極道恋事情
◆41
「おっしゃる通り、私どもは当初フランスで細々と事業を始めたのですが、ひょんなご縁からこのウィーンで商売をしてみないかという誘いを受け、ここへ移り住んだのでございます」
転居のことを香港に報告しなかったのは自分の落ち度だと言って、光順は涙した。彼にしてみれば、もう周直下を離れた身だ。いちいち自分たちのことで香港のファミリーを煩わせることもなかろうと思っての気遣いだったのだろうが、こんなことになるならやはり居処くらいは報告しておくべきだったかと酷く後悔しているようであった。
「風老板、娘のしたことは私が行ったも同然です。どうか我々を警察に突き出してください」
現時点で警察を呼んでいないということは、風の温情と心得たのだろう、彼らが通報しないというのなら、光順は自ら娘を連れて自首する覚悟でいるようだ。
だが風はそんな彼を引き留めた。
「まあ待て。警察に突き出すのは簡単だが、それでは根本的な解決にならんだろう。如何に許し難い企てといえど、曹ら皆の機転で大事は免れたわけだ。実際の被害という点では大した罪にはならない。刑期が明けてシャバに出ればまた同じようなことが起こらんとも限らない」
風としてはこのカタは司法ではなく裏の世界の掟に則ってつけるのが筋だというのだ。
「既に香港の親父にも報告を入れている。沙汰は親父の考えを聞いてからにさせてもらう」
「……は」
光順は今この場で自害してでもすぐに制裁を受けたいといったような顔つきで、その場に崩れてしまった。
「何にせよ一度香港に出向いてもらうことになろう。それまで優秦の身柄は預からせてもらう。貴殿にとっては心痛むことだろうが、そこは了承して欲しい」
「は……」
もう声にすらならないまま床に突っ伏して動けずにいる彼を、誰もが気の毒な思いで見つめるしかできなかった。
◇ ◇ ◇
その後、ウィーンでの滞在期間中は風の側近らが交代で優秦を監視することとなり、父の光順も一旦自宅へと帰されることとなった。むろんのこと、こちらも監視付きだ。光順には気の毒といえるが、万が一にも責任を取って自決などされたらいけない。それは誰もが望むことではないからだ。
また、周ら一行も残っていた見本市での仕事が済めば、後は帰国までの数日を観光して過ごす予定でいたわけだったが、とんだ事件のせいでか誰もが心から楽しい気分ではいられなかったのは致し方ないといえよう。それでもせっかくヨーロッパまで来たことだしと、皆は予定通り観光名所を巡って歩くことに決めたのだった。
今度は曹に李、源次郎といった精鋭ががっしりと主人らの脇を支えて出掛けたので、何かと安心ではあったものの、楚光順の胸の内を思えばやはり心底から浮かれる気にはなれない。誰もがどこそこ遠慮がちな表情でいる中、周と鐘崎が皆を元気付けるように明るい声を出してみせた。
◆42
「まあ、もう起きちまったことをグジグジ悩んでいてもどうにもならん。せっかくだ、気分を入れ替えて残り数日を楽しむとしよう」
「氷川の言う通りだ。紫月も冰もウィーンは初めてだろうが。今後いつまた来られるか分からんからな。楽しんでいった方がいい」
「うん、そうだね」
「楚光順氏には申し訳ないが……確かに俺らが落ち込んでたって、何がどう変わるってわけでもねえもんな」
冰も紫月も旦那たちの気遣いを有り難く思うとともに、気持ちを切り替えて観光を楽しむことにしたのだった。
「観光地といやベタだが、ホーフブルクの王宮とシェーンブルン宮殿は距離的にもそう離れてねえからな。そこへ行ってみるか」
「うわぁ、素敵だね! シェーンブルン宮殿ってマリー・アントワネット様の故郷だよね?」
「そうだ。幼少期に母・マリア・テレジアと過ごした宮殿だ。一度は見ておいて損はねえぞ」
「王宮の方も見事だしな」
「お! じゃあそこらに決めるべ!」
