極道恋事情

28 ダブルトロア2



◆21
「あのぅ……トイレに行かせてください!」
 冰はまず広東語ですがるようにそう言った。
「なんて言ってんだ、このガキ?」
「分かるわけねえだろが! 中国語か?」
 やはり男たちには言葉が通じないようだ。そこで冰はすかさず片言英語を繰り出した。
「トイレット! あーいや、バスルーム? オア メンズルーム? プリーズプリーズ! トイレットプリーズ!」
 今度は今にも漏れそうだと泣き出さん勢いですがる。囚われている恐怖以前に自然現象の方が重要だという必死の態度が功を奏したわけか、男たちは呆れ顔で笑い出した。
「なんだ、ションベンかよ!」
「脅かすな……。しゃーない、連れてってやるわ」
 二人は冰の肩を掴み上げて立たせると、他の三人が眠っていることを確かめんと足先で突いて確認した後、
「こいつらはまだ起きそうもねえな。念の為だ、お前見張っててくれ」
 ホッとしたようにして一人が冰をトイレへと引きずっていった。
「サンキュー! サンキューベルマッチ! トイレット、サンキュー!」
 こんな時でも冰の度胸と演技力は大したものである。ほとほと情けない優男を装いながら、トイレに行かせてもらえて有難いといったように涙目で礼を述べる。男の方も苦笑いだ。
「分かった分かった! いいからそうギャアギャア騒ぐな」
 男は冰を引きずりながらトイレまで足早に連れて行った。
「ほらよ! さっさとしな」
 ドアを開けてくれたものの、後ろ手に縛られていては用を足せない。
「プリーズファスナー! マイファスナー、ダウンダウン! ジッパーダウン!」
 冰がズボンを見ながら必死に訴える。
「ハァ? 俺にズボンを下ろせってか?」
 『うんうん!』と大袈裟に首を縦に振っては仔犬のような顔付きをする。男は呆れたように眉を吊り上げたものの、確かにこのままでは手助けが必要と思ったのだろう。
「チッ! しゃーねえなー。ちょっとこっち向け」
 男がズボンを下ろしてやろうと屈み掛けた時だった。ドカッと鳩尾目掛けて蹴り上げた。冰は元々武術の方はからっきしだが、最近では紫月の実家の道場で稽古をつけてもらっていることもあり、早速に修行が役立ったわけである。その直後、背後をつけて来た紫月が打ち合わせ通りに男へと襲い掛かり、足蹴りだけで彼をその場に沈めてみせた。
 もう一人の見張りの方もこれ当然か、曹と鄧で無事に仕留め終えていた。まずはひと段落成功である。



◆22
「ふぅ、上手くいったな。冰君、よくやってくれた!」
「いえ、紫月さんこそさすがです! 足蹴りだけで仕留めちゃうんですから」
 曹と鄧もやって来て、四人はとにかく縄をなんとかすることにする。
「この兄ちゃんたちの話だと、報酬の日本刀があるとかってことだったよな。まずはそいつを探すか!」
「そうですね。では二手に分かれて見て回りましょうか」
 紫月と冰、曹と鄧の二人二組で探し始めると、それはすぐに見つかった。いかにもな桐箱が天窓からの月明かりに照らされて、暗闇の中で仄白く浮かび上がっている。
「これか……。箱、開けられるか?」
 縛られた後ろ手で協力しながら開けると、たいそう見事な日本刀が出てきた。
「暗くてよく分からねえが相当な代物っぽいな」
「まずはこれで縄を切ろう。名品かも知れねえけど、背に腹はかえられねえ」
 左右に分かれて慎重に鞘を抜くと、暗闇でもドキっとさせられるくらいの刃が姿を現した。
「曹先生、刃をこっちに向けてちょっと柄を押さえててください」
 紫月が縄を刃に当てて少しずつ切り込みを入れていく。後ろ向きだから時間は掛かったものの、しばらくすると縄が解れてなんとか外すことができた。
「よしゃ! 外れた!」
 その後順番に全員の縄を切り、やっとのことで自由が戻った。
 よくよく見れば日本刀の他にも貴重な骨董品などがゴロゴロと出てきた。
「こいつぁすごいな。古代中国の置物に」
「こちらは翡翠でできた麻雀牌ではありませんか!」
 どれも相当価値のありそうなものばかりだ。
「なるほど。優秦嬢が犯人だとすれば、これらを報酬として手渡すつもりだったということですか」
「おそらくは親父さんの楚大人が趣味で集めてきたものだろうな」
 つまり父親が収集してきた高価な品々を勝手に持ち出してきたとでもいうわけか。
「お父上の楚大人はこのことをご存知ないのか」
「十中八九知らねえだろうな。あの方は周直下を治めていた時も非常に温厚で、できたお人柄の御仁だった。ボスも信頼を置いていたし、実際娘の不祥事がなければ今もファミリーにとって心強い存在だっただろう」
 そんな彼がまたしても娘の悪事を知ったとすれば間違いなく心を痛めるはずだ。
「ライ、楚大人の現在の住処は分からないのですか?」
 鄧が訊く。
「香港に問い合わせれば容易に割れるだろうがな。それより今は奥方の無事を確かめる方が先だ。スマートフォンなどの連絡手段が取り上げられているということは、周風たちにもこの状況を知らせられん」
 既に深夜だ。今頃は風たちもとっくに接待の会食が済んで、こちらのことを捜しているだろう。
「ここが何処かも分かりませんしね。見張りの男たちの話から察するに、街外れであることは間違いないでしょうが」
 四人は大急ぎで美紅の行方を捜すことにした。ちょうどその時だった。美紅を連れたアジア人の男が現れて、一同は咄嗟に身構えた。



◆23
「お前さん……確か楚大人のところにいた……」
 曹にとっては見知った顔である。かつて美紅が襲われた事件の際、救出に関わった紫月も男の顔には見覚えがあった。
「貴様……よくも! 奥方を放せ!」
 曹がすかさず対峙を買って出たが、
「待って曹さん! 違うの。この方は私を助けてくださったのよ!」
 当の美紅に言われて、一同は大きく瞳を見開かされてしまった。男の方も既に曹らが拘束されていた縄を解いていることに驚いた様子だったが、風の側近で精鋭と言われる曹らのことだ、それも当然かと思ったようだ。男は洗いざらい非を認め、ここに至った経緯を詳しく話してよこした。

「……というわけなんだ。俺はこの通りどうしようもねえクズですが、姐様のお心意気に感銘を受けました。これよりは心を入れ替え、俺にできることはなんでもする心づもりです!」

 到底信じてはもらえないだろうと男は言ったが、美紅の口添えもあって、ひとまずは彼を信じることになった。
「経緯は分かった。それで、ここはいったい何処なんだ」
 曹が訊いたが、男の方も土地勘はまったくないらしく、優秦に連れられるままにここへやって来ただけのようだった。
「分かっているのは優秦の嬢さんがこの姐様を亡き者にしようとしているということだけです。おそらく今頃は嬢さんが周風老板に接触を試みている頃かと思われます」
 確かに美紅たちが劇場から戻らないことを知った風たちは、今頃大騒ぎになっていることだろう。早速に捜索に乗り出しているに違いない。
「間もなく嬢さんの手配した輩がここを襲撃にやって来るはずです。皆さんが窮地に陥っているところへ嬢さんがやって来て、嬢さんの口利きでそいつらをとめたということにするっていう計画だと聞いています」
 その中で手は尽くしたが美紅だけは助けられなかったとするのが優秦の企みのようだ。
「姐様以外の方々を助ければ風老板もある程度納得されて、嬢さんに恩ができるだろうと思っているようで……。まあ俺は元々この姐様を殺すつもりはなく、二人で密かに逃げちまおうなんて考えていたわけですが……」
 それも今は間違っていたと深く反省し、皆を無事に風らの元へ帰す為にできることは何でもすると男は言った。
「なるほど……。優秦の考えそうなことだ。仮に上手く事が運んだとしても、周風の心が優秦に向くわけもあるまいに!」
 曹は舌打ったが、とにかくは一刻も早くここから脱出すべきだろう。



