかで、中世ヨーロッパの香りが漂う建物から街角の花屋やカフェに至るまで異国情緒にあふれている。一行は街中を見渡せる一軒のカフェへとひとまず腰を落ち着けた。せっかくなのでテラス席を希望する。ヨーロッパでよく目にする光景に紫月と冰の二人は大喜びだ。



◆6
「テレビで観たまんまだね!」
「な! すっげオシャレ!」
 午後の陽射しがたっぷりと降り注ぎ、街路樹をキラキラと照らしているのが美しい。しばし景色を堪能していると、金髪のウェイターがメニューを運んできた。黒の蝶タイにエプロン姿が映画さながらだ。そんなところもヨーロッパ情緒にあふれていて、初めて訪れる冰は見るものすべてに感激といった面持ちでいた。紫月の方は早速ご当地のケーキに夢中だ。
「ウィーンといえばこれだべ! ザッハトルテ!」
「ですね! ザッハトルテはお土産にも買って帰りたいと思っているんですよー。まずは味見ですね!」
 甘味大魔王の紫月が冰と一緒にワクワク顔でメニューにかじりついている。その脇で周と鐘崎ら男四人はソーセージとビールをチョイスするようだ。難しいドイツ語のメニュー表も鄧が居れば困ることもない。
「それはそうと、オペラのチケットを取っておいた。場所はウィーン国立歌劇場だ」
「うわぁ! ありがとう白龍」
「鄧とライさんが一緒に行ってくれることになってる。ボックス席だから身内だけでゆっくり楽しめるぞ」
「じゃあお席には俺たちだけってこと? そんなすごいところで観せてもらえるなんて!」
「めちゃくちゃビップ待遇じゃん! やったな、冰君!」
「はい! 楽しみですね!」
 冰と紫月は大喜びだ。今回、周が取ってくれたのは二階中央にあるミッテルロジェといわれる大型ボックス席のすぐ隣だ。ミッテルロジェは舞台を望む景観も音響も最高に素晴らしいとされているが、三十人以上が入れる大型ボックスなので、さすがに五人だけで占領するのは申し訳なかろう。そのすぐ脇の席は七人用のボックスなので、ちょうど良かろうと、そこを確保してくれたそうだ。観劇は兄嫁の美紅も含めて嫁組の三人と、そのお守り役として曹来と鄧浩の計五人で行く予定だ。
「白龍たちは業者さんたちとディナーなんだよね?」
「ああ。お前たちの観劇が終わる頃には俺たちもホテルに戻れるだろう。楽しんで来い」
「悪いね、俺たちばっかり」
「そんなことは気にするな。劇そのものもだが、劇場の建物が素晴らしいからな。それを見るだけでも楽しめるだろうぜ」
 ビールを片手にニヒルに笑う周の横顔がなんともいえずにクールでスマートだ。今は冬の真っ只中だから、なめらかなカシミアのコートが長身の彼にとても良く似合っていてドキドキとさせられてしまう。
「白龍ってばさ、何処にいても格好いいっていうか……そのコートもすごく良く似合ってるし」
「コートじゃなくてこのマフラーな!」
 周は一昨年のクリスマスプレゼントとして冰が贈ったマフラーをしてきてくれていた。もちろん冰も気付いていたが、忘れずに身につけてくれていることが何より嬉しくて堪らなかったのだ。
「ありがとうね白龍。こんな素敵な旅行に連れて来てもらって、それにマフラーも……」
 頬を染めてモジモジとしている様子がなんとも可愛らしい。周は華奢な肩を抱き寄せて、クシャクシャっと頭を撫でたのだった。



◇    ◇    ◇






◆7
 その頃、街外れの古い空き家では優秦が着々と企みを進めていた。
 香港で父親の部下だった男たちに声を掛けたものの、なんと蓋を開けてみれば話に乗ってきたのはたった一人――。当てが外れた彼女は憤りのままにその一人に向かって罵倒を繰り返していた。
「なんて薄情な連中かしら! 来たのがアンタ一人だけとはね!」
 男の方は相変わらずに我が侭な娘だと冷笑気味でいる。
「俺だけでもノってやったことを有り難く思って欲しいね、嬢さん。他のヤツらは正直もう懲り懲りだとよ!」
 元はといえばこのお嬢さんの口車に乗せられてファミリー長男坊の婚約者を陥れるなど、とんでもない企てに駆り出されたせいで組織解体にまで追いやられた者たちだ。いくら報酬が出るといっても、二度も玉砕させられるのは勘弁願いたいと思うのは当然であろう。
「連中だってこの二年の間、まともな職にも就けずに辛酸舐めてきたんだ。これ以上あのファミリーを敵に回すなんざ冗談じゃねえってところだろうよ。俺だって実際迷うところだが、報酬を独り占めできるってんならと思って来てやったんだ。それに……あの周風の嫁を好きにできるなら悪くない話だからな」
 どうやら男の目的は報酬よりも風の妻の方らしい。
「言っとくけどあの女のことは最終的に消してくれなきゃ困るんですからね! そりゃちょっとくらい遊ぶのは構わないけど……変な下心出してあの女を連れて逃げるなんてことだけは絶対に許さないわよ!」
 つまり、優秦の目的は風の嫁である美紅を亡きものにしたいということだ。
「アンタたちのお陰でこっちは計画が大幅に狂っちゃったんだから! その分きっちり働いてもらうわよ!」
 優秦はそう念押しすると、企ての全貌を話し始めた。
「いい? アタシの調べたところによると周風たちは見本市を回った後、クライアントと食事に出掛けるわ。その間、あの女を含む五人でオペラを観ることになってる。周兄弟の名前で歌劇場のボックス席が予約されてるから確かよ。その隣のボックスを押さえておいたから、あんたも客として潜り込んでちょうだい」
「俺までオペラを観るんですかい?」
「何暢気なこと言ってんの! あんたが潜り込むのは最初だけよ! 服装は黒で行ってちょうだいね。あの女たちは観劇の前に近くのレストランでディナーをとるようだから、飲み物に睡眠薬を入れるわ。既にそこのレストランにアルバイトとしてアタシが雇った現地人を潜り込ませてあるの」
「睡眠薬――ね。全員を眠らせちまおうってことですかい?」