妊っている美紅にはなるべく負担を掛けないようにと、全て一緒に回らずともいいということになり、一日は全員で――また別の日は周風夫婦と別行動ということで決まった。
そんな中、医師の鄧兄弟にとっては少々慌しい日々を強いられることとなっていた。それというのも、香港の頭領・周隼から密かに重要な任務を言い渡されたからだ。
それは周風が事件の詳細を香港へと報告した直後だった。既に深夜ではあったが、緊急ということで隼から兄弟の元へと直接の連絡が届いたのだ。
『鄧海、鄧浩、手を煩わせてすまんが、至急動いてくれ――。ドイツへ飛び、今から言う人物に会って欲しい』
隼が示した人物というのは、ドイツ国内はむろんのこと、世界的にも名の知られたクラウス・ブライトナーという若き医師であった。
「クラウス・ブライトナーといえば――つい先日、鐘崎組が警護の任務に当たったあのクラウス殿でしょうか?」
『そうだ。私は彼と直接の面識があるわけではないが、鐘崎組の僚一から伝手を得てな。鄧浩は警護の際に助力をしてくれたそうだな』
「はい、焔老板のご推薦で僭越ながら通訳に携わらせていただきました」
『そうか。ご苦労だった』
隼はその時の労を労うと、事の詳細を話してよこした。
『彼のいる病院はドイツ国内でも最新鋭の医療機器が揃っている大手中の大手だそうだ。今から言う物を用意して、二人でクラウスを訪ねて欲しい。彼には私の方から連絡を入れておく。クラウスと協力して、お前さんたち二人にやってもらいたいことがある』
その詳細を聞いた鄧兄弟は驚きに目を見張ってしまった。
だが、ボスの言うことは絶対だ。当然だが、すぐに快諾の返事をした兄弟であった。
「かしこまりました。お任せください」
『すまんな。せっかく欧州まで行ったというのに、観光のひとつもさせてやれないが――』
「とんでもございません! 私共にとってもたいへん興味深い事柄でございます。迅速にご報告ができるよう、精一杯務めさせていただきます」
『ああ、頼んだ』
リモート通話を切ると、鄧兄弟は早速に極秘任務へと移ったのだった。
◆43
それから数日後――。
周と鐘崎ら一行は日本へ直帰せずに、兄の周風らと共に香港へと立ち寄ることとなった。楚光順もまた、一人娘の優秦と共に周ファミリーの下にて沙汰を受ける為、共に香港へと連れて来られていた。
ファミリーが拠点としている高楼の部屋には長である周隼を中央に、二人の息子・風と焔が両脇を固め、その周囲には側近たちがずらりと整列している。まるでいにしえの宮廷裁判の如く物々しい雰囲気の中で、誰もが険しい表情で楚親娘を取り囲んでいた。
「――楚光順」
周隼の静かなる一声に光順は平身低頭で床に頭を擦り付けたまま身を震わせた。
「既に事の次第は聞き及んでいる。謝罪は無用だ。其方の意を聞きたい」
さすがの優秦もこの雰囲気の中にあっては横柄な態度ではいられないわけか、父の側で一応はおとなしく頭を垂れていた。
「頭領・周、我が娘の愚行は父である私の管理不行届に他なりませぬ。どのような制裁も受け入れる所存でございます」
震える声でそれだけ告げるのがやっとというように光順は地べたに両手と額を擦り付けた。
「よろしい。では沙汰を申し付ける」
隼の言葉に静寂が過ぎる。
「これから申すは私の考えだが、異論があれば聞く耳は持つつもりだ」
隼はそう前置きした上で自身の意見を述べ始めた。
「其方の娘が二度にも渡って引き起こした我が息子夫婦への企てだが、根本にある理由は恋情が叶わなかったことへの逆恨みと心得ている」
そうだな? と、娘の優秦を一瞥しながら隼は続けた。
「前回の時は其方の顔を立てて外国へ移住することで赦したが、それにもかかわらず二度も同じ企てを起こしたとあれば見過ごすわけにはいかん。幸いにして息子たちの伴侶や曹来、鄧浩らの機転で最悪の事態は免れたが、我が息子の妻である美紅を亡き者にしようなどとは言語道断だ。三度目があれば我がファミリーはいい笑い者だ」