◆24
「ところで俺たちのスマートフォンや身に付けていた貴金属などが取り上げられたようだが、お前さんは隠し場所を知らないか?」
 風たちへの連絡手段さえゲットできればなんとかなりそうだ。
「それなんですが……皆さんから貴金属を取り上げた後、通信を遮断するアタッシュケースに入れて嬢さんが持って行きました。俺の聞いた話では、ここで雇ったヨーロッパ人たちへの報酬にすると言ってました」
「は、抜かりがねえことで」
 だが、優秦が持って行ってしまったということは、通信手段が無いことに変わりはない。
「もうすぐ夜が明けるな。とにかく外へ出よう。どこかで大きな通りへ出られれば車を拾えるかも知れん」
 一刻も早くそうすべきだが、男には美紅の体調が気に掛かっていた。
「今は冬の最中です。明け方は特に冷える……。無理をして長距離を歩けば姐様のお身体が心配です」
 今の時点で美紅の懐妊を知っているのはこの男だけだ。亭主である風にさえ伝えていないのだから、曹たちにとっては首を傾げさせられても当然だろう。確かに女性である美紅には少々酷な道のりかも知れないが、彼女は拳法も嗜んでいるし、普通の女性よりは体力もあるはず、と皆そう思っているのだ。
 ――と、ここで勘のいい曹が驚いたように瞳を見開いた。
「奥方……もしかして……。風老板はこのことをご存知で……?」
 美紅は頬を朱に染めながら恥ずかしそうにうつむいては、
「いいえ、それはまだ……」
 ヤワヤワと首を横に振ってみせる。
「このことって……?」
 何も分からない紫月と冰は互いを見つめながら『なになに?』といった表情でいる。一方、医師である鄧には察しがついたようだ。
「もしかしておめでたでしょうか?」
「え!?」
「マジッ!?」
 冰と紫月が同時にすっとんきょうな声を上げた。
「ええ、あの……実はそうなの。私もウィーンに着いてから確信したばかりで……。あの人にもまだ言っていなくて」
 おおかた風の仕事が片付いてから報告するつもりでいたのだろう。この姐様の性質からすれば、自分のことよりも亭主の仕事を優先に気遣っても不思議はない。
 側で皆の様子を見ていた男も申し訳なさそうにしょぼくれた。
「すまねえ姐様……。本当ならご主人に一番に報告してしたかったでしょうに」
 自分が殺すだの犯すだのと脅したことで、それを言わざるを得なくしてしまったと、えらく恐縮している。曹らにとってもそれは同じ気持ちといったところだ。



◆25
「そう……でしたか。おめでとうございます! 風老板もお慶びになられるでしょう!」
 自分たちが先に聞いてしまったことは申し訳ないと思えども、めでたいことに変わりはない。
「だが……そうだな。この時期、外の冷え込みは堪える。あまり無理はできんな」
 懐妊が分かったばかりならば二、三ヶ月といったところか。身体的にも大事な時期だ。いかに医師の鄧がついているといえども、この寒さの中、しかも薄着のドレス姿で歩かせるのは危険だ。
「では二手に分かれるか。ここに残って奥方を守る組と外へ出て風老板たちへ連絡する係とに」
「でしたら俺が連絡係を引き受けます。俺は武術に長けているとはいえませんし、お姉様の側には強い方がいた方がいいので」
 すかさず冰がその役目を買って出る。
「俺も一緒に行こう。美紅さんには曹さんと鄧先生がついててあげてください」
 紫月も冰と共に行くと言う。
「そうだな、奥方のご体調になにかあった時の為に鄧には残ってもらった方がいいだろう。ただ――俺たちは武器を持っていない。日本刀を扱えるのは紫月君だけだし、俺が冰君と共に連絡係になった方が良くないか?」
 曹が言うと、楚の部下だった男が、それだったら自分が連絡係を引き受けると申し出た。
「うむ――、だがお前さんは今でも優秦が仲間だと思っている唯一の人間だ。彼女がここへ乗り込んで来た時の交渉役に打ってつけだ」
 むろんそれは道理でもあるが、曹にとってみれば冰は自らの主人である周風の弟の大事な伴侶だ。とりあえず味方になったとはいえ、万が一にもこの香港からやって来た男がどこかで裏切らないという確証もない。彼を信用しないとまでは言わないが、冰と二人きりにして絶対的に信頼が置けるかといえば不安が残る。やはり俺が行くべきだろうと曹は言った。
「――それがベストかも知れませんね。私も頼りないながら、多少気功術の心得はあります。対戦のお手伝いくらいはできるでしょう」
 鄧はしれっとそんなことを言ったが、その実力を知っている曹は謙遜するなと言って笑った。
「じゃあとりあえず……俺たちがいた隣の棟の地下室に隠れるってのはどうです? あそこなら中から鍵がかけられるんで、外から侵入される心配はないはずです」
 香港から来た男が言う。
「そうだな……。ひとまずそれしかあるまい」
 ひとつ憂いがあるとすれば、地下に潜って万が一火でも放たれたらまずい。逃げ場が無くなるからだ。かといってこのまま地上に居れば、乱闘に巻き込まれた際、危険なのは確かだ。
 どうすべきかと考えていた時だ。なんだか外が騒がしくなった気がして窓からそっと覗くと、そこには驚くような光景が待っていて誰もが眉をひそめさせられることとなった。
「おいおいおい……何だ、ありゃあ……」
「バイクの集団……ですね。暴走族みたいな雰囲気ですが……」
 ザッと三十台はいるだろうか、いやそれ以上か。
「まさか嬢さんがもうチンピラ連中を差し向けてよこしたってのか……」
 こうなったら猶予はない。