◆8
「そ! しかも鈍行性で効き目は抜群! 劇が始まる頃には全員眠ってしまっているから、そこで五人を拉致してちょうだい。ボックス席だから入り口は全ての部屋にひとつずつある。廊下へ出る時に人目につく心配はないけど、すぐ隣はミッテルロジェのメインボックスがあるわ。念の為、拉致する時は黒い目出し帽を被って一人ずつ確実に。絶対にバルコニーからは姿を見せないように屈みながらやってちょうだいね!」
 これが劇場の見取り図よと言って、優秦は更に事細かな指示を語り出した。男の方もあんぐり顔である。
「ふう……何とまあでけえ劇場だなぁ。手順は分かったが、いくら眠ってるっていっても俺一人で五人を拉致するのはさすがに骨が折れる仕事だね。第一、どうやって車まで運べばいいんだ」
 さすがに大の大人をおぶって運んだりを繰り返せば誰かに気付かれそうだ。
「そこは心配ないわ。不甲斐ないアンタたちの代わりにこっちでバイトを雇ったから。廊下には荷運び用の大型ラックを用意してある」
「大型ラック?」
「よくホテルのベルボーイが引いているアレよ。スーツケースを山積みにできるやつ。それを三台ほど仕入れたから、彼らと協力して五人を拉致したら、速やかにここへ連れて来てちょうだい。ラックに乗せたら布で覆うのを忘れないで!」
「は……! 準備がよろしいことで」
 男は呆れながらも、ほとほと感心してしまった。これではちょっとしたプロも顔負けの用意周到ぶりだ。しかもなかなかに頭が切れる。そんな頭脳があるなら、もっと他のことに使えばいいものをと思いたくもなる。だがまあ、裏を返せばそうまでしてまだ周風への想いを諦めきれないわけかと笑った。
「ふん! 風のことはもうどうでもいいのよ! アタシはただあの女だけが幸せにしてるのが許せないだけ」
 勘違いしないでちょうだいと優秦はむくれてみせた。
「そんなことより五人を拉致したらあの女以外には手を出さないでちょうだいね! 後で風に恩を着せる為の道具なんだから」
「恩を着せるだって? 嬢さん、あんたまだ何か企んでいやがるのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい! 五人の中には風の側近の曹先生もいるのよ? それに風の弟の連れ合いもいる。下手に手を出して恨まれるよりも、このアタシが口利きしてあげて助けてやったっていう形にするのよ。そうすれば風だってアタシに恩ができるでしょ」



◆9
 優秦の計画はこうだ。五人は地元のチンピラ連中によって金目当てに拉致され、風らが行方を捜し回っているところに偶然を装って自ら会いに行く。優秦とて元は香港マフィアの一員だったわけだから、例え外国に移り住んだとはいえ各方面にそれなりの顔は利く。自分が手助けをしてやると言って美紅以外の四人を無事に解放すれば、風らも恩義に思うだろうとのことだった。
「できる限り手は尽くしたけれど、交渉が成立した時にはあの女だけが殺されてしまっていて、四人だけしか救えなかったってことにするの。犯人は地元のチンピラなんだし、アタシは人質の解放に尽力した。そうなれば風だってアタシを責めることもないでしょうし、曹先生や弟の連れ合いを守ってあげたんだから感謝されるはずよ」
 彼女の計画を聞いて、男はますます呆れてしまった。要はまだ風に未練タラタラというのが見え見えだ。狂言誘拐を企てた上に邪魔な風の妻だけを始末して、あわよくば残る四人を助けてやったことで風が自分に靡いてくれるとでも思っているわけだ。
 相変わらずに身勝手この上ない我が侭ぶりだが、男としてもここまで来てしまった以上、今更引き返すのもためらわれるところだ。危ない橋には違いないが、成功すれば悪くはない企てだ。がっぽり報酬をもらって、それこそこの我が侭娘を出し抜き、あの風の美人妻を拐って逃げるのも悪くなかろう。男は最終的にこの優秦を裏切って、大金と美紅を我が物にしようと思うのだった。
「話は分かりましたぜ、嬢さん。まあ上手くやってみせますぜ」
「頼んだわよ。五人を拉致したら、まずは身に付けている宝飾品を全部引っ剥がすのよ! スマートフォンはもちろん、アクセサリー類や腕時計も全部よ」
「アクセサリーにGPSが仕込まれているかも知れないから――ですかい?」
「よく分かってるじゃないの。その通りよ。アンタもさすがにパパの下にいただけのことはあるわね。奪った宝飾品は電波を通さないアタッシュケースに入れて保管、事が上手く片付いたらアタシが雇ったチンピラ連中への報酬にするのよ」
 仮にGPSが組み込まれていたとして、それらを報酬として雇った連中に引き渡せば、後々犯人が割れた時には周一族が彼らをふん縛るだろう。奪った宝飾品が彼らの手元にある以上、本当に地元の誘拐犯に拉致されたという証拠にもなり得るわけだ。
「は! どこまでも悪知恵がお働きになることで! 嬢さん、アンタ大したもんだよ」
「おだてはいいから! しっかり働いてちょうだいね!」
「かしこまりましたぜ、任せてくだせえ!」
 こうして水面下での悪巧みは着々と進行していったのだった。