「……は! も、申し訳ございません……」
沙汰を聞く前から光順は縮み上がっている。相反して当の娘はといえば、軽く唇を噛み締めながら、今にも舌打ちたいといった表情でいる。まったくもって正反対の親娘だ。
「警察に引渡し、司法で裁くという手もあるが、そうしたところで娘御の心根が変わるとは思えん。よって、優秦には我が伝手のあるヨーロッパの修道院に入ってもらい、そこで生涯を過ごしてもらうこととする。それが私の制裁だ」
隼の言葉に親娘は驚いた。
「修道院……でございますか?」
父の光順は瞳を大きく見開いたまま、瞬きさえままならないといった表情で硬直している。が、娘の方は冗談じゃないといったように眉を吊り上げた。
「修道院ですって……!? どうしてアタシが!? だいたい……今回のことだってアタシがやったっていう証拠があるんですか? アタシは何も知りません!」
トップである周隼を前にしてとりあえずのところ敬語は使っているものの、態度はふてくされ気味で反省の色も感じられない。それどころか、まるで濡れ衣だと言わんばかりである。
◆44
「シラを切るな優秦。お前の差し金で雇われた者たちから証言は取れているんだぞ」
「雇われた者って誰なんですか? もしかして楊宇が父の元部下だったからというだけで、アタシが企てたとでもおっしゃるの? 冗談じゃないわ! アタシは本当に何も知らないし、何もしてない! そいつらがアタシを嵌めようと嘘をついているんじゃないですか?」
まるで楊宇のせいだと言い張る。あまりの往生際の悪さに、さすがの隼も閉口させられてしまった。
「楚光順、ちょっといいか」
隼は座っていた椅子から立ち上がると、光順と二人きりで話しがしたいと言って、一旦中座した。
その後ろ姿を見つめながら、優秦は小さな舌打ちを繰り返す。周囲で見ていた側近たちにしてみても、この横柄な態度には怒りを通り越してただただ呆れるばかりであった。
そんな娘とは天と地か、別部屋へ行くと光順はまたもや土下座の勢いで謝罪を繰り返した。
「申し訳ございません! 頭領・周……重ね重ねのご無礼をお許しください……!」
「構わん。お前さんのせいではない」
彼を横目に、隼は次の間に待たせていた人物に声を掛けた。
「こちらへ」
その人物が姿を現すなり、光順はまたしても驚きに硬直してしまった。なんとそれは彼の妻だったからだ。
「お……前、何故ここに」
妻はウィーンの自宅に置いてきたはずである。光順が絶句していると、隼が事の次第を説明した。
「実は私が呼んだのだ。お前さんら夫婦に大事な話があってな」
「大事な話……」
わけが分からず、光順は不安げに視線を泳がせた。
「楚光順、お前さんは我がファミリーにいる頃から人望も厚く、私はむろんのこと組織の者たちからも信頼を得る素晴らしい人格者だった。細君にしても然りだ。ところが娘の方はお前さんたち夫婦とは似ても似つかない無法者だ。ここのところがどうにも気になってな」
隼はそう前置くと、次の間に控えていた側近に声を掛けた。
「連れて来てくれ」
「は、かしこまりました」
側近と共に現れたのは、見目美しい一人の娘だった。容姿もさることながら、たいそう穏やかな表情をした娘で、歳の頃は優秦と同じくらいだろうか。一目で性質の良さそうなやさしい心根の持ち主だと分かるような雰囲気をまとっていた。
「あの……頭領・周……こちらは?」
光順はまるで何かに突き動かされるように逸った目で隼を見つめた。
「いい娘さんだろう? 彼女の名は林香汐、現在この香港のとある施設で真面目に働いている」
「……はぁ……」
「今回、優秦がウィーンで起こした事件について息子たちから報告を受けて、急遽捜し当てたお嬢さんだ。実はこれまでもずっと心の奥に引っ掛かっていたのでな」
隼は驚いてくれるなと言ってから、真実を打ち明けた。
「彼女はお前さん方夫婦の本当の娘だ」
え……ッ!?