◆26
「あれが嬢さんの雇ったヤツらなら、俺とは一応仲間ということになります。俺が交渉に出てみます!」
 男は一旦美紅を地下室に避難させて、表向きは既に片付けた、つまり葬ったということにすればいいのではと言った。それならば敵の目が美紅に向くこともなかろう。
 あとはここにいる男連中で彼らと対峙しなければならないが、美紅に手を出されるよりは数段マシだ。
「分かった。だがお前さん、こっちの言葉は話せるのか?」
 ここはドイツ語圏だ。香港在住の彼に交渉ができるかは不安なところだ。
「そいつぁ無理ですけど、英語だったら……。向こうも中には英語が分かるヤツもいるでしょうし、お互いに英語でやり取りすればなんとかなるでしょう。それに案外片言の方が余計なことを言わずに済むでしょうし」
「そうだな……。ではそれでいってみよう。ところでお前さん、なんと呼べばいい」
 曹が訊くと、
「自分は楊宇《ヤン ユー》といいます」
 と名乗った。
「分かった。では楊宇、頼んだぞ」
「任せてください。曹さんたちはこのままここで隠れていてください!」
 美紅には冰が付き添って隣の棟へと急ぐ。紫月は日本刀を携えて待機、鄧も通訳の為にこのまま残ることとなった。敵集団の会話を皆に伝える為だ。
 今頃、優秦は風らの前に姿を現している頃だろうか。白々しく『アタシが交渉してあげる』などとほざいているかも知れない。風が言葉通り鵜呑みにするとは思えないが、とにかくは今この状況を乗り切るしかない。楊宇が味方についてくれたことで少しの光明はさしたものの、敵の数から考えれば苦境に違いない。
 幸い冰と美紅を避難させた隣の棟にはこの建物の中を通らなければ辿り着けない造りになっている。
「つまり、ここを死守すれば奥方たちはとりあえず安泰だろう」
「では今の内に隣の棟へ通じる出入り口を家具などで塞いでおきましょう」
 鄧の案に紫月も手伝って、二人でテーブルやソファなどを動かし簡易的な防護壁をこしらえる。
「楊宇の交渉が上手くいかなかった時は確実に乱闘となるだろう。その際は俺たちも外へ出てこの建物には近付けさせんようにせんと!」
「そうですね。最終防衛ラインとして一人はここのドア付近に残った方が無難でしょう」
「ああ……そうだな」
「だったら俺と曹先生が敵陣に斬り込むとして、鄧先生はここで防波堤の役をお願いできますか?」
「ええ、それはもちろんですが……」
 本来であれば鐘崎組の姐という立場の紫月を守る為に曹と鄧が特攻隊となるのが望ましいところだが、唯一の武器である日本刀を扱えるのは紫月だけだ。緊急事態であるし、今は立場云々よりも突破に全力を注ぐべきであろう。とはいえ、紫月を危険な目に遭わせるのは論外だ。曹と鄧にとっては、紫月もまた冰や美紅同様、護るべき主人の伴侶という心づもりでいるからだ。
 そんな二人の気遣いを感じたのだろうか、紫月はニッと不敵な笑みを見せながら言った。
「先生方の気持ちは有り難えけど、心配はいらねって! ここは三人で力を合わせて乗り切ろうぜ!」
「紫月君……」
「そうだな。紫月君の言う通りだ。何としても守り抜くぞ!」
 多勢に無勢、嵐の前の一瞬の静けさを眼前に誰もが身を引き締めるのだった。



◆27
 一方、その少し前のことだ。周兄弟の方でもオペラを観に行った曹らが帰って来ないことで騒ぎになっていた。ホテルのロビーに降りてフロントでチェックインの有無を確認したが、未だ誰も戻って来た形跡はない。
 時刻は既に日付けをまたいでいる。劇場はとっくに閉まっているし、彼ら全員の電話が繋がらないということは、非常事態を意味する。精鋭の曹が付いていながら連絡が取れないというからにはそれなりの理由があるはずだ。
「ヤツらを見た者がいないかどうか確かめたくても術がない。全員が一気に消えて連絡も取れないとなれば、拉致以外に考えられないが……」
「問題は敵の正体だ。兄貴、心当たりがあるか?」
「取り立てて思い付かんな。正直なところヨーロッパに敵を作った覚えもない」
「ふむ……。誰かこっちで頼りになりそうな人物がいるか……」
 警察に助力を依頼するのも手だが、例え異国といえども裏社会の人間と知って親身に協力してくれるかは怪しいところだ。周が考え込んでいると、
「周風? 周風じゃないの!」
 突如女が声を掛けてきて、全員で声の主を振り返った。
「お……前! 楚優秦……」
 風はもとより誰もが驚きの表情で互いを見やる。
「なんて偶然かしら! あなたとこんなところで会うなんて」
 優秦の方は白々しいくらいに浮かれ気味だ。
「まさかウィーンにいらっしゃるなんて驚きだわ。観光か何かかしら? それともお仕事かしらね?」
「お前こそ何故ここへ……? 住まいはフランスじゃなかったか?」
「あら、アタシたちは今このウィーンに住んでいるのよ」
 ご存知なかったのかしらと笑う。
「ウィーンに住んでいるだと? では父上の楚光順も一緒か?」
 この娘については論外だが、父親の光順は信頼に値する人物だ。この土地に住んでいるというのなら、もしかしたら何か助力が得られるかも知れない。
「お父上にお会いしたい。連絡を取りたいんだが」
 もとよりこの女に事情を打ち明ける気など更々ないので、頼るならば父親のみが賢明だ。だが、優秦はしれっと笑ってみせた。
「残念だけどパパは不在よ。今アメリカに旅行中なの」
 大嘘である。光順は家にいたが、優秦の方が女友達と旅行に行くと偽って、ここ数日はホテル暮らしをしていたのだ。父の光順は宝飾市が開催される間、ウィーンにやって来る周風と娘の優秦を会わせまいと家族旅行に誘ったのだが、彼女の方からその期間は友人と旅に出掛けると嘘をついて、父親を騙したのだ。
 当然、光順はホッと胸を撫で下ろし、これで何事もなく済むと思っているはずだ。まさか娘が嘘をついてとんでもない企てを犯しているなどとは思うはずもなかった。



◆28
「旅行中と――な」
 それならば諦めるしかない。
「そうか。では我々はこれで失礼する」
 早々に立ち去ろうとした周風を優秦は慌てて引き止めた。
「あら、随分じゃない? そんなにそっけなくしなくてもいいじゃないの。それよりあなたたちこそ皆んなで怖い顔して何かあったの? 曹先生の姿が見えないけど、いつもあなたにビッタリなのに珍しいこと」
 もう深夜だというのに、こんなロビーなどで何をしているの? と、相変わらずに図太い神経の女だ。
「バーで飲んでいただけだ。曹は部屋に戻っている」
「ふぅん? あなたを置いて先に部屋へ戻っちゃうなんて曹先生も薄情ね」
 優秦は何とかして会話を引き延ばしたい素振りでいたが、正直なところ構っている場合ではない。
「用があるので失礼する」
 風はきっぱりと強めの口調でそれだけ告げると、もう彼女を振り返ることなくその場を後にした。周や鐘崎以下、皆も同様で、誰一人として愛想の笑顔すら見せずに立ち去った。
「ちょっと風……!」
 呼び止めたが振り返る者はいなかった。
「なによ! あの態度! 失礼にもほどがあるわ……!」
 いくら事件を起こしたからといって、もうあれから二年以上も経っている。自分たちはファミリーも抜けさせられてヨーロッパという遠い地に移り住んだわけだし、制裁ならもう十分だと思うのだ。
「……ッ! せっかくこのアタシが力を貸してやろうと思ったのに! 曹先生は部屋に戻っているですって? 嘘をつくのも大概にしろってのよ!」
 曹は美紅らと共に行方不明になっているというのに白々しい――と、憤りが隠せない。
「いいわ、そっちがその気ならもう曹先生たちのことだって助けてあげないんだから! 今頃彼らが何処にいるかの見当さえつけられないくせしてさ! せいぜいこのアタシを蔑ろにしたことを後悔するといいわ!」
 優秦はスマートフォンを取り出すとすぐに地元の不良グループに指示を出した。
「見てなさい。この界隈で悪名高い暴走グループに襲撃させてやるんだから! いくら曹先生がデキる男だからって、あれだけの大人数に襲われれば勝ち目なんかないんだからね! 後で泣いたって遅いわよ!」
 こうして暴走グループが曹らの元へと集結することになってしまったのだった。
「老板、女をつけます。こんなところで偶然に出くわすなど胡散臭いにもほどがあります。もしかしたら今回の事件の裏で手を引いているのはあの女かも知れません」
 李が名乗りを上げる。
「そうだな。偶然にしては出来過ぎている。楚優秦の仕業の線が濃厚だ」
 何も手掛かりがない以上、皆でここにいても解決しない。
「では李と共に私も同行しましょう。ドイツ語が必要と思われます」
 鄧の兄である海もそう言ってくれるので、周兄弟はひとまず彼らに託すこととした。