◇    ◇    ◇






◆10
 そうしてオペラ観劇の日がやってきた。周ら旦那組はクライアントと接待の会食に出掛ける。ホテルの部屋ではタキシードに着替えた冰と紫月らが互いの出立ちを褒め合ってはキャッキャとはしゃいでいた。
「おー、冰君カッコいいじゃね!」
「紫月さんこそー! 今日はまた一段と素敵です!」
 着替えを終えた鐘崎と紫月が隣の冰らの部屋へ迎えにやって来たのだ。観劇組の二人は黒のタキシードに黒の蝶タイ、カフスボタンは以前香港で買ったそれぞれの名にちなんだ宝石の物だ。
「あ、やっぱ冰君もそのカフス持って来たんだな!」
 紫月が自分のカフスを見せながら嬉しそうな声を上げている。
「ええ。香港で皆さんと一緒に白龍が選んでくれた物です。紫月さんのも素敵ですねー!」
「うん! 俺ンも遼が選んでくれたやつ」
 周と鐘崎はダークスーツ姿だが、カフスはそれぞれ伴侶とお揃いで買った物を身につけていた。
「一緒に観に行ってやれなくてすまんな」
「お前らが帰る頃には俺たちも戻れるだろう。楽しんで来いよ」
 旦那たちがそんなふうに送り出してくれる。
「うん、ありがとね白龍!」
「遼たちも気ィつけてなぁ」
 そんな話をしていると、風と美紅もやって来た。
「うわぁ! お姉様、すごく素敵ですー!」
「ホント! 超綺麗だ」
 美紅のドレスはその名にちなんだ真紅のシルクだ。襟周りには凝った刺繍とラインストーンが散りばめられていて、キラキラとゴージャスに輝いている。ドレスの上に羽織っている丈の短いファーコートも彼女の美貌を引き立てていて本当に美しかった。
 それをエスコートしている風の方も淡い色合いのシルク製のスーツ姿だ。周や鐘崎のダークスーツも言うことなしに格好良いが、こうした淡い色合いが似合うのも風ならではといえる。
「お兄様も素敵ですね!」
「うんうん! 上品な雰囲気が風兄ちゃんにピッタリだね!」
「ありがとうな、冰、紫月!」
 義弟らに見せる微笑みもスーツさながらよくよく品がある。周と鐘崎はどちらかといえば凄みのある粋な印象だが、この兄は王道の王子様な雰囲気が何ともいえずによく似合ってしまうのだ。
「それじゃそろそろ出掛けるか。観劇前のディナーの店は予約してある。場所は曹と鄧に伝えてあるから」
 一同は揃ってロビーまで降りてから、それぞれ迎えの車へと乗り込み、そこで別れた。
 外はちょうど日が落ちたばかりで、まだ空がうっすらと明るく、宵闇が降りる少し前でとても美しかった。ウィーンの街並みにイルミネーションが灯り出して雰囲気も上々だ。
「今日のレストランはフレンチの専門店だ。観劇前だから軽めのフルコースだが、ワインは周風がセレクトしてくれている」
 助手席に乗った曹が皆を振り返りながら期待していいぞとガッツポーズを繰り出す。そんな曹も鄧もやはりタキシード姿なので、普段よりもまた一段と男前ぶりをアップしていた。
「デザートはザッハトルテとベルギーショコラのアイスクリームだそうだよ」
「うっは! やったね! ショコラ尽くし」
 早速に食指が疼きそうだとばかりに紫月が満面の笑みを見せる。
「紫月君も冰君も甘い物には目がないとか」
「そうなんですよ。特に紫月さんは甘味大魔王なんて言われてますもんねー」
「大魔王か。そいつぁすごい!」
 あははは――と、車内は賑やかな笑い声であふれて楽しげだ。まさかこの直後にとんでもない企てが待っているなどとは、誰もが思うはずもなかった。