光順も妻も一瞬言われていることが理解できないといった表情で固まってしまった。
「驚くのも無理はなかろう。だが私は二年前の時もお前さんら夫婦の子供があのような大それた企てを起こしたことが信じられなかった。あの優秦という娘はまるでお前さん方の本当の子供ではないのではと思ったほどだ」
その時は深く追従しないまま放置してしまったのだが、今回またもや優秦がウィーンで二度目の企てを起こしたと知って、いよいよ調べる必要を実感したのだと隼は言った。
◆45
「私は優秦の出生について至急調べることにした。その結果、お前さん方の娘――つまりこの林香汐嬢だが――彼女は産まれた病院ですり替えに遭っていた事実を突き止めたというわけだ」
「……すり替え……ですと? まさかそんな……」
光順も妻もめっぽう驚かされてしまった。
では自分たちは今まで何の関係もない赤の他人を娘として育ててきたというわけか――。すぐには事の次第を理解できずに、光順ら夫妻は絶句してしまった。
「其方らが驚くのも無理はない。すぐには信じられないだろうことも承知だ。だがこれは事実だ。調べたところ、この娘さんと優秦は同じ病院で生まれ、新生児室では隣のベッドだったそうだ。優秦の母親というのは非常に狡猾な女だったようでな。出産当時、既にお腹の子の父親とは縁が切れていたそうで、一人で育てていくことに自信が持てなかったようだ」
そこで看護師に金を握らせて隣のベッドの赤児と自分の娘をすり替え、退院後すぐにその赤児を孤児院の門前に捨てたのだそうだ。
「自分の本当の娘はどこの誰とも分からない夫婦が愛情を注いで育ててくれるだろうと思ったのだろうな。すり替えた他人の子を躊躇なく孤児院に放り出して逃げたというわけだ」
隼は当時の病院をくまなく調査し、状況と共に念の為DNA鑑定も行った結果、光順らの本当の娘を捜し当てたのだと告げた。ウィーンでの事件を受けて、隼が鄧兄弟をドイツの名医師であるクラウス・ブライトナーの元へと遣わせたのは、実はこの鑑定を行う為だったのだ。光順と優秦の使用したグラスなどからDNAを採取し、最新鋭の機器が揃っているドイツの病院で鑑定を遂行させたというわけだ。
「そんな……! では……私どもは赤の他人の子供を育ててきたというわけですか……?」
光順は蒼白となり、婦人の方は驚愕の為か、両手で顔を覆ったまま床へとへたり込んでしまった。
「まったくもって不幸なことだと思う。正直なところ掛ける言葉も見つからないというのが本音だ。しかし本物のお嬢さんを捜し出すことができた。見ての通り彼女は見目麗しく心根もやさしい素晴らしい女性だ」
彼女は優秦の生みの親によって預けられた孤児院で育ち、修業後は育ててもらった恩に報いたいと、その孤児院で働き始めたそうだ。勤務態度も真面目でやさしく、同僚や子供たちからも慕われているという。
「二十年以上も離れて暮らさなければならなかったことは不憫に思うが、その分これからは本当の家族として幸せになって欲しい。それが私の願いだ」
「頭領・周……」
光順は娘の顔をマジマジと見つめては堪らずに涙を浮かべた。
「本当に……このお嬢さんが私どもの娘だと……」
「間違いない。鑑定の結果ではもちろんだが、彼女の容姿や性質だけを見ても、誠お前さん方夫婦の子であると確信できる」
確かに娘の面立ちは妻の若い頃によく似ているように思える。
◆46
「お嬢さん……本当に……私たちの娘なのですか?」
光順は逸るような表情で手を差し出しては、娘へと歩み寄った。
娘もまた、感激とも何ともいえない面持ちで差し出された手に自らのを重ねた。