◆29
 一方、曹らの方では優秦が差し向けた暴走グループに囲まれている真っ最中であった。打ち合わせ通り、美紅と冰には隣の棟の地下室に身を隠してもらうことして、優秦にそそのかされて香港からやって来た楊宇が交渉役として暴走グループの中へと向かっていった。曹と鄧、紫月の三人は建物内で様子を窺いながら待機だ。
「それにしてもすげえ数だな。つか、ヨーロッパにも暴走族がいるってことの方が驚きだけど」
 紫月がヘンな感心をしている。
「そうですね。私も驚きました。楊宇は上手くやってくれるでしょうか……」
 鄧も半信半疑で雨戸の隙間から様子を窺っている。
「ヤツが交渉に失敗した際は間違いなく乱闘になるだろう。こっちは三人、楊宇を入れても四人だ。ヤツも腕は悪くないから頼りになるとは思うが、それにしても敵はザッと三十人を越す大群だ。どう戦う」
 こちらが銃でも携帯していれば心強いところだが、今ある武器といえば報酬用の日本刀のみだ。しかも扱えるのは紫月唯一人。よほど上手く立ち回らなければ勝機は薄い。
「先生たち、バイクの運転はどうッスか?」
 紫月が訊く。
「免許はありますからね。一応起動のメカニズムは分かりますが」
 鄧は動かすこと自体はできるようだが、実際に数度しか乗ったことがなく自信満々とはいえないという。
「曹先生は?」
「俺はオーケーだぞ。なかなかにいいマシーンに乗ってるヤツもいるし、転がしてみるのも悪くないな。おそらく楊宇のヤツも運転はイケるはずだ。俺の記憶では楚光順の組織じゃ香港のスラム化した地域で不良だった連中を拾い上げて、彼が根気よく心血を注ぎ更生させたヤツらが多かったと聞いている。それこそ族上がりの者もいたはずだ」
 楊宇は二年前の事件の時も最後まで足掻いた凄腕だったし、周風が一騎打ちをした結果、ようやく倒せた男だったという記憶がある。腕っ節も相当なものだし、体格も立派だ。おそらく上手く転がせるのではと曹は言う。
「んー、そんじゃ交渉決裂したら先ずはバイクを奪うか。曹先生、俺をケツに乗せて走れる?」
「朝飯前だ」
「だったら俺がバイクを奪う。そしたら曹先生に運転任せるから、俺をケツに乗せてヤツらを撹乱するように走ってくれ。なるべく鞘から抜かずに峰打ちで済ませるようにするけど、万が一の時はコイツでタイヤを掻っ捌く」
 あんなにいいマシーンに傷を付けるのはもったいねえ話だけどなと笑いながら、紫月は日本刀を握り締めてうなずいた。
「すごい作戦ですね。では私も二人の足を引っ張らないよう頑張るとします」
 鄧が感心顔をしていると、曹の方ではまたもや謙遜するなと言って笑った。
「何だか子供の頃に受けていた戦闘訓練を思い出すな。周風と焔君と一緒にえれえ目に遭ったもんだ」
「ああ、それって遼も参加してた夏休みの合宿ッスか?」
「そう! そういえば遼二とも一緒だったな」
 毎年夏休みと冬休みになると熱帯雨林や極寒の地で行われていたという裏の世界の子供たちの情操教育だ。周が幼い頃にはその訓練のあまりの過酷さに、もうやりたくないと言って父の隼にぶっ飛ばされたという例の訓練である。



◆30
「曹先生も参加されてたんスね」
「ああ。俺は幼い頃から一生周風の下で生きていくと決めていたからな」
「そうだったんスね。俺も遼に聞きかじっただけですけど、すげえ厳しい訓練だったって。皆んなすげえな!」
 そんな話をしていると、窓の外では何だか怪しい雲行きになってきたようだ。楊宇が一生懸命に交渉している素振りが窺えたが、相手は方々でバイクをふかし始めて、次第に爆音と化してゆく。威嚇と取って間違いない。
「どうやら交渉は失敗のようですね」
 鄧が窓を少し開けて聞き耳を立てると、相手のリーダーらしき男が大声でこう怒鳴っているのが聞こえてきた。
「はん! 状況が変わったって言ってんのが聞こえねえか! 女から指示が来て、捕らえた連中を皆殺しにして構わねえってことになったんだ!」
 相手も興奮しているのか、言語はドイツ語だ。楊宇が懸命に英語で交渉しているのも聞こえるが、実のところあまり上手く通じていない様子だ。
「敵は英語に疎いと思われますね。状況が変わったから、私たちを皆殺しにしていいと女が言ったようですよ」
「皆殺しだ? 優秦のヤツ、もしかして周風たちと会ったのか?」
 先程聞いた楊宇の話によると、優秦の口利きで美紅以外の四人は救ってやるという計画のはずだった。
「では女が偶然を装って風老板たちに接触を試みたということでしょうか。それで風老板から邪険にされた」
「で、ブチ切れて俺たちもろとも葬ろうってか?」
 相変わらずに馬鹿な女だと曹は苦笑いだ。優秦のような輩では、例え紫月でも改心に導くことは難しいかも知れない。
「……ったく! とことん腐っていやがるな。あれが楚光順の娘だとは思えん出来の悪さだ」
 父の光順は温厚で賢く、忠義にも厚く人望も高い人物だというのに、娘は正反対の極悪非道者だ。
「本当の娘じゃないんじゃねえかと疑いたくもなるってくらいの代物だな」
「確かに。楚大人はもしかしたら甘やかして育ててしまわれたのかも知れませんが、医者の興味としては一度DNA鑑定で本当の親娘かどうか確かめたくもなるってものです」
「全くだ!」
 と、いよいよ笑っていられる猶予はなさそうだ。交渉に出向いていた楊宇が血相を変えてこちらへと逃げ帰って来た。その後を面白がるようにバイクの集団が追い掛け回している。
「よっしゃ! こっちも始めっとすっか!」
 先ずは紫月が日本刀を携えて楊宇の加勢へと走り出していく。
「ライ、バイクから引き摺り下ろした男たちの処理は私が引き受けます。あなたは紫月君が動きやすように集中してください!」
「了解! 任せたぞ! なにが何でも奥方たちのいる隣の棟には近付けさせるな! ここで食い止めるんだ!」
「承知!」
 キラりと二人の瞳が鈍色を讃えて据わる。普段は温厚な鄧の視線も今や獲物を狩る野生動物の如く鋭さを増していく。多勢に無勢、一同は乾坤一擲の戦へと肝を据えるのだった。