◇    ◇    ◇








◆11
 ウィーン郊外――、時刻は日付をまたごうとしている深夜〇時少し手前だ。

 ポタリ、ポタリ、どこかで水滴の落ちる音がする。身体のどこそこが自由にならない気がするのがもどかしい。
 わずかに足を動かせば周りの壁に反響するような音。天井が高く、広い空間が無意識の内にも脳裏に浮かぶ。空気は冷んやりとしてブルリと寒気に襲われた。
「……ッ?」
 瞼を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に医師の鄧はカッと瞳を見開いた。
「なに……ッ!?」
 すぐ隣には曹が床に転がっている。その向こうには冰と紫月も同様に横たわっている。
 慌てて身を起こそうとしたが、思うようにならない。どうやら後ろ手に縄のようなもので縛られているようだ。
「これは……」
 いったい何がどうなっているというのだ。自分たちは国立歌劇場のボックス席でオペラを観ていたはずだ。
 身動きの可能な範囲で周囲を見渡せば、えらく天井の高い古い空き家のような場所にいることが認識出来た。意識がはっきりとしてくるごとに、だんだんと今の状況が見えてくる。鄧はこの時点で拉致を悟ったのだった。
(まさか睡眠薬でも盛られたか……)
 とにかくは皆を起こして無事を確かめるのが先決だ。自分に意識があるのだから、おそらくは皆も眠らされているだけだろうとは思えども、一人一人の呼吸や脈拍を確かめねばならない。
 すると、どこからか人の話し声が聞こえてきて、鄧は咄嗟に眠ったふりをし、床へと身を横たえた。
 話しているのは二人の男の声、言語はドイツ語だ。
「しっかし暇だなぁ。あいつらを見張っとっけって言われたが、こうもやることないと飽きてくらぁな。こんな辺鄙な場所じゃ一杯引っかけに行く店もねえし!」
「違いねえ。あいつらには強烈な睡眠薬が盛られてるってんだろ? 全員縛ってあるんだし、見張りなんか必要ねえだろうって!」
「いい加減帰りてえわ。あいつらが目を覚ました頃に改めて集合ってんじゃダメなのか?」
「仕方ねえだろ。あのアジア人の女が一晩ここで見張れってんだからよ」
「だったらせめて女の見張りにして欲しかったね」
「ああ、拉致した中にいた紅一点の女だろ? 寝顔しか見てねえがなかなかのイイ女だったな」
「まあイイ女にゃ違いねえが、俺はアジアンには興味ねえな。女はやっぱり金髪のグラマーに限る!」
「はん! 好き者が! どのみちあの女には男がついてるから、俺たちにゃ回ってこねえさ」
「香港から来たとかいう例の男だろ? にしても、こっちは野郎ばっかり四人のお守りなんざ、とんだ災難だ」
 その会話を聞いて、初めて美紅がいないことに気がつき、鄧は蒼白となった。
(まさか……美紅さんだけ別の場所に連れていかれたのか?)
 男たちの会話は続いている。
「表で一服でもするか」
「ああ、そうすっか。他にやることもねえし」
 二人が外へと出ていったのを確認すると、鄧はすぐさま隣の曹を揺り起こした。



◆12
「曹来! ライ! 起きてください」
 声をひそめながらも膝で曹の身体を突いて呼び掛ける。
「……ん、あ……?」
「ライ! 気が付きましたか! 緊急事態です!」
 緊急という言葉に反応したわけか、曹もカッと瞳を見開いた。
「鄧浩……? どうした」
「驚かないで聞いてください。どうやら私たちは何者かに拉致されたようですよ」
「……なに……ッ!?」
 慌てて身を起こそうとした瞬間、曹もすぐに後ろ手に縛られていることを察知したようだ。
「……どういうことだ……俺たちはオペラを観ていたはずだが」
「気が付いたらここに連れて来られていたんですよ。おそらくは睡眠薬でも盛られたんでしょう。それより美紅さんがいません!」
「なんだとッ!?」
「しッ! 大声を出さないでください! 今は外で一服中ですが、見張りが二人ほどいます。美紅さんは……彼女だけ別の場所で拘束されていると思われます」
 その話し声で起こされたのか、紫月と冰にも意識が戻ったようだ。鄧は今しがた耳にした男たちの会話の内容をかいつまんで皆に聞かせた。
「じゃあ俺たちは誰かに拉致られてきたってわけですか?」
 紫月が周囲を見渡しながら声をひそめて訊く。
「そのようですね。おそらくは食事に睡眠薬が混入されていたのかも知れません。劇場に着いた時点では自覚できなかったので、盛られたのは鈍行性の薬物でしょう」
「そういえば俺も開演して割とすぐに眠くなってきちゃって……。せっかく白龍が桟敷席まで取ってくれたのに申し訳ないって思ったことまでは覚えています……」
 冰もそう振り返る。
「俺もいつ寝ちまったのかは思い出せねえけど、そういえば演目のことは殆ど覚えてねえから、やっぱ始まってすぐだったのかも」
 紫月も同様のようだ。
「で、犯人はいったいどんなヤツなんです?」
「それが、私が聞いたのは見張りだという男二人の会話だけですから詳しいことは分かりませんが……」
 鄧は彼らの話していた内容から、犯人の中に香港からやって来た男がいるということと、見張りの男たちはアジア人の女に指示されてここにいるだけのようだと説明した。
「会話はドイツ語でしたから、現地の者でしょうね。あの男たちは拉致の実行役として雇われただけではないかと」
「ってことは、黒幕はアジア人の女ってことか。曹さんと鄧先生は心当たりありますか?」
 紫月に訊かれて、曹と鄧が考え込む。
「香港絡みなのは間違いないでしょう。私よりもライ、あなたの方が詳しいのでは?」
 鄧はここ何年も汐留住まいだから、確かに曹の方が事情には詳しいだろう。