「お……父様、お母様。香汐でございます。お目に掛かれて嬉しゅうございます……!」
「おお……おお香汐や! 永い間……苦労を掛けたね」
光順と妻は娘の手を取り、固く握り締めてはボロボロと涙を流した。
例え永らく離れていても、その手の温もりに触れた瞬間に同じ血が流れているのだと確信できたのだろう。親子三人、不遇な運命の中でようやくと辿り着いた血縁のあたたかさであった。
「頭領、ありがとうございます……。ありがとう……ございます! 娘を捜し出してくださって……言葉もございません!」
光順は号泣しながら隼にも心からの礼を述べた。
「楚光順よ。これを機に香港へ戻って来てはくれまいか?」
「……頭領……?」
「お前さんの組織が解体してから、若い者らの中には路頭に迷っている者も多い。もう一度彼らを束ねて、我がファミリーとして生きていくことを考えてくれたら嬉しいのだがな」
「頭領・周……こんな私めにそのような有り難きお言葉……」
それこそ言葉にならないと、光順はひたすら涙した。
「二年前のあの時、すぐに調べに動いていたらお前さんにも若い者らにも苦労を掛けずに済んだと思うと胸が痛い。そのことには心から申し訳ないと思う」
この通りだ――と頭を下げて謝罪する隼に、光順ら夫妻はとんでもないと言って身を震わせた。
これからは今までの苦労を鑑みて、できる限りの支援をしたいという隼に、光順とその妻は恐縮しつつも安堵と歓喜の涙を流したのだった。
◇ ◇ ◇
こうして頭領・隼の厚情の下、楚光順は香港へ戻ることとなり、希望する者には組織への復帰が認められた。
光順らの本当の娘・香汐も両親のもとで暮らせることになり、優秦は楚姓を剥奪され、隼の息が掛かったヨーロッパの修道院に預けられることが決まった。
本来であれば、二度も美紅を亡き者にしようと企てた罪は重く、ファミリーがその気になれば優秦を跡形もなく消し去ることも可能だったわけだ。それが極刑でないにしろ、生きているのが苦痛になるほどの悲惨な境遇に葬り去ることもできるのだが、そこまでしなかったのは周隼の最高の温情である。まあ優秦のような娘にとっては厳しい修道院での生涯は決して生やさしいものではないだろう。おいそれとは逃げられない城壁に囲まれた修道院は、現地でも有名な厳格さを備えた施設であった。加えて隼から一連の事情を聞かされていることもあって、優秦は格別厳しい監視下に置かれるようだ。ここから脱走するのは不可能といえるだろう。仮に脱走が叶ったところで天涯孤独・無一文となった彼女に立ちはだかる人生の壁は辛辣以外にないだろう。
また、そんな優秦の実母だが、彼女は赤児をすり替えた後、中国の上海に渡ったようだが、不運な事故によって既に他界していることが明らかとなった。優秦もまた、運命に弄ばれた不幸な娘といえたが、生まれてこのかた二十数年の間は楚夫妻のもとで何不自由のない暮らしを送れてきたわけだ。それにもかかわらず我が侭放題の性質は、きっとこの先も変わることはないのだろう。修道院に送ったとてその心根が変わるかどうかは怪しいものだが、周隼らファミリーにとって彼女のこれからがどうなろうとそれはもう関知するところではないし、これ以上の温情はないというのが実のところである。それとは対極の境遇の中にあっても、不平不満ひとつ言わずに一生懸命に生きてきた香汐は、気持ちのやさしい素晴らしい娘へと成長を遂げていた。本物の両親と再会することができて、これからの人生はより一層幸せに溢れるものであって欲しいと隼らは願ってやまなかった。
◇ ◇ ◇
◆47