◆31
 先ずは特攻隊の紫月が楊宇を庇うように軍団の輪の中に突っ込んで静止、一度だけ鞘から刃を抜いて三百六十度周囲のバイクに乗った男たちを峰打ちで叩き落とす。と同時に視覚では追えないほどの速さで刃を鞘へと戻す。月明かりに照らされてほんの一瞬だけ長刃の刃先が煌めいたと思った瞬間には、既に刃は鞘へと収められていた。
 見ていた者たちにとっては何がどうなったのか理解できないほどの早技である。しかも叫ぶでもなければ派手な身振りひとつない、まさに静の動きそのものだ。
 案の定、ポカンと大口を開けて硬直状態の敵から手際良くバイクを乗っ取ることに成功、すぐさま曹が運転を引き受けた。
 そのまま二人乗りで軍団の輪の中へ突っ込みながら、手当たり次第に紫月が峰打ちで気絶させていく。今度は鞘から抜かずに急所目掛けてバイクから叩き落とすことのみに専念する。上手く当てられずに転がり落ちただけの男たちについては、鄧が気功術で留めを刺していく。この大群を前にして、実に鮮やかな連携といえた。
 一方、乗っていた敵が気を失って投げ出されたバイクを楊宇がすかさず乗っ取ったのを見て、曹はキラりと瞳を輝かせた。
「思った通りだ! 奴さん、バイクの運転もお手のものだったな」
 なかなかにキレのある操縦で周囲を蹴散らしている。体格も立派なので大型のバイクにも飲まれていないし、運転も非常に巧みといえる。その様子を見てとった紫月も『よし!』というようにして次なる作戦を曹に告げた。
「先生、一旦加速してヤツらの周りを滑走してくれ! 楊宇さんとは逆回りに走って近くまで寄せてもらえる? すれ違い様にあっちに乗り移る!」
「……ッ!?  乗り移るだと!? 」
「心配ねえ! 楊宇さんの腕なら転倒しねえはずだ!」
 紫月は言うと同時に立ち上がって日本刀を構えた。

(何か作戦があるのか……?)

 曹は紫月の毅然とした様子から策を仕掛けようとしている雰囲気を感じ取ってか、とにかくは言う通りに従うことに決めた。
 バイクは曹と楊宇で敵集団を取り囲むようにスピードを上げていく。曹は時計回り、楊宇は逆回りだ。円を描いて走れば互いがすれ違う瞬間がやってくることとなる。
「先生、前に屈んで! 申し訳ないが踏み台として肩貸してもらうぜ!」
「分かった! 遠慮なくやってくれ!」
 曹が前屈みになったと同時にその背中に足を掛けて体勢を整える。その状態でしばし滑走すれば、まるで獅子がタテガミを靡かせて悠久の大地を駆け巡るかのような錯覚を起こさせるほどの絵図が浮かび上がる。それまで爆音を撒き散らして楊宇を追い掛け回していた連中らも、呆気にとられたようにして目を丸くしている。次第に操縦することも忘れたようにスピードをゆるめて硬直状態に陥る中、前からやって来た楊宇のバイクとすれ違う瞬間を迎えた。
「楊宇! 彼を受け止めろ!」
 曹が広東語でそう叫ぶ。
「え!? あ、はい!」
 バイクの後ろで立ち上がっている紫月を目にして楊宇も咄嗟に状況を理解した。

「いくぜ! 名付けて”飛天”改だ!」




◆32
 ”飛天”とはその昔、周と鐘崎と共に編み出した独自の技だ。今は助走こそつけられないものの、肩を踏み台にして空へと舞い上がる動きは同じ原理といえる。
 楊宇とすれ違う瞬間に紫月は弾みをつけて天を目指しジャンプした。飛び移りざま再び鞘から刃を抜くと、居合いの技で近くにいた敵へ峰打ちを食らわす。二、三人を叩き落としたと同時にハンドルを握る楊宇とは尻を突き合わせる形で後部座席へと着地、その一瞬に体重を消すタイミングを見事に見極めた。お陰で転倒もなく、受け止める側の楊宇も思っていたよりも遥かに軽い衝撃で済んだようだ。溜め息が漏れるほどの美しい所作をもってゆっくりと刃を鞘に納めた時には、まるで時が止まったかのような静寂に包まれてしまった。
 時間的にいえばほんの一瞬の出来事だが、見ていた者たちにとってはスローモーションのように長く感じられたことだろう。
 紫月を無事に受け止めた楊宇がゆっくりと減速し、バイクを停止させる。
 敵の暴走グループはまだ半数くらいが無傷なままで残っていたが、今の華麗な技の前に大口を開けて硬直状態だ。襲い掛かるのも忘れて、皆唖然としたようにあんぐり顔で立ち尽くしてしまった。
「よっしゃ、とりま成功のようだな。鄧先生、通訳お願いできますか?」
 紫月に呼ばれて鄧が通訳を買って出た。



◇    ◇    ◇



「さて――と。あんたらをここへよこした女だが、残念ながらついさっき俺たちの仲間が取り押さえた。つまりあんたらの計画は失敗に終わったってことだ」
 紫月の言った通りに鄧がドイツ語へと通訳していく。
「もうあんたたちに報酬を払ってくれるボスはいねえ。そこで相談だ。俺たちは別にあんたらに恨みはねえ。このままここで警察に突き出すことも可能だが、俺たちはいっときの旅行者だ。そんなことをしたところで何の得にも損にもなりゃしねえ。あんたらがおとなしく引き上げてくれるってんなら止めはしねえ」
 どうする? と、紫月は皆を見渡した。
 次第にザワザワとし出しながらも男たちは戸惑い顔だ。
「待ってくれ……計画が潰れたってどういうことだ……」
 さすがに敵わないと踏んだのか、意外にも素直に話し合いに応じる姿勢を見せる。紫月は説明を続けた。
「あんたらを雇ったヤツだが、そいつはアジア人の女だな?」
「……そうだが」
「彼女とはどういう仲なんだ?」
「どうって……いつも溜まり場にしてるバーで知り合っただけだ。あの女、自分の親父はチャイニーズマフィアだとかって抜かしてて……いい金になるバイトがあるから乗らねえかと持ち掛けてきやがったんだ」
 男たちの言い分を鄧がニュアンスそのままに日本語へと訳して聞かせる。普段の鄧の話し方からすればまるで真逆のぞんざいな口ぶりに、曹などは思わず吹いてしまいそうにさせられたようだ。つまり、単に訳すだけなら『この方たちがいつも溜まり場にしているバーで知り合ったようですよ。なんでも彼女は自分の父がチャイニーズマフィアであると自慢していたようで、いい金になるバイトがあるので話に乗らないかと持ち掛けられたそうです』とでも言えば充分なのだが、わざわざ彼らの口調までそっくりにマネてよこすものだから、そこまで律儀に訳さずともいいのではと思ってしまうわけだった。察するに紫月の口ぶりも同じニュアンスで現地の彼らに伝えているに違いない。

(鄧浩のヤツ、意外とユーモアがあるじゃねえか。ってよりも、面白がってやがるなコイツ……)