◆13
「うむ……アジア人の女に香港から来た男か。ひとつ心当たりがあるが……まさかまたあの楚優秦が絡んでいるんじゃあるまいな……」
 楚優秦――、その名前には紫月も聞き覚えがあった。
「優秦って……確か風兄ちゃんの結婚が決まった時に美紅姉ちゃんを拉致して手篭めにしようとしたあの女ですか?」
 その事件の時は紫月も周や鐘崎と共に香港を訪れていて、美紅の救出に一躍買ったのでよく覚えていた。
「あの時は世話になったな。ちょうど紫月君たちを空港へ迎えに行った帰り道だった。運良く救出が間に合ったから良かったものの、少し遅れていたら大惨事になるところだった」
 曹は礼を述べると、その後の経緯をザッと説明した。
「彼女の一家はあの事件の後、周直下を抜けてヨーロッパに移り住んでいる。俺が聞いた移住先は確かフランスだったはずだが、その後にまた引っ越したか、それともわざわざこの計画の為にウィーンまで出向いて来たのかも知れんな」
 優秦の起こした事件のことは鄧も概要だけは聞いていた。
「かれこれもう二年以上になるな。では今回、風老板がこのウィーンに来ることをどこかで聞きかじって、それでこの計画を思いついたと?」
「かも知れん。本当に優秦が犯人ならば目的は風の奥方だろう」
 曹は優秦が未だに風への想いを諦め切れていないのかと驚いているようだ。
「とにかく奥方の無事を確かめないと!」
「おそらくは香港から来た男というのが、我々とは別の場所で美紅さんを見張っていると推察できます」
「仮に優秦が黒幕だとすれば、その男ってのは以前楚の組織にいた者かも知れんな。もしかしたらあの事件の時、奥方の手篭めに加わっていた内の一人とも考えられる」
 そうであれば事は一刻を争う。皆はすぐに彼女を捜し出す手順を考えることにした。
 一番最初に案を口にしたのは冰だ。
「こういうのはどうでしょう。この中で一番弱そうに見えるのは俺です。見張りの人たちが帰ってきたら、俺がトイレに行かせて欲しいと言うんです。その間、皆さんはまだ眠ったふりをしていていただいて、俺だけがトイレに連れて行ってもらい、隙を見て相手の鳩尾にでも肘を入れれば……」
 冰自身がきっかけを作ると言う。見た目がやわに見える自分なら、相手も警戒しないだろうと言うのだ。
「名案かもな。だったら俺が密かに冰君たちの後をつけて、まずは一人を沈めよう」
 紫月がその役を引き受け、残るもう一人は曹と鄧で押さえてもらうという作戦だ。



◆14
「それにはまずこの縄をなんとかしないといけませんね」
 だがまあ、縛られているのは手だけだ。
「足は自由がきくから、最悪縛られたままでもなんとかなりそうだが……。ヤツらが武術に長けていなければの話だがな」
 曹が縄をギシギシとさせながら、どうにかして外せないものかと眉をひそめる。
「私の見たところ、見張りの二人は玄人ではなさそうでしたがね。ですが舐めて掛かるのは危険です。どこかに縄を切れるようなブツでも転がっていればいいのですが」
「そういえば鄧先生はいつも最小限の救急用具を入れた鞄を持ち歩いてたんじゃね?」
 その中には手術に使うナイフか、もしくは包帯を切るハサミなどもあるはずだ。紫月が訊くと、鄧は残念そうに肩をすくめてみせた。
「それが……どうやら手荷物はすべて取り上げられたようですよ? 鞄はもちろんのこと、身につけていた腕時計やカフスボタンなども見当たりません」
「マジッ!?」
 紫月も冰も、そして曹も慌てて自らの身体を確かめる。
「うわ、ホントですね! 俺の腕時計もありません! 紫月さんのピアスも付いていませんよ!」
 冰の腕時計と紫月のピアスには現在地の分かるGPSが組み込まれているのだが、それが外されているということは、周や鐘崎らが拉致に気付いたとしても容易にはこの場所を突き止められないということを意味する。
「くそ! 敵も素人じゃねえってことか」
 まあ本当に優秦が犯人ならば、そのくらいのことは思いついても不思議はない。彼女も一応は裏の世界でも育っただけのことはあるということだ。
「だが困ったな。この縄さえ外せればなんとかなりそうだが……」
 皆で地べたを見渡して、何か都合のいい物が落ちていないかと探す。すると見張りの二人が戻って来たようで、扉の開かれる音がした。ひとまずは全員で横たわり、眠ったふりを通すことにする。案の定、様子を見に彼らが近くまで寄って来る気配が感じられた。
「チッ! ほらな、まーだぐっすり夢の中だぜ」
「見張りなんざ必要ねえってのによ!」
 男たちはその場を通り越すと、またしても興味を引かれることを話し始めた。
「しかしこれ! 値打ちものの日本刀だって聞いたが、本当に使い物になるのか? 結構な値がつく代物だって話だが」
「こっちは骨董品の山さ。売っ払えば高額になるってホントかねぇ?」
「まあどのみちこれは俺たちのモンじゃねえし。あの香港から来たって男への報酬だってんだろ?」
「俺らにはちょっとばかりの現金と、それにコイツらから巻き上げた宝飾類をくれるとか言ってたがな」
「それにしても差があり過ぎだ! 今だったら誰も見てねえんだし、どうせならこっちをいただいてトンズラしちまおうか」