一件落着の後、隼は長男夫婦に新しい命が宿っていることを知らされた。妻の香蘭も非常に慶び、ファミリーは一気に幸せに湧いたのだった。
「さて、息子たちよ。ウィーンではゆっくりと過ごせなかっただろうからな。焔たちが日本に帰る前に仕切り直しというのもなんだが、広東オペラの席を用意した。場所はシーチュー・センターだ。ウィーンのオペラとはまた趣きが違うだろうが、皆でひと時の思い出を作っていってくれれば嬉しい」
シーチュー・センター、通称戯曲センターは香港の西九文化区にオープンした比較的新しい文化施設だ。広大なシアターでは広東オペラなどが演じられていて、香港の新しいランドマークとも言われている場所である。
「ここならば家からも近いし、美紅の体調の面でも問題なかろう。焔や遼二たちも楽しんでいってくれ」
隼の手配で、一同は広東オペラを観劇してから帰国してすることとなった。ウィーンでは開幕直後に拉致されたりとたいへんだったが、またひと味違った雰囲気の劇場を満喫できそうだ。周や鐘崎も、そんな隼の心遣いを有り難く思うのだった。演目はかの有名な三国志演義で、皆は悠久の大地へと思いを馳せながら香港でのひと時を楽しんだのだった。
◇ ◇ ◇
そうして帰国の時がやってきた。本来ならばウィーンから直接日本へ帰る予定だったのだが、事件方々こうして香港にも立ち寄れて、両親の顔も見られたことだしと、周や冰にとっては良き旅となったことに違いはない。
ファミリーに見送られて、空港ではまたしばしの別れを惜しむかのように皆で握手を交わし合っていた。
「次に会う時は兄貴たちの子供の顔が拝めるな」
「お義姉様、くれぐれもお身体をお大切になされてください。赤ちゃんが産まれる頃に飛んで会いに参りますね!」
周と冰にそう言われて、兄の風と美紅も名残惜しそうに微笑んだ。
「その時は俺たちもお祝いに駆け付けさせていただきますよ!」
「だな! 焔の叔父ちゃんと一緒に会いに来るからなぁ!」
鐘崎と――そして紫月の方はお腹の子に向かってそんなふうに話し掛けている。
「おいおい、”叔父ちゃん”じゃなくて”お兄ちゃん”な!」
周はまだお兄ちゃん呼びにこだわっているようだ。美紅のお腹の前で屈んでいる紫月らを見下ろすように小鼻を膨らませながら、チラリと片目を開けては『うんうん!』と腕組みをしている様子に、皆からドッと笑いが上がった。
「じゃあな、兄貴。義姉さん、親父とお継母も! また帰って来ます。どうぞお元気で!」
ファミリーに見送られながら周らは香港を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
◆48
離陸後、プライベートジェットの中では相変わらずに賑やかだ。周と鐘崎の旦那組は、思わぬ事件によって帰国が遅れた分の仕事を整理せんと、パソコンを広げて忙しなくしている。
冰と紫月の嫁組は日本で待っている者たちへのお土産の仕分けに精を出す。
「今回ウィーンのと、そいから香港でも土産を買い込んだからなぁ。今の内にちゃんと分けておかねえと!」
「ですね! それにしてもすごい量」
キャッキャと言い合いながら、嫁二人は相変わらず仲が良い。ふと、手を止めながら冰が呟いた。
「そっか、今度香港に帰る時は赤ちゃんのお土産も持っていかなきゃ!」
こうした旅行や出張の際に土産物を用意するのがお役目となりつつある冰にとっては、ついそんなことが頭を過ってしまうわけらしい。どんな物が喜んでもらえるかなと一生懸命に頭をひねらせている姿が相変わらずに可愛らしかった。
「えっと、お義姉様の赤ちゃんが生まれるのは七ヶ月後……くらいですよね」
「ってことは、秋生まれになるのかぁ」