 笑いを堪える曹の傍らで、だが当の本人は至って大真面目のようだ。紫月もまた、普段の鄧とのギャップに顔がゆるみそうになるのを堪えて先を続けた。



◆33
「な、なるほどね。で、女の名前は?」
「バーじゃユリアとか呼ばれてたが、本名は知らねえ。ホントか嘘か知らねえが、親父がマフィアだからってえらく高飛車だったぜ。ただ……実際羽ぶりも良くて、俺らも何度か奢ってもらった」
 やはりか。愛称を使っていても素性を聞けば楚優秦に間違いないだろう。
「それで俺たちを襲撃することになった?」
「そうだ……。いい金になるバイトがあるから乗らねえかって。俺たちも暇だったし、面白そうなんで引き受けたんだ。だがまさかこんなにデキる相手だなんて聞いてなかったっつーか……」
 鄧が相変わらずにそんな訳し方をするものだから、紫月も曹も『本当にそんなことを言ってるのか?』と、思わず顔の筋肉がピクピクと動いてしまいそうになり、ここで吹いてはさすがに相手にも失礼だろうと笑いを堪えるから、傍目から見ればまさに変顔になっていそうな勢いだ。紫月は咳き込みそうになりながらも、極力真面目を装って話を続けた。
「……ゴホッ……と、失礼。あー、その……なんだ。お褒めに与って光栄だがね。それで報酬は一人いくらの約束だったんだ?」
 それは日本円にして一人頭二、三万という額だったそうだ。
「俺たちは好きに暴れていいって話だったし、それで小遣い稼ぎになるんならと思ってよー……。ところがいざ蓋を開けてみりゃあ、バケモノみてえに強えヤツらが相手って……。ったく、冗談キツいってのよ。こちとら面目丸潰れだ」
 口ぶりはもちろんのこと、少々ふてくされた表情まで再現する鄧の通訳に、ますます変顔に拍車が掛かってしまう紫月であった。
「ハ、ハハ……。そいつぁ恐縮だ。だがまあ、さっきも言った通り、女はウチの仲間が取り押さえた。あんたらの報酬はチャラになっちまったが、警察に差し出されるよりはマシだろ? このまま引き上げてくれるってんなら今夜のことは無かったことにしてもいい。どうだ?」
 男たちにとっては選択肢など決まっている。報酬が貰えなくなったことは腹立たしいが、その上警察に突き出されては堪ったものじゃない。おとなしく引き下がるしかない。
 もう一つ選択肢があるとすれば、ここで再度やり合って紫月らを潰すという道も残ってはいるが、十中八九惨敗するのは目に見えている。これ以上マシーンを傷付けたり、怪我人が出ない内に退散するが賢明だ。
「……正直アンタらには勝てる気がしねえ。ってよりも、今となってみりゃ……あの女にいいように踊らされたことに腹が立って仕方ねえ」
 男たちにしてみれば、彼女がどういった目的でこの紫月らを潰したいのかが分からないようだったが、これまでの対戦や会話を通して、思っていたのとはえらく印象が違ったのだろう。おそらくは女のくだらない我が侭などで、自分たちは単に都合よく使われただけだということを悟ったようだった。



◆34
「……分かった。アンタの言う通り撤収しよう」
 存外素直に引き上げる意を示してくれた。
「そっか。ご理解に感謝だ」
 紫月はニッと微笑んだ。それじゃあ、と言ってヒラヒラと手を振ったが、男たちは話し足りないといった顔つきでいる。
「なぁ、アンタ……。アンタもあの女と同じ中国人か? すげえ技持ってるのな。あんなパフォーマンス初めて見たぜ」
 すっかり感心して、逆に興味津々の様子だ。
「アンタら、できることならここに残って俺らのグループに入って欲しいくらいだぜ!」
 そうだそうだと皆で顔を見合わせながら敬服の視線で見つめてくる。その雰囲気をそのままに鄧がそっくりなゼスチャーまで携えて訳してくれるのに、さすがに笑いを堪えるのも限界といった紫月と曹であった。
「はは、有り難えが俺たちは単なる旅行者だ。気持ちだけ貰っとくぜ!」
 紫月が笑いをごまかしがてらニヤっと笑うと、その言葉だけでも感激だというようにして、全員が瞳を輝かせた。まるで可愛い仔犬の集団がちぎれんばかりに尻尾を振ってお座りしている図が思い浮かんでしまうほどだ。

(鄧浩、頼むからこの状況まで通訳してくれるなよ!)

 鄧のことだ。『皆さんが仔犬のような顔つきで尻尾を振っていますよー』などと説明されたらそれこそ腹筋崩壊につながると、曹は心の中で密かに叫ぶ。
 そんなことは露知らずの暴走グループは、名残惜しそうにしながらも素直に引き上げて行ったのだった。
 その後ろ姿を見送りながらホッと肩の荷を下ろす。
「おいコラ、鄧浩! 笑かすんじゃねえ!」
 遠ざかって行く一団の姿が小さくなったところで、曹がゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。
「はい――? 私、何かおかしなことをしましたか?」
 コロリといつもの口調へと戻った鄧に、紫月はもちろんのこと、楊宇までもが思わず吹きそうになるのを必死で堪え、皆一様に変顔になったのを見合っては、ついに大爆笑と相成った。何がそんなに可笑しいのかと、分かっていないのは鄧だけだ。ポカンと肩をすくめながら不思議そうに目をパチクリとさせている。
「や、すんません鄧先生。先生の通訳があんまりにも正確っつか、上手いもんで……きっとヤツらの口調そのまんまなんだろなって思いながらも、ここで笑っちゃいけねえって思って堪えるのに苦労しましたよ」
 ププーっと腹を抱えながら紫月が暴露する。
「おや、そうでしたか? それは失礼。なるべく遜色なくお伝えしなければと思ったものですから」
「遜色なくって……お前なぁ! はー、堪らん! もう勘弁してくれ。腹捩れそうだ! 鄧浩、お前さんがそんなユーモア男だとは思わなかったぜ!」
 文字通り腹を押さえながら笑い転げる曹を横目に鄧は相変わらずの不思議顔――そんな様子にまたもや皆で大爆笑となったのだった。



◆35
「はー、けどまあ何とか一件落着だな。皆んな、お疲れさんー」
 紫月がホッとひと息ついた脇から、
「と、ところで兄さん……あいつらを帰す前に携帯借りた方が良かったんじゃないですかい?」
 楊宇に言われて一同はポカンと顔を見合わせた。
「あー、そうね。けど多分……今頃は遼たちもこっちに向かってんじゃね?」
 紫月はポリポリと頭を掻きながら舌を出してみせた。優秦が風と会ったとすれば、源次郎や李らが追尾しているはずである。彼らのような精鋭がただで帰すわけがないからだ。それ以前に借りた携帯から周兄弟らに発信すれば履歴が残り、素性に繋がらないとは限らない。如何に異国とはいえ、マフィアトップのシークレットナンバーを安易に暴露するのは言語道断、実際そちらの方が面倒といえるわけだ。
「おそらくだが――もうちょいで迎えが来るはずさ」
 とにかくは隣の棟に避難している冰と美紅に落ち合うことにして、一同は迎えが来るのを待った。
「それにしても紫月君の技はすごかったですね! 私も焔老板から話には聞いていましたが、実際目の当たりにして驚いてしまったよ」
 あんなことが実際にできるものなのかと、鄧がほとほと感心顔で言う。
「人間の身体構造から考えても驚異的だ。体幹がどうなっているのか実に興味深いですよ。汐留に帰ったら是非とも研究させて欲しいくらい!」
 さすがに医者である。考えることが常人とは一味違うのだろうが、まるで少年のようなワクワクとした顔でそう言われると、先程までの通訳ぶりが思い出されてまたもや吹きそうにさせられる。
「いや、何ちゅーか、上手くいくかは正直賭けだったんスけどね。失敗しても地面に飛び降りりゃいいだけだし、一か八かでやってみたんだけど、曹先生と楊宇さんの運転の腕が最高だったから!」
 だから成功したのだと言う。
「それよか俺は鄧先生のユーモアに参っちゃいましたよ! もうあの通訳ったら……! 曹先生じゃないっスけど、いつ吹き出しちまうかって堪えるのが大変だったし」
 紫月が思い出し笑いをすると同時に曹も同じくと言って腹を抱えた。
「いつもの鄧浩からは考えられん言い草だったからな。こんな時に笑かすんじゃねえと、平静を装うのに苦労させられたぜ!」
「おやおや、そうでしたか。これは失礼」
 しれっと鄧が言ったのに、また笑わされる。
「しかし……とにかく丸く治ってくれて良かった。鄧浩の言うように俺も紫月君の技には驚かされたぜ! あんなダイナミックな芸当を咄嗟にやってのけるとはさすがに鐘崎組の姐さんだ。あの連中もいっぺんでおとなしくなっちまった」
「ええ、本当ですね」
 そんな会話を横目に楊宇も感心顔だ。
「俺も……兄さんがこっちに飛び移って来るって思った時は度肝抜かれましたぜ!」
 それこそ先程の暴走グループの面々さながら敬服と憧れのような眼差しで瞳を輝かせている。
 皆に持ち上げられて、紫月はポリポリと頭を掻きながらも、照れ臭そうに笑ってみせた。