◆15
「それも悪くねえが、この骨董品の山がただのガラクタだった日にゃ目も当てられねえだろうが。掻っ払ったところで、上手く捌けなけりゃクズ同然だ」
「それもそうだな。やっぱりコイツらの身に付けてた宝飾品の方が無難か」
 どうやら男たちは今回の報酬について話しているようだ。内容は鄧にしか分からないので、彼は声をひそめて皆に通訳して聞かせた。
「骨董品に日本刀――ね。優秦が黒幕なら親父さんの収集物を勝手に持ち出してきたってところかもな。楚大人は骨董品集めが趣味だったからな」
 このことからますます優秦の仕業である可能性が高くなってくる。
「のんびりしている場合ではないな。すぐにも奥方の無事を確かめんと!」
「そうですね。仮に日本刀ってのが本物なら、そいつを手に入れられれば言うことなしです」
 紫月は剣術に長けているから、相手が見張りの二人以外にいたとしてもなんとかなりそうだ。縄を切ることも可能だろう。
「じゃあとにかく俺がトイレに行かせて欲しいと言って様子を見てみましょう。やわに見える俺ならば、相手も暴力に出る可能性は低いでしょうし」
 もしもその時点で暴力沙汰になるようならば強行突破しかない。紫月と曹は体術が使えるし、最悪は足だけで応戦するしかない。一同は早速作戦に出ることを決めた。



◇    ◇    ◇



 一方、美紅の方は皆とは別棟の地下室で囚われていた。見張り役は香港からやって来た楚の元部下の男である。
 国立歌劇場での観劇ということもあって、ドレッシーなイブニングドレスという出立ちの美紅は、さすがに寒くて目が覚めたところだった。季節は冬ということもあり、ドレスに合わせた丈の短い毛皮のコートを羽織ってはいたものの、深夜の時間帯は寒さも厳しい。比較的暖かな香港の気候に慣れている彼女にとっては堪えるものだった。
「よう、気がついたか?」
 突如聞き慣れない男の声で美紅はハタと瞼を開いた。
「……? ここ……は?」
 オペラを観ていたはずが見知らぬ男と二人きり、薄暗がりの部屋では驚くのも無理はない。
「意外に早く目が覚めたな。あの睡眠薬、本当に強力なのか?」
 男は薄ら笑いと共にそんなことを口にする。
「睡眠薬……? じゃあ私は……」
 起き上がろうとするも、縄で腕を縛られていて身動きが取れない。次第に意識がはっきりしてくれば、見覚えのある男の顔に驚かされた。



◆16
「あなたは……!」
「ほう? 嬉しいね。俺の顔を覚えていてくれたってのか?」
 忘れるはずもない。男は以前に自分を手篭めにしようとした内の一人だったからだ。
「あなた……確か優秦さんのところの……」
 しかもこの男は武術にも優れていて、自分の腕では倒せずに負かされてしまったのは苦い記憶だ。あの時、周風らが助けに来てくれなかったら、確実に被害に遭っていただろう。
「あなた……どうしてここに? 曹さんや他の皆んなは……」
「心配するな。あいつらも一緒に捕らえてある。もっともこことは別の場所だがね」
「別の場所……」
「まあ、もうお察しかも知れんが、今回もまたあの我が侭嬢さんの指示であんたらを誘拐するように言われたわけさ」
「誘拐……。では優秦さんが……?」
「そういうこと! あの嬢さんは未だにアンタのご亭主を諦め切れないでいるようだぜ」
 美紅は驚いた。もうあれから二年以上も経っている上、彼女の一家は周直下を抜けて香港を離れたはずである。
「今回アンタたちがこのウィーンに来ると知って、嬢さんが悪巧みを始めたってわけだ」
「……優秦さんが……。それで……あなた方は私たちをどうしようというのですか……?」
 美紅が声を震わせながら尋ねると、男は側まで来てグイと彼女の顎先を掴んでみせた。
「ふん、相変わらずの別嬪だ。他人様の妻になってもアンタの美しさはまったく衰えねえな」
「……は……なしてください! 何をなさるんです……!」
「その上品な物言いもあの頃のまんまだ」
 男はニヤっと笑うと、掴んでいた手を引っ込めて意外なことを口走った。
「実はな、嬢さんからはアンタを始末するようにと言われてるんだ。だが俺はそんなもったいねえことをするつもりはねえ」
「始末……」
「嬢さんはアンタのことがとことん気に入らねえようでな。アンタさえ消えれば、風老板が自分のものになるとでも思っていやがるのさ」
 バカバカしいことだと言って男は笑う。
「それで……優秦さんはどちらにいらっしゃるのですか? 始末って、まさか曹さんたちのことまで……? そんなことは困ります……あの人たちに危害が及ぶなど……あの四人は主人たちにとって、とても大切な方々なのです」
 自分が始末されるかも知れないというのに、他の四人のことの方を気に掛けている。男は半ば呆れながらも美紅の性質の良さに感心したようだった。
「は、ホントにウチの嬢さんとは月とスッポンだな。アンタのような極上の女を始末するなんざ、ますますもったいねえことだ。どうだ、アンタを助けてやるから俺の女にならねえか?」
 真顔で男はじっと見つめてよこした。