「ですね。十月くらいかな」
十月といえばちょうど風の誕生日と同じ頃だ。
「そういえばお兄様の誕生日は十月十日だから、ひょっとしたら親子で同じ日なんてことも有り得るかも!」
「そいつぁすげえな! さすが風さんだ」
「どんな子だろうなぁ。俺も抱っこさせてもらえるかな。真田さんに赤ちゃんのあやし方を教わっておかなきゃ! 楽しみだなぁ!」
瞳を細めながらそう遠くない将来を思い描く冰の笑顔がそこはかとなく幸せそうで、紫月もまたあたたかな思いに表情がゆるむのだった。
今回もまた、予期せぬ波乱に巻き込まれた出張であったが、相変わらずの絆で何とか乗り切ることができた。周家に新しい命が芽生え、楚光順一家も実の娘に巡り会うことができて、結果は喜ばしいといえるだろう。
「しかしホント、いろんなことがあるな。俺たちの人生ってのはさ」
「そうですね。でも皆さんと一緒ならどんなことも乗り越えていけますよね、きっと!」
「ん、そうだな!」
スーツケースに土産を詰め終えた二人の元に、周と鐘崎も仕事の整理をひと段落させてやって来た。
「紫月」
「冰」
同時に呼ばれて二人はパッと瞳を輝かせた。
「白龍! お仕事もういいの?」
「ああ。粗方片付いたからな」
「んじゃ、皆んなで茶でもするべー!」
「そうだ、紫月。さっき空港でな、ほら――」
鐘崎が差し出した物を見て、紫月は感嘆の声を上げた。
◆49
「うっは! ケーキじゃん!」
おそらく機内で食べたいだろうと思い、離陸直前に鐘崎が密かに買い出していたのだ。
「ウィーンで買ってきたザッハトルテもあると思ったが、どうせ土産にするとか言って封は開けないだろうと思ってな」
「うはぁ……さっすが遼!」
「さっきな、氷川と一緒に見繕ってきたんだ。愛を感じるだろ?」
半分は照れ隠しの為か、悪戯そうな笑顔で鐘崎が言う。
「おう! 超感じるぅー! さすがは俺たちン旦那だぜ!」
「ホントですねー! しかもセレクトがまたすごいですよ! 紫月さんの大好物の生チョコケーキにホワイトチョコとラズベリーのムースまで!」
紫月の十八番はもちろんのこと、まるで周と自分の名にちなんだケーキまであると言っては、冰も感激の眼差しを細めてみせる。キャッキャとはしゃぐ二人を横目に、周と鐘崎の旦那組も嬉しそうに微笑み合ったのだった。
◇ ◇ ◇
「帰ったら花見の準備でもするかぁ!」
「もうそんな時期ですね! 去年は鐘崎組の皆さんと屋形船に乗せていただいたんですよねー」
月日が過ぎるのは本当に早いものだと冰が感嘆の溜め息を漏らしている。
「今年はウチの庭で野点でもしたらいいんじゃねえか?」
「お! いいねぇ」
鐘崎組の中庭は日本情緒あふれる庭園である。季節毎の花々をつける樹木もとりどりに揃っていて、もちろんのこと桜も見事な大樹に育っているのだ。誰もが花見の季節を待ち焦がれるようにやわらかな笑みに湧いたのだった。
「楽しみだなぁ。鐘崎組のお庭の桜、すごく立派ですもんねぇ!」
冰が言葉通りワクワクと瞳を輝かせている。
「桜の次はツツジが咲くぜぇ! 冰君、そっちも見に来てくれよなぁ!」
「うわぁ、ツツジも綺麗ですよね! ありがとうございますー!」
「その前に藤だ」
はしゃぐ紫月と冰の側で鐘崎がニッと笑む。
「ウチの藤棚はまだ若い方だが、ここ数年でなかなかに見事な花をつけてくれるようになったんでな」
鐘崎が少々得意げに言った傍らでは、周もまたニヤっと不敵な笑みを瞬かせてみせた。
「そいつぁ、アレだろ? カネがガキの時分に親父さんの僚一にせがんで植えてもらったっていう例の藤棚だろ? 藤にもいろいろ種類があるが、紫色の花をつけるやつがいいっつってカネが是が非にと希望したとか」