◆36
「まあアレだよね。今回は偶然にもこの日本刀が手に入ったってのが大きかったスよね。実は以前、ウチの組に暴走族の鎮圧に手を貸してくれって依頼が来たことがあったんですよ。そん時に遼と組の若い奴らと一緒に乗り込んで行ったんですけど、さっきと同じようなパフォーマンスを披露してね。そしたら族のヤツらがおとなしくなってくれて、鎮圧はあっけなく成功したんです。ヘンな話ですが、その後は一気に和気藹々になってね。ウチん組に入りてえって言い出すヤツまで出てくる始末で」
 例え国は違えども、同じような暴走グループなら思考は似たようなものではないかと思ったのだそうだ。
「ヤツらには到底無理だろうって大技を見せつけることで鎮圧したってことだな?」
 曹がなるほどとうなずく傍らで、
「アレですね、昔流行ったチキンレースのようなものでしょうか。断崖絶壁まで二台が全速力で走り、どちらがよりギリギリまで行けるかっていうやつ」
 昔はそれで度胸と根性を測り、負けた方は素直に引き下がったものですよと、鄧も懐かしそうに笑った。
「チキンレースとは、これまた鄧浩の口からそんな言葉が出るとは!」
 曹がまたもや受けながらも、紫月の技を讃えてみせた。
「しかしまあ、あの状況で咄嗟にあんなことを思いついて、しかも実際にやってのけてしまうんだから! やはり紫月君はすごいお人だ。それも日本刀で峰打ちとは、あの長刃を目にしただけでも外国人の彼らにとっては腰が抜けただろうな」
「しかも仕草が逐一粋なんですよ。あんなに不安定な体勢で峰打ちというのも信じ難いが、刃による切り傷は一切つけないというのは、もはや神業としか言いようがありませんよ。私は離れた位置で全貌を拝見できたので圧巻でした!」
 曹と鄧にベタ褒めされて、紫月は照れ臭そうに頭を掻いた。
「うわぁ、俺も見たかったなぁ」
 冰が暢気な声を上げると、
「何言ってー! 冰君のトイレットプリーズっちゅう演技もサイコーだったじゃね!」
 そうですねと言って皆で盛り上がった。適材適所というのだろうか、皆それぞれに自分の役割をきっちりとこなしながらも、仲間を信じて互いの背中を預け合うことができた。窮地を乗り越えられたのはそんな絆が築けた賜物だと、誰もが清々しい表情を輝かせるのだった。



◇    ◇    ◇






◆37
 しばらくすると読み通りか、数台の車が到着し、周兄弟と鐘崎らが迎えにやって来た。
 周らは皆の無事に安堵し、まるで焦燥感いっぱいといった様子で駆け寄ってはそれぞれの伴侶を抱き締めた。
 乱闘覚悟で勢い込んできた割には肝心の暴走グループがいないことと、皆の中に楚光順の元部下だった楊宇の顔を見て驚いたものの、曹や美紅から事情を聞いて一先ずは納得となったのだった。
「そうだったか。しかし皆で協力して、よくぞ乗り切ってくれたな。優秦が暴走グループを差し向けたようだと聞いた時には肝が冷えたなんてものじゃなかった」
「兄貴の言う通りだ。戦慄が走ったぜ」
「まあお前らのことだ。曹先生や鄧先生もついててくれるしと思って、何とか時間を稼いでくれることだけを祈ってここまで来たわけだが」
 三者三様、旦那たちが安堵の溜め息を漏らす。戦々恐々の勢いで駆けつけたものの、皆が朗らかに談笑している様子を見て、それの方が驚かされたくらいだったのだ。とにかくは無事で良かったと、誰もが肩を撫で下ろしたのだった。
「ところで周風、楚優秦のことだが……彼女は今どうしているんだ?」
 曹が訊くと、彼女を尾行した李らが企ての確たる証拠を押さえた時点で周風の部下たちが確保したとのことだった。
「今は我々の滞在しているホテルの部屋で見張りをつけている。帰る頃には父親の楚光順も到着するだろう」
 既に光順にも連絡済みだそうだ。
「あの親父さんが知ったら、さぞ心を痛めるだろうな」
「その点は我々にとっても痛いところだが致し方あるまい。今後のことは光順と話し合って決める」
 では警察には突き出していないということか。まあ光順の胸の内を思えばそうするしかないだろう。
「優秦への制裁は香港の親父にも報告してからだ」
 こうして一旦は無事に落着し、一同はホテルへと戻ることになったのだった。



◇    ◇    ◇






◆38
 帰りの車中では曹が周風に頭を下げていた。
「周風、ひとつお前さんに謝らねばならんことがある」
 そう言ってちらりと美紅を見やる。すると彼女も愛する亭主に肩を抱かれながら、気恥ずかしげに頬を染めた。そんな二人の様子に首を傾げながら風は難しそうに眉根を寄せた。
「謝らねばならんこととはいったい何だ」
「大事なことだ。本来お前さんが一番に知るべき大切な報告を、非常事態とはいえ我々が先にうかがってしまったことを謝りたい」
「俺が一番に知るべきこと?」
 風には何がなんだかさっぱり分からないようだ。それは奥方から聞いてくれと、曹が美紅に視線をくれる。
「メイ、貴女も何か知っているのか?」
 だったら早く教えて欲しいと顔を覗き込む。美紅はますます頬を染めると、可憐な声を震わせながら瞳を細めた。
「貴方。実は私……赤ちゃんができたようですの」
「ふむ、そうか。それは良かった……って……」

 え……!?