◆17
「……何をおっしゃるのです……。私は周風の妻なのですよ? 他の殿方のものになるわけには参りません」
「は! 随分とはっきり断ってくれるじゃねえか。アンタだってみすみす死にたくはねえだろうが。俺ならアンタを助けられる。嬢さんには始末したってことにして、二人でどこか外国へ行って暮らせばいい」
「優秦さんを裏切るとおっしゃるの?」
「そうだ。どうせアンタは死んだことになるわけだから、風老板の元へ帰らずとも不思議には思われねえだろうが」
 男は『アンタのことを気に入っている。是非とも自分のものにしたい』と言った。
 美紅はしばし押し黙ってしまったが、考えた末に自分の素直な気持ちのみを伝えてみることにした。
「私を助けてくださるというあなたのお気持ちは有り難く思いますわ。ですが、私は周風の妻です。主人を裏切ることはできません」
「はん! 強情な女だなぁ。だったら本当に殺されても構わないってのか?」
 男がわずか苛立ちを見せる。
「ひとつうかがってもよろしいかしら?」
「……なんだ」
「あなたはもしかして優秦さんのことをお慕いされていらっしゃいますの?」
「は――!? 俺が嬢さんをだって?」
 男は呆れ顔をしてみせたが、美紅にとっては毎度このような悪事に加担するくらいだから、この男は優秦に心を寄せているのではないかと思ったわけだ。
 ところがどうもそうではないらしい。男は苦笑も苦笑、吐き捨てるように否定してみせた。
「冗談じゃねえぜ! 誰があんな跳ねっ返りの性悪なんざ好きになるもんか! 想像しただけで悪寒が走るね」
 男曰く、彼女に加担しているのは単に金の為らしい。
「そう……。では、あなたにはお心に決めた女性はいらっしゃらないんですの?」
 つまり、好きな相手はいないのかと訊いたのだ。
「心に決めた女だ? そんなもんはいねえな。強いて言うならアンタってところかな」
 ニヤっと薄ら笑いながら言う。
「私……? 私を好いてくださっているとおっしゃるの?」
「好いてもなにも……アンタはイイ女だし、殺すにゃ惜しいってだけのことよ。大概の男ならアンタのような女を好きにしたいと思うだろうが」
「……惜しいと思ってくださるのは嬉しいわ。でも私を連れて逃げてもいずれあなたのご迷惑になると思います」
「は? どう迷惑になるってんだ。まさか風老板が俺たちの居所を突き止めて、助けに来てくれるとでも思ってるってか?」
「いえ、そうではありませんわ。実は私……お腹に赤ちゃんがいますの。主人の子供ですわ。せっかく授かった命です。産みたいと思いますわ」
 さすがに驚いたのか、男はわずか眉根を寄せた。
「赤ん坊がいるだと? は……、風老板も酷えお人だな。身重の女房を飛行機に乗せて長旅に連れ出したってのかよ」
 香港からは飛行時間も短くはない。妊っているというのなら、大事をとって留守番させるべきだと思うのだろう。だが美紅はそうではないと首を横に振った。
「赤ちゃんがいると分かったのはこちらに着いてからでしたの。私ももしかしたらと思ってはいたんですが、出掛ける前までは確信が持てなくて……」
「……風老板はそのことを知っているのか?」



◆18
「いいえ、まだ伝えていませんわ。今回の仕事が無事に済んでからにしようと思っていました。もちろん伝えればあの人は喜んでくれると思いますわ。でも私の体調を気遣って、少なからず煩わせてしまうことになりかねません。こちらでのクライアントとの交渉にも専念できなくなるでしょう。そんな心配をさせずにお仕事を全うして欲しいと思っておりますの」
 つまり自分の体調のことよりも亭主の立場や仕事を優先したいというわけだ。なんとも健気なことである。
「ですから私を連れて逃げてもあなたのご負担になるだけです。それ以前に主人を裏切って他の殿方と逃げたいとも思いません。風は私が心から尊敬して愛している唯一無二の主人です。もしどうしてもとおっしゃるなら、私はこの場で殺される方を選びますわ」
 か弱い女の立場で、しかも身重だというのに、揺るがないはっきりとした口調で美紅は言った。
 さすがに男も一瞬たじろいだように眉間の皺を深くする。
「ふん……! ご立派な心掛けだな。だったら今この場で犯してやったっていいんだぜ? どうせ殺されるんだ。その前に何されたって構わねえだろうが」
 男はそう凄んで脅したが、美紅の気持ちは変わらないようだ。それどころかもっと驚くようなことを言ってのけた。
「殺されることは構いません。ですが私は最期まで周風黒龍の妻でいたい。殺されるにしても後々あの人の恥になるような死に方はしたくありません。例え無理矢理でも不貞を働くことだけは同意できませんわ。あなたが私を手に掛けるとおっしゃるなら、その前に舌を噛んで自害いたします」
 きっぱりと言い切った瞳にはその意思の固さと共に絶対に揺るがない誇りが見てとれる。男は苦虫を噛み潰したような表情で閉口してしまった。
「は……参ったね。だてにマフィアトップの姐さんを張ってるだけじゃねえってか」
 呆れたように肩をすくめて罵倒を吐き捨てるも、わずか切なげに瞳を細めては「ふぅ」と大きな溜め息をついてみせた。
「羨ましいねぇ。風老板は本当に……めちゃくちゃイイ女を女房にしたもんだ……」
 もしも自分に恋人がいて、その女が今の美紅と同じような立場になったとしたら、その女はどうするだろうか。そんなことが脳裏を過れば、今自分のしていることにとことん嫌気が差してくる。と同時に、我が侭の限りを尽くして他人の幸せを平気で踏みにじろうとする優秦にも怒りが込み上げてきた。その彼女にそそのかされたとはいえ、よく考えもせずにノコノコとこんなことに加担しようとしている己にも腹が立ってくる。しばしの沈黙の後、意を決したように男は言った。