実はそうなのだ。それは鐘崎が中学に上がる少し手前の頃だったろうか。庭に椿と藤の花を植えたいと父の僚一にせがんだのだそうだ。
◆50
元々、椿は紫月の実家である一之宮道場に数多植っていたのだが、鐘崎がどうしても欲しいと言うのでその内の一本を分けてもらうことになった。組では専任の庭師がいるので新しく植樹してもらっても良かったのだが、どうしても一之宮道場から分けてもらいたいという鐘崎の希望で、一本譲ってもらったのだ。ついでに紫の藤棚も作りたいと、これもまた鐘崎が希望したというわけだった。
鐘崎邸の中庭は広く、季節毎に咲く多種多様の木々があったそうだが、当時は庭に植っていない種類の花だからという理由で鐘崎がせがんだのだそうだ。今となってみればその頃から紫月に対する想いをあたためていたのだろうと思えた。
「藤棚を造った頃はまだカネも中坊に上がる手前だったってんだろ?」
えらく昔から一之宮に心を寄せていたんだなと言っては周が冷やかし気味で瞳に弧を描く。まるで漫画に出てくるようなカマボコ型の瞳がフニャフニャと揺れるエフェクトを思わせるようなニヤーっとした視線を向けられて、鐘崎はガラにもなく頬を染めさせられてしまった。
「……ッ、うっせ! そーゆーてめえだってなぁ、他人のこと言えた義理か? 香港に残してきた誰かさんの為に、えらく豪勢な部屋まで作って待ってたくせに」
お返しとばかりに口をへの字にしながらジトーっと睨みを据える。
「いーだろーが、別に。俺ァなぁ、てめえと違って大人になってからのことだ。中坊の頃から色気付いてるマセガキと一緒にすんな」
「マセガキだー? そういうてめえはエロジジイじゃねえか」
「は? 俺ァまだジジィじゃねえっての! それにエロくもねえ……とは言い切れんか……」
うーむ、と気難しげに考え込む姿がコミカルだ。
「は、認めやがったな? エロ社長ぉー」
「うっせ! エロ若頭が」
「おーおー、エロってのは男にとっちゃ褒め言葉だからな」
「ほーほー、褒め言葉ね? んじゃもっと褒めてやるぞ、エロオヤジ」
「オヤジとは言い草だな。もうちょいで叔父さんになるヤツが何を言う」
「だから叔父さんと呼ぶな、叔父さんとぉー! お兄さんだ!」
額と額を突き合わせながら互いに中指を立て合う二人を横目に、嫁たちは大爆笑させられてしまった。
「あははは! 遼も氷川もまるっきしガキじゃねっか! それこそ中坊じゃねんだからよぉ」
「ホントですね。っていうか、相変わらず仲がいいんですから二人共!」
嫁たちに冷やかされて周と鐘崎はタジタジながらも頭を掻いては照れ笑いをしてみせた。
「でもそんなところが可愛い……なんて言ったら失礼ですけど、ギャップルールっていうのかな。意外な一面もまた魅力っていうか」
「おー、さすがは冰君! いつでも旦那を立てるのを忘れねえ! まさにデキた嫁さんなぁ!」
「イヤですよ、紫月さんったらー」
肩を突き合ってはしゃぐ嫁たちを横目に、周と鐘崎の旦那組も愛しげに瞳を細めては至極満足そうにして笑い合うのだった。
(おい、カネ。帰ったら早速エロオヤジと化すんだろ?)
(もちろんだ。つか、てめえもかよ)
(当然!)
(はは! やっぱエロオヤジだな)
(お互いにな)
楽しげな嫁たちを横目にヒソヒソ声で肘を突き合いながらニヤっと不敵に微笑み合う。着陸までが待ち遠しくて堪らない旦那衆だった。
日本はちょうど三寒四温の季節であろう。花々が次々と芽吹くように皆の心にもやわらかな風と暖かな陽射しが灯る、そんな春間近のことであった。
ダブルトロア - FIN -