 風は大きく瞳を見開いたまま、固まってしまった。
「赤……ちゃん……? まさかメイ……」
「ええ。私もウィーンに着いてから確信しましたの。ここ二ヶ月ほど、もしかしたらと思っていたんだけれど」
「俺たちの子か……! メイ、本当に?」
「ええ、本当よ」
「……おお……おお、そうか……そうか! メイ……!」
 風はガバリと妻の華奢な身体を抱き締めた。
「なんてめでたいんだ……! メイ、ありがとう。本当に……」
「貴方……」
「こんなに嬉しいことはないぞ! 香港の両親も大喜びすることだろう」
 風はひとしきり興奮に声を震わせると、次には逸ったように妻の身体を気に掛けた。
「そうだメイ! 体調はどうだ? 具合の悪いところはないか? その……なんだ。男の俺にはよく分からんが……女性にはしんどいことも多いのだろう?」
 つまり、つわりなどで辛くはないのかと思ったようだ。まるで右往左往と落ち着きのなく気に掛ける。
「ええ、大丈夫よ。特に具合の悪いことはないわ」
「そ、そうか……。だったらいいが、くれぐれも遠慮や我慢などしないのだぞ。貴女と俺は一心同体の夫婦だ。辛いことも嬉しいことも何でも分かち合いたい!」
「貴方……。ありがとう。でも本当に平気よ。妊った初期は体調的にお辛い方もいらっしゃると聞いていたけれど、私は今のところ具合はまったく悪くないの」
 有り難いことねと言いながらも、きっと貴方の子供だから私を思い遣ってくれているのでしょうと微笑む妻に、風の方は歓びを抑え切れないといったふうに気もそぞろだ。早速に名前はどうしようかと考え込んだり、産着や乳児用の家具なども思い巡らせているふうである。
 まるで少年に戻ってしまったような亭主に、美紅はクスクスと可笑しそうに笑ってはとびきりの笑顔を向けたのだった。



◆39
 一方、後続の車の中でもまた、紫月と冰がそれぞれの旦那たちと共に嬉しそうな声を上げていた。
「男の子かな? 女の子かな?」
「とかって、今頃前の車ン中は大騒ぎだろうなぁ」
「兄貴のやつ、大丈夫かな。嬉し過ぎて我を失ってなきゃいいが」
「なんと言っても第一子だからな。風さんの頬も緩みっ放しじゃねえのか?」
 四人でわいのわいのと大はしゃぎだ。
「ってことはぁ、氷川と冰君は叔父さんになるわけだ!」
「確かに!」
 紫月と鐘崎に冷やかされて、さすがの周もタジタジだ。
「叔父さんかよ……。いや、兄貴のガキが生まれたら俺ンことはお兄ちゃんと呼ばせるぞ!」
「白龍ったら! そんなこと言ってー」
「お前だってまだ二十歳そこそこで叔父さんなんて呼ばれるのは嫌だろうが」
「ええー、そう? 俺は嬉しいけどなぁ」
「いーや、ダメだ。お兄ちゃんがアレだってんなら焔ちゃん、冰ちゃんでもいい。とにかくオッサンなんて呼ばせんぞ、俺はー」
 目を逆三角形にして唇を尖らす周を囲みながら、皆で大爆笑に湧いた。
「あははは! 氷川、てめ、いつまで若えつもりでいるんだって!」
「若えだろうが、実際!」
「三十路過ぎのオヤジが何言ってんだ」
「よし、分かった。そんじゃ百歩譲って叔父さんでもいいとしよう。そん代わり、おめえらンこともオジサンと呼ばせてやっからな!」
 周はジロリと視線をくれながら鐘崎と紫月を見やった。
「あははは! 遼、俺らもオジサンだって!」
「まあそう気を揉むこともねえ。ガキってのは正直だからな。見たまんまガキに任せりゃいい」
 鐘崎はきっと自分のことはお兄ちゃんと呼んでくれるはずだと図々しいことを言ってのける。
「は! 言ってろ。兄貴のガキがてめえらを何と呼ぶか今から楽しみだ」
 周は口を尖らせながらも、ふと前の車を見つめる視線をやわらかに細めた。

(叔父さん――か。悪くねえな)

 幸せそうなその微笑みが、そんな心の声を代弁しているようで、鐘崎も紫月も、そして冰もまた心温まる思いで未来の叔父を見つめるのだった。
「楽しみだね、白龍。お兄様とお姉様の子だもの。ぜーったい可愛いよー!」
 冰がニコニコと期待顔で言う。
「ああ、そうだな。何てったって叔父さんが男前だからな! ガキも見目麗しいのが生まれてくるに決まってる!」
「聞いたか、遼! 出たよ、氷川の本音が!」
「まったくもって図々しいことを言うヤツだ。叔父さんが男前とはな」
「本当のことだろうが。兄貴のガキだ。イコール俺の血も引いているわけだからな」
「うんうん! ホントそうだね」
 ニコニコとうなずきながら亭主を立てる冰は、やはり出来た嫁だ。その側では鐘崎と紫月が冷やかし文句を繰り出しながら嬉々と騒いでいる。賑やかで幸せな笑い声はホテルに着くまで止むことはなかった。



◇    ◇    ◇






◆40
 それとは裏腹、ホテルに着くと優秦の父・楚光順がいたたまれない表情で一行を待っていた。
「周風老板! も、申し訳ございません!」
 光順は必死の形相で駆け寄って来ると同時に、風らの前で崩れ落ちるようにして土下座をした。これ以上ないくらいに身を縮め、頭を床に擦り付けたまま言葉すら発せずの勢いでいる。できることならこのまま地中に埋まってしまいたいというようにして床にへばりついている彼を、風の側近らが両脇から抱え上げてようやくと顔を見ることができたといったところだった。
 風にしてみても、この光順がどんな人間かはよくよく分かっているつもりだ。彼は周直下に与していた頃から人柄も温厚で、忠義にも厚く信頼たり得る人物だったからだ。
 そんな彼が間違っても今回のような企てを考えるはずもない。例によって娘の優秦が勝手にしたことで、父である彼には何ら責任はないことも風らは重々理解していた。
「楚光順、とにかく顔を上げてくれ。此度のこと、貴殿の仕業だとは思っていない」
 それよりもこうなった経緯について少しでも知っていることがあれば話してもらいたいと風は言った。光順もまた、自身の知り得る限りのことをすべて報告せんと、未だ頭を上げられないまま蚊の鳴くような声で経緯を話し始めた。
「皆様がこのウィーンで開催される宝飾市にいらっしゃることは香港時代から懇意にしていた知人に聞き、知りました。彼もまた我が娘の優秦が起こした二年前の事件のことを危惧してくれておりまして、万が一にもこのウィーンの街で皆様と娘が鉢合わせることのないようにと気遣ってくれていたのです」
 その情報を知った後、光順は宝飾市の開かれる間は娘を家族旅行に誘い、ウィーンを離れる心づもりでいたそうだ。
「ですが、娘を誘いましたところ、ちょうどその期間は女友達とイギリス旅行に行きたいと申しました。それは何よりだと思い、私は快諾いたしました」
 だが実際にはイギリス旅行などへは行っておらず、今回の企てを実行すべくウィーンに留まってわけだ。
「出発の日、私が自ら娘を空港まで送りました。娘は大きなスーツケースを持って行きましたし、まさかこのウィーンに残っているなどとは夢にも思いませんでした。家を出てからあれがどこでどうしていたのかは見当もつきません」
 つまり光順は彼女がどこで寝泊まりしているのかも知らなかったというわけらしい。
「経緯は解った。だが貴殿らがこのウィーンに移り住んでいたとはな。香港を離れた当初はフランスに行くと聞いていたが」
 風が訊くと光順は未だ頭を上げられないままで引越した経緯についても詳しく話してよこした。



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