◆19
「分かった……。あんたを解放する。嬢さんにゃ悪いが、俺もいつまでこんなチンケな人生を歩んでちゃいけねえや」
 男は言うと、自らのコートを脱いで美紅の肩へとそれを掛けた。
「……あなた……」
 いったいどういうことだと美紅は美しい瞳を不安げに揺らす。
「俺が悪かった。この通りだ。今更かも知れねえが……俺はあんたを助けたい!」
「……助けるって……よろしいの?」
 そんなことをすれば優秦に合わす顔がなくなるだろうと、ここでもまた美紅は自分の身よりもこちらの立場を危惧するような顔つきを見せる。言葉にせずとも彼女がそんなふうに案じてくれていることが、その表情だけで分かるのだ。
「本当に……あんたは顔も別嬪なら心も綺麗なお人だ。それに比べて俺は……見ての通り最低のクズ野郎だ。だが、一生に一度くれえはてめえで正しいと思ったように動くのも悪くはねえ。優秦の嬢さんを裏切ることで厄介な行く末が待っていたとしても、俺は自分が正しいと思った人生をいきてえ」
 男は美紅の前で丁寧に跪くと、胸に手を当てて誓いの言葉を口にした。
「二年前も今も……俺のやってることは褒められたモンじゃねえ。もしも……そう、あの時もあんなことさえなけりゃ俺たちは未だに周直下でいられたんだ。本来であればあんたは俺が守るべきファミリーの大事な姐様だ。こんな俺を信じてもらえねえかも知れねえが、命をかけてお守りし、無事に風老板の元へお返しすると誓います」
 男は縄を解いて美紅の手を取ると、
「姐さん!」
 と言って、再び深々と首を垂れた。わずかに肩を震わせて祈るようなその様からは、まるで『どうか信じてくだせえ』とでも言わんばかりなのがひしひしと伝わってくる。美紅はその手を握り返しながら、『ありがとう』と言ってはその美しい瞳を潤ませたのだった。
「とにかくここを出て曹先生たちと合流しやしょう。ぐずぐずしてたら嬢さんがやって来る」
 その前になんとかしないと……と男は言った。
「優秦さんは今どちらにいらっしゃるの?」
「今頃嬢さんは更に人手を集めてるはずだ。俺の聞いた計画じゃ、大勢のチンピラ集団があんたらを襲っているところへ嬢さんが助けにやって来て、ヤツらから曹先生たちを救ったってことにする筋書きだった。その後、風老板に連絡して恩を売ろうって算段だ。その際にあんただけは助けられなかったってことにするつもりだったんだ」



◆20
 なるほど――。
 美紅以外の四人を助ければ、風も優秦のお陰でチンピラ集団から皆を守ってもらえたと思うだろうということか。本当は全員を助けようとしたが、美紅だけは間に合わず殺されてしまったとするつもりだったのだろう。その後、あわよくば風の後妻に収まろうとでも思っているということか。
「まったく、あの嬢さんの考えることといったら……。そんなことをしても風老板が嬢さんに傾くわけもねえってのに!」
 男は舌打ちながらも地上へ通じる重い床板を持ち上げて、美紅へと手を差し伸べた。
「掴まってください。ちょっと急ですが気をつけて、慌てなくていいんでゆっくり上がって来てください! 曹先生たちは隣の建物に拘束されてるはずだ。あっちには嬢さんの雇ったヨーロッパ人が見張りについてるが、それもたった二人だ。ヤツらを片付けるのはワケねえんで任せてくだせえ」
 男は美紅の体調を気遣うよう丁寧に引き上げると、二人揃って曹らの元へと急いだ。

 一方、そんなことになっているとは露知らずの曹らの方では、美紅を救出する為の準備に取り掛かっていた。まずは冰がトイレに行かせて欲しいと言って見張りの一人を引きつけ、紫月がその後をつけて捩じ伏せるという作戦だ。
「見張りの男たちはドイツ語で話していましたから、おそらく広東語には明るくないでしょう。冰さんはわざと片言の英語でたどたどしい感を出してください。言葉が通じないと分かれば相手の油断を誘えるはずです」
「分かりました。では始めましょうか」
 冰は大きく深呼吸をすると、モゾモゾと起き出し、見張りに聞こえるように大袈裟な調子で騒ぐところから始める。まずは広東語でだ。
「うわ……! どうしたんだ僕たち!? ここはどこ!? 紫月さん、皆さん、起きてくださいよー! 大変なんです!」
 案の定、その声を聞きつけた見張りの二人が慌てて近付いて来る足音が聞こえてきた。
「なんだ、もう目を覚ましたってのか?」
「あの薬、朝までぐっすりだって聞いてたが、話が違うじゃねえかよ!」
 男たちも焦っているようだ。ドイツ語なので、鄧が横たわったままで密かに通訳をする。暗闇の中、気付かれにくいのは幸いである。少しすると男たちがやって来た。
「なーんだ。起きたのはコイツ一人か。他のヤツらは眠ったまんまだ」
「は……、脅かしやがる」
 少々ホッとしたように肩を落としたのが雰囲気で分かった。
「おい、ガキ! ギャアギャア騒ぐな! 他のヤツらが起きちまうだろうが!」
「静かにしやがれ!」
 男たちも冰の容姿から警戒する必要のない優男と踏んだようだ。